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店員と常連客-07

last update 最終更新日: 2024-12-10 18:15:10
海斗の母親――紗良が、滝本杏介《たきもときょうすけ》の行きつけのラーメン店の店員だと判明してからというもの、二人は店で顔を合わせるたびに一言二言しゃべるようになった。

スポーツクラブで働く杏介は、たいてい土曜の仕事終わりに仕事場近くのラーメン店で食事をして帰ることがルーティンになっている。

ほどよく汗をかいたあとのラーメンは格別に旨い。疲れた体に塩分を補給してくれるし、炭水化物が疲労を回復させてくれる。

更にこの店は品がよく、なかなかに居心地が良いため杏介のお気に入りだ。

杏介が忘れた文庫本を届けてもらったこととプール教室での出来事のおかげで、紗良とも顔見知りから少しレベルアップしたように思う。

「ここのラーメン、ほんとやみつきになるんですよ」

「ありがとうございます」

そんな当たり障りのない会話から始まった二人の雑談。

会話を重ねるうちに、プライベートの少し突っ込んだ話題にも触れる機会が訪れた。

「先生は遅くまで働いてるんですね?」

「ええ、僕はシフト制なので。大抵土日の遅番は独り身がシフト入れられちゃうんですよねー。あはは」

「そうなんですか。私も土日の夜だけここで働いているので。……だからよく会うんですね」

「へぇー」

壁には常にアルバイト募集の貼り紙がしてある。

彼女はアルバイトなんだろうか?

この時間、海斗は家で父親と過ごしている?

いろいろと気になってしまい聞きたいことはたくさんある杏介だったが、いかんせん人様の家庭を詮索するのはよくない。それくらいは社会人としてわきまえているつもりだ。

けれど、紗良が海斗の母親だと判明したとき、杏介はなぜだかショックを受けた。

それはもう、ハンマーで殴られたかのような衝撃だった。

このラーメン店に通っていたのはただ味が好きなだけではない。

仕事終わりに紗良の笑顔を見るのが癒しだったから。

(だけどまさか人妻だったとは、な)

見た目だけで言えば紗良はまだ若そうに見える。

だが実際には四歳の子持ちだ。

(人は見かけによらないな)

杏介は一人ごちた。

だからといって相変わらず紗良が杏介の癒しであることは間違いない。

可愛いは正義とはよく言ったもので、彼女が独身であろうが既婚者であろうが、可愛いものは可愛い。

別に手を出す訳じゃあるまいし、何で癒されようが自由なはずだ。

お気に入りのラーメン店で働く可愛い店員さ
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    アルバイト先にもしばらく休むことを伝え、お昼時もだいぶ過ぎた頃、紗良はようやく自宅へ戻った。「ただいまー」玄関を開けると奥から楽しそうな笑い声が聞こえてくる。リビングに足を踏み入れれば、散乱した折り紙や絵本、そして杏介の膝に座ってスマホゲームをしている海斗がいた。「ああ、紗良、おかえり」「ただいま。おかげで手続きとかいろいろと終わったよ。杏介さん、大変だったよね?」「あ、ごめん。部屋が散らかりすぎてるな。あと、海斗にスマホゲームさせるのはよくなかったかも」「ううん。全然いいの。すごく助かってるから。海斗、よかったね」うん!と元気のいい返事が返ってくるも海斗はゲームに夢中になったまま杏介の膝の上でご機嫌だ。「紗良、バイトは休んだ?」「うん、さすがに行けないから。しばらくお休みさせてもらうことにしたの」「そうか。それがいいな」「あ、二人ともお昼はどうしたの?」「残ってたおにぎりとかパンを食べたよ。紗良は? ちゃんと食べた?」「うん、病院のカフェで少し……」本当はアイスコーヒーを一杯飲んだだけなのだが。 それを言えば杏介は心配するに決まっているので、食べたことにしておく。 朝は杏介と海斗が気持ちを盛り上げてくれたため食べることができたが、やはり一人での食事は喉を通らなかった。「よかったら夕飯食べてって。それくらいしかお礼できないんだけど……」「ありがとう。でも今から仕事だからさ。また今度いただくよ」「えっ、お仕事だったの? ごめんなさい、こんなに長くいてもらって」「いいんだ。気にするなよ。今から仕事だけど、何かあればすぐに電話してくれて構わないから。夜中でもいつでも。まあ、何もなくてもかけてくれていいんだけど。いつでも紗良の声聞きたいし」「ありがとう、杏介さん」思わず潤んでしまった目を隠すために紗良は少し俯く。 そんな紗良の頭を杏介は優しく撫でた。「海斗も、また来るからな」「わかったー。こんどまたゲームやらせてね」「紗良姉ちゃんの言うこと聞いていい子にしてたらな」「わかった。いいこにする」海斗は親指を突き立てキリリと頷く。後ろ髪を引かれながらも、杏介は仕事に向かった。 こんなときこそ仕事を休んでずっと紗良の元にいたいと思ったが、シフト勤務でなおかつ生徒を抱える身としては早番と遅番を変更してもらうので精一杯だ

  • 泡沫の恋は儚く揺れる〜愛した君がすべてだから〜   いちばん大事なことは-05

    病院では母の病状や今後の説明を受け、たくさんの書類に目を通しながら手続きを済ませる。ICUにいる母にはたくさんの管が付いていて、数年前の光景を思い出させた。初めて脳梗塞で倒れたときも同じくここに入院した。あのとき紗良はまだ学生で、ICUで作業する医療者の声と無機質な機械音を聞きながら母の様子を伺っていた。これからどうなるのだろうと思いつつも、その時は姉がいたために姉に頼りっきりだったと今さらながらに思い出す。一人で抱えるのはつらい。すぐに不安や重圧で押しつぶされそうになる。けれどすぐに脳裏に浮かぶ顔――。杏介の存在は絶対的で紗良は幾重にも助けられていた。今朝だって誰かに縋りたくて無意識に杏介に電話をかけていたくらいだ。それほどまでに紗良の中で杏介に対する信頼感は大きいことに気づかされる。今こうして一人でテキパキと手続きをこなすことができるのも、杏介が海斗を見ていてくれるから。杏介が紗良を気遣ってくれるからに他ならない。いつだって紗良に優しく、いつだって紗良の味方でいてくれる杏介。(もしもまだ、杏介さんの気持ちが変わってないのなら――)変わっていないのなら自分はどうしたらいいのだろうか。どうしたいのだろうか。このままズルズルと都合の良い関係でいて貰うことの方がよっぽど失礼ではないか。いつまでもそんな関係でいてはいけないのだと、こんなときに限って実感してしまう。いや、こんなときだからこそ、だろうか。

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