紗良は海斗の叔母にあたる。
今から二年前、海斗が二歳のとき、海斗の家族は交通事故に巻き込まれて亡くなった。海斗も事故に巻き込まれたけれど奇跡的に助かって、けれど海斗はひとりぼっち。
海斗の母親の実家――、つまり紗良の母は、早くに離婚して一人で暮らしており持病持ち。父親の実家は遠く離れているし両親は高齢。
そのため海斗を育てる環境がなく必然的に施設へ預けるように話は進んでいったのだが。
まるで邪魔者扱いのように話される会話が紗良にはどうしても納得できなかった。紗良の姉はよく海斗を連れて実家に遊びに来ていたため紗良とも日ごろからよく交流があったし、海斗も紗良に懐いていた。
だから紗良はその場の勢いと怒りで「私が育てます」と引き取って、今に至る。
紗良の考えが浅はかだったことは否めない。
一人で初めての子育てはあまりにも無謀すぎたけれど、紗良の気持ちを汲み取った母が一緒に育てると協力を申し出てくれたおかげで、今はどうにかこうにか暮らしていけている。
紗良が子供の頃に両親は離婚していて、さらに母は数年前に脳梗塞を患っている。そのため持っていた運転免許も返納済みで定期的に通院もしているからあまり母には負担をかけさせられない。
とはいえ、子育て未経験、ましてや出産未経験の紗良にとって、海斗の子育ては未知との連続だった。
母がいなかったらとっくに音を上げていたに違いなかった。
「明日はプール教室だから、お昼は外で食べてくるね」
「わかったわ。海ちゃんプール楽しそうね」
「お友達と行ってるから楽しいみたいよ」 保育園で知り合ったママ友から誘われて、海斗は四月からプール教室に通い始めた。年中から通えるプール教室はまだほとんど水遊び程度。けれど楽しそうにしている姿を見ると、やらせてあげてよかったなと紗良は嬉しくなる。
一通りの家事を終え明日の準備を整えて、ようやく紗良も寝室へ入った。
隣でぐーすか寝ている海斗の寝顔はやっぱり可愛い。
自分の子供ではないけれど、もう二年も一緒に生活しているのだ、可愛くてたまらない存在には違いない。
海斗の寝息を聞きながら、紗良もすぐに眠りに落ちた。
翌日のプール教室は午前十時半から。保育園で知り合ったママ友の弓香と観覧席でおしゃべりをしながら、紗良は子供たちの様子を見学していた。弓香は紗良よりも十歳も年上で、子どもは二人。上のお姉ちゃんはもう小学校六年生という子育ての大先輩だ。紗良と弓香は保育園の送り迎えの時間が同じで、挨拶を交わすうちに仲良くなった。歳の差なんて気にしちゃだめよとフレンドリーに接してくれる弓香のおかげで、頼りになるありがたい存在だ。「海ちゃん順調だね。もー、うちなんてまだまだ顔付けがダメでさー」「ありがたいことに、先生とも相性いいみたいで」「滝本先生ね! あの人、格好いいわよね。体引き締まっててさ、ありゃ絶対プロテイン飲んでるわ」「弓香さん、プロテインって」「うちの旦那もああいう締まった体にならないかしら。もうお腹がボヨンボヨンなのよ~」「あはは! 旦那さんが聞いたら泣いちゃうかもよ」弓香のジェスチャーに、紗良はボヨンボヨンの弓香の夫を想像してクスクスと笑う。プール教室の先生はみな水泳キャップを被っているため、かっこいいと言われても紗良には正直顔の違いがよくわからない。いつも海斗ばかり見ているためあまり先生の顔を見ていないというのもあるけれど。「先生ってどれも同じ顔に見えない?」「紗良ちゃん、よく見てよ。全然違うって」「うーん」弓香に言われ改めて先生の顔を観察してみる。と、海斗のクラスの担当である滝本先生は他の先生に比べて確かに綺麗な顔をしているような気がする。それに男性らしく大きな背中に引き締まった手足。あれはプロテインのおかげなのか、はたまた普通の男性はみんなあんな感じなのか、紗良にはさっぱりわからない。ただ、ほんの少し、かっこいいかもと思ってしまったことも事実で。今までそんな目で先生を見ていなかった紗良は、急に心臓が変な音を立てて騒ぎ出す。(違う違う、そういうことじゃなくて)慌てて目線を海斗に戻し心を落ち着けていると、弓香がカラカラと笑いながら耳打ちする。「でも私は滝本先生より小野先生の方が好みかな」「もー、そんなことばっかり言って、旦那さんが怒るよ~」「あっはっはっ! 内緒ね~」悪びれることもなく明るく笑う弓香につられて、紗良も一緒になって笑い転げた。だけどこっそりと、(私は小野先生よりも滝本先生の方が好みかな)なんて思ったりもし
「今日はパパが迎えに来てるから」「また保育園でねー」プール教室の出入口で弓香と別れ、紗良は海斗と手を繋いだ。「さて、海斗、今日はご飯食べて帰ろっか」「おそとでごはん? やったー!」「さーて、何食べに行こうかなー?」「かいとねぇ、ポテト! ポテトたべたい!」ファストフードかショッピングセンターのフードコートでも行こうかと思考を巡らせていると、『海斗くん』と背後から呼ぶ声が聞こえ振り向いた。「水着忘れてるよー!」「あっ、せんせー!」海斗の水着を掲げながら走ってきた『先生』は、プール教室のユニフォームであるTシャツと短パンを履いていて、髪はしっとりと濡れている。海斗は紗良の手を振りほどき先生へと駆け寄った。慌ててプールバックの中身を確認すると、確かに水着が入っていない。「わ~、すみませんでした。ありがとうございます」紗良も急いで駆け寄るが、先生に妙な既視感を覚えしばし頭がバグる。先生も紗良を見て固まり――。しばしの沈黙の後、紗良と先生は声を揃えて叫んでいた。「あっ! 常連さん?」「店員さん?」お互い驚きのあまりまた声を失う。先に口を開いたのは滝本先生の方だった。「海斗くんのお母さんだったんですね」「私も、常連さんが海斗の先生だとは知りませんでした」まさかの顔見知りで変に緊張するというか恥ずかしいというか。お互いぎこちなく愛想笑いしかできない。「かいとねぇ、いまからごはん、たべにいくんだー!」「おー! いいなぁ。いっぱい食べてこいよー」滝本先生は海斗の頭を優しく撫で、バイバイと手を振った。それに合わせて紗良もペコリとお辞儀をし、海斗と共にその場を後にする。「さらねえちゃん、ポテトポテト~」「あー、はいはい、ちょっと待ってよ」ファストフード店で海斗のリクエストであるポテトを注文し、ハンバーガーや飲み物をシェアしながら、紗良は先ほどのことを思い出していた。(本当にびっくりした。まさかラーメン店の常連さんが、海斗のプール教室の先生だったなんて、まったく気づかなかったなぁ)水泳キャップを被るだけで雰囲気がガラリと変わる。常連として見ていたときは綺麗な顔の人だなと思っていたけれど、プール教室の先生として見たときはまた違ったかっこよさだった。半袖シャツから見えていた引き締まった腕は、そういうことだったのかと妙に納得
海斗の母親――紗良が、滝本杏介《たきもときょうすけ》の行きつけのラーメン店の店員だと判明してからというもの、二人は店で顔を合わせるたびに一言二言しゃべるようになった。スポーツクラブで働く杏介は、たいてい土曜の仕事終わりに仕事場近くのラーメン店で食事をして帰ることがルーティンになっている。 ほどよく汗をかいたあとのラーメンは格別に旨い。疲れた体に塩分を補給してくれるし、炭水化物が疲労を回復させてくれる。 更にこの店は品がよく、なかなかに居心地が良いため杏介のお気に入りだ。杏介が忘れた文庫本を届けてもらったこととプール教室での出来事のおかげで、紗良とも顔見知りから少しレベルアップしたように思う。「ここのラーメン、ほんとやみつきになるんですよ」「ありがとうございます」そんな当たり障りのない会話から始まった二人の雑談。 会話を重ねるうちに、プライベートの少し突っ込んだ話題にも触れる機会が訪れた。「先生は遅くまで働いてるんですね?」「ええ、僕はシフト制なので。大抵土日の遅番は独り身がシフト入れられちゃうんですよねー。あはは」「そうなんですか。私も土日の夜だけここで働いているので。……だからよく会うんですね」「へぇー」壁には常にアルバイト募集の貼り紙がしてある。彼女はアルバイトなんだろうか? この時間、海斗は家で父親と過ごしている?いろいろと気になってしまい聞きたいことはたくさんある杏介だったが、いかんせん人様の家庭を詮索するのはよくない。それくらいは社会人としてわきまえているつもりだ。けれど、紗良が海斗の母親だと判明したとき、杏介はなぜだかショックを受けた。それはもう、ハンマーで殴られたかのような衝撃だった。このラーメン店に通っていたのはただ味が好きなだけではない。仕事終わりに紗良の笑顔を見るのが癒しだったから。(だけどまさか人妻だったとは、な)見た目だけで言えば紗良はまだ若そうに見える。だが実際には四歳の子持ちだ。(人は見かけによらないな)杏介は一人ごちた。だからといって相変わらず紗良が杏介の癒しであることは間違いない。可愛いは正義とはよく言ったもので、彼女が独身であろうが既婚者であろうが、可愛いものは可愛い。別に手を出す訳じゃあるまいし、何で癒されようが自由なはずだ。お気に入りのラーメン店で働く可愛い店員さ
杏介がいつものチャーシュー麺を注文すると、紗良は遠慮気味に、だけど少し前のめりになって言う。「今日からデザートメニューにソフトクリームが追加されたんです。よかったらどうぞ」「ソフトクリーム?」「そうなんです。カップかコーンが選べて。私、くるくる回すの練習しました!」ジェスチャー付きで目をキラキラさせて訴えてくるので、それはもう頼むしかないんじゃないかと半ば誘導される形で杏介は頷く。「ありがとうございます。綺麗なのお作りしますね」「楽しみにしてます」紗良はニッコリ笑うと、紺色のエプロンを翻して厨房へ戻っていった。そんな彼女の背を目で追いかけながら、何とも単純な自分に笑いが込み上げてくる。杏介は普段甘いものなんてそんなに食べない。それなのにどういう風の吹き回しなのだろう。すっかりと紗良のペースに巻き込まれて、頭の中は彼女のことばかり。だからいつものルーティンである文庫本を読むのを忘れてしまっていた。あっという間にラーメンが運ばれてきてしまう。「ソフトクリームは食後にお持ちしますね」「どうも」ラーメンと共にまた可愛らしい笑顔を置いていく紗良。その後、綺麗に巻かれたソフトクリームのカップを持って杏介の前にそっと置いた紗良は、思い切りドヤ顔をしていて、杏介は思わず吹き出してしまった。「完璧なソフトクリームができました!」「確かに。食べるのがもったいないくらい」「いえ、食べてください。美味しいので」「はい、いただきます」「はーい、ごゆっくりどうぞ」言われるがまま、今日はずいぶんとゆっくりしてしまった気がする。(ラーメンからのソフトクリームも悪くないな)紗良の商売上手さに舌を巻きながらも、妙に心が弾んだのは気のせいだということにしておこう。杏介はいい気分でラーメン店を後にした。
ある日のことだ。海斗が保育園で描いてきた絵を、得意気に披露していた。「これが、かいとで、これがさらねえちゃん、これがばあば」「すごい、上手に描けてる」「海ちゃんは絵の才能があるねぇ」お世辞にも上手とは言えないような顔っぽい何かと塗りたくった何かだが、海斗が一生懸命描いたものは何だって愛おしく感じる。「海斗、これは?」もうひとつ、顔っぽい何かが描かれていて、紗良は何の気なしに尋ねた。「これはねぇ、パパ!」元気よく言うものだから、紗良は思わず言葉に詰まった。海斗の両親が亡くなったのは海斗が二歳の時。だから両親の記憶なんてほとんどないのではないかと勝手に思っていたけれど、もしかして何か覚えているのだろうか。「あらー、海ちゃん、いいわねぇ」「いいでしょー」紗良の母は気にも止めず、キャッキャと海斗と盛り上がる。「ちょっとお母さん……」こそこそと母に耳打ちするも、逆にバシンと背中を叩かれてしまった。「紗良は気にしすぎ。海ちゃんが楽しければそれでいいのよ」「それはそうかもだけど……」「あら、それともなあに? 結婚する気になったの?」「は? そんなわけないじゃない。私には海斗がいるもの。結婚とか、ないない!」「あら、そう? でも、紗良にばかり負担をかけて申し訳ないわ」「別に、私が望んで海斗を引き取ったのよ。お母さんが気にすることないわ。それにいつもお母さんに助けられてるし」そう、結婚なんてできるわけがない。 彼氏すら作れない。でもそれは納得してのこと。 紗良が姉の代わりに海斗を立派に育てるんだって決めたのだ。 そういう決意と責任のもと、海斗を引き取った。だから紗良には結婚とか恋愛とか、まったく必要ないものなのだ。(もしも、だけど、私が誰かと結婚したならば海斗に新しい父親ができることになるけど……)ふと考えて、慌てて頭を横に振る。(いや、ないない。海斗だってそんなの望んでないもの)紗良は考えるのを放棄するように、さらに頭をブンブンと横に振った。それなのに数日後、まさか頭を抱える事態に陥るとは誰が想像しようか。
「えっと……?」保育園にお迎えに行き、先生から手渡された海斗が制作した『父の日の似顔絵』を見て、紗良は固まった。「海斗くんには父の日とは言わずに、大好きな人の絵を描こうねって言ったんですけど、皆と同じがいいって言うので……」「あー、そうなんですね……」色画用紙で枠組まれた『父の日の似顔絵』には、クレヨンで描かれた顔っぽい何か。男か女かわからないけれど、髪の毛らしきものは短いから男なのか、と思わなくもない。それはいいとして。枠には先生の字で『おとうさん、いつもありがとう』と書いてあった。「誰を描いたのか聞いたら、タキモト先生って言うので、タキモト先生ありがとうって書こうかって提案したんですけど、どうしても皆と同じ、おとうさんいつもありがとうがいいって言うので……すみません」「いえいえ、こちらこそ、気を遣っていただいて、すみません」しばらく先生と謝り合戦をしてしまった紗良だったが、何か聞き捨てならない言葉を聞いたような気がする。「海斗、これ誰を描いたの?」「たきもとせんせー」「……プールの?」「うん、プールのせんせー」「そう……」プール教室で滝本先生にやたら懐いているとは思っていた。 けれど、絵に描くほど好きだったとは。(あの先生、面倒見よさそうだもんなあ)なんてぼんやり考えていると……。「かいと、せんせーにプレゼントしたい」「は?」「たきもとせんせーに、これ、わたす」「……いや、それはちょっとどうかと思うよ」紗良は当たり障りのない言葉でサラっと流そうとするが、海斗は引き下がらない。(滝本先生が好きなのはわかった。わかったけど、あげられないでしょ。だって、おもいきり『おとうさん、いつもありがとう』って書いてあるし。さすがにもらう方もドン引きでしょ)心の葛藤が顔に出るほどに紗良の眉間にはシワが寄った。
「えーっと、ここにお父さんって書いてあるじゃん。滝本先生はお父さんじゃないでしょ」「えー、あげたいあげたい。かいと、がんばってかいたもん。あげるもん。こんどのプールきょうしつにもってくの」「いやいやいや、濡れちゃうし」「わーたーすー」「ダメだって」「ヤダヤダ」言い合いをしていると、だんだん海斗の顔が曇ってくる。そしてついに不機嫌な顔でその場を動かなくなった。「ちょっと海斗、帰るよ」「やだっ」「置いてくよ」「やだっ」「保育園に泊まる?」「やだっ」「もうっ、どうしたいのよっ」「だってたきもとせんせーにわたしてくれないんでしょ」「だって渡せないじゃない」「やだっ」テコでも動かない海斗と譲らない紗良。だけど先に根負けしたのは紗良だった。「あーもう、じゃあ今度聞いてみるから。それでいいでしょ?」「……いい」「……帰ろ?」「かえる」ようやく靴を履いてくれた海斗と手を繋ぎ、駐車場へと向かう。(ああ、変なことを引き受けてしまった。寝たら忘れてくれないかしら)一気に疲れてしまった紗良は、どんよりとした気分のまま家路についた。杏介はいつものラーメン店でいつものように接客してくれた紗良を見て、首を傾げた。 上手く言い表せないのだが、何だか今日は紗良の様子がおかしい気がする。妙にソワソワしているというか、落ち着かないというか。そんな彼女は意を決したかのように口を開いた。「あの、先生にお願いがあって……」「はい、何でしょう」「あ……、えっと……」エプロンの裾をぎゅっと握りしめて、モゴモゴと口ごもる。言いづらそうな雰囲気にここでは話しづらいことなのかと思い、杏介はひとつ提案した。「今日は何時までですか
「わかりました。じゃあ隣のコンビニでどうですか?」「はい、それで。ありがとうございます」ほっとしたような、それでもまだ落ち着かないようなそんな表情を浮かべる紗良。お願いとはなんだろうか。海斗の水泳のことで何かあるのだろうか。(もっと優しくしてくださいとか厳しくしてくださいとか?)プール教室の先生をしているとそういう意見をもらうことも少なくない。だからきっとプール教室の指導に関わることなのだろうと杏介は予想して、コンビニへ向かった。ペットボトルのお茶を一本だけ買って、あとは駐車場に停めた車の中で紗良を待つ。スマホのアプリゲームで時間を潰していると、ラーメン店の方からコンビニへ向かってくる人影が見えた。こちらに近づくに連れシルエットがはっきりしてきて、それが紗良だとわかる。制服から着替えた紗良は、ロングワンピースにレギンスといったラフな格好。小さなショルダーバッグを斜めに掛けて、小走りで向かってくる。私服の紗良はやはり若くて、とても母親には見えない。(でも母なんだよなぁ……)世の中の不思議に触れた気分になりながら、杏介は車から降り紗良にわかるよう小さく手を上げた。「お待たせしてすみません」「いえ、大丈夫ですよ。それでお願いと言うのは……?」「はい、あの……」紗良はしばし目を泳がせた後、杏介をぐっと見つめる。身長差のせいで上目遣いに見つめられた杏介は、図らずも心臓がドキリと跳ねた。紗良の艶やかな唇が小さく開かれる。「……海斗が、どうしても先生に渡したいものがあって」「渡したいもの?」「はい、保育園で描いた絵なんですけど……」紗良は再び口ごもってしまう。とんでもなく言いづらいし、本来ならこんなことを
カシャカシャカシャッその音に、紗良と杏介は振り向く。そこにはニヤニヤとした海斗と、これまたニヤニヤとしたカメラマンがしっかりカメラを構えていた。「やっぱりチューした。いつもラブラブなんだよ」「いいですねぇ。あっ、撮影は終了してますけど、これはオマケです。ふふっ」とたんに紗良は顔を赤くし、杏介はポーカーフェイスながら心の中でガッツポーズをする。ここはまだスタジオでまわりに人もいるってわかっていたのに、なぜ安易にキスをしてしまったのだろう。シンデレラみたいに魔法をかけられて、浮かれているのかもしれない。「そうそう、海斗くんからお二人にプレゼントがあるんですよ」「えっへっへー」なぜか得意気な顔をした海斗は、カメラマンから白い画用紙を受け取る。紗良と杏介の目の前まで来ると、バッと高く掲げた。「おとーさん、おかーさん、結婚おめでとー!」そこには紗良の顔と杏介の顔、そして『おとうさん』『おかあさん』と大きく描かれている。紗良は目を丸くし、驚きのあまり口元を押さえる。海斗とフォトウエディングを計画した杏介すら、このことはまったく知らず言葉を失った。しかも、『おとうさん』『おかあさん』と呼ばれた。それはじわりじわりと実感として体に浸透していく。「ふええ……海斗ぉ」「ありがとな、海斗」うち寄せる感動のあまり言葉が出てこなかったが、三人はぎゅううっと抱き合った。紗良の目からはポロリポロリと涙がこぼれる。杏介も瞳を潤ませ、海斗の頭を優しく撫でた。ようやく本当の家族になれた気がした。いや、今までだって本当の家族だと思っていた。けれどもっともっと奥の方、根幹とでも言うべきだろうか、心の奥底でほんのりと燻っていたものが紐解かれ、絆が深まったようでもあった。海斗に認められた。そんな気がしたのだ。カシャカシャカシャッシャッター音が軽快に響く。「いつまでも撮っていたい家族ですねぇ」「ええ、ええ、本当にね。この仕事しててよかったって思いました」カメラマンは和やかに、その様子をカメラに収める。他のスタッフも、感慨深げに三人の様子を見守った。空はまだ高い。残暑厳しいというのに、まるで春のような暖かさを感じるとてもとても穏やかな午後だった。【END】
その後はスタジオ内、屋外スタジオにも出てカメラマンの指示のもと何枚も写真を撮った。残暑の日差しがジリジリとしているけれど、空は青く時折吹く風が心地いい。汗を掻かないようにと木陰に入りながら、紗良はこの時間を夢のようだと思った。「杏介さん、連れてきてくれてありがとう」「思った通りよく似合うよ」「なんだか夢みたいで。ドレスを選んでくださいって言われて本当にびっくりしたんだよ」「フォトウエディングしようって言ったら反対すると思ってさ。海斗巻き込んだ壮大な計画」「ふふっ、まんまと騙されちゃった」紗良は肩をすくめる。騙されるのは好きじゃないけれど、こんな気持ちにさせてくれるならたまには騙されるのもいいかもしれない。「杏介さん、私、私ね……」体の底からわき上がる溢れそうな気持ち。そうだ、これは――。「杏介さんと結婚できてすっごく幸せ」「紗良……」杏介は目を細める。紗良の腰に手をやって、ぐっと持ち上げた。「わあっ」ふわっと体が浮き上がり杏介より目線が高くなる。すると満面の笑みの杏介の顔が目に飛び込んできた。「紗良、俺もだよ。俺も紗良と結婚できて最高に幸せだ」幸せで愛おしくて大切な君。お互いの心がとけて混ざり合うかのように、自然と唇を寄せた。
カシャッ「じー」小気味良いカメラのシャッター音と、海斗のおちゃらけた声が同時に聞こえて、紗良と杏介はハッと我に返る。「あー、いいですねぇ、その寄り添い方! あっ、旦那様、今度は奥様の腰に手を添えてくださーい」「あっ、はいっ」カシャッ「次は手を絡ませて~、あっ、海斗くんはちょっと待ってね。次一緒に撮ろうね~」カシャッカメラマンの指示されるがまま、いろいろな角度や態勢でどんどんと写真が撮られていく。もはや自分がどんな顔をしているのかわからなくなってくる。「ねえねえ、チューしないの?」突然海斗がとんでもないことを口走るので、紗良は焦る。いくら撮影だからといっても、そういうことは恥ずかしい。「海斗、バカなこと言ってないで――」と反論するも、カメラマンは大げさにポンと手を叩いた。「海斗くんそれいいアイデアです!」「でしょー」カメラマンと海斗が盛り上がる中、紗良はますます焦る。海斗の失言を恨めしく思った瞬間。「海斗くん真ん中でパパママにチューしてもらいましょう」その言葉にほっと胸をなで下ろした。なんだ、それなら……と思いつつ、不埒な考えをしてしまった自分が恥ずかしくてたまらない。「うーん、残念」杏介が呟いた声は聞かなかったことにした。
ウエディングドレス用の、少しヒールのある真っ白なパンプスに足を入れた。かかとが上がることで自然と背筋もシャキッとなるようだ。目線が少しだけいつもより高くなる。「さあ、旦那様とお子様がスタジオでお待ちですよ」裾を持ち上げ、踏んでしまわないようにとゆっくりと進む。ふわりふわりと波打つように、ドレスが繊細に揺れた。スタジオにはすでに杏介と海斗が待っていた。杏介は真っ白なタキシード。海斗は紺色のフォーマルスーツに蝶ネクタイ。紗良を見つけると「うわぁ」と声を上げる。「俺ね、もう写真撮ったんだー」紗良が着替えて準備をしている間、着替えの早い男性陣は海斗の入学記念写真を撮っていた。室内のスタジオだけでは飽き足らず、やはり屋外の噴水の前でも写真を撮ってもらいご満悦だ。海斗のテンションもいい感じに高くなって、おしゃべりが止まらない。「紗良」呼ばれて顔を上げる。真っ白なタキシードを着た杏介。そのバランスのいいシルエットに、思わず見とれてしまう。目が離せない。「とても綺麗だよ。このまま持って帰って食べてしまいたいくらい」「杏介さん……私……胸がいっぱいで……」紗良は言葉にならず胸が詰まる。瞳がキラリと弧を描くように潤んだ。
そんなわけであれよあれよという間に着替えさせられ、今はメイクとヘアスタイルが二人のスタッフ同時に行われているところだ。あまりの手際の良さに、紗良はなすすべがない。大人しく人形のように座っているだけだ。(私がウエディングドレスを着るの……?)まるで夢でも見ているのではないかと思った。海斗を引き取って、一生結婚とは無縁だと思っていたのに、杏介と結婚した。そのことすらも奇跡だと思っていたのに。結婚式なんてお金がかかるし、それよりも海斗のことにお金を使ってあげたいと思っていたのに。そのことは杏介とも話し合って、お互い納得していたことなのに。今、紗良はウエディングドレスに身を包み、こうして花嫁姿の自分が出来上がっていくことに喜びを感じている。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。この気持ちは――。嬉しい。声を大にして叫びたくなるほど嬉しい。ウエディングドレスを身にまとっているのが本当に自分なのか、わからなくなる。でも嬉しい。けれどそれだけじゃなくて、もっとこう、心の奥底からわき上がる気持ちは一体何だろうか。紗良の心を揺さぶるこの気持ち。(早く杏介さんと海斗に会いたい)心臓がドキドキと高鳴るのがわかった。
鏡に映る自分の姿がどんどんと綺麗になっていく様を、紗良はどこか他人事のようにぼんやりと見つめていた。一体どうしてこうなったのか。海斗の入学記念写真を撮ろうという話だったはずだ。それなのにウエディングドレスを選べという。掛けられていた純白のウエディングドレスは、そのどれもが繊細な刺繍とレースでデザインされている。素敵なものばかりで選べそうにない。「どうしたら……」ウエディングドレスを着ることなんて、これっぽっちも考えたことがなかった。だから果たしてこんなに素敵なドレスが自分に似合うのか、見当もつかない。ドレスを前にして固まってしまった紗良に「ちなみに――」とスタッフが声をかける。「旦那様の一押しはこちらでしたよ」胸元がV字になって、透け感レース素材と合わせて上品な雰囲気であるドレスが差し出される。肩から腕にかけては|五分《ごぶ》くらいのレースの袖が付いており、デコルテラインがとても映えそうだ。レース部分にはバラの花がちりばめられているデザインで、それがまるで星空のようにキラキラと輝く。純白で波打つようなフリルは上品さと可憐さが相まってとても魅力的だ。「でも自分の好みを押しつけてはいけないとおっしゃって、最終的には奥様に選んでほしいとこのようにご用意させていただいております」そんな風に言われると、もうそれしかないんじゃないかと思う。杏介の気持ちがあたたかく伝わってくるようで、紗良は自然と「これにします」と答えていた。
「ではお着替えしましょうか。海斗くんとお父様はこちらに。お母様はあちらにどうぞ」スタッフに従ってそれぞれ更衣室に入る。どうぞと案内された更衣室のカーテンを開けると、そこには大きな鏡とその横に真っ白なウエディングドレスが何着もズラリと掛けられていた。「えっ?」紗良は入るのを躊躇う。 今日は海斗の入学記念写真を撮りに来たはずだ。 せっかくなので着物を借りて写真を撮ろうと、そういう話だった気がする。いや、間違いなく杏介とそう話した。昨日だって、何色の着物がいいかと杏介とあれやこれや喋った記憶がある。それなのに、紗良の目の前にはウエディングドレスしか見当たらない。着物の一枚すら置いてないのだ。「あ、あの、お部屋間違ってませんか?」「間違っていませんよ。さあさ、奥様こちらへどうぞ。お好きなドレスを一着お選びください」「いえ、今日は子供の入学記念写真の予定なんですけど……」「何をおっしゃいますか。旦那様とお子様が楽しみに待たれていますよ」「えっ、えええ~?」スタッフはふふふとにこやかに笑い、困惑する紗良を強引に更衣室へ引きずり込むと、逃がさないとばかりにシャッとカーテンを閉めた。わけがわからない紗良は、スタッフに勧められるがまま、あれよあれよと流されていった。
杏介が予約したフォトスタジオを訪れた紗良は、思わず「うわぁ」と声を上げた。四季折々の風景をコンセプトにしている屋内スタジオに加え、外でも撮影できるよう立派な庭園が設えられている。海斗はランドセルを大事そうに抱えながらも、フォトスタジオに興味津々で今にも走りださんと目がキラキラしている。「いらっしゃいませ。ご予約の滝本様ですね」「はい、今日はよろしくお願いします」「ねえねえ、あの噴水さわってもいい?」「こら、海斗、ご挨拶!」「あっ。こんにちは。おねがいします」ピシャッと紗良が戒めると、海斗は慌てて挨拶をする。その様子を見てスタッフは海斗に優しい笑みを浮かべた。「噴水が気に入ったかな? あのお庭でも写真が撮れるから、カメラマンさんに伝えておきますね」「やったー!」海斗の入学記念に写真を撮りに来ただけなのに、そんなシチュエーションもあるのかと紗良は感心する。なにせフォトスタジオに来ること自体初めてなのだ。杏介に任せきりで予約の仕方すらわからない。まあ、杏介が「俺に任せて」と言うから、遠慮なくすべて手配してもらっただけなのだが。「海斗すごく喜んでるね」「浮かれすぎてて羽目外しそうでヒヤヒヤするよ」「確かに」紗良と杏介はくすりと笑った。
「どうしたの、海斗」「これを見て!」海斗はおもむろにランドセルを背負う。 まだまだピカピカのランドセルを、紗良に見せつけるように体を捻った。「ランドセル?」「そう! ランドセル! 写真撮りたい。リクもさなちゃんも写真撮りにいったんだって」「写真? 写真なら撮ってあげるよ」紗良は自分のスマホのカメラを海斗に向ける。「ちがーう。そうじゃなくてぇ」ジタバタする海斗に紗良は首を傾げる。 咄嗟に杏介が「あれだろ?」と口を挟む。「入学記念に家族の記念写真を撮ったってことだよな?」「そう、それ! 先生わかってるぅー」「ああ~、そういうこと。確かに良いかもね。お風呂で何か盛り上がってるなぁって思ってたけど、そのことだったのね」「そうそう、そうなんだよ。でさ、会社が提携しているフォトスタジオがあるから、予約してみるよ」「うん、ありがとう杏介さん」ニッコリと笑う紗良の頭を、杏介はよしよしと撫でる。 海斗に関することなら反対しないだろうと踏んでいたが、やはりあっさりと了承されて思わず笑みがこぼれた。「?」撫でられて嬉しそうな顔をしながらも、「どうしたの?」と控えめに上目遣いで杏介を見る紗良に、愛おしさが増す。「紗良は今日も可愛い」「き、杏介さんったら」一瞬で頬をピンクに染める紗良。 そんなところもまた可愛くて仕方がない。夫婦がイチャイチャしている横で、海斗はランドセルを背負ったまま「写真! 写真!」と一人でテンション高く踊っていた。