私は胸が苦しくなり切なさも感じた。全身が一瞬で言葉にできないほどつらくなった。これは私たちの結婚指輪だ。結婚の時、彼は気にも留めていなかったが、お爺さんはこの義理の孫娘には最高のものをくれたのだった。二千万の結納金、高額な新居、トップジュエリーデザイナーがデザインした特注の結婚指輪。のちに、結納金は育ててくれた叔母さんにあげた。新居も私が身を落ち着ける所ではなかった。私と一緒にいてくれたのは、たった一つのこの指輪だけだった。新婚当初、私は心から嬉しくてこの指輪を薬指にはめていた。江川宏は私が江川グループで働いていると知った後、すぐに私に控えめにするよう求めた。そして、その日のうちに薬指から外し、ネックレスにつけて首から下げていたのだ。それから三年間ずっと首にさげていた。かつて私を喜ばせてくれたものが、この時突然皮肉な存在になってしまった。私はこの指輪と同じく、江川宏にとっては公には出せない存在なのだ。私は自嘲する笑みを浮かべた。「ただ外すのを忘れてただけよ」確かに忘れていたのだ。もっと的確に言うなら、慣れてしまったのだ。一人でいる時や不安な時に、この指輪を触る習慣があった。————江川宏は私の夫だ。かつてはただ彼の事が好きだというだけで、たくさんの力がもらえるような気がしていた。彼は信じなかった。「ただ忘れてただけ?」「いる?今すぐ元の持ち主に返すわ」私は手を首の後ろに回し、ネックレスを外そうとした。少しずつ、彼にまつわる物を私から消していく。消すのが早ければ、その分忘れるのも早くなるはずだ。江川宏は冷ややかな顔つきになり、私の手首を掴んで動きを止め、強い口調で言った。「外すな、それは君のものだ」「これは結婚指輪ですよ。江川宏さん」私は口角を引っ張り、真剣に彼に念を押した。それと同時に自分にも念を押した。「今日外さなくても、一ヶ月後にはどのみち外すでしょう」江川宏は薬指にある指輪を親指で撫で、あまり見せない固執した瞳で言った。「じゃあ、もし俺がずっと外さなかったらどうする?」私は大きく息を吸って言った。「それはあなたの問題です」ともかく、彼のそのわずかな言葉で、私たちの結婚に希望があるなどと思いたくなかった。話が終わると、彼を振りほどき、身を翻して外に
私はクスリと笑って言った。「あなたみたいな人じゃなければいいわ」彼は少し傷ついた様子だった。「俺はお前の目にそんなに悪く映っているのか?」「まあまあよ。家庭内暴力や薬物、ギャンブルに比べれば、あなたのほうがずっとマシよ」「……清水南」彼の顔は怒りに満ち、何か言い出そうとした瞬間、誰かがドアをノックした。江川アナの美しい声が響いた。「宏、入ってもいい?」誰も返事をする前に、ドアがカチャッと音を立てて開かれた。「宏、私が塗ってあげるわ……」私に気づいた瞬間、彼女の声が途切れ、笑顔が硬直した。私は淡々と言った。「私、先に出るわ」「南」江川アナは和やかな口調で言った。「離婚したからには、それに相応しい態度でいなければダメよ。誤解しないでちょうだい。私はただ下心を持つ人に知られて評判が悪くなるんじゃないかって心配してるだけなの」「国ですら離婚の証明書を発行していないのに、ただの個人が私たちの離婚の宣告?」我慢できず、無関心に続けた。「私の評判がどんなに悪くなっても、あなたと肩を並べるほど悪くなったりしないわよ」この言葉を残して、私は大股で去っていった。部屋を出る前に、彼女が江川宏に不満そうに話しかけるのが聞こえた。「宏、彼女が言った言葉聞こえた!?」「誰がお前が入るのを許可したんだ?」予想外にも、江川宏から守ってもらえず、ただ冷たく問い詰められた。江川アナは納得していない。「あなたの部屋に入っちゃだめ?子供の頃は一緒に寝たこともあるじゃない!」……私は視線を下ろし、内心で離婚の申請を既にしていてよかったと喜んだ。彼らがイチャつくのを聞かないで、書斎の方に向かって行くと、ちょうど土屋じいさんが向こうからやってきた。「若奥様、そんなに焦っていかなくてもよろしいのでは?お爺様が会いたがっています」「わかりました」土屋じいさんが来なくても、私はお爺さんに会いに行くつもりでいた。お爺さんの顔色は、思っていたより悪くなさそうだった。私が入ってくるのを見て、お爺さんは手招きをし、親しげに言った「いい子だな、こちらにおいで」記憶にある限り、父は私をこう呼んでいた。目頭が熱くなり、近づいて座った。「お爺さん、どこか具合が悪いところはありませんか?」江川宏があそこまで滅多打ちにされ
お爺さんに見破られて、私はもう迷わないで頷いた。「はい」お爺さんは手を上げ、土屋じいさんに何かを取ってくるように合図した。それは黄ばんだ診察記録だった。私はそれを受け取って見てみると、誰かに心臓を握られたかのように苦しくなった。江川宏は子供の頃何年も心療内科に通っていた……私はぎこちなく顔を上げた。このことを信じたくなかった。あんなエリートが、心療内科の常連だったなんて。しばらくして私は我に返り、唇をかすかに上げた。「彼は、彼がどうして……」しかし、思い直してみると、確かにその思い当たる節があった。生まれてすぐ母を亡くし、父親は別の女性のために家庭をめちゃくちゃにし、連れ子だけを可愛がっていた。心理的な問題が出るなんてことは至って当たり前の事だ。「ここ数年、私も彼に教えるかどうかずっと迷っていたんだよ」お爺さんはため息をついて、大きく変化した目つきが鋭くなった。「でも、いつか彼はこのことを知ることになる。一生隠し通せるものじゃあないんだ」……私は複雑な気持ちで江川家の古い邸宅をあとにした。帰り道で右目がピクピク引きつっていた。私は普段このような事を信じなかった。しかし、今日は気が滅入ってうろたえていた。車がマンションの駐車場にさしかかった時、江川宏から電話がかかってきた!私はドキッとした。「もしもし……」「お爺さんが倒れた!今救急車がこちらに向かっている」「わ、私、今すぐ戻るわ……」私は雷に打たれたように、よたよたした話し方になってしまった。その時、江川宏の落ち着いた力強い声が私の心を落ち着かせた。「南、慌てなくていい、こちらではなく直接聖心病院に向かってくれ」「う、うん、わかったわ」私の頭はガンガンしていた。電話を切った後、車を管理人に駐車場に止めてもらうよう頼み、道路の端に立ち、タクシーを拾った。前回の経験から、この状況で運転する勇気がなかったのだ。病院に到着して車から降りた直後、救急車が私の横をサイレンを鳴らして通り過ぎた。————お爺さん。子供を気使い走ることができず、ただ救急車に追いつくために早足で歩いた。救急車は救急外来の前で停車し、すでに待機していた医師や看護師が一斉に駆け寄った。救急車から降ろされた人は、やはりお爺さんだった。80歳
「アナはどこにいるの?」私は彼を避け、声を詰まらせて尋ねた。お爺さんは江川アナと一緒にいた時にこうなったのに、なぜ本人はここにいないのか?私がそう尋ねると、廊下からハイヒールの音を慌ただしく響かせ江川アナが走ってきた。驚いた様子で言った。「宏、お爺さんは大丈夫なの?ごめんなさい、あちらの邸宅の方はタクシーがなかなか来なくて、少し時間がかかっちゃったの……」私は単刀直入に尋ねた。「お爺さんはなぜ突然倒れたの?」江川アナの顔に一瞬緊張が走り、そしてこう言った。「私、私もわからないわ。突然息苦しい様子になって、それから倒れてしまったのよ」「突然こうなった?あなたは何もしゃべってないし、何もしなかったというの?」私は信じなかった。この二年間、お爺さんの体調は良く、定期的に検査を受けていた。江川宏に腹を立て殴った時でも、何の問題もなかったのに、何も起きていない状況で病気になるなんてありえない。「何を言っているの?南、あなた、まさか私がお爺さんを怒らせたからこうなったとでも言いたいわけ?」江川アナは戸惑い、突然お腹を抱えて苦しそうに江川宏を見つめた。「宏、お腹が痛いわ……」江川宏は顔色が変わった。「お腹が痛いだって?」「そうよ!」はっきりとした返答を聞いて、彼は彼女を抱きかかえ急ぎ足で去っていった。「先生!彼女は妊娠していてお腹を痛がっているんです」私は耐え切れず皮肉の笑みを浮かべた。頭を上げて壁に寄りかかり、平常心を保とうと深呼吸した。彼が江川アナのことで慌てるのは別に大したことではない。しかし、こうも何度も何度も同じ情景を目の当たりにすると話は変わってくる。土屋じいさんは私の顔色が悪いのを見て、思わずなだめるように言った。「若奥様、座って待ちましょう。お爺様はおろらく……そんなにすぐには回復しないでしょう。とにかく、どのような状況になったとしても、お爺様はあなた方が何事もなく過ごせることを望んでいらっしゃいますよ」「わかりました」私は更に涙を流し、頷いて隣にあった椅子に手をつき脱力して座り込んだ。しかし、私はやはりさらに不安になっていき、救急室の扉の前から離れようとしなかった。生まれて初めてこんなに焦燥した。両親が亡くなった時、私はまだ幼かったので一体何が起きているのかよくわからなかった。た
「これはおかしいわ……」私はどこかおかしいと思った。江川宏は尋ねた。「どこがおかしいんだ?」私はじっくり考えて言った。「お爺さんは普段具合が悪くなると、すぐに薬を飲むから普通は何も問題は起きないわ。なぜ今回は直接気絶しちゃったの?」「そうですね、以前お爺様が再検査に来ていた時、いつもポケットに薬を入れていたのに気づきました。今日の状況なら早めに薬を飲んでいれば、こんなに深刻にはならなかったはずです」院長が言った。私は冷ややかに江川宏を見た。「アナはどこにいるの?」「彼女は病室で休んでいるよ」江川宏が答えた後、顔色が一変し確信を持って言った。「君は彼女を疑っているのか?それはありえない。彼女は気が強いかもしれないけど、心は悪い人じゃない。しかも、お爺さんの前ではいつも必ずおとなしいんだぞ」私はそれを聞いて、初めて自分の怒りを抑えられなくなった。心は悪い人じゃないって、そんな人が他人の夫に執着するなんて、ありえるわけがない。ただ、寝たふりをしている人間を起こすことは誰にもできない、それは私もよくわかっていた。彼と言い争うのは面倒くさいので、私は院長に向かって言った。「お爺さんが病院に来たときに着ていた服はまだありますか?ポケットに薬が入っているかどうか、確認していただけますか?」「わかりました」院長はすぐに後ろの医者に指示を出した。しばらくして、医者がやってきて「ありません、お爺様のポケットは空です」と言った。「ありえません。使用人がコートをクリーニングした後、ポケットに薬を入れてからクローゼットにかけています。毎回私も一度確認しています」土屋じいさんは真剣な表情で説明した。お爺さんの存在は江川家にとって重要で、誰もが軽視することなどなかった。私は一つの可能性を思いつき、全身の毛が逆立つような感じがして、直接病室に向かった!江川アナがどの病室にいるか、私は推測できた!聖心病院には専用の特別個室が三室ある。江川アナの母親はずっとその中の一室に住んでいた。江川アナもそこにいるに違いない。「南!」江川宏は急いで追いかけてきて「どこに行くんだ?」と尋ねた。「手を離して!」私は血液が逆流しているような感覚を覚え、感情が限界まで来ていた。なんと彼をひどく振り払ってしまった。私は江川宏の
「必要ないわ……」江川アナは彼の袖を引っ張りながら「あなたに一緒にいてほしいの。ちょっとだけでもいいから、ダメ?だめなら、私はこの痛みにずっと苦しむのよ!」「じゃあ、ずっとその痛みに苦しんでいろよ」江川宏は冷たい表情で、言葉はそう言っているが彼女にお湯を注いであげた。そして、冷たい口調で言った。「お湯をたくさん飲むんだ」江川アナは皮肉を込めて言った。「お湯じゃ病気は治らないわよ」私はふらついて転びそうになり、顔を上げた。これが彼らの自然なやりとりだった。一人は喜んで嘘をつき、一人は喜んでそれを信じる。お爺さんがICUに入院してから、体のことを考え、医者はお見舞いに来るのは勧めなかった。私はただドアの前に立って、ガラス越しに中の状況を見るしかなかった。普段は優しい目をしているお爺さんが、今は酸素マスクだけを頼りに呼吸している。私はたちまち形容しがたい辛さに襲われた。突然、私はお爺さんの指が動いたように見えた。私は興奮して土屋じいさんに向かって言った。「土屋じいさん、お爺さんが動いたわよね?」「はい、そうです!間違いありません、今も動いています」土屋じいさんもとても興奮していた。お爺さんがいつ目を覚ますかわからない状況で、まさかこんなに早く目を覚ますとは思ってもいなかった。私は驚きと喜びでいっぱいで、すぐに医者を探しに行こうとしたが、途中で心電図モニターのピーという鋭い音が鳴り響いた。「ICU1号室、救急準備をしてください!」私が呼ばなくても、院長が今夜は自ら当直をしていて、音を聞いてすぐに医師や看護師を連れて駆けつけた。皆、重い表情でICUに入っていった。私は廊下の真ん中でぼんやり立っていて、頭が真っ白になっていた。どうしたの……さっき動いたじゃない。テレビドラマでは患者が動いたら、回復して目が覚めるんじゃないの?一瞬、私はめまいがして隣の椅子につかまりながら、なんとか立ち直った。医者や看護師は薬を取りに行ったり、救急処置を行ったりしていた。病院まで来たのに、救急室に運ばれるのがやはり遅すぎたらしい。病院には暖房があるのに、私は頭から足まで冷え切っていた。早かった。5分、いや3分も経っていないだろう。院長が出てきて、彼が話し始める前に私は期待して尋ねた。「お爺さ
話を聞くまでは、お爺さんが私と江川宏の離婚を考え直すように言うのかと思っていた。しかし、そうではなかった。お爺さんの命の灯火が次第に消えていくのをはっきり感じることができ、声も非常に弱くなっていた。「どうか、どうか……江川アナを嫁にしないで、江川家を守ってくれ」「はい、わかりました……」私は押しつぶされそうになり、泣きながら頷き続けた。「お爺さん、江川アナが何か話したのですか、それで突然体の具合が悪くなったのでは……」「彼女は……」お爺さんの瞳に嫌悪と怒りが浮かび上がったが、それはため息に変わった。「私が言ったことをよく覚えておいてくれ」「はい、南は覚えておきます。一言一句漏らさずに」私は声を詰まらせながら口を開いた。これ以上は聞きだせなかった、またお爺さんを怒らせるんじゃないかと心配だったからだ。しかし、疑問の種は心に植えつけられてしまった。江川アナが絶対にお爺さんに何かを言ったのだろう。「いい子だ。悲しまないでおくれ、お腹の子をしっかりと守ってあげるんだよ」お爺さんは最後の力を振り絞って、優しく微笑んで言った。「そうすればお爺さんは安らかに眠れる……」「ピーッ」アラーム音が鋭く長く響いた。私は目を閉じたまま微笑みを浮かべているお爺さんを見つめ、瞬時に崩れ落ちた。お爺さんは全て知っていた……私が妊娠していることをすでに知っていたんだ!でも、一度も尋ねてくることはなかった。私は病床の端を掴み、ゆっくりと地面に膝をつくと、涙が止まらなかった。「お爺さん、南はできます……あなたが託した言葉、私は必ずやってみせる!」お爺さんにまだこの言葉が聞こえていて、安心して旅立てることを祈った。「お爺さん!」しばらくして、後ろから馴染みのある無力な声が聞こえてきた。彼の想い人は、やっと開放してくれたのかしら?江川宏はショックを受け、言葉を詰まらせて尋ねた。「南、お爺さんは、お爺さんはどうしたんだ……」「お亡くなりになりました」私は静かに答えた。自分自身が空っぽになったようで、涙が音もなく黙って滑り落ちていった。数十年ぶりに再び親族を失うというのは、こんな感じなのだな。あの時よりももっと深く辛い。鈍いナイフで刺されるようにじっくりと苦しめられていく感覚。泣き叫びたいが、何
お爺さんの言葉を繰り返し思い出した。以前、お爺さんは江川宏と江川アナが一緒になることに同意していなかった。彼女は腹の内が複雑な人間だったからだ。しかし今日……以前とは全く違うようだった。江川アナはお爺さんに一体何を話したのだろう。車が江川家の邸宅に入った。私は直接降りてここから去ろうとしたが、江川宏が大股で追いかけてきて、私を抱きしめた。私は身体を硬直させた。彼は頭を私の肩に埋めて、少し頼りなく心細い調子で言った。「南、一晩一緒にいてくれないか」「たった一晩だけ」「お願いだから」彼の言葉を聞いて、昼間書斎で見た診察記録が私の頭によぎった。私は思わず同情心を抱いた。「わかった」この邸宅の中の雰囲気は重たくなった。ただお爺さんがいなくなっただけで、家全体がこの夜に突然空っぽになったように感じられた。寝室に戻ると、私はシャワーを浴びた。出て来た時には江川宏の姿は見当たらなかった。夜更け頃に後ろから誰かが抱きしめてきた。寝返りを打って確認するまでもない、それが誰なのか私は分かっていた。なぜか、今夜の江川宏の一挙一動に悲しみを感じ取った。「寝ちゃった?」彼は額を私の頭に押し付け、とても小さい声で尋ねた。私はそれに返事もせず動きもしなかった。しばらくして、彼の元気がない声が聞こえてきた。「南、俺はお爺さんをとても失望させただろうな。お爺さんが亡くなる直前にも、そばにいてあげられなかった」「……」江川アナのあの下手な嘘と演技でさえ、彼は喜んで信じるのだ。もうこうなってしまったのに、私に何を言えというのか。彼の声はかすれていた。「お爺さんは俺を責めていたか?」私はカーテンの隙間から差し込む月明かりを見つめながら「私はお爺さんに何も言ってない。お爺さんが生死の境を彷徨っているときに、お腹が痛いなんて嘘をつく江川アナと一緒にいたことをね」生まれて初めて私はなんて残酷な人間なんだろうと思った瞬間だった。慰めているふりをして、相手を傷つける言葉だった。「ごめん……」江川宏は後悔しながら言った。「俺は少し彼女をなだめたかっただけで、すぐにお爺さんのところに行くつもりだったんだ」「そんなのどうだっていいわ」これ以上威圧する言葉を吐きたくなかった。ただ「私に謝ってどうするの、謝るべき相手は私では
私は夢を見た。それも悪夢ばかり——。最後に夢に出てきたのはおばあさんだった。優しい顔で私に話しかけてくれたけど、その言葉が全く聞き取れなかった。まるで私に別れを告げているようだった。でも、どうしておばあさんが私に別れを?「おばあさん、行かないで!」夢の中で私は叫び、追いかけた。おばあさんはゆっくり歩いているだけなのに、どうしても追いつけない。突然、景色が変わり、私は足元を踏み外したような感覚で目を覚ました。「動くな」全身が冷や汗でびっしょりだった。ふくらはぎに力が加わり、痛みが走った。私は眉をひそめて息を吸い込んだ。痛みが少し和らいだ頃、服部鷹が私のふくらはぎをマッサージしているのが目に入った。「足がつってたんだ」確かにつっていたけど、彼の方が私より早く気づいた。「鷹、大阪に戻るまでどれくらい?」服部鷹は腕時計をちらりと見て言った。「夜の8時か9時くらいだ」「おばあさんに会いに行きたい」「......」服部鷹は少し黙ってから、言った。「わかった」なんだか違和感を覚えた私は問い詰めた。「何か隠してるんじゃない?」服部鷹は私の足を曲げたり伸ばしたりしながら、聞いてきた。「痛みはどうだ?」自分で動かしてみて、答えた。「もう大丈夫」彼は立ち上がった。「加藤教授が船にいるから、簡単な検査をしてもらおう」「ごめんなさい」突然の謝罪に彼は不思議そうな顔をした。「どうした?」「さっき、すぐ寝ちゃって、鷹の怪我のことを全然聞いてなかった」服部鷹は笑ったように顔を緩め、私の頬を軽く叩いた。「聞いても、怪我がすぐ治るわけじゃない。それに、南は子供と一緒にこんな目に遭ったんだ。きっと怖くて眠れなかったし、ろくに食べてもないだろう。だから眠れたのはむしろ良かった。眠れなかったら、体を壊してしまう」私はベッドから起き上がり、彼の怪我を見ようとした。服部鷹は言った。「擦り傷ばかりだし、切り傷も深くない。薬も塗ったし、包帯もしてある」「それだけじゃないでしょ」彼をベッドに座らせ、少し襟を開けて中を覗いた。「急救室に入ってから何があったのか知らないし、目が覚めたら山田時雄の船だったから、鷹の火傷がどうなったのか全然わからない」服部鷹は私の手を握り、膝に座らせ
頭の中がガンガンと響くようで、私はただ目の前で山田時雄が倒れるのを見ていた。彼は血を吐きながらも、私に向かって微笑んでいた。諸井圭に足を引っ掛けられた服部鷹は、山田時雄に一歩遅れて駆け寄ってきた。彼は山田時雄が私を守って銃弾を受けたのを見て、少し驚き、一瞬立ちすくんだ後、すぐに駆け寄り、私の目を遮るように手を伸ばした。「南、見ないで......」私は無意識に頭を振って、ぼんやりと走り寄った。「先輩......」以前の山田時雄の優しさが、あっという間に思い出されて胸がいっぱいになった。涙が止まらず、私は彼の流れ出る血を押さえながら、言葉がうまく出なかった。小島午男は警察官のロックさんと共にトミーを取り押さえ、急いで諸井圭と佐久間珠美を制圧した。ロックさんは服部鷹の助けを借り、諸井圭と佐久間珠美の処理を手伝った。小島午男は感謝し、彼らを送り出した。河崎来依が私の手を握り、目の前に立って言った。「南......」山田時雄の顔色はだんだんと青白くなり、彼は弱々しく笑いながら言った。「大丈夫だよ、南......怖がらないで、俺は本当に大丈夫だ」前では、私は彼に対する信頼を悔やんでいた。でも、彼が私のために傷ついているのを見て、無視することはできなかった。「先輩......」私は涙を拭い、言った。「大丈夫なわけがない」服部鷹はすでに小島午男に病院と連絡を取らせ、医療チームを待っていた。山田時雄は笑顔を浮かべて、私を見る目が深くて優しかった。「俺が間違ってたんだ、南、君の言う通りだ。俺は君を愛してると言ったけど、ずっと君を傷つけてきた......君を守るために銃を遮ったのは、俺が自分で選んだことだし、君を傷つけない唯一のことだ」「南......」彼はゆっくりと手を上げ、涙を拭ってくれた。「泣かないで、これからは泣かないで。俺が死んでも、この命は君に対して借りたものだ。本当の山田時雄は、何年も前に死んでいた。君がいたからこそ、俺はこんなにも生きてきたんだ」「あなたは死なない、しっかりして......」「聞いて......」彼の口からは鮮血が流れ、力がどんどん弱くなっていった。彼は私のお腹を見て、言った。「わかってる、宏との子のことで、南もう随分辛かっただろうから......だから、今度は君じ
彼が力を抜いた隙に、私は彼の腕から抜け出した。彼の手首が垂れ、銃が地面に落ちているのが見えた。私は呆然とした。後ろに二歩下がったが、軽くなることはなかった。「南」服部鷹が大きな足取りで近づき、私をしっかりと抱きしめた。私はようやく少し思考を取り戻した。「鷹......」この一日中の不安と緊張、すべての悪い感情が、この瞬間に消えた。私は大きな安心感を感じた。服部鷹以外、誰にも与えられないものだった。河崎来依は本来前に出ようとしたが、私たちが抱き合っているのを見て、ただ横で待っていた。その時、突然また一団の人々がやって来た。先頭に立つ人物は制服を着ていて、皆に向かって叫んだ。「動くな!」セリノはこの島に来るとき、あまり多くの部下を連れていなかった。自分の領地には誰も侵入できないと信じていたからだ。だが今日は、服部鷹がトミーと共にここに入ってきた。トミーは準備万端だったが、彼は完全に敗北した。「鷹君......」最後に目を閉じるとき、彼は服部鷹を呼んだが、目線すらもらえなかった。服部鷹は今、誰にも目を向けていなかった。彼の目には私しかいなく、私の目にも彼しかいなかった。「トミー、今回は言い訳できないぞ。俺は犯罪現場をすべて見ていた」「ロックさん?」トミーはあそこに抱えている二人を見た。突然理解した彼は、素早く動き、銃を撃った。「鷹兄!」「鷹!」小島午男と菊池海人が同時に叫び、同時に前に出た。服部鷹は素早く私を抱きしめ、避けた。彼は私を背後にかばい、銃を持った男を見つめた。「トミーさん、これはどういう意味だ?」トミーの目は灰色で、冷徹に人を見つめるとき、陰険で恐ろしかった。まるで命を取りに来た阿修羅のようだった。「どういう意味?」トミーは銃を持って、言った。「神様が教えてあげるさ」「トミー!銃を下ろせ!」警察官のロックは彼の足元に銃を撃ち、声を大にして警告した。だがトミーは警察を恐れていなかった。彼は部下を呼び寄せ、今日は絶対に服部鷹の命を取るつもりだった。こんな小細工をしやがって。セリノを排除して王になると騙しておいて、結局ロックを使って現場を押さえられてしまった。こんな奴は自分のために使えないなら、殺さなければならな
服部鷹は私に「動かないで」と合図した。信じてくれ、という意味だった。彼は私を見つめ、柔らかな声で言った。「俺がいるから、怖がらないで、いい?」私はもともと怖くなかったけど、こんなにも彼に抱きしめられたいと思った瞬間はなかった。「鷹君、もう人は見つけた。これで帰ろうか?」セリノの笑みは少し薄れていた。この女性が服部鷹をこんなにも優しくさせるなら、もう残しちゃだめだ。山田時雄が連れて帰るのがちょうど良かった。彼らの目的はそれぞれ達成されることになる。「山田時雄の雇い兵たちは、俺とは違う。彼らはお金で動く。お金さえ渡せば、何でもやる」セリノの言葉が終わると、彼の部下が急いでやってきた。「ボス、大変です!トミーの連中が来ました!」「トミー?」セリノは服部鷹を見て、完全に笑顔を失った。「俺が本気で君に尽くしてきたのに、こんな風に俺を裏切るのか?行け、こいつを縛れ。山田、お前の連中を連れて行け。この女を遠くに連れて行け」山田時雄はここで時間を浪費したくなかった。服部鷹がトミーと協力関係を結んでいれば、セリノから無事に抜け出せるはずだった。だが、トミーも簡単な相手ではない。服部鷹がうまくいくとは限らない。「放して、私は行かない」私はヘリコプターの縁を掴んでいたが、男性の力には敵わなかった。「もしまた騒ぐなら、これらの雇い兵たちが服部鷹を殺すぞ。そうしたいなら、その願いをかなえてやってもいい」私は数秒迷った後、手を離した。服部鷹はそのまま前に進んだ。雇い兵の銃口がすでに彼の胸に向けられていたが、彼はなおも前進し続けた。「服部鷹!」「鷹兄!」私の声と同時に、小島午男が叫んだ。彼が多くの人を連れてやって来たのが見えた。そして河崎来依も一緒にいた。私は安心した。服部鷹が準備を整えて来るのを知っていたからだ。トミーがやって来て、セリノと対峙した。彼は一部の人を借りて、服部鷹の方を助けた。すぐに、山田時雄は自分の部下が徐々に倒れていくのを見た。そして服部鷹は無傷で、ゆっくりと迫ってきた。山田時雄は一切慌てることなく、銃を取り出して私の頭に向けた。「......」「服部鷹、俺が手に入れられないものを、お前が手に入れることは許さない。どうしてもダメな
服部鷹は性格や気性のせいで、セリノを怒らせたと思っていた。もし服部鷹が死ぬのを見られれば、それはとても爽快だと考えていた。その後、清水南から藤原家の財産を手に入れ、さらに清水南を排除すれば。まさに二重の喜びとなる。しかし、彼らが目にしたのは、服部鷹が銃をセリノに向けている光景だった。こいつ、何をしているんだ。岸辺の空気は張り詰め、緊張感が漂っていた。ただ、その状況を作り出した服部鷹だけは、片手をポケットに入れ、非常にリラックスして見えた。だが、それは表面的なものに過ぎない。清水南に会うことができていない今、彼の神経はすべて張り詰めていた。「もう一度聞くが、彼女はどこだ?」セリノは手を挙げ、全員に銃を下ろすよう指示した。服部鷹のような性格の人物を征服するのは難しいが、だからこそ、ますます征服したくなるものだ。「俺が案内する」セリノはいつものように笑顔を浮かべ、服部鷹を森の方に案内した。服部鷹が持っている銃に気を取られることはなかった。なぜなら、清水南に会うことがなければ、服部鷹は簡単には彼を殺さないからだ。しかし、セリノは自分が間違っていることに気づいていなかった。服部鷹が撃った銃声は、ただトミーの部下に合図を送るためのものだった。彼はセリノを殺し、清水南を探しに行くこともできる。だが、計画を完遂しなければならなかった。それに、自分もマフィアと関わらないことにするんだ。彼は人殺しの夫になるわけにはいかないし、そんな父親にもなりたくなかった。......私は山田時雄に脅されて食事を取ったが、数分後にはすぐに吐いてしまった。今回は、山田時雄は私に水を渡すこともなく、関心を示すこともなかった。代わりに、私は彼に引っ張られて木小屋の裏側に連れて行かれ、少し歩いた先にヘリコプターが停まっていた。急いでいる様子に、何か不自然さを感じた。私は確信した。先ほどの銃声は、服部鷹に関係している。ここを離れてはいけない。もしここを離れたら、服部鷹が私を見つけるのはさらに難しくなるだろう。私はすぐにお腹を押さえて、木の幹にしがみついた。「気分が悪い」山田時雄の顔は陰鬱で冷淡で、私を引っ張ろうと手を伸ばしたが、私は木の幹をしっかり抱え込んでいた。木の皮は粗くて乾燥していた
山田時雄が木小屋を出た後、私は小屋を一周して見回した。何も見つからなかった。ドアを開けて外に出ると、なんと誰かが見張っていた。私は心の中で苛立ちを抑えながら尋ねた。「あなたたちはセリノの部下か、それとも山田時雄の部下か?」誰も答えなかった。でも、私が一歩でも前に進めば、すぐに私を止める。......その一方では、服部鷹は無表情で、何も言わなかった。セリノが彼の前の皿に次々と料理を盛り付けていたが、服部鷹はそれに全く興味を示さなかった。彼の忍耐力はもともと少ない上に、清水南のことを心配していたため、さらに少なかった。だが、いくつかの時間を稼ぐ必要があり、セリノの警戒を解くために少しでもリラックスすることが求められた。「食欲がない」服部鷹は立ち上がり、外の方を一瞥してから、足を進めて森の方に向かった。セリノは止めなかったが、後ろからついてきた。だが、入口で止められた。服部鷹は直感的に、清水南がここにいると感じた。「この島に来たからと言って、俺をどうにかできると思うな。俺が妻に会えない限り、ヴァルリン家には入らない」セリノは山田時雄のことをよく知っていた、特にその女性のことに関しては警戒していた。以前の協力関係の中で、山田時雄はほとんど自分の部下を持っており、セリノの部下はその後、諸井圭以外はほとんど使われなかった。だが、彼らの間には特に利害関係はなく、単なる協力関係であった。「この森には野生動物がいるから、何人か見張りを立てておいた。新参者たちが知らずに森に入らないように」服部鷹はしばらく黙っていた後、振り返ってその場を離れた。草むらを通り過ぎると、何かが光っているのを見た。彼はそれに気づいたが、何も言わずに視線を外し、岸辺に向かって歩き続けた。セリノは彼に続いて、言った。「鷹君、焦らないで、部屋で少し休んでいきなさい。後で、君が会いたい人を連れてくるよ。必ず、無事に彼女を連れてくるから」服部鷹は返事をせず、岸辺に向かって歩き続けた。セリノは彼が船に乗る時、服部鷹を囲むように指示を出した。服部鷹は船の縁に立ち、片手をポケットに入れていた。その美しい顔には何の表情もなく、茶色の瞳は深く魅力的だった。セリノはその瞳を見つめ、心臓が速く鼓動するのを感じた
「考えるな」山田時雄は私に低く囁きながら近づいてきた。「たとえ彼がこの島に上がってきたとしても、お前を連れて行くことはできない。お前たちが会うこともさせない」そう言うと、彼はセリノに向かって言った。「何を言って彼を騙そうとしてるのか、お前も分かってるだろう。目の前にいようがいまいが、どうでもいい。お前の手配はもういい。俺は自分で住む場所を決める。食事のことも心配しなくていい。俺が処理する。数日後、俺と俺の仲間はここを離れる」セリノは何を企んでいるのか分からないが、ただこう言った。「好きにしろ」私は心の中で重く感じた。時間を稼ぐチャンスすら、もう残っていなかった。......服部鷹は岸に到着し、人数を一目で確認した。「鷹君」セリノは素早く彼の前に歩み寄り、腕を広げて抱きしめようとした。服部鷹は体をかわし、はっきりと聞いた。「俺の妻はどこだ?」セリノの目は、服部鷹に食い入るように見つめていた。服部鷹は怒りを抑え、もう一度尋ねた。セリノは:「安心しろ、無事だ。食事を用意してるから、まずは食べよう」服部鷹の目が一瞬冷たく光り、淡々と言った。「いいだろう」セリノは嬉しそうに笑った。これで鷹君はもう自分のものだった。服部鷹はセリノが何を言っても耳に入れていなかった。ただ、あたかも無関心なように見せかけて、周囲を観察していた。草むらを通り過ぎたとき、何かが反射しているのを見つけたが、それについては何も言わず、ただ右を指さした。「あそこは開発されていない森か?」セリノは鷹君から話しかけてきたことに非常に喜んでいた。「まだ開発されてないが、もし君が何か考えがあれば、好きなように開発してもいい」服部鷹は軽く草むらを一瞥し、そのまま前に進んだ。セリノは嬉しそうに彼の後ろをついていった。「君の国のシェフを特別に招いて、君の好きな料理を作ったんだ」服部鷹は驚かなかった。セリノがそれらの基本情報を調べることは不思議ではなかった。しかし、もっと深いことは彼には調べさせないんだ。「鷹君、座って」ダイニングに入ると、セリノは椅子を引いて服部鷹に座るよう促した。服部鷹は特に反論せず、座った。セリノは彼の隣に座り、料理を取り分けた。周囲の人々はもう目も当てられな
「そのガキのために何でもするんだな」山田時雄は不気味な笑みを浮かべながら言った。「これなら、あえてそいつを残しておくのも悪くない」「......」私は山田時雄と一緒に船室から甲板に出た。船を降りる時、彼は私の手を無理に掴んできて、私は逃げられなかった。「山田」その声に振り向くと、紫色のスーツを着た男性が歩いて来た。彼はとても白い肌をしていたが、唇の色は赤かった。黄色い巻き毛に青い目、まるで男性の妖精のようだった。「セリノだ」山田時雄が私を紹介した。「これが、命をかけてまで連れてきた女か?」セリノは私をじろじろと見て、言った。「見た目は確かに美しいが、それ以外には特に目立ったものはないようだな。どうして鷹君はこんな女にそんなに必死になるんだ?」鷹君......?私は船酔いか、妊娠の影響か、頭がふわふわしているのを感じた。だから黙っていた。セリノは私が何も言わないことに気づき、もう一度私に話しかけることはなかった。彼は山田時雄に言った。「場所は手配した。彼女には休んでもらう。お前と話がある」山田時雄は違和感を感じ取った。「俺たちが話すことはもうないだろう?お前が俺をひそかに救ってくれた。俺は南を連れて来た。これで、俺たちの間に未解決の問題はない。ここに来たのも一時的なことだ。数日後には去る。もうお前とは関わらないだろう」セリノは山田時雄を嫌っていた。いつも陰鬱な顔をして、それにこいつは狂っている。彼がもし服部鷹を手に入れようとしているのでなければ、こんな時間を無駄にしているはずはなかった。だが今は、見せかけの振る舞いをしているだけだ。「一時的な場所も必要だ。ここでは自由に動けない。俺について来い」私は山田時雄と二人きりになりたくなくて、セリノに言った。「この方、私はお腹が空いた。何か食べ物はありますか?」少しでも時間を稼げるなら、稼いでおきたかった。セリノは服部鷹に恋をしているが、彼は幼少期からヴァルリン家を継ぐ準備をしてきた。様々な経験を積んでいた。部外者が彼を愚かだと思うかもしれないが、それは彼が自分を守る方法に過ぎない。だから、彼はすぐに私が服部鷹を待っているために時間を引き延ばそうとしているのを見抜いた。「もちろん、特にお前たちの国のシ
話しているのはマンガノ家のボス、トミーだった。服部鷹は他人の縄張りにいるにもかかわらず、態度は悠然としていた。まるで自分の家にいるかのようだった。彼はトミーの正面に座ったが。警戒心を解かず、テーブルの上のものには一切手を触れなかった。「セリノが俺を仲間に引き入れようとしたが、断ったら妻を連れ去られた。トミーさん、これを恨みに思わない方がおかしいでしょう?」トミーの妻は彼が苦労して手に入れた大切な存在だった。しかし、かつてセリノとの抗争のせいで、彼女は永遠に彼の元を去ってしまった。その後、トミーは再婚せず、時折セリノに嫌がらせをしていたが。本気でセリノを排除するのは容易なことではなかった。だからこそ、誰かが情報を持ってきたと聞けば、それが真実かどうかにかかわらず、その人物に会うことにしていた。今、目の前の若い男が妻のために動いていると知り、トミーは勝負に出る価値があると判断した。「俺に何をしてほしいんだ?」服部鷹は口元に笑みを浮かべ、「トミーさんは賢い方だ。話がスムーズで助かる」「目標が一致してるなら、無駄話をする必要はない」トミーも即答した。「信じるなら信じる。結果がどうであれ、自分で責任を取ることだ。信じないなら、俺に会うこともなかっただろう」服部鷹は笑いながらテーブルの上のグラスを手に取り、トミーと軽く乾杯した。だが彼は酒を飲まず、申し訳なさそうに言った。「すみません。まだ妻を救い出さなければならないので、酔うわけにはいかない」トミーは何も言わず、服部鷹の指示に従って手配を進めた。「俺が岸辺の見張りを片付ける。その間に、一部の人間を潜水させてこちらに送り込め。別の一部は俺の船に目くらましを仕掛け、時間差を作る。分からないことがあれば、俺の友人に聞いてくれ」服部鷹は話を終えると、小型船に乗り込み、自分の船に戻った。彼はセリノに電話をかけ、伝えた。「お前の条件を同意する。ただし、俺の妻には指一本触れるな」セリノは喜びのあまり、言葉が上手く出てこない様子だったが、最後に一言だけこう言った。「迎えに行くぞ!君の妻は俺がちゃんと面倒を見る!」服部鷹は電話を切り、小島午男にいくつか指示を出した。菊池海人は言った。「俺に言ってくれ。小島は高熱で、お前の指示を半分も覚えないだろう。俺