彼は微かに驚いて「なぜ知っている?」と言った。結婚生活が終わりに近づいて、何も言い訳する必要はない。私は率直に言った。「あの日、あなたとお爺さんがオフィスで話しているのを、私はドアの前で聞いていたの。その時、あなたは私に対して何の感情も持っていないと認めた事も聞いたわ。実は、この結婚は最初から最後まで間違っていたのでしょうね」「違うよ」彼は迫られたように否定し、眉をひそめて考えを巡らせ「俺が認めたのはその質問に対してじゃないよ。君は誤解している……」と説明した。今の私に言い争いをする必要なんてなかった。彼をじっと見つめながら、淡々と笑って言った。「それなら、私を愛したことはあるの?」「……」江川宏は一瞬驚いた。これは彼にとって酷な質問だったかもしれない。「南……」「説明する必要はないわ、私が可哀想に見えるでしょ」私は何事もない様子で笑って言った。「加藤伸二に私が渡した離婚協議書を持ってこさせて。将来、あなたは他の人と結婚するでしょう、ここに書いてある株の財産分与は適切ではないわ……」彼は突然力強い声を出し、真面目な顔つきではっきりと言い切った。「俺は結婚なんかしない」私のまつげがぴくりと震えた。「それは……あなたの問題でしょ。とにかく、この株は私が持つには妥当じゃないわ」私は自分がそんなに悟った人間じゃないということはよくわかっていた。長年愛した人なのだから、離婚したら、再会するのは不適切だろう。時間に任せるのは、過去の傷跡を消す事であって、古傷をえぐる事ではないはずだ。それに、江川アナがこの株のことを知りでもしたら、私は安心して日々を過ごせないだろう。関係を断つと決めたのなら、その後には何も起こらないようにキッパリと切ってしまわないと。「俺に関わることをそんなに恐れているのか?」江川宏は顔を沈め、腕時計をちらりと見て、薄い唇をギュッと引き締めた。「俺には残り5分しかない。署名したくないなら、次回にしないか」「今すぐ署名します」私は歯をギリッと噛み、素早く自分の名前を空いている箇所に署名した。手こずったとしても、必ず解決法は見つかるものだ。最優先させることはこの手続きを今すぐ終わらせることだ。窓口に戻ると、職員は他の書類をチェックし終え、離婚協議書を再び見返した。確認が終わり
「後悔するのがそんなに心配?」彼ははっきりしない声で「でも、俺は君が赤の他人扱いしてきそうで、それがもっと心配だな」と言った。周りはとても寒かったが、彼の抱擁は昔と変わらない温度でとても暖かく感じた。彼の言葉に私は驚き動揺した。ハッとした時には、彼はもう車のドアを開けてくれていた。私が乗った後、振り返らずに去っていった。雨のカーテン越しに、彼のスラリと高いその背中がびっしょり濡れているのが見えた。胸の中は何万匹もの蟻に食い荒らされてしまったかのように、空っぽになっていった。結婚というのはこんなにあっさりと終了してしまうものなのか。30分ほどの時間を空けておくだけでいい。役所に行って書類を提出し、署名するだけだ。1ヶ月後、再び時間を作って役所に行く。二人の考えが変わらなければ、婚姻証明書と形は同じの離婚証明書をもらえるのだ。今までの全てがこうしてバッサリと断ち切られてしまうのだった。かつて同じベッドで寝て、共に生きてきたことがまるで夢のようだ。もちろん、そうなる条件は江川宏が約束を破らなければ、という話なのだが。河崎来依の家に戻った時、私がドアを開けるよりも早く彼女がドアを開けた。「帰ってきたの?」「うん」私は軽く笑って、何事もなかったかのような態度をとった。彼女は私が家に入り、スリッパに履き替えるのを静かに見つめ、恐る恐る口を開いて言った。「江川宏からメッセージが来たの。あなたたちは……本当に離婚するんだよね?」「そうだね、もう申請したし、1ヶ月後に離婚の証明書を受け取る予定だよ」私はコートを脱ぎ、髪を頭の後ろに適当にまとめて、一つに結んだ。「彼からメッセージって、何を言ってきたの?」彼女はためらいながら口を開いた。「私にこの一ヶ月間あなたのことを任せたよって」「まさか私が飛び降りるとでも心配しているの?」私は自虐的に言った。「彼にあまり考えすぎるなって伝えて。私一人いなくなったところで、地球は変わらずに回り続けるわよ」「違うよ」河崎来依は否定し、眉間に皺を寄せて考えながら言った。「私はこの言葉に何か別の意味があるような気がする。彼は本気で離婚するつもりかしら? ただ今だけ一時的に対応してるだけなんじゃ。離婚の冷却期間中に一方が申請を取り下げれば離婚できなくなるから」「
土屋じいさんは焦った口調で「若奥様!早く戻ってきてください。お爺様が大変お怒りで、若様に殴りかかろうとしています。若奥様にしか止められません!」「何?」半分聞いたところで、私はすぐに立ち上がり、コートを手にかけて外に向かった。江川宏のことを心配しているわけではなかった。お爺さんには江川宏だけでなく、他にも孫がいるが、結局一番可愛がっているのは彼なのだ。手を出すとしても本気ではないし、命までとったりはもちろんしない。ただ、お爺さんの体を思うと、やはりあまり怒らせないほうが良かった。何か起きてからでは遅いのだ。やむを得ない限り、土屋じいさんもこんなに焦ったりはしない。土屋じいさんは言った。「戻ってきてみればわかります!」心の中でどう思っていても、江川家の邸宅に到着した時、私はたじろいでしまった。書斎に着くと、かつて風光明媚な姿だった江川宏が、今は地面に跪き叩かれていた。立てずにうずくまり、痛みで額に青筋が浮き出ていた。黒檀のテーブルの縁に手をかけて、なんとか倒れないでいた。さらに驚いたことに、そこにはアナの姿もあった。私は口を開こうと思っていたが、いつも私に親切に接してくれるお爺さんが土屋じいさんに厳しい目を向けた。「南に電話をかけたのはお前か?」「……はい」土屋じいさんはこう答えるしかなかった。「いつも自分で勝手にやりやがって!」お爺さんは怒り狂って叫んだ。「お前ら全員出て行け!」「お爺さん……」私はやはりお爺さんの体が心配で、諌めようと思った。お爺さんは手を左右に振って言った。「心配するな、私はこんなんじゃまだ死なん。外で待ってなさい」そう言われて。私は土屋じいさんと共にそこを離れるしかなかった。 後ろから、お爺さんの冷たい笑い声が聞こえてきた。「お前は本当にお前の母親と同じように察しが悪いやつだな、さっさと出て行け!」江川アナは優しい声で言った。「お爺さん、宏にこんなに当たって何の意味があるの?清水南が自分から離婚を言い出したのよ。それに、彼女には家をあげたんだから、十分すぎるくらいよ。宏はあなたの孫でしょ、南はただの他人よ」「黙ってろ!」お爺さんは怒り狂い、江川宏をにらみつけながら怒鳴りつけた。「これがお前の好きな女か?節操もなく、こせこせしているのは言うまでもなく、人の話すら
できるだけ江川宏との結婚生活を続けるなんてもう考えなかった。お爺さんのこの力強い言葉を聞いて、心が温かくなった。江川宏は唇を噛んで「私は南を裏切りましたが、彼女以外の女性と再婚するつもりはなかったんです」「考えたことがないだと?考えたこともないのに、南がどうしてお前と離婚することになったんだ?お前が彼女にあきらめさせたんじゃないのか?」とお爺さんは彼の言葉を一つも信じなかった。江川宏は黒檀の椅子を支えにしてゆっくりと立ち上がった。「本当に考えたことはありません。ただ、アナのことも放っておけないし、しかも今妊娠しているし」「お前は本当に博愛主義者だな!」お爺さんは湯飲みを彼に投げつけた。彼はそれを避けることはせず、正面から受け止めた。額にはすぐに血が滲み出た。しかし、表情は変わらず、真剣に言った。「私は温子叔母さんに約束しました。彼女をきちんと守ると」「では南はどうなる?会社での噂は広まってしまっているぞ。江川アナをお前のそばに呼び寄せて、みんなに南が他人の結婚の邪魔者をしていると思うようにさせた。どうやって彼女への責任を取るつもりだ?」「彼女は……アナよりも精神的に強く自立しています。簡単に周りから影響されることはなく、あんな謂れもない噂なんか気にしませんよ」思いもよらず、江川宏に褒められるとは。しかもこんな状況で。褒められて、胸が悲しみと苦しみで満たされた。私は生まれつき強く自立していたわけではない。かつては温室の花のように育ったこともある。のちに他の方法はなく、精いっぱい強く逞しい雑草になったのだ。今では、それが彼からの扱いで私がつらい思いをする原因になっていたとは。「南は幼い頃から親もなく、叔母の家に厄介になってきた。お前は彼女が叔母からどれだけ軽蔑の眼差しで見られてきたか分かるか?強くなり自立しなければ、誰かを当てになんかできなかったんだぞ?」お爺さんはため息をつき、孫が期待通りにならないのを悔やみながら問い詰めた「お前を頼るのか、しょっちゅう自分を傷つける夫をか?」江川宏の瞳が一瞬暗くなった。「彼女は、私にこのような話をしたことはないですから」「それはお前が彼女の話を聞けるような立場じゃないからだろう。自分の良心に問いかけてみろ、一日でも良い夫でいたことがあるのか」お爺さんは厳しく叱っ
私達は普段めったにこの部屋を使うことはなかった。しかし、使用人がきれいに掃除してくれていて、ほこり一つなかった。シーツカバー等も三日に一回交換しているようだった。ベッドの枕側にはウェディングフォトが飾られていた。レトロ調の写真で、腕の良いレタッチャーの技によって一切加工されたようには見えなかった。江川宏がベッドに座ると、私は再び手を引っ込めようしたが、彼は握りしめて眉をひそめた。「離婚はまだ完全に成立していないのに、薬さえ塗ってもらえないのか?」「……薬箱を取ってくるわ。じゃなきゃ何を塗れっていうのよ?」私は仕方なく妥協するしかなかった。そしてようやく彼は私の手を離した。「よろしくな」引き出しから救急箱を見つけ、消毒液と軟膏を取り出して彼の前に立った。額の傷は目を引くほど痛ましかった。私は少し頭を下げ、片手で彼の後頭部を支え、もう一方の手で血を拭き取った。お爺さんは手加減しなかったようで、血を拭き取ってもすぐ新しい血が滲んできた。私は見ているだけで痛くなった。「痛い?」「痛い、とても痛い」彼は私を見上げた。彼の瞳は黒曜石のように輝いていてまぶしかった。私は気が緩んで、傷口に息を吹きかけながら消毒してあげた。彼は満足そうに「これで痛くなくなるよ。ありがとう、こんな妻がいるっていいな」と言った。「私たちはもう離婚するでしょ……」「君といるのに慣れちゃったんだよ」彼は物寂しそうな表情で下を向き、長いまつ毛が垂れ下がった。その様子がどうも人畜無害な感じだった。私の心も少しズキッとした。「大丈夫、これからゆっくり変えていけばいいわ」いつかは必ず変わるから。私も慣れてしまったことがあった。毎晩寝ているときは寝返りを打つと彼の腰を抱きしめ、彼の腕の中で眠っていたのだ。しかし、ここ最近は寝返りを打っても抱きしめる相手はなく、夜中に目が覚めて長い間ぼんやりとしてからまた眠りに入っていた。多くの人々がこう言う。二人が別れることは難しいことではない。最も難しいのはお互いがいない生活に慣れることなのだと。空っぽになった家の中で声をかけても、それに応えてくれる人はもういないのだ。しかし幸いなことに、時間という痛み止めの薬が存在する。いつかはまたそれに慣れてしまうのだ。江川宏は黙っていたが、突然唇を動か
私は胸が苦しくなり切なさも感じた。全身が一瞬で言葉にできないほどつらくなった。これは私たちの結婚指輪だ。結婚の時、彼は気にも留めていなかったが、お爺さんはこの義理の孫娘には最高のものをくれたのだった。二千万の結納金、高額な新居、トップジュエリーデザイナーがデザインした特注の結婚指輪。のちに、結納金は育ててくれた叔母さんにあげた。新居も私が身を落ち着ける所ではなかった。私と一緒にいてくれたのは、たった一つのこの指輪だけだった。新婚当初、私は心から嬉しくてこの指輪を薬指にはめていた。江川宏は私が江川グループで働いていると知った後、すぐに私に控えめにするよう求めた。そして、その日のうちに薬指から外し、ネックレスにつけて首から下げていたのだ。それから三年間ずっと首にさげていた。かつて私を喜ばせてくれたものが、この時突然皮肉な存在になってしまった。私はこの指輪と同じく、江川宏にとっては公には出せない存在なのだ。私は自嘲する笑みを浮かべた。「ただ外すのを忘れてただけよ」確かに忘れていたのだ。もっと的確に言うなら、慣れてしまったのだ。一人でいる時や不安な時に、この指輪を触る習慣があった。————江川宏は私の夫だ。かつてはただ彼の事が好きだというだけで、たくさんの力がもらえるような気がしていた。彼は信じなかった。「ただ忘れてただけ?」「いる?今すぐ元の持ち主に返すわ」私は手を首の後ろに回し、ネックレスを外そうとした。少しずつ、彼にまつわる物を私から消していく。消すのが早ければ、その分忘れるのも早くなるはずだ。江川宏は冷ややかな顔つきになり、私の手首を掴んで動きを止め、強い口調で言った。「外すな、それは君のものだ」「これは結婚指輪ですよ。江川宏さん」私は口角を引っ張り、真剣に彼に念を押した。それと同時に自分にも念を押した。「今日外さなくても、一ヶ月後にはどのみち外すでしょう」江川宏は薬指にある指輪を親指で撫で、あまり見せない固執した瞳で言った。「じゃあ、もし俺がずっと外さなかったらどうする?」私は大きく息を吸って言った。「それはあなたの問題です」ともかく、彼のそのわずかな言葉で、私たちの結婚に希望があるなどと思いたくなかった。話が終わると、彼を振りほどき、身を翻して外に
私はクスリと笑って言った。「あなたみたいな人じゃなければいいわ」彼は少し傷ついた様子だった。「俺はお前の目にそんなに悪く映っているのか?」「まあまあよ。家庭内暴力や薬物、ギャンブルに比べれば、あなたのほうがずっとマシよ」「……清水南」彼の顔は怒りに満ち、何か言い出そうとした瞬間、誰かがドアをノックした。江川アナの美しい声が響いた。「宏、入ってもいい?」誰も返事をする前に、ドアがカチャッと音を立てて開かれた。「宏、私が塗ってあげるわ……」私に気づいた瞬間、彼女の声が途切れ、笑顔が硬直した。私は淡々と言った。「私、先に出るわ」「南」江川アナは和やかな口調で言った。「離婚したからには、それに相応しい態度でいなければダメよ。誤解しないでちょうだい。私はただ下心を持つ人に知られて評判が悪くなるんじゃないかって心配してるだけなの」「国ですら離婚の証明書を発行していないのに、ただの個人が私たちの離婚の宣告?」我慢できず、無関心に続けた。「私の評判がどんなに悪くなっても、あなたと肩を並べるほど悪くなったりしないわよ」この言葉を残して、私は大股で去っていった。部屋を出る前に、彼女が江川宏に不満そうに話しかけるのが聞こえた。「宏、彼女が言った言葉聞こえた!?」「誰がお前が入るのを許可したんだ?」予想外にも、江川宏から守ってもらえず、ただ冷たく問い詰められた。江川アナは納得していない。「あなたの部屋に入っちゃだめ?子供の頃は一緒に寝たこともあるじゃない!」……私は視線を下ろし、内心で離婚の申請を既にしていてよかったと喜んだ。彼らがイチャつくのを聞かないで、書斎の方に向かって行くと、ちょうど土屋じいさんが向こうからやってきた。「若奥様、そんなに焦っていかなくてもよろしいのでは?お爺様が会いたがっています」「わかりました」土屋じいさんが来なくても、私はお爺さんに会いに行くつもりでいた。お爺さんの顔色は、思っていたより悪くなさそうだった。私が入ってくるのを見て、お爺さんは手招きをし、親しげに言った「いい子だな、こちらにおいで」記憶にある限り、父は私をこう呼んでいた。目頭が熱くなり、近づいて座った。「お爺さん、どこか具合が悪いところはありませんか?」江川宏があそこまで滅多打ちにされ
お爺さんに見破られて、私はもう迷わないで頷いた。「はい」お爺さんは手を上げ、土屋じいさんに何かを取ってくるように合図した。それは黄ばんだ診察記録だった。私はそれを受け取って見てみると、誰かに心臓を握られたかのように苦しくなった。江川宏は子供の頃何年も心療内科に通っていた……私はぎこちなく顔を上げた。このことを信じたくなかった。あんなエリートが、心療内科の常連だったなんて。しばらくして私は我に返り、唇をかすかに上げた。「彼は、彼がどうして……」しかし、思い直してみると、確かにその思い当たる節があった。生まれてすぐ母を亡くし、父親は別の女性のために家庭をめちゃくちゃにし、連れ子だけを可愛がっていた。心理的な問題が出るなんてことは至って当たり前の事だ。「ここ数年、私も彼に教えるかどうかずっと迷っていたんだよ」お爺さんはため息をついて、大きく変化した目つきが鋭くなった。「でも、いつか彼はこのことを知ることになる。一生隠し通せるものじゃあないんだ」……私は複雑な気持ちで江川家の古い邸宅をあとにした。帰り道で右目がピクピク引きつっていた。私は普段このような事を信じなかった。しかし、今日は気が滅入ってうろたえていた。車がマンションの駐車場にさしかかった時、江川宏から電話がかかってきた!私はドキッとした。「もしもし……」「お爺さんが倒れた!今救急車がこちらに向かっている」「わ、私、今すぐ戻るわ……」私は雷に打たれたように、よたよたした話し方になってしまった。その時、江川宏の落ち着いた力強い声が私の心を落ち着かせた。「南、慌てなくていい、こちらではなく直接聖心病院に向かってくれ」「う、うん、わかったわ」私の頭はガンガンしていた。電話を切った後、車を管理人に駐車場に止めてもらうよう頼み、道路の端に立ち、タクシーを拾った。前回の経験から、この状況で運転する勇気がなかったのだ。病院に到着して車から降りた直後、救急車が私の横をサイレンを鳴らして通り過ぎた。————お爺さん。子供を気使い走ることができず、ただ救急車に追いつくために早足で歩いた。救急車は救急外来の前で停車し、すでに待機していた医師や看護師が一斉に駆け寄った。救急車から降ろされた人は、やはりお爺さんだった。80歳