西也は、若子があんなことを言ったのは追い詰められてのことだと理解していた。決して彼に悪意があったわけではない。彼は、若子が口にするその言葉が、最も傷つけているのは彼女自身だということを痛感していた。藤沢修の目はまるで血走ったように赤く、隠しきれないほどの怒りが滔々と溢れていたが、彼は突然笑い出した。「ははは。松本若子、自分を被害者に見せかけて、まるで俺が浮気してお前を傷つけたみたいにしてるが、結局お前はこいつとずっと前から付き合ってたんだな。それで俺の前で泣き言を言う資格なんてない!」そんな冷酷な言葉を浴びせられ、若子はまるで鋭い刃が胸に突き刺さるような痛みを感じ、息が詰まりそうだった。遠藤西也は怒りで頭が真っ白になった。藤沢修は本当に最低の男だ!彼は修を殴りつけたい気持ちを必死に抑えた。少なくとも、今ここで口論しても何も解決しないことがわかっていた。互いに感情が高ぶっているこの状況では、火に油を注ぐだけで、若子がさらに傷つくだけだ。西也はなんとか怒りを飲み込み、若子の手をそっと握りしめて、彼女を安心させようとした。若子は涙を拭い、かすかに笑みを浮かべながら言った。「私が泣いたり、みじめな姿を見たくないなら、私の前に現れなければいいでしょう。こんな夜中にわざわざ来て、何がしたいの?」「藤沢修、あなたが言ってることと、やってることは全然違う。本当におかしな人だわ!」若子はずっと、自分が世界で一番愚かな女だと思っていた。でも今わかった、藤沢修もまた世界で一番愚かな男だということを。彼ら二人は本当に愚か者同士だった。一体どうしてこんなにも噛み合わない二人が一緒になってしまったのだろう。まるで同じサイズの形をしたものでも、一方が正方形で、もう一方が円形のようで、どうやってもぴったりとはまらない。きっと縁結びの神が酔っ払って、間違えて結んだ赤い糸なんだ。無理やりつないだ二人を、今になってほどこうとしているのだ。三人の間に、重苦しい静寂が流れた。一秒一秒が、まるで永遠のように長く感じられた。藤沢修が再び口を開いたとき、その声はさっきまでのような激しい怒りとは異なり、冷静に聞こえた。彼は数歩後ろに下がり、車にゆったりと寄りかかりながら腕を組み、口元には微かな笑みが浮かんでいた。「若子、俺たち今まで何度も離婚し
若子は冷笑し、「そんなことして、桜井雅子に顔向けできるの?」と言い放った。「彼女は病院であなたが離婚するのを待っているのに、あなたは何度も約束してはそれを破る。そのたびに彼女の気持ちを考えたことがあるの?私と離婚しなければ、どうやって彼女と一緒になるつもり?」「心配するな。雅子のことはちゃんと片付けるさ」藤沢修は気にする素振りもなく、袖口をゆっくりと整えながら言った。「俺がたとえお前と離婚しなくても、雅子とは結婚式を挙げる。お前と俺の関係なんて形だけだ。お前が一人で家に引きこもっている間に、俺と雅子はいつも通りにやっていくさ」「藤沢修、あなたって本当に卑怯ね」遠藤西也は腹の底から怒りがこみ上げてきた。「若子にも、桜井雅子にも、それぞれを傷つけて、両方裏切ってるんだ。お前は本当に最低だ!」「そうだ、俺は最低なんだよ!」修は鋭い視線で冷笑し、「どうせもうこんな風になってしまったんだ、みんなで破れかぶれになればいいんだよ」と言い放った。彼は姿勢を正し、冷たく言い放つ。「松本若子、お前が俺と一緒に帰る気がないなら、ここにいればいい。明日も役所に行く必要はない。そのままお前とダラダラやり続けるだけだ。俺が外で何をしようが、お前には関係ない」修は長い指で車のドアを引き、車内に乗り込んだ。エンジンをかけずに、あたかも何かを待っているかのように。若子は足がふらつき、目の前がぐらつくように感じた。彼の言葉はまるで火山口に立たされているかのような苦痛を彼女に与えた。修の卑怯さは、彼女の予想をはるかに超えていた。彼がここまでやるとは思わなかった。笑えるのは、自分が以前は彼にも良い面があると思っていたことだ。だが今、彼のこの振る舞いの前では、かつて彼の良いところだと思っていたものが、すべて霞んでしまった。「若子」西也は彼女のそばに駆け寄り、ふらつく彼女の体を支えた。「部屋に戻って休んで。藤沢修が言うことなんて気にしないで。あいつはただお前を脅しているんだ」若子は鉄門をしっかりと掴んで手を離さなかった。修が離婚をちらつかせて脅しているのはわかっていた。もし彼と一緒に帰らなければ、明日離婚を取りやめるつもりだというのだ。彼女はもうこの結婚生活に疲れ果てていた。もう限界だった。もしこのまま続ければ、お腹の子供が無事でいられるかどうかもわからない。医
若子は一歩一歩、藤沢修のスポーツカーに向かって歩いていき、副座のドアを開けて座り込んだ。藤沢修は冷たく彼女を一瞥し、無表情なまま硬い目つきで彼女を見つめた。「シートベルトを締めろ」彼は冷たく命令した。以前なら、彼が自ら手を伸ばしてシートベルトを締めてくれることもあっただろう。しかし、今回はただの指示に過ぎなかった。二人の関係は、もう深い深い闇へと落ちていくしかなかったのだ。若子はぼんやりとシートベルトを締め、力なくシートに寄りかかり、後ろのミラーに映るあの姿を見つめた。彼女を心配しながら、夜の中に佇んでいる孤独な影。若子は痛みで目を閉じ、顔を横に向けた。遠藤西也は、そのスポーツカーが見えなくなるまで、じっとその場に立ち続けた。背後から足音が聞こえ、遠藤花が寝ぼけたように歩いてきた。彼女は乱れた髪を揉みながら、自分の兄に向けて不思議そうに声をかけた。「お兄ちゃん、こんなところで何してるの?何かあったの?」彼女はぐっすり眠っていたが、何か騒がしい音が聞こえたようで、起きて降りてくると、大きな鉄の門が開いていて、西也が門の外を遠く見つめていた。薄暗い中、門前の街灯だけがぼんやりと灯り、その明かりに照らされた西也の影は長く伸びていた。彼は重々しく息をつき、静かに家の中へと入っていった。遠藤花も後ろについていきながら尋ねた。「何があったの?ねぇ、何か言ってよ、お兄ちゃん」鉄の門が閉じられた後、西也はようやく口を開いた。「若子は家に帰った。さっき、旦那が迎えに来たんだ」「え?旦那さんがここに来たの?」西也の孤独な目を見て、まさか現場が浮気現場みたいな感じだったの?と一瞬思った。でも、若子は旦那と離婚するって言ってたはずじゃなかったの?これ、いったいどういうことなの?花はもっと早く起きて降りてくるべきだった。そうすれば、すべての様子をはっきりと見られたのに。若子の旦那がどんな人間なのか、花は見てみたかった。果たして、彼が自分の兄に勝てる相手なのか?西也はハンサムで金持ち、温厚で優雅、まさに紳士のような存在。こんな彼に勝てる男なんているのかしら?西也は何も言わず、ただ静かに家の中へと歩いていった。......若子と藤沢修は、帰り道ずっと何も話さなかった。家に着くと、修は車を降りて、副座のドアを開
若子は藤沢修の険しい表情を見て、まるで自分を階段から突き落とそうとしているように感じた。以前なら、藤沢修がそんなことをするとは到底思えなかっただろう。だが、今は状況が変わった。この男は何でもやりかねない、本当に彼女を階段から突き落とすかもしれない。彼が突然ここで立ち止まったのも、そんな考えがあってのことじゃないか。でなければ、なぜ立ち止まったのだろう。藤沢修はじっと彼女を見つめ、しばらくの間、何も言わなかった。暗く深いその瞳には、まるでどんな感情も映っていないかのようで、まるで暗く冷たい黒い海のようだった。若子は唾を飲み込み、心臓がドキドキと鳴り始めた。本当に少し怖くなってきた。視線をそっと階段の段差へ向けた。もしここから突き落とされたら、彼女の命は半分も残らないだろうし、お腹の子も守れない。藤沢修と比べて、彼女の体はあまりにか弱い。とても彼に太刀打ちできない。彼が本当に彼女を突き落とすつもりなら、小さなひよこを放り投げるように簡単にできてしまうだろう。子供を守りたいという本能が働き、若子はとっさに藤沢修の服を掴んで、必死にしがみついた。目には恐怖の色が浮かんでいる。「今夜はもう喧嘩しないで、お願い」彼女はぐっと堪えた。どれだけ腹が立っても、どれだけ心が痛んでも、明日離婚できるまで我慢しよう。離婚が成立したらすぐに出て行って、藤沢修から遠く離れ、二度と会わないで済むように。そんな風に心の中で思っていても、口には出せなかった。またもや彼を怒らせ、被害者ぶって彼女を責められたらたまらない。何しろ、彼はまるで天気のように気まぐれだ。ふと、ニュースで見た「妻を殺した夫」の話を思い出してしまう。他人を殺せば死刑だが、妻を殺した場合は......数年で済むことがあるらしい。若子の恐怖に満ちた目を見て、修は足元の階段に目をやり、何かを悟ったかのように言った。「お前、俺が突き落とそうとしてると思ってるのか?」時に藤沢修は、若子の心の中がまったく理解できない。この女は、彼にはまるで手に負えない謎のようだった。それが悔しくてたまらなかった。しかしまた、時に彼はまるで読心術でも使っているかのように、若子の心を見抜いてしまう。それもまた、彼を苛立たせた。若子はまた唾を飲み込んだが、返事をしなかった。だが修には、彼女の瞳に浮
彼の体力はもともと優れていて、若子は彼の腕の中で抱かれながら、逆に自分が疲れてきたように感じていた。それでも、男の顔には一切の疲れが見えなかった。しばらくして、藤沢修の視線は彼女の顔から離れ、無言のまま若子を抱えて部屋を後にした。彼は若子をそのまま寝室まで運び、ベッドに置いた。その動作は少し荒っぽかったが、ベッドが柔らかいおかげで、何の痛みも感じなかった。だが、その動作が彼の怒りを示していることは明白だった。修はまだスーツを着たままで、ネクタイはしていなかった。彼は胸元のボタンをいくつか外し、厚い胸板を見せながら、胸を上下させた。両手を腰に当て、冷たい目でベッドの上の彼女をじっと見つめた。何か言おうと口を開きかけたが、若子が怯えたように布団を抱きしめているのを見ると、修は歯を食いしばり、手を下ろして外套を苛立たしげに脱ぎ、それを床に投げ捨てた。若子は布団をしっかりと体に巻きつけ、まるで防御姿勢をとっているかのようだった。明日には離婚するというのに、修は彼女を二人がいつも寝ていた部屋に連れて戻った。まさか、今夜ここで一緒に過ごすつもりなのだろうか?もう最後の夜を一緒に過ごしたいなんて、煽情的なことは考えたくなかった。そんな「最後の夜」はもう何度もあったのだから。修は振り返って、ドアを「バンッ!」と勢いよく閉めて出て行った。その音に合わせて若子の心臓が大きく跳ね上がり、まるで何かに締め付けられたようだった。彼女は胸元に布団を抱きしめたまま、小さな体が震えていた。本来、彼女は遠藤西也の家でぐっすり眠れていたのに、修が突然彼女を連れ戻してしまったせいで、すっかり眠気が飛んでしまった。彼女はベッドの上で何度も寝返りを打ったが、なかなか眠れない。ふと、携帯を手に取って時間を見ようと思ったが、驚いたことに、携帯は西也の家に置き忘れてきたことに気づいた。いつの間にか、夜も更けていき、ようやく眠気が襲ってきた。若子はぼんやりと目を閉じ、ようやく眠りに落ちたかと思ったその時、突然ドアが開く音が響いた。その音はとても大きかった。若子は驚いて目を見開き、ベッドからぱっと起き上がった。こんなことが何度も続けば、心臓病にでもなりそうだ。部屋の灯りがつけられ、藤沢修が入ってきた。彼はまだ同じ服を着たまま、ベッドに向かって歩いてき
若子は慌てて体を横にずらし、彼との距離を取った。一瞬で警戒心が表情に現れ、「何するつもり?」と問い詰めた。「お前が休めって言ったんだろう?ここは俺の部屋、俺のベッドだ。俺が横になるのは当然だろう?」普段は端正で厳格な男が、まるで小さなチンピラのように、図々しく振る舞っていた。しかし、そのチンピラのような雰囲気が、彼にはどこか言いようのないセクシーさを添えていた。「あなた.......」若子は彼を罵りたい衝動に駆られたが、反論する理由が見つからなかった。確かに、ここは彼の家だ。明日離婚したら、彼女は出て行くつもりだ。「わかったわ。ここがあなたの部屋なら、あなたがここで寝ればいい。私は出て行く」彼女は客室に行って寝るつもりだった。どうせ「最後の夜」なんてどうでもよかった。藤沢修とここまでこじれた関係になったのだから、もう何も問題ではなかった。若子がベッドから降りようとした瞬間、手首が突然力強く掴まれた。振り返ると、修の大きな手が彼女の手首をがっちりと握っていた。彼女はその手を振りほどこうとしたが、彼の手の力はますます強くなった。若子は眉をひそめ、「何をするの?」と尋ねた。修は、この女が自分に近づくたび、必ず警戒した目で「何をするのか」と聞いてくるのがわかっていた。彼が何をするのか?彼は彼女の夫なのに、彼女のその態度はまるで彼が赤の他人であるかのようで、少しでも近づくと、彼女はまるで洪水や猛獣に遭遇したかのように構えてしまう。「俺はお前の夫だ。俺が何をしようと、全部当然のことだろう!」彼は突然若子の体を強く押してベッドに倒し、その上にのしかかった。大きな手で彼女の顎をぐいと掴み、その力がどんどん強まっていく。まるで彼女の骨を砕くように。「俺が本当にお前を食ってしまったら、それがどうしたって言うんだ?」彼は彼女の顎を離し、シャツのボタンをすべて外し、シャツを左右に開いた。彼の厚い胸が上下に大きく動き、若子はその心臓の鼓動が「ドクン、ドクン」とはっきり聞こえた。そして、その目には燃えるような熱が宿っていた。若子の心臓は激しく鼓動し、緊張でいっぱいだった。彼女は唾を飲み込み、怯えたように言った。「明日、私たち離婚するのよ。だから、そんなことは......」「そんなことは、何だって言うんだ?」修は彼女
若子は指先でその浅い傷をそっとなぞりながら、胸が締め付けられるような痛みを感じた。あの日、彼が何の躊躇もなく彼女を守ろうと突っ込んできた混乱の場面が、脳裏に鮮やかに蘇ってきた。藤沢修から受けた数々の傷が忘れられないのと同じように、彼の優しさもまた、どうしても忘れられなかった。こうした善意と悪意が入り混じった感情は、彼女にとって耐え難いほどの苦しみだった。もし彼女が単純に彼の良い面だけを覚えていられたなら、あるいは悪い面だけを記憶して、極端に怒り狂うことができたなら、どれだけ楽だっただろう。けれど、若子はそうもいかない。単純な感情にも、極端な怒りにもなりきれない。彼女はその中間にいて、修の良いところも悪いところも、すべて覚えている。だからこそ、心が時折左に傾き、時折右に揺れ動く。結局、傷つくのは自分自身だけだった。修は彼女の手を掴み、若子の瞳に浮かぶ悲しみを見た瞬間、心臓が強く締め付けられるような痛みを感じた。まるで息が詰まるような、絶望的な感覚。そう、絶望だ。彼はじっくりと考えて、ようやくそれが絶望だと気付いた。どうして自分がそんな気持ちを抱いているのか、自分でもわからなかった。彼女の悲しげな目に引き込まれるようで、体も心も、その奥に落ちていくようだった。この女の目は何を訴えているのか?彼女は自分を愛していないのではなかったのか?自分との結婚生活に満足せず、もううんざりだと言っていたのではないのか?それなのに、どうして今こんなに名残惜しそうに、自分を見つめているのか。それに、彼女は遠藤西也ととっくに知り合いで、二人はもう関係を持っていると自ら認めたのではなかったのか。笑えるのは、彼が一瞬、自分を慰めて「若子はただの怒りで言っただけだ」と考えたことだ。しかし、彼女は実際に西也の家に泊まっていたのだ。もしかすると、二人はもう関係を持ったのかもしれない。そんな考えが頭をよぎった瞬間、藤沢修はまるで荒れ狂う獅子のように、目に怒りの炎が燃え上がった。彼は突然若子の唇を激しく奪った。まるで何かを発散するように、そこには少しの優しさもなかった。若子は目を閉じた。唇が痺れ、鼻の下が麻痺していくのを感じながら、両手で彼の肩を押し返そうとした。彼女の抵抗を感じ取ると、修は彼女の両手を掴み、そのまま頭の上に押
ただ、若子には理解できなかった。どうして藤沢修は今さらそんなことを尋ねるのだろうか。彼女がそんなふうに思ったところで、彼にとって何の意味があるというのだろう?彼だって、彼女に対して誤解を抱いたことがあった。彼女を悪女だと思い、冷酷で毒を持った女だと考えたのではないか。「はっ」藤沢修は突然笑い出したが、その笑みはどこか皮肉に満ちていた。「そうだな、俺はお前を突き落として、粉々にしてやりたいと思ってたんだ」彼がそう言うのなら、もう何も言い返す必要はなかった。彼らの間にあるものは、もはや言葉だけで埋められる溝ではなかった。離婚すれば、それで全て終わるだろう。この切っても切れないようなもつれは、もう二度と彼女の人生に絡みついてくることはない。彼女は修の怒りに立ち向かう気力がなかった。だから、せめて逃げるしかない。若子は身を翻し、横向きに寝転び、指を噛みしめた。大粒の涙がぽたぽたとシーツに落ちていった。......翌日。今日は二人の離婚の日だった。二人は早めに起きて、無言のまま一緒に朝食を取った。二人ともとても静かだった。まるで、これが最後の朝食であることを自覚しているかのようで、言い争うこともなく、何の感情もぶつけ合わなかった。ただ、どこかよそよそしく感じられた。まるで夫婦ではなく、ホテルのビュッフェで同じテーブルに座る見知らぬ他人のようで、お互いに言葉を交わすこともなく、ただ静かに食事を済ませた。食事が終わると、藤沢修は横にいるスタッフに向かって言った。「書類を持ってこい」その場に離婚協議書が若子の前に置かれた。「これは離婚協議書だ。まずはこれにサインしろ」藤沢修は淡々とした口調で言った。若子はためらうことなくペンを取り、書類の最後の部分に自分の名前を署名した。内容には目も通さなかった。彼女はお金なんて気にしていなかった。そもそも、彼女は藤沢家に何も持たずに嫁いだし、ずっと藤沢家の支えを受けていた。お金もたくさんかけてもらった。公正に言えば、藤沢家は彼女に何も借りていなかった。修から受けた心の傷は、二人の感情の問題であり、藤沢家とは関係がない。それは、彼ら夫婦が感情を上手く処理できなかった結果に過ぎない。離婚協議書にサインを終えた後、修と若子は一緒にその場を後にした。彼は自ら運転して市役所へ向かい
「子ども」この言葉を聞いた瞬間、若子は眉をひそめた。 「......どうして知ってるの?」 ヴィンセントは立ち上がり、冷蔵庫を開けてビールを一本取り出し、のんびりと答えた。 「妊娠してから他の男と結婚して、子どもが生まれてまだ三か月ちょっと。ってことは、離婚を切り出された時点で、すでに妊娠してたわけだ。でも、子どもは今の旦那の元にいる。ってことは、可能性は二つしかない。 ひとつは、元旦那が子どもの存在を知ってて、それでもいらなかった。 もうひとつは、そもそも子どもの存在を知らない。君が教えたくなかったんだろう。俺は後者だと思うね。だって、あいつはクズだ。そんな奴に父親なんて務まらない」 若子は鼻の奥がツンとして、喉に痛みを感じながらかすれた声を出した。 「......彼はそんなに悪い人じゃない。あなたが思ってるような人じゃないの」 「どんなやつかなんて関係ない。ただ、浮気者のクズって一面があるのは否定できないだろ」 「ヴィンセントさん、人間は完璧じゃないの。もう彼の話はやめて。私たちは幼い頃から一緒に育ったの。だから......どうしても憎めないの」 「わかったよ」ヴィンセントはソファに戻って腰を下ろした。 「そいつがここまでクズになったのは、君が甘やかしたせいだな」 「やめてってば」若子は少し苛立ったように言った。 「いい加減にして」 そして、ソファの上のクッションを手に取り、彼に向かって投げつけた。 ヴィンセントはその様子を見て、少し嬉しそうにしていた。 彼はクッションを横に置きながら言った。 「わかった、もう言わないよ」 そして、新しいビール缶を開けて、若子に差し出した。 若子は気分もモヤモヤしていたので、それを受け取り一口飲んだ。 普段あまりお酒は飲まないが、ビールならまだ飲める。 けれど、彼に締められた首がまだ痛くて、その一口で喉が強く痛んだ。 すぐにビールを置き、喉に手をやる。 顔をしかめるほどの痛みだった。 それを見たヴィンセントはすぐに彼女のそばに来て、体を向けさせ、あごを軽く持ち上げた。 「見せて」 若子の首は腫れていた。 もう少しで折ってしまうところだった。 「腫れ止めの薬を取ってくる」 立ち上がろうとしたヴィンセントを、若子は腕を
ニュースキャスター:「今回の件は、社会的にも大きな話題を呼んでいます。この富豪と謎の女性の関係はまだ正式には確認されていないものの、ふたりの行動は世間の注目の的となっています。今後も続報をお届けしますので、どうぞご注目ください」 (画面が徐々にフェードアウトし、バックミュージックが流れ始める) 若子は言葉を失った。 ニュースを見終わった彼女の心は、重くて複雑だった。 目元は自然と潤み、瞳の奥には様々な感情が混ざり合っていた。 心に走った衝撃で、体が小さく震える。 まるで冷たい風が胸を吹き抜けたようだった。 まさか、こんな形で再びふたりの姿を見ることになるなんて― 画面の中、修と侑子は、ときに手をつなぎ、ときに情熱的に抱き合っていた。 修は公衆の面前で、彼女にキスをしていた。 侑子がかじったアイスクリームを、そのまま彼が口にした。まるで何の抵抗もなく。 修は彼女の髪を優しく撫で、額や唇にキスを落としていた。 かつて若子と修の間にあったはずの親密さは、すべて侑子のものになっていた。 ふたりの親しげな様子に、道行く人たちも思わず足を止めて見入っていた。 修の整った顔立ちは、アメリカでも目立つほどで、外国人の目から見ても、その顔立ちにはどこかエキゾチックな魅力がある。 修は周囲の目をまるで気にせず、写真を撮られても意に介していない様子だった。 ―どうやら、山田さんは本当に、彼の大切な人になったようだ。 若子の顔には無力な苦笑が浮かび、指先がかすかに震える。 突然、胸が強く締めつけられるような感覚に襲われ、息苦しさすら感じた。 彼女は胸を押さえ、頬を伝う涙を静かにぬぐった。 それでも、涙は止まらなかった。 胸が締めつけられるように痛む。 まるで、暗闇に落ちたかのようだった。 ―どうして、こんなにも痛いの? ―どうして、なの? これでいいはずなのに。 修は新しい幸せを見つけた。 桜井さんのあとには山田さん。 自分は、もう要らない存在だった。 修って本当に優しい人。 どの女の人にも、同じように優しい。 でも― 今、彼は確かに私を傷つけた。 ヴィンセントは若子の様子をじっと見つめ、目を細めた。 視線の奥に、疑念がよぎる。 「テレビに出てたあの男
今回はちゃんと学んだから、きっともう次はない。 ヴィンセントはソファの横にやって来て座った。 彼の傷はまだ完全には治っておらず、動くたびに少し痛むようだった。 リモコンを手に取りながら聞いた。 「何見たい?」 若子は答えた。 「なんでもいいよ」 ヴィンセントはチャンネルを変えた。画面には恋愛ドラマが映っていた。 内容は少しドロドロしていた。 男主人公が愛人のために妻と離婚。 傷ついた妻は、別の男の胸に飛び込む。 そして、元の男は後悔してヨリを戻そうとする。 数分見ているうちに、若子はどこか見覚えのある感じがしてきた。 なんだか、自分の経験に似ている気がする。 やっぱり、ドラマって現実を元にしてるんだ。 というか、現実のほうがよっぽどドロドロしてる。 誰だって、掘り下げればドラマみたいな人生を持ってる。 若子はつい見入ってしまった。 画面の中、ヒロインが男主人公と浮気相手がベッドにいるのを目撃する。 そのあと、ヒロインは別の男の胸で泣きながら―そのまま、ふたりもベッドイン。 ......ほんとにやっちゃった。 若子は思わず息をのんだ。 アメリカのドラマって、本当にすごい。大胆で開けっぴろげ。 その映像は若子にとってはかなり刺激が強くて、気まずくなり、すぐに顔をそむけた。 「チャンネル変えて」 これがひとりで観てるならまだしも、隣にはあまり親しくない男が座っている。 男女ふたり、リビングでこういうシーンを観るのは、どうにも居心地が悪い。 このレベルの描写、国内じゃ絶対放送できない。 「なんで?面白いじゃない。ヒロインはあんなクズ男なんか捨てて正解だ」 「もう捨てたじゃない。だから、もう観る意味ないよ」若子はぼそっと言った。 「それはどうかな、このあと、彼女がどんな男と関係持つのか、気になるし。ほら、スタイルもいいしな」 ヴィンセントは足を組み、ソファにもたれかかって気だるげな様子だった。 視線の端で、なんとなく若子をちらりと見る。 若子の顔が赤くなった。 まさか、ドラマを見て顔を赤らめるなんて、自分でも驚いた。こんなに恥ずかしがり屋だったとは。 ヴィンセントはそれ以上からかうこともなく、チャンネルを適当に変えてニュース番組にした。
たしかに、彼はひどいことをした。 けれど、彼は子どもじゃない。 強くて大きな体の男―それなのに今の彼は、まるで迷子になった子どものように戸惑っていて、どこか滑稽でもあった。 若子はソファから立ち上がり、服を整えてダイニングへ向かった。 テーブルに着こうとしたそのとき。 「待って」 ヴィンセントが自ら椅子を引いた。 「座って」 そして彼はナプキンを丁寧に広げて手渡し、飲み物まで注いだ。 若子は疑わしげに彼を見つめた。 「何してるの?」 「......ごはん」 ヴィンセントはそう答えると、自分も向かいの席に腰を下ろした。 その視線はどこか落ち着かず、若子の目を避けていた。 若子が作ったのは中華料理。ヴィンセントはそれが気に入っていて、毎回それをリクエストしてくる。 彼は箸を取り、料理を少し取って若子の茶碗に入れた。 「たくさん食べろ」 若子は気づいた。 これが彼なりの謝罪なのだと。 椅子を引いて、ナプキンを渡して、飲み物を注ぎ、料理まで取り分けてくる。 ―不器用だけど、ちゃんと伝わってくる。 若子は箸を置いて言った。 「『ごめん』って一言でいいの。そんなに気を遣わなくていい」 慣れていないのもあるし、そもそも怒っていなかった。 彼は故意じゃない。悲しさと恐怖が滲んでいた。 特に、「マツ」と呼んだあのとき。 ヴィンセントはうつむいたまま何も言わず、黙って食事を続けた。 若子は小さくため息をついた。 本当に、不器用な人だ。 二人は黙って食事を終えた。 若子が立ち上がり、食器を片付けようとしたとき― ヴィンセントが先に動いた。 「私が......」 若子が皿を取ろうとするが、彼は一歩早くすべての皿を水槽に運んだ。 「俺が洗う。君は座ってろ」 若子は彼のあまりの熱心さに、それ以上は何も言わなかった。 皿洗いを一度サボれるのも悪くない。 彼女は振り返ってリビングのソファに戻り、腰を下ろす。 テーブルの上にはヴィンセントのスマホが置かれていて、若子は手に取って画面を確認した。 ―ロックがかかっている。 西也に無事を伝えたかった。 でも、自分のスマホはもう充電が切れていた。 しかも、この家には合う充電器がない。 ヴ
次の瞬間、ヴィンセントは猛獣のように若子に飛びかかり、彼女をソファに押し倒した。 彼の手が彼女の柔らかな首をぎゅっと締めつける。 若子は驚愕に目を見開き、突然の行動に心臓が激しく跳ねた。まるで怯えた小鹿のような表情だった。 彼の圧に押され、体は力なく、抵抗できなかった。 叫ぼうとしても、首を絞められて声が出ない。 「はな......っ、うっ......」 彼女の両手はヴィンセントの胸を必死に叩いた。 呼吸が、少しずつ奪われていく。 若子の目には絶望と無力が浮かび、全身の力を振り絞っても彼の手から逃れられない。 そのとき、ヴィンセントの視界が急速にクリアになった。 目の前の女性をはっきりと見た瞬間、彼は恐れに駆られたように手を離した。 胸の奥に、押し寄せるような罪悪感が溢れ出す。 「......君、か」 彼の瞳に後悔がにじむ。 そして突然、若子を抱きしめ、後頭部に大きな手を添えてぎゅっと引き寄せた。 「ごめん、ごめん......マツ、ごめん。痛かったか......?」 若子の首はまだ痛んでいた。何か言おうとしても、声が出ない。 そんな彼女の顔をヴィンセントは両手で包み込んだ。 「ごめん......マツ......俺......俺、理性を失ってた......本当に、ごめん......」 彼の悲しげな目を見て、若子の中の恐怖は少しずつ消えていった。 彼女はそっとヴィンセントの背中を撫でながら、かすれた声で言った。 「......だい、じょうぶ......」 さっきのは、たぶん......反射的な反応だった。わざとじゃない。 彼は幻覚に陥りやすく、いつも彼女を「マツ」と呼ぶ。 ―マツって、誰なんだろう? でも、きっと彼にとって、とても大切な人なのだろう。 耳元ではまだ、彼の震える声が止まらなかった。 「マツ......」 若子はそっとヴィンセントの肩を押しながら言った。 「ヴィンセントさん、私はマツじゃない。私は松本若子。離して」 震えていた男はその言葉を聞いた瞬間、ぱっと目を見開いた。 混濁していた意識が、徐々に明晰になっていく。 彼はゆっくりと若子を離し、目の前の顔をしっかりと見つめた。 そしてまるで感電したかのようにソファから飛び退き、数
しばらくして、若子はようやく正気を取り戻し、自分が彼を抱きしめていることに気づいて、慌てて手を放し、髪を整えた。少し気まずそうだ。 さっきは怖さで混乱していて、彼を助けの綱のように思ってしまったのだ。 若子は振り返ってあの扉を指差した。 「下から変な音がして、ちょっと気になって見に行こうと思ったの。何か動きがあったみたい。あなた、見に行かない?」 ヴィンセントは気にも留めずに言った。 「下には雑多なもんが積んである。時々落ちたりして音がするのは普通だ」 「雑多なもんが落ちたって?」若子は少し納得がいかないようだった。彼女はもう一度あの扉を見やる。 「でも、そんな感じには思えなかったよ。やっぱり、あなたが見に行ったほうがいいんじゃない?」 「行きたきゃ君が行け。俺は行かない」 ヴィンセントは素っ気なくその場を離れた。 彼が行かないと決めた以上、若子も無理には行けなかった。 この家は彼の家だし、彼がそう言うなら、それ以上言えることもない。 たぶん、本当に自分の勘違いだったのかもしれない。 それでも、今もなお胸の奥には恐怖の余韻が残っている。 さっきのあの状況は、本当にホラー映画のようで、現実とは思えなかった。 たぶん、自分で自分を怖がらせただけ...... 人間って、ときどきそういうことがある。 「何ボーっとしてんだ?腹減った。晩メシ作れ」 ヴィンセントはそう言いながら冷蔵庫からビールを取り出し、ソファに座ってテレビを見始めた。 若子は深呼吸を何度か繰り返し、気持ちを落ち着けてからキッチンに入った。 広くて明るいキッチンに立っていると、それだけで少し安心できた。 さっきの恐怖も、徐々に薄れていく。 彼女は冷蔵庫を開けて食材を選び、野菜を洗って、切り始めた。 しばらくすると鍋からは湯気が立ち上り、部屋には料理のいい香りが漂いはじめた。 彼女は手際よく、色も香りも味もそろった食材をフライパンで炒めていた。 まるで料理そのものに、独特な魔法がかかっているかのようだった。 ヴィンセントは居心地のいいリビングで、テレビの画面を目に映しながら、ビールを飲んでいた。 テレビを見つつ、時おりそっと顔を横に向け、キッチンの方を盗み見る。 その視線には、かすかな優しさがにじんでい
―全部、俺のせいだ。 修の胸の奥に、激しい後悔と自己嫌悪が渦巻いていた。 すべて、自分のせい。 あの時、追いかけるべきだった。 彼女を、一人で帰らせるべきじゃなかった。 夜の暗闇の中、わざわざ自分に会いに来てくれたのに― それなのに、どうしてあの時、あんな態度を取ってしまったのか。 ほんの一瞬の判断ミスが、取り返しのつかない結果を生んだ。 ガシャン― 修はその場に崩れ落ちるように、廃車となった車の前で膝をついた。 「......ごめん、若子......ごめん......全部、俺のせいだ......俺が最低だ......」 肩を震わせながら、何度も地面に額を擦りつける。 守れなかった。 自分のくだらないプライドのせいで、嘘をついて、彼女を傷つけた。 他の女のために、また彼女をひとりにした。 ようやく気づいた。 若子がなぜ、自分を嫌いになったのか。 なぜ、許してくれなかったのか― 当たり前だ。 自分は、彼女にとっての「最低」だった。 何度も彼女を傷つけ、何度も彼女を捨てた。 最初は雅子のため、そして今度は侑子のため― ―自分には、彼女を愛する資格なんてない。 最初から、ずっと。 もし本当に、彼女がもういないのだとしたら― 自分も、生きている意味なんてない。 ...... 気づけば、空はすっかり暗くなっていた。 若子は、ヴィンセントが部屋で何をしているのか知らなかった。ドアは閉まったままで、中に声をかけるわけにもいかない。 「とりあえず、晩ごはんでも作ろうかな......」 そう思ってキッチンへ向かおうとした瞬間― バン、バンッ。 突然、何かが叩かれるような音が聞こえた。 「......外?」 窓際に寄って外を覗いてみると、外は静まり返っていて、人の気配なんてまるでない。 「......気のせい?」 肩をすくめてキッチンに戻ろうとした―そのとき。 また、バンバンと続けて音が鳴った。 しかも今度はずっと続いていて、かすかな音だったけれど、確かに耳に届いた。 「......え?」 耳を澄ませると、その音は―下から聞こえてくる。 若子はおそるおそるしゃがみ込み、耳を床に当てた。 バンバンバン! ―間違いない。
光莉は布団をめくり、ベッドから降りると、手早く服を一枚一枚着はじめた。 「なぁ、どこ行くんだよ?」高峯が問いかける。 「あんたと揉めてる暇なんかないわ」 光莉の声は冷たかった。 「遠藤高峯、もしあんたに脅されてなかったら、私は絶対にあんたなんかに触れさせなかった。自分がどれだけ最低なことしてるか、よくわかってるでしょ?手を汚すことなく、みんなを苦しめて、自分は後ろで高みの見物。ほんと、陰険にもほどがある。西也なんて、あんたにとってはただの道具。息子だなんて、思ってもいないくせに!」 服を着終えた光莉はバッグをつかみ、部屋を出ようとする。 「光莉」 高峯の声には重みがあった。 「西也は俺たちの子どもだ。これは変えようのない事実だ。俺は今でもお前を愛してる。ここまで譲歩したんだ。藤沢と離婚しなくてもいい、たまに俺に会ってくれるだけで、それでいい......それ以上、何を望んでるんだ?」 光莉は振り返り、怒りをあらわに叫んだ。 「何が望んでるかって?言ってやるわ!私は、あんたなんかを二度と顔も見たくないの!私は必ず、あんたから自由になる。見てなさい、きっと、誰かがあんたを止める日が来るわ!」 ドンッ― ドアが激しく閉まる音を残して、光莉は出ていった。 部屋に残された高峯は、鼻で笑い、冷たい目を細めた。 その目には狂気じみた光が宿っていた。 枕をつかんで、床に叩きつける。 「光莉......おまえが俺から逃げようなんて、ありえない。俺が欲しいものは、必ず手に入れる。取り戻したいものは、絶対に取り戻す。それが無理なら―いっそ、壊してやる」 ...... 夜の帳が降り、河辺には重苦しい静けさが漂っていた。 川の水は静かに流れ、鏡のように空を映していた。 星がかすかに輝いているが、分厚い雲に覆われていて、その光は弱々しく、周囲の風景はぼんやりとしか見えない。 岸辺には、年季の入ったコンテナや倉庫が並んでいる。朽ちかけたその姿は、時間の流れと共に朽ち果てていく遺物のようだった。 沈んだ空気の中で、川面に漂う冷たい風が、肌をかすめていく。 修は黒服の男たちと共に川辺に立ち尽くしていた。 彼の視線の先には、川から引き上げられた一台の車。 車体は見るも無惨。 側面には無数の弾痕が刻まれ
しばらく沈黙が続いたあと、光莉はようやく口を開いた。 「修......どうなっても、もうここまで来てしまったのよ。あんたなら、どうすれば自分にとって一番いいのか分かってるはず。山田さんは、とても素敵な子よ。もし彼女と一緒になれたら、それは決して悪いことじゃないわ。おばあさんもきっと喜ぶわよ。彼女は、若子の代わりになれる。だから、若子のことはもう手放しなさい。もう、執着するのはやめて」 「黙れ!!」 修が突然怒鳴った。 「『俺のため』って言い訳しながら、若子を諦めろなんて......そういうの、もう聞き飽きたんだよ!」 その叫びは、激情に満ちていた。 「本当に俺の母親なのかよ?最近のお前、まるで遠藤の母親みたいだな。毎回そいつの味方みたいなことばっか言いやがって......『西也』って呼び方も、やけに親しげだな。お前、あいつに何を吹き込まれた?」 修は、最初から母親が味方になることなんて期待していなかった。 でも―せめて中立ではあってほしかった。 だが今は、まるで若子じゃなく、何の関係もない西也の味方をしているようにしか見えなかった。 なぜ母親がそうするのか、どれだけ考えても分からなかった。 その叫びに、光莉の心臓が小さく震えた。 「......修、ごめんなさい。そんなつもりじゃないの。私はあんたの母親よ。もちろん、あんたのことが一番大切に決まってる。全部......あんたのためを思って―」 「もう黙れ!!」 修の声は怒りに震えていた。 「『俺のため』とか言わないでくれ......お願いだから、もう関わらないでくれ。俺に関わらないでくれよ!」 そのまま、修は電話を切った。 ガシャン― 次の瞬間、彼はそのスマホを壁に叩きつけた。 画面は一瞬で粉々に砕け散った。 横にいた外国人スタッフは、ぴしっと背筋を伸ばし、無言のまま固まっていた。 病室には、まるで世界が止まったような静寂が訪れた。 やがて、外国人が英語で口を開いた。 「何を話していたかは分からないが、ちゃんと休んだほうがいいよ」 その時、彼のポケットの中で着信音が鳴る。 スマホを取り出して通話に出る。 「......はい。分かった」 通話を終えると、修の方へと向き直る。 「藤沢さん、松本さんの車が見つかった