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去りゆく私に、もう未練はない

去りゆく私に、もう未練はない

By:  名無千夜Completed
Language: Japanese
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「院長、私は病院の派遣に応じることにしました。半月後にメキシコへ行きます」 江口優奈(えぐち ゆうな)はオフィスの窓辺に立ち、一枚の妊娠検査結果を掴んでいた。 電話の向こうから、院長の声が聞こえてきた。「どうして急に考えを変えた?何年も説得してきたのに」 優奈は微笑んだ。「ただ、ちょっと環境を変えてみるのも悪くないかなって思っただけです。今忙しいので、これで失礼しますね」 悔しさを歯噛みして飲み込んで電話を切り、優奈は再び手元の妊娠検査結果に目を落とした。

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第1話

「院長、私は病院の派遣に応じることにしました。半月後にメキシコへ行きます」江口優奈(えぐち ゆうな)はオフィスの窓辺に立ち、一枚の妊娠検査結果を掴んでいた。電話の向こうから、院長の声が聞こえてきた。「どうして急に考えを変えた?何年も説得してきたのに」優奈は微笑んだ。「ただ、ちょっと環境を変えてみるのも悪くないかなって思っただけです。今忙しいので、これで失礼しますね」悔しさを歯噛みして飲み込んで電話を切り、優奈は再び手元の妊娠検査結果に目を落とした。彼女はもともと優秀な産婦人科医で、何度も受賞歴のあるエリートだった。本来なら、将来は明るく開けていたはず。けれど、それよりも高橋誠(たかはし まこと)と一緒にいたくて、優奈は小さな病院の一医師に甘んじる道を選んだ。三年前から院長は海外派遣を打診していた。帰国すれば昇進は確実だったが、誠と遠距離になるのが嫌で、ずっと断り続けてきた。それが崩れたのは30分前、誠の秘書が妊娠検査のため診察室に現れた瞬間……いや、正確には「妊娠を確認するため」ではなく、「彼の女であることを見せつけるため」に来たのだ。誠は、優奈を骨の髄まで溺愛していた。彼女が望むものと言えば、たとえ天の月さえも取り寄せようとするほどの盲目の愛情を注いでいたのだ。二人の関係は、ビジネス界でも有名だった。誰もが知っている。高橋氏総裁が無一文からのし上がれたのは、江口優奈が支えたからだと。ずっと傍にいて、彼を支え続けてきたからだと。だからこそ、人々が言っている「魚を得て筌を捨てる」という言葉は、必ずしも真実ではないだろう。優奈も、誠とは生涯を共にするものだと思っていた。幼い頃に両親を亡くし、ずっと一人で生きてきた彼女にとって、誠の愛と庇護は、心の拠り所だったのだから。しかし最近は全てが変わってしまった。一ヶ月前から、誠はやたらと忙しくなった。二人が会う時間もどんどん減っていった。優奈は、新しいプロジェクトに取り組んでいるのだと思い、健気にも彼を気遣っていた。どんなに疲れていても、手料理を用意して待つほどに。だが、今日になって初めて知った。誠が忙しかったのは、仕事ではなく、女だったのだと。佐藤雪乃(さとう ゆきの)は、優奈に言った。「私たちは、一年前から付き合っています」ちょうど雪乃が、新卒で高橋氏に入社...

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27 Chapters
第1話
「院長、私は病院の派遣に応じることにしました。半月後にメキシコへ行きます」江口優奈(えぐち ゆうな)はオフィスの窓辺に立ち、一枚の妊娠検査結果を掴んでいた。電話の向こうから、院長の声が聞こえてきた。「どうして急に考えを変えた?何年も説得してきたのに」優奈は微笑んだ。「ただ、ちょっと環境を変えてみるのも悪くないかなって思っただけです。今忙しいので、これで失礼しますね」悔しさを歯噛みして飲み込んで電話を切り、優奈は再び手元の妊娠検査結果に目を落とした。彼女はもともと優秀な産婦人科医で、何度も受賞歴のあるエリートだった。本来なら、将来は明るく開けていたはず。けれど、それよりも高橋誠(たかはし まこと)と一緒にいたくて、優奈は小さな病院の一医師に甘んじる道を選んだ。三年前から院長は海外派遣を打診していた。帰国すれば昇進は確実だったが、誠と遠距離になるのが嫌で、ずっと断り続けてきた。それが崩れたのは30分前、誠の秘書が妊娠検査のため診察室に現れた瞬間……いや、正確には「妊娠を確認するため」ではなく、「彼の女であることを見せつけるため」に来たのだ。誠は、優奈を骨の髄まで溺愛していた。彼女が望むものと言えば、たとえ天の月さえも取り寄せようとするほどの盲目の愛情を注いでいたのだ。二人の関係は、ビジネス界でも有名だった。誰もが知っている。高橋氏総裁が無一文からのし上がれたのは、江口優奈が支えたからだと。ずっと傍にいて、彼を支え続けてきたからだと。だからこそ、人々が言っている「魚を得て筌を捨てる」という言葉は、必ずしも真実ではないだろう。優奈も、誠とは生涯を共にするものだと思っていた。幼い頃に両親を亡くし、ずっと一人で生きてきた彼女にとって、誠の愛と庇護は、心の拠り所だったのだから。しかし最近は全てが変わってしまった。一ヶ月前から、誠はやたらと忙しくなった。二人が会う時間もどんどん減っていった。優奈は、新しいプロジェクトに取り組んでいるのだと思い、健気にも彼を気遣っていた。どんなに疲れていても、手料理を用意して待つほどに。だが、今日になって初めて知った。誠が忙しかったのは、仕事ではなく、女だったのだと。佐藤雪乃(さとう ゆきの)は、優奈に言った。「私たちは、一年前から付き合っています」ちょうど雪乃が、新卒で高橋氏に入社
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第2話
車に戻ると、誠は優奈の様子がどこかおかしいことに気づき、そっと手を握りながら尋ねた。「どうした?また患者さんのために気分が沈んだのか?」優奈は感受性が強く、ときどき診察した患者のことで心を痛めることがあった。「うん……」と、小さく返事をし、誠を見つめながら続けた。「今日、妊娠検査に来た女性を診たんだけど……あとで彼女が愛人だって知ったの」「ねえ、人ってどうして浮気するんだろう?まさか、外の尻軽女でも誘惑になるわけ?」優奈の問いに、誠の瞳に一瞬の動揺が走ったが、すぐに何事もなかったように微笑み、彼女を優しく抱き寄せた。「君は本当に感受性が豊かだな。いつも他人の気持ちまで背負い込んでしまう。でもね、人には本能ってものがある。時には衝動に負けて、新しい刺激を求めたくなることもあるんじゃないか?」優奈は誠を見上げた。自分の中の感情を、どう表現すればいいのか分からなかった。昼間はただただ悲しかった。七年も心を尽くしてきた相手に裏切られるなんて、誰だって傷つく。けれど、午後いっぱい考えた結果、優奈はどうやら納得したようだ。今、彼の言葉を聞いてももう痛みは感じなかった。ただただ、皮肉に思えた。「じゃあ……誠君も新しい刺激を試してみたい?」彼女がそう尋ねると、肩にかかった誠の指先がわずかに震えた。しかし、すぐに優しい口調で答えた。「俺には優奈ちゃんだけで十分だよ。俺たちの関係は、誰にも代えられないし、新しい刺激なんて必要ない」――そう?優奈は心の中で自嘲気味に微笑んだ。もし今日、雪乃と会っていなければ、きっと彼の言葉を信じていただろう。そのとき、突然、誠の携帯が鳴った。彼は画面を確認すると、一瞬だけ優奈の方をちらりと見た。彼女が何の反応も示さないのを確認してから、ようやく通話ボタンを押した。誠は、無意識のように車のドア側へと身体をずらした。まるで、優奈に聞かれたくないかのように。だけど、誠が思わなかったのは、彼のワイヤレスイヤホンが優奈のすぐ隣りにあった。まだ接続されたまま、雪乃の声が聞こえている。優奈はそっと指先を握りしめ、爪が手のひらに食い込むのを感じながら、努めて平静を装った。誠はすぐに電話を切ると、申し訳なさそうに微笑んで言った。「ごめんね、優奈ちゃん。会社で急なトラブルがあって、すぐ行かないといけ
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第3話
家に戻ると、優奈は冷え切った身体を温め、荷物をまとめ始めた。自分の服や必要なものをスーツケースに詰め、国際宅配便で送る手配をする。そんな彼女の様子を見ていた家政婦が、不思議そうに尋ねた。「奥様、ご出張ですか?」「いいえ」優奈は誠側の人間には誰にも知られたくなかったので、適当にごまかした。「服が古くなったから、必要な人たちに送るのよ」「まあ、奥様は本当にお優しいですね。ところで、牡蠣鍋を煮ておきましたよ。先ほど旦那様がわざわざお電話で指示されたんです」先ほど?優奈は思わず鼻で笑った。誠は本当に「時間管理の達人」だ。どちらも手放さず、優奈を繋ぎとめながら、雪乃の機嫌も取る。妊娠中の愛人のそばにいながらも、こちらへの気遣いを欠かさないなんて。外部の人から見れば、誠はまるで完璧な恋人で、彼女の犠牲が全く忘れられたのも、優奈は今になってやっと理解した。それは、誠巧妙に演じてきたのだから。目の前の牡蠣鍋を見ていると、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。誠の薄汚い裏の顔を思い出してか、それとも、長年尽くしてきた相手の裏切りに嫌気が差したのか、優奈は思わず洗面所へ駆け込み、吐いた。気がつけば、涙がこぼれていた。洗面台に手をつき、鏡に映る自分を見つめた。ふと、あることを思い出し、棚の中から妊娠検査薬を取り出した。結果を待つ間、優奈の心はどんどん冷えていった。そういえば、今月は生理が数日遅れている。さっき吐いていなかったら、思いもつかないだろう。最近忙しかったから、単なる体調の乱れだと思っていた。10分後。結果を見た瞬間、優奈の手が震えた。嬉しさなんて微塵もなかった。むしろ、胸の奥に重い石を詰め込まれたような、息苦しさが押し寄せた。もしこの子の存在を昨日知っていたら、喜んで誠に結婚の話を持ちかけていただろう。でも今は彼は雪乃の家で、あの女を気遣っている。……どうやって、喜べるというのか?茫然としながら洗面所を出るとベッドに腰を下ろし、優奈はひたすら考えた。この子を、どうするべきか。子供は好きだった。誠との子供を持つことも、何度も夢見た。でも、こんな結末は、想像したこともなかった。その時、誠から電話がかかってきた。「急な出張で、一週間ほど家を空けることになった。ちゃんとご飯を食べて、通勤も気
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第4話
病院から帰宅した優奈は、初めて「虚弱」という言葉の意味を実感した。彼女はわざわざ家政婦に頼んで、プレゼント用の箱を用意してもらった。「奥様、旦那様への贈り物ですか?」「ええ……あと数日で、私たちが付き合って八年になるの」彼女は誠に、とびきりのプレゼントを用意していた。まるで運命に導かれるかのように、彼女がこの家を去る日と記念日が重なっていた。家政婦を部屋から下がらせると、優奈は自分の妊娠検査結果と人工中絶の診断書をプレゼント箱に収めた。それともう一つ、雪乃の妊娠検査結果も――。誠がこのプレゼントを開けたとき、どんな顔をするのか。彼女はその瞬間を見届けることはできないが、それでも十分だった。夜になると、いつものように誠から電話がかかってきた。「ちゃんとご飯食べたか?体調はどうだ?」その偽善的な優しさが、笑えて仕方なかった。ちょうどその時、電話の向こうから雪乃の甘えた声が聞こえてきた。「誠君、晩ご飯は何食べる?」沈黙が流れる。優奈は、何も問い詰めなかった。「その……急な出張で商談があってさ。雪乃は仕事ができるから、一緒に連れてきたんだよ」誠の言い訳に、優奈は淡々と答えた。「へえ、確かに彼女は優秀ね。だからこそ、誠君もそこまで重用してるんでしょう?」「じゃあ、俺、これから会議だから。後で連絡する」誠は、まるで優奈に何か聞かれるのを恐れるように、そそくさと電話を切った。直後、優奈のスマホにLINEの通知が届いた。送り主は、つい今日追加したばかりの雪乃だった。添付されていたのは、一枚の写真。バスローブを腰に巻いただけの誠の後ろ姿。「見た?あなたの彼氏、今さっきまで私の上にいたのよ。彼ったら、私の柔らかい体が大好きなんですって。あなたみたいな木偶の坊より、ずっと気持ちいいんだって」優奈は震えが止まらなかった。胸の奥からこみ上げる吐き気が、また襲ってきた。この一年余り、誠は一体、雪乃と何度関係を持ったのか。きっと、仕事終わりに迎えに来る前も、彼女のベッドから出てきたばかりだったのだろう。優奈は込み上げる嫌悪感を押し殺し、淡々と返信した。「子供には気をつけなさいね。せっかくそれを武器にのし上がろうとしてるのに、台無しになったら大変でしょう?」そうメッセージを送った後、優奈は雪乃のLINEのタイム
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第5話
翌日、優奈は誠が自分に買ってくれた宝石やアクセサリー、服、靴、バッグをすべて売り払い、そのお金を貧困地域の女性や子どもたちのために寄付した。自分の手元には、一銭も残さなかった。こんな「汚れた金」、彼女には必要なかった。それからの数日間、優奈は毎日のように雪乃がバリ島で撮った写真を目にした。誠のコメント付きで。彼女はそれらをすべてプリントアウトした。そして、七日目誠が帰ってきた。優奈はちょうど夕食をとっていた。だが、誠が部屋に入ってきた瞬間、食欲がすっかり失せた。誠は買ってきたプレゼントを優奈の前に置くと、そのまま彼女に顔を寄せ、キスをしようとした。しかし、優奈はさりげなく身を引いた。「ご飯は?」優奈は平静な声で尋ねた。「まだなら、先に食べたら?」「まだだよ。君と一緒に食べたくて帰ってきたんだ」優奈はふっと誠を見上げた。「誠君って、本当に優しいのね」その声には、冷え冷えとした皮肉が滲んでいた。だが、誠は気づかない。彼にとって優奈は、いつも素直で従順だったウサギのようだ。ただ、どんなに大人しいウサギでも、追い詰められれば人を噛むことを、彼は見落としていた。誠は優奈の向かいに腰を下ろし、にっこり微笑んだ。「もちろんだよ。君に優しくしなくて、誰にする? 一生、大切にすると誓っただろ?」「もうすぐ記念日だけど、どこか行きたいところは?」「どうだろう……その頃、病院が忙しくなければいいけど」優奈の言葉に、誠は甘やかすように微笑んだ。「だから前から言ってるだろ? 仕事なんか辞めて、楽にすればいいのに。俺が養ってあげるよ」もし、あのとき彼の言葉を鵜呑みにして仕事を辞めていたら。そう考えると、優奈は心底自分を褒めてやりたくなった。恋に溺れて理性を失わずに済んでよかった、と。もし辞めていたら、今頃きっと、離れる勇気すら持てなかっただろう。「もし私が仕事を辞めて、誠君が私を裏切ったら、どうする?」優奈は冗談めかしてそう言った。誠の表情が、はっきりと動揺した。彼は慌てて保証するように言った。「そんなこと絶対にない!信じてくれ、優奈ちゃん。絶対に君を裏切らないよ。俺の心には君しかいないんだ」その後半の言葉は、優奈も信じていた。誠は彼女を愛している。だが、それでも彼は、彼女を裏切った。それこそが、最も残酷なことだった。
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第6話
数分後、誠が戻ってきたが、優奈は何事もなかったかのように夕飯を食べ続けていた。誠は慌てて食卓に駆け寄ると、「ごめんね、優奈ちゃん。会社でまたトラブルがあって、ちょっと行ってこなきゃ」と言った。「……うん」優奈は淡々と返事をし、ふと彼の赤くなった唇を見上げた。その瞬間、さっきのキスを思い出した。自分の目の前で浮気するなんて、スリル満点だろうね?誠が背を向けて出ていくと、優奈は箸を置いた。そして、誠が買ってくれたネックレスをそのままゴミ箱に放り投げた。あと数日でこの家を出る予定の彼女は、病院に戻って仕事の引き継ぎをしながら時間を潰していた。その日、臨時でグループの別の病院に出向することになり、業務を終えて帰ろうとしたとき、突然、医療トラブルを起こした集団に出口を塞がれた。病院のロビーは怒号に包まれ、棍棒を持った連中が何人もいた。混乱の中、若い女性スタッフを庇った優奈の頭に棍棒が直撃した。額から鮮血がどくどくと流れ出し、周囲は一気に騒然となった。相手側も「本当に怪我をさせてしまった」と分かって動揺し、病院の警備員と医師によってすぐに取り押さえられた。「江口先生!大丈夫ですか?!処置室へ急いで!」同僚たちが慌てる中、優奈は手を振って「平気」と合図を送ったが、頭はガンガンして目も少し回っていた。そのときちょうど誠が雪乃を連れて病院のロビーへ入ってきたところだった。鉢合わせた瞬間、三人とも一瞬固まった。誠の手には雪乃のバッグ、雪乃は笑顔で彼の腕にしっかりと絡みついている。優奈の血まみれの顔を見た瞬間、誠は驚愕し、即座に雪乃を振り払って走ってきた。勢いで雪乃は転びそうになり、悔しそうに優奈を睨みつけた。「優奈ちゃん!どうしたんだ!?ケガって……!」誠が慌てて駆け寄った。だが優奈は気分がよくなくて、今は彼と無駄話をする気にもなれなかった。ただ疲れきった目で彼を見つめ、冷たく言った。「ちょっとした事故よ。ほっといて」横にいた同僚が誠のことを知っていたため、さっきの騒ぎについて説明を始めた。優奈はそれを聞く気にもなれず、誠を無視して通り過ぎようとしたが、誠は一言も言わず、優奈を抱き上げて処置室へ走り出した。雪乃の方は完全に置き去りにされ、立ち尽くすしかなかった。処置室ではすぐに止血と消毒が行われ
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第7話
優奈はそのとき、ふと目を上げて雪乃を見やった。嘲るような笑みが目に浮かんだ。若くて綺麗な彼女なら、まっとうに生きていれば、きっともっといい相手に出会えるはず。けれど、自分を大切にできない人間に、誰が手を差し伸べられるだろうか。優奈の挑発的な視線に、雪乃は顔を真っ赤にして怒りを露わにした。そのとき、急にお腹を押さえてうずくまり、苦しそうに言った。「誠君……誠君、お腹が……痛い……」誠が慌てて振り返ると、雪乃は苦痛に顔を歪めていた。彼はすぐさま優奈のそばを離れ、雪乃のもとへ駆け寄った。優奈は静かに椅子に座り、腕に点滴の針が刺さったまま、ただ誠が雪乃を抱えて医者に助けを呼んでいるのを黙って見ていた。雪乃は顔色が悪いにもかかわらず、抱えられながらも、優奈の方へ得意げに笑いかけてきた。優奈は黙ってナースを呼び、針を抜いてもらった。薬はまだ半分以上残っていたが、もう続ける気にはなれなかった。病院を出るとすぐに、スマホが鳴った。画面には雪乃からのメッセージが表示されていた。「見た?あなたの彼氏、ほんとに私のこと心配してくれてたわ~さっきもすごく焦って、私と赤ちゃんのことばっかり気にしてた。江口さんなんか、あの人の心ではもう何の価値もないのよ」添付されていたのは、誠が必死に医者に説明している後ろ姿。まるで模範的な夫、優しい父親のように見えた。優奈は返事もせず、一人きりで病院をあとにした。だが、家に戻って間もなく、誠も帰ってきた。彼は急ぎ足で近寄ってきて、心配そうに声をかけた。「どうして連絡くれなかったんだ?もう点滴終わったの?痛みは?大丈夫?」その嘘くさい優しさに、優奈は吐き気がするほどだった。七年も一緒にいたのに、自分が得たものは何だった?「大丈夫よ。わざわざ知らせる必要ある?誠君は忙しいもんね。会社でも、部下のことでも、全部自分でやらなきゃいけないんでしょ?」その皮肉に気づいた誠は、優奈の手をそっと握って弁解した。「さっきは、本当に万が一のことがあったらと思って……彼女一人で妊娠してて、何かあったら責任問題になるから……」「確かにね」優奈はうなずいて、ゆっくりと言った。「彼女、一人で妊娠して大変そう。でも、その子の父親って、ちゃんと知ってるのかな?世の中にはさ、ベッドの楽しさだけを追って、女を傷つけるクズ男
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第8話
「たまには違う味も悪くないわ。長く同じものばかりだと飽きてくるし。恋愛と一緒ね。時間が経つとつまらなくなるものよ」誠はテーブル越しに優奈の手を取り、優しい声で言った。「優奈ちゃん、最近ちょっと疲れてるんじゃない?何か聞いて、つい感情移入しちゃったとか?」「他の人の恋愛はね、確かに長く一緒にいると飽きるかもしれない。でも俺たちは違う。ここまで来るのに大変だった。君といる毎日は、全部新しいんだ。優奈ちゃん、変なこと考えないで。俺は他の男とは違うんだから」優奈は彼の真剣な目を見つめながら、心の中では苦笑いが止まらなかった。そしてそっと手を引っ込めて微笑んだ。「さ、食べましょ。今日は出かけるんでしょ?」「うん」午前中、二人でショッピングモールへ出かけた。優奈は「le家」のジュエリー店を見つけた。このブランドは世界でも有名で、すべてのデザインが一点物。どのジュエリーも唯一無二だった。「ねえ、あのお店見に行かない?最近新作がたくさん出たみたいよ」優奈がその店を指しながら言った。「いいよ、行こう」誠は快く答えた。店に入ると、優奈の目に真っ先に飛び込んできたのは、ショーケースの中にあるダイヤの指輪だった。あれが、きっと雪乃が欲しがっていたやつだ。誠がそっと彼女の腰に手を回し、尋ねた。「どれが気に入った?」優奈は一瞬も迷わず、その指輪を指差した。「これが欲しい」雪乃が欲しがっていたことを知っているのか、誠は少し戸惑ったように言った。「それはちょっと優奈ちゃんの雰囲気に合わない気がするな。あのネックレスなら似合いそうだけど」「いらない。指輪がいいの」優奈はわざと意地を張っていた。誠がどう出るか、試してみたかったのだ。予想通り誠は困った顔を見せた。昨晩、あの指輪を雪乃に贈ると約束したばかりなのだ。「どうしたの?まさか買うのが惜しいってわけじゃないわよね?」「まさか。君に買わないで誰に買うんだよ」と誠は急いで答えた。誠は店員に合図し、指輪を持って来させようとした。その直後、彼は突然優奈の方を振り返って言った。「優奈ちゃん、ちょっと喉渇いちゃってさ。飲み物買ってきてくれない?」「うん」優奈には、彼が何をしようとしているか、もう分かっていた。彼女がジュースを買って戻ってくると、誠は少し申し訳なさそうに言
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第9話
八周年の記念日当日、誠は特別にロマンチックなクルーズデートを計画していた。朝、優奈が目を覚ましたとき、誠はそっと額にキスを落とした。「八周年おめでとう、優奈ちゃん」ベッドの周りにはバラの花びらが敷き詰められ、たくさんの風船が飾られていた。優奈が起き上がると、誠は優しい眼差しで見つめながら言った。「支度したらクルーズに行こう。きっと気に入ってもらえると思うよ。夜には盛大な花火もあるし、君が好きな俺の釣った海の魚もある。今日、釣ってくるよ」けれど優奈は、今夜の飛行機で国外へ発つ予定だった。今夜を過ぎれば、二人の関係はもう終わりだった。ふたりが別荘から出たそのとき、誠のスマホが鳴った。彼が何を見たのか、優奈にはわからない。ただ、喉仏がごくりと動き、欲望を抑えきれないような様子が見てとれた。すぐに誠はスマホをしまい、優奈に申し訳なさそうに言った。「ごめん、急に会社でトラブルがあって……先にクルーズへ行っててくれる?すぐ追いかけるから」「うん」優奈は軽くうなずいた。表情には、感情はまったく表れていなかった。誠は安心したように微笑んだ。「いい子だね、すぐ戻るから!」優奈はうなずいた。胸の奥に、言いようのない想いが渦巻いていた。これが、彼に会う最後の瞬間になるのかもしれないと。車に乗り込もうとする誠を、優奈がふいに呼び止めた。彼は車のドアの前で振り返った。「どうしたの、優奈ちゃん?」「……ううん、なんでもない。じゃあね」本当はちゃんとお別れを言いたかった。でもその機会さえ、もう与えられなかった。「じゃあね」――それが、彼にかけた最後の言葉だった。誠は何かを感じ取ったように一瞬眉を寄せたが、結局そのまま車に乗り、去っていった。黒いマイバッハが遠ざかっていくのを見届けた優奈は、視線を落とした。「誠、もう二度と会わない。今日から、せいぜい好きに生きて」そう小さくつぶやき、別荘へ戻った。書斎に入ると、予想通り雪乃からのメッセージがスマホに届いていた。「八周年おめでとう。まさか今日みたいな大事な日に、誠が私の傍にいるなんてね。あなたごときが私と張り合えると思ってるの?」優奈は一言だけ返信した。「そんなにゴミが好きなら、くれてやる。これからはゴミを宝物みたいに抱いてなさい」そして画面をスク
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第10話
だが、その箱を開けるより先に、スマホが突然激しく鳴り出した。雪乃からの電話だった。「お腹の調子が悪いの、早く来て……」誠は電話の中の彼女をなだめながら立ち上がり、外へ向かった。その拍子に、袖口がギフトボックスに引っかかり、中身が床一面に散らばった。だが玄関に立つ彼は、一瞥をくれただけでそのまま出ていった。中身を確認する余裕など、まるでなかった。――同じ頃。優奈の飛行機が離陸する直前、病院から一本の電話が入った。院長からの連絡だった。手続きに不備があり、メキシコへの出国はあと半月は延ばさなければならないという。仕方なく、優奈は家へ戻ることに。戻った時にはすでに夜も更けていた。家政婦が彼女の姿を見て驚いたように駆け寄った。「奥様、どこへ行かれていたんですか?旦那様が、今夜帰宅された際に奥様がいないと心配されていましたよ」「彼……帰ってきたの?」優奈は眉をひそめて二階のほうへ見上げた。「はい。でもまた電話があって、急用か何かで出て行かれました」優奈は目を伏せた。今日は、二人が付き合い始めてからちょうど8年の記念日だ。そんな日に急用って何よ?どうせまた佐藤雪乃のことなんでしょ……かつてはどんな記念日も祝日も、誠は全ての予定をキャンセルし、携帯の電源すら切って一緒に過ごしてくれた。それなのに今は……優奈は苦笑しながら階段を上がり、書斎へと向かった。彼のために用意した記念日のプレゼントは、まだ机の上に置かれたままだ。最初、彼は開ける時間がなかったのかと思った。だが実際に箱を開けてみると、中の証拠画像や診断書がぐちゃぐちゃになっていて、指先が微かに震えた。――見たのか。誠はこの「証拠」を、全部見たんだ。でも、それでも何も言ってこないなんて……優奈は思いもしなかった。チャットのスクショも、自分の妊娠を示す診断書も――彼は見たはずだ。普通なら、焦って駆けつけてきたり、何か説明しようとしたり、動揺したりするはずなのに。彼の中での自分の価値を、過大評価していたのかもしれない。そのとき、窓の外で花火が上がる音がした。優奈は反射的に視線を向けた。誠が毎年、彼女のために準備していた「街中に咲く花火」。けれど今年は、一人きりで見ることになった。優奈は静かにボックスを持ち、階下の家政婦に渡した。
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