「院長、私は病院の派遣に応じることにしました。半月後にメキシコへ行きます」江口優奈(えぐち ゆうな)はオフィスの窓辺に立ち、一枚の妊娠検査結果を掴んでいた。電話の向こうから、院長の声が聞こえてきた。「どうして急に考えを変えた?何年も説得してきたのに」優奈は微笑んだ。「ただ、ちょっと環境を変えてみるのも悪くないかなって思っただけです。今忙しいので、これで失礼しますね」悔しさを歯噛みして飲み込んで電話を切り、優奈は再び手元の妊娠検査結果に目を落とした。彼女はもともと優秀な産婦人科医で、何度も受賞歴のあるエリートだった。本来なら、将来は明るく開けていたはず。けれど、それよりも高橋誠(たかはし まこと)と一緒にいたくて、優奈は小さな病院の一医師に甘んじる道を選んだ。三年前から院長は海外派遣を打診していた。帰国すれば昇進は確実だったが、誠と遠距離になるのが嫌で、ずっと断り続けてきた。それが崩れたのは30分前、誠の秘書が妊娠検査のため診察室に現れた瞬間……いや、正確には「妊娠を確認するため」ではなく、「彼の女であることを見せつけるため」に来たのだ。誠は、優奈を骨の髄まで溺愛していた。彼女が望むものと言えば、たとえ天の月さえも取り寄せようとするほどの盲目の愛情を注いでいたのだ。二人の関係は、ビジネス界でも有名だった。誰もが知っている。高橋氏総裁が無一文からのし上がれたのは、江口優奈が支えたからだと。ずっと傍にいて、彼を支え続けてきたからだと。だからこそ、人々が言っている「魚を得て筌を捨てる」という言葉は、必ずしも真実ではないだろう。優奈も、誠とは生涯を共にするものだと思っていた。幼い頃に両親を亡くし、ずっと一人で生きてきた彼女にとって、誠の愛と庇護は、心の拠り所だったのだから。しかし最近は全てが変わってしまった。一ヶ月前から、誠はやたらと忙しくなった。二人が会う時間もどんどん減っていった。優奈は、新しいプロジェクトに取り組んでいるのだと思い、健気にも彼を気遣っていた。どんなに疲れていても、手料理を用意して待つほどに。だが、今日になって初めて知った。誠が忙しかったのは、仕事ではなく、女だったのだと。佐藤雪乃(さとう ゆきの)は、優奈に言った。「私たちは、一年前から付き合っています」ちょうど雪乃が、新卒で高橋氏に入社
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