家に戻ると、優奈は冷え切った身体を温め、荷物をまとめ始めた。自分の服や必要なものをスーツケースに詰め、国際宅配便で送る手配をする。そんな彼女の様子を見ていた家政婦が、不思議そうに尋ねた。「奥様、ご出張ですか?」「いいえ」優奈は誠側の人間には誰にも知られたくなかったので、適当にごまかした。「服が古くなったから、必要な人たちに送るのよ」「まあ、奥様は本当にお優しいですね。ところで、牡蠣鍋を煮ておきましたよ。先ほど旦那様がわざわざお電話で指示されたんです」先ほど?優奈は思わず鼻で笑った。誠は本当に「時間管理の達人」だ。どちらも手放さず、優奈を繋ぎとめながら、雪乃の機嫌も取る。妊娠中の愛人のそばにいながらも、こちらへの気遣いを欠かさないなんて。外部の人から見れば、誠はまるで完璧な恋人で、彼女の犠牲が全く忘れられたのも、優奈は今になってやっと理解した。それは、誠巧妙に演じてきたのだから。目の前の牡蠣鍋を見ていると、胃がひっくり返るような感覚に襲われた。誠の薄汚い裏の顔を思い出してか、それとも、長年尽くしてきた相手の裏切りに嫌気が差したのか、優奈は思わず洗面所へ駆け込み、吐いた。気がつけば、涙がこぼれていた。洗面台に手をつき、鏡に映る自分を見つめた。ふと、あることを思い出し、棚の中から妊娠検査薬を取り出した。結果を待つ間、優奈の心はどんどん冷えていった。そういえば、今月は生理が数日遅れている。さっき吐いていなかったら、思いもつかないだろう。最近忙しかったから、単なる体調の乱れだと思っていた。10分後。結果を見た瞬間、優奈の手が震えた。嬉しさなんて微塵もなかった。むしろ、胸の奥に重い石を詰め込まれたような、息苦しさが押し寄せた。もしこの子の存在を昨日知っていたら、喜んで誠に結婚の話を持ちかけていただろう。でも今は彼は雪乃の家で、あの女を気遣っている。……どうやって、喜べるというのか?茫然としながら洗面所を出るとベッドに腰を下ろし、優奈はひたすら考えた。この子を、どうするべきか。子供は好きだった。誠との子供を持つことも、何度も夢見た。でも、こんな結末は、想像したこともなかった。その時、誠から電話がかかってきた。「急な出張で、一週間ほど家を空けることになった。ちゃんとご飯を食べて、通勤も気
病院から帰宅した優奈は、初めて「虚弱」という言葉の意味を実感した。彼女はわざわざ家政婦に頼んで、プレゼント用の箱を用意してもらった。「奥様、旦那様への贈り物ですか?」「ええ……あと数日で、私たちが付き合って八年になるの」彼女は誠に、とびきりのプレゼントを用意していた。まるで運命に導かれるかのように、彼女がこの家を去る日と記念日が重なっていた。家政婦を部屋から下がらせると、優奈は自分の妊娠検査結果と人工中絶の診断書をプレゼント箱に収めた。それともう一つ、雪乃の妊娠検査結果も――。誠がこのプレゼントを開けたとき、どんな顔をするのか。彼女はその瞬間を見届けることはできないが、それでも十分だった。夜になると、いつものように誠から電話がかかってきた。「ちゃんとご飯食べたか?体調はどうだ?」その偽善的な優しさが、笑えて仕方なかった。ちょうどその時、電話の向こうから雪乃の甘えた声が聞こえてきた。「誠君、晩ご飯は何食べる?」沈黙が流れる。優奈は、何も問い詰めなかった。「その……急な出張で商談があってさ。雪乃は仕事ができるから、一緒に連れてきたんだよ」誠の言い訳に、優奈は淡々と答えた。「へえ、確かに彼女は優秀ね。だからこそ、誠君もそこまで重用してるんでしょう?」「じゃあ、俺、これから会議だから。後で連絡する」誠は、まるで優奈に何か聞かれるのを恐れるように、そそくさと電話を切った。直後、優奈のスマホにLINEの通知が届いた。送り主は、つい今日追加したばかりの雪乃だった。添付されていたのは、一枚の写真。バスローブを腰に巻いただけの誠の後ろ姿。「見た?あなたの彼氏、今さっきまで私の上にいたのよ。彼ったら、私の柔らかい体が大好きなんですって。あなたみたいな木偶の坊より、ずっと気持ちいいんだって」優奈は震えが止まらなかった。胸の奥からこみ上げる吐き気が、また襲ってきた。この一年余り、誠は一体、雪乃と何度関係を持ったのか。きっと、仕事終わりに迎えに来る前も、彼女のベッドから出てきたばかりだったのだろう。優奈は込み上げる嫌悪感を押し殺し、淡々と返信した。「子供には気をつけなさいね。せっかくそれを武器にのし上がろうとしてるのに、台無しになったら大変でしょう?」そうメッセージを送った後、優奈は雪乃のLINEのタイム
翌日、優奈は誠が自分に買ってくれた宝石やアクセサリー、服、靴、バッグをすべて売り払い、そのお金を貧困地域の女性や子どもたちのために寄付した。自分の手元には、一銭も残さなかった。こんな「汚れた金」、彼女には必要なかった。それからの数日間、優奈は毎日のように雪乃がバリ島で撮った写真を目にした。誠のコメント付きで。彼女はそれらをすべてプリントアウトした。そして、七日目誠が帰ってきた。優奈はちょうど夕食をとっていた。だが、誠が部屋に入ってきた瞬間、食欲がすっかり失せた。誠は買ってきたプレゼントを優奈の前に置くと、そのまま彼女に顔を寄せ、キスをしようとした。しかし、優奈はさりげなく身を引いた。「ご飯は?」優奈は平静な声で尋ねた。「まだなら、先に食べたら?」「まだだよ。君と一緒に食べたくて帰ってきたんだ」優奈はふっと誠を見上げた。「誠君って、本当に優しいのね」その声には、冷え冷えとした皮肉が滲んでいた。だが、誠は気づかない。彼にとって優奈は、いつも素直で従順だったウサギのようだ。ただ、どんなに大人しいウサギでも、追い詰められれば人を噛むことを、彼は見落としていた。誠は優奈の向かいに腰を下ろし、にっこり微笑んだ。「もちろんだよ。君に優しくしなくて、誰にする? 一生、大切にすると誓っただろ?」「もうすぐ記念日だけど、どこか行きたいところは?」「どうだろう……その頃、病院が忙しくなければいいけど」優奈の言葉に、誠は甘やかすように微笑んだ。「だから前から言ってるだろ? 仕事なんか辞めて、楽にすればいいのに。俺が養ってあげるよ」もし、あのとき彼の言葉を鵜呑みにして仕事を辞めていたら。そう考えると、優奈は心底自分を褒めてやりたくなった。恋に溺れて理性を失わずに済んでよかった、と。もし辞めていたら、今頃きっと、離れる勇気すら持てなかっただろう。「もし私が仕事を辞めて、誠君が私を裏切ったら、どうする?」優奈は冗談めかしてそう言った。誠の表情が、はっきりと動揺した。彼は慌てて保証するように言った。「そんなこと絶対にない!信じてくれ、優奈ちゃん。絶対に君を裏切らないよ。俺の心には君しかいないんだ」その後半の言葉は、優奈も信じていた。誠は彼女を愛している。だが、それでも彼は、彼女を裏切った。それこそが、最も残酷なことだった。
数分後、誠が戻ってきたが、優奈は何事もなかったかのように夕飯を食べ続けていた。誠は慌てて食卓に駆け寄ると、「ごめんね、優奈ちゃん。会社でまたトラブルがあって、ちょっと行ってこなきゃ」と言った。「……うん」優奈は淡々と返事をし、ふと彼の赤くなった唇を見上げた。その瞬間、さっきのキスを思い出した。自分の目の前で浮気するなんて、スリル満点だろうね?誠が背を向けて出ていくと、優奈は箸を置いた。そして、誠が買ってくれたネックレスをそのままゴミ箱に放り投げた。あと数日でこの家を出る予定の彼女は、病院に戻って仕事の引き継ぎをしながら時間を潰していた。その日、臨時でグループの別の病院に出向することになり、業務を終えて帰ろうとしたとき、突然、医療トラブルを起こした集団に出口を塞がれた。病院のロビーは怒号に包まれ、棍棒を持った連中が何人もいた。混乱の中、若い女性スタッフを庇った優奈の頭に棍棒が直撃した。額から鮮血がどくどくと流れ出し、周囲は一気に騒然となった。相手側も「本当に怪我をさせてしまった」と分かって動揺し、病院の警備員と医師によってすぐに取り押さえられた。「江口先生!大丈夫ですか?!処置室へ急いで!」同僚たちが慌てる中、優奈は手を振って「平気」と合図を送ったが、頭はガンガンして目も少し回っていた。そのときちょうど誠が雪乃を連れて病院のロビーへ入ってきたところだった。鉢合わせた瞬間、三人とも一瞬固まった。誠の手には雪乃のバッグ、雪乃は笑顔で彼の腕にしっかりと絡みついている。優奈の血まみれの顔を見た瞬間、誠は驚愕し、即座に雪乃を振り払って走ってきた。勢いで雪乃は転びそうになり、悔しそうに優奈を睨みつけた。「優奈ちゃん!どうしたんだ!?ケガって……!」誠が慌てて駆け寄った。だが優奈は気分がよくなくて、今は彼と無駄話をする気にもなれなかった。ただ疲れきった目で彼を見つめ、冷たく言った。「ちょっとした事故よ。ほっといて」横にいた同僚が誠のことを知っていたため、さっきの騒ぎについて説明を始めた。優奈はそれを聞く気にもなれず、誠を無視して通り過ぎようとしたが、誠は一言も言わず、優奈を抱き上げて処置室へ走り出した。雪乃の方は完全に置き去りにされ、立ち尽くすしかなかった。処置室ではすぐに止血と消毒が行われ
優奈はそのとき、ふと目を上げて雪乃を見やった。嘲るような笑みが目に浮かんだ。若くて綺麗な彼女なら、まっとうに生きていれば、きっともっといい相手に出会えるはず。けれど、自分を大切にできない人間に、誰が手を差し伸べられるだろうか。優奈の挑発的な視線に、雪乃は顔を真っ赤にして怒りを露わにした。そのとき、急にお腹を押さえてうずくまり、苦しそうに言った。「誠君……誠君、お腹が……痛い……」誠が慌てて振り返ると、雪乃は苦痛に顔を歪めていた。彼はすぐさま優奈のそばを離れ、雪乃のもとへ駆け寄った。優奈は静かに椅子に座り、腕に点滴の針が刺さったまま、ただ誠が雪乃を抱えて医者に助けを呼んでいるのを黙って見ていた。雪乃は顔色が悪いにもかかわらず、抱えられながらも、優奈の方へ得意げに笑いかけてきた。優奈は黙ってナースを呼び、針を抜いてもらった。薬はまだ半分以上残っていたが、もう続ける気にはなれなかった。病院を出るとすぐに、スマホが鳴った。画面には雪乃からのメッセージが表示されていた。「見た?あなたの彼氏、ほんとに私のこと心配してくれてたわ~さっきもすごく焦って、私と赤ちゃんのことばっかり気にしてた。江口さんなんか、あの人の心ではもう何の価値もないのよ」添付されていたのは、誠が必死に医者に説明している後ろ姿。まるで模範的な夫、優しい父親のように見えた。優奈は返事もせず、一人きりで病院をあとにした。だが、家に戻って間もなく、誠も帰ってきた。彼は急ぎ足で近寄ってきて、心配そうに声をかけた。「どうして連絡くれなかったんだ?もう点滴終わったの?痛みは?大丈夫?」その嘘くさい優しさに、優奈は吐き気がするほどだった。七年も一緒にいたのに、自分が得たものは何だった?「大丈夫よ。わざわざ知らせる必要ある?誠君は忙しいもんね。会社でも、部下のことでも、全部自分でやらなきゃいけないんでしょ?」その皮肉に気づいた誠は、優奈の手をそっと握って弁解した。「さっきは、本当に万が一のことがあったらと思って……彼女一人で妊娠してて、何かあったら責任問題になるから……」「確かにね」優奈はうなずいて、ゆっくりと言った。「彼女、一人で妊娠して大変そう。でも、その子の父親って、ちゃんと知ってるのかな?世の中にはさ、ベッドの楽しさだけを追って、女を傷つけるクズ男
「たまには違う味も悪くないわ。長く同じものばかりだと飽きてくるし。恋愛と一緒ね。時間が経つとつまらなくなるものよ」誠はテーブル越しに優奈の手を取り、優しい声で言った。「優奈ちゃん、最近ちょっと疲れてるんじゃない?何か聞いて、つい感情移入しちゃったとか?」「他の人の恋愛はね、確かに長く一緒にいると飽きるかもしれない。でも俺たちは違う。ここまで来るのに大変だった。君といる毎日は、全部新しいんだ。優奈ちゃん、変なこと考えないで。俺は他の男とは違うんだから」優奈は彼の真剣な目を見つめながら、心の中では苦笑いが止まらなかった。そしてそっと手を引っ込めて微笑んだ。「さ、食べましょ。今日は出かけるんでしょ?」「うん」午前中、二人でショッピングモールへ出かけた。優奈は「le家」のジュエリー店を見つけた。このブランドは世界でも有名で、すべてのデザインが一点物。どのジュエリーも唯一無二だった。「ねえ、あのお店見に行かない?最近新作がたくさん出たみたいよ」優奈がその店を指しながら言った。「いいよ、行こう」誠は快く答えた。店に入ると、優奈の目に真っ先に飛び込んできたのは、ショーケースの中にあるダイヤの指輪だった。あれが、きっと雪乃が欲しがっていたやつだ。誠がそっと彼女の腰に手を回し、尋ねた。「どれが気に入った?」優奈は一瞬も迷わず、その指輪を指差した。「これが欲しい」雪乃が欲しがっていたことを知っているのか、誠は少し戸惑ったように言った。「それはちょっと優奈ちゃんの雰囲気に合わない気がするな。あのネックレスなら似合いそうだけど」「いらない。指輪がいいの」優奈はわざと意地を張っていた。誠がどう出るか、試してみたかったのだ。予想通り誠は困った顔を見せた。昨晩、あの指輪を雪乃に贈ると約束したばかりなのだ。「どうしたの?まさか買うのが惜しいってわけじゃないわよね?」「まさか。君に買わないで誰に買うんだよ」と誠は急いで答えた。誠は店員に合図し、指輪を持って来させようとした。その直後、彼は突然優奈の方を振り返って言った。「優奈ちゃん、ちょっと喉渇いちゃってさ。飲み物買ってきてくれない?」「うん」優奈には、彼が何をしようとしているか、もう分かっていた。彼女がジュースを買って戻ってくると、誠は少し申し訳なさそうに言
八周年の記念日当日、誠は特別にロマンチックなクルーズデートを計画していた。朝、優奈が目を覚ましたとき、誠はそっと額にキスを落とした。「八周年おめでとう、優奈ちゃん」ベッドの周りにはバラの花びらが敷き詰められ、たくさんの風船が飾られていた。優奈が起き上がると、誠は優しい眼差しで見つめながら言った。「支度したらクルーズに行こう。きっと気に入ってもらえると思うよ。夜には盛大な花火もあるし、君が好きな俺の釣った海の魚もある。今日、釣ってくるよ」けれど優奈は、今夜の飛行機で国外へ発つ予定だった。今夜を過ぎれば、二人の関係はもう終わりだった。ふたりが別荘から出たそのとき、誠のスマホが鳴った。彼が何を見たのか、優奈にはわからない。ただ、喉仏がごくりと動き、欲望を抑えきれないような様子が見てとれた。すぐに誠はスマホをしまい、優奈に申し訳なさそうに言った。「ごめん、急に会社でトラブルがあって……先にクルーズへ行っててくれる?すぐ追いかけるから」「うん」優奈は軽くうなずいた。表情には、感情はまったく表れていなかった。誠は安心したように微笑んだ。「いい子だね、すぐ戻るから!」優奈はうなずいた。胸の奥に、言いようのない想いが渦巻いていた。これが、彼に会う最後の瞬間になるのかもしれないと。車に乗り込もうとする誠を、優奈がふいに呼び止めた。彼は車のドアの前で振り返った。「どうしたの、優奈ちゃん?」「……ううん、なんでもない。じゃあね」本当はちゃんとお別れを言いたかった。でもその機会さえ、もう与えられなかった。「じゃあね」――それが、彼にかけた最後の言葉だった。誠は何かを感じ取ったように一瞬眉を寄せたが、結局そのまま車に乗り、去っていった。黒いマイバッハが遠ざかっていくのを見届けた優奈は、視線を落とした。「誠、もう二度と会わない。今日から、せいぜい好きに生きて」そう小さくつぶやき、別荘へ戻った。書斎に入ると、予想通り雪乃からのメッセージがスマホに届いていた。「八周年おめでとう。まさか今日みたいな大事な日に、誠が私の傍にいるなんてね。あなたごときが私と張り合えると思ってるの?」優奈は一言だけ返信した。「そんなにゴミが好きなら、くれてやる。これからはゴミを宝物みたいに抱いてなさい」そして画面をスク
だが、その箱を開けるより先に、スマホが突然激しく鳴り出した。雪乃からの電話だった。「お腹の調子が悪いの、早く来て……」誠は電話の中の彼女をなだめながら立ち上がり、外へ向かった。その拍子に、袖口がギフトボックスに引っかかり、中身が床一面に散らばった。だが玄関に立つ彼は、一瞥をくれただけでそのまま出ていった。中身を確認する余裕など、まるでなかった。――同じ頃。優奈の飛行機が離陸する直前、病院から一本の電話が入った。院長からの連絡だった。手続きに不備があり、メキシコへの出国はあと半月は延ばさなければならないという。仕方なく、優奈は家へ戻ることに。戻った時にはすでに夜も更けていた。家政婦が彼女の姿を見て驚いたように駆け寄った。「奥様、どこへ行かれていたんですか?旦那様が、今夜帰宅された際に奥様がいないと心配されていましたよ」「彼……帰ってきたの?」優奈は眉をひそめて二階のほうへ見上げた。「はい。でもまた電話があって、急用か何かで出て行かれました」優奈は目を伏せた。今日は、二人が付き合い始めてからちょうど8年の記念日だ。そんな日に急用って何よ?どうせまた佐藤雪乃のことなんでしょ……かつてはどんな記念日も祝日も、誠は全ての予定をキャンセルし、携帯の電源すら切って一緒に過ごしてくれた。それなのに今は……優奈は苦笑しながら階段を上がり、書斎へと向かった。彼のために用意した記念日のプレゼントは、まだ机の上に置かれたままだ。最初、彼は開ける時間がなかったのかと思った。だが実際に箱を開けてみると、中の証拠画像や診断書がぐちゃぐちゃになっていて、指先が微かに震えた。――見たのか。誠はこの「証拠」を、全部見たんだ。でも、それでも何も言ってこないなんて……優奈は思いもしなかった。チャットのスクショも、自分の妊娠を示す診断書も――彼は見たはずだ。普通なら、焦って駆けつけてきたり、何か説明しようとしたり、動揺したりするはずなのに。彼の中での自分の価値を、過大評価していたのかもしれない。そのとき、窓の外で花火が上がる音がした。優奈は反射的に視線を向けた。誠が毎年、彼女のために準備していた「街中に咲く花火」。けれど今年は、一人きりで見ることになった。優奈は静かにボックスを持ち、階下の家政婦に渡した。
翌朝、優奈は大きな雨の音で目を覚ました。目を開けると、海斗が「高橋誠が来た、今庭にいるよ」と言った。優奈は階下に降り、海斗が傘を差しながらその後ろに立ち、二人で誠の前に向かって歩いていった。誠はびしょ濡れになっており、ふらふらと倒れそうで、顔は青紫色に腫れ上がり、見るも無惨な姿だった。 優奈が近づくと、誠は急いで必死な顔で言った。「優奈、俺が本当に嫌いなのは分かってる。でも君が一番愛してくれたことを忘れたのか?俺のためにあんなに多くを犠牲にして、俺たちはこんなに愛し合ってたじゃないか、どうして……」「どうして?はっ、佐藤雪乃と寝たとき、そんなことを考えたことがあるの?」優奈は眉をひそめ、顔に嫌悪を浮かべて彼を見つめた。「私の性格を知ってるだろう。汚れたものなんて絶対に欲しくない」「汚れてない……汚れてないんだ……」誠は自分の体を擦りながら言った。力強く擦りすぎて、皮膚が赤くなっていた。失って初めて大切さに気づいた。今更そんなことをしても意味がない。 優奈は無力にため息をつきながらも、その目には一片の同情も見られなかった。彼女の心は、裏切られたその時からすでに冷めきっていた。海斗は誠の動きに冷笑を漏らした。 「みっともないことをするな。まだ男だと思うなら、ちゃんと責任を取れ。もうこれ以上彼女を悩ませるな。他の女と寝て、楽しんでるときはどうして悔いなかったんだ?」 「全部君のせいだ!君が彼女を変えてしまったんだ!」誠は構わず海斗に向かって走り出そうとしたが、次の瞬間、二人のボディガードに止められた。海斗はまるで勝者のように、絶望的な誠に微笑んで言った。「高橋さん、彼女を押しのけたのは君自身だ。誰も責めることはできないよ」誠は哀れみの眼差しで優奈を見つめながら言った。「優奈、俺は雪乃の子供を堕ろしたんだ!俺は君の子供だけが欲しいんだ。やり直しましょ?な?君は俺を一番愛してくれたじゃないか……」 その言葉が終わる前に、誠は優奈が軽く自分の腹を撫でているのを見て、恐怖を感じた。「私はもう結婚しているし、今は子供もいる。私たちは戻れないの。少しは自分の体裁を保ちなさい。もう私を煩わせないで」優奈はこれ以上何も言わず、海斗と一緒に別荘に戻った。後ろで誠は狂ったように哀願し続けたが、すべてはもう
「疲れたでしょう?一緒に帰ってご飯食べよう?」男性の優しい声に、優奈は恥ずかしそうに笑みを浮かべ、こくりと頷いた。「朝ごはんの後、一緒に昼寝してくれる?君を抱きしめて眠りたいんだ」彼はそう言って、優奈の耳元にかかる髪をそっとかき上げた。その仕草に、優奈はますます頬を赤らめた。「喜んで」二人はまるで周囲の視線など存在しないかのように甘い空気を漂わせていた。まったく誠の存在など眼中になかった。誠は完全に呆然とし、その場に立ち尽くした。胸の奥に、鋭利な刃で深くえぐられたような痛みが走った。それは確実に、血を流していた。優奈がその見知らぬ男と連れ立って目の前を通り過ぎたとき、誠は我慢できずに追いかけ、彼女の腕を強く引き止めた。「……わかってる、優奈。君が俺を恨んでるのはわかってる。だけど、他の男をダシにして俺を嫉妬させるなんて……!」誠の言葉が終わるか終わらないうちに、優奈の隣にいた男が彼を思い切り蹴り飛ばした。誠の体はそのまま吹き飛ばされ、先の怪我がまたしても痛み出した。「よく聞け。優奈は俺の妻だ。死にたくなければ、とっとと消え失せろ。これ以上彼女に近づいたら、容赦しない!」「もういい。時間の無駄よ。帰りましょう」優奈は海斗が本気で誠を殺しかねないと感じ、急いでその場を収めようとした。なにせ、彼は只者ではなかった。彼女が海外に来て間もない頃、ある診察同行の途中で犯罪組織に誘拐されたことがある。命の危機に晒されたそのとき、彼女を救ったのが海斗だった。お互い驚きの再会だったが、そこから海斗の猛烈なアプローチが始まった。優奈は彼が地元の有力組織「白龍会」の当主であり、さらに大手企業の社長でもあることを知ったが、それでも最初は彼の気持ちを受け入れなかった。だがある日、交通事故に巻き込まれたとき、自分を庇って身を挺して守ってくれた白石海斗に、心から陥落した。そして、ふたりは電撃的に結婚し、多くの人の祝福の中で誓いを交わしたのだった。海斗は怒りを胸に仕舞い、代わりに優しく笑みを浮かべて優奈を見つめ、手を取り合ってその場を後にした。誠はふたりの指に光るお揃いの結婚指輪を見た瞬間、完全に理性を失った。ふらつく足取りで必死に車の方へ駆け寄ろうとした。どうしても、優奈を取り戻したかった。半年もの間、彼女を探し
半年後、メキシコ。優奈は退勤しようとした矢先、急遽救急に呼び出された。深刻な交通事故が発生し、死傷者が多く出ているらしい。メキシコに来て半年。さまざまなことがあったが、彼女は次第に辛い過去を忘れ、新しい生活に没頭するようになっていた。救急処置室で患者の救護に当たっている最中、突然、手首を掴まれた。顔中血だらけにもかかわらず、その表情は抑えきれないほどの興奮に満ちていた。忘れかけていた記憶が一気に蘇った。優奈は咄嗟に誠の手を振り払ったが、彼はすぐさま再び彼女の手を握りしめた。まるで、彼女が消えてしまうのを恐れているかのように。「優奈!本当に君なのか!やっと見つけた!」誠の声は震え、涙声になっていた。「この半年、俺がどう過ごしてきたか分かるか?ずっと探してたんだ……俺が悪かった、優奈、どうか許してくれ……」「とにかく手を離して。ここは病院よ。他の人の迷惑になるわ」優奈の声は驚くほど冷静で、波風一つ立たなかった。その態度が、誠には何よりも辛かった。彼女に殴られ、罵られる方がまだマシだった。ただ、こんなにも無関心でいられるのだけは耐えられない……「優奈……俺のしたことは許されないと分かってる。俺は最低の男だ。でも、本当に君なしでは生きられないんだ……誘惑に負けて君を裏切った俺が悪い……本当に……」「もういいわ」優奈は彼の言葉を遮るようにして、手を引き抜いた。そして冷静に言った。「私たちはもう何の関係もないの。もう二度と私の前に現れないで」そう言い残し、優奈は別の患者の治療に向かった。誠の処置は、他の同僚に任せた。誠は病床に座ったまま、去っていく彼女の姿を無力感とともに見つめた。半年かけて優奈を探し、命も落としかけた。だが、それでも彼女を見つけることができた。それだけが唯一の救いだった。夜が明けるまで、優奈の心はずっと波立っていた。神様はまるで意地悪をするように、一度忘れさせ、そしてまた思い出させるのだった。夜が明け、仕事を終えた優奈が病院を出ると、外で誠が待っていた。彼の怪我はそこまで重くはなかった。額には包帯が巻かれ、口元には腫れが残っていた。その姿は、なんとも痛々しく見えた。以前の彼女なら、こんな誠を見たら、きっと胸が締め付けられるほど心配したことだろう。しかし、今はただ「自業自得」としか思えな
だが、誠の心の奥では、優奈が今度こそ本当に自分を許すことはないと、はっきりと分かっていた。優奈が一人で病院に行き、中絶した場面を思い浮かべると、誠は乱暴に自分の髪を掴んだ。どうしてあんなにも優奈を傷つけてしまったのか?!どうして雪乃の勝手な振る舞いを放置してしまったのか?!欲望に目がくらんでいたから、あんなことをしてしまったのか?だが、もうすべてが手遅れだった。どんな理由があったにせよ、優奈は深く傷つき、二度と自分を許すことはないのだ。誠は階段に座ったまま、一晩を明かした。彼の目の前には散乱したチャットのスクリーンショットが転がっており、それらはまるで無数の針のように彼の心臓を突き刺していた。目にすればするほど怒りが込み上げてきた。誠は傍らにあったプレゼント箱を手にし、雪乃を探しに向かった。雪乃はまだ夢の中だった。だが、突然何かが勢いよく身体にぶつかり、その衝撃で彼女は飛び起きた。そして、言葉を発するよりも先に、自分の上に落ちてきたものが優奈とのチャットのスクリーンショットであることに気づいた。目の前には、怒りに満ちた誠が立っていた。その目は、今にも彼女を八つ裂きにしそうなほど、燃え上がるような怒りに満ちていた。雪乃は誠が優奈をどれほど大切にしているかを、誰よりもよく知っていた。まさか自分が密かに優奈を挑発したことが、こうして晒されるとは思ってもみなかった。江口優奈、その女、本当に容赦ない!雪乃は瞬時に涙を浮かべ、必死に弁解を始めた。「ダーリン、ごめんなさい……!本当にわざとじゃないの!ただ、あなたが好きすぎて……ほかの女とシェアなんてしたくなかったの。ただ、それだけなのよ……お願い、そんなに怒らないで……」「二度と俺を『ダーリン』なんて呼ぶな!」誠の声は鋭く響いた。「一体何様のつもりだ?!どうして優奈を挑発するなんてことができた?!」誠の言葉に、雪乃の心は恐怖に震えた。彼と付き合ってからずっと、誠は自分に優しかった。どれだけワガママを言おうと、どれだけ駄々をこねようと、彼はいつも辛抱強く自分を宥めてくれた。それどころか、抱かれながら何度も「愛してる」と囁いてくれた。だからこそ、雪乃は勘違いしていたのだ。自分は誠にとって特別な存在だと。少なくとも、優奈よりは大切にされていると。だが、
「あの女、また何をしでかした……?!」誠は諦めずに優奈に電話をかけ続けた。しかし、相変わらず繋がらなかった。これまでにない不安が胸を締めつけ、彼は苛立ちを募らせた。そのとき、休暇を終えた家政婦たちが戻ってきた。屋敷に入るなり誠の姿を見つけた。「奥様は?どこへ行った?」誠に問い詰められ、二人の家政婦はそろって首を振った。「旦那様、奥様は私たちに十日間の休暇をくださいました。今戻ったばかりです」「なんだと?!」誠の不安は一気に膨れ上がった。彼は屋敷の中を駆け回り、隅々まで探したが、どこにも優奈の姿はなかった。優奈に関するものがすべて消え去っていた。タオルも歯ブラシも、毎日使っていたはずの生活用品でさえ、誠のものしか残っていなかった。階段の上に立ち、吹き抜けを見下ろしながら、彼の胸は激しく波打った。危険な考えが頭をよぎった――もしかして、優奈は本当に彼の元を去ったのか?「そんなはずがない!」誠は怒鳴った。優奈が自分を捨てる?ありえない!あの女には帰る家もない、自分に頼るしかないはずだ!なのに、なぜ……?きっと拗ねているだけだ。探させて、機嫌を取らせようとしているんだ。誠はまだ確信していた。優奈は彼なしでは生きていけないと。そこへ、家政婦の一人が誠の表情を見て、少し迷ったあとで言った。「旦那様……実は、十日前の夜にちょっとした出来事がありまして……」「何があった?」誠は食い気味に問い詰めた。家政婦は、優奈が足を怪我し、熱を出しながら誠に電話をかけたが、別の女性が出たという出来事を話した。誠はその場に崩れ落ちた。そんなことがあったなんて、彼は全く知らなかった。雪乃は何も言わなかった!もし知っていたら、絶対にすぐ戻っていたのに……まさか、優奈はこの件を根に持って、家を出たのか……?「そうだ、まだあるんです」家政婦は慌てて自室へ戻り、優奈に処分するよう頼まれた結婚八周年の記念品を持ってきた。「旦那様、これ、まだ捨ててませんでした。念のため、お伺いしようかと……」言い終わる前に、誠は乱暴に箱を奪い取り、蓋を開けた。当時、開けようとした瞬間に雪乃に呼ばれ、そのままになっていた。だから、この八周年の贈り物が何かも知らない。もしかしたら、優奈を見つける手がかりがあるかもしれ
雪乃はそう言い終えると電話を切った。二人の家政婦は息をひそめ、今さらながらこの電話をかけたことを深く後悔していた。優奈をどう慰めるべきか考えていると、食卓の椅子に座っていた彼女が自ら立ち上がり、まるで何事もなかったかのように二人に向かって言った。「ここを片付けて、休んでいいわ」そう言うと、優奈は足を引きずりながら階段を上っていった。この瞬間、彼女の心の痛みは、身体の痛みよりもはるかに深かった。家政婦たちは、彼女の寂しげな後ろ姿を見て、胸が締めつけられるような思いだった。部屋に戻ると、優奈は一人きりでベッドに横たわり、暗闇に包まれた窓の外をじっと見つめた。これが何度目の独りきりの夜なのか、もう数えることすらできない。一筋の涙が、静かに彼女の目尻を伝い、枕に落ちた。人は病気になると弱くなるものだ。優奈も例外ではなかった。彼女はただ、誰かの温もりが欲しかった。けれど、それを得ることはできず、抱きしめるのは布団だけ。「高橋誠……本当に私を失うのよ……それで、あなたは悲しむの……?」優奈はかすかに呟き、そのまま眠りに落ちた。翌朝、優奈は家政婦たちに十日間の休暇を与えた。残されたわずかな時間、もう誰にも邪魔されたくなかった。最後の数日間、優奈は行きたかった公園へ行き、食べたかった料理を味わい、母校を訪れた。誠が帰ってきたのは、優奈が去る前夜のことだった。夕食をとっていた優奈は、家の中に入ってくる誠の姿を見た。彼は当然のように彼女の向かいの席に腰を下ろした。誠は優奈を一瞥し、口元に得意げな笑みを浮かべた。優奈が雪乃とのことをすべて知ったはずなのに、それでも大人しく家で自分を待っている。騒ぐこともせず、黙って受け入れている。――やはり、この女は俺なしでは生きていけないんだ。誠はそう確信し、優奈に「逃げ道」を作ってやることにした。「あの夜、酔ってたんだ。だから、あんなこと言ったのは冗談だったんだよ。ただ、アイツらをからかいたかっただけさ」その言葉を聞いた瞬間、優奈の食欲は完全に消え失せた。彼女は箸を置き、目の前の男を冷たく見つめた。「私を使って友達をからかってたの? へえ……ずいぶん友情に厚いのね」「優奈、もう謝っただろ? ここ数日、俺は会社のことで忙しかったんだ。二、三日したら、結婚
「うん……どうやってケガしたんですか?救急車は呼びましたか?私が呼んであげましょ……」優奈がスマホを取り出そうとした瞬間、相手に制止された。「必要ない。もうすぐ俺の仲間が来る」優奈は眉をひそめ、その男をじっと見つめた。すると、足音が聞こえ、数人の男が走ってきて、負傷した男を支えながら立たせた。優奈は少し離れたところで、その様子を見つめた。これはチンピラ同士の喧嘩か何か?負傷した男は、路地の出口まで歩くと、ふと立ち止まり、振り返って尋ねた。「名前は?」優奈は思考を戻し、名乗ることなく答えた。「名前なんて知らなくてもいいでしょ。相当ひどいケガしてるから、ちゃんと病院に行きなさい」男は微笑み、夜の闇の中で低く魅惑的な声を響かせた。「覚えておけ。俺の名前は白石海斗(しらいし かいと)だ」そう言うと、仲間に支えられながら車に乗り込み、去っていった。優奈は彼が完全に見えなくなったのを確認してから、路地を抜け、自宅へと帰った。その夜、あまりにも感情が高ぶったせいなのか、優奈は深夜に発熱した。骨の髄まで痛みが走り、息をするのも辛かった。まるで全身が炎に焼かれているようだった。ふらつきながらベッドから起き上がり、一階へ水を取りに行った。階段を降りるのも一苦労で、何度か足がもつれて転げ落ちそうになった。朦朧とした意識の中で、優奈はふと昔のことを思い出した。熱を出したとき、ベッドからトイレに行くのさえ誠が抱えてくれた。寒気で震えていると、彼は抱きしめて温めてくれた。高熱でうなされると、自ら冷水を浴びて、濡れた身体で彼女を抱きしめて体温を下げてくれた。彼はいつも言っていた。「天に願うよ、優奈の苦しみが全部俺に移りますように。俺の優奈は健康で、ずっと元気でいてほしい」でも今は……優奈は、乾いた唇に自嘲気味の笑みを浮かべた。今の誠にとって、一番大事なのは雪乃とその子供なんでしょ?だったら、彼がこれまで自分にしてくれたことは、一体何だったの?残酷すぎる……誠は、優奈の心を完全に開かせ、幸福に溺れさせた後、無情に突き落とした。まるで彼女の心臓を生きたまま引き裂き、地面に放り投げて踏みにじるように……優奈はふらつきながらテーブルにたどり着き、水の入ったコップを手に取った。しかし、手が震えていて
二人の子どもができたのは、本当に突然のことだった。八年も一緒にいたのに、これまで何の兆しもなかったのだから。優奈は体が冷えやすく、妊娠しづらい体質だった。だからこそ、彼女がその子を諦める決断をしたとき、どれほど胸が裂けそうだったかは、彼女にしかわからなかった。今この瞬間、最愛の男に裏切られた心の痛みと、我が子を失った痛みが一気に押し寄せ、優奈の胸を締めつけていた。彼女は手を壁について、うつむいた。目には涙が溢れていた。「江口優奈、ほんとにバカだよね……こんなクズを八年も、ずっと愛してたなんて……」かすれた声が震えた。骨の奥まで蝕むような痛みに、息をするのもつらかった。どうすればこの苦しみを少しでも和らげられるのか、わからない。それは八年もの想いだったのに……この一年、高橋誠はずっと佐藤雪乃と一緒だった。旅行に行ったり、逢瀬を重ねたり……その姿を思い出すたびに、優奈は苦笑した。馬鹿みたい……自分が、あまりにも馬鹿すぎた。その頃、個室の中では数人の男たちがまだふざけた笑い声を上げていた。それを聞いた優奈は、ついに我慢の限界に達し、ドアを蹴り開けた。怒りに目を赤くした優奈の姿を見て、誠の笑みは凍りついた。取り巻きの男たちも同様に動揺し、手にしていたグラスを持ったまま、飲むべきか置くべきかすらわからずに固まっていた。誠はまず先に口を開いた。気遣うように優奈に声をかけた。「いつ来たんだ? 連絡してくれれば迎えに行ったのに」優奈は冷ややかな目で部屋を一瞥し、心の底から吐き気がした。嘲るように言った。「迎えに来てもらってたら、あんたのつまらない本音は聞けなかったでしょ」誠は彼女が何も聞いていないと思っていたらしく、戸惑った表情を見せた。だが、酒が入っているし、仲間たちみんなの前だから、恥をかくわけにはいかない。誠は鼻で笑い、グラスを置いて言った。「聞いてたからってどうだって言うんだ?俺の言ってること、間違ってるか?騒ぐなって。ちゃんと結婚するって言っただろ?高橋家の奥さんの座は、君以外いない」「ふぅん?それって、私に感謝しろってこと?哀れんでやってるって言いたいわけ?」優奈は落胆のあまり、冷たく笑った。そのとき、前に佐藤雪乃を義姉さんと呼んでいた男が出しゃばってきた。「義姉さん、そんなに気にしないで。
雪乃は優奈を睨みつけ、目を赤くしながら、膨らんだお腹を抱えて明らかに怒りと悲しみをにじませた。「邪魔しちゃったかしら?」優奈はわざとらしく尋ねた。「優奈ちゃん、誤解しないで。彼女は仕事を辞めさせられて逆恨みしてるだけで……」誠が言い訳を続ける前に、雪乃が腹を突き出して一歩前に出た。「違うのよ!あんた本気で彼があんたのこと愛してると思ってるの!?はっきり言ってやる、実はこのお腹の……」パチンッ!誠の平手打ちが雪乃の頬を打ち、その暴走を止めた。優奈は眉をわずかにひそめ、黙って雪乃を見つめた。雪乃もまさか自分が殴られるとは思っていなかったのか、頬を押さえて呆然と誠を見返した。「出て行け!ここで何の騒ぎだ!」誠は本気で怒っていた。雪乃は最後にもう一度優奈を見た。目には悔しさと怒りが渦巻いていた。優奈は口元を少し上げて、まるであざ笑うかのように彼女を見返した。そして、雪乃はバタンとドアを叩きつけるようにして出て行った。誠はすぐに優奈に向き直り、焦ったように言った。「彼女の言うこと、真に受けないで。仕事がなくなって取り乱してただけさ。俺が君を愛してないなんて、そんなわけないだろ?」優奈は誠を見つめながら、なんとも言えない嫌悪感に襲われていた。さっき、彼が自分への気持ちはなく、ただ罪悪感から一緒にいると言ったのを、この耳ではっきり聞いたばかりだ。この男は、本当に演技がうまい。みんなを騙し通してきた。彼女も含めて。「そう?どれくらい愛してるの?」優奈はわざとらしく尋ねた。誠は優しい笑みを浮かべて言った。「君は俺の命そのものだよ、優奈ちゃん。俺たち、こんなに長く一緒にいて、誰にも負けない絆があるんだ。君は俺のものだ。そして俺も君のもの。他の誰にも渡さない」誠の芝居がかった「深い愛」を演じる様子を見て、優奈は静かにこう言った。「じゃあ、その命、そろそろ尽きるわね」――あと八日で。「え?」誠は聞き返した。「ううん、なんでもない。もしあなたが私を騙してたら、天がその命を奪うわよって言っただけ」優奈は笑いながら答えた。誠は眉をしかめたが、優奈はそれ以上何も言わず、店員にウェディングドレスを包むように指示した。どうせ着るつもりもないし、真剣に選ぶ気もなかった。帰り道、誠が言った。「さっきさ、俺の友達