Semua Bab 桜華、戦場に舞う: Bab 1011 - Bab 1020

1029 Bab

第1011話

さくらは、儀姫が数文の銭を拾い集めていた姿を思い出し、本当に行き詰まっているのだと実感した。だが、この一件は厄介な問題をはらんでいた。確かに最初は紹田夫人の母を困らせるだけのつもりだったのかもしれない。しかし結果的には紹田夫人の流産を引き起こし、その後には北條涼子を池に突き落とすまでに至った。しかも北條涼子が泳げないことは、儀姫も承知していたはずだ。つまりは、命を狙う意図があったとしか考えられない。「良くないことは分かってるわ」紫乃は真面目な表情を作りながら言った。「でも、北條涼子が池に落とされたって聞いて、少し笑いそうになってしまって……」そう言うと、「南無阿弥陀仏、お慈悲を」と唱えて、失った功徳を取り戻そうとした。原さくらは眉を寄せた。「理解できないのは、どうしてこんなに愚かなの?もう姫君の身分じゃないし、平陽侯爵家でも疎まれているのに。母上は幽閉され、父上は処刑されたというのに、なぜこんな無茶を……本当に生きる気があるのかしら」「もし生きる気がないのなら、工房に助けを求めたりはしませんよ」有田先生が指摘した。さくらは横目で玄武を見た。「あなたはどう思う?」「まだ知られていない事情があるのかもしれんな」玄武は静かに答えた。「有馬執事も全てを把握しているわけではあるまい。大きな屋敷での醜聞は、普通なら徹底的に隠されるものだ。ただ、少なくとも平陽侯爵老夫人は、儀姫との離縁は避けられないと判断した。おそらく、高利貸しの件も知っていたのだろう」さくらは頷いた。「色々な問題が重なって、老夫人も我慢の限界に達したのね。平陽侯爵様自身は決断力に欠けるし、屋敷を支えているのは老夫人だもの。それに……平陽侯爵様には儀姫への夫婦らしい愛情なんて、最初から無かったのでしょう」「互いに嫌悪し合う夫婦というのは、本当に悲しいものだな」玄武は深い溜息をついた。さくらは軽く相槌を打ったが、その心は夫婦の情愛という方向には向いていなかった。愛情のない夫婦のことを、部外者が論じても意味がない。「工房を開いてから今まで、誰も来てくれなかったわ。儀姫は元姫君だった。もし彼女を受け入れることができれば、良い前例になるかもしれない。ただし……」さくらは慎重に言葉を選んだ。「それは彼女が本当に紹田夫人の子を害そうとしていなかったという前提でね。この件を整理してみまし
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第1012話

しかし、さくらが平陽侯爵老夫人を訪ねる前に、翌日には工房についての噂が街中に広まっていた。「北冥親王妃も清家夫人も偽善者だ」「困窮した離縁の女が助けを求めたというのに、門前払いどころか、散々な仕打ちをしたそうだ」もともと工房に対して敵意を抱いていた人々は少なくなかった。離縁された女性たちを受け入れるなど礼教に反すると非難の声を上げ、離縁された者には相応の理由があるはずだと言い張った。子を産めぬことすら、罪とされた。この噂は瞬く間に広がり、まるで崩れ落ちる壁に群がるように、民衆の批判の声は日に日に大きくなっていった。「偽善の極み」「何か裏があるに違いない」「金儲けが目的なのだろう」……様々な憶測が飛び交った。その夜、紫乃は机を激しく叩きながら怒りを爆発させた。「儀姫一人でこれほどの騒ぎを起こせるはずがない!」言い終わるや否や、紫乃は風のように部屋を飛び出した。「どこへ行くの?」さくらが後ろから声をかけた。「都景楼よ。誰かに調べてもらうわ」振り返りもせずに答えた。紫乃は怒りで全身を震わせていた。工房には心血を注いできた。その想いは純粋なものだった。同じ境遇の女性たちの運命に心を寄せ、工房が彼女たちの終生の支えとなることを願っていたのだ。このような中傷は、決して許せなかった。さくらも心中穏やかではなかったが、紫乃ほど取り乱してはいなかった。このような事業が順風満帆にいくはずがないと、彼女は理解していた。世の中には善意ある裕福な人々も多いはず。もし容易なことなら、とうの昔に誰かが始めていただろう。さくらはまず使いを出し、平陽侯爵老夫人に明日の訪問を告げる手紙を送った。しかし返事は意外なものだった。老夫人は病床に伏しており、体調が回復次第、自ら北冥親王邸を訪れるとのことだった。本当に病気なのか、それともこのような時期に関わりたくないだけなのか。さくらには判断がつかなかった。とにかく、老夫人が病を理由に面会を断った以上、紫乃の調査に期待するしかなかった。さくらにも今、やるべきことがあった。御城番からの一部の者たちを追い出す計画を進めていた。数日のうちに実行されるだろう。その時は、陛下の怒りも避けられまい。紫乃の調査は速やかに結果を出した。燕良親王妃の沢村氏が金を使って、伊織屋への攻撃を煽っていたのだ。沢村氏が都に来て以
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第1013話

都に来てから、燕良親王は沢村氏に沢村紫乃との接触を促していた。血のつながりがある以上、頻繁に往来すれば、おのずと血縁の情は上原さくらとの友情を超えるはずだと考えていたのだ。だが、無能で気まぐれな沢村氏は、一、二度の失敗で諦めてしまった。「あの紫乃ときたら、身分相応の態度もとれないのよ」と不平を漏らし、「今や私は親王妃なのだから、こんな屈辱は受けられません。それに、姉妹の付き合いをするなら、紫乃の方から私を訪ねてくるべきでしょう」と強情を張った。この態度に燕良親王は腹を立てると同時に困惑もした。特別に両者の関係を調査させたほどだ。姉妹の間に何か確執でもあったのかと思いきや、むしろ幼い頃は仲が良かったという。ただ、紫乃が梅月山の赤炎宗で武芸の修行を始めてから、自然と疎遠になっただけのことだった。親王からすれば、これは十分に修復可能な関係に思えた。今回の紫乃の来訪が何を目的としているにせよ、姉妹の絆を取り戻すには絶好の機会だった。すぐさま沈氏を呼び寄せる指示を出した。まもなく、沢村氏は侍女の春杏を従えて書斎に現れた。眉には喜色を湛えながら、粗雑な礼を行う。「親王様、お呼びとは何用でしょうか?」燕良親王は沢村氏の不作法な礼儀作法を目にして、内心で溜息をついた。皇族の妻となって久しいというのに、礼儀作法を学ぼうという意思すら見せず、日々側室との諍いに明け暮れている。不快感を押し殺しながら、親王は言った。「お前の従妹の沢村紫乃が来ている。すでに正庁に案内させた。これから私も同席するが、この機会に夕食でもてなすがよい。姉妹らしく腹を割って話をするのだ。大切な客人をないがしろにするなよ、分かったか?」書斎に呼ばれた時、沢村氏は最初、心を躍らせていた。普段は金森側妃以外、立ち入ることすら許されない場所なのだから。だが、それが紫乃の来訪のためと分かると、途端に表情が曇った。あの従妹のことを思い出すと、心中穏やかではいられなかった。傲慢この上ない態度で、自分が親王妃となった今でさえ、まるで眼中にないかのような振る舞い……「聞いているのか?」親王の声が少し強まった。「はい、かしこまりました」沢村氏は慌てて心を取り直した。親王は立ち上がると、思いがけず沢村氏の手を取った。「参ろう。私は挨拶だけして退くから、姉妹水入らずで昔話でもするがよい」
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第1014話

「警告しておくわ、万紅」紫乃は人差し指を突きつけ、その目は炎のように燃えていた。「もし二度と儀姫の手先となって伊織屋の悪評を流すようなことがあれば……その舌を引き抜いてやる」言い終わるや、紫乃は袖を翻して大股で立ち去った。最後まで、燕良親王には一瞥もくれなかった。門外の護衛たちが駆け寄ろうとしたが、親王は振り返って手を上げ、下がるよう指示した。紫乃は冷ややかな嘲笑を一つ残し、颯爽と姿を消した。燕良親王は去りゆく紫乃の後ろ姿を見つめていた。鮮やかな紅衣が目を射るようで、その凛とした態度、恐れを知らぬ大胆さ、傲然とした姿勢……まさにこれこそが、自分が本当に求めていた沢村家の娘だったのだ。「親王様……」沢村氏が涙に濡れた顔を押さえながら嗚咽を漏らした。「私を打ったのに、なぜ見逃されたのです?」腫れ上がった頬から涙が雨のように零れ落ちる。親王は視線を戻すと、先程までの優しい眼差しは消え失せ、眉間に深い皺を寄せていた。同じ沢村家の血を引くというのに、なぜこれほどまでの違いが……「親王様!」冷ややかな目つきに不安を覚えた沢村氏は、さらに一歩近づき、先程の優しさにすがろうとした。「痛いのです。どうか、私の恨みを晴らしてください」親王は眉間の皺を解かないまま問いただした。「今の話だが、お前が儀姫と手を組んで伊織屋の噂を流しているというのは、どういうことだ?」高利貸しの件は親王に黙っていた。沢村氏では固く禁じられていることだし、親王の考えも分からない。厳しい表情に問い詰められ、沢村氏の動揺は増すばかり。「わ……私はただ……儀姫が離縁され、工房に助けを求めたのに、上原に断られたと聞いて……不憫に思っただけです」「ほう」親王は冷笑を浮かべた。「わが妃が、北冥親王妃に刃向かうほどの力を持っているとは知らなかったぞ」涙を拭いながら、沢村氏は無邪気な瞳を向けた。「ただ……儀姫は親王様の姪君。路頭に迷わせるのが忍びなく、少しばかり助力を……」「では何故」親王は容赦なく畳みかけた。「平陽侯爵家に直談判しなかったのだ?そこまで心配なら、親王家で引き取れば良かったのではないか?」「妾は……」沢村氏は言葉を濁らせた。「母上が謀反の罪で官庁に幽閉されておりますゆえ、お引き取りする勇気が……」親王は突如、沢村氏の顎を掴んだ。「母親が謀反人と知ってい
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第1015話

書斎に戻った燕良親王に、無相は手にしていた書物を置き、立ち上がって尋ねた。「親王様、沢村紫乃は何用で?王妃様とは話が……」「役立たずめ」親王は吐き捨てるように言った。「密かに儀姫と通じ、上原さくらに対抗するなど……」「親王様」無相は首を振った。「彼女を娶ったことが、そもそもの誤りでした。沢村家でも取るに足らぬ存在。家主でさえ、彼女のために親王様との関係を深めようとはしない。他に得られる利もございません」「同じ沢村家の娘とはいえ、沢村紫乃と比べれば、千倍も万倍も劣る」親王は座に着くと、目を細めた。その瞳の奥には毒蛇のような冷徹な光が宿っていた。「先ほどの一件を見よ。颯爽と現れ、一つの平手打ちと警告を残して立ち去る。無駄な動きは一つもない。あれほどの女を妃とできていれば……」親王は舌打ちした。「沢村家の全面支援を得られただけでなく、あのような有能な助力者も手に入れられた。紫乃一人で、わが配下の何十人分もの価値があろう」「親王様」無相は慎重に進言した。「今は四方に虎狼が潜む時。北冥親王家の人間に手を出すのは危険かと」だが親王は自らの計略に沈潜したままだった。「無能な妃なら、賢い者に席を譲らせればよい」「まさか……」無相は息を呑んだ。「それは危険すぎます。沢村紫乃は野馬のよう。今となっては、到底手なずけられません」「選択の余地はないのだ」親王の声は暗く沈んでいた。「影森茨子を失い、都での足場は揺らいでいる。沢村氏は無能、金森側妃では名家の婦人たちとの交際もままならん。一方、紫乃は都に確かな人脈を持ち、上原さくらとの親交も深い。彼女を娶れば、上原も多少は目こぼしをしてくれようというもの」「性格が違えば、同じ策も異なる結果を生みます」無相は首を振った。「親王様のお心が乱れております。焦りは禍根となる。まずは心を静め、より良い活路を見出すべき。さもなくば……」無相は深いため息をついた。「この野望は諦めるしかございますまい」「放棄などできぬ!」親王の声が突如高く響いた。「これまでの年月をかけた経営を、どうして諦められようか」数度の深い呼吸を経て、親王は落ち着きを取り戻した。「先生の仰る通り、私も焦りすぎていた。ただ……陛下の真意が掴めぬ。まるで私を疑ってなどいないかのように振る舞われる。目を合わせる時も、変わらぬ眼差しで……あの方の深さを、私
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第1016話

燕良親王の表情が落ち着きを失っていた。「椎名青舞は確かに親房甲虎の心を掴んだ。だが奴はまだ軍の心を掴めていない。それを焦ってはならん。平安京も同様だ。しかし、かといって手をこまねいているわけにもいかん。沢村が役立たずなら、紫乃を使えばよい。無相先生の懸念は杞憂だ。沢村万紅も上原さくらも共に王妃の位にある。この紫乃が親王妃の座に興味を示さぬはずがない。あれほどの気位の高い女が、並の男など眼中にないのだからな」「でも親王様……」無相は必死に諫めたが、燕良親王は自らの策略に酔いしれ、耳を貸す様子もない。どんな女でも、自らの操を粗末にはしまい。一度、身を任せてしまえば、後には引けなくなる。その時、王妃の座を約束すれば、誰よりも喜ぶに違いないと。さくらは既に親王邸に戻っていた。紅竹から紫乃が燕良親王邸を訪れたとの報告を受けた時、ちょうど村松碧との相談事を終えたところだった。一方、紫乃も親王邸に戻っていた。あの平手打ちの一件で、一瞬は溜飲が下がったものの、すぐに不安が込み上げてきた。自分のことではなく、玄武とさくらに迷惑がかかることを懸念していた。天皇陛下の密偵が燕良親王邸を監視していることは周知の事実だったからだ。さくらの姿を認めるや否や、紫乃は立ち上がって迎えに出た。「ごめんなさい、さくら。私、衝動的に燕良親王邸へ行ってしまって……きっと迷惑をかけてしまったわ」と、後悔の色を滲ませながら言った。さくらは紫乃を慰めるために急いで戻って来たのだが、むしろ紫乃の方が先に後悔の念を口にしていた。さくらは微笑みながら紫乃の腕に手を添えた。「燕良親王邸で大騒ぎでもしたの?」「沢村万紅を平手打ちしてしまったわ」紫乃は憂鬱そうに呟いた。「痛快だった?」さくらは目尻を下げて微笑んだ。「その時は良かったけど……玄武様とあなたに迷惑がかかりそうで」さくらは紫乃を椅子に座らせ、隣に腰を下ろした。そしてお珠を呼んで燕の巣のお椀を持ってこさせた。「好きにすれば良いのよ。たとえ面倒なことになったとしても、私たちで何とかできるわ」「そうは言っても……今回は本当に軽率だったわ」紫乃は顔を曇らせた。自分の感情をうまく制御できると思っていたのに、一瞬で理性が吹き飛んでしまった失態が悔やまれた。さくらは立ち上がって紫乃の背中を優しく撫でた。「土で作った人形だって
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第1017話

応接間で、紫乃は心からの謝罪を述べる燕良親王妃を冷ややかな目で見つめていた。万紅をよく知る紫乃でなければ、この演技に騙されていたかもしれない。「本当なのよ。信じて欲しいわ。儀姫が私のところへ泣きつい来て、助けを求めたの。一時の情に負けただけなの。あなたが帰った後、親王様に随分と叱られたわ。工房は女性たちの幸せのためにあるのに、私が泥を塗るなんて……もう分かったわ。許してくれないかしら?」紫乃は一言も信じなかった。儀姫を助けようとしたという言葉も、燕良親王が女性の幸せを気遣ったという話も、全てが嘘だと分かっていた。さくらの叔母、前燕良親王妃の死の真相を、紫乃は知っていた。他の者は知らなくとも、紫乃だけは知っていたのだ。紫乃は平然と相手の話に耳を傾けながら、その見事なまでに計算された二筋の涙を観察していた。姉が燕良親王妃になってから、他の才能は磨かれなかったものの、芝居の技術だけは見事に上達したようだ。さぞや普段から観劇に励んでいることだろう。「お言葉は綺麗ですこと。でも、謝罪がご用件なら、なぜ前もって知らせを?まさか、私がここにいると決め込んでいらしたの?」その言葉に、沢村氏の表情が一瞬硬くなった。感情的な演技に気を取られ、こんな些細な指摘を予想していなかったようだ。そこを春杏が素早く取り繕った。膝を折って、「申し上げます。王妃様は昨夜一晩中お泣きになられ、初めは参上する勇気もございませんでした。ですが親王様が、過ちを犯した以上、潔く認めて沢村お嬢様のお許しを請うべきだと。姉妹の絆を損ねてはならないと仰って。それで王妃様は直ちに贈り物を用意させ、もし沢村お嬢様がいらっしゃらなければ、お戻りになるまでお待ちするつもりでございました」この言葉なら紫乃の踵にも届かないだろう、と紫乃は内心で冷笑した。昨夜、自分の軽率さを反省した紫乃は、これからは慎重に事を運ぼうと決意していた。この謝罪の後に何が待ち受けているのか、見極めようではないか。春杏の言葉に乗じて、紫乃は穏やかに答えた。「確かに燕良親王様のおっしゃる通りですわ。私たち姉妹が、こんなことで仲たがいするなんて。噂を打ち消していただければ、私も水に流しましょう」「本当に?」沢村氏は目頭の涙を拭いながら、内心で首を傾げていた。昨日まであれほど激高していた紫乃が、なぜ今日はこうも話
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第1018話

翌朝の朝議が終わると、玄武は最近の再審理案件を持って御書院へ参内した。例によって謀反事件の捜査進捗も報告するためである。未だ結審していない謀反事件について、刑部は捜査を継続していた。定期的な報告は形式上のものに過ぎず、疑いの目は既に燕良親王に向けられていたものの、天皇陛下からは捜査の勅命も下らず、表立って言及することすらなかった。玄武が暗に示唆を試みても、陛下は何も仰らなかった。清和天皇は案件簿に目を通し、謀反事件の経過報告を聞き終えると、「実質的な進展はないようだな」進展させられるのは、陛下のお言葉一つなのに——玄武は心中で呟いた。天皇は案件簿を脇に置き、「引き続き捜査を続けよ」と言い放った。「承知いたしました」まだその場に立ち尽くす玄武を見て、天皇が尋ねた。「他に何か?」「さほど重要な案件ではございませんが」玄武は微笑んで答えた。「本日、燕良親王殿下が私どもを夕餉にお招きくださいました」天皇は顔を上げ、一瞬驚きの色を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。「そう言えば、叔父上は病の養生のため都に戻って来て、しばらく経つな。本来なら後輩である貴殿が招くべきところだが、先方からの誘いならば、行くがよい」玄武は白い歯を覗かせる明るい笑顔を見せた。「私もそう考えておりました」珍しく柔和な表情を浮かべた天皇が頷いた。「うむ。燕良親王邸では珍しい花々を植えていると聞く。よく見て来るがよい」玄武は再び輝くような笑顔を見せた。「まさにその通りに」天皇は笑みを漏らし、「もう行ってよい。宰相が待っておる」「では、これにて退出させていただきます」玄武は深々と一礼し、後ずさりながら御書院を後にした。天皇は玄武の後ろ姿を見つめながら、唇の端の笑みを隠しきれずにいた。胸の内がなぜか不思議と軽くなっていた。謀反事件以来、巨大な岩のような重圧が絶えず心を押し付けていた。誰を見ても疑わしく思え、その疑惑の影が徐々に燕良親王へと収束していくにつれ、その重圧は増すばかりで、時として息苦しさを覚えるほどだった。燕良州の長年の経営で、燕良親王がどれほどの勢力を持つに至ったか、未だ把握できていない。派遣した密偵たちは、一人として戻っては来なかった。ここ数日、眠れぬ夜が続いていた。弟の玄武に捜査を命じることも考えたが、踏み切れずにいた。
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第1019話

無相は小さく溜息をつき、「通常の女性なら、親王様のお薬で事足りますが……相手は沢村紫乃。並の薬では対処できませぬ」「ほう?」燕良親王は不思議そうに問うた。「薬の効果は情を動かすことではないのか?お前の薬には何か特別な効能でもあるのか?」「親王様のお薬は、厳密には情を動かすものではなく、ただ欲を掻き立てるだけ。これは蠱毒の一種でして、脳を麻痺させ、交わった相手に情が芽生えるよう仕向けるのです」燕良親王の目が輝いた。「そのような神薬があったとは!なぜ早く出さなかった?もし彼女がわしに心を寄せるようになれば、わしの望みは彼女の望みともなる」「しかし親王様」無相は苦笑を浮かべた。「この情というのは本心に反するもの。長くは持ちませぬ」「では、どれほどの期間だ?」「せいぜい十日か半月ほどでしょう」燕良親王は陶器の小瓶を受け取り、その瞳に危険な光が宿った。「効果が切れたら、また使えばよいではないか。そうすれば、永遠に彼女を縛り付けておける」「それは……」無相の眉間に深い皺が刻まれた。「これは毒薬です。体に相応の害がございます。過去に三度使用した例がありますが、その後、被害者は痴呆の症状を呈しました。回数が増えれば、脳を完全に破壊し、白痴同然に。最悪の場合、命を落とすことも」「それも悪くはない」燕良親王の声には血に飢えたような響きがあった。「痴呆となれば扱いやすい。そうなれば沢村家も、わしに彼女の面倒を見てくれと懇願してくるだろう」無相は親王の暴走を目の当たりにし、諫言せずにはいられなかった。「親王様、人は計画を立て、天がその成否を決めると申します。しかし……たった一人を操って全体を掌握しようというのは、余りにも危険な賭けでございます。むしろ、私どもの首を絞めることにもなりかねません」無相は心中で思案を巡らせていた。確かに紫乃には相応の影響力がある。だが、沢村家も上原さくらも、彼女一人のために譲歩するほどの重みはない。そして何より、この計画は余りにも危険すぎる。失敗すれば、必ず反撃を受けることになるだろう。薬を差し出したのは、せめて紫乃の心を一時的にでも掴むため。たとえ束の間でも、彼女が親王様の側に立ってくれれば、北冥親王家からの圧力も幾分は和らぐはずだ。今は燕良州への撤退を考えるべき時期。紫乃を連れ帰った後で、ゆっくりと次の一手
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第1020話

酉の刻、北冥親王家の二台の馬車が時刻通りに燕良親王邸の門前に到着した。門番が慌ただしく知らせに走ると、燕良親王邸は中門を開いて出迎えるという破格の待遇で応えた。沢村氏と金森側妃は玉簡、玉蛍の両姫君を伴い、門前で出迎えた。紫乃は女性の身ゆえ、影森晨之介と影森哉年は出迎えの列には加わらなかった。二台の馬車を目にした瞬間、金森側妃の胸が凍りついた。燕良親王の計画を知る彼女には分かっていた。今宵は紫乃一人のはずだった。なぜ二台もの馬車が?玄武とさくらが馬車から降り立つ姿を見た時、金森側妃の表情が一瞬固まった。作り笑いが凍りついたように。なぜ、この二人が?「紫乃様だけとおっしゃっていたはず」金森側妃は歯を噛みしめながら、傍らの沢村氏に囁いた。「どういうことです?」沢村氏は心から喜んでいた。当初は紫乃だけを招くよう命じられていたが、まさか影森玄武と上原さくらまで来てくれるとは。これなら親王様も更にお喜びになるに違いない。そんな思いに浸っていた時、金森側妃の詰問するような口調に、沢村氏の表情が一転して険しくなった。「その口の利き方は何ですか?私にはこれだけの面子があってこその来訪です。あなたにその器量も力もないのなら、黙っていらっしゃい」金森側妃はこの愚かな女との言い争いには興味もない。傍らの侍女に向かって、「早く親王様にお知らせに」と命じた。侍女は慌ただしく応諾し、屋敷の奥へと駆けていった。書斎で報告を受けた燕良親王は、突然立ち上がった。「なに?玄武と上原さくらも来たというのか?」本来なら書斎に籠もり、紫乃には直接会わないつもりだった。金森側妃と沢村氏に二人の姫君を伴わせて接待させ、紫乃が薬を飲んだ後で、金森側妃が彼女をここへ連れて来るはずだった。燕良親王が驚きと怒りに震える中、無相はむしろ喜色を浮かべていた。侍女を下がらせてから、「親王様、これは絶好の機会ではございませぬか。これまで北冥親王邸へ幾度も足を運びましても冷遇され、私的な招待にも応じなかった影森玄武が、自ら来府されたのです。たとえ今は味方に引き込めずとも、表面上の関係は保てる。将来の可能性も開けましょう」当初から無相は玄武との関係改善を主張していた。ただ、北冥親王家は鉄壁で、懐柔も威嚇も効果なく、やむを得ず策を変えたのだ。今、相手から門を叩いてくるとは、願ってもな
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