「警告しておくわ、万紅」紫乃は人差し指を突きつけ、その目は炎のように燃えていた。「もし二度と儀姫の手先となって伊織屋の悪評を流すようなことがあれば……その舌を引き抜いてやる」言い終わるや、紫乃は袖を翻して大股で立ち去った。最後まで、燕良親王には一瞥もくれなかった。門外の護衛たちが駆け寄ろうとしたが、親王は振り返って手を上げ、下がるよう指示した。紫乃は冷ややかな嘲笑を一つ残し、颯爽と姿を消した。燕良親王は去りゆく紫乃の後ろ姿を見つめていた。鮮やかな紅衣が目を射るようで、その凛とした態度、恐れを知らぬ大胆さ、傲然とした姿勢……まさにこれこそが、自分が本当に求めていた沢村家の娘だったのだ。「親王様……」沢村氏が涙に濡れた顔を押さえながら嗚咽を漏らした。「私を打ったのに、なぜ見逃されたのです?」腫れ上がった頬から涙が雨のように零れ落ちる。親王は視線を戻すと、先程までの優しい眼差しは消え失せ、眉間に深い皺を寄せていた。同じ沢村家の血を引くというのに、なぜこれほどまでの違いが……「親王様!」冷ややかな目つきに不安を覚えた沢村氏は、さらに一歩近づき、先程の優しさにすがろうとした。「痛いのです。どうか、私の恨みを晴らしてください」親王は眉間の皺を解かないまま問いただした。「今の話だが、お前が儀姫と手を組んで伊織屋の噂を流しているというのは、どういうことだ?」高利貸しの件は親王に黙っていた。沢村氏では固く禁じられていることだし、親王の考えも分からない。厳しい表情に問い詰められ、沢村氏の動揺は増すばかり。「わ……私はただ……儀姫が離縁され、工房に助けを求めたのに、上原に断られたと聞いて……不憫に思っただけです」「ほう」親王は冷笑を浮かべた。「わが妃が、北冥親王妃に刃向かうほどの力を持っているとは知らなかったぞ」涙を拭いながら、沢村氏は無邪気な瞳を向けた。「ただ……儀姫は親王様の姪君。路頭に迷わせるのが忍びなく、少しばかり助力を……」「では何故」親王は容赦なく畳みかけた。「平陽侯爵家に直談判しなかったのだ?そこまで心配なら、親王家で引き取れば良かったのではないか?」「妾は……」沢村氏は言葉を濁らせた。「母上が謀反の罪で官庁に幽閉されておりますゆえ、お引き取りする勇気が……」親王は突如、沢村氏の顎を掴んだ。「母親が謀反人と知ってい
書斎に戻った燕良親王に、無相は手にしていた書物を置き、立ち上がって尋ねた。「親王様、沢村紫乃は何用で?王妃様とは話が……」「役立たずめ」親王は吐き捨てるように言った。「密かに儀姫と通じ、上原さくらに対抗するなど……」「親王様」無相は首を振った。「彼女を娶ったことが、そもそもの誤りでした。沢村家でも取るに足らぬ存在。家主でさえ、彼女のために親王様との関係を深めようとはしない。他に得られる利もございません」「同じ沢村家の娘とはいえ、沢村紫乃と比べれば、千倍も万倍も劣る」親王は座に着くと、目を細めた。その瞳の奥には毒蛇のような冷徹な光が宿っていた。「先ほどの一件を見よ。颯爽と現れ、一つの平手打ちと警告を残して立ち去る。無駄な動きは一つもない。あれほどの女を妃とできていれば……」親王は舌打ちした。「沢村家の全面支援を得られただけでなく、あのような有能な助力者も手に入れられた。紫乃一人で、わが配下の何十人分もの価値があろう」「親王様」無相は慎重に進言した。「今は四方に虎狼が潜む時。北冥親王家の人間に手を出すのは危険かと」だが親王は自らの計略に沈潜したままだった。「無能な妃なら、賢い者に席を譲らせればよい」「まさか……」無相は息を呑んだ。「それは危険すぎます。沢村紫乃は野馬のよう。今となっては、到底手なずけられません」「選択の余地はないのだ」親王の声は暗く沈んでいた。「影森茨子を失い、都での足場は揺らいでいる。沢村氏は無能、金森側妃では名家の婦人たちとの交際もままならん。一方、紫乃は都に確かな人脈を持ち、上原さくらとの親交も深い。彼女を娶れば、上原も多少は目こぼしをしてくれようというもの」「性格が違えば、同じ策も異なる結果を生みます」無相は首を振った。「親王様のお心が乱れております。焦りは禍根となる。まずは心を静め、より良い活路を見出すべき。さもなくば……」無相は深いため息をついた。「この野望は諦めるしかございますまい」「放棄などできぬ!」親王の声が突如高く響いた。「これまでの年月をかけた経営を、どうして諦められようか」数度の深い呼吸を経て、親王は落ち着きを取り戻した。「先生の仰る通り、私も焦りすぎていた。ただ……陛下の真意が掴めぬ。まるで私を疑ってなどいないかのように振る舞われる。目を合わせる時も、変わらぬ眼差しで……あの方の深さを、私
燕良親王の表情が落ち着きを失っていた。「椎名青舞は確かに親房甲虎の心を掴んだ。だが奴はまだ軍の心を掴めていない。それを焦ってはならん。平安京も同様だ。しかし、かといって手をこまねいているわけにもいかん。沢村が役立たずなら、紫乃を使えばよい。無相先生の懸念は杞憂だ。沢村万紅も上原さくらも共に王妃の位にある。この紫乃が親王妃の座に興味を示さぬはずがない。あれほどの気位の高い女が、並の男など眼中にないのだからな」「でも親王様……」無相は必死に諫めたが、燕良親王は自らの策略に酔いしれ、耳を貸す様子もない。どんな女でも、自らの操を粗末にはしまい。一度、身を任せてしまえば、後には引けなくなる。その時、王妃の座を約束すれば、誰よりも喜ぶに違いないと。さくらは既に親王邸に戻っていた。紅竹から紫乃が燕良親王邸を訪れたとの報告を受けた時、ちょうど村松碧との相談事を終えたところだった。一方、紫乃も親王邸に戻っていた。あの平手打ちの一件で、一瞬は溜飲が下がったものの、すぐに不安が込み上げてきた。自分のことではなく、玄武とさくらに迷惑がかかることを懸念していた。天皇陛下の密偵が燕良親王邸を監視していることは周知の事実だったからだ。さくらの姿を認めるや否や、紫乃は立ち上がって迎えに出た。「ごめんなさい、さくら。私、衝動的に燕良親王邸へ行ってしまって……きっと迷惑をかけてしまったわ」と、後悔の色を滲ませながら言った。さくらは紫乃を慰めるために急いで戻って来たのだが、むしろ紫乃の方が先に後悔の念を口にしていた。さくらは微笑みながら紫乃の腕に手を添えた。「燕良親王邸で大騒ぎでもしたの?」「沢村万紅を平手打ちしてしまったわ」紫乃は憂鬱そうに呟いた。「痛快だった?」さくらは目尻を下げて微笑んだ。「その時は良かったけど……玄武様とあなたに迷惑がかかりそうで」さくらは紫乃を椅子に座らせ、隣に腰を下ろした。そしてお珠を呼んで燕の巣のお椀を持ってこさせた。「好きにすれば良いのよ。たとえ面倒なことになったとしても、私たちで何とかできるわ」「そうは言っても……今回は本当に軽率だったわ」紫乃は顔を曇らせた。自分の感情をうまく制御できると思っていたのに、一瞬で理性が吹き飛んでしまった失態が悔やまれた。さくらは立ち上がって紫乃の背中を優しく撫でた。「土で作った人形だって
応接間で、紫乃は心からの謝罪を述べる燕良親王妃を冷ややかな目で見つめていた。万紅をよく知る紫乃でなければ、この演技に騙されていたかもしれない。「本当なのよ。信じて欲しいわ。儀姫が私のところへ泣きつい来て、助けを求めたの。一時の情に負けただけなの。あなたが帰った後、親王様に随分と叱られたわ。工房は女性たちの幸せのためにあるのに、私が泥を塗るなんて……もう分かったわ。許してくれないかしら?」紫乃は一言も信じなかった。儀姫を助けようとしたという言葉も、燕良親王が女性の幸せを気遣ったという話も、全てが嘘だと分かっていた。さくらの叔母、前燕良親王妃の死の真相を、紫乃は知っていた。他の者は知らなくとも、紫乃だけは知っていたのだ。紫乃は平然と相手の話に耳を傾けながら、その見事なまでに計算された二筋の涙を観察していた。姉が燕良親王妃になってから、他の才能は磨かれなかったものの、芝居の技術だけは見事に上達したようだ。さぞや普段から観劇に励んでいることだろう。「お言葉は綺麗ですこと。でも、謝罪がご用件なら、なぜ前もって知らせを?まさか、私がここにいると決め込んでいらしたの?」その言葉に、沢村氏の表情が一瞬硬くなった。感情的な演技に気を取られ、こんな些細な指摘を予想していなかったようだ。そこを春杏が素早く取り繕った。膝を折って、「申し上げます。王妃様は昨夜一晩中お泣きになられ、初めは参上する勇気もございませんでした。ですが親王様が、過ちを犯した以上、潔く認めて沢村お嬢様のお許しを請うべきだと。姉妹の絆を損ねてはならないと仰って。それで王妃様は直ちに贈り物を用意させ、もし沢村お嬢様がいらっしゃらなければ、お戻りになるまでお待ちするつもりでございました」この言葉なら紫乃の踵にも届かないだろう、と紫乃は内心で冷笑した。昨夜、自分の軽率さを反省した紫乃は、これからは慎重に事を運ぼうと決意していた。この謝罪の後に何が待ち受けているのか、見極めようではないか。春杏の言葉に乗じて、紫乃は穏やかに答えた。「確かに燕良親王様のおっしゃる通りですわ。私たち姉妹が、こんなことで仲たがいするなんて。噂を打ち消していただければ、私も水に流しましょう」「本当に?」沢村氏は目頭の涙を拭いながら、内心で首を傾げていた。昨日まであれほど激高していた紫乃が、なぜ今日はこうも話
翌朝の朝議が終わると、玄武は最近の再審理案件を持って御書院へ参内した。例によって謀反事件の捜査進捗も報告するためである。未だ結審していない謀反事件について、刑部は捜査を継続していた。定期的な報告は形式上のものに過ぎず、疑いの目は既に燕良親王に向けられていたものの、天皇陛下からは捜査の勅命も下らず、表立って言及することすらなかった。玄武が暗に示唆を試みても、陛下は何も仰らなかった。清和天皇は案件簿に目を通し、謀反事件の経過報告を聞き終えると、「実質的な進展はないようだな」進展させられるのは、陛下のお言葉一つなのに——玄武は心中で呟いた。天皇は案件簿を脇に置き、「引き続き捜査を続けよ」と言い放った。「承知いたしました」まだその場に立ち尽くす玄武を見て、天皇が尋ねた。「他に何か?」「さほど重要な案件ではございませんが」玄武は微笑んで答えた。「本日、燕良親王殿下が私どもを夕餉にお招きくださいました」天皇は顔を上げ、一瞬驚きの色を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。「そう言えば、叔父上は病の養生のため都に戻って来て、しばらく経つな。本来なら後輩である貴殿が招くべきところだが、先方からの誘いならば、行くがよい」玄武は白い歯を覗かせる明るい笑顔を見せた。「私もそう考えておりました」珍しく柔和な表情を浮かべた天皇が頷いた。「うむ。燕良親王邸では珍しい花々を植えていると聞く。よく見て来るがよい」玄武は再び輝くような笑顔を見せた。「まさにその通りに」天皇は笑みを漏らし、「もう行ってよい。宰相が待っておる」「では、これにて退出させていただきます」玄武は深々と一礼し、後ずさりながら御書院を後にした。天皇は玄武の後ろ姿を見つめながら、唇の端の笑みを隠しきれずにいた。胸の内がなぜか不思議と軽くなっていた。謀反事件以来、巨大な岩のような重圧が絶えず心を押し付けていた。誰を見ても疑わしく思え、その疑惑の影が徐々に燕良親王へと収束していくにつれ、その重圧は増すばかりで、時として息苦しさを覚えるほどだった。燕良州の長年の経営で、燕良親王がどれほどの勢力を持つに至ったか、未だ把握できていない。派遣した密偵たちは、一人として戻っては来なかった。ここ数日、眠れぬ夜が続いていた。弟の玄武に捜査を命じることも考えたが、踏み切れずにいた。
無相は小さく溜息をつき、「通常の女性なら、親王様のお薬で事足りますが……相手は沢村紫乃。並の薬では対処できませぬ」「ほう?」燕良親王は不思議そうに問うた。「薬の効果は情を動かすことではないのか?お前の薬には何か特別な効能でもあるのか?」「親王様のお薬は、厳密には情を動かすものではなく、ただ欲を掻き立てるだけ。これは蠱毒の一種でして、脳を麻痺させ、交わった相手に情が芽生えるよう仕向けるのです」燕良親王の目が輝いた。「そのような神薬があったとは!なぜ早く出さなかった?もし彼女がわしに心を寄せるようになれば、わしの望みは彼女の望みともなる」「しかし親王様」無相は苦笑を浮かべた。「この情というのは本心に反するもの。長くは持ちませぬ」「では、どれほどの期間だ?」「せいぜい十日か半月ほどでしょう」燕良親王は陶器の小瓶を受け取り、その瞳に危険な光が宿った。「効果が切れたら、また使えばよいではないか。そうすれば、永遠に彼女を縛り付けておける」「それは……」無相の眉間に深い皺が刻まれた。「これは毒薬です。体に相応の害がございます。過去に三度使用した例がありますが、その後、被害者は痴呆の症状を呈しました。回数が増えれば、脳を完全に破壊し、白痴同然に。最悪の場合、命を落とすことも」「それも悪くはない」燕良親王の声には血に飢えたような響きがあった。「痴呆となれば扱いやすい。そうなれば沢村家も、わしに彼女の面倒を見てくれと懇願してくるだろう」無相は親王の暴走を目の当たりにし、諫言せずにはいられなかった。「親王様、人は計画を立て、天がその成否を決めると申します。しかし……たった一人を操って全体を掌握しようというのは、余りにも危険な賭けでございます。むしろ、私どもの首を絞めることにもなりかねません」無相は心中で思案を巡らせていた。確かに紫乃には相応の影響力がある。だが、沢村家も上原さくらも、彼女一人のために譲歩するほどの重みはない。そして何より、この計画は余りにも危険すぎる。失敗すれば、必ず反撃を受けることになるだろう。薬を差し出したのは、せめて紫乃の心を一時的にでも掴むため。たとえ束の間でも、彼女が親王様の側に立ってくれれば、北冥親王家からの圧力も幾分は和らぐはずだ。今は燕良州への撤退を考えるべき時期。紫乃を連れ帰った後で、ゆっくりと次の一手
酉の刻、北冥親王家の二台の馬車が時刻通りに燕良親王邸の門前に到着した。門番が慌ただしく知らせに走ると、燕良親王邸は中門を開いて出迎えるという破格の待遇で応えた。沢村氏と金森側妃は玉簡、玉蛍の両姫君を伴い、門前で出迎えた。紫乃は女性の身ゆえ、影森晨之介と影森哉年は出迎えの列には加わらなかった。二台の馬車を目にした瞬間、金森側妃の胸が凍りついた。燕良親王の計画を知る彼女には分かっていた。今宵は紫乃一人のはずだった。なぜ二台もの馬車が?玄武とさくらが馬車から降り立つ姿を見た時、金森側妃の表情が一瞬固まった。作り笑いが凍りついたように。なぜ、この二人が?「紫乃様だけとおっしゃっていたはず」金森側妃は歯を噛みしめながら、傍らの沢村氏に囁いた。「どういうことです?」沢村氏は心から喜んでいた。当初は紫乃だけを招くよう命じられていたが、まさか影森玄武と上原さくらまで来てくれるとは。これなら親王様も更にお喜びになるに違いない。そんな思いに浸っていた時、金森側妃の詰問するような口調に、沢村氏の表情が一転して険しくなった。「その口の利き方は何ですか?私にはこれだけの面子があってこその来訪です。あなたにその器量も力もないのなら、黙っていらっしゃい」金森側妃はこの愚かな女との言い争いには興味もない。傍らの侍女に向かって、「早く親王様にお知らせに」と命じた。侍女は慌ただしく応諾し、屋敷の奥へと駆けていった。書斎で報告を受けた燕良親王は、突然立ち上がった。「なに?玄武と上原さくらも来たというのか?」本来なら書斎に籠もり、紫乃には直接会わないつもりだった。金森側妃と沢村氏に二人の姫君を伴わせて接待させ、紫乃が薬を飲んだ後で、金森側妃が彼女をここへ連れて来るはずだった。燕良親王が驚きと怒りに震える中、無相はむしろ喜色を浮かべていた。侍女を下がらせてから、「親王様、これは絶好の機会ではございませぬか。これまで北冥親王邸へ幾度も足を運びましても冷遇され、私的な招待にも応じなかった影森玄武が、自ら来府されたのです。たとえ今は味方に引き込めずとも、表面上の関係は保てる。将来の可能性も開けましょう」当初から無相は玄武との関係改善を主張していた。ただ、北冥親王家は鉄壁で、懐柔も威嚇も効果なく、やむを得ず策を変えたのだ。今、相手から門を叩いてくるとは、願ってもな
「親王様」無相は不安を拭えず、さらに言葉を続けた。「大事が成就すれば、どのような女性でも手に入れられましょう。その時になれば、沢村紫乃など取るに足らぬものと思われるはずです」「もういい」燕良親王の声は暗く沈んでいた。その言葉を吐き出した瞬間、堰を切ったように激情が溢れ出した。長年押し殺してきた感情が、もはや抑えきれない。「わしは長年、欲を抑え、己を律してきた。一瞬たりとも気を緩めず、本性を抑え込み、些細な過ちも犯さぬよう心を砕いてきた。心惹かれる女などいなかったわけではない。だが、決して近づかなかった。女色に溺れては大事を損なうと、分かっていたからだ。だが紫乃は違う。初めてだ……わしの心を揺さぶり、同時にわしの力となり得る女だ。燕良親王妃としては最適の人物なのだ」この告白に、無相は戦慄と怒りを覚えた。初めて厳しい口調で主君を諫めた。「親王様、『心を揺さぶる』とは、沢村紫乃への恋心をお認めになるということですか?もしそうだとお思いなら、それは違います。卑劣な行為を正当化する言い訳に過ぎない。欲望を愛という衣で包んでいるだけです。もし本当の愛情があるのなら、彼女の清らかさを穢すような手段は取られないはず。この薬が命取りになり得ると申し上げても、躊躇いすら見せなかったではありませんか」正鵠を射られた燕良親王は、恥じらいと怒りに顔を歪めた。「それがどうした?わしにそのような思いがあったところで?卑劣とは何事か。世の男どもは後宮に幾人もの女を囲い、さらには外にも手を出す。そのような中で、わしはむしろ節制してきたほうだ。たかが一度や二度のことを、そこまで大層な話にせねばならんのか?覚えておけ。お前はわしの謀士に過ぎぬ。わしの行動に口を挟む立場ではないのだ」「親王様!」無相はさらに厳しい声音で畳みかけた。「もし親王様の望みが女色に耽ることならば、この無相、親王様の栄達にお供する福分はないということ。どうか心の赴くままに、前途を歩まれますよう」書斎に凍てつくような静寂が下りた。燕良親王の顔色が青ざめては赤らみ、交互に変化していく。ようやく怒りを押し殺し、声を落ち着かせて言った。「先生、そのような言葉は、わしの心を痛めるではないか。わしは独りよがりな人間ではない。これまでも先生の意見は常に重んじ、実行してきた。都に来てからの度重なる失態で気が滅入っていたゆえ、
儀姫が工房に住み始めて二日目、都中に噂が広がった。儀姫が平陽侯爵家から離縁された真相が、まるで瘴気のように街中に漂い始めたのだ。平陽侯爵家の後継ぎの命を狙ったこと、側室を許さず、水中に突き落として命を奪おうとしたことなど……噂は瞬く間に広がり、高利貸しの件まで明るみに出た。「これほどの重罪を犯した者を、なぜ平陽侯爵家は官憲に引き渡さなかったのか。ただ離縁しただけとは」人々は囁きあった。「それよりも伊織屋の方がおかしい。そんな女を受け入れて、しかも手厚くもてなすなんて」さくらが御城番の整理整頓を終えようとしていた頃、伊織屋が再び誹謗中傷の的になっていることなど、知る由もなかった。その事実を知ったのは、整理作業が完了する前日のことだった。紫乃に尋ねると、彼女も頭を抱えていた。「紅竹が調べたけど、沢村氏の仕業じゃないわ。きっと平陽侯爵家の誰かよ。儀姫が離縁された本当の理由を、平陽侯爵家は公にしていないでしょう?知っている内部の誰かが、儀姫を潰そうとしているのね」「これじゃ儀姫だけじゃなく、工房まで潰れちゃうわ」さくらは眉をひそめた。「犯人は分かったの?これだけの規模で噂を広めるには、相当な金が要るはずよ」「平陽侯爵家には、あなたの知り合いがいるでしょう?もしかして……」「北條涼子?」さくらは考え込んだ。「確かに可能性は高いわね。儀姫と美奈子、両方を憎んでいるもの。工房は伊織美奈子の名を冠しているし……でも、彼女一人じゃここまでできないわ。誰かが手を貸しているはず」二人は顔を見合わせ、同時に声を上げた。「紹田夫人!」儀姫を憎む者といえば、彼女に堕胎させられた紹田夫人を外すわけにはいかない。さくらは前から疑問に思っていた。たった一服の下剤で胎を落とすことなどできるのだろうか。確かめたかったが、平陽侯爵老夫人は病を理由に面会を拒んでおり、強引に押しかけるわけにもいかなかった。「もう誰もが知ってるわ」紫乃は血の気の失せた顔で言った。怒りか悲しみか、胸の内の炎のような感情が何なのか、自分でも分からない様子だった。「私たちが儀姫を匿って、贅沢な暮らしをさせているって。伊織屋が人殺しを庇って、悪人の巣窟だって……もう、終わりよ、さくら。これで私たちは終わりなの」「慌てないで、方法はあるわ」さくらは落ち着いた声で紫乃を慰めた。「伊織屋の件がこ
翌朝、玄武は早くから宮中へ向かい、認可された案件を受け取った後、さりげなく話を向けた。「妻が申しておりましたが、燕良親王邸の蘭は見事だそうでして。種類も豊富で、腕利きの者も大勢いるとか。小姓も侍女も、皆、武芸の心得があるようです」清和天皇は一瞬、目を見開いた。樋口信也が燕良親王家を長らく密偵していても、燕良親王が都に留まり続ける底力さえ掴めなかったというのに、たった一度の訪問でこれほどの情報を?樋口の報告では、燕良親王邸には目立った護衛の姿は見当たらないとのことだった。だが、周囲に死士が潜んでいる可能性を危惧していた。死士たちの武芸は高く、容易には見つけられない。それゆえ、軽々しく踏み込むことはできないと判断していたのだ。「死士か?」しばらくの沈黙の後、天皇が問いかけた。その問いに、玄武は柔らかな笑みを浮かべた。「いいえ」「何を笑っている?何が面白い?」天皇は苛立たしげに問いただした。「最近、私は無意味な笑みを浮かべるのが好きでして」玄武の笑顔はますます際立った。「馬鹿者め」天皇も思わず笑みをこぼした。兄弟二人は目を合わせ、さっと微笑みを交わした。その何気ない笑みが、清和天皇が築き上げた高い防壁に、微かな亀裂を生じさせたかのようだった。天皇が死士について尋ねたということは、その調査がまだその段階に至っていないことを示している。そして、敢えてその質問をしたということは、樋口の調査進捗を共有する意思があり、同時に玄武からも情報を得たいという思惑があるのだろう。些細ではあるが、信頼の表れと見てよかった。少なくとも、天皇は自ら設けた垣根から、一歩外へ踏み出したのだ。その夜の会食で、燕良親王の督促により、沢村氏は伊織屋に対する噂を打ち消すために相当な銀子を出した。噂を広めた者たちが、今度はその否定に走る——信憑性には欠けるものの、少なくとも沢村氏の財布は痛んだ。これを知った儀姫は即座に沢村氏を訪ねたが、面会を拒否された。燕良親王邸の門前で罵声を浴びせる始末に、金森側妃は騒動を恐れ、儀姫が現れたら即座に追い払うよう命じた。やむを得ず、儀姫は再び工房を訪れた。今度の態度は随分と柔らかくなっていた。工房側では判断できないと、清家夫人に伺いを立てると返答。儀姫は大臣邸の門前に陣取り、清家夫人の姿を見るや否や駆け寄り、涙ながらに訴
「村上教官!」有田先生は慌てて制した。「親王様をそのような例えに出すのは控えめに。確かにそういう男もおりますが、今日の話題はそこではございません」棒太郎は哀れみ深い表情を浮かべ、重々しい口調で語り始めた。「紫乃が結婚を望まないのは、私も賛成だ。結婚しなければ、心を傷つけられることもない。若い頃の恋は情熱的だが、時が経つにつれて吐き気がするほど醜くなる。表面の金箔が剥がれれば、中の鉄は錆びて朽ちていく……そんなものさ。愛情のある関係ですらそうなのに。まして燕良親王のような策略ばかりを弄し、愛の甘美さなど知らない老獪者となれば……紫乃のような女性が彼の人生に踏み込んで、干からびた心を癒し、さらには助力となる力も持っているとなれば……発情した野犬のように、あらゆる醜態を晒すことになる」有田先生は呆然として、しばらく言葉が出なかった。「これも……師匠様の教えなのですか?」人生の荒波を経験していなければ、このような染み入るような言葉は出てこないはず。棒太郎一人では到底語れるものではない。「ええ、師匠はもっともっと色々なことを教えてくれましたよ。聞きたいですか?」「結構です」全員が口を揃えた。既に胸が悪くなりそうだった。しかし、棒太郎の言葉には深い意味があった。人間の本質から分析したその見解は、燕良親王が今まで見せてきた表面的な性質よりも、より本質を突いているように思えた。「侍女が十八人、小姓が二十三人いたわ。死士じゃないと思うの。死士の訓練って、すごく厳格なものでね、危険を感じた時の無意識の防御反応が必ず出るものなのよ。それって幾千回もの訓練があってこそのもので、考える前に体が反応しちゃうの。今日、侍女一人と小姓二人を試してみたけど、突然の威圧に対して、表情も体も、まったく変化がなかったわ」玄武は頷いた。「その通りだ。死士に求められるのは冷静さではない。ただ殺意と絶対的な服従心だけだ。あれほど落ち着いているのは、護衛として雇われた武芸者だろう」二人とも武芸の心得があり、危機管理の訓練も受けている。しかし、彼らの技は常に計算された動きだ。一方、死士は闇から標的を狙い、執念深く追い詰める。以前、テイエイジュがさくらを狙った時の死士たちも、捕らえて調べてみれば、まさにさくらの言う通りだった。「燕良親王邸は、中庭の書斎以外はほぼ見て回ったわ」さ
北冥親王邸に戻ると、紫乃は馬車から降りるなり、門前で何度も跳び上がった。体中に纏わりついた不吉な気を振り払うかのように。「なんてことなの!」顔を真っ青にして吐き捨てるように言った。「この私を手に入れようだなんて!自分の息子が私より年上だということも考えないの?厚かましい老いぼれ!」ちょうど出迎えに来た道枝執事は、その言葉を耳にして一歩後ずさった。丸々とした顔に困惑の色を浮かべ、誰が厚かましいというのだろうと首を傾げた。「もう二度と燕良親王邸になんて行かないで!」さくらも憤りを隠せず、紫乃の手を引いて屋敷の中へ入った。「あの人があなたを見る目つき……まるで穢されたみたいで、気持ち悪かったわ」今夜目にした燕良親王は、あの野心に満ちた燕良親王と同一人物なのだろうか。まるで別人のように思えた。ただの好色な老人に成り下がっていた。議事堂に入ると、玄武は燕良親王の紫乃への欲望を有田先生に報告した。「まさか……」有田先生は目を丸くした。「そんなに露骨でございましたか?」「ああ」玄武は苦々しい表情を浮かべた。「あまりにも露骨すぎて、本物かどうかすら疑わしいほどだ。これまでの調査では、奴は女色など眼中になかったはずだ。どんな美女でも、所詮は駒にすぎなかったというのに」燕良州の官僚たちを掌握する手段として女性を利用することはあっても、その場合は厳選された美女たちばかりだった。沢村万紅との結婚でさえ、沢村家の財力と、兵器製造、軍馬の調達が目的だったはずだ。座に着くと、玄武はさくらに向かって真剣な面持ちで尋ねた。「さくら、これは考え過ぎかもしれんが……あれは誰かが燕良親王に成り済ましていて、本物の燕良親王は既に燕良州に戻っているという可能性は、ないだろうか?」さくらはまだ怒りが収まらないものの、よく考えれば玄武の言葉にも一理あるかもしれなかった。武芸界の変装術は極めて精巧で、注意深く観察しなければ本人と見分けがつかないものもある。有田先生も可能性は十分にあると考えていた。彼らの知る燕良親王なら、このような無分別な行動は決してしないはずだ。仮に紫乃に何か企みがあったとしても、それは沢村家の寵愛を受ける嫡女という立場ゆえのはずである。そうであれば、なおさらこのような形跡を残すはずがない。三人は深い思索に沈んだ。その可能性について思いを巡らせる
燕良親王邸に重要な物が隠されているとは考えにくい。あるとすれば往来の書状程度だろう。それも重要なものは既に隠匿されるか、焼却されているに違いない。書斎への侵入は容易ではなく、もし騒動を起こせば面倒なことになるだろう。彼らが紫乃を招いた背後には、必ず何か言えない理由があるはずだ。その目的が何なのか、先ほどまでは分からなかったが、今になってやっと見えてきた。今日の来訪前、さくらは親王邸内の武芸者の数を探り、死士たちが潜んでいないか確認するつもりだった。もし死士が府内にいなければ、紫乃を次回また招かせることもできたはずだ。しかし、燕良親王の欲望に満ちた眼差しを目の当たりにした今、さくらは紫乃を危険に晒すわけにはいかなかった。あの卑猥な視線を思い出すだけで、胸が悪くなる。侍女たちが次々と菓子を運んでくる中、さくらは突然立ち上がり、棗のお菓子の盆を持つ侍女の前に立った。その侍女は一歩も退かず、まばたきひとつせずに立っている。金森側妃が警戒の目を向けると、さくらは侍女に告げた。「この棗のお菓子は親王様のお気に入りですわ。正殿へお持ちになってください」侍女は目を伏せ、柔らかな声で答えた。「かしこまりました」盆を持ったまま、侍女は優雅に一礼して退いた。その足取りは少しも乱れることなく、揺るぎない安定感があった。「まあ」金森側妃は思わず笑みを漏らした。「王妃様は玄武様を本当に大切になさっているのですね。口争いをなさったばかりなのに、お好みのお菓子まで気にかけていらっしゃる」さくらは席に戻ると、作り笑いを浮かべただけで、相手にする気はなさそうだった。むしろ、欄干に寄りかかり、遠くを行き交う人々を眺めている。「あら」沢村氏も笑みを漏らした。「紫乃よ、うちの金森側妃ときたら、こういう冷たくあしらわれることが大好きなのよ」金森側妃は沢村氏を冷ややかに一瞥した。この愚かな女は、日々権力争いばかりに執着している。今は都での一時的な滞在に過ぎないというのに、何の権力があるというのか。正妃でありながら、まともな考えひとつ持ち合わせていない。まったく見苦しい限りだ、と金森側妃は密かに思った。だが、紫乃のような武家の娘は弱き者への同情心が強く、自分なりの正義感で物事を裁く傾向がある。そう理解していた金森側妃は、あえて何も言わず、わずかに赤みを帯びた
燕良親王は玉簡を叱責し、恥を晒すばかりだと諭して退出を命じた。金森側妃は玉蛍を連れ、共に席を離れた。金森側妃は部屋を出るや否や、侍女を従えてさくらたちの後を追った。この屋敷には牢獄こそないものの、勝手な行動は許されない。愚かな沢村氏が利用されでもしたら大変だと危惧したのだ。無相は玄武の様子を密かに観察していた。玄武は燕良親王と言葉を交わしながらも、明らかに不機嫌な様子で、時折外を窺う視線からは、夫婦喧嘩の後の複雑な心境が垣間見えた。妻への苛立ちと心配が入り混じっているようだった。先ほどのさくらの怒りに満ちた一瞥も、あれほどの感情は演技では表現できまい。少なくとも一つ確かなことがある——さくらが燕良親王邸を訪れた本当の目的は、亡き燕良親王妃の恨みを晴らすことだったのだ。その思いは、きっと長い間さくらの胸の内に秘められていたのだろう。今回、それを吐き出せる機会があったのは、むしろ良いことかもしれないと無相は考えた。女性たちが席を外した今、北冥親王と話を進めるには都合が良い。「玄武よ、母妃様のご様子はいかがかな?」燕良親王が玄武に声をかけた。「ご心配いただき恐縮です。母上は至って健やかでございます。榮乃皇太妃様の容態は少しお良くなられましたでしょうか?」「ようやく好転の兆しが見えてきたところだ」燕良親王は安堵の表情を浮かべた。「それは何より」玄武は微笑んで続けた。「では叔父上は、いつ頃燕良州にお戻りになるおつもりで?」「はっはっは」燕良親王は声を立てて笑った。「それは、この叔父が京に留まることを望まないということかな?そんなに燕良州への帰還を急かすとは」「いえ、そういうわけではございません。何気なくお尋ねしただけです」玄武は軽く笑みを浮かべた。「申し上げます」無相が代わって答えた。「月末には燕良州へ戻らねばならないかと存じます」玄武は茶碗を手に取り一口すすったが、その関心は明らかに別のところにあった。時折外を見やる視線が、その証だった。しばらくの沈黙の後も、玄武から別の話題は出てこなかった。無相には、彼らの真の来訪目的が掴めないでいた。沢村紫乃への招待に便乗しただけとは到底思えなかったが、その真意を探るには、まだ慎重になる必要があった。無相が話題を探っていた矢先、玄武は燕良親王の方を向き、やや責めるような口調で切
玉簡はさくらを恐れていたものの、その言葉を聞くや否や立ち上がり、怒りを露わにした。「上原!私の名誉を傷つけて、あなたに何の得があるというの?」「何と無礼な!姫君ごときが王妃様のお名前を呼び捨てにするとは!」棒太郎が厳しい声で叱責した。さくらは軽く手を上げ、棒太郎に下がるよう指示すると、玉簡を見上げ、皮肉を込めて言った。「口では人を攻めることはお上手のようですが、母妃様がこのような扱いを受けているというのに、一言も発することができないのですね。言い出す勇気がないのなら、せめてお側に仕えるべきではありませんか。母妃様はあなた方を産み育ててくださったというのに」玉簡は激しい怒りに駆られたが、玄武の冷たい視線が注がれるのを感じ、背筋が凍るような思いに襲われた。罵倒の言葉は飲み込んだものの、不満げに言い返した。「それがあなたに何の関係があるというの?そんなにできる人なら、あなたが面倒を見てあげればいいじゃない。人のことを言うだけなら簡単でしょう。あなただって母妃様のことを伯母上と呼んでいたはずよ」「まぁ、なんて理にかなったお言葉でしょう」さくらは冷笑を浮かべた。「子として孝行を尽くさない者が、他人の心遣いを非難できるものなのですね。これは是非とも覚えておかねば。今度、穂村夫人にお話ししましょう。きっと姫君様のご立派な考えを広めてくださることでしょう」燕良親王の表情が一段と険しくなった。「玉簡、さくらに無礼な態度を取るものではない」玉簡はさくらを恨めしげに睨みつけながら、不承不承に応えた。「はい、父上」燕良親王は玉簡以上に憤りを覚えていた。さくらの言葉は、自分が正妃を冷遇していると公然と非難するものであり、しかも紫乃の前でそれを口にするとは。これでは体面が丸つぶれではないか。そんな険悪な空気を察したのか、玄武が早々に取り繕った。「まあまあ、せっかくの楽しい席だ。過去の不快な話題は控えめにしておこう。皆の気分も悪くなるばかりだからな」だが、さくらは夫の言葉にも動じなかった。「私に口を噤めというの?少し物を言っただけで何が悪いのです?伯母上のことを思えば、不孝な娘を二人も、不孝な息子を二人も育ててしまったなんて、本当に残念でなりません」燕良親王の顔色が青ざめては紅潮を繰り返した。これはもはや子女の不孝を責めているのではない。明らかに自分への非
「叔父上がそのようにお考えになるとは」玄武は笑みを浮かべた。「まさか、私に何か後ろめたいことでも?」「はっはっは」燕良親王は人差し指を揺らして見せた。「とんだ茶目だな」上座に進むと、衣の裾を整えて腰を下ろした。「さあ、皆も座るがよい」金糸で鶴が舞う模様が織り込まれた錦の衣に身を包み、唇は薄く紅を差したかのように艶めいていた。自信に満ちた笑みを浮かべる様子に、紫乃は一瞥を投げかけ、なぜか孔雀が羽を広げているような印象を受けた。一同が席に着いてから、無相が影森哉年、影森晨之介兄弟を伴って入室してきた。兄弟は当初、上原さくらと影森玄武の姿を見て喜色を浮かべたものの、今は妙によそよそしい。挨拶を済ませて着席すると、その表情は不自然で、まともに玄武の顔すら見られないほどだった。玄武は無相を一瞥した。燕良親王の軍師として知略を巡らす存在だと承知していたが、気のせいか、親王との間に何か言い争いがあったように見受けられた。しかもその口論は決して穏やかなものではなかったようだ。二人の眼底には怒りの名残が燻り、それは今にも憎悪の炎となって燃え上がりそうだった。武の道を極めた者には、そういった険悪な空気が肌に触れるように感じられた。視線を戻し、燕良親王の顔を見つめながら、玄武は穏やかに問いかけた。「突然のご招待、何かめでたいことでもございますか?」燕良親王は内心で憤っていた。そもそもお前など招いてはいない、と。沢村氏に一瞥を投げかけてから、辛うじて笑みを浮かべて答えた。「先ほども申したが、何度もお前の屋敷を訪れたものの、いつも暇がないと。それなら思い切ってお前とさくらを招こうと思ってな。同じ一族、度々往来があって然るべきだろう」玄武は心中で冷笑を漏らした。暇がないどころか、明確に門前払いをしていたというのに。「叔父上のおっしゃる通りです。確かに、親族として交流を深めるべきですね」玄武が会話を取り持つ傍ら、さくらは燕良親王を密かに観察していた。短い会話の間にも、親王の視線は何度も紫乃の顔に注がれ、その眼差しには、何とも言えない不快な色が混じっていた。さくらは、紫乃への招待に良からぬ意図があることは察していた。だが、せいぜい沢村氏を通じての懐柔工作程度だろうと思っていた。まさかこのような穢れた下心が潜んでいようとは。「王妃様?王妃様?」
「親王様」無相は不安を拭えず、さらに言葉を続けた。「大事が成就すれば、どのような女性でも手に入れられましょう。その時になれば、沢村紫乃など取るに足らぬものと思われるはずです」「もういい」燕良親王の声は暗く沈んでいた。その言葉を吐き出した瞬間、堰を切ったように激情が溢れ出した。長年押し殺してきた感情が、もはや抑えきれない。「わしは長年、欲を抑え、己を律してきた。一瞬たりとも気を緩めず、本性を抑え込み、些細な過ちも犯さぬよう心を砕いてきた。心惹かれる女などいなかったわけではない。だが、決して近づかなかった。女色に溺れては大事を損なうと、分かっていたからだ。だが紫乃は違う。初めてだ……わしの心を揺さぶり、同時にわしの力となり得る女だ。燕良親王妃としては最適の人物なのだ」この告白に、無相は戦慄と怒りを覚えた。初めて厳しい口調で主君を諫めた。「親王様、『心を揺さぶる』とは、沢村紫乃への恋心をお認めになるということですか?もしそうだとお思いなら、それは違います。卑劣な行為を正当化する言い訳に過ぎない。欲望を愛という衣で包んでいるだけです。もし本当の愛情があるのなら、彼女の清らかさを穢すような手段は取られないはず。この薬が命取りになり得ると申し上げても、躊躇いすら見せなかったではありませんか」正鵠を射られた燕良親王は、恥じらいと怒りに顔を歪めた。「それがどうした?わしにそのような思いがあったところで?卑劣とは何事か。世の男どもは後宮に幾人もの女を囲い、さらには外にも手を出す。そのような中で、わしはむしろ節制してきたほうだ。たかが一度や二度のことを、そこまで大層な話にせねばならんのか?覚えておけ。お前はわしの謀士に過ぎぬ。わしの行動に口を挟む立場ではないのだ」「親王様!」無相はさらに厳しい声音で畳みかけた。「もし親王様の望みが女色に耽ることならば、この無相、親王様の栄達にお供する福分はないということ。どうか心の赴くままに、前途を歩まれますよう」書斎に凍てつくような静寂が下りた。燕良親王の顔色が青ざめては赤らみ、交互に変化していく。ようやく怒りを押し殺し、声を落ち着かせて言った。「先生、そのような言葉は、わしの心を痛めるではないか。わしは独りよがりな人間ではない。これまでも先生の意見は常に重んじ、実行してきた。都に来てからの度重なる失態で気が滅入っていたゆえ、