書斎に戻った燕良親王に、無相は手にしていた書物を置き、立ち上がって尋ねた。「親王様、沢村紫乃は何用で?王妃様とは話が……」「役立たずめ」親王は吐き捨てるように言った。「密かに儀姫と通じ、上原さくらに対抗するなど……」「親王様」無相は首を振った。「彼女を娶ったことが、そもそもの誤りでした。沢村家でも取るに足らぬ存在。家主でさえ、彼女のために親王様との関係を深めようとはしない。他に得られる利もございません」「同じ沢村家の娘とはいえ、沢村紫乃と比べれば、千倍も万倍も劣る」親王は座に着くと、目を細めた。その瞳の奥には毒蛇のような冷徹な光が宿っていた。「先ほどの一件を見よ。颯爽と現れ、一つの平手打ちと警告を残して立ち去る。無駄な動きは一つもない。あれほどの女を妃とできていれば……」親王は舌打ちした。「沢村家の全面支援を得られただけでなく、あのような有能な助力者も手に入れられた。紫乃一人で、わが配下の何十人分もの価値があろう」「親王様」無相は慎重に進言した。「今は四方に虎狼が潜む時。北冥親王家の人間に手を出すのは危険かと」だが親王は自らの計略に沈潜したままだった。「無能な妃なら、賢い者に席を譲らせればよい」「まさか……」無相は息を呑んだ。「それは危険すぎます。沢村紫乃は野馬のよう。今となっては、到底手なずけられません」「選択の余地はないのだ」親王の声は暗く沈んでいた。「影森茨子を失い、都での足場は揺らいでいる。沢村氏は無能、金森側妃では名家の婦人たちとの交際もままならん。一方、紫乃は都に確かな人脈を持ち、上原さくらとの親交も深い。彼女を娶れば、上原も多少は目こぼしをしてくれようというもの」「性格が違えば、同じ策も異なる結果を生みます」無相は首を振った。「親王様のお心が乱れております。焦りは禍根となる。まずは心を静め、より良い活路を見出すべき。さもなくば……」無相は深いため息をついた。「この野望は諦めるしかございますまい」「放棄などできぬ!」親王の声が突如高く響いた。「これまでの年月をかけた経営を、どうして諦められようか」数度の深い呼吸を経て、親王は落ち着きを取り戻した。「先生の仰る通り、私も焦りすぎていた。ただ……陛下の真意が掴めぬ。まるで私を疑ってなどいないかのように振る舞われる。目を合わせる時も、変わらぬ眼差しで……あの方の深さを、私
燕良親王の表情が落ち着きを失っていた。「椎名青舞は確かに親房甲虎の心を掴んだ。だが奴はまだ軍の心を掴めていない。それを焦ってはならん。平安京も同様だ。しかし、かといって手をこまねいているわけにもいかん。沢村が役立たずなら、紫乃を使えばよい。無相先生の懸念は杞憂だ。沢村万紅も上原さくらも共に王妃の位にある。この紫乃が親王妃の座に興味を示さぬはずがない。あれほどの気位の高い女が、並の男など眼中にないのだからな」「でも親王様……」無相は必死に諫めたが、燕良親王は自らの策略に酔いしれ、耳を貸す様子もない。どんな女でも、自らの操を粗末にはしまい。一度、身を任せてしまえば、後には引けなくなる。その時、王妃の座を約束すれば、誰よりも喜ぶに違いないと。さくらは既に親王邸に戻っていた。紅竹から紫乃が燕良親王邸を訪れたとの報告を受けた時、ちょうど村松碧との相談事を終えたところだった。一方、紫乃も親王邸に戻っていた。あの平手打ちの一件で、一瞬は溜飲が下がったものの、すぐに不安が込み上げてきた。自分のことではなく、玄武とさくらに迷惑がかかることを懸念していた。天皇陛下の密偵が燕良親王邸を監視していることは周知の事実だったからだ。さくらの姿を認めるや否や、紫乃は立ち上がって迎えに出た。「ごめんなさい、さくら。私、衝動的に燕良親王邸へ行ってしまって……きっと迷惑をかけてしまったわ」と、後悔の色を滲ませながら言った。さくらは紫乃を慰めるために急いで戻って来たのだが、むしろ紫乃の方が先に後悔の念を口にしていた。さくらは微笑みながら紫乃の腕に手を添えた。「燕良親王邸で大騒ぎでもしたの?」「沢村万紅を平手打ちしてしまったわ」紫乃は憂鬱そうに呟いた。「痛快だった?」さくらは目尻を下げて微笑んだ。「その時は良かったけど……玄武様とあなたに迷惑がかかりそうで」さくらは紫乃を椅子に座らせ、隣に腰を下ろした。そしてお珠を呼んで燕の巣のお椀を持ってこさせた。「好きにすれば良いのよ。たとえ面倒なことになったとしても、私たちで何とかできるわ」「そうは言っても……今回は本当に軽率だったわ」紫乃は顔を曇らせた。自分の感情をうまく制御できると思っていたのに、一瞬で理性が吹き飛んでしまった失態が悔やまれた。さくらは立ち上がって紫乃の背中を優しく撫でた。「土で作った人形だって
応接間で、紫乃は心からの謝罪を述べる燕良親王妃を冷ややかな目で見つめていた。万紅をよく知る紫乃でなければ、この演技に騙されていたかもしれない。「本当なのよ。信じて欲しいわ。儀姫が私のところへ泣きつい来て、助けを求めたの。一時の情に負けただけなの。あなたが帰った後、親王様に随分と叱られたわ。工房は女性たちの幸せのためにあるのに、私が泥を塗るなんて……もう分かったわ。許してくれないかしら?」紫乃は一言も信じなかった。儀姫を助けようとしたという言葉も、燕良親王が女性の幸せを気遣ったという話も、全てが嘘だと分かっていた。さくらの叔母、前燕良親王妃の死の真相を、紫乃は知っていた。他の者は知らなくとも、紫乃だけは知っていたのだ。紫乃は平然と相手の話に耳を傾けながら、その見事なまでに計算された二筋の涙を観察していた。姉が燕良親王妃になってから、他の才能は磨かれなかったものの、芝居の技術だけは見事に上達したようだ。さぞや普段から観劇に励んでいることだろう。「お言葉は綺麗ですこと。でも、謝罪がご用件なら、なぜ前もって知らせを?まさか、私がここにいると決め込んでいらしたの?」その言葉に、沢村氏の表情が一瞬硬くなった。感情的な演技に気を取られ、こんな些細な指摘を予想していなかったようだ。そこを春杏が素早く取り繕った。膝を折って、「申し上げます。王妃様は昨夜一晩中お泣きになられ、初めは参上する勇気もございませんでした。ですが親王様が、過ちを犯した以上、潔く認めて沢村お嬢様のお許しを請うべきだと。姉妹の絆を損ねてはならないと仰って。それで王妃様は直ちに贈り物を用意させ、もし沢村お嬢様がいらっしゃらなければ、お戻りになるまでお待ちするつもりでございました」この言葉なら紫乃の踵にも届かないだろう、と紫乃は内心で冷笑した。昨夜、自分の軽率さを反省した紫乃は、これからは慎重に事を運ぼうと決意していた。この謝罪の後に何が待ち受けているのか、見極めようではないか。春杏の言葉に乗じて、紫乃は穏やかに答えた。「確かに燕良親王様のおっしゃる通りですわ。私たち姉妹が、こんなことで仲たがいするなんて。噂を打ち消していただければ、私も水に流しましょう」「本当に?」沢村氏は目頭の涙を拭いながら、内心で首を傾げていた。昨日まであれほど激高していた紫乃が、なぜ今日はこうも話
翌朝の朝議が終わると、玄武は最近の再審理案件を持って御書院へ参内した。例によって謀反事件の捜査進捗も報告するためである。未だ結審していない謀反事件について、刑部は捜査を継続していた。定期的な報告は形式上のものに過ぎず、疑いの目は既に燕良親王に向けられていたものの、天皇陛下からは捜査の勅命も下らず、表立って言及することすらなかった。玄武が暗に示唆を試みても、陛下は何も仰らなかった。清和天皇は案件簿に目を通し、謀反事件の経過報告を聞き終えると、「実質的な進展はないようだな」進展させられるのは、陛下のお言葉一つなのに——玄武は心中で呟いた。天皇は案件簿を脇に置き、「引き続き捜査を続けよ」と言い放った。「承知いたしました」まだその場に立ち尽くす玄武を見て、天皇が尋ねた。「他に何か?」「さほど重要な案件ではございませんが」玄武は微笑んで答えた。「本日、燕良親王殿下が私どもを夕餉にお招きくださいました」天皇は顔を上げ、一瞬驚きの色を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべた。「そう言えば、叔父上は病の養生のため都に戻って来て、しばらく経つな。本来なら後輩である貴殿が招くべきところだが、先方からの誘いならば、行くがよい」玄武は白い歯を覗かせる明るい笑顔を見せた。「私もそう考えておりました」珍しく柔和な表情を浮かべた天皇が頷いた。「うむ。燕良親王邸では珍しい花々を植えていると聞く。よく見て来るがよい」玄武は再び輝くような笑顔を見せた。「まさにその通りに」天皇は笑みを漏らし、「もう行ってよい。宰相が待っておる」「では、これにて退出させていただきます」玄武は深々と一礼し、後ずさりながら御書院を後にした。天皇は玄武の後ろ姿を見つめながら、唇の端の笑みを隠しきれずにいた。胸の内がなぜか不思議と軽くなっていた。謀反事件以来、巨大な岩のような重圧が絶えず心を押し付けていた。誰を見ても疑わしく思え、その疑惑の影が徐々に燕良親王へと収束していくにつれ、その重圧は増すばかりで、時として息苦しさを覚えるほどだった。燕良州の長年の経営で、燕良親王がどれほどの勢力を持つに至ったか、未だ把握できていない。派遣した密偵たちは、一人として戻っては来なかった。ここ数日、眠れぬ夜が続いていた。弟の玄武に捜査を命じることも考えたが、踏み切れずにいた。
無相は小さく溜息をつき、「通常の女性なら、親王様のお薬で事足りますが……相手は沢村紫乃。並の薬では対処できませぬ」「ほう?」燕良親王は不思議そうに問うた。「薬の効果は情を動かすことではないのか?お前の薬には何か特別な効能でもあるのか?」「親王様のお薬は、厳密には情を動かすものではなく、ただ欲を掻き立てるだけ。これは蠱毒の一種でして、脳を麻痺させ、交わった相手に情が芽生えるよう仕向けるのです」燕良親王の目が輝いた。「そのような神薬があったとは!なぜ早く出さなかった?もし彼女がわしに心を寄せるようになれば、わしの望みは彼女の望みともなる」「しかし親王様」無相は苦笑を浮かべた。「この情というのは本心に反するもの。長くは持ちませぬ」「では、どれほどの期間だ?」「せいぜい十日か半月ほどでしょう」燕良親王は陶器の小瓶を受け取り、その瞳に危険な光が宿った。「効果が切れたら、また使えばよいではないか。そうすれば、永遠に彼女を縛り付けておける」「それは……」無相の眉間に深い皺が刻まれた。「これは毒薬です。体に相応の害がございます。過去に三度使用した例がありますが、その後、被害者は痴呆の症状を呈しました。回数が増えれば、脳を完全に破壊し、白痴同然に。最悪の場合、命を落とすことも」「それも悪くはない」燕良親王の声には血に飢えたような響きがあった。「痴呆となれば扱いやすい。そうなれば沢村家も、わしに彼女の面倒を見てくれと懇願してくるだろう」無相は親王の暴走を目の当たりにし、諫言せずにはいられなかった。「親王様、人は計画を立て、天がその成否を決めると申します。しかし……たった一人を操って全体を掌握しようというのは、余りにも危険な賭けでございます。むしろ、私どもの首を絞めることにもなりかねません」無相は心中で思案を巡らせていた。確かに紫乃には相応の影響力がある。だが、沢村家も上原さくらも、彼女一人のために譲歩するほどの重みはない。そして何より、この計画は余りにも危険すぎる。失敗すれば、必ず反撃を受けることになるだろう。薬を差し出したのは、せめて紫乃の心を一時的にでも掴むため。たとえ束の間でも、彼女が親王様の側に立ってくれれば、北冥親王家からの圧力も幾分は和らぐはずだ。今は燕良州への撤退を考えるべき時期。紫乃を連れ帰った後で、ゆっくりと次の一手
酉の刻、北冥親王家の二台の馬車が時刻通りに燕良親王邸の門前に到着した。門番が慌ただしく知らせに走ると、燕良親王邸は中門を開いて出迎えるという破格の待遇で応えた。沢村氏と金森側妃は玉簡、玉蛍の両姫君を伴い、門前で出迎えた。紫乃は女性の身ゆえ、影森晨之介と影森哉年は出迎えの列には加わらなかった。二台の馬車を目にした瞬間、金森側妃の胸が凍りついた。燕良親王の計画を知る彼女には分かっていた。今宵は紫乃一人のはずだった。なぜ二台もの馬車が?玄武とさくらが馬車から降り立つ姿を見た時、金森側妃の表情が一瞬固まった。作り笑いが凍りついたように。なぜ、この二人が?「紫乃様だけとおっしゃっていたはず」金森側妃は歯を噛みしめながら、傍らの沢村氏に囁いた。「どういうことです?」沢村氏は心から喜んでいた。当初は紫乃だけを招くよう命じられていたが、まさか影森玄武と上原さくらまで来てくれるとは。これなら親王様も更にお喜びになるに違いない。そんな思いに浸っていた時、金森側妃の詰問するような口調に、沢村氏の表情が一転して険しくなった。「その口の利き方は何ですか?私にはこれだけの面子があってこその来訪です。あなたにその器量も力もないのなら、黙っていらっしゃい」金森側妃はこの愚かな女との言い争いには興味もない。傍らの侍女に向かって、「早く親王様にお知らせに」と命じた。侍女は慌ただしく応諾し、屋敷の奥へと駆けていった。書斎で報告を受けた燕良親王は、突然立ち上がった。「なに?玄武と上原さくらも来たというのか?」本来なら書斎に籠もり、紫乃には直接会わないつもりだった。金森側妃と沢村氏に二人の姫君を伴わせて接待させ、紫乃が薬を飲んだ後で、金森側妃が彼女をここへ連れて来るはずだった。燕良親王が驚きと怒りに震える中、無相はむしろ喜色を浮かべていた。侍女を下がらせてから、「親王様、これは絶好の機会ではございませぬか。これまで北冥親王邸へ幾度も足を運びましても冷遇され、私的な招待にも応じなかった影森玄武が、自ら来府されたのです。たとえ今は味方に引き込めずとも、表面上の関係は保てる。将来の可能性も開けましょう」当初から無相は玄武との関係改善を主張していた。ただ、北冥親王家は鉄壁で、懐柔も威嚇も効果なく、やむを得ず策を変えたのだ。今、相手から門を叩いてくるとは、願ってもな
「親王様」無相は不安を拭えず、さらに言葉を続けた。「大事が成就すれば、どのような女性でも手に入れられましょう。その時になれば、沢村紫乃など取るに足らぬものと思われるはずです」「もういい」燕良親王の声は暗く沈んでいた。その言葉を吐き出した瞬間、堰を切ったように激情が溢れ出した。長年押し殺してきた感情が、もはや抑えきれない。「わしは長年、欲を抑え、己を律してきた。一瞬たりとも気を緩めず、本性を抑え込み、些細な過ちも犯さぬよう心を砕いてきた。心惹かれる女などいなかったわけではない。だが、決して近づかなかった。女色に溺れては大事を損なうと、分かっていたからだ。だが紫乃は違う。初めてだ……わしの心を揺さぶり、同時にわしの力となり得る女だ。燕良親王妃としては最適の人物なのだ」この告白に、無相は戦慄と怒りを覚えた。初めて厳しい口調で主君を諫めた。「親王様、『心を揺さぶる』とは、沢村紫乃への恋心をお認めになるということですか?もしそうだとお思いなら、それは違います。卑劣な行為を正当化する言い訳に過ぎない。欲望を愛という衣で包んでいるだけです。もし本当の愛情があるのなら、彼女の清らかさを穢すような手段は取られないはず。この薬が命取りになり得ると申し上げても、躊躇いすら見せなかったではありませんか」正鵠を射られた燕良親王は、恥じらいと怒りに顔を歪めた。「それがどうした?わしにそのような思いがあったところで?卑劣とは何事か。世の男どもは後宮に幾人もの女を囲い、さらには外にも手を出す。そのような中で、わしはむしろ節制してきたほうだ。たかが一度や二度のことを、そこまで大層な話にせねばならんのか?覚えておけ。お前はわしの謀士に過ぎぬ。わしの行動に口を挟む立場ではないのだ」「親王様!」無相はさらに厳しい声音で畳みかけた。「もし親王様の望みが女色に耽ることならば、この無相、親王様の栄達にお供する福分はないということ。どうか心の赴くままに、前途を歩まれますよう」書斎に凍てつくような静寂が下りた。燕良親王の顔色が青ざめては赤らみ、交互に変化していく。ようやく怒りを押し殺し、声を落ち着かせて言った。「先生、そのような言葉は、わしの心を痛めるではないか。わしは独りよがりな人間ではない。これまでも先生の意見は常に重んじ、実行してきた。都に来てからの度重なる失態で気が滅入っていたゆえ、
「叔父上がそのようにお考えになるとは」玄武は笑みを浮かべた。「まさか、私に何か後ろめたいことでも?」「はっはっは」燕良親王は人差し指を揺らして見せた。「とんだ茶目だな」上座に進むと、衣の裾を整えて腰を下ろした。「さあ、皆も座るがよい」金糸で鶴が舞う模様が織り込まれた錦の衣に身を包み、唇は薄く紅を差したかのように艶めいていた。自信に満ちた笑みを浮かべる様子に、紫乃は一瞥を投げかけ、なぜか孔雀が羽を広げているような印象を受けた。一同が席に着いてから、無相が影森哉年、影森晨之介兄弟を伴って入室してきた。兄弟は当初、上原さくらと影森玄武の姿を見て喜色を浮かべたものの、今は妙によそよそしい。挨拶を済ませて着席すると、その表情は不自然で、まともに玄武の顔すら見られないほどだった。玄武は無相を一瞥した。燕良親王の軍師として知略を巡らす存在だと承知していたが、気のせいか、親王との間に何か言い争いがあったように見受けられた。しかもその口論は決して穏やかなものではなかったようだ。二人の眼底には怒りの名残が燻り、それは今にも憎悪の炎となって燃え上がりそうだった。武の道を極めた者には、そういった険悪な空気が肌に触れるように感じられた。視線を戻し、燕良親王の顔を見つめながら、玄武は穏やかに問いかけた。「突然のご招待、何かめでたいことでもございますか?」燕良親王は内心で憤っていた。そもそもお前など招いてはいない、と。沢村氏に一瞥を投げかけてから、辛うじて笑みを浮かべて答えた。「先ほども申したが、何度もお前の屋敷を訪れたものの、いつも暇がないと。それなら思い切ってお前とさくらを招こうと思ってな。同じ一族、度々往来があって然るべきだろう」玄武は心中で冷笑を漏らした。暇がないどころか、明確に門前払いをしていたというのに。「叔父上のおっしゃる通りです。確かに、親族として交流を深めるべきですね」玄武が会話を取り持つ傍ら、さくらは燕良親王を密かに観察していた。短い会話の間にも、親王の視線は何度も紫乃の顔に注がれ、その眼差しには、何とも言えない不快な色が混じっていた。さくらは、紫乃への招待に良からぬ意図があることは察していた。だが、せいぜい沢村氏を通じての懐柔工作程度だろうと思っていた。まさかこのような穢れた下心が潜んでいようとは。「王妃様?王妃様?」
青葉が追いかけると、楽章は手を振り続けながら歩き続けた。「何も言わなくていい。たいしたことじゃない」「五郎、これは私たちの推測に過ぎない。真実とは限らないんだ」青葉は楽章の性格をよく知っていた。心に苦しみを抱えても決して口にせず、ただ世を避けて別の場所へ去っていくのが常だった。「大丈夫だよ、大丈夫。酒でも飲みに行くさ」楽章は笑いながら言った。「折角の秋風、この爽やかな天気には、美人の相手でも探すとするか」紫乃は前に出て、彼の腕を取った。「私が付き合いましょう」紫乃もつい先ほどまで知らなかったのだ。彼の母は側室などではなく、西平大名家夫人その人であり、親房甲虎や夕美と同じ母から生まれた実の兄弟だということを。「俺の行くところはお前には相応しくない」楽章は紫乃を振り切ろうとした。「勝手に決めないで」紫乃は構わず彼の腕を掴んだ。「あんたの会計は私が持つわ」「金なら持ってる。付いて来るな」楽章は彼女の手を振り払い、急に意地の悪い調子になった。「俺がそんなに貧乏だと思ってるのか?お前に飲み食いの面倒を見てもらう必要なんてない。恩を売られるのも御免だ。本当に、お前たち女というのは……自分がどれだけ鬱陶しいのか分かっていない」紫乃は怒る気配もなく、にこやかに言い返した。「女が鬱陶しいだけ?男は大丈夫なの?」その笑顔を見て、楽章は不機嫌そうに吐き捨てた。「どっちも同じだ。みんな面倒くさい」「じゃあ、馬を走らせに行きましょう。人なんて誰も見なくていいわ」紫乃は彼を引っ張って厩舎へ向かった。「この爽やかな風に乗って走れば、嫌なことなんて全部吹き飛ぶわ」「行かない!」「行くの!」紫乃は笑顔を引き締め、険しい表情になった。「乗馬が嫌なら酒でもいい。でも、今日は私の相手をしてもらうわ。私も気が滅入ってるのよ」二人の姿が遠ざかるにつれ、声も次第に聞こえなくなっていった。結局、紫乃の思い通り、彼女は楽章を連れ去ることに成功した。さくらは肩を落とし、胸が締め付けられる思いだった。どうしてこんなことに……師匠はきっと真実を知っていたのだろう。ただ、嘘の方が優しかったから黙っていたのだ。余計なことをしてしまった。何も調べなければ良かったのに。誰も声を上げる者はいなかった。この調査の結果が良かったのか悪かったのか、それを判断できる者など
有田先生と道枝執事の調査により、事態は当初の想定よりも複雑であることが判明した。深水青葉の証言によれば、師匠の調査では、親房展は幼い萌虎が家に福をもたらすと考えていたという。ただ、その代償として自身の体調を崩し、都の名医を幾人も訪ねたものの効果なく、やむを得ず寺に預けることになったとされていた。これだけを見れば、展は末っ子である萌虎に深い愛情を注いでいたと解釈できる。末子は往々にして可愛がられるものだからだ。しかし、道枝執事が西平大名家の古参の執事や女中たちから聞き出した話は、まったく異なっていた。亡くなったとされる子に対して、展は強い嫌悪感を示していたというのだ。最初はどうだったか記憶は定かでないものの、後になってからの扱いは明らかに冷たかったという。彼らは具体的な出来事も語ってくれた。当時の大名様の誕生祝いの席で、今の音無楽章、当時の萌虎は大名様に抱かれて宴席に入った。その頃、大名様の体調は随分と回復しており、足取りも軽やかだったという。ところが、展は後日、「祖父を疲れさせた」という理由で萌虎を引きずり出し、竹の定規で手のひらを十回も打ち据えたのだ。こうした出来事は、主だった者たちの耳には入らなかったかもしれないが、確かに目撃した使用人がいたのだ。もう一つの出来事は、当時の大名様が萌虎を狩りに連れて行った時のことだ。白狐を仕留め、その毛皮を萌虎に与えたのだが、後になってその毛皮は三女の親房夕美の身に纏われることになった。他にも細かな出来事が数多くあった。展が萌虎に向ける嫌悪の表情を目にした使用人は少なくなかった。道枝執事に情報を漏らした者たちもその一人だ。当時はまだ別家しておらず、皆が同じ屋敷で暮らしていた。展は感情を隠すのが上手くない人物で、自分でも気づかぬうちに感情が顔に出てしまうことが多かった。さらに気になる点がある。萌虎の病の治療に関してだ。医師は確かに大名様が呼んだのだが、薬を煎じる際には数味の生薬が差し替えられていた。展は薬を調合する下女や小姓たちに口外を禁じ、これらは丹治先生から授かった良薬だと言い張った。大名様の機嫌を損ねないための配慮だと説明していたという。萌虎を寺に預ける話が持ち上がった時も、大名様は最初、その妖術使いの力を疑って強く反対していた。しかし、妖術使いが大名様と何度か面会を重ねるうち
しかし、執事からの報告に、三姫子は首を傾げずにはいられなかった。売り出した資産は次々と買い手が付き、しかも市価より一、二割も高値で取引されていた。長年家政を取り仕切ってきた経験から、資産の売買は常に相場に従うものと心得ていた。一軒や二軒が若干高値で売れることはあっても、最近売却した物件すべてがこれほどの高値とは。不可解でならなかった。もしや王妃様が自分の資産売却を知り、急な銀子の調達だと思って、高値で買い取ってくださったのではないかとさえ疑った。売買契約書を取り寄せ、買主の名を確認すると「風早久時」とある。聞き覚えのない名前だった。「北冥親王邸に風早久時という執事はおりませんか?」三姫子は執事に尋ねた。「存じ上げません」「では、この買主は何者なのでしょう」相場を大きく上回る値段で買い取るとは、何か裏があるのではないかと不安が募る。だが、よく考えれば、すべて正式な契約書があり、登記も済み、仲介人も立ち会っている。完全な合法取引なのだ。何を心配することがあろう。「もういい。残りは売らないことにしましょう。お義母様の耳に入ることは避けたいので」三姫子は言った。資産の売却は老夫人にも、鉄将にも蒼月にも黙っていた。家政に関わっていない彼らが詮索することもないだろう。もし発覚しても、その時は事情を説明すればよい。これは決して自分のためだけではないのだから。とはいえ、買主の件は気になっていた。この日、さくらが見舞いに来た際、さりげなく尋ねてみた。「王妃様、風早久時という方をご存じですか?」さくらは目を上げ、少し考えてから言った。「風早久時?風早という姓は都では珍しいですね。何かお困りごとでも?三姫子は首を振った。「いいえ、そうではありません。先日、少し離れた場所にある店を売りに出したところ、風早という方が買い手として現れ、市価より二割も高い値段を提示してきたのです」「それは良いことではありませんか?得をなさったということで」さくらは微笑んで答えた。「最初はそう思ったのですが、相場は誰でも調べられるはず。それなのに、先方から高値を提示してきたことが、何だか不自然で」「正式な売買契約さえ済んでいれば、高値であっても問題はありませんよ。幸運だと思えば良いのでは」さくらは柔らかく答えた。三姫子には確信があった。王妃は
夕美の涙は止まらなかった。「でも、あの人に前途などありません。一兵卒になるなんて……私はこれからどう人様に顔向けすれば……ただ自分を卑しめたくなかっただけなのに。上原さくらだって、あの時離縁を望んで、わざわざ勅許までいただいた。それほど決意が固かったのに、私が彼女に負けるわけには……」お紅は心の中で、今の状況の方がよほど世間体が悪いと思ったが、口には出せなかった。「お比べになることではございません。人それぞれ、歩む道が違うもの。王妃様より劣る人もいれば、優れた人もおります。王妃様に勝ったところで、他の方々にも勝てるとは限りません」「どうして、前にこういう話をしてくれなかったの?」夕美の声に苦い響きが混じる。「申し上げても、お聞き入れになられなかったでしょう」お紅は簾を下ろしながら言った。「御者、参りましょう」椿の花が刺繍された紅い錦の座布団に寄り掛かりながら、夕美の心に得体の知れない不安が忍び寄った。突如として気づいたのだ。もう誰も自分を望まないかもしれないという現実に。さくらのように、離縁を経てなお、凛々しく勇猛で戦功赫々な親王様を夫に迎えることなど、自分には叶わない。「お紅」夕美は突然、侍女の手を掴んだ。青ざめた顔で問う。「守さんは……本当に軍功を立てることができるかしら?」「お嬢様」お紅は静かに答えた。「人の運命は分かりませんもの。将軍の座に返り咲くかもしれませんし、このまま落ちぶれて、二度と立ち直れず、将軍家まで取り上げられるかもしれません」「こうなっては、もう出世など望めないでしょう」夕美は虚ろな声で呟いた。「あの人と共に老い果て、持参金を使い果たし、最後には将軍家まで陛下に召し上げられる……そんな人生を送っていたら、本当に私の人生は台無しになっていた。私の選択は間違っていない。間違っていないのよ」最初は北條守に好感を持っていた。端正な容姿で、陛下の信任も厚く、宰相夫人の取り持ちだった。だが次第に、優柔不断で決断力に欠け、感情に流されやすい性格が見えてきた。主体性のない男。そこへわがままな平妻がいて、さらには輝かしい前妻までいる。大名家の三女である自分は、あまりにも影が薄く感じられた。将軍家に嫁ぐ前は、きっと皆に愛されるはずだと思っていた。しかし現実は期待と余りにも懸け離れており、次第に守への怨みが募っていった。
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一
さくらは使いを出し、薬王堂から紅雀を呼び寄せた。三姫子の額の傷は幸い浅く、出血もすぐに止まったため大事には至らなかった。だが、数日前からの発熱で体力を消耗していた上に、激しい動揺が重なり、今や心火が上って血を吐き、意識も朦朧としていた。目尻から絶え間なく涙が零れ落ちる。さくらが何度拭っても、まるで尽きることを知らないかのように流れ続けた。「どうですか、様子は?」紅雀が脈を取り終えると、さくらは尋ねた。紅雀は深いため息をつきながら答えた。「奥方様は数日来の高熱に加え、先ほど背中を叩いてみたところ、肺に異常が見られます。また、肝気の鬱結が著しく、気血が滞っております。これまでの投薬では力不足でした。まずは強い薬で肝気を清め、火を取り、肺気を整える必要があります。その後、徐々に養生していただきますが、これ以上の心労は厳禁です」そう言うと、紅雀はさくらを部屋の外に呼び出し、声を落として続けた。「肝血の鬱結が深刻です。これは明らかに心の悩みが原因かと。何か言えない事情を抱え込んでいらっしゃるのでしょう。自らを追い詰めているような……」さくらには察しがついた。親房甲虎の謀反事件に家族が連座するのではないかという不安だろう。賢一を棒太郎に武術の稽古をさせた時、玄武は「最悪の事態を想定しているんじゃないかな」と言った。最悪の事態を想定しているということは、きっと昼夜問わずその心配に苛まれているのだろう。「まずは薬を数服……」紅雀はそれ以上何も言わず、部屋に戻っていった。さくらは御城番の部下たちに、今日の出来事について一切口外無用と厳命した。他人が噂を流すのは別だが、御城番からの漏洩は絶対に避けねばならない。指示を終え、部下たちが立ち去った後、振り返ると夕美が柱に寄りかかっているのが目に入った。その目は泣き腫らして真っ赤だった。夕美は琉璃のように儚げな様子で、今にも砕け散りそうにさくらを見つめていた。「北冥王妃様、一つ伺ってもよろしいでしょうか」鼻声で、完全に詰まった声だった。「どうぞ」さくらは応じた。夕美は嘲るような笑みを浮かべた。「伊織屋を開いて、女性の自立を謳っているそうですね。では伺いますが、私がしたことを男がしたとして……同じように非難されるでしょうか?むしろ、多くの女性に好かれる手腕があると褒められるのではありま
その言葉に、その場にいた全員が凍りついた。千代子に付き添ってきた親族たちも、香月自身も、その「子供」のことは知らなかった。特に香月は大きな衝撃を受け、よろめきながら二歩後ずさり、まるで磁器が砕けるように、その場に崩れ落ちそうになった。実は千代子も確信があったわけではなかった。薬王堂での一件の後、親房夕美の素性を探らせた際、ある医師と接触した。その医師は夫と親交があった。北條家での子供を何故失ったのかと尋ねると、医師は一つの推測を語った。以前の堕胎が原因で子宝に恵まれない体質になった可能性があるというのだ。医師は事情を知らず、婦人が子を失うのは珍しい事ではなく、堕胎後の養生が不十分だと不妊の原因になり得ると考えただけだった。千代子には、夕美と十一郎との間に子供がいたのかどうかを確かめる術がなかった。天方家への調査は及びもしなかった。全ては推測に過ぎなかった。しかし夕美の傲慢な態度に堪忍袋の緒が切れ、推測を事実のように突きつけた。事の真相を明らかにさせるための強烈な一撃のつもりだった。だが、その言葉を発した瞬間、三姫子と夕美の血の気が引いた表情を目にして、千代子は自分の推測が的中していたことを悟った。夕美は全身の力が抜け、その場に崩れ落ちた。千代子の言葉が探りだったとは知らず、すべてが露見したと思い込んでいた。「やっぱり……」香月の頬を涙が伝う。「私の疑いは的中していた。ただの思い過ごしではなかった。あなたは夫に会いたかった。それだけの関係じゃなかった。子供まで……夫を探し出した理由は明らかよ。なのに夫も慎むことなく、あなたの愚痴を聞いていた。一番避けるべき立場なのに。そして破廉恥な二人が、私を非難した。私の取り乱しのせいで評判を落としたなんて……」夕美は溺れる者のように、死の淵に追い詰められたような絶望感に襲われた。村松光世の子を宿したと知った時と同じような……もう逃げ場はないと感じていた。あの時は三姫子が救ってくれた。夕美が三姫子を見つめた時、蒼白な顔をした三姫子は前のめりに倒れ込んだ。気を失ったのだ。さくらは咄嗟に駆け寄って支えようとしたが、間に合わなかった。三姫子は床に倒れ込み、額を打った。さくらが触れると、手は血に染まった。額と頬は異常な熱を帯び、全身が火照っていた。「医者を!早く医者を!」蒼月も三姫
夕美は目を泳がせ、座って話し合うことを頑なに拒んだ。冷ややかな声で言った。「あの時は、酒に酔って起きた過ちよ。私はあの人を十一郎さんだと思い込んでいただけ。でもあの人は正気だった。私が誰なのか分かっていたはず。だから、私にも非はあるけど、彼の方がずっと重い」「でも、夫は違うことを言っていました」香月は必死に涙をこらえながら、震える声で続けた。「あなたは酔っていたけど、正気だったと。彼が誰か分かっていて、名前も呼んだって」「嘘つき!」夕美は顔を赤らめ、一瞬さくらの方をちらりと見てから、大声で言い返した。「嘘よ!あの人に直接対質する勇気があるの?私が呼んだのは十一郎さんだわ!」さくらには裁きの経験こそなかったが、あれだけの時が経っても、夕美が十一郎の名を呼んでいたことを覚えていた。それは、彼女が村松光世と区別がつかないほど泥酔していなかった証だった。香月は一時、言葉を失った。しかし、その母である千代子は冷静さを保っていた。冷笑して言った。「泥酔していたはずなのに、誰の名を呼んだか覚えているのですか?酔っていても三分の意識があったということは、その人が十一郎さんでないことも分かっていたはず」「戯言を!」夕美は再び立ち去ろうとした。大勢の前でこの恥ずかしい話を蒸し返されて面目が立たなかった。織世が再び制止しようとすると、平手打ちを食らわせた。「生意気な!私を止める気!?」織世は頬を押さえながらも、一歩も退かなかった。「夕美お嬢様、話をはっきりさせてからお帰りになって」夕美の顔は怒りで真っ赤に染まっていた。「私に何を言えというの?この件で一番傷ついたのは私よ。光世さんは得をしただけ。私がどれほどの代償を払ったか分かって?全て私が悪いというの?なぜ私ばかりを追及するの?彼を問い詰めに行けばいいでしょう」香月は次第に冷静さを取り戻してきた。「夫への問い詰めは当然やります。それはさておき、正直に答えてください。あの日、薬王堂に行ったのは彼に会うためだったのでしょう?私も調べましたよ。薬王堂に行く前から、北條守さんとの離縁を騒ぎ立てていた。もう一緒に暮らせないと思ったから、彼を頼ろうとしたのでは?」「雪心丸を買いに行っただけよ!」夕美は恥ずかしさと怒りで声を荒げた。「余計な詮索はやめて!」「彼は薬箪笥係ではなく、仕入れ係でしょう?雪心丸を買
三姫子は香月の絶望的な泣き様を見つめ、同じ女として胸が締め付けられた。追い詰められなければ、こんな体面を失うようなことはしなかっただろう。「夕美を連れて参れ」三姫子は表情を引き締めた。「どんな手を使ってでも」織世が数人の老女を従えて部屋を出ると、三姫子は香月に向き直った。「あなたは自分への答えを求めてここに来たのでしょう。だから彼女が何を言おうと、真実であれ嘘であれ、ご自身の感覚を信じなさい。そうすれば、自分の中で決着がつき、次にすべきことも見えてくるはず」香月は涙を拭い、蒼白な顔を上げた。際立って美しい容姿ではなかったが、凛とした気品が漂っていた。「ご親切に感謝いたします」千代子もまた三姫子とさくらに説明を続けた。娘を案じる気持ちと、これだけの親族が集まったのも、ただ真相を明らかにしたいがためだと。光世と夕美の過去の関係は知らなかったという。後に香月が知って実家に話したとき、家族は「昔の一時の迷いに過ぎない、今の夫婦仲を壊すことはない」と諭したのだった。そうして平穏な日々が戻り、確かに光世は結婚後、女道楽も控えめになり、側室一人すら置かなかった。「あの日、娘が泣きながら帰ってきて、二人がまだ関係を持っていると……薬王堂で親密な様子だったと聞かされては、親として黙っているわけにはまいりません」さくらには、この家庭内の揉め事が複雑に絡み合った糸のように感じられた。「ご心情はよく分かります」高熱に喘ぎながらも、三姫子は冷静に言葉を紡いだ。「確かに過去の出来事とはいえ、あれは表沙汰にできない不義密通。人倫に背く行為でした。風紀を乱すと非難されても仕方ありません。だからこそ香月様の胸に棘が残っているのでしょう。ただし、この件は夕美だけを責められません。光世さんにも相応の過失がある」「ええ、重々承知しております」千代子は慌てて言った。「そのため息子たちも婿殿を諭しに参りました。ですが婿殿が離縁を持ち出し……私どもは反対なのです。どうしても続けられないのなら、和解離縁という形を……今日このような騒動を起こしましたのも、やむを得ずのことで、どうかお許しください」三姫子は苦笑を浮かべた。「お許しも何も。ただ事態が収まることを願うばかりです」もはやどうでもいい。これほど腐り切った状況なのだ。さらに腐るのも構わない。いずれもっと腐り果