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第981話

シャンピンの裏切りに、長公主は決意を固めた。召集された面々の前で、外套を纏いながら椅子に座り、力なく、しかし断固とした口調で告げた。「明日午後、会談を再開いたします。条件は……柔軟に対応しましょう」「柔軟に?」スーランキーの目が見開かれた。「まさか……奴らが国境線の後退を要求しても、受け入れるとでも?」「国境線の問題は一旦保留です」長公主は既に決意を固めていた。彼らの反対など意に介さない。「明後日までに協定を結び、即刻帰国します」「それは不可能……」「これは相談ではありません」長公主の冷たい視線が一同を射抜いた。「わたくしの決定です。不満があろうとも……胸の内に納めておきなさい」スーランキーは激昂して声を荒げた。「独断専行ではありませんか!国境問題を棚上げにして、陛下や朝廷の重臣たちに、民にどう申し開きをするというのです?」「申し開きはこのわたくしがいたします。あなたの心配には及びません」長年朝政を采配してきた長公主の声には威厳が漂っていた。鋭い眼差しには、凛として揺るぎない威光が宿る。「直ちに草案を練り直しなさい。賠償金を増額する代わりに、国境問題は除外するのです。二年後に改めて協議する。わたくしはあくまでも、話し合いでの解決を望んでいます」「弱腰です!これでは示しがつきません!」スーランキーは長公主が急いで帰国しようとする理由を察していた。心の中でシャンピンの愚かさを呪いながら、声を張り上げた。「断じて認められません。国境線の明確な画定は必須です」長公主は手元の香炉を投げつけ、声を震わせた。「すぐに出て行って草案を作りなさい!」北冥親王邸に戻ると、丹治先生も一行に同行していた。議事堂では、一転して力関係が変わっていた。上座に据わる丹治先生の前で、かつての権威者であった皆無幹心でさえ、脇に控えているほどだ。万華宗の弟子たちは、普段は厳しい師叔に頭が上がらないのに、今日ばかりは背筋をピンと伸ばし、まるで「へへ、これで師叔も僕らと同じ立場だね」とでも言いたげな、からかうような視線を送っている。「今回の魂喰蟲は、甲斐の事件で見つかったものと同種です」丹治先生は静かに説明を始めた。「ただし大きさが異なります。甲斐のは大型で、育成に時間を要する。一方、長公主様に仕込まれたのは小型。一、二ヶ月で成長し、血を吸う特性があるため致命
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第982話

議事堂での討議は深まり、一同は平安京が条件を緩和し、早期の和平を目指すだろうとの見方で一致した。領土境界線については、譲歩するか、あるいは棚上げにされる公算が大きいとの結論に至った。「燕良親王の策謀は悉く空振りに終わりましたな」有田先生は冷静に分析を始めた。「今や窮地に追い込まれ、京での人脈も影森茨子に握られていた。影森茨子が失脚した今となっては、まさに為す術もない状況かと」その言葉通り、燕良親王邸では深刻な行き詰まりを見せていた。無相は幾度となく手を打ってきた。淡嶋親王を通じた策略、そして隠し持っていたもう一つの切り札。だが今や、それらは根こそぎ潰えた。十数名の精鋭も失われ、打撃は大きい。迎賓館の様子を窺っていた彼らは、丹治先生が呼ばれたという一報で、計画の失敗を悟った。更に、長公主が昏睡状態に陥った時ですら、魂喰蟲の母虫が体内の幼虫を制御できなかったことから、事態が思惑通りには運ばないことを察していた。無相は失意の中にありながらも、レイギョク長公主への敬意を抱かずにはいられなかった。魂喰蟲の支配に抗うことは並大抵のことではない。武芸に長け、不撓不屈の精神を持つ男子でさえ、成し得なかったことだ。無相の知る限り、これまでに魂喰蟲に抗えた者は唯一人。その者の身分は並々ならぬもので、常人離れした意志の強さを持ち合わせていた。それ故にこそ可能だったのだ。こうも手強い相手に巡り会えば、無相としても敗北を素直に認めざるを得なかった。「レイギョク長公主がいる限り、平安京は大和国との開戦には踏み切りませぬ」無相は燕良親王に冷静に進言した。「定遠皇帝は即位後、戦意を煽り、民心を操ろうとしましたが、その策は自身に返り矢となるでしょう。そもそも帝位への執着もない方です。先の皇太子への思いが何より強く、国家も天下も二の次。我らと同盟を結んだのもその表れ。だが、野心なき同盟は砂上の楼閣。崩れる時は我らをも巻き込みかねません。もはや定遠皇帝に期待を寄せるべきではありませぬ」燕良親王は目を細め、じっと考え込んだ。「ならば、長公主は定遠皇帝を許さぬだろうな。皇子たちの中では、四皇子のケイシンが最有力か」「御慧眼にございます。四皇子様の外戚の勢力を考えれば、即位の可能性は最も高い。定遠皇帝の即位も、長公主とスーランジーの後押しがあってこそ。しかし帝位に就
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第983話

夜明けとともに、アンキルーは上原さくらを訪ねた。丹治先生の診察を願いたいとのことだった。同じ刻、コウコウは賓客司へと向かっていた。午後には再び会談が始まる。丹治先生はすでに長公主からの要請を予期していたかのように、早朝から支度を整えていた。さくらが到着した時には、馬車まで用意されていた。青雀が薬箱を背負う中、丹治先生は尋ねるまでもなく「迎賓館ですな?」と口にした。「伯父上、さすがにご存知でしたか」さくらは柔らかな笑みを浮かべた。「あの頭痛では、これからの交渉どころか、帰国後の政務にも支障を来すでしょう。私の手を借りねば、持ちこたえられまいて」相変わらずの自信に満ちた口ぶりだった。馬車に同乗したさくらは、「長公主様の頭痛は一体?頭風でございますか?」と尋ねた。「頭風は一つの要因です」丹治先生は診立てを説明し始めた。「脈の記録からすると、相当な年月を経た重症でございますな。更に、長年の机上での労により首を痛めて血行が滞っている。昨夜のキン御典医の診断――血瘀という見立ては正しかった。使われた香も図らずも血瘀を解消する性質があったのですが、効き目は束の間。すぐに頭痛が戻ってきてしまう」「キン御典医は気付かなかったのでしょうか?これまでの治療で改善が見られないとは……」「鍼治療である程度の効果は得られていましたが」丹治先生は薬箱に手を置きながら続けた。「根本的な問題は残ったまま。過度な労働で症状は悪化の一途を辿り、このままでは命に関わる恐れもございます」そして薬箱を軽く叩きながら、「一年分の丸薬を用意させました。私を信用していただければ、必ず良くなりますよ」と確信に満ちた口調で告げた。さくらは軽く頷いた。両国の現状を思えば、長公主が政務を執れなくなることは、大和国にとって致命的な打撃となるだろう。迎賓館に着くと、丹治先生と青雀が中へ入り、さくらは外で待機することにした。山田鉄男が交代に来るまでの間、診察が終わるのを待って先生を送り届けるつもりだった。診察は予想以上に長引いた。一時半も経っているというのに、丹治先生はまだ出てこない。すでに到着していた鉄男も、一時間以上待ち続けていた。不安を覚えたさくらが平安京の侍衛に尋ねると、意外にも奥へと案内された。「長公主様より、お尋ねがあった際はすぐにお通しするようにとの仰せで
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第984話

さくらも思わず息を呑んだ。伯父上の言葉には、明らかに別の意味が込められているように感じられた。長公主の視線を受け止めながら、さくらは何も悟らぬように平静を装った。観察眼に長けた伯父は、きっと長公主の胸の内を見抜いているのだろう、とさくらは思った。丹治先生が薬を置いて立ち上がると、長公主も見送りのために席を立った。深々と一礼し、「先生のご恩は忘れません。また大和国にいらっしゃる機会がございましたら、必ずや相応のお礼を」その瞳が、わずかに潤んでいた。さくらが丹治先生の腕を支え、青雀が薬箱を背負って、三人は静かに部屋を後にした。長公主は再び座に戻り、キン御典医が薬瓶の中身を確認する様子を眺めていたが、その眼差しは何処か遠くを見つめているようだった。医は体を癒すだけでなく、心をも癒すもの——長公主は何も語らなかったが、丹治先生は彼女の想いを見抜いていた。女が大事を為すことを、男権への挑戦とは見なかった先生の眼差しには、平等という理念が宿っていた。それは彼女が長年追い求めてきたものだった。胸を熱くしたのは、自分の志すことが必ずしも全ての男たちに否定されるわけではないという発見。その認められる喜びは、芽生えたばかりの想いを持つ彼女にとって、心に染み入る良薬となった。薬王堂まで丹治先生を送る馬車の中で、長い沈黙の後、先生はぽつりと言った。「平安京が変われば、より良い国になるでしょうな」さくらには先生の真意が分かった。しかし、長公主の道のりは険しいだろう。心の中で成功を祈った。もし彼女が帝位に就けば、少なくとも大和国との問題は武力ではなく、和平交渉で解決できるはずだから。それは両国の民にとっての福音となるに違いない。午後の日差しが差し込む賓客司で、再び会談が始まった。玄武は通達を受けるや否や参内し、清和天皇から平安京への賠償案について裁可を得た後、会議の場へと急いだ。平安京は、スーランキーとリョウアンの姿はなく、レイギョク長公主が残りの使節団を率いていた。第二条については、もはや蒸し返す必要もなかった。平安京は依然として佐藤大将の身柄を要求したが、大和国はその代わりにテイエイジュの引き渡しを提案。双方がこの交換を受け入れ、この案件は決着を見た。穀物三十万石の要求に対し、長公主は粘り強く交渉を続けたが、玄
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第985話

この結果は、両国にとって良い着地点となった。長公主には帰国後の策があるはずだ。だからこそ国境線では譲歩できなかった。一歩でも引けば、彼女の計画は頓挫し、民心も失うことになる。署名の翌日、平安京の使節団は宮中に別れの挨拶に訪れた。清和天皇は送別の宴を開こうとしたが、長公主は急ぎ帰国を望んだ。天皇もそれを認めざるを得なかった。刑部は既に葉月琴音を囚人車に収容し、会同館まで護送していた。だが、そこで佐藤承の姿が見えないことに気付いた琴音は、突如として正気を失ったかのように騒ぎ立てた。「どうして私だけなの?佐藤承は?彼も責任を取るべきではないの?」甘木刑部丞が彼女の口を塞ぎ、スーランキーに引き渡した。平安京の使節団が初めて葉月琴音の姿を目にしたのは、都に入って以来のことだった。その視線には、琴音を焼き尽くさんばかりの怒りの炎が燃えていた。囚人車の中で琴音は身をよじり、必死に北條守の姿を探した。迎賓館の前には長い行列が続き、禁衛の護衛も、さくらも玄武もいた。だが、北條守だけはどこにも見当たらない。声を上げようとしても喉から音が出ない。身動きもままならず、囚人車からは頭すら出せない。座るにも座り辛く、立つこともできないその檻は、かつて自分がケイイキを閉じ込め、弄ぶように矢を放った鉄檻そのものを思わせた。あの時は痛快だったのに、今は恐怖に震えるばかり。これが始まりに過ぎないことを、琴音は痛いほど理解していた。さくらは今日、わざとお珠を連れてきていた。二人は囚人車から五丈ほどの距離に立ち、琴音の目に宿る恐怖と動揺を克明に見つめていた。お珠は琴音を太政大臣家に引きずり戻し、八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られた。だが今や琴音は平安京の囚人。自らの手で仇を討つことは叶わない。瞳に浮かぶ涙の一粒一粒が、失った肉親の血のように、目を、心を灼いた。「お嬢様」お珠は震える声で訴えた。「あの女の頬を打たせていただけませんでしょうか。私の力では大して痛くもありますまい。レイギョク長公主様にお願いしていただけませんか」さくらは頷いた。この一撃を許さなければ、お珠の心の傷は一生癒えまい。「長公主に話してくるわ」長公主はさくらの言葉に耳を傾け、簾を上げてお珠を一瞥した。小さなため息と共に「よろしい」と告げた。一族の殲滅も、村の虐殺も、交渉
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第986話

平安京の使節団が都を去った後、清和天皇は佐藤大将と北條守への処分を言い渡した。佐藤大将は軍紀の緩みを咎められたものの、長年の関ヶ原の守備と功績を鑑み、また北條守と葉月琴音が鹿背田城へ向かった際にも瀕死の状態にあったことから、解任後は関ヶ原での隠居を特別に許された。その後、佐藤三郎が関ヶ原総兵、佐藤八郎が副総兵に任命された。国境問題が未解決である以上、関ヶ原から佐藤家の存在を消すわけにはいかなかった。佐藤承もようやく佐藤邸を出て、参内して恩に謝した。家族は皆関ヶ原におり、任を解かれた今となっては当然帰郷となる。総兵の位も爵位も得られなかったが、彼に後悔はなかった。そもそもそれを求めていたわけではないのだから。北條守も同罪とされたが、平安京との交渉時の密告が功を奏し、玄鉄軍副指揮官に降格、三年の減俸となった。代わって樋口信也が正指揮官に昇進し、こうして清和天皇の側近く、表裏二つの衛隊の指揮官は共に樋口の手に委ねられた。さらに天皇は特別な恩寵として、平安京の二人の密偵の処遇を北冥親王家に一任した。玄武はさくらの意向を確かめようと家路を急いだ。直接裁くか、刑部に委ねるか、その判断を仰ぐためだった。さくらはお珠を呼び寄せ、その意思を問うた。葉月琴音こそが上原家殺戮の黒幕だが、実際に血を流したのは、あの密偵たちだった。お珠は玄武とさくらの前に跪き、震える声で告げた。「この目で、あの者どもの最期を見届けとうございます。上原家の御霊への供養として」さくらの胸に鋭い痛みが走り、目が熱くなる。「ええ、私が連れて行くわ」実のところ、さくらにも躊躇いがあった。あの者どもの顔など、二度と見たくはなかった。あの日、上原家に狂ったように駆け戻った時の光景が、今でも目に焼き付いている。バラバラに切り刻まれた肉親たちの亡骸……一人も手にかけることができなかった密偵たち。残る二人は逃げ惑った末に水無月師姉の手に落ちた。天命とあらば、お珠と共に仇を討つのも定めであろう。夕餉を済ませる頃には、宵闇が深まっていた。北冥親王邸の灯火が一つ、また一つと灯る中、清湖から渡された鋭い短刀を懐に収め、お珠の手を取って屋敷を後にした。玄武と紫乃も同行する。玄武は馬上から目を光らせ、さくら達三人は馬車の中。御者台には棒太郎の姿があった。「俺も行くぜ」と、彼は強く告げ
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第987話

一行は木幡刑部卿に従って中に入る。さくらは終始お珠の手を握ったまま。連れてこられた二人の密偵は、衣服は襤褸のごとく血の跡が点々と残り、顔は腫れ上がって人相も判別できないほど。何十発も平手打ちを食らったかのようだった。二人は地面に押し付けられるように跪かされたが、まともに体を支えることもできず、前のめりに倒れそうになっている。お珠の瞳が赤く染まり、怒りの炎が灯った。さくらと同じく、彼女も北平侯爵家の惨劇を一日たりとも忘れたことはない。今や全てが定まり、ようやく主人と上原夫人たちの仇を討てる。胸の内に秘めた悲しみと怒りが、堰を切ったように溢れ出す。拳を振り上げ、蹴りを入れたい衝動に駆られたが、木幡の前での無礼は許されない。親王様とお嬢様の面目を傷つけるわけにはいかないのだ。「この二人が刑部に送られて参りました折は、まだ強がっておりましてな」木幡は言葉を選びながら続けた。「私からは拷問を命じてはおりませぬが、個人的な感情から平手打ちを加えた者がおりまして。体の傷は、連行時から」玄武は水無月から聞いていた。捕らえた時、散々に痛めつけてから連れ帰ったという。玄武は軽く会釈すると、棒太郎に目配せした。すぐさま棒太郎は二人の密偵を引き立て、上原家の墓所へと向かう準備を始めた。提灯の光が揺れる闇路を行く。棒太郎は二人を馬車の前方に縛り付けた。鞭を振るう度、上原家の惨劇が脳裏を過る。思わず鞭が二人の背中に食い込む。上原家の墓前に着くと、棒太郎は荒々しく縄を解き、蹴り倒した。お珠は堰を切ったように飛び掛かった。拳が、足が、そして平手が次々と密偵の顔を打ち据える。だが、それでも胸の痛みと怒りは収まらない。誰も止めようとはしなかった。いつもの愛らしく無邪気なお珠が、この様に取り乱す姿に、皆の胸が締め付けられた。二人の密偵は地面に転がり、口から血を吐く。既に腫れ上がっていた顔に、新たな血が滲み出る。一人が地面に手をつき、吼えるように叫んだ。「貴様らの命は命で、我らの命は命ではないというのか!何の理由で我らの民を虐殺する!何の!」もう一人は血を吐きながら、絞り出すように言った。「平安京の血気ある者は、大和国の野獣どもとは、決して共に在れぬ!」「なら何故、民を殺した葉月琴音に復讐せぬ!」棒太郎は蹴りを入れながら吐き捨てた。「弱き
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第988話

紫乃は刃を何度も突き立てようとしたが、お珠の言葉を聞いて手を止めた。確かに、傷を増やせば血は早く流れ、あまりに容易い死に方になってしまう。さくらは祖廟から線香を取り出し、火を点けて香炉に差した。喉が詰まり、言葉を発することができない。ただ静かに跪き、額を三度地面に打ちつけた。両親も、兄も、兄嫁も、今のこの場面を天から見守っているに違いない。玄武も一本の線香を手向け、さくらの傍らに跪いて、その震える手を握った。さくらの頬を涙が伝う。「凶手が裁かれました」玄武は胸を痛めながら、優しく囁いた。「義母上たちの御魂も、安らかになられることでしょう」安らかになれるのか――さくらにはわからない。ただ、もう二度と会えないことだけは確かだった。仇を討っても、心の痛みは少しも和らがない。けれど、自分が強く、幸せに生きることこそが、天上の家族への真の供養になるのだと、さくらは知っていた。二人の密偵はまだ息があったが、失血で意識が朦朧としていた。平安京の言葉で何かを呟いているが、さくらたちには聞き取れない。だが玄武には分かった。断続的な「申し訳ない」という言葉だった。死の間際になって、やっと自らの過ちに気付いたのか。臨終の時、記憶の中の罪が走馬灯のように蘇ったのだろう。この墓前で、彼らが本当に言うべき言葉が、ようやく出たのだ。「謝罪の言葉を」玄武が静かに告げた。「申し訳ないと」後ろで跪いていたお珠は、それまで堪えていた涙が一気に溢れ出た。紫乃の胸に顔を埋めながら、「謝られても……謝られても、何にもならない!」お珠の嗚咽が墓地に響き渡る。「謝罪の言葉だけで、全ての罪が消えると思うのか」だが、その一言は必要だった。亡き人たちの魂も、それを待っていたはずだ。許すか許さないかは、天上の人々の心に委ねられている。ただ、殺戮者からの謝罪は、必要だったのだ。紫乃はお珠を抱きしめながら、自らの涙を抑えきれない。慰めの言葉など見つからず、ただ背中を優しく撫でるばかり。「泣きなさい。思う存分泣けば良いの」玄武もさくらを抱き寄せ、その肩が涙で濡れるのを感じていた。和平交渉の終結と、最後の密偵の死。これで上原家の惨劇は、ようやく結末を迎えた。棒太郎は二人の死体を野原に投げ捨てた。まともな埋葬など許されない。野犬や狼の餌食となることこそ
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第989話

夕餉の後、佐藤大将と影森玄武は書斎で長い時間を過ごした。さくらも同席しようとしたが、「男同士の話だ」と、佐藤大将に制された。仕方なく、さくらは水無月清湖と深水青葉を探しに行った。夕食の席で皆無幹心は、梅月山への帰山を告げていた。特に深水への叱責は厳しく、「親王家に居座って、どれほどの輩を引き寄せたか。邸内が物騒になる」と。確かに、深水を訪ねる者の多くは朝廷の画家たちだった。だが皆無幹心は、「朝廷の者との付き合いは控えめに。玄武への迷惑になる」と、親王邸からの退去を命じた。「まったく、都合の良い時だけ呼びつけておいて」清湖は小声で愚痴をこぼした。「用が済めば邪魔者扱い」普段は人の悪口など決して言わない彼女だが、皆無幹心のことになると、こっそりと不満を漏らすのだった。「本当に帰っちゃうの?もう少し居られないの?」さくらは清湖の肩に寄り掛かりながら尋ねた。「帰りたくなくても仕方がないわ。師叔様の命令だもの」清湖はさくらの髪を優しく撫でながら言った。「でも、確かに長居は無用かもしれないわ。師匠だって普段は私たちが貴女を訪ねるのを好まない。私たち武芸界の者が親王邸に出入りするのは、色々と面倒なことになりかねないもの」「私は少しも面倒だとは思わないわ。皆さんにそばにいて欲しいの」さくらは不満げに呟いた。「師叔様だけお帰りになれば良いのに」清湖は思わず吹き出した。「まあ!そんなこと、声に出してはいけないわ。お聞きになったら、また叱られることになるわよ」さくらは頭を上げ、髪を整えながら言った。「親王邸では私を叱りはしないわ。師弟である夫を、この世の何よりも可愛がっているのですもの」「そうだな」深水青葉は穏やかな微笑みを浮かべた。「この親王邸では、一度も厳しい言葉をかけられたことはないものだ」「これは好都合だわ」清湖が茶を啜りながら続けた。「これからは玄武に会いに行く、贈り物を持って行くと言えば、師叔様も反対なさらないでしょう」三人は口では師叔を批判しながらも、心の内では分かっていた。万華宗の広大な宗門を束ね、扱いの難しい弟子たちの世話に奔走する師叔の苦労を。翌日、どれほど名残惜しくとも、見送りの時を迎えることとなった。佐藤大将と日南子はもう少し滞在するという。蘭との再会を望み、また、あの不肖の娘が挨拶に来るかどうかも見届け
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第990話

蘭は眉を寄せた。「外祖父様は明日にも関ヶ原へ戻られます。ご高齢なのですよ。今お会いしなければ、次はいつになるか……七十の御誕生日も、佐藤邸で独りきりでお過ごしになったと聞きます。一緒に食事をして、長寿のお祝いの言葉もかけたくはありませんか?」「いいえ、私には……」淡嶋親王妃は涙を拭いながら言った。「それに七十のお祝いには、きっとさくらが……」「母上!」蘭は声を荒げた。「その時、さくら姉さまは参上できるはずもなかったでしょう。会談も始まっておらず、陛下の裁きも下されていない。そんな微妙な時期に、お祝いなど……」淡嶋親王妃は袖で涙を押さえながら、すすり泣くように言った。「もう過ぎたことです。今更の食事会では……上京された時にも伺いましたわ。お会いはできませんでしたが、それだけでも……」蘭は最近、平静を保つ術を学んでいたが、この言葉に言葉を失った。母の冷たさに、胸が締め付けられる。「もういいです」蘭は首を振り、失望の色を隠せない。「母上は優しすぎるだけだと思っていました。こんなにも薄情だとは……無理強いはいたしません」「どうしてそんなに大切なの!」淡嶋親王妃は両手で顔を覆い、声を震わせた。「あなたこそ薄情じゃありませんか。私の立場も考えて……お父様は私を見捨て、家財も全て……何も残さずに……何もかも失ってしまったのよ」蘭は立ち去ろうとしたが、母の嗚咽に足を止めた。「父上のことは後で調べればいい。外祖父様にお会いすることとは別のはず。明日には関ヶ原へ……」蘭は一瞬言葉を噛んだ。「はっきり申し上げますが、もしかしたらこれが最後の機会かもしれない。それに今こそ、実家の助けが必要なのではありませんか?」淡嶋親王妃は涙を拭おうとするが、新たな涙がその手を濡らす。「助けなどくださらないわ」震える声で続けた。「あの時、私は叔母様とさくらにあんなことを……外祖父様は私を許しては下さらない。日南子様だって、冷たい目で」「やはり……分かっていらしたのですね」蘭の声は冷たく響いた。「私には選択の余地がなかったの」淡嶋親王妃はすすり泣きながら言った。「お父様が……都は複雑だと。陛下の猜疑心も深いと。何にも関わらず、誰とも付き合わず……そうしなければ、寒村の地へ追いやられてしまうと」蘭は悲しげに笑った。袖で涙を押さえながら。「それだけのために?叔母様が危
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