平安京の使節団が都を去った後、清和天皇は佐藤大将と北條守への処分を言い渡した。佐藤大将は軍紀の緩みを咎められたものの、長年の関ヶ原の守備と功績を鑑み、また北條守と葉月琴音が鹿背田城へ向かった際にも瀕死の状態にあったことから、解任後は関ヶ原での隠居を特別に許された。その後、佐藤三郎が関ヶ原総兵、佐藤八郎が副総兵に任命された。国境問題が未解決である以上、関ヶ原から佐藤家の存在を消すわけにはいかなかった。佐藤承もようやく佐藤邸を出て、参内して恩に謝した。家族は皆関ヶ原におり、任を解かれた今となっては当然帰郷となる。総兵の位も爵位も得られなかったが、彼に後悔はなかった。そもそもそれを求めていたわけではないのだから。北條守も同罪とされたが、平安京との交渉時の密告が功を奏し、玄鉄軍副指揮官に降格、三年の減俸となった。代わって樋口信也が正指揮官に昇進し、こうして清和天皇の側近く、表裏二つの衛隊の指揮官は共に樋口の手に委ねられた。さらに天皇は特別な恩寵として、平安京の二人の密偵の処遇を北冥親王家に一任した。玄武はさくらの意向を確かめようと家路を急いだ。直接裁くか、刑部に委ねるか、その判断を仰ぐためだった。さくらはお珠を呼び寄せ、その意思を問うた。葉月琴音こそが上原家殺戮の黒幕だが、実際に血を流したのは、あの密偵たちだった。お珠は玄武とさくらの前に跪き、震える声で告げた。「この目で、あの者どもの最期を見届けとうございます。上原家の御霊への供養として」さくらの胸に鋭い痛みが走り、目が熱くなる。「ええ、私が連れて行くわ」実のところ、さくらにも躊躇いがあった。あの者どもの顔など、二度と見たくはなかった。あの日、上原家に狂ったように駆け戻った時の光景が、今でも目に焼き付いている。バラバラに切り刻まれた肉親たちの亡骸……一人も手にかけることができなかった密偵たち。残る二人は逃げ惑った末に水無月師姉の手に落ちた。天命とあらば、お珠と共に仇を討つのも定めであろう。夕餉を済ませる頃には、宵闇が深まっていた。北冥親王邸の灯火が一つ、また一つと灯る中、清湖から渡された鋭い短刀を懐に収め、お珠の手を取って屋敷を後にした。玄武と紫乃も同行する。玄武は馬上から目を光らせ、さくら達三人は馬車の中。御者台には棒太郎の姿があった。「俺も行くぜ」と、彼は強く告げ
一行は木幡刑部卿に従って中に入る。さくらは終始お珠の手を握ったまま。連れてこられた二人の密偵は、衣服は襤褸のごとく血の跡が点々と残り、顔は腫れ上がって人相も判別できないほど。何十発も平手打ちを食らったかのようだった。二人は地面に押し付けられるように跪かされたが、まともに体を支えることもできず、前のめりに倒れそうになっている。お珠の瞳が赤く染まり、怒りの炎が灯った。さくらと同じく、彼女も北平侯爵家の惨劇を一日たりとも忘れたことはない。今や全てが定まり、ようやく主人と上原夫人たちの仇を討てる。胸の内に秘めた悲しみと怒りが、堰を切ったように溢れ出す。拳を振り上げ、蹴りを入れたい衝動に駆られたが、木幡の前での無礼は許されない。親王様とお嬢様の面目を傷つけるわけにはいかないのだ。「この二人が刑部に送られて参りました折は、まだ強がっておりましてな」木幡は言葉を選びながら続けた。「私からは拷問を命じてはおりませぬが、個人的な感情から平手打ちを加えた者がおりまして。体の傷は、連行時から」玄武は水無月から聞いていた。捕らえた時、散々に痛めつけてから連れ帰ったという。玄武は軽く会釈すると、棒太郎に目配せした。すぐさま棒太郎は二人の密偵を引き立て、上原家の墓所へと向かう準備を始めた。提灯の光が揺れる闇路を行く。棒太郎は二人を馬車の前方に縛り付けた。鞭を振るう度、上原家の惨劇が脳裏を過る。思わず鞭が二人の背中に食い込む。上原家の墓前に着くと、棒太郎は荒々しく縄を解き、蹴り倒した。お珠は堰を切ったように飛び掛かった。拳が、足が、そして平手が次々と密偵の顔を打ち据える。だが、それでも胸の痛みと怒りは収まらない。誰も止めようとはしなかった。いつもの愛らしく無邪気なお珠が、この様に取り乱す姿に、皆の胸が締め付けられた。二人の密偵は地面に転がり、口から血を吐く。既に腫れ上がっていた顔に、新たな血が滲み出る。一人が地面に手をつき、吼えるように叫んだ。「貴様らの命は命で、我らの命は命ではないというのか!何の理由で我らの民を虐殺する!何の!」もう一人は血を吐きながら、絞り出すように言った。「平安京の血気ある者は、大和国の野獣どもとは、決して共に在れぬ!」「なら何故、民を殺した葉月琴音に復讐せぬ!」棒太郎は蹴りを入れながら吐き捨てた。「弱き
紫乃は刃を何度も突き立てようとしたが、お珠の言葉を聞いて手を止めた。確かに、傷を増やせば血は早く流れ、あまりに容易い死に方になってしまう。さくらは祖廟から線香を取り出し、火を点けて香炉に差した。喉が詰まり、言葉を発することができない。ただ静かに跪き、額を三度地面に打ちつけた。両親も、兄も、兄嫁も、今のこの場面を天から見守っているに違いない。玄武も一本の線香を手向け、さくらの傍らに跪いて、その震える手を握った。さくらの頬を涙が伝う。「凶手が裁かれました」玄武は胸を痛めながら、優しく囁いた。「義母上たちの御魂も、安らかになられることでしょう」安らかになれるのか――さくらにはわからない。ただ、もう二度と会えないことだけは確かだった。仇を討っても、心の痛みは少しも和らがない。けれど、自分が強く、幸せに生きることこそが、天上の家族への真の供養になるのだと、さくらは知っていた。二人の密偵はまだ息があったが、失血で意識が朦朧としていた。平安京の言葉で何かを呟いているが、さくらたちには聞き取れない。だが玄武には分かった。断続的な「申し訳ない」という言葉だった。死の間際になって、やっと自らの過ちに気付いたのか。臨終の時、記憶の中の罪が走馬灯のように蘇ったのだろう。この墓前で、彼らが本当に言うべき言葉が、ようやく出たのだ。「謝罪の言葉を」玄武が静かに告げた。「申し訳ないと」後ろで跪いていたお珠は、それまで堪えていた涙が一気に溢れ出た。紫乃の胸に顔を埋めながら、「謝られても……謝られても、何にもならない!」お珠の嗚咽が墓地に響き渡る。「謝罪の言葉だけで、全ての罪が消えると思うのか」だが、その一言は必要だった。亡き人たちの魂も、それを待っていたはずだ。許すか許さないかは、天上の人々の心に委ねられている。ただ、殺戮者からの謝罪は、必要だったのだ。紫乃はお珠を抱きしめながら、自らの涙を抑えきれない。慰めの言葉など見つからず、ただ背中を優しく撫でるばかり。「泣きなさい。思う存分泣けば良いの」玄武もさくらを抱き寄せ、その肩が涙で濡れるのを感じていた。和平交渉の終結と、最後の密偵の死。これで上原家の惨劇は、ようやく結末を迎えた。棒太郎は二人の死体を野原に投げ捨てた。まともな埋葬など許されない。野犬や狼の餌食となることこそ
夕餉の後、佐藤大将と影森玄武は書斎で長い時間を過ごした。さくらも同席しようとしたが、「男同士の話だ」と、佐藤大将に制された。仕方なく、さくらは水無月清湖と深水青葉を探しに行った。夕食の席で皆無幹心は、梅月山への帰山を告げていた。特に深水への叱責は厳しく、「親王家に居座って、どれほどの輩を引き寄せたか。邸内が物騒になる」と。確かに、深水を訪ねる者の多くは朝廷の画家たちだった。だが皆無幹心は、「朝廷の者との付き合いは控えめに。玄武への迷惑になる」と、親王邸からの退去を命じた。「まったく、都合の良い時だけ呼びつけておいて」清湖は小声で愚痴をこぼした。「用が済めば邪魔者扱い」普段は人の悪口など決して言わない彼女だが、皆無幹心のことになると、こっそりと不満を漏らすのだった。「本当に帰っちゃうの?もう少し居られないの?」さくらは清湖の肩に寄り掛かりながら尋ねた。「帰りたくなくても仕方がないわ。師叔様の命令だもの」清湖はさくらの髪を優しく撫でながら言った。「でも、確かに長居は無用かもしれないわ。師匠だって普段は私たちが貴女を訪ねるのを好まない。私たち武芸界の者が親王邸に出入りするのは、色々と面倒なことになりかねないもの」「私は少しも面倒だとは思わないわ。皆さんにそばにいて欲しいの」さくらは不満げに呟いた。「師叔様だけお帰りになれば良いのに」清湖は思わず吹き出した。「まあ!そんなこと、声に出してはいけないわ。お聞きになったら、また叱られることになるわよ」さくらは頭を上げ、髪を整えながら言った。「親王邸では私を叱りはしないわ。師弟である夫を、この世の何よりも可愛がっているのですもの」「そうだな」深水青葉は穏やかな微笑みを浮かべた。「この親王邸では、一度も厳しい言葉をかけられたことはないものだ」「これは好都合だわ」清湖が茶を啜りながら続けた。「これからは玄武に会いに行く、贈り物を持って行くと言えば、師叔様も反対なさらないでしょう」三人は口では師叔を批判しながらも、心の内では分かっていた。万華宗の広大な宗門を束ね、扱いの難しい弟子たちの世話に奔走する師叔の苦労を。翌日、どれほど名残惜しくとも、見送りの時を迎えることとなった。佐藤大将と日南子はもう少し滞在するという。蘭との再会を望み、また、あの不肖の娘が挨拶に来るかどうかも見届け
蘭は眉を寄せた。「外祖父様は明日にも関ヶ原へ戻られます。ご高齢なのですよ。今お会いしなければ、次はいつになるか……七十の御誕生日も、佐藤邸で独りきりでお過ごしになったと聞きます。一緒に食事をして、長寿のお祝いの言葉もかけたくはありませんか?」「いいえ、私には……」淡嶋親王妃は涙を拭いながら言った。「それに七十のお祝いには、きっとさくらが……」「母上!」蘭は声を荒げた。「その時、さくら姉さまは参上できるはずもなかったでしょう。会談も始まっておらず、陛下の裁きも下されていない。そんな微妙な時期に、お祝いなど……」淡嶋親王妃は袖で涙を押さえながら、すすり泣くように言った。「もう過ぎたことです。今更の食事会では……上京された時にも伺いましたわ。お会いはできませんでしたが、それだけでも……」蘭は最近、平静を保つ術を学んでいたが、この言葉に言葉を失った。母の冷たさに、胸が締め付けられる。「もういいです」蘭は首を振り、失望の色を隠せない。「母上は優しすぎるだけだと思っていました。こんなにも薄情だとは……無理強いはいたしません」「どうしてそんなに大切なの!」淡嶋親王妃は両手で顔を覆い、声を震わせた。「あなたこそ薄情じゃありませんか。私の立場も考えて……お父様は私を見捨て、家財も全て……何も残さずに……何もかも失ってしまったのよ」蘭は立ち去ろうとしたが、母の嗚咽に足を止めた。「父上のことは後で調べればいい。外祖父様にお会いすることとは別のはず。明日には関ヶ原へ……」蘭は一瞬言葉を噛んだ。「はっきり申し上げますが、もしかしたらこれが最後の機会かもしれない。それに今こそ、実家の助けが必要なのではありませんか?」淡嶋親王妃は涙を拭おうとするが、新たな涙がその手を濡らす。「助けなどくださらないわ」震える声で続けた。「あの時、私は叔母様とさくらにあんなことを……外祖父様は私を許しては下さらない。日南子様だって、冷たい目で」「やはり……分かっていらしたのですね」蘭の声は冷たく響いた。「私には選択の余地がなかったの」淡嶋親王妃はすすり泣きながら言った。「お父様が……都は複雑だと。陛下の猜疑心も深いと。何にも関わらず、誰とも付き合わず……そうしなければ、寒村の地へ追いやられてしまうと」蘭は悲しげに笑った。袖で涙を押さえながら。「それだけのために?叔母様が危
北冥王邸に着くと、佐藤大将と日南子の姿が目に入る。堰を切ったように涙が溢れ、蘭は膝を折って深々と頭を下げた。佐藤大将と日南子は蘭の姿を見ると、思わず門の方に目を向けたが、誰も現れる気配はない。二人の目に一瞬失望の色が浮かんだものの、すぐに平静を取り戻した。「まあ、蘭ちゃん、どうして泣いているの?お祖父様が無事に出てこられたんだから、嬉しいはずでしょう?」日南子は優しく微笑みながら、蘭を立ち上がらせた。「嬉しいんです……本当に嬉しくて……」蘭は涙ながらに答えた。佐藤大将は孫娘の顔を見つめ、彼女が経験してきた辛い日々を思い、胸が痛んだ。「蘭、こちらに座って、お祖父さんによく顔を見せておくれ」その言葉に込められた慈愛に触れ、母の冷淡さを思い出した蘭は、再び涙を零した。「お祖父様、さくら姉さまが私のことをよく面倒みてくださって、何不自由なく過ごしております」佐藤大将はさくらの方を一瞥し、胸が締め付けられた。自身も数え切れない苦労を重ねているというのに、まだ蘭の面倒を見る余裕があるとは。「お前たちが互いを支え合っているのを見られて、本当に安心した。これからもそうあってほしい」「はい、お祖父様のお言葉、心に留めておきます」さくらと蘭は声を揃えて答え、姉妹は目を合わせた。別れが近いことを悟りながらも、互いに笑顔を作り出した。祖孫が話を交わしているうちに、佐藤大将は何か言いかけては躊躇う様子を見せていた。日南子はその様子を察し、蘭に尋ねた。「蘭ちゃん、お母様はどうし……」その時、玄武が穂村宰相と相良左大臣を伴って入ってきた。佐藤大将は立ち上がり、二人を迎えた。「相良殿、穂村殿、久しぶりですな。お変わりございませんか?」相良左大臣が会釈を返そうとした矢先、穂村宰相が突然身を翻し、一瞬その場に佇んだかと思うと、そのまま部屋を出て行ってしまった。一同が困惑の表情を浮かべる中、玄武が様子を見に行こうとした時、穂村宰相は両手を背に組んで、ゆっくりと戻ってきた。「佐藤大将……申し訳ない」穂村は鼻にかかった掠れた声で、微かに笑みを浮かべた。さくらは日南子と蘭を促し、挨拶を済ませると退出した。男たちだけの空間を作るためだ。穂村宰相の目は既に赤く腫れ上がり、涙を堪えているのが明らかだった。女たちが居る場ではないと悟ったのだ。半刻ほど
相良左大臣と穂村宰相は親王家に留まり、昼餉を共にすることとなった。豪勢な料理が並び、上等な酒が注がれ、梅田ばあやは特製の桃まんを作り上げた。真っ白な生地に一つだけ朱色の印が押された桃まんは、まるで雪上に咲く紅梅のようだった。佐藤大将は上機嫌で盛んに杯を重ね、三人は昔話に花を咲かせた。既に世を去った友人たちの思い出、そして北條家の老将軍の話題にまで及んだ。「あの時、面目にこだわらず、北條守の縁談を取り持つべきではなかった」穂村宰相は深いため息をつきながら言った。「老将軍への義理もあり、北條家の没落だけは避けたいと思ったのだが.……まさか二人があのような仲になるとは。私という仲人は、本当に失敗だった。後悔でならん」「それも運命というものでしょう」相良左大臣が言葉を挟み、佐藤大将の方を見やった。「我々の年では、若い者たちの縁までは心配しておれませんな。自分の体を大事にして、孫たちに囲まれる日々を楽しむ.……それが一番です」相良左大臣の言葉には深い意味が込められていた。若き清和天皇の基盤は未だ不安定。新しい重臣を登用するため、古い重臣たちを退けようとするのは世の常。まさに「新天子、新廷臣」というわけだ。ならば、関ヶ原の総兵の職を退いた今、ただの老人として余生を過ごすのも悪くはない。「相良殿の仰る通りですな」佐藤大将は穏やかな笑みを浮かべた。選択の余地などないのだ。それに、確かに自分は老いた。もはや関ヶ原を支えられる体力は残っていない。ただ、総兵の座は三郎に引き継がれ、当面は将の交代もなさそうだ。佐藤軍は今後も関ヶ原を守り続けることができる。酒宴も終わり、夜の帳が降りる頃、穂村宰相は佐藤大将の手を取り、深いため息をついた。「この別れが最後になるやもしれん。どうか御身大切に、古き友よ」「お互いに健やかに」佐藤大将は姿勢を正して礼を返した。相当な酒量ではあったが、その佇まいは巌のごとく揺るがない。玄武が二人を見送った後、振り返ると、日南子が蘭の手を握り締め、別れを惜しむ様子が目に入った。蘭も外祖父と叔母に別れを告げ、石鎖の護衛とともに立ち去った。数杯の酒が回った日南子は、別れの寂しさに胸を痛め、さくらの腕にすがるようにして奥へと歩を進めた。「あの贈り物たちね、まだ手をつけていないでしょう?好きな時に開ければいいのよ。急ぐことはないわ
伊織屋の工事は既に完了し、いつでも受け入れ態勢は整っていた。清家本宗の夫人が特別にお茶会を開き、この件を広めたこともあり、町では様々な噂が飛び交っていた。しかし、噂は噂として、離縁された女性たちは誰一人として工房の門をくぐろうとしなかった。紫乃は首を傾げていた。彼女と紅竹たちの調査によると、離縁された女性の多くは尼寺に身を寄せ、重労働や雑用をこなし、時には食事もままならない暮らしを送っていた。実家に戻れた者でさえ、兄と兄嫁からの虐げに遭い、耐え難い日々を送っているという。弥生の十日、十子里川で一人の女性の遺体が発見された。京都奉行所の調査によると、子を産めないという理由で離縁された刺繍師だという。その知らせを聞いた紫乃は、居ても立ってもいられず、禁衛府のさくらのもとへ駆けつけた。さくらは焦りの表情を浮かべる紫乃の肩に手を置いた。「最初から難しい道だと分かっていたでしょう?誰も第一歩を踏み出そうとしないのは、伊織屋に入るということは、世間に向かって『私は捨てられた女です』と宣言するようなものだから。その一線を越えられないのよ」「でも、入らなくたって、離縁された事実は変わらないじゃない!」紫乃は拳を握りしめた。伊織屋の設立に心血を注いできた。離縁された女性たちに屋根を提供し、新しい人生を歩んでほしいと願っていたのに。まさか彼女たちが死を選ぶほど、刺繍工房に入ることを拒むとは。「紫乃」さくらは優しく親友の名を呼んだ。「もう少し待ちましょう。私たちは最初からこれが容易な道ではないと知っていたはず。まだ始まったばかり。それに……あの方は、きっと心を深く傷つけられ、絶望の果てに命を絶ったのだと思う」「でも、生きることが一番大切なのに……どうしてそんなに馬鹿なの」紫乃の声は落胆に染まっていた。さくらは紫乃の首筋をそっと撫でながら言った。「他人の苦しみを完全に理解することはできないわ。確かに私たちは生きることが大切だと知っている。でも、私たちと彼女たちでは、経験も、物の見方も違う。私たちの価値観を押しつけるわけにはいかない。決められた道を選べと強要はできないの。悲しむことはできても、諦めてはだめ。伊織屋は、これからも続けていかなければならないのよ」「私たちが用意した道は、生きるための道なのに」紫乃の声は少し和らいだ。さくらの言葉は、い
三姫子は参鶏湯を老夫人に飲ませてから、楽章と共に老夫人の話に耳を傾けた。「あの時、私は確かに騙されていたのよ。あの長青大師が『萌虎は家運を盛んにする子』と言っていたと、そう思い込んでいたわ。あの頃、あの人は萌虎を可愛がってたのよ。萌虎が病に伏せば、誰よりも心配して、あちこちの医者を訪ね回ってね。なのに、萌虎の体は日に日に弱っていって……五歳になる頃には、もう寝台から起き上がることすらままならなくなってたわ」その記憶を語る老夫人の表情には、まるで心臓を刺されたかのような苦痛が浮かんでいた。息をするのも辛そうな様子で言葉を紡いでいく。「長青大師が言うには、このままではあと一ヶ月ともたないかもしれないって……石山のお寺に預けて、仏様のご加護を受けるしかないと。そうすれば十八歳まで生きられる可能性があって、その年齢さえ越せば、その後は順風満帆な人生が約束されるって言うのよ」「あなたの祖父は最初、そんな戯言は信用できないって反対したわ。でもね、あの人が長青大師を連れて祖父に会いに行って、何を話したのか……結局、祖父も同意することになった。それどころか毎年三千両もの銀子を長青大師に渡して、あなたの命を繋ぐ蓮の灯明を焚いてもらうことになったのよ。仏道両方からのご加護を受けるためってね」「でも、それは全部嘘だったのよ!」老夫人の声が突然高くなり、険しい表情を浮かべた。「私も、あなたの祖父も、みんな騙されていたの。実は長青大師はね、『萌虎は祖父の運気を奪う子で、生きている限り爵位は継げない。むしろ早死にするかもしれない』って告げていたのよ。あなたを殺そうとして、薬をすり替えていたの。微毒を入れたり、相性の悪い薬を組み合わせたり、気血を弱めるものを……だからあなたの体は日に日に弱っていったのよ」息を切らしながら、老夫人の目には憎しみが満ちていた。「私が気付いたのは、あの大火の後よ。長青大師があの人を訪ねてきて、書斎で長話をしていた時。私は外で……すべてを聞いていたの。我が子を害するなんて……許せない、絶対に許せないわ!」老夫人は両手を強く握りしめ、顎を上げ、全身に力が入っていた。相手はすでにこの世にいないというのに、その憎しみは少しも薄れていないようだった。三姫子は老夫人の様子を見て、何かを直感的に悟ったようで、信じられない思いで彼女を見つめた。「では、
何かに取り憑かれたかのように、普段は足元の覚束ない老夫人が、まるで若返ったように駆け出した。織世も松平ばあやも、その背中を追いかけるのがやっとだった。耳には自分の心臓の鼓動しか聞こえない。目に映る庭の景色は、長年心を焼き続けてきたあの業火の光景に変わっていた。火の中から聞こえてくる悲痛な叫び声。あの時、誰かに引きずられ、抱えられながら、炎が全てを呑み込んでいくのを、ただ見つめることしかできなかった。末っ子は、あの炎の中で命を落としたはずだった。焼け跡から多くの遺体が見つかり、どれが我が子なのかさえ、判別できなかった。何度も気を失うほど泣き崩れた。だが一度も、息子が生きているかもしれないとは考えなかった。そんな望みを持つ勇気すらなかった。あの子は病に衰弱し、歩くのにも人の手を借りねばならなかったのに。あの猛火の中を、どうやって逃げられただろう?正庁に駆け込んだ老夫人の目に、ただ一つの姿だけが映った。涙が溢れ出し、他の姿は霞んでいく。ぼんやりとした影を追うように、足を進めた。首を微かに傾げ、綿を詰められたような力のない、不確かな声を絞り出した。「あなたが……私の子なのかしら?」楽章には見覚えがあった。最も恨みを抱いていた相手だ。だが、この瞬間、止めどなく流れる涙を目にして、胸が締め付けられた。彼は黙って立ち尽くし、答えなかった。「母上!間違いありません、萌虎でございます!」鉄将が泣きながら叫んだ。「ああ……」老夫人の喉から引き裂かれるような悲鳴が漏れ、楽章を抱きしめた。漆黒の夜を越えて、過去の記憶が押し寄せる。心の一部が抉り取られるような痛みが、一つの叫びとなって迸った。「生きていたのね!」熱い涙が楽章の肩を濡らしていく。最初は無反応だった楽章の頬も、やがて涙で濡れていった。しかし、すぐに老夫人を突き放した。冷ややかな声で言う。「芝居はもう十分でしょう。人を食らう魔物の巣に私を送り込んだのは貴方たち。死んでいて当然だった。師匠の慈悲があって、ここにいるだけです。私は親房萌虎ではない。音無楽章という者です」「違う……」老夫人は必死に楽章に縋りつこうとする。「私は何も知らなかったのよ。何も……」激しい悲喜の入り混じった感情に押し潰され、老夫人は楽章の腕の中で意識を失った。喜楽館の中には幾つかの灯りが
鉄将は怒りに震える声で指を差し上げた。「戯言を!母上が実の子を捨てたことなど一度もない。兄上も私も、ここで立派に育ったではないか」「貴様らは無事でも、俺はどうなった?」楽章は咆哮した。声を張り上げすぎた反動で、胃が痙攣を起こし、しゃがみ込む。内力を使って、胃の中で渦巻く酒を押さえ込んだ。その言葉に鉄将は一瞬凍りつき、何かを思い出したかのように、楽章を見つめ直した。その目には、信じがたい現実への戸惑いが満ちていた。三姫子も嫁入り直後に聞いた話を思い出していた。姑は三人の息子を産んだが、末っ子は病に倒れ、寺に預けられた。そして寺の火事で命を落としたと、姑は目の前で見たはずだった。まさか……生きていたというのか?「お前の……名は?」鉄将の声は震え、唇は制御できないように小刻みに動いた。楽章の姿を必死に見つめている。「彼女に……訊け」楽章は胃を押さえたまま椅子に崩れ落ち、力なく呟いた。三姫子が近寄り、興奮を抑えきれない様子で言った。「思い出しました。あなたを見かけたことがある。何度か邸の前を行き来していた方……」楽章は黙したまま。三姫子は紫乃に目を向けた。紫乃は三姫子ではなく、楽章を見つめたまま話し始めた。「さあ、五郎さん。ここまで来たからには全てを話すのよ。あなたは親房萌虎。幼い頃から女の子のように育てられ、五歳で寺に捨てられた。数ヶ月で折檻され、死にかけたところを師匠が拾い上げ、命を救った。あなたに非はない。過ちを犯したのは彼らよ。きちんと説明を求めなさい」鉄将の体が雷に打たれたかのように硬直し、瞳までもが凍りついた。次の瞬間、絶叫とともに楽章に飛びつき、全身で抱きしめた。生涯で最も悲痛な声を絞り出す。「萌虎!お前は生きていたのか!」確かめる必要さえ感じなかった。ただひたすら楽章を抱きしめ、号泣を続けた。誰にも言えなかったことがある。末弟が死んでからというもの、何度も夢に見た。弟が生還する夢。まるで現実のような鮮明な夢。だが、目覚めれば常に虚しさだけが残った。楽章は鉄将を突き放そうとしたが、全身の力を込めた抱擁は微動だにしない。耳元で響く泣き声が煩わしい。楽章は口元を歪めた。胸の奥の屈辱が、少しずつ溶けていく。この家にも、自分を真摯に想う者がいたのだ。三姫子は目を潤ませ、急いで織世の手を力強く握った。声は震
程なくして、酔っ払った二人は西平大名邸に到着した。紫乃の身分を知る門番は、夜更けにも関わらず二人を通した。三姫子が病臥していることから、使用人は親房鉄将と蒼月に事態を報告に向かった。鉄将と蒼月は困惑の表情を浮かべた。こんな夜更けに沢村お嬢様が来訪するとは一体何事か。「男を連れているとな?何者だ?」鉄将が尋ねた。門番は答えた。「鉄将様、存じ上げない男でございます。態度が横柄で、邸内を物色するように歩き回り、椅子を二つも蹴り倒し、『人を欺きおって』などと罵り続けております」鉄将は眉をひそめた。「因縁でも付けに来たのか?まさか夕美が何か……」最近の出来事で神経質になっていた鉄将は、何か揉め事があれば、まず夕美が原因ではないかと考えてしまう。「違うかと……」門番は躊躇いがちに、細心の注意を払って続けた。「あの方が罵っているのは老夫人と……亡き大旦那様のことでして」展は爵位を継いでいなかったため、大名の称号はなく、屋敷の使用人たちからは「大旦那様」と敬われていた。孝行者として知られる鉄将は、亡き父と母を罵る者がいると聞いて激怒した。紫乃が連れて来た相手だろうとも構わず、「行こう。どんな馬鹿者が親房家で暴れているのか、この目で見てやる」と声を荒げた。鉄将は死者を冒涜するような無作法は、教養のない下劣な人間のすることだと考えていた。蒼月を伴い、怒りに任せて大広間へと向かった。一方、楽章が椅子を蹴り倒した時点で、既に使用人が三姫子に報告に走っていた。皆、このような事態は奥様でなければ収まらないと心得ていた。鉄将様には官位こそあれど温厚な性格で、酒に酔った荒くれ者を抑えきれまいと考えたのだ。三姫子は紫乃が連れて来た男が、亡き舅と病床の姑を罵っていると聞くや、急ぎ着物を羽織り、簡単な身支度を整えると、織世に支えられながら部屋を出た。病状は既に快方に向かっていたが、まだ体力は十分ではなかった。秋風が肌を刺す中、足早に歩を進めると、かえって血の巡りが良くなったように感じられた。正庁に着くと、普段は温和な鉄将の顔が青ざめ、まだ罵声を上げている男を指さしながら叫んでいた。「黙れ!亡き父上をどうして侮辱できる。何という無礼者め」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、男は鉄将の胸元を掴み、拳を振り上げた。三姫子は咄嗟に「待て!」と声を上
青葉が追いかけると、楽章は手を振り続けながら歩き続けた。「何も言わなくていい。たいしたことじゃない」「五郎、これは私たちの推測に過ぎない。真実とは限らないんだ」青葉は楽章の性格をよく知っていた。心に苦しみを抱えても決して口にせず、ただ世を避けて別の場所へ去っていくのが常だった。「大丈夫だよ、大丈夫。酒でも飲みに行くさ」楽章は笑いながら言った。「折角の秋風、この爽やかな天気には、美人の相手でも探すとするか」紫乃は前に出て、彼の腕を取った。「私が付き合いましょう」紫乃もつい先ほどまで知らなかったのだ。彼の母は側室などではなく、西平大名家夫人その人であり、親房甲虎や夕美と同じ母から生まれた実の兄弟だということを。「俺の行くところはお前には相応しくない」楽章は紫乃を振り切ろうとした。「勝手に決めないで」紫乃は構わず彼の腕を掴んだ。「あんたの会計は私が持つわ」「金なら持ってる。付いて来るな」楽章は彼女の手を振り払い、急に意地の悪い調子になった。「俺がそんなに貧乏だと思ってるのか?お前に飲み食いの面倒を見てもらう必要なんてない。恩を売られるのも御免だ。本当に、お前たち女というのは……自分がどれだけ鬱陶しいのか分かっていない」紫乃は怒る気配もなく、にこやかに言い返した。「女が鬱陶しいだけ?男は大丈夫なの?」その笑顔を見て、楽章は不機嫌そうに吐き捨てた。「どっちも同じだ。みんな面倒くさい」「じゃあ、馬を走らせに行きましょう。人なんて誰も見なくていいわ」紫乃は彼を引っ張って厩舎へ向かった。「この爽やかな風に乗って走れば、嫌なことなんて全部吹き飛ぶわ」「行かない!」「行くの!」紫乃は笑顔を引き締め、険しい表情になった。「乗馬が嫌なら酒でもいい。でも、今日は私の相手をしてもらうわ。私も気が滅入ってるのよ」二人の姿が遠ざかるにつれ、声も次第に聞こえなくなっていった。結局、紫乃の思い通り、彼女は楽章を連れ去ることに成功した。さくらは肩を落とし、胸が締め付けられる思いだった。どうしてこんなことに……師匠はきっと真実を知っていたのだろう。ただ、嘘の方が優しかったから黙っていたのだ。余計なことをしてしまった。何も調べなければ良かったのに。誰も声を上げる者はいなかった。この調査の結果が良かったのか悪かったのか、それを判断できる者など
有田先生と道枝執事の調査により、事態は当初の想定よりも複雑であることが判明した。深水青葉の証言によれば、師匠の調査では、親房展は幼い萌虎が家に福をもたらすと考えていたという。ただ、その代償として自身の体調を崩し、都の名医を幾人も訪ねたものの効果なく、やむを得ず寺に預けることになったとされていた。これだけを見れば、展は末っ子である萌虎に深い愛情を注いでいたと解釈できる。末子は往々にして可愛がられるものだからだ。しかし、道枝執事が西平大名家の古参の執事や女中たちから聞き出した話は、まったく異なっていた。亡くなったとされる子に対して、展は強い嫌悪感を示していたというのだ。最初はどうだったか記憶は定かでないものの、後になってからの扱いは明らかに冷たかったという。彼らは具体的な出来事も語ってくれた。当時の大名様の誕生祝いの席で、今の音無楽章、当時の萌虎は大名様に抱かれて宴席に入った。その頃、大名様の体調は随分と回復しており、足取りも軽やかだったという。ところが、展は後日、「祖父を疲れさせた」という理由で萌虎を引きずり出し、竹の定規で手のひらを十回も打ち据えたのだ。こうした出来事は、主だった者たちの耳には入らなかったかもしれないが、確かに目撃した使用人がいたのだ。もう一つの出来事は、当時の大名様が萌虎を狩りに連れて行った時のことだ。白狐を仕留め、その毛皮を萌虎に与えたのだが、後になってその毛皮は三女の親房夕美の身に纏われることになった。他にも細かな出来事が数多くあった。展が萌虎に向ける嫌悪の表情を目にした使用人は少なくなかった。道枝執事に情報を漏らした者たちもその一人だ。当時はまだ別家しておらず、皆が同じ屋敷で暮らしていた。展は感情を隠すのが上手くない人物で、自分でも気づかぬうちに感情が顔に出てしまうことが多かった。さらに気になる点がある。萌虎の病の治療に関してだ。医師は確かに大名様が呼んだのだが、薬を煎じる際には数味の生薬が差し替えられていた。展は薬を調合する下女や小姓たちに口外を禁じ、これらは丹治先生から授かった良薬だと言い張った。大名様の機嫌を損ねないための配慮だと説明していたという。萌虎を寺に預ける話が持ち上がった時も、大名様は最初、その妖術使いの力を疑って強く反対していた。しかし、妖術使いが大名様と何度か面会を重ねるうち
しかし、執事からの報告に、三姫子は首を傾げずにはいられなかった。売り出した資産は次々と買い手が付き、しかも市価より一、二割も高値で取引されていた。長年家政を取り仕切ってきた経験から、資産の売買は常に相場に従うものと心得ていた。一軒や二軒が若干高値で売れることはあっても、最近売却した物件すべてがこれほどの高値とは。不可解でならなかった。もしや王妃様が自分の資産売却を知り、急な銀子の調達だと思って、高値で買い取ってくださったのではないかとさえ疑った。売買契約書を取り寄せ、買主の名を確認すると「風早久時」とある。聞き覚えのない名前だった。「北冥親王邸に風早久時という執事はおりませんか?」三姫子は執事に尋ねた。「存じ上げません」「では、この買主は何者なのでしょう」相場を大きく上回る値段で買い取るとは、何か裏があるのではないかと不安が募る。だが、よく考えれば、すべて正式な契約書があり、登記も済み、仲介人も立ち会っている。完全な合法取引なのだ。何を心配することがあろう。「もういい。残りは売らないことにしましょう。お義母様の耳に入ることは避けたいので」三姫子は言った。資産の売却は老夫人にも、鉄将にも蒼月にも黙っていた。家政に関わっていない彼らが詮索することもないだろう。もし発覚しても、その時は事情を説明すればよい。これは決して自分のためだけではないのだから。とはいえ、買主の件は気になっていた。この日、さくらが見舞いに来た際、さりげなく尋ねてみた。「王妃様、風早久時という方をご存じですか?」さくらは目を上げ、少し考えてから言った。「風早久時?風早という姓は都では珍しいですね。何かお困りごとでも?三姫子は首を振った。「いいえ、そうではありません。先日、少し離れた場所にある店を売りに出したところ、風早という方が買い手として現れ、市価より二割も高い値段を提示してきたのです」「それは良いことではありませんか?得をなさったということで」さくらは微笑んで答えた。「最初はそう思ったのですが、相場は誰でも調べられるはず。それなのに、先方から高値を提示してきたことが、何だか不自然で」「正式な売買契約さえ済んでいれば、高値であっても問題はありませんよ。幸運だと思えば良いのでは」さくらは柔らかく答えた。三姫子には確信があった。王妃は
夕美の涙は止まらなかった。「でも、あの人に前途などありません。一兵卒になるなんて……私はこれからどう人様に顔向けすれば……ただ自分を卑しめたくなかっただけなのに。上原さくらだって、あの時離縁を望んで、わざわざ勅許までいただいた。それほど決意が固かったのに、私が彼女に負けるわけには……」お紅は心の中で、今の状況の方がよほど世間体が悪いと思ったが、口には出せなかった。「お比べになることではございません。人それぞれ、歩む道が違うもの。王妃様より劣る人もいれば、優れた人もおります。王妃様に勝ったところで、他の方々にも勝てるとは限りません」「どうして、前にこういう話をしてくれなかったの?」夕美の声に苦い響きが混じる。「申し上げても、お聞き入れになられなかったでしょう」お紅は簾を下ろしながら言った。「御者、参りましょう」椿の花が刺繍された紅い錦の座布団に寄り掛かりながら、夕美の心に得体の知れない不安が忍び寄った。突如として気づいたのだ。もう誰も自分を望まないかもしれないという現実に。さくらのように、離縁を経てなお、凛々しく勇猛で戦功赫々な親王様を夫に迎えることなど、自分には叶わない。「お紅」夕美は突然、侍女の手を掴んだ。青ざめた顔で問う。「守さんは……本当に軍功を立てることができるかしら?」「お嬢様」お紅は静かに答えた。「人の運命は分かりませんもの。将軍の座に返り咲くかもしれませんし、このまま落ちぶれて、二度と立ち直れず、将軍家まで取り上げられるかもしれません」「こうなっては、もう出世など望めないでしょう」夕美は虚ろな声で呟いた。「あの人と共に老い果て、持参金を使い果たし、最後には将軍家まで陛下に召し上げられる……そんな人生を送っていたら、本当に私の人生は台無しになっていた。私の選択は間違っていない。間違っていないのよ」最初は北條守に好感を持っていた。端正な容姿で、陛下の信任も厚く、宰相夫人の取り持ちだった。だが次第に、優柔不断で決断力に欠け、感情に流されやすい性格が見えてきた。主体性のない男。そこへわがままな平妻がいて、さらには輝かしい前妻までいる。大名家の三女である自分は、あまりにも影が薄く感じられた。将軍家に嫁ぐ前は、きっと皆に愛されるはずだと思っていた。しかし現実は期待と余りにも懸け離れており、次第に守への怨みが募っていった。
紫乃は今日、天方家を訪れていた。村松裕子の病に、薬王堂の青雀が呼ばれていたのだ。日が暮れても紫乃は帰らず、そうこうするうちに夕美の一件が屋敷にも伝わってきた。天方許夫の奥方は、裕子には知らせぬよう取り計らっていた。だが、それも束の間の隠し事に過ぎなかった。不義密通だけでなく、密かな懐妊まで。今や十一郎は夕美の夫ではないとはいえ、大きな影響を受けずにはいられなかった。結局のところ、それは天方家での出来事なのだから。「天方十一郎様は、もしや男として……だからこそ夕美さんが他の男に……」「戦場に出られて間もない時期に、どうしてこんなことに……」と、陰口も囁かれ始めた。また、夕美は慎みのない女、死罪も相応しいほどの不埒な行為だという声も。光世も非難の的だった。「従兄弟の情も忘れ、天方家の情けも踏みにじって、人としてあるまじき行為」と。結局のところ、世間は光世と夕美を糾弾し、十一郎を無辜の被害者として憐れむばかり。北條守のことは少し話題に上がったものの、すぐに立ち消えた。将軍家でどんな醜聞が起ころうと驚くに値しないと思われていたからか。彼と夕美の離縁さえ、もはや誰も口にしなかった。その夜、紫乃とさくらは親王家に戻り、今日の出来事について少し話し合った後、互いに顔を見合わせて深いため息をついた。これまでは他人事のように見ていた騒動も、大切な人が巻き込まれると、自分のことのように心配になるものだ。賢一は今夜もいつもどおり稽古に来ていたが、いつも以上に真剣な様子だった。今の自分には力不足で、何の助けにもなれない。だからこそ、早く強くなりたいのだと。棒太郎が休憩で茶を飲みに来た時、さくらと紫乃にそう伝えた。さくらは三姫子の娘も女学校で一生懸命勉強していることを知っていた。三姫子の子供たちは、特別秀でているわけではないが、物事をよく理解し、粘り強く、冷静さを持ち合わせていた。稽古が終わり、棒太郎が賢一を送って行く途中、親房夕美の馬車が西平大名家を出て行くのを目にした。夕美の乗る馬車の後ろには、荷物を積んだ数台の馬車が続いていた。夕美は夜陰に紛れて立ち去ろうとしていた。馬車に乗る前、夕美は賢一の姿を見つけ、立ち止まって挨拶を待った。だが賢一は、まるで夕美など存在しないかのように、そのまま屋敷に入ろうとした。「賢一