朝、綿は経験を吸収しながら学んでいた。小栗先生が言った通り、さまざまな患者がいる。涙を浮かべて小栗先生に必死に助けを求める患者もいれば、眉間にしわを寄せて信じられないという態度を取る患者もいる。更に腹立たしいのは患者ではなく、その家族だった。例えば、今目の前にいるこの人。「この女、いったい何の病気なんだ?こんなに金を使って!」「俺はもう金がないんだ!一つだけ聞かせてくれ。治るのか、治らないのか?」目の前には、ぼろぼろの服を着た中年の男が立っていた。五十代の男で、全体的に粗野な印象を与える。その隣には、三十代くらいの小柄な女性が座っていた。白くてきれいだが、おどおどしている。「先生、私の病気…治りますか?」彼女の声は非常に小さく、風が吹いたらすぐにでも消えてしまいそうだった。「子供も産めないくせに、何の治療だ!俺はお前が病気を装ってるとしか思えない!」と男が怒鳴ると、彼女はすぐに頭を垂れ、呼吸さえも慎重にしていた。綿は眉をひそめた。男が女性の頭を叩いて罵るのを見て、彼女はますます小さくなっていた。「もともとお前を嫁にしたのは家系を継ぐためだったのに、お前は無駄金を使うだけだ!」「お前がこんな役立たずだと知っていたら、絶対に嫁にもらわなかった!」男の罵声は特に耳障りで、聞く人を不快にさせる。綿にとって、こういう患者の家族は初めてだったが、小栗先生はもう慣れっこだった。綿は、先ほどの光景に息が詰まりそうだった。この男が言うことすべてが、彼女に彼をぶっ飛ばしたいという衝動を抱かせた。今の時代に、どうしてこんな男がいるの?「彼女はあなたの妻です、子供を産む道具ではありません。もっと尊重してください!」綿はその女性のために声を上げずにはいられなかった。男はすぐに綿を睨みつけ、怒鳴った。「俺の女房のことは俺が決める。お前には関係ねぇだろうが!」小栗先生はすぐに綿を引き止めた。「彼女の心臓の問題は少し複雑です。もし治療を続けたいなら、入院を勧めます。私が治療計画を立て——」小栗先生の言葉が終わる前に、男は怒鳴り返した。「何?入院だと?いくらかかるんだよ?」綿の顔は瞬時に冷たくなった。金、金、金、この男は金のことしか考えていない!女性は顔を上げ、そっと男を見た。男はすぐに彼女を睨み
彼女が初めて診察を担当したとき、ある夫婦に出会ったことがあった。彼女はつい同情して、その妻を助けたが、それを知った夫に付きまとわれる羽目になった。その男は彼女を脅し、車や家を買わせ、一生自分たち夫婦の面倒を見ろと言い放ったのだ。彼らは堂々と「お金があるんだろう?だったら最後まで責任を持つべきだ」と言った。それ以来、小栗先生はこういった悪質な人々に恐れを抱くようになった。「わかりました、小栗主任」綿は真剣に答えた。「さあ、昼休みに行きなさい」小栗先生は眼鏡を外し、こめかみを揉みながら、疲れた様子で言った。綿は近づいて言った。「小栗主任、マッサージしましょうか?」最初は断ろうとした小栗先生だったが、綿の手が肩に触れると、そのあまりの心地よさに拒むことができなかった。小栗先生は、まさか自分が桜井家のお嬢様にマッサージしてもらうなんて、夢にも思わなかった。「マッサージを習ったことがあるの?」小栗先生は綿に尋ねた。綿は首を横に振った。小栗先生は微笑んで言った。「外では、桜井家の伝統は娘には受け継がれていないって言われているけど、そんなことないわね」綿は反論しなかった。小栗先生は綿の手を軽く叩いて、食堂へ一緒に向かった。「おや、小栗主任、弟子を連れてきたのか?」他の診療室のベテラン医師たちが、小栗先生をからかった。「その弟子、どこかで見たことがあるな。桜井家のお嬢様じゃないか?」綿は前に立っていたのが麻酔科の医師だと気づいた。心臓内科の医師も笑って言った。「桜井家のお嬢様がここに?誰かのコネで入ったんだろう?」「まさか、小林院長が彼女をここに入れたんじゃないよね?」と、また別の医師が冗談を言った。「いや、それは絶対にない!」心臓内科の医師は自信満々に答えた。麻酔科の医師も同意して大きくうなずいた。「小林院長がコネなんて許すはずがない。特にお飾りみたいな奴は大嫌いだからね。例えば陸川嬌…院長が彼女に話しかけたことなんて一度もないだろう?」そう言いながら、麻酔科の医師は綿を頭から足までじっくりと見た。まるで彼女と陸川嬌を同じ扱いにするように。綿の顔色は曇った。彼女と陸川嬌を比べるなんて、侮辱以外の何ものでもなかった。綿が反論しようとしたその時、食堂の中から誰もが知る声が響いた。「みんなここに
昼食を終えた綿が診療所の環境に慣れようとしていると、天揚からメッセージが届いた。天揚「おい、綿、ちょっと出てこいよ。叔父さんが遊びに連れてってやる!」綿「……叔父さん、私は今仕事中なの」天揚「仕事?桜井家が養えないってのか?」綿は苦笑いを浮かべた。養ってもらえるのはわかっているが、だからといってずっと頼るわけにはいかないのだ。「じゃあ、今夜は外で食事でもどうだ?叔父さんが美味いものをご馳走してやるよ」綿は微笑んで「いいわ」と返信した。昨夜の食事会で橋本奎介と一緒だったことを気にかけて、元気づけようとしてくれているのだろう。綿がエレベーターに向かおうとしたとき、ふとフロントで見覚えのある慎ましやかな姿を目にした。彼女は眉をひそめた。あの女だ。白いシンプルな服を着て、足元には花柄の布靴を履き、黒髪をきちんとまとめ、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。その女も綿に気づき、目が一瞬輝いた。綿は周囲を見渡したが、あの男の姿は見えなかった。綿はその女に歩み寄り、女は微笑みを浮かべた。彼女の目には、年月が刻んだ老いの痕跡が見て取れた。「こんにちは、桜井綿です。今朝お会いしましたよね」綿は自己紹介した。女はうなずいて「こんにちは」と答えた。「帰らなかったんですか?」綿が尋ねた。女は微笑みながら言った。「夫は帰りましたが、私はこっそり戻ってきました。もう一度聞きたくて。私の病気、治療するにはどれくらいかかるのでしょうか?治る見込みはありますか?費用はどのくらい必要ですか?」彼女の声は柔らかく、繊細で優しい性格が伝わってくる。綿は、彼女が強い生きる意欲を持っていることを感じた。「病状はまだ深刻ではありませんが、手術が必要です」綿は優しく答えた。「入院費、手術費、そしてその後の薬代を含めて、600万円ほどかかるかもしれません。保険に加入していれば、できるだけ助成を受けられるように手配しますので、実際の負担はそれほど大きくないはずです」彼女の優しさが伝わり、綿の声も自然と柔らかくなった。女は600万円という額を聞いた途端、目に恐怖の色が浮かんだ。その金額は、彼女にとってはとてつもない負担だった。彼女は服の端をぎゅっと握りしめ、小さな声で「保険には入っていないんです……」と答えた。綿の心はズキンと痛んだ
男の怒鳴り声が周囲に響き渡り、周りの人々は次第に不快感を抱き始めた。「ただのゴミクズって?」「どこの山奥から出てきた男だ?常識がなさすぎるだろう」「警察に通報しろ、早く!」女は鼻血を流しながら倒れ込み、力尽きていた。周囲の人々がどれだけ止めようとしても、男は全く聞く耳を持たず、何度も彼女に問い詰めた。「まだ治療する気か?また勝手に病院に来るつもりか?」「答えろ!」男は容赦なく平手打ちを浴びせた。女は涙を流しながら、心の中で深い悲しみを抱えていた。時代に恵まれなかったと嘆く人もいれば、この現代に生まれたことを恨む人もいた。綿はその光景を見て胸が痛んだ。小栗先生から患者の私生活に干渉しないよう何度も注意されていたが、この場面を見過ごすことはできなかった。なぜなら、その男が侮辱しているのは、目の前の女だけでなく、すべての女性たちだったからだ。女が男より劣るとでもいうのか?なぜ女が「ただのゴミクズ」だとされなければならないのか?「女なんだから、家庭を守って子供を育てるのが役目だろう。俺の家をうまくやれないくせに、治療なんか望むなよ。お前を嫁にもらったのは飾りにするためじゃないんだぞ」「結婚する前は、そんな奴じゃなかっただろうが。今のお前は一体何なんだ?」男は指で女を指しながら、一言一言が彼女の心に突き刺さった。「あなたと結婚しなければ、こんなことにはならなかったわ!」女は反論しようとしたが、その返事は男の容赦ない平手打ちで返された。「黙れ、このクソ女が!」綿の目が冷たく光り、男をじっと見つめながら、ゆっくりと白衣を脱ぎ始めた。そして、次の瞬間、男が再び平手打ちをしようとしたその腕を、綿がしっかりと掴んだ。綿は男の腹に強烈な一撃を加え、男は女の上から転げ落ちた。周囲から驚きの声が上がり、皆が信じられない様子で綿を見つめた。綿は手首を軽く回し、無表情のまま男を見下ろして言った。「公衆の面前で自分の妻を侮辱して、何をしているか分かっているの?」「あなたの妻は一人の人間よ。すべての人間は独立して存在するべきで、結婚したからといって生活する権利を奪われることはない!彼女が治療するかどうかは、あなたが決めることじゃない、わかったの?」綿は眉をひそめ、厳しい表情で毅然とした態度を見せた。かつては理解できな
綿は苦笑いを浮かべた。無能な者ほど他人の生死を支配しようとするのだ。「やれるもんなら、やってみなさいよ」綿は冷静な表情で言い放った。「脅してるのか?」男は息を荒げ、綿を睨みつけた。「俺がやらないとでも思ってるのか?」地面に倒れていた女は、ゆっくりと起き上がり、男の足にすがりついて首を横に振った。「桜井先生、もう治療はしなくていいです…」彼女は涙を流しながら言った。その目は真っ赤に充血していた。綿には、彼女が年を重ねてきた痕跡すらも見えなくなっていた。「治療はしない…言う通りにするから…だから、一緒に帰ろう…」彼女の声には、絶望が滲んでいた。これ以上、こんな場所で醜態をさらしたくないと思っていた。綿はその姿を見て、胸が痛んだ。彼女はまるで、かつての自分を見ているようだった。輝明の愛を必死に求めていた、あの頃の自分…。女が男なしで生きていけないなんて、本当にそうなのか?そう考えた瞬間、綿は女を引っ張り上げた。「もっと誇りを持ちなさい!何をお願いしてるの?治療が必要なら、私に頭を下げればいいじゃない!」男は激怒し、ナイフを持って綿に向かってきた。「余計なことに首を突っ込むなって言っただろ!」「死にたいのか?本当に死にたいのか!」男はナイフを振りかざしながら綿に迫った。周りの人々は一斉に後退し、誰かが叫んだ。「桜井先生、あいつは狂ってる!もうやめて逃げてください!」「警備員はどこだ?早く呼んでこい!」綿は後退しながら、男の暴走する姿に目を見開いていた。「一緒に帰ると言ってるのに、まだどうしたいの?」後ろから、女の悲痛な声が響いてきた。男はその声を聞いてさらに怒りを募らせた。「お前が余計なことをするから、こんなことになるんだ!このクソ女、殺してやる!」そう言いながら、男はナイフを振りかざし、妻に向かって突進した。綿はその光景を見て眉をひそめ、すぐに駆け寄り、咄嗟に身をかがめて女を押しのけ、男を蹴り飛ばそうとした。その瞬間、人混みから一人の男が現れ、その動きは驚くほど速かった。男が綿に近づく前に、その男は一瞬で男を蹴り飛ばした。周囲から驚きの声が上がり、誰かが言った。「高杉社長だ!」「どうして高杉輝明がここに?」綿は目を上げて、自分の前に立っている男を見上げた。目の前にいるの
綿は、男を一瞬で背負い投げし、床に叩きつけた。周囲にいた見物人たちはすぐに拍手喝采を送り、「もっとやれ!懲らしめてやれ!」と口々に叫び声を上げた。「あなたも母親から生まれたんだろうに、どうしてそんなに女に対して憎しみを持っているの?」男は口元に血をにじませながら、天井を呆然と見つめ、床に横たわったまま手指をわずかに動かした。綿は冷たい目で倒れた男を見下ろし、指先で軽く口元を拭うと、無表情でありながらも鋭い目つきで手招きし、「男なら立ち上がってみなさい」と挑発するように言った。その時、男の妻が泣きながら彼の元に這い寄り、綿に懇願した。「お願いだから、もう殴らないでください……」綿は驚いた。こんな状況でも、この男をかばうのか?「お願い、殴らないでください。彼が倒れたら、私たちの家族は終わりなんですよ……」綿は愕然とした。ここまで来ても、まだ「私たちの家族」だなんて言っているのか。綿は再び拳を振り上げようとしたが、彼女が必死に男をかばっているのを見て、拳を止めた。涙を浮かべた妻が「お願いだから、夫をこれ以上殴らないでください……」と訴えた。その時、「警察が来たぞ!」と誰かが声を上げた。綿は警察に制止された。彼女は驚愕の目で妻を見つめた。妻はうつむいたまま、なおも夫の手を握りしめていた。警察署で。「何があったんですか?」と警察官が尋ねた。「ただの家庭内のことです。彼女が勝手に絡んできて、夫を殴ったんです」と妻は小声で説明した。綿はじっとその妻を見つめていた。妻は綿を見ようとせず、警察官に向かって「これは私たち夫婦の問題です。法律には触れていないはずです。いつになったら帰れるんでしょうか?」と尋ねた。彼女は明らかに暴力で傷ついていたが、それでも夫をかばい続けていた。「桜井綿さん、どうですか?」と警察官が尋ねた。妻はようやく綿を見上げた。綿は眉をひそめ、ようやく小栗先生が「患者のことには関わるな」と何度も忠告した意味がわかった。誰もが自分を道徳的に優れた者だと思い、救世主だと思い、他人を救おうとした。しかし、振り返ってみれば、自分自身すら救えないのに、世界を救うことなどできるのか?「私が余計なことをしました」と綿は小さな声で言い、頭を下げた。その言葉を聞いて、外にいた輝明
綿は病院に戻る途中、雅彦に電話をかけ、「今日病院で起こった私に関すること、全部ネットから消しておいて」と頼んだ。「雅彦、絶対に私のことがネットに出ないようにしてね」雅彦はすぐに「わかった」と返事をした。病院に戻った綿は、いつも通りの日常が戻っていることに気づいた。患者は常に入れ替わるため、さっき何があったかなんて誰も知らないのも無理はない。医師や看護師たちは綿を見ると、皆が尊敬の眼差しを向けていた。あんなに多くの人がただ見ているだけの中、綿だけが飛び出していったのだから。彼女は本当にカッコよかった。綿が診療所に戻ると、小栗先生に「患者のことには関わるな」と何度も念押しされたのを思い出し、結局関わってしまったことに少し不安を感じた。小栗先生が自分をどう叱るのか、少し怖かった。綿は勇気を振り絞って、ドアをノックした。「入って」と冷たい声が返ってきた。綿は心の準備をしっかり整えてドアを開けると、小栗先生はただ淡々と彼女をちらっと見て、「仕事を続けなさい」とだけ言った。綿は意外だった。昔、祖母の授業中にぼんやりしていると、祖母は容赦なく彼女の手のひらを叩いたものだ。手が赤くなるまで叩かれ、「覚えておきなさい」と言われた。綿は黙って小栗先生のそばに立った。一人の患者を送り出した後、綿は小声で「小栗主任、ごめんなさい」と謝った。「気にしないで。みんなそういう時期を経験してきたものよ」と小栗先生は微笑んだ。綿を見て、小栗先生は自分がこの業界に入ったばかりの頃を思い出していた。だから、彼女を責めるつもりはなかった。綿は小栗先生が自分を理解してくれたことに感謝しつつ、これからもっと成長しなければと心に誓った。夜の仕事が終わり、綿が診療所を出ると、天揚が待っていた。天揚は手を振り、「綿ちゃん、こっちだ」と呼びかけた。綿が車に乗り込むと、すぐに「何を食べるの?」と尋ねた。「中華にしようか?」と天揚が提案した。綿はうなずき、「何でもいいから、早く食べたい」と答えた。「どうしてそんなに仕事にこだわるんだ?家でお嬢様としてのんびりしていればいいのに」と天揚は不満そうに言った。「もう怠け者にはなりたくないのよ」と綿は窓の外の景色を見つめながらため息をついた。「もう何年も無駄に過ごしてきたんだから……」
「きっと、浮気相手にやられたんだな」天揚が憤りながら言った。「あいつ、まったく恥を知らない奴だ!」綿も同意して、勢いよくうなずきながら言った。「本当に最低な奴だよ!」「大丈夫だ、綿。片足のカエルは見つけにくいけど、二本足の男なんてそこらじゅうにいるんだから。あいつと離婚したら、叔父さんがもっといい男を見つけてやるからな!」天揚が肩をポンポンと叩きながら言った。「ありがとう、叔父さん!」綿は大きくうなずいた。その頃、病院へ向かっていた輝明は突然大きなくしゃみをした。彼は鼻をすすった。そばにいた森下が心配そうに尋ねた。「高杉社長、風邪ですか?温かい生姜スープでも用意しましょうか?」「いやー」と言った矢先に、再びくしゃみをした。手を振って森下に合図を送り、無用だと示した。森下は軽く咳払いをしながら、ちらりと輝明の首にある引っ掻き傷に目を向けた。その傷跡は明らかに、情事のさなかに誰かがつけたものだ。恐らく、昨夜若奥様とのやりとりの中でできた傷なのだろう。離婚の話が進んでいるとはいえ、二人の間にはまだ感情の火花が残っているようだ。ある意味、進展があったと言えるかもしれない。「社長、陸川さんの件、これからどうされるおつもりですか?」森下が静かに尋ねた。輝明はため息をつき、「成り行きに任せるしかないな」と答えた。「でも、社長、どっちつかずの状態では、良い結果にはならないかと…」と森下は意を決して言った。輝明はその言葉に目を細め、鋭い視線を森下に向けた。その視線には、説明するまでもないという重みがあった。森下の言うことはもっともだ。しかし、彼自身だって、その答えをわかっていないわけではないのだ。「おばあちゃんが桜井綿との離婚を許さないんだ。家も嬌を受け入れることに反対している。俺が両方の関係を保つために他に何ができる?」と低く重い声で言った。「ですが、社長…」森下は口ごもりながらも、ある思いを抱えていた。「何が言いたいんだ?」輝明は森下に促した。「正直に申し上げますと、社長が言う『バランスを取る』というのは、若奥様が一番犠牲になっているように見えますが…」森下は頭を深く下げ、叱られるのを恐れていた。エレベーターの扉が開いた。輝明は森下をじっと見つめたが、何も言わずにそのままエレベーターを降りた。
株価が下落しても、輝明はこれほど悩まない。でも綿を不快にさせたことだけは、いつまでも気にしてしまう。こんなに早く諦めるとは思わなかった。輝明は淡々と言った。「ずっと一人の人を好きでいるのは、面倒なことを引き起こすだけだ」エレベーターのドアが開いたが、輝明は外をぼんやりと見つめ、動こうとはしなかった。秋年は彼が何を考えているのか分からず戸惑った。躊躇しているのか、それともエレベーターから出たら本当に綿を諦めると決めてしまうのか。もし今振り返れば、後悔して引き返すこともできる。だがここを出たら、もう本当に綿を手放す決意を固めたことになるのだろうか。秋年はあえて声をかけなかった。エレベーターのドアは開閉を繰り返していた。不思議なことに、その間誰一人としてエレベーターに乗ってこなかった。誰かが乗り込んできて綿のいる階を押したら、輝明は後悔して戻ってしまったかもしれない。しかし、それも起きなかった……輝明は俯いてため息をつき、目を閉じた。そしてゆっくりと顔を上げ、静かに外へ一歩を踏み出した。秋年は、その瞬間自分の心が沈んでいくのを感じた。これで、本当に綿と輝明は終わりを迎えたのだろうか。綿が輝明を七年間も激しく愛してきたが、最後はこうして幕を閉じたのだ。そして今度は輝明が一人を愛する辛さを思い知ったものの、結果は何も得られなかった。秋年は心底親友を気の毒に思った。「酒でも飲むか?俺が付き合う」秋年が提案した。輝明は首を振った。「胃が痛いんだ」秋年はそれが本当かどうか分からず、輝明の顔をじっと見つめた。少し考えたあと、輝明が静かに言った。「大丈夫だよ。これから病院へ行って祖母に会ってくる。ありがとう、秋年」そう言うと、輝明は一人で病院の方へ歩き出した。秋年は彼が気になる様子で、「明くん、病院まで送ってやろうか?」と声をかけた。輝明は振り返らず、「大丈夫だ。近いから」と冷たい声で答えた。秋年が後を追おうとすると、輝明は振り返って言った。「自分の仕事を片付けてこい。俺は一人で大丈夫だ」その言葉を最後に、輝明は秋年の視界から消えていった。冷たい風が吹きすさぶ中、街の雰囲気も冷たく澄んでいた。しかし、それ以上に冷え切っているのは輝明の心だった。彼は、これまでの人生が順調に進んでいるように
綿は言葉を終えると、そのまま席に戻った。炎と秋年は何かを話しているようだったが、雰囲気はどこか重たかった。席についた綿は何も言わずに、黙々と料理を食べ始めた。しばらくして、輝明も席に戻ってきた。だが、彼は椅子に座らず、秋年に向かって言った。「秋年、行こう」秋年は驚いたように彼を見た。「え?もう食べないのか?」輝明は軽くうなずき、低い声で答えた。「会社の仕事があるからな。もしくは、俺だけ先に行くか?」秋年は綿を見た。綿と輝明は、一緒に席を外したばかりだったため、何かあったのではないかと気になった。秋年は周囲の空気を読むのが得意だ。輝明と綿のどちらも妙に落ち着いているように見えるが、こうした過剰な平静さは作られたものだとすぐに察した。結局、彼は深く考えずにうなずいた。「じゃあ、俺も一緒に行くよ」輝明は炎に視線を向け、少しの間だけその場に立ち尽くしていた。そして軽くうなずくと、足早に席を後にした。秋年もその後を追いかけ、二人で店を出ていった。炎は眉をひそめながら、二人が離れていく姿を見送った。先ほど、輝明と綿が何を話していたのか気になって仕方がない。炎は綿に尋ねた。「大丈夫かい?何かあった?」綿は無表情でフォークを手に取り、軽く笑った。「私たちに何があるの?ただの他人同士よ」綿の声には冷たさが感じられた。その後、彼女はワインボトルを手に取り、炎に向かって言った。「一杯どう?」炎は一瞬迷ったが、結局うなずいた。「車で来たけど、運転手を呼べばいい。君が飲みたいなら、俺も付き合うよ」彼女の気持ちを尊重するような態度だった。綿はグラスを炎に手渡し、軽くグラスを合わせた。炎は真剣な眼差しで綿を見つめた。「綿ちゃん、どんな状況であっても、俺は君が幸せでいることを願っているよ」もし彼の気持ちは綿を困られたのなら、諦めてもいいのだ。彼の真剣な言葉を聞いて、綿は短くうなずいたが、何も言わなかった。炎はグラスを一気に空けた。エレベーターの中、沈黙が続いていた。輝明はスマホを手に持ち、森下にメッセージを送っているように見えたが、実際には何も打ち込んでいなかった。ただ、忙しいふりをしていただけだ。秋年は彼の手に触れ、問いかけた。「何があったんだ?さっき桜井と何を話した?それでいきなり店
助けてくれたからじゃない、ずっと前から愛していた。でも、それに気付かなかったんだ。「じゃあ、こんな言葉を聞いたことがある?」綿は彼を見つめ、微笑を浮かべながら言った。「本当に誰かを好きなら、その人を自由にしてあげるべきだって」「君は3年間も俺に執着した。なら、俺が3年間執着してはいけない理由がどこにある?」輝明は即座に反論した。綿は唇を噛みしめながら答えた。「私が執着したのは3年だけじゃないわ」彼女の声が少し震えた。「7年だ。たったそれだけの時間でさえ、一度も報われなかった。あなたはどれくらい執着し続けるつもりなの?」彼女の静かな問いかけに、輝明は何も答えられなかった。そうだ、綿は3年間どころではなく、高校1年の時から今まで、7年という歳月を彼に捧げていたのだ。彼女こそが、青春そのものを犠牲にした人だった。綿の声が再び響いた。「お互いを解放して。お願いだから」その言葉に込められた切実さを目の当たりにした輝明は、一瞬言葉を失った。彼女が自分に対してこんな目で見つめるのは初めてだった。以前の彼女がこの目で彼を見つめるときは、彼に何かをしてほしい、そばにいてほしいという願いを込めていた。しかし今、彼女の瞳からは一つのメッセージだけが伝わってきた。「お互いを解放してほしい。どうかお願い」そして、彼女はその願いに「お願いだから」という言葉を添えた。それは輝明にとって最大の衝撃だった。彼は深く息を吸い込んで尋ねた。「本当に、俺に解放してほしいのか?」彼女の目に一片の未練を見たいと願ったが、そこには何もなかった。綿は静かに頷いた。その仕草には一切の迷いがなかった。彼女の心の中では、すでに「高杉輝明」というページが完全に閉じられていた。誰もが同じ場所に留まることはできない。綿は前に進み続け、輝明だけが取り残されていた。彼は彼女の目に浮かぶ確固たる意思を見て、全てを悟った。頭を垂れ、力なく笑みを浮かべた。この7年間、彼は無駄に過ごしてしまった。そしてついに、彼女を失ったのだ。「分かった」そう口にする輝明の声は、やけに乾いていた。綿は瞼を軽く震わせ、彼の「分かった」という言葉をはっきりと聞き取った。「分かった、分かった……」輝明はその言葉を繰り返し、声に出
輝明は水を一口飲み、冷静な視線を綿に向けた。綿は食事に集中しているように見えたが、その表情には無関心さが漂っている。だが、輝明には分かっていた。綿はバタフライと非常に親しい間柄だ。彼には到底理解できなかった。どうして綿がバタフライのような人物と知り合いなのか。綿は彼の視線に気づき、不快感を覚えた。ナイフとフォークを静かに置き、無表情で言った。「お手洗いに行ってくるわ。みんなで話してて」そう言って立ち上がり、スマホを見ながら席を離れた。残された三人は彼女が視界から消えるまで無言で見送り、ようやく目線を戻した。秋年はため息をついた。「なあ、明くん。俺たちここにいるの、やめないか?酒が飲みたいなら、俺がバーに付き合うよ」この修羅場のような状況に巻き込まれるのは本当に疲れる。特に秋年にとって、二人の親友が一人の女性を巡って争う姿を見るのはつらかった。彼はどちらの肩を持つべきか分からなかった。輝明の肩を持つとすれば、彼が過去に綿を傷つけた事実があり、彼女が今は彼に興味を持たないのも当然だ。一方で、炎の肩を持つとすれば、彼が選んだ相手がよりによって輝明の元妻だというのも、また微妙だ。感情の問題は理屈では解決できない。こんなに悩むくらいなら、二人とも引き離して、もう綿と会わないようにした方がいい。面倒を解決できないなら、いっそのこと面倒を避けよう。それが秋年の本音だった。輝明は何も答えず、グラスの酒を飲み干すと席を立った。「……どこに行くつもりだ?」秋年は困惑しながら彼の背中を見つめた。輝明は無言でトイレの方向へ向かった。綿はその廊下で壁にもたれかかりながらスマホをいじっていた。実際にはトイレに行くつもりなどなく、単に静かに過ごせる場所を探しただけだった。輝明がこちらに向かってくるのを見て、綿は女洗面所へ入ろうとした。「綿」彼の声が背後から響いたが、彼女は立ち止まらない。しかし、輝明は彼女の腕を掴んだ。綿は冷たい目で彼を見つめた。その視線には「もういい加減にして」と言わんばかりの冷淡さがあった。彼女が避けているのに、どうして追いかけてくるのか。まさか今すぐ家に帰れと強制するつもりなの?輝明は彼女の視線を受け、そこに込められた拒絶の意志を痛感した。彼は
綿は思わずくすっと笑った。この人、ますます小犬みたいになってきたなと思いながら、牛肉を切って口に運ぼうとした瞬間、ふと視線の先に見覚えのある顔を見つけた。炎も綿の視線を追うようにそちらを見る。輝明と秋年だ。綿は目を細めた。まさかわざとここに来たのでは?昼間に炎と電話していたとき、ちょうど輝明も近くにいたからだ。輝明と秋年の顔にも驚きの色が浮かんでいた。特に秋年は、驚きだけでなく少し呆れた表情をしていた。この状況にまた巻き込まれるとは、彼もついていない。修羅場だ、まったく。綿は黙って牛肉を噛みしめながら、輝明を冷ややかな目で見つめた。輝明も綿を見つめ返し、数秒後、彼はそのまま彼女のテーブルに向かって歩いてきた。炎も立ち上がり、自然に挨拶をした。「明くん、秋年」綿は心の中で申し訳ない気持ちを覚えた。炎が勇敢なのはわかっているが、彼がこの選択をした時点で、彼の友人関係に亀裂が入る可能性があることも承知していただろう。彼女と未来を築けるかどうかもわからないのに、彼はリスクを取ったのだ。「偶然だな。一緒に食事してもいいか?」輝明はそう言いながら、綿の隣の椅子を勝手に引いて座った。綿も炎も何も言わないうちに、彼はすでに座り、そのまま秋年を見て言った。「秋年、座れよ」秋年はため息をついた。まったく、またか。こういう場面に巻き込まれるのは本当にしんどい。座らないと輝明の顔を潰すことになるが、座ると炎の顔を潰すことになる。秋年は本当に外に出て電話に出たいと思った。たとえ会社で何か問題が起きたと言われてもいい。しかし、会社には何の問題もなく、彼は逃げられなかった。炎はそんな秋年の困惑を察し、笑顔で言った。「秋年、一緒に座って食べよう。賑やかな方がいいだろう」秋年は渋々席に着いた。輝明は綿の隣に、秋年は炎の隣に座る形となった。ウェイターが注文を取りに来たとき、秋年は冗談を言いながら場を和ませようとした。「炎のおごりか?」「もちろん。俺が出すよ」炎は軽く頷いた。綿は目を伏せて静かに食事を続けた。輝明が彼女のためにワインを注ぎ、「飲む?」と聞いたが、綿は首を横に振った。輝明はそれ以上何も言わず、自らワインを飲み始めた。どうせ運転するのは秋年だから、彼が飲んでも問題ない。その姿を横目で見ながら、綿は微か
綿は軽く咳き込み、手に持っていた水で喉を詰まらせそうになった。最近、周りの人たちはやたらとバタフライの話題を持ち出してくる。話す側は飽きないのかもしれないが、聞かされる方はもう十分だ。炎は綿が咳き込む様子を見て慌ててティッシュを差し出したが、綿は首を横に振り、軽く鼻をすすりながら言った。「バタフライってそんなに優秀なの?どうしてみんな揃いも揃ってバタフライを招きたいの?」「君はバタフライと知り合いじゃないか。それに君とバタフライのニュースも見たよ」炎は軽く咳払いをした。綿「……」どうやら炎がなぜ自分を食事に誘い、花まで贈ってきたのか、その理由が分かってきた。「ということは、商崎さんも?」綿は首を傾げながら炎を見つめ、ストレートに話してくれるよう促した。炎は少し戸惑いながらも、話題がいつの間にかバタフライに移ってしまったことに気づいた。「いやいや、綿、君を食事に誘ったのはバタフライの件で何か頼みたかったからじゃない。君に引き合わせてもらう必要なんてないよ。実はもう自分で連絡を取っているんだ」炎は急いで説明した。綿に誤解されたくなかったのだ。本当にバタフライのためではなく、単純に忙しい仕事の合間を縫って会いたかっただけだ。彼は普段からこういう正直な性格なので、曲がったことは嫌いだ。だからこそ、誤解があればすぐに解きたいと思っていた。綿は炎の言葉から、その意図を読み取った。確かにバタフライの件で頼りたいわけではないようだったが、綿は彼をからかうように言った。「本当に違うの?もしあなたが頼みたいなら、私は喜んで引き合わせてあげるけど」炎はすぐに首を振った。「本当に必要ない」さすがは商崎家の後継者である彼。彼の人脈をもってすれば、バタフライに連絡を取るくらい簡単なことだ。ただし、バタフライを引き抜くとなると話は別だ。さらに、今日耳にした話では、高杉グループも宝飾業界への進出を目指しているらしい。もしかすると、輝明もバタフライを狙っているのかもしれない。もし複数の企業がバタフライを狙い始めたら、彼女の商業価値はさらに高騰し、最終的には単なる価格の問題ではなくなる。それは彼らがバタフライを選ぶのではなく、バタフライが彼らを選ぶ状況になるのだ。「この間、ソウシジュエリーの展示会に行ったけ
陽菜から再びメッセージが届いていた。内容はまたしてもバタフライについての話だった。彼女がバタフライを好きなことは綿も知っていたので、その話題をしつこく追及されることについて、特に気にしてはいなかった。ただし、陽菜がもし挑発的な態度を取るようなら、話は別だった。陽菜【やっぱり信じられない。本当にバタフライと知り合い?それともあの時、体裁を保つためにそう言っただけなんじゃないの?】綿【私にそんな必要があると思う?あなたみたいに、面子がそんなに大事だと思ってるわけじゃないわ】少し考えた後、綿はもう一通メッセージを送った。綿【そのうち、バタフライの回帰作を手に入れたら、見せてあげるわね、小娘】「小娘」という言葉を見た瞬間、陽菜の顔は途端に曇った。綿の目には、彼女が「小娘」にしか映っていないということだろうか?綿はそのままスマホを閉じた。すると炎が口を開いた。「仕事の環境、うまくいってる?噂では、誰かが君にちょっかいを出してるらしいけど」綿は彼を見上げた。こんなことまで知っているのか?「商崎さん、もしかして研究所にスパイでも送り込んでるんじゃない?」彼女は首を傾げて彼を見つめ、興味津々な様子だった。炎は軽く咳払いをし、真剣な表情で答えた。「そんなことするわけないだろう。俺は正直者だよ。知りたいことがあれば、君に直接電話して聞くに決まってる。わざわざ隠れて調べるなんて、そんなことしたら君に嫌われちゃうだろ?」綿は口を尖らせながら炎を睨んだ。確かに、この人はそういう分別がある。ただ、この男はいつも調子がいいので、どこまで本気でどこまで冗談なのか、彼女には全く分からないのだ。車内で綿は大きなあくびをし、頬杖をつきながら窓の外を眺めた。「好きにすればいいけど、私があなたを好きかどうかは、私が決めるわ」彼女はわざとそんなことを言って炎を傷つけようとしたわけではなかった。炎が本当にいい人だということは分かっていたし、できる限り傷つけたくはない。ただ、自分にはもう人を愛する余裕がないということも、はっきりと自覚していた。そしてもう一つ。炎と輝明が良い友人関係にあることも、綿の心を重くしていた。もし彼女のせいで二人が争うことになれば、それは二人以上に、綿自身が一番笑われることになるだろう。彼女は自分が笑いもの
綿が研究所に戻ると、陽菜は入口で待っていた。綿は彼女に一瞥をくれただけで、特に感情を示さず淡々としていた。陽菜が声をかけた。「ねぇ、私に何か言うことがあったんじゃないの?」綿は笑みを浮かべながら答えた。「何を言う必要があるの?私の行動予定や、誰と会ったかを報告しなきゃいけないの?」陽菜はじっと綿を見つめ、不機嫌そうな表情を浮かべていた。バタフライに関して、彼女が何も話してくれないことがどうにも納得がいかなかった。陽菜の中では、綿が自分の前でバタフライの話題を避けたのは、自分を馬鹿にしているのではないかという怒りが膨らんでいた。「あんた、バタフライを知ってたんだろ?なんで今まで黙ってたの?」陽菜の声には苛立ちが滲んでいた。綿のせいで自分がジュエリー展示会で恥をかかされたと思ったからだ。綿は微笑みながら、冷たく言い放った。「バタフライだけじゃないわよ。段田綿だって知ってるし、いろんな人と知り合いよ。それも全部報告しなきゃいけない?」陽菜は眉をひそめた。段田綿?あの段田綿って、もしかして「神医」と呼ばれる段田綿のこと?陽菜が焦りの色を濃くしていた中、綿は無言で彼女を押しのけ、研究所の中へと足を進めた。陽菜は慌てて追いかけた。綿はどうしてこの伝説の二人と知り合いなの?気になってしょうがない。その姿はどうにも必死すぎて、綿にとってはただの煩わしい存在でしかなかった。綿は立ち止まり、振り返って冷たい目で陽菜を見つめた。「もしこれ以上追いかけて研究所の業務を邪魔するなら、陽菜、あなたを解雇するしかないわね。分かってるでしょう?うちの研究所は、あなた一人いなくても困らないのよ」その言葉には怒りが滲んでいて、彼女の決意が見え隠れしていた。陽菜はこれ以上彼女を邪魔したら、絶対に首にしてやると決めた。徹がいても関係ないのだ。陽菜は思わず足を止め、綿を見つめた。彼女の目には少しばかりの悔しさが宿っていた。綿は軽く鼻を鳴らし、研究室へと消えていった。陽菜は柏花草の研究に従事することができず、研究室のドアを閉めるのを見送ることしかできなかった。綿は携帯をポケットにしまい、後ろを振り返って陽菜を一瞥するのを忘れなかった。夜。綿が研究所を出ると、入口で炎が待っていた。彼の手には真紅の
綿は視線を落とし、ぽつりとつぶやいた。「じゃあ、少しだけ?」その一言に、炎は喜びを隠せなかった。「いいね!じゃあ、夜に迎えに行くよ」「大丈夫。車で来てるから、場所だけ教えてくれれば自分で行くわ」綿は髪を耳にかけるように後ろに巻き、ふともう一度輝明に視線を向けた。二人の目がばっちりと合う。綿はにっこり微笑んでみせ、あたかも「挨拶」をしたかのようだった。輝明「……」これは挑発か?他の男と電話で話しながら、彼に向かって笑顔を見せるなんて、完全に彼を馬鹿にしている。彼の顔は冷たく硬直し、その場で車を路肩に停めて綿に問い詰めたい衝動に駆られた。だが、彼女が今日口にした言葉を思い出すと、余計な言葉を飲み込むしかなかった。綿は電話を切った。しばらくして、車内の沈黙を破ったのは輝明だった。「……炎?」「そうよ」 綿は特に隠すつもりもなく答えた。「いいお店を見つけたから、一緒に食べようって誘われたの」「それで、承諾したんだな」輝明の声には抑えた苛立ちが滲んでいた。綿はスマホに視線を戻しながら淡々と言った。「炎は誠実だもの。もし可能性があるなら、試してみたいわ。結局のところ、人は前を向いて生きていかなきゃいけない。あなたも同じよ」その言葉には明確なメッセージが込められていた。「結局、俺に諦めろって言いたいんだろう?」「その通りよ。分かってくれるなら助かるわ」綿は軽く頷き、さらにこう付け加えた。「疲れているようだけど、頭の回転はまだ速いのね」その皮肉交じりの称賛に、輝明は冷笑を漏らした。「相変わらず根に持つ性格だよな」綿は何も言わなかった。「君は俺のことを少しも理解してくれない。俺だって被害者なんだぞ」まるで自分の悲哀を訴えかけるような口調だった。綿は冷静に一言だけ返した。「そうね。私はあなたを理解できないし、あなたも私を理解できない」彼女の目はどこか熱を帯び、言葉には揺るぎない誠実さが込められていた。「以前こう言ったはずよ。『私たちがこの問題を乗り越えられないのは、自分が被害者でないからだ』って。ほら、今のあなたもそうでしょう。自分が傷ついたと思った瞬間から、私のことを小さなことで騒ぐ人間だと感じるようになった。でも結局のところ、あなたの心の中に引っか