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第0008話

Author: 龍之介
男は、心に突き刺さる棘のような痛みを感じながら、慌てて言った。

「いやいや、冗談だよ。本気にするなって!」

綿は、薄く笑いながらグラスを手に取り、一口含む。

「本気に決まってるじゃない。私は昔から、何事にも真剣なの」

琥珀色の液体が、グラスの中で揺れる。その瞬間、綿の脳裏に浮かんだのは――

嬌を庇い、その細い身体をしっかりと抱きしめる輝明の姿だった。

喉の奥からこみ上げる、不快感。

自分は、嬌に劣るのか?どこが劣っているのか?

なぜ、輝明はいつも、自分を邪魔者のように扱うのか?

そんな思いが渦巻く中――

「桜井綿、お前って本当に心が狭いよな」

男が突然、強い口調で言い放つ。

「だから高杉輝明は、お前を好きにならないんだよ!」

――ピクリ。

綿の指が、わずかにグラスを締める。

「……なんですって?」

ゆっくりと顔を上げると、その瞳には、冷たい光が宿っていた。まるで、逆鱗に触れた龍のように。

――どうして、彼らが私を「心が狭い」と言える?

もし私が韓井社長を助けられなかったら、彼らは、どんな態度をとっただろう。

きっと、今頃私を「無能」「恥さらし」と笑い、許しを乞うたところで、さらに嘲り、踏みにじったはずだ。

ならば――

なぜ、私だけが「心が狭い」と言わなければならない?

綿は、手に持っていたグラスを男の足元めがけて放り投げた。

パリーンッ——!

割れた破片が床に散らばる。

誰もが息を飲む中、綿は冷ややかに言い放つ。

「跪くのが嫌なら、手伝ってあげようか?」

――カチッ。

指先で、ペンのキャップを外す音が響いた。

場内が、一瞬にして凍りつく。彼女は、一体何をしようとしているのか?

男は、綿の視線に射抜かれたように硬直した。

脳裏に浮かぶのは、韓井社長の首元に、迷いなく突き立てられたペン。

その正確さ、速さ、そして、一切の躊躇を見せない、鋭い手際。

男は唾を飲み込み、足を引いた。

しかし――

綿は、そんな男の動きを逃さず、ペンを指先でくるくると回しながら、じっと見つめる。

怠惰な仕草とは裏腹に、その瞳には、冷え冷えとした光が宿っていた。

「知ってる?」

静かに囁くように、彼女は言った。

「このペン一本で、人を助けることも――殺すこともできるの」

男は背筋に、冷たい汗が流れた。

「――三秒あげるわ。考えて」

綿はハイスツールから足を下ろす。ヒールの音が、床に響く。

「跪くか、それとも……?」

ゆっくりと、彼の方へと歩み寄る。

――ばたんっ!

男は、まるで糸が切れたように、その場に跪いた。頭を床に打ち付けるようにして、涙声で叫ぶ。

「神様!許してください!もうしませんから!!」

「あなたの偉大さを理解していませんでした!どうかお許しを!」

「お願いです、今回だけは勘弁してください!」

「お願いします、お願いします、どうかお許しを!」

男は、何度も何度も頭を下げる。膝は小刻みに震え、額には汗が滲んでいた。

――先ほどまで、彼女を罵倒していた男が。今は、地面に額を擦りつけて命乞いをしている。

綿は、わずかに首をかしげ、ゆっくりと周囲を見渡した。

その漆黒の瞳には、まるで「他に文句のある者はいる?」とでも言いたげな問いが浮かんでいた。

――シン……と、場内は静まり返る。誰一人として、声を上げる者はいなかった。

ここで見せしめが行われた以上、もはや逆らう者などいない。

綿は、輝明と結婚してから、ほとんど社交の場に姿を見せなかった。嬌との仲睦まじい様子に比べて、まるで存在しないかのように扱われていた。

誰もが、彼女を「桜井家に甘やかされた何もできないお嬢様」だと思っていた。

しかし――

今、この場で彼らは知った。「弱い者」などという言葉が、目の前の彼女とは到底かけ離れたものであることを。

綿が静まり返った場内を見渡し、ゆっくりと立ち上がる。

それを見た人々は、無意識に、一歩後退した。

彼女は、薄く微笑む。

――そんなに怖がるなんて。

やはり、人は強くなければならない。

綿は、震える男の前に立つ。怯えた目が、彼女を見上げた。

綿は、一歩前に出る。そして、ヒールの先で、男の頭を踏みつけた。

「こうして跪くのが、誠意ってものよ」

そして、そのまま振り返ることもなく、堂々とその場を後にした。

ジョンは、綿の背中を見送りながら、微かに笑みを浮かべた。

彼女は再び――彼の目を見張らせる存在になったのだ。

エレベーターの中。綿は疲れた表情で壁に寄りかかり、頭上の数字が「1」に達するのをじっと見つめていた。

――チン。

ドアが開く。彼女は足を踏み出し、数歩進んだところで、鋭い痛みが走る。

思わず立ち止まり、イライラしながらヒールを脱ぐ。それを手に持ち、周りの視線を無視しながら外へ出た。

外は、いつの間にか小雨が降り始めていた。

綿は、顔を上げる。冷たい雨粒が、頬を打つ。微かな光が、彼女の横顔を静かに照らしていた。

先ほどまでの強気な態度とは一転――どこか、壊れたような儚さを纏っていた。

――その時。

前方に、黒いシャツを着た男が立っているのが目に入る。

輝明だ。

車の横に寄りかかり、微かに頭を傾けながら、煙草を吸っていた。

ライターの小さな火が、一瞬だけ彼の顔を照らす。

雨が肩を濡らしても、傘を差すことはない。片手でスーツの上着を抱え、指先には煙草を挟み、無表情のまま、ゆっくりと煙を吐き出していた。

彼の周囲には、冷たい雰囲気が漂っていた。そして、まるで隔たりを示すような、冷めた目で綿を見つめていた。

夜の街灯が薄暗く照らす中、彼はただそこに立っているだけで、視線を引きつけるほどの存在感を放っていた。

「綿、少し話がある」

ゆっくりと口を開き、彼は綿を待っていたことを示した。

綿は、手に持ったヒールを強く握る。まつげが、微かに震えた。

ここで彼が待っているのは、離婚の話をするためだろうか?

彼が本当に想っている女を、一刻も早く正妻に迎えたいから?

そう思うと、胸が痛んだ。

彼女は、その痛みを無理やり押し殺し、精一杯微笑もうとしながら言った。

「あなたが忙しいのは知っている。話すことなんてないわ。私は何もいらない。あなたの言う通りにする」

――その言葉を聞いた瞬間、輝明は眉をひそめた。

記憶の中で、彼女はいつも、こうだった。彼が忙しいことを気にして、彼に迷惑をかけないとしていた。

家族の集まりがあるとき――

「あなたが忙しいのは知ってるから、先に家に行って準備しておくわ」

誕生日を一緒にいてほしいとき――

「あなたが忙しいのは知ってるから、半時間でもいいの」

病気で入院していたとき――

「仕事に行っていいわ。私は大丈夫だから」

離婚のときも、彼女は同じだった。

――一体誰が、綿を「分別のない女」だと言ったのか?

「……忙しくない」

輝明は、ぽつりと呟くように言った。

綿の心が、一瞬止まる。綺麗な瞳が、わずかに揺れた。

――結婚して三年間。

彼がこんな風に答えたのは、これが初めてだった。まるで夢のようで、信じられなかった。

しかし、彼が離婚の話をするために、これほど積極的になったと考えると――綿は、それを酷く皮肉に思った。

その時――

「綿さん!」

背後からジョンの声が響いた。

綿が振り返ると、彼は黒い傘をさし、微笑みながら歩み寄る。そして、さっと傘を差し出した。

「どうして雨に濡れてるの?」

綿は、しばらくジョンの顔を見つめ、静かに答えた。

「……外が雨だなんて、知らなかったの」

「急な雨だったからね」

ジョンは優しく、手を伸ばした。彼女の髪に落ちた雨粒を、そっと拭うように。

「送っていこうか?」

突然の親しげな仕草に、綿は思わず一歩後ろに下がる。

そして、無意識に輝明の方を見た。

しかし、すぐに視線を逸らす。

――もう、彼の目に気にする必要なんてないのだから。

以前はいつも、彼がどう思うかを気にして、他の男と距離を置いていた。軽く見られるのが、怖かったから。

――でも、今となっては?

彼は最初から、自分に関心など持っていなかったのだ。

綿は、ジョンを見つめ、微笑みながら、ゆっくりと言った。

「あなたが送ってくれるの?それとも、私が送りましょうか?」

ジョンはすぐに頷き、軽く肩をすくめて微笑んだ。

「君が送ってくれるのも、大歓迎だよ」

そのやりとりを黙って見ていた輝明は、無意識に喉を鳴らし、胸の内で抑えきれない感情が渦巻いていくのを感じていた。

綿が離婚を切り出してから、彼女の前で自分の存在がどんどん薄れていくのを痛感していた。彼女の視線が、もう自分に向けられることはなくなり、代わりに今、目の前には別の男がいる。

輝明は無言のまま車に手を伸ばし、クラクションを鳴らした。

突然響き渡る甲高い音に、周囲の視線が集まる。

ジョンが顔を上げ、輝明の存在に気づくと、わずかに驚いた表情を見せた。

「高杉さん、誰かを待ってるんですか?」

輝明は、無言でタバコを一口吸うと、指先で灰を軽く落としながら、綿を指差した。

「彼女を待ってる」

綿は、静かに輝明の方を向いた。

ジョンは一瞬戸惑いを見せたが、次の瞬間、疑問を口にした。

「高杉さん、綿さんと知り合いなんですか?」

その問いかけに、輝明はわずかに目を細めながら、綿をじっと見据えた。

彼の目には、抑えきれない怒りの色が滲んでいた。

静かな雨音が響く夜の中、その声は低く、深く響いた。

「俺は――彼女の夫だ」
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    「黒崎さん、おめでとうございます」綿は丁寧に声をかけた。キリナは微笑みながら、同じく礼儀正しく返した。「ありがとうございます、桜井さん。ご光臨いただけて感謝しております」「玲奈が忙しくて来られないから、代わりに私が来ました。黒崎さんから招待状をいただいていませんので、勝手にお邪魔してしまいました。どうぞご容赦ください」綿は柔らかな微笑みを浮かべながらも、一方で招待状が送られていないことを遠回しに指摘し、もう一方では自分がここに来た理由を伝えた。キリナは少し気まずそうな表情を浮かべる。実際、桜井家に招待状を送るつもりはなかった。一つは、適切ではないと感じたからだ。綿の母親である盛晴はすでにデザイン業界で名の知れた人物だったが、彼女の専門は服飾デザインであり、キリナのジュエリー展覧とは畑違いだ。そしてもう一つ、綿との関係が少々複雑だったためだ。さらに、輝明も招待していたこともあり、様々な事情を考慮した結果、綿への招待は見送った。だが、まさかこんな形で彼女が現れるとは思ってもみなかった。「気まずがらなくても大丈夫ですよ。黒崎さんには黒崎さんのご事情があるのでしょう」綿はキリナのためにわざと場を和らげる言葉を口にする。しかし、かえってそれがキリナの気まずさを深めたようだ。「それでは、桜井さん、中へどうぞ」彼女は奥を指し示した。綿は一声返事をして中に進む。背後でキリナが誰かに話しているのが耳に入った。「バタフライさんから返事は来た?今日、来るのかしら?外にはたくさんのマスコミが待っているのよ。私が大々的に話題にしたからよ。バタフライさんが来るって」「社長、バタフライさんからは返信がありません。おそらく、来ないのではないかと……」「それじゃ、私の面目が丸潰れじゃない!」キリナの隣にいた男性がすぐさまフォローする。「何をおっしゃるんですか。あのバタフライさんですよ?誰にでも簡単に招ける方じゃないんですから、皆さんだって理解してくれますよ。それに、どうしてもなら、バタフライさんが裏切ってきたとか、ギャラの条件が合わず来られなかったとか、適当に言い訳すればいいんですよ!」綿は思わず後ろを振り返った。――ギャラが合わず来られなかった。なんて適当な言い草だ。人を貶めるなんて、それほど簡単なことなのか。綿の顔は冷たくな

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    「そうだね」綿は天河と一緒に階段を上がった。 「お前、行く気はあるのか?招待状を用意してやるぞ」天河は、綿がジュエリーを好きなことを覚えている。 「大丈夫よ。玲奈が行けないので、彼女の代わりに行くわ」 「そうかそうか。玲奈は最近も忙しいのか?」 「もちろん。でいうか、パパの誕生日のとき、彼女が特別に帰ってきたんだよ」 「ほう?俺の記憶じゃ、ちょうど休みと重なっただけだったと思うが?」 「パパ……分かってるけど、言わないのが大人の態度ってもんよ」 ……ソウシジュエリーの展示会。 キリナはマスコミのインタビューを受けていた。今日の展示会は非常に盛大で、炎の展示会をも上回るほど人々を驚かせた。 綿は黒いワンピースに身を包み、外には毛皮のコートを羽織っていた。足元はヒール、優雅さと品格を兼ね備えた姿だ。 彼女は今日は玲奈の名義で参加しており、玲奈に恥をかかせないよう完璧に装った。玲奈から「気に入ったジュエリーがあれば写真を撮って、ソウシジュエリーを応援してね」と言われていたのだ。業界ではソウシジュエリーが勢いに乗っていると評判だ。この機会にキリナと顔見知りになっておけば、将来的にジュエリーを求める際に、キリナがあまり意地悪をしないだろう。 「桜井さんがいらっしゃいました!」受付のサインエリアで記者たちが声を上げた。 「久しぶりに桜井さんを拝見しましたが、ますます美しくなられましたね!」 「本当ですね、桜井さんは離婚後、どんどん綺麗になっていらっしゃる。逆に高杉社長の方が少し疲れているようですね」 綿は彼らの言葉を聞き、微笑みながらサインエリアで名前を書いた。 彼女は自分の名前をサインしたが、持っているのは玲奈からもらった招待状だった。記者たちが綿に質問すると、彼女はきっぱりと答えた。 「玲奈は雲城にいませんので、彼女の代わりに来ました」 この言葉を、少し早く会場入りしていた陽菜が聞いていた。 陽菜は驚いた様子で、綿もこの展示会に来るとは思わなかった。前日、ソウシジュエリーの話をしたときの綿の無関心な表情を思い出していたからだ。 「まさか、桜井も招待状を持っているなんて……」陽菜は内心で舌打ちした。ソウシジュエリーの招待状は非常に貴重で、簡単には手に入ら

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0701話

    天河は手を伸ばし、綿の頭を軽く叩いた。「何を馬鹿なことを言ってるんだ?」綿は怠けたように笑い、天河の腕に抱きついて言った。「パパ、私は本当にパパが大好き」「そうか、本当に愛してるんだな?愛してるなら、なんで父娘の縁を切るなんて言ったんだ?」天河は根に持っている様子だ。綿は唇を尖らせた。「パ〜パ」「パパ?俺が何回も綿って呼んでも、お前は振り向きもしなかったな!最後は人にひどい目に遭わされて戻ってきたんだ!」天河は心底悲しんでいる様子だった。一生懸命家族のことを考えてきたのに、大切な娘は男のために父親との縁を切ると言ったのだ。天河の失望は大きかった。「パパ、昔は私が未熟だったの。これからは本当に迷惑をかけないから」綿は父親の心を傷つけたことを知っていた。だからもう二度とそんなことはしないと心に決めた。「もういい、そんなことを言うな。家族なんてものは、迷惑をかけたり負担をかけたりするためにいるもんだ」天河は娘の手を軽く叩きながら、ため息をついて言った。「老後、俺とお前の母さんを邪魔だなんて思うなよ!」綿は首を横に振った。「そんなことはしないよ。ずっと一緒にいるから」「じゃあ、ちょっと聞くけど」天河は向き直り、真剣な表情で言った。「俺の友人が今日病院でお前を見たって言うんだが、病院で何してたんだ?」綿は一瞬怯んだ。「えっ?」「高杉家のばあさんが倒れたって聞いたぞ。本当のことを言え、病院に行ったのはそのおばあさんを見舞うためか?」天河は、何もかも知っているぞという顔で綿を見た。綿は唇を尖らせた。「友人が見たって言うなら、きっと誰と一緒にいたかも知ってるんでしょ。なんで改めて聞くの?」「その通りだ!俺の友人は、お前が輝明と一緒にいたって言ってたぞ!それだけじゃない、お前が彼の面倒を見ていたって!ああ、腹が立つ!」天河は大げさに太腿を叩きながら叫んだ。「俺の娘がどうしてそんなことをするんだ?あんなクズ男の世話をするなんて、どういうつもりだ!」天河の顔は赤くなっていた。実際、彼は綿が帰宅するのを待ちながら、この話をどう切り出すか考えていたのだ。離婚したのに元夫の世話をするなんて、これはもう自分から求めているようなものじゃないか。「パパ、私……」綿は少し考えて言った。「たしかに離婚したし、感情もないけど。でも、情はあるで

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0700話

    輝明は眉間に皺を寄せ、不快感を隠せなかった。「またか?どこの部門だ?」 「また安全監査部です。上からの指示らしいです……」森下の声は焦りが滲んでいた。「社長、一度会社に戻っていただけませんか?」 輝明は点滴のボトルを見上げた。 綿は彼をじっと見つめ、彼が何をしようとしているのかを察したようだった。「点滴がまだ終わってないわよ」 輝明は唇を引き結び、「終わってからまた打つよ」と言って電話を切った。彼は立ち上がり、自分で点滴の針を抜こうとした。 綿はそれを止めようと一歩踏み出したが、彼のはっきりした動作を目にし、再び手を引っ込めた。 彼女は、これ以上踏み込むべきではないと感じた。 輝明は、差し出されてから引っ込められた彼女の手を見て、意味深な眼差しで彼女を見つめた。「君の言うことを聞くよ。この件が片付いたら、ちゃんと胃を労わる」 そう言い残し、彼は上着を掴んで病室を後にした。 綿はその場に立ち尽くし、空っぽになった病室を見つめながら、静かに笑った。 「私の言うことを聞く?それはないわ」 彼女は苦笑しながら心の中で呟いた。 「聞くのは自分の声だけ」 かつて彼は彼女の言葉など聞いたことがなかった。そして今、離婚してから急に「聞く」と言う。それが滑稽に思えた。 綿は病室を後にした。 廊下で待っていた看護師が声をかけてきた。「桜井さん、また高杉さん、点滴を途中でやめちゃったんですか?」 綿は苦笑いを浮かべた。また?じゃあ初めてじゃないのね。 「まあ、彼の命ですから。私たちがどうこうできるわけじゃない。彼が治療を嫌がるなら、無理やりベッドに縛り付けるわけにもいかないでしょう?」 看護師は困り顔で言った。「高杉さん、本当に誰の言うことも聞かないんですよね」 その言葉に綿の心が少し痛んだ。 誰の言うことも聞かない?違う。かつて彼は嬌の言葉を聞いていた。 …… 夜の11時過ぎ、綿が帰宅すると、すでに疲れていた。 病院から戻った後は、柏花草のエキスを取り出す作業をしていたのだ。 天河はまだ起きており、仕事を片付けながら愛娘を待っていた。 「おや、今日は特別な日か?研究所で寝泊まりしてるんじゃないのかと思ったぞ」 綿は上着を脱ぎながら

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0699話

    病室のドアが押し開けられ、綿が振り向くと、秀美が入ってきた。 秀美は尋ねた。「明くんはどこにいるの?」 「胃の具合が悪くなったので、急診に連れて行き、点滴を受けてもらいました」綿が答えた。 秀美は少し驚いた表情を見せたあと、ため息をついた。「この子、本当に心配ばかりかけて……綿ちゃんがいなくなってから、あの子の生活はまるで破綻してしまったようなもの。綿ちゃん、私は……」 秀美は綿を見つめた。何か言いたげな様子だが、目の前の彼女を見ているうちに、言葉を飲み込み、何も言わず、ただ深いため息をついた。 綿は秀美を見つめ、その姿に心が締めつけられる思いだった。 おばあちゃんが倒れ、輝明が次々と問題に直面し、家のことはすべて秀美が背負わなければならなくなった。 しかし、彼女も仕事を持つ身だ。 大人の世界は本当に厳しく、不条理なものだと感じた。綿は彼女を気遣い、できるだけ力になろうと思った。 「おばさん、もう何も言わないでください」 綿は微笑みながら秀美の肩を軽く叩き、続けてこう言った。「これから毎朝、おばあちゃんの様子を見に来ます」 「分かったわ」 秀美は感激した表情で頷いた。 美香が綿を可愛がったのも納得だ。綿は家族の中でも特に孝行で、秀美にとっては感謝の念でいっぱいだった。 モニターには、おばあちゃんの心拍が徐々に安定していることが表示されていた。 綿は安心して秀美に挨拶をし、部屋を出た。 彼女は小林院長にメッセージを送った。【院長、おばあちゃんに救心薬を飲ませました。状態は落ち着いています。引き続き、病院での見守りをお願いできればと思います】 小林院長からすぐに返信があった。【わかった。桜井先生、こちらも全力でサポートする。一緒に頑張って、お祖母様を必ず元気にしましょう】 彼は綿と連携できることを喜び、いつか彼女が段田綿として病院に来て、さらに多くの人を救うことを願っていた。 綿が緊急室に戻ると、輝明は眠っていた。 きっと相当疲れているのだろう、眠っていてもおかしくない。 彼女は病床のそばに立ち、彼の眉と目を見つめて複雑な感情を抱いた。 看護師が入ってきて点滴を確認し、小声で話しかけてきた。「桜井さん、お帰りなさい」 綿は頷き、看護師

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0698話

    輝明は黙ったまま立ち上がり、綿のもとへ向かった。 かつての穏やかな雰囲気とは違い、冷たく、どこか強引だった。 綿は本当に変わった。彼を愛していたその心だけでなく、他の多くの面でも変わってしまった。 医者が輝明を診察し、点滴をつけた後、彼に何度も注意を促した。「一日三食、必ず時間通りに食べてください」 綿は横で話を聞いていただけで何も言わなかった。 「もし医者の言うことを聞いていれば、こんなに何度も胃病を再発して病院に運ばれることもないのに」綿は心の中でため息をついた。 「森下は今忙しいでしょうから、呼んでなかった。看護師さんに点滴を見てもらうよう頼んでたから」 彼女はベッドサイドに熱いお湯を注いだコップを置き、冷たい表情で病床の輝明を見た。「お祖母さんを見に行くから、あなた、一人で大丈夫でしょう?」 輝明は綿を見つめ、唇を少し動かした。 「大丈夫じゃない」と言いたかったが、まだ祖母の容態を知らない。 「俺も一緒に行って、祖母を見たい」彼は言った。 「今は動けないでしょう、いい加減にしなさい」綿は眉をひそめ、少し苛立った表情を浮かべた。 輝明は黙ったまま、綿が続けた。「私が見てくるから、帰ってきたら容態を教えてあげるわ」 病院を出る時も緊急を通るのだから。 彼はそれを聞いてうなずいた。 綿は軽く返事をしてから、点滴の様子を確認した後、立ち去る前に再び看護師に念を押した。「彼には付き添いがいません。点滴が終わるまで、よろしくお願いします」 輝明は綿がすべてを整えてくれる姿を見て、目に罪悪感を浮かべた。 「自分で墓穴を掘る」とはまさにこのことだ。彼は心の中で苦笑いを浮かべた。 ──彼女にどうやって償いをすればいいのだろうか? それは答えの見つからない問題だった。 綿が病室に着くと、秀美がちょうど廊下で電話をしており、祖母の容態を俊安に説明していた。 俊安は会議中で、どうしても抜けられないという。 冷たい天気が人を疲れさせる。 秀美は何晩もよく眠れておらず、顔にはかなり疲労がにじんでいた。 電話を切った秀美は、戻ってきた綿に急いで尋ねた。「綿ちゃん、どうだった?何か分かった?」 綿は首を振り、成果はないと答えた。 ただ、「叔母

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0697話

    綿は顔を少し傾けて輝明を見た。「何?」 輝明は数秒間黙ったまま彼女を見つめ、再び追いかけた。「君、帰るのか?」 綿は「おお」と軽く声を漏らし、淡々と言った。「どうしたの?未練でもあるの?」 輝明は綿を睨むように見つめ、綿も同じように彼を見返した。 二人の視線が交錯し、しばらくの間無言だった。このようにお互いを見つめ合うのは久しぶりだった。 かつての「未練がましい」視線は綿の目にだけあったが、今ではそれが輝明の目にも表れていた。 一方で、以前は輝明の目にだけ見られた「冷ややかで皮肉めいた」表情が、今では綿の目に浮かんでいた。 「もし俺が未練があると言ったら、もう少しここにいてくれるか?」彼は唇を引き締め、エレベーターの上昇する数字を見つめた。 綿は彼をちらりと見て、くすりと笑った。「真心が足りないわね」 輝明は言葉を失った。彼は人に頼ることを知らない人間だった。幼い頃から誰にも頭を下げたことがなかったのだ。 エレベーターが一階に到着した。 輝明が胃を抑えている仕草を、綿は見逃さなかった。彼女はため息をつき、「こっちに来て」と言った。 輝明は目を上げた。「何だ?」 綿がエレベーターを降りると、輝明はまだエレベーターの中にいた。 彼女は振り返り、やや強めの声で言った。「降りて」 輝明は少し戸惑いながらも彼女の指示に従い、エレベーターを降りた。 彼の目にはわずかな寂しさが浮かんでいた。 綿は彼のそんな姿を見るのは初めてで、少しだけ驚いたようだったが、彼女は何も言わず歩き出した。 輝明はその後を急いで追った。何も言わなくても、綿が呼べば、彼はどこへでもついていくつもりだった。 診療所の長い廊下を歩きながら、彼らは通り過ぎる患者たちの疲れた表情や、吸い殻だらけの灰皿を目にした。 綿は時折後ろを振り返り、輝明の歩みが遅いことに気づく。 胃痛のためにゆっくり歩いているのか、それとも彼女ともう少し一緒にいたいから歩みを緩めているのか、定かではなかった。 彼の目はじっと綿の背中を追いかけていた。 かつて自分にくっついていた「小さな影」が、今では自分が追いかける「大きな背中」となったのだ。 「もっと早く歩いて」 綿が催促すると、彼は

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0696話

    綿は何も言わず、椅子を蹴って輝明に示し、「座って少し休んで」と伝えた。 輝明は綿を一瞥すると、椅子に腰を下ろした。 「この人物の映像をすべてコピーして、このメールアドレスに送ってください」 綿はメールアドレスをメモし、「正面の顔を探してください」と付け加えた。 警備員は眉をひそめ、「それは難しいですね」と答えた。 この人物は反追跡能力が高く、映像の中には正面を映した場面が一つもなかった。 「難しいからこそ、あなたを頼りにしているんです」綿は警備員の肩を軽く叩き、微笑んだ。「うまくいったら、きちんと報酬を渡しますから」 警備員は苦笑しながら頷き、黙々と作業に取り掛かった。 輝明は椅子にもたれかかりながら、綿をじっと見つめた。その眼差しには複雑な感情が渦巻いていた。彼はこんな綿を見るのは初めてだった。 かつて彼は綿をただの平凡な女性、社会で一ヶ月も生き延びられないようなガラスのような存在だと思っていた。 しかし、今目の前にいる彼女は、かつての彼が持っていた偏見を覆す存在だった。 強く、賢く、彼の支えになれる人。 そう考えると、後悔の念が胸を締め付けた。なぜあの時、嬌に惑わされ、自分の判断力を失ってしまったのか。ただ嬌が自分を助けたからという理由で、綿を諦めてしまうなんて、どうかしていた。しかし、それ以上に悔やむべきは、どうしてあんなにも綿を傷つけてしまったのかということだ。彼女はこうして目の前にいる。それなのに、もう彼のものではないのだ。その現実が輝明の心を引き裂いていた。綿を、自らの手で失ってしまったのだ……彼は静かに目を伏せ、右手を力強く握りしめた。 そんな輝明を見て、綿は彼の状態が良くないと判断した。「帰りましょうか?」と声をかける。 輝明は顔を上げ、「君は?」と尋ねた。 「一緒に行く」綿は淡々と答えた。 彼女は一人で監視室に残るつもりはないようだった。映像の素材もある程度揃ったため、後は康史たちに任せれば十分だった。 輝明は、綿をじっと見つめたまま動けなかった。なんだかここを離れたくない気分になり、彼女ともう少し一緒にいたいと思ってしまった。監視室を出たら、これほど彼女に近づける機会はもうないだろう。こうして間近で彼女

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0695話

    輝明は綿をじっと見つめ続けた。伯父が表向きは体面を重んじる人物であることは、彼も十分に理解している。しかし、この状況下で伯父が自ら率先して助け舟を出すことはないだろう。つまり、これは綿自身の意思によるものだ。 輝明は心の底から綿に感謝していた。そして、彼女を失い、傷つけてしまったことを深く後悔している。どのように償えばよいのか見当もつかない。だからこそ、これからの長い人生をかけて少しずつでも贖罪していくしかないのだ。 「ありがとう」輝明は力ない声で言い、軽く頷いた。 綿は何も言わず、救急室の方を見つめた。ちょうどその時、救急室のランプが消え、小林院長が出てきた。 「問題ない。ただ、少し驚かれたようです」 綿は首をかしげた。「おばあちゃんが驚くなんて、どうしてですか?」 「それは、付き添いの方に聞くべきでしょうね」小林院長はそれだけ言うと黙り込んだ。 綿はさらに疑念を抱き、秀美に目を向けた。 秀美は複雑な表情を浮かべながら言った。「私、何もお義母さんを刺激するようなことはしてないわ。ただ、明くんの工場の件が……」 「驚きが原因です。そして、救急措置中、お義母さんが窒息死しそうな兆候が見られました」小林院長は慎重に説明した。 綿は言葉を失った。窒息死? 輝明も驚きで固まった。「院長、それって……」 秀美は一歩後ずさりしながら、「つまり、誰かが、お義母さんを?」と震える声で尋ねた。 小林院長は黙っていたが、その沈黙が答えを物語っていた。 輝明は眉をひそめ、すぐさま立ち去ろうとした。「どこへ行くの?」秀美が問いかける。 「監視室だ」 「私も行く」綿がすかさず言った。 秀美は何かを言いたそうにしたが、二人の様子を見て、結局口をつぐんだ。 輝明は綿に目を向けた。 「私も手伝うわ」 「ありがとう」 「気にしないで。あなたのためじゃなく、おばあちゃんが以前よくしてくれたから」 綿の答えに、輝明は苦笑した。確かに、彼が聞きたかった言葉ではなかった。 監視室に入ると、輝明は警備員に指示を出しながら、モニターに映る映像を確認していた。立ちっぱなしの彼の姿勢は不安定で、時折胃のあたりを押さえ、浅い呼吸を繰り返していた。 綿はそんな彼

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