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第0007話

Author: 龍之介
――それは、綿だった。

嬌は強く押され、そのまま床に倒れ込む。すぐさま、輝明が彼女を支えた。

その間、綿は膝をつき、素早い手つきで韓井社長のネクタイを外し、脇へと放る。

嬌は驚き、輝明に支えられたまま綿を見つめた。

「綿ちゃん、何をしてるの?大丈夫なの?」

周囲も呆然とし、ざわめきが広がる。

「陸川お嬢様でもどうにもできなかったのに、彼女に何ができる?」

「しかも、こんなに体面を重んじる韓井社長の服を勝手に脱がせるなんて……一体何を考えてるんだ?」

疑念と非難の声が次々と上がる。

嬌は唇を結び、優しく語りかけるように言った。

「綿ちゃん、無理しなくていいのよ。みんなが何か言ったからって、気にすることないわ」

「普段は桜井家の皆さんが甘やかしてくれるかもしれないけど、今は家でふざけてるときじゃないの。命に関わることなんだから――」

焦った嬌は手を伸ばし、綿の腕を引こうとする。

しかし――

「黙ってて」

冷たく、鋭い声が嬌の動きを止めた。

綿は彼女の腕を振り払い、目を細める。

嬌は言葉を失う。

――その視線に、背筋が凍るような感覚を覚えた。

綿はふと輝明を見やる。

彼は、今も嬌を抱きしめたまま、戸惑ったような表情を浮かべていた。

綿は冷たく言い放つ。

「高杉さん、あなたの「大切な人」を、ちゃんと見張ってて」

輝明は綿の冷淡な態度に、わずかに眉をひそめる。

「綿、嬌はお前を心配してるんだ。彼女の善意を無視するな」

綿は、ふっと笑った。

――それは本当に「心配」なのか?

それとも、韓井社長を助けた「手柄」を奪われることが怖いのか?

彼女は、嬌の本性を知っている。長年の友人だからこそ、誰よりもその本質を見抜いている。

嬌が涙を流せば、周りは皆彼女を庇い、誰もが彼女の味方になる。綿自身も、ずっとそうやって彼女に尽くしてきた。

――だが、もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。

そんな思いを抱えながら、綿はゆっくりと輝明を見上げる。

「綿、俺たちが長年夫婦だったんだ。そのよしみで忠告しておく。余計なことには首を突っ込むな」

輝明の低い声が、静かに響く。

綿は、じっと彼を見つめ、苦笑した。

「……あなたも、私を「無能な役立たず」だと思ってるの?」

輝明は、無言だった。その沈黙が、答えだった。

綿は鼻をすすり、どこか無力な声でつぶやく。

「残念だわ……私たち、何年も夫婦だったのに、あなたは私のことを何もわかっていない」

輝明は喉を鳴らし、複雑な表情を浮かべながら綿を見つめる。だが、その感情が何なのか、自分でも分からなかった。

綿は、静かにペンを取り出した。

――その瞬間、場内に緊張が走る。

「……何をするつもりだ?」

「この状況で、まさか……?」

「桜井綿、お前は狂ってるのか?」

人々の疑惑と怒りが入り混じる。

――しかし、次の瞬間。

綿は、ペンの先端を取り外した。そして、躊躇なく、韓井社長の首に突き刺した。

動きは一瞬。無駄がなく、正確だった。

大広間が、再び騒然となる。

「……何てことを!」

「もし韓井社長がこのまま亡くなったら、お前はどう責任を取るつもりだ!」

嬌は、輝明の腕を強く掴み、目を見開いた。

これは……?

――緊急気道確保?

なんて大胆な……!

綿は身を伏せ、露出したペンの部分にそっと息を吹きかけると、そのまま韓井社長の胸部を押し続けた。

その表情は、真剣そのものだった。

どれほどの時間が経っただろうか――

ふと、韓井社長の指が微かに動き始めた。

その瞬間、疑念に満ちたホール内が静寂に包まれる。

誰かが、小声で呟いた。

「……助かったのか?」

「そんなわけないだろ。陸川お嬢様でさえ無理だったのに、あんな無茶なやり方で助かるはずがない」

そう言い合う声が交錯する中――

「救急車が到着しました!」

外から駆け込んできたスタッフの声が響いた。

綿は深く息を吐き、韓井社長を担架へ移すのを手伝いながら、冷静な声で医師に引き継ぎを行った。

「患者は先天性の心疾患を持っています。最初の意識喪失時に速効性の心臓薬を服用しました。一時的に意識を取り戻したものの、その後、再び昏睡状態に陥りました」

「また、患者が重度の喘息を患っている可能性があり、気道閉塞のリスクを考慮し、緊急措置として即席で人工気道を確保しました」

その場で見守っていた人々は、最初の説明には納得したように見えた。

しかし、後半の説明を聞くと――

「……は?韓井社長は喘息持ち?そんな話、聞いたことがないぞ!」

一人がそう言うと、すぐにざわめきが広がる。

「まるで本物の医者みたいに話してるが、でたらめじゃないのか?」

「私も韓井社長とは長年の付き合いがあるが、喘息なんて聞いたこともないぞ」

年配の男性が腕を組み、疑わしげに言った。

「へっ、もし本当に彼女が助けたというのなら、この場で三回土下座して、三回『神様』って拝んでやるよ!」

その言葉を皮切りに、人々の視線が一斉に綿へと向けられる。

その目には、「見ろ、やっぱり無能だ」と言わんばかりの軽蔑の色が滲んでいた。

綿は唇を引き結び、じっとその場の様子を見つめる。

しかし、彼女の目には――どこか、楽しげな光が宿っていた。

――土下座?それはちょっと面白そうね。

そんなことを思いながら微かに微笑んだその時――

「父は確かに重度の喘息持ちです!」

ホールの入り口で、はっきりとした声が響いた。

驚いた群衆はそちらを振り返る。

そこに立っていたのは、韓井社長の息子、韓井司礼だった。

スーツに身を包み、眼鏡をかけた彼は、理知的で礼儀正しい雰囲気を漂わせていた。

彼は綿の方へ歩み寄り、軽く会釈をする。

「……ありがとうございます」

そう言って、静かに綿に礼を述べると、今度は年配の男性に向き直った。

「秦川叔父さん、父は確かに喘息を患っています。ただ、それを公にはしていませんでした。あまり良い印象を与えないためです」

その言葉を聞いた瞬間、秦川と呼ばれた男性は、一瞬だけ言葉を詰まらせた。

その頃――

綿はふと、手のひらに鋭い痛みを感じた。何かと思い、そっと手を開く。

――そこには、細い赤い線が刻まれていた。

ペンの先端が鋭すぎたせいか、急いで処置を施した際に、自分の手を切ってしまったようだ。

場内は、静寂に包まれた。

針が落ちる音すら聞こえそうなほど、張り詰めた空気が漂う。誰もが凍りついたように、動きを止めていた。

「……そんなバカな!桜井綿が、本当に韓井社長を助けたのか?」

「ただの幸運だろ。たまたま上手くいっただけだ」

そんな声がちらほらと上がる中――

「処置は完璧でした!」

医師の力強い言葉が、大広間の空気を一変させた。

「あなたの判断は正確で、大胆かつ見事な処置でした。貴重な時間を稼いでくれて、本当にありがとうございます。あなたがいなければ、患者は恐らく……」

言葉の続きは不要だった。一瞬にして、ホール内ざわめきは消え去る。

まるで、大損をしたかのように、人々は沈黙し、硬直した表情のまま言葉を失っていた。

桜井家の「役立たず」と呼ばれた女が、実際にはこんな腕を持っていたとは――

誰もが、信じられないという顔をしていた。

だが、輝明は、それほど驚いていなかった。

綿は確かに医学に熱心で、これまで無数の医学書を読み、多くのSCI論文を発表していた。

彼女の医術が疑われるべきではないことは、知っていたはずだった。

――それなのに。

いつの間にか、自分も、彼女を何の役にも立たないと思うようになっていた。

先ほど、綿が言った言葉を思い出し、輝明は、何とも言えない後ろめたさを感じた。

その時――

綿がふらりと後ろに揺れた。足元が不安定になり、一歩、よろける。

――低血糖か?

彼女はこの二日間、ほとんど休んでいなかった。極度の集中の中で、長時間しゃがんでいたせいもあり、頭がくらくらしていた。

輝明は反射的に前へ踏み出す。

――だが、その瞬間。

一人の手が綿の腰を支えた。それは輝明ではなかった。

「桜井さん、大丈夫ですか?」

優しく穏やかな声が耳元に響く。

綿が顔を上げると、そこには、韓井司礼がいた。司礼は、彼女をしっかりと支えながら、静かに彼女を見つめていた。

綿は無意識に、輝明の方を見た。

嬌が彼に何かを言っているらしい。それを聞いた途端、輝明は何の迷いもなく、嬌を抱えてホールを後にした。

綿は、静かに目をそらした。

――心臓が、一瞬止まるような感覚。

――針で刺されたような痛み。

だが、何もなかったように微笑むと、淡々と言った。

「大丈夫です」

司礼は、スーツのポケットから金箔の名刺を取り出し、綿に手渡した。

「父を救ってくださり、本当に感謝しています。これは僕の名刺です。後日、韓井家がお礼に伺います」

「韓井さん、お気遣いなく。病院に急いでください」

綿は冷静そうに言い、司礼も軽く頭を下げ、その場を後にした。

綿は、ゆっくりと視線を巡らせる。

――先ほどまで、彼女を役立たずと嘲笑していた人々の顔が、どれも引きつっていた。

彼女が韓井社長を救ったことで、彼らは沈黙し、気まずさを隠しきれないようだった。

さらに辺りを見渡すと――

たった今まで、神のように崇められていた嬌の姿は、どこにもなかった。

綿は、無言のまま、消毒綿でそっと傷口を拭った。端正な目元を上げ、疲れた声で言った。

「……さっき、誰が私に土下座して『神様』って呼ぶって言ったんだっけ?」

――ピタリ、と。

そっと立ち去ろうとしていた人々の足が止まる。

綿は、バーの前のハイスツールに座り、長いドレスの裾を美しく流しながら、セクシーに後ろへ寄りかかる。白くしなやかな脚が、ちらりと覗いた。

場内は静まり返る。

目に見えない圧力が、人々の言葉を奪っていく。

――すると。

誰かに背中を押されるようにして、一人の三十代の男が、震えながら前に出た。

綿は、ゆっくりと彼見つめる。上目遣いに、美しい顔を僅かに傾け、冷たい光を宿した瞳を向ける。

そして、微笑みながら、

「――跪きなさい」
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    「ところで、あんた会社は放ったらかしにしてるの?」秀美が尋ねたと、輝明は淡々と答えた。「嫁と会社、どっちが大事だと思う?」秀美は思わず笑った。もちろん、嫁が大事に決まってるでしょ!「どうにもならなければ、父さんに手伝わせたらいい。最近暇そうで、家で陸川家のニュースばっかり見てるし!陸川家は最近騒がしいわね」秀美はリビングの片付けを手伝いながら言ったが、輝明が止めた。「母さん」「うん?」「そのままにしておいて」散らかっている方が人の気配が感じられる。きちんと片付けてしまうと、逆に寒々しくなるだけだ。秀美は微笑んだ。――本当に片付けが嫌なのか、それとも綿がここにいた痕跡を消したくないだけなのか?「まったく、あんたね、遅れてやってくる愛なんてクソの役にも立たないわよ!」秀美は輝明を容赦なく叱った。「母さん、そんなに俺を責める必要があるのか?」輝明は頭を抱えた。「そもそも、どうして俺の愛が遅れてきたものだって分かるんだよ。最初から綿ちゃんを好きだったかもしれないだろ?」「好きだなんて嘘ばっかり!本当に好きなら、どうしてあんなひどいことができるの?綿ちゃんがどれだけ傷ついたか分かってるの?」秀美は、綿が三年間に受けた苦しみを思い出し、腹立たしさに歯ぎしりした。その全ての苦しみは、この目の前の男が与えたものだったのだから。そう話しているうちに、二人のスマホが同時に鳴った。「デザイナー『バタフライ』の復帰作『雪の涙』、本日正式にお披露目!実物公開――その美しさは絶品!」輝明はスマホを手に取り、公開された写真を確認した。展示写真は確かに美しく、高級感と洗練された雰囲気があった。過去のクラシックなデザインとは一線を画す作品で、間違いなく「バタフライ」の新たな傑作だった。「買いなさい」秀美が突然口を開いた。「もうすぐクリスマスでしょ。これを買って綿ちゃんにプレゼントしなさい!」彼女は輝明に指示を出した。輝明は困ったように答えた。「もう売れてしまったらしい」「誰が買ったのよ?この世に金で買えない物なんてないわ。倍出してでも買いなさい。それでダメなら三倍!いくらでも出せばいい!」これほど素晴らしい贈り物を綿に渡さないなんて、もったいないにも程がある。秀美は、綿に贈

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    「いや、何でもないわ。ただ明くんの様子を見に来ただけ。綿ちゃん、知ってるでしょ?この子はいつも外で接待やらなんやらで、たくさん飲んでるのよ。今はここで一人暮らしだから、何かあったらと思うと時々心配になるの」秀美は明るく笑い、その表情からは機嫌の良さがありありと分かった。綿は頷きながら階段を降りてきた。秀美はキッチンに火が入っているのを見てさらに嬉しくなり、「これ、綿ちゃんが作った朝ごはん?」と聞いた。綿は「うん」と軽く返事をしながら言った。「私、これから用事があるから、簡単に済ませておくつもり」「いいわね。家に女がいると全然違うわ。綿ちゃん、明くんがあなたの手料理を食べられるなんて、本当に幸せ者ね!」秀美はそう言いながら、ちらりと輝明を睨んだ。こんな素晴らしい奥さんを持ちながら、それを手放したのよ。本当にどうしようもない。秀美は思い出すたび、輝明を叱りつけたい衝動に駆られていた。こんなにも才能があり、成功しているのに、どうしてプライベートをこんなにも台無しにするのか、と。「ねえ、明くん?」彼女は輝明の腕を軽く叩いて促した。なんで少しでも綿に気の利いたことを言えないの?輝明は答えなかった。ただ分かっていた。綿に甘い言葉を並べても、何の効果もないことを。「じゃあ、私はこれで失礼します。彼に薬を飲むように声をかけておいてください」綿はぎこちなく微笑みながら言った。「え、もう行くの?私が来たせいで邪魔しちゃったの?」秀美は驚いた様子で尋ねた。「いえ、私もそろそろ帰るつもりでした。ただ、これ以上は居座れませんから」綿はそう説明した。「何言ってるの。ここはあなたの家でもあるんだから、いつでも好きなだけいればいいのよ」秀美は相変わらず調子の良い言葉を口にするが、綿はそれを社交辞令として受け流し、特に気に留めなかった。綿は傍にあった服を手に取り、少し落ち着かない様子で身支度を整えた。普段なら輝明の前でももっと堂々としていられるのに、秀美の登場で完全に調子を崩してしまったのだ。彼女は早々にその場を後にした。輝明も彼女を引き留めなかった。彼は分かっていた。綿が自分の家に長居するはずがない。秀美が来ていなかったとしても、食事が終われば彼女はさっさと帰っていただろう。彼女には自分に向き合

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0824話

    三ヶ月という期限が間に挟まれている限り、輝明も少しは大人しくしているだろう。綿は目を細めて彼を見やり、「輝明、私を脅してるの?」と問いかけた。「俺はただ、この賭けのメリットとデメリットを説明しているだけだ」綿は笑った。彼はまるでどこまでもしぶとい油断ならない相手のようだ。不満はあったものの、彼女は仕方なく輝明の番号をブロックリストから解除した。そしてすぐさま尋ねた。「これでいいでしょう?」「三ヶ月が終わるまで、もう一度俺をブロックリストに入れるな」輝明は警告のように言い放った。綿は彼の言葉を無視することにした。間もなく、輝明から「三か月間の電子版の対価契約書」が送られてきた。「署名しろ。これで契約成立だ」彼は会社の大口契約を成立させるかのように、淡々としていた。綿は契約内容を確認した。特に問題はなかった。内容は単純で、二人の間で三ヶ月間の賭けをするというものだ。三ヶ月後、もし綿が輝明を受け入れない場合、彼はそれ以降一切彼女に関わらない。ただそれだけだった。これは究極の恋愛の綱引きだった。最終的にどちらが勝つのか、それが賭けの全てだった。綿は迷いなく署名し、契約書を送り返した。輝明は満足げにうなずいた。「この別荘のパスワードはもう変えない。君が来たくなったら、いつでも歓迎する」綿の表情は変わらず冷淡だった。「私がここに来たいと思う理由があるとでも?」「ここには、俺たち二人の思い出がたくさんあるからさ」輝明は自信ありげに言った。それから付け加えるように言葉を続けた。「安心しろ。陸川嬌はこの別荘に一度も泊まったことがない」一度も泊まったことがない――と。綿は唇を軽く引き締めた。嬌がここで寝たことがあるかどうかなんて、彼女にとってさほど重要なことではなかった。むしろ、彼自身が嬌と一緒に過ごしたことがあるのかどうか、その方が気になっていた。だが、そんなことを尋ねても自分が嫌な思いをするだけだと分かっていた綿は、追及しないことに決めた。そのとき、突然「カチャリ」という音と共に玄関のドアが開いた。二人は同時に入口の方へ視線を向けた。誰かしら?綿は不思議に思った。森下だろうか?もし森下なら隠れる必要はない。しかし別の誰かなら――彼女は一瞬身を隠すべきか悩んだ。ニュ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0823話

    綿はその言葉にただ笑みを返し、そのまま洗面所へ向かった。輝明も追いかけるような真似はせず、一階へと降りていった。綿は髪を束ね、白いワンピースに袖を通した。その姿は清楚で女性らしい雰囲気にあふれていた。彼女が階段を降りると、輝明はキッチンで頭を抱えているようだった。「サンドイッチと牛乳でいい?」綿が声をかけると、輝明はすぐに答えた。「いいよ」誰かが朝ごはんを作ってくれるだけで嬉しいのに、文句を言うなんてとんでもない、といった表情だった。綿は手を動かしながら、ふと問いかけた。「昨日、私たちが一緒に帰ったところを撮られたの、知ってるでしょ?私も試したけど、ニュースは下ろせなかった。高杉さん、自分で削除依頼をしてみたら?」輝明は顔を上げて、少し驚いた表情を見せた。「たかがニュース一つだろう」そう答えた。綿は苦笑した。「でも私は気になるのよ。だって『元夫』との話題でしょ。もし『新しい人』だったらまだしも」彼女の口ぶりには皮肉が込められていた。新しい恋人とバーに行ったり、一緒に家に帰るなら話は分かるけど、元夫となんてね。これじゃ世間に「私はこの男にまた引っかかった」って宣言してるみたいじゃない。「そういうことなら、このニュースはもっと長く掲載させてもらう」輝明の声には冷たい響きが混じっていた。彼女が他の男と話題になるなんて――そんなことを考えただけでも彼には耐えられなかった。もし綿が他の男と家に帰るなんてことになれば、涙を流すのは自分だろう。絶対に許すわけにはいかなかった。綿は卵をフライパンに割り入れようとしていたが、輝明の言葉に反応し、微笑みながら言った。「ニュースを仕掛けたの、まさか高杉さんじゃないでしょうね。聞いた話だと、かなり高額を払ったらしいわ」「桜井さん、俺をそんな卑怯者だと思ってるのか?」輝明はすぐさま問い返した。綿は間髪を入れずに答えた。「自分が何をしたか、心当たりがあるんじゃない?」実際、その通りだった。輝明は言葉に詰まった。――この口の利き方は随分と腕を上げたな。綿は二枚のパンをトーストし、簡単なサンドイッチを作り上げた。牛乳も温め、テーブルに運んだ。ダイニングテーブルでは、二人とも静かに朝食を取っていた。綿はスマホで嬌に関するニュースのコ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0822話

    酔った人間の力はとても強い。普通の人間では到底振り解けない。綿はそのまま彼に抱きしめられていた。時間が少しずつ過ぎ、最後には綿の方が先に疲れ、彼の胸に寄りかかったまま眠りに落ちてしまった。……眩しい日差しが差し込んでいた。綿は体のあちこちが痛むのを感じながら目を覚ました。体をひねると、足がどこかに触れていることに気づいた。指先が何か触れるべきでないものに触れた感覚に、綿の意識が急激に覚醒する。眉をひそめ、ゆっくりと目を開けた彼女は、目の前の状況に驚愕した。「……うそでしょ」思わず口をついて出た言葉だった。慌てて自分の服を確認し、服がきちんと着られていることに安堵したものの、次に目にしたのは、彼女が輝明と同じベッドで寝ていたという現実だった。その頃、輝明もゆっくりと目を開けた。眉間にしわを寄せながら、彼はベッドサイドのスマホに手を伸ばす。時刻は10時半だった。腰に何かが絡んでいる感覚に気づき、視線を下ろすと、それは綿の足だった。輝明の手が彼女の太ももの付け根に触れると、綿は反射的に体を硬直させ、眉間をピクリと動かした。すぐにベッドから起き上がり、勢いよく離れた。「どうして私があなたのベッドにいるの?」輝明は首をかしげながら、曖昧な表情で答えた。「たしか、俺が酔っ払って、俺を連れてきてくれたんだと思う……」綿は心臓がドキドキするのを感じながら、そそくさと部屋を出た。彼女のスマホは客室に置きっぱなしだった。客室に戻ってスマホを確認すると、雅彦から一晩中送られてきたメッセージが未読のままだった。最後の二通はこうだった:雅彦:「ボス、大丈夫?なんで急に音信不通になったんだ?電話も出ないし……怒らないで、ちょっと位置情報を確認した」雅彦:「え、ボス……高杉輝明の家にいるの?」綿は言葉を失った。説明のしようがない。さらに通知バーを確認すると、彼女と輝明が一緒に帰宅したというニュースが、未だにトレンドの上位にランクインしていた。その瞬間、新たなニュースがトレンドに躍り出た。「陸川グループ令嬢・陸川嬌が精神異常を発症。本日朝、雲城第二精神病院へ搬送。陸川家からの立ち会いは一切なし」嬌が精神疾患?驚くべきニュースだった。振り向くと、歯ブラシをくわえながら輝明が現れた。綿はスマホの画面

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0821話

    さすがマスコミのスピードだ。ほんの些細な動きがあっただけで、すぐに自分たちを見出しのトップニュースに持ち上げる。綿はうんざりし、雅彦にメッセージを送った。綿:「私のゴシップ、削除して」彼女は他人のゴシップを楽しむことはあっても、自分のゴシップのネタにされるのは絶対に許せなかった。雅彦からの返信は5分後だった。雅彦:「試してみたけど、削除できない」綿:「どうして?」雅彦:「どうやら誰かがお金を投じて、記事を残すよう仕組んでいるらしい。ボス、本当に削除したいなら、もっと高額を提示するしかないよ」綿は言葉を失った。自分のゴシップにお金を注ぎ込むなんて、一体誰がそんな暇なのだろう?「ドン――」突然、扉の外から音が響いた。綿は即座に立ち上がり、扉を開けると、階段の端に座り込んでいる輝明の姿が目に入った。彼は片手で手すりを掴み、もう片方の手で床を支えていた。その姿は明らかに調子が悪そうだった。綿は眉をひそめ、一言尋ねた。「高杉さん、大丈夫?」「大丈夫じゃない」彼の声は沈んでいた。綿は彼に近づき、しゃがみ込んだ。輝明は手すりにもたれかかり、気だるそうに目を上げて綿の視線を捉えると、ぽつりと言った。「痛い」「どこが痛むの?」綿が聞く。輝明はまず自分の胸を指差した。それから頭を指し、最後に胃を指して言った。「全部が痛い」綿は唇を噛み、「病院に行く?」と提案する。輝明はすぐに首を振った。「行かない」彼が酒に酔い、さらに胃病の発作で疲れ果てていることが、綿にはすぐに分かった。「綿……知らないだろうけど、急患室の病室って、本当に寂しいんだ」彼は綿を見上げ、その目に微かな波紋が広がっていた。「君はいつも俺をあそこに置き去りにして、そのまま放っておく」綿の胸がぎゅっと締め付けられる。――君はいつも俺をあそこに置き去りにして、そのまま放っておく。なんて悲しげな言葉だろう。「前にあなたがしたことよ。それを仕返ししているだけ」綿はわざと彼をからかうように言った。「でも俺は言っただろう、あれは誤解だって」「私だって誤解したのよ」「君はわざとやってるくせに!」輝明は綿を非難し、「悪女!」と声を荒げた。綿は思わず笑ってしまった。以前なら、輝明に「悪女」と言われ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0820話

    輝明はそれ以上何も言わなかった。綿がここに留まってくれるだけで、十分に嬉しかった。少なくとも、綿が完全に拒絶しているわけではないことの証だった。綿は輝明の正面に座り、彼がラーメンを食べる間、スマホを手に父親に無事を知らせるメッセージを送っていた。今日は帰らないことを伝えつつ、ついでに研究所からの通知を確認する。一方、輝明はラーメンをゆっくりと口に運んでいた。この一瞬を惜しむように――綿と同じ食卓を囲む、そんな温かなひとときを楽しんでいた。薬の効果か、あるいは熱いラーメンのおかげか、彼の胃の痛みはかなり和らいでいた。綿がふとSNSを見ていると、友人の投稿が目に入った。「マジかよ……社長が休みに入った途端、代わりに出てきた秘書の方がよっぽど厳しいんだけど!」その友人はちょうど高杉グループで働いている人物だった。「あなた、仕事しないの?」綿は視線をスマホから外し、輝明に尋ねた。「少し休んでる。年明けから復帰する」輝明は平然と答えた。綿は眉を上げた。三ヶ月間という期限を設けた理由が、会社にも行かないからなのだとようやく理解した。「輝明。そんなことしてて、あなたを潰そうとしている人たちがこの隙に高杉グループを攻撃したらどうするの?」彼女が問い詰めると、輝明は鼻で笑い、会社の話題になった途端、態度が自信に満ちたものに変わった。「簡単に潰されるようなら、高杉グループなんて名乗る価値はない。ただの豆腐会社だ」冷ややかな皮肉を込めた口調だった。「どうしてそう思うのか?」彼が聞き返す。「友達が、高杉グループで代行してる森下のやり方がかなり厳しいってSNSに書いてた」輝明は少し笑みを浮かべた。森下なら安心だ、と改めて確信したのだ。窓の外では風が唸りを上げている。二人は会話を続けていた。いつもなら噛み合わない二人の会話も、このときばかりは穏やかな空気が漂っていた。綿はしばらくスマホをいじっていたが、ふと輝明がまだ食べ終わっていないことに気づいた。「早く食べなさい」彼女は溜息をついた。輝明がわざとゆっくり食べているのを分かっていたが、彼女自身はすでに飽きてしまい、早く休みたいと思っていた。輝明は「分かった」と答え、これ以上引き延ばすのをやめてラーメンを食べ終えた。綿は空になったどんぶりをキ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0819話

    綿は輝明がそんなことを言うとは思ってもいなかった。三ヶ月、それは決して短くない時間だ。「三ヶ月後、もう私にまとわりつかないって、どうやって信じればいいの?」綿は苦笑した。彼にそんなことができるのだろうか?前日に言ったことを翌日にはひっくり返すような人間だ。そんな彼をどう信用すればいい? 「綿、俺が君の前でそんなに信用できない男だって言うのか?」輝明は歯を食いしばりながら、不満げな口調でそう言った。綿は答えなかった。彼が下を向くと、かすかな声でつぶやいた。「胃が痛い。これ以上、言うこともない」言うべきことはもう言い尽くした。やるべきこともやった。これから先の選択はすべて綿に委ねられる。輝明は身を翻し、ダイニングへと向かった。テーブルの上のラーメンはとっくにのびていた。結局、彼は綿が作った食事を一度も口にすることができなかった。一杯のラーメンですら。輝明は席に着き、箸を手にしてラーメンをかき回した。綿は彼を見つめ、その視線には複雑な思いが浮かんでいた。三ヶ月…… 輝明は顔を上げ、彼女を見た。その目は相変わらず赤く充血し、苦痛を隠しきれない様子だった。胃の痛みは確かに辛いものだ。さらに酒を飲んでいるせいで、頭痛も酷いのだろう。綿の心は揺れていた。まるで人生の分岐点に立たされたような気分だった。どちらの道を選べばいいのか分からない。左に進めば、二人の関係は完全には終わらない。輝明はきっとまとわりついてくるだろう。右に進めば、三ヶ月という期限付きで、彼が成功すれば彼女は彼のものになる。失敗すれば、二人は永遠に縁を切ることになる。綿は眉をひそめた。左に進む気はない。しかし右の道にも不安がある。彼はラーメンを一口食べた。冷めきってはいなかったが、食べても決して美味しいとは感じられなかった。広い屋敷の中で、二人の存在はあまりに小さく感じられた。ラーメンの香りだけがわずかに温もりを残している。綿は彼が座る姿を見つめ、胸が少しだけ震えた。この光景は、かつて彼女が何度も思い描いた理想だった。彼が外で仕事を終え、酔って帰ってきたら、どんなに遅くても彼のために一杯のラーメンを作ってあげたい。温かいものを食べて、彼の胃を少しでも楽にしてあげたいと。綿はうつむいた。傾いていた天秤が、次第にバランスを失

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0818話

    彼がまるで綿を一度も理解したことがないかのように見えた。綿は俯いて涙を流し、何も言おうとしなかった。「どうすれば乗り越えられるか、教えてくれないか?うん?」輝明は彼女の手首を掴み、綿を壁際に押し付けた。まるで今日こそは答えを聞き出すと決めているかのようだった。彼はできることは全てやった。謝罪もしたが、無駄だった。仕事の送り迎えを申し出ても拒否された。花を贈っても、彼女は一瞥もくれずに捨てた。彼がわざと近づこうとすれば、彼女はますます遠ざかった。彼女の態度ははっきりと伝えていた――もし誰かが本当に離れようとしているなら、どんな努力も無駄なのだと。「綿。これ以上自分を苦しめるのはやめよう。君は俺を愛してる」彼は一歩前に出て、彼女の頬に手を添えた。彼女はまだ自分を愛している。本当だ。彼女が見せている「愛していない」態度は、すべて作り物だ。7年間の想いが、簡単に消えるはずがない。輝明の眉間には深い皺が刻まれ、喉が上下に動き、瞳には涙が浮かんでいた。彼は綿の前で涙を見せたことなど一度もなかった。しかし今日はどうしてもこらえきれなかった。「頼む……綿、もうお互いを苦しめるのはやめよう」綿は彼の瞳を見つめ、心が揺れた。輝明は頭を垂れ、そっと綿の肩に寄りかかった。彼の呼吸はますます荒くなり、胸に渦巻く痛みが彼を飲み込もうとしていた。外では冷たい風が吹きすさびる。だが、冷え切っていた二人の心が少しずつ熱を帯びていく。綿は唇を噛み締め、遠くの壁に掛けられたぎこちない夕陽の絵画を見つめた。それを見た瞬間、彼女は堪えきれなくなった。その絵が、まるで彼女の心を突き刺すかのようだった。それはまるで告げているかのようだった。「あなたがこんなふうに泣き崩れる男をかつてどれほど愛していたのか」と。彼女は彼を愛していた。本当に愛していた。彼が望むなら、何だってしてあげられるほどに。もしあの3年間に嬌がいなかったら――たとえ彼が彼女を完全に無視していたとしても、綿はその結婚生活を守るために戦い続けていただろう。綿は認めざるを得なかった。彼女は輝明には抗えない。しかし彼女はまた認めざるを得なかった。彼から受けた傷は決して忘れられないのだと。その痛みはあまりにも深かった。彼が彼女を

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