Share

第2話

Author: 似水
あの時に聞こえた彼の声は、音楽と混ざり合っていて、それほど鮮明ではなかった。

それなのに、今の彼の低い声は里香の頭の上で鳴り響いている。その鮮明で心に響く声に、里香は息を呑むほど胸が痛んだ。

雅之は話せるようになったが、彼はすぐにこのことを伝えてくれるどころか、離婚を切り出そうとしている。

それは本当なのだろうか。

なぜそんなことを言うのだろう。

どうして離婚なんて言い出すの?

そう質問したい気持ちでいっぱいだったが、我慢した。

どうして離婚しなければならないのか。

この1年間、彼に対して悪いことをした覚えは一度もないのに、離婚を切り出されるのなら、せめて理由を知りたい。

心は冷たく感じるが、彼の体温に恋しい里香は、もっと強く夫の体を抱きしめた。

「ええ、誰かと話しているのが聞こえたけど、何を話していたかはわからなかった。本当に素敵だったよ、まさくんの声」

そう言いながら、彼の背中にキスをした。

まさくん。

その呼び方は、二人だけのプライベートな時に使う特別なものだ。

そう呼ばれるたびに、雅之はさらに情熱的に応えてくれる。

しかし、今夜は違った。里香は押し戻されてしまった。

「疲れた」と雅之が言った。

里香は顔を青ざめ、夫の立派な背中を見つめながら、突然怒りが湧き上がってきた。「だから欲しいって言ってるの。雅之は私の夫でしょう?夫としての責任をちゃんと果たすべきじゃないの?」

疲れたと言っていたが、まさか他の女と寝たからではないだろうね?

今すぐ確認しなければ!

突然強気になった里香に驚いたのか、里香の柔らかい指が体中を這うと、雅之の息はますます荒くなっていった。

体は正直なもので、この男はいつも里香の誘惑に弱い。

黒い瞳の中に暗い色がちらりと光り、雅之は里香の顎をつかみ、唇を奪った。

里香は無意識のうちに目を閉じ、まつ毛をかすかに震わせた。さっきの香水の匂い以外に、彼の身体からは他の匂いはしなくなっていた。

里香は緊張した体をリラックスさせ、すぐに浴室の温度が上がった。

彼の熱い体が彼女を包み込み、肩にキスを落とし、低く囁いた。

「里香ちゃん、僕は...」

里香は夫の言葉を遮るように、「もう疲れちゃった、寝るわ」と言って手を伸ばして照明を消した。

何を言おうとしているのか?

離婚したいとか?

そんなの頷くわけないでしょ!

1年間もかかって、誰よりも早く雅之に惚れてしまったのに、雅之が話せるようになった途端に離婚なんて、そんなの誰が許せるものか!

そんなひどいことを許せない!

暗闇の中で、里香の横顔を見つめ、雅之はため息をつきながら彼女を抱きしめて深い眠りについた。

翌日。

里香が目を覚ましたとき、雅之はそばにいなかった。パニックになった里香は急いでベッドから飛び出し、周りを探し始めた。

彼らの住んでいる家は小さな2LDKであり、彼女が一生懸命働いて得たお金で買ったものだ。彼と結婚してから、この家も暖かくなってきた。

里香は、これからも雅之と幸せに暮らしていけると信じていた。彼はとても優秀で、何をやっても一度学べばすぐにできる。いつか必ず大金を稼いで大きな家に住むように頑張りましょうと言った里香に、雅之は真剣に頷いて約束してくれた。

約束も果たせず、彼を手放すわけにはいかない!

部屋の中でむやみに探し回り、里香の顔がますます青くなった時、ドアが開き、雅之が朝食を持って入ってきた。

雅之の姿を見た瞬間、里香はすぐに駆け寄り、彼が逃げることを恐れるかのように、ぎゅっと抱きしめた。

「何が起こったのか?」雅之は驚いたように問いかけた。

里香は顔を上げ、夫の漆黒の瞳を見つめた。

「ずっと一緒にいてくれるよね、そうだよね?」

雅之は黙り込んだ。

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Related chapters

  • 離婚後、恋の始まり   第3話

    里香は彼を見て、「なんか言ってよ!」と話しかけると、雅之は「まずご飯を」としか言わず、里香を押しのけてテーブルに向かい、朝食を置いた。里香の心がさらに沈んでいった。夫の背中を見つめる目には絶望が満ちていた。離婚を言い出そうとした夫を止めたが、雅之の態度は明らかだった。雅之は彼女を遠ざけ、偽りの約束すらもしてくれなかった。昔の彼はこんなじゃなかったのに!あの頃の雅之はいつも里香の後ろをついて、彼女の行くところならどこへでもついて行き、どうしても離れなかった。その後、里香は雅之を引き取ることを決め、手話の読み方と学び方を教え始めた。雅之が自分を見つめる目は、ますます熱を帯びていった。里香が何をしても、雅之の目線は必ず彼女に向けられていた。まるで、彼女は彼の全世界のようだった。「まだおはようのキスをもらってないよ」里香は歩み寄って言い出した。これは二人が付き合った後の約束だった。「まず朝食を食べて、あとで話したい事があるんだ」雅之は豆乳を里香の前に押し出した。里香はこぶしを握り締めた。「食べないなら、何も言わないつもりなの?」雅之は黒い瞳で里香を見つめていた。「もう聞いたんだろう」昨日クラブの個室での話なのだろう。里香は目を閉じて、「どうして?」と聞いた。何度も何度も耐えてきたとしても、全てが明らかになった今、もう自分を欺くことができなかった。雅之は、「彼女が大切だから、ちゃんと責任をとらなきゃ」と答えた。「じゃ、わたしは?」雅之に視線を向け、里香は無理矢理に笑った。「この一年間は何なんだ」何かを思いついたかのように、里香は雅之の前に歩み寄った。「記憶、取り戻したんだろう? 自分が誰なのかを」「そうだよ」雅之は頷いた。「里香ちゃん、この一年間そばにいてくれてありがとう。ちゃんと償うから、欲しいものがあったら何でも言っていい。全部満足してあげる」「離婚したくない」里香は雅之を見つめて、はっきりと言葉を発した。雅之の男前の顔には冷たさを浮かべていた。「離婚しないといけない」一瞬、雅之からは有無を言わせないような冷たい雰囲気が漂っていた。こんな雅之の顔、これまで見たことがなかった。里香は雅之と目を合わせながら、手のひらに爪を立てた。「無理だよ」償うだと

  • 離婚後、恋の始まり   第4話

    オフィスに自分の席に着いたとたん、同僚が近づいてきた。「ねえ、聞いた?うちが買収されるって話だよ。買収するのは失踪していた二宮家の三代目若旦那で、名前は二宮雅之っていうらしいよ」里香は固まった。「何だって?」「二宮雅之さんだよ。写真を見たわよ、超イケメンだったわ。一年くらい姿を消していて、最近になって二宮家に戻ってきたみたい。戻ってきてからは、すぐに支店の大規模な改革に取り掛かっているの。それで、うちの会社も買収されたわけよ。あら、こんなイケメンの上司が現れるなんて、まるで夢みたい」里香はスマホを取り出すと、トップニュースで一年間行方不明だった二宮家の三男、二宮雅之が帰ってきたと報じられていた。写真に写っている男性は黒いスーツを着こなし、短く切りそろえた髪型、ハンサムな顔立ち、鋭い目つき、そして冷たさと凛々しさを兼ね備えた気質が溢れ出ている。まさか、雅之が冬木市の大富豪、二宮家の御曹司だったなんて。里香は一瞬、言葉にできないほどの感情で胸が満たされた。皮肉しか思えなかった。夫が大きな部屋を買える御曹司なのだから、喜ぶべきだったのに、夫から離婚を切り出されたばかりの彼女には、喜ぶ余裕などなかった。他の女のために、責任を取るなんて。冗談じゃない!里香はスマホを強く握り締め、目には涙が溢れた。「会議だ。全員、大会議室で集合しろ」マネージャーが姿を現し、大きな声で指示した後、全員が手帳を持って大会議室へ向かった。500人を収容できる巨大な会議室は少し騒がしかったが、誰かが手を叩く音と共に、徐々に静けさが訪れた。「二宮社長のご登場です。皆さん、社長を大いに歓迎しましょう!」マネジャーが興奮気味に言葉を投げかけたその時、会議室のドアが開き、黒いスーツを身にまとった上品な男性が颯爽と入室した。後ろの席に座っていた里香は、まるで生まれ変わったかのように変貌したあの男を見て、まったく知らない誰かを眺めているような気がした。男は冷たい目つきで、温度を感じさせないほどの低い声で話した。入社したばかりなのに、早速頭がくらくらするほどの様々な命令を出した。三時間以上続いた会議が終わり、社員たちが次々と会議室から出ると、里香も立ち上がって会議室を出ようとした。男を無視することにした。「ちょっと待った」そ

  • 離婚後、恋の始まり   第5話

    雅之は自分のことを何だと思っているの?心臓が引き裂かれるように痛くなり、息も苦しくなった。里香の目に涙が浮かんでいるのを見て、雅之は目が暗くなったが、表情が一層冷たくなった。「僕には事情があるんだ。君を守るために、あえて言わないようにしただけ」「ふう」里香は冷たく笑い、涙を我慢しながら、口調も冷たくなった。「言っとくけど、私、離婚なんて絶対しないから、諦めろ」里香は振り返ってそのまま立ち去った。「クビになりたくはないだろう?」後ろから、男の冷たい声が伝わってきた。「家族もいなし、ようやくこの町で暮らせるようになった君にとっては、この仕事はかなり重要なはずだ」里香はムカッとして彼に視線を向けた。「何をするつもり?」「離婚届にサインしてくれたら、前回の約束をきちんと守るから」これは、れっきとした脅しだ。里香は怒りで手が震えていた。もし二人の距離が近かったら、彼の顔を殴りたかっただろう。「二宮雅之、恥を知れ!」どうしてあっという間にこうなったのか?それとも、雅之がもともとそんなに冷たい人で、これまではただの偽りだったのだろうか?雅之はさりげなくハンカチを取り出し、彼女のそばへ近寄り、優しく彼女の目尻の涙を拭き取った。里香はぱっと彼の手を叩き落し、悔しさが満ちていた目で雅之を睨んだ。「できるものならやってみろ!」離婚だと?そんなのありえない!里香は踵を返して立ち去り、オフィスを出る頃にはもう落ち着きを取り戻した。雅之は上げた手を凍りつかせ、ハンサムな顔を引き締めた。そして手を伸ばし、デスクのインターホンを押した。「人事部に繋がって…」言葉の途中で、里香が辛抱強く彼に手話と識字を教えてくれた光景が頭に浮かんだ。すると話が詰まった。「社長、何でございましょう?」秘書の用心深い声がインターホンから聞こえた。「何でもない」雅之は少しイライラした様子で電話を切った。…社長に呼び出されてどうしたのと同僚に聞かれたが、里香は笑顔でごまかした。席に戻ると、次に何をすべきかとじっくり考え始めた。もし雅之に離婚を迫られたら、二人の関係を公表し、雅之が自分の夫であることをみんなに知らせて大騒ぎするつもりだ。そうすれば、離婚は成立しないはずだ。里香は呆然としたまま、何を考

  • 離婚後、恋の始まり   第6話

    その女の子は、あの日、クラブの個室で雅之にいつ離婚するのかと聞いた子だった。あの子は親しく雅之の腕を組んでいた。雅之は潔癖のたちだった。拾われた当初の彼はほとんど記憶を失っていたが、本能的な記憶の一部は残っていた。周囲に慣れた後、雅之は里香の家を隅から隅まできれいに片付けるようになった。雅之は人からのものをほとんど受け取らず、屋台のものも食べず、時折普通の人間にはない気質も示した。しかし今、彼は親しい姿で少女に腕を組まれていた。つまり、離婚せずにその子との関係を続けたいと言いたいのか?里香は服を強く握り締め、心臓がきりきり痛み、涙がこぼれそうになった。どうしてそんなひどいことができるの?自分が選んだネックレスを他の女にあげるなんて!里香はスマホを取り出し、雅之に電話をかけたが、かけた瞬間に切られてしまった。ムッとした里香は、再び電話をかけ直した。里香は繋がるまでかけ続けた。「何の用だ?」雅之の口調はとても冷たかった。里香はスマホをしっかりと握りしめていた。電話はつながったものの、何から問いかけたらいいのかわからなかった。雅之の気持ちはすでに行動に表れていたし、質問する必要はなかったのだろう。「気分が悪い…」魔が差したようにかすれた声を発した後、電話を切った。里香はスマホを握りしめ、時計を見つめた。昔であれば、里香が体調を崩していると聞けば、すぐに駆けつけていたことだろう。言葉を話せないため、里香に伝える手話さえも乱れが生じてしまう。里香を心配する姿は、決して偽りのないものだった。時間はゆっくりと過ぎていた。一時間経っても、ニ時間経っても、玄関には人影が見えなかった。里香は胸が痛くなり、目を閉じた。もう本当に自分のことを気にかけてくれなくなったんだね。里香はソファで丸くなり、まるで傷を舐めている獣のように自分の体を強く抱きしめた。そうすれば心の痛みも和らぐかもしれないと思ったからだ。うとうととしていたら、誰かに抱き上げられたような感じがした。里香はぽかんとして、はっと目を開けた。雅之の端正な顔が視界に入ると、涙があふれてきた。「まさくん、お帰り」雅之は里香を抱きしめたまま寝室へ戻り、ベッドに寝かせた後、涙で濡れた里香の顔をじっと見つめていた。雅之はその涙を拭

  • 離婚後、恋の始まり   第7話

    パシッ里香は雅之の顔を平手打ちした。「潔く別れよって?浮気したクズ男に言われたくないよね」殴られたとは思わなかったのだろ、雅之の瞳孔が一瞬収縮した。大切に育てられてきた彼はこのような扱いを受けたことが一度もなかった。雅之は舌先を動きながら里香の手首をつかみ、そのまま彼女をベッドに押し付けた。「甘やかしすぎた僕が悪かった」雅之の目には温度が感じられず、重苦しい圧迫感が体を包み込み、里香を強く圧倒した。里香は凍りつくような恐怖を心から感じた。雅之は二宮家の御曹司であり、幼い頃から栄華を極めた生活を送ってきたのに。自分はその事実を忘れかけていたところだった。こんな扱いを受けたことがない彼は怒ったに違いない。しかし、雅之は自分の夫でもあった!浮気したのは彼だったのに。里香は恐怖を抑え、平然とした顔で、赤く染まった目で彼をにらんでいた。「まさくんには確かに甘やかされていた。でも、二宮家のお坊ちゃんであるあなたが私を甘やかすなんて、その話、変だと思わない?」雅之の目には冷たいものが隠されていた。「そんな姿、全くかわいくないけど」雅之は里香から手を離し、立ち上がった。見下したような視線を落とし、すぐ背を向けた。里香怒りで激しく胸を上下した。かわいくないって?笑わせるな!昨夜までこのベッドで愛し合っていたのに、今日は「かわいくない」と言われるなんて。あの子に会ったせいか?悔しさが心の中で溢れ、里香は立ち上がり駆け寄って雅之を抱きしめた。「行かないで、雅之!私たちはまだ離婚していないんだから、この家を出るなんて許さないわ!」「頭のおかしい女がいるこの家に?」雅之は冷たく鼻を鳴らした。二人が結婚して半年が経つので、里香はもちろん雅之を惹きつける方法を心得ていた。彼女の柔らかな指は、すぐに雅之の服の中に滑り込み、鍛えられた腹筋をなでた。雅之は息をのみ、里香の手首を握りしめた。「何してる」里香は雅之の目の前に歩み寄った。「かわいくないって言っただろう?雅之、立場をわきまえてから発言した方がいいよ」男の陰鬱な顔色を見て、里香は挑発的に微笑んだ。「その子のために貞操を守りたいとでも言いたいの?でも、私たちはまだ離婚していないわ。だから、あなたには妻の欲望を満たす義務があるのよ」里香はそう

  • 離婚後、恋の始まり   第8話

    里香は「不満があってもいいですか」と桜井に目を向けて聞くと、桜井は微笑みながら「だめです」と答えた。里香は目を白黒させ書類を受け取り、雅之のオフィスに向かった。桜井はそれを止めたくても止められなかった。里香はドアを押し開け、まっすぐオフィスの中に入った。雅之はすらりとした姿でフレンチドアの前で電話をしていた。後ろからの声に、彼はちらりと振り返り、眉を寄せた。「じゃ、これで」雅之はそう言って電話を切った。「勝手に入るな」雅之は冷たい目で里香を見つめ、口調も冷たくなった。里香は書類をテーブルの上にバンと置いた。「わざとやったんでしょう」雅之は書類をちらりと見て、「これも君の仕事だろう?やりたくなければ、さっさと辞めたらいい。君の代わりはいくらでもいるんだ」と冷たく言った。怒りが湧き上がってきた。このクズ男は間違いなくわざとやったんだ!昨夜殴られた仕返しだ!だから、激しく抱きしめた里香を翌日、工事現場に行かせた。憤慨しながら何も言えない里香を見て、雅之の暗い気分はなんとなく良くなった。「出て行って、次にノックを忘れずに」それだけを言い残し、雅之は視線を手元の仕事に戻した。里香は雅之をじっと見つめ、両手をテーブルにつきながら上半身を前に傾け、彼に近づいて「いいわ。でも次もね、私の許可なしには抱けないのよ」と囁いた。その言葉を残して、里香は書類を手に立ち去った。雅之は絶句した。こいつは何バカなことを言ったんだ。誘ったのはそっちだろう。そうでなければ、里香を抱くはずがない。せっかく良くなった気持ちが一瞬暗くなった。…里香が担当している商業ビルのプロジェクトは、現在工事中だった。里香は車から降り、デコボコした路面を見て、顔をしかめた。前に向かって歩いていると、遠くないところに、戸惑ったようなおばあさんがコンクリートに座っているのが見えた。何人かの人がおばあさんとすれ違ったが、当たり屋ではないかと疑ったのか、誰もおばあさんに近寄らなかった。里香はおばあさんをじっくりと観察していた。おばあさんは洗練された装いで、手首には翡翠のブレスレットを着けていたため、決して当たり屋には見えなかった。少し考えた後、里香はおばあさんのそばに寄って尋ねてみた。「おばあちゃん、どうされまし

  • 離婚後、恋の始まり   第9話

    里香は笑いを抑えながら録画した後、120番通報した。救急車はすぐに到着した。救急車の中で、里香はメモに書いてある連絡先に電話をかけた。おばあさんが道に迷って怪我をしたという知らせを聞いたら、相手は「すぐに向かいますので、到着するまで少しの間、彼女のそばにいてあげてください」と返信してくれた。里香はわかったと答えた。電話を切ると、二宮奥様はすぐ雅之に電話をかけた。「もしもし?」雅之の冷たい声が電話の向こうから聞こえてきた。「おばあさんが道に迷って、今は病院にいるんだけど、雅之は近くにいるよね?おばあさんの様子を見に行ってくれない?私もすぐにそちらに着くから」雅之は眉をひそめた。「どういうことだ?」「詳しいことはわからないの、いいから早く行って」「分かった」雅之は電話を切ると、立ち上がって病院に向かった。病院の中で、足を検査した結果、おばあさんは軽い骨折をしており、治療のため入院が必要であることが判明した。おばあさんは里香の手をしっかりと握り、年老いた顔に苦しげな表情を浮かべて言った。「孫の嫁さん、足が痛いのよ」里香は少し困った顔で「おばあちゃん、私はあなたの孫の嫁じゃありませんよ」と答えると、おばあさんは子供のように頑固に言い張っていた。「いや、あなたのことだよ。何と言われようと、あなたは私の孫嫁なんだから!」「はい、はい、とりあえず落ち着いてくださいね」おばあさんが興奮し過ぎて体調を崩さないように、里香は急いで落ち着かせようとした。おばあさんが微笑んだ。「どうして私のところに来てくれないの?あの薄情な孫と同じだね。誰も、私に会いに来てくれないの!」里香は微笑んで何も言わなかった。ちょうどその時、病室のドアが開かれ、二人は同時にドアのほうに目を向けた。相手を見ると、里香は目を丸くした。二宮雅之!何で彼はここにいたか?「なぜここに?」雅之は里香を見て眉をひそめた。里香が何か言い出す前に、おばあさんは厳しい表情で雅之を叱りつけた。「雅之、言葉遣いには気をつけなさい!嫁を大切にするのよ!脅かしてはいけないわ!彼女に謝りなさい」二宮雅之「…」このおばあさんが雅之のおばあちゃんだったなんて!里香は「ざまあみろ」と言いたげな視線を雅之に投げかけ、彼の謝罪を待っていた。二人の

  • 離婚後、恋の始まり   第10話

    そんなこと、こちらが聞きたいくらいだよ!説明しようとしたけれど、雅之の冷たい瞳に見つめられると、里香はふと気づいた。どれだけ説明しても、雅之が信じてはくれないということを。信じられない。記憶を取り戻すだけで、どうして人はこれほどまでに変わるのだろう?それとも、これまで彼女が知っていた雅之は、本当の彼ではなかったのだろうか?「痛い!」手首が痛むのを感じて、里香は眉をひそめた。ほとんど無意識に、雅之は彼女の手を離した。里香の肌は白く、少し力を加えると跡がついてしまう。実際、彼女の手首には指の跡がいくつか残っていた。このような指の跡は、これまでよく里香の腰についていたものだ。雅之の瞳の色が少し暗くなった。「僕は過去の一年間の恩義に免じて、君に手を出すことなく耐えてきたんだ。これ以上追い詰めないでほしい」「それで?何するつもりなの?」里香は澄み切った瞳で彼を睨みつけた。「私を殺す気?できるもんなら、やってみろよ!」里香の目にうるんだ涙の輝きと頑固さを見て、雅之は突然胸が痛くなった。病室のドア前には、緊迫した空気が漂っていた。里香はニヤリと笑って口角を上げた。「雅之、私たちは離婚しないわ。おばあちゃんは私のことを孫の嫁としか見ていないから、私たちを引き裂けるものなんていないのよ!」雅之は全身から寒気を発しながら里香に近づいてきた。里香はすぐさま後ずさり、「何するつもり?殴るの?そんなことしたら、おばあちゃんに言いつけるからね!」と警告した。二宮雅之は呆れた顔で絶句した。この女が何を考えているのか理解できなかった。離婚なんて悪いことでもないのに。彼女が望む条件であれば、何でも満たしてあげるつもりだったのに。雅之はイライラしていたが、このイライラが里香が離婚を拒否したからだけではないことを彼は知っていた。「雅之」その時、廊下の先に一人の美しい中年の女性が現れた。その女性は雅之の継母である由紀子だった。二人に近づいてきた由紀子は、里香の顔を見るなり驚いた表情を浮かべ、「あなたが雅之さんの奥さん、小松里香さんですよね?」と尋ねた。里香は「私のことをご存知ですか?」と驚いた。由紀子は優しく微笑みながら、「雅之を見つけた時、あなたと雅之が一緒にスーパーを歩いているのを目撃しましたよ。二人の仲の

Latest chapter

  • 離婚後、恋の始まり   第843話

    「私が雅之を気にしようがしまいが、あんたに関係ある?顔も見せず、まともに声すら出せない卑怯者が、何を企んでるの?」視界は真っ暗。完全に拘束され、身動きすら取れない。今の里香にできるのは、言葉で相手を挑発することだけだった。こいつの正体も目的もわからない。どうしようもない状況だ!怒りの叫びを上げると、手首を締めつける力が強まった。骨が砕けるような錯覚すら覚えるほどに。息を荒げながら、薄く笑った。「私を捕まえた理由は何?雅之を牽制して脅すつもり?もう誘拐と監禁までしてるんだから、隠す必要なんてないでしょ?」相手の神経を逆撫でしながら、少しでも情報を引き出そうと試みた。「お前を使って雅之を牽制するつもりはない」電子音が響く。相変わらず感情の起伏は感じられない。雅之を牽制するつもりはない?じゃあ、一体何のために……?「ただ、聞きたいだけだ。雅之を、まだ気にしているか?」また、機械的な声が落ちた。「気にしてない!」冷たく言い放つと、手首を押さえる力がわずかに緩んだ。それでも眉間の皺は、消えない。しばらくの沈黙の後、相手はゆっくりと身を引き、すぐそばに立つと告げた。「ちゃんと食事をしろ。でなければ、本当に杏に手を出す」「杏のことを気にしないと言うが、巻き込んだのはお前だ。杏は何も関係のない人間だぞ。虐待される彼女を、黙って見ていられるのか?」それだけ言い残し、足音が遠ざかった。ドアが閉まる音が響いた。息を詰め、そっと身体を起こした。顔色が悪い。自分でもわかるほど、青白いはずだ。確かに、杏が巻き込まれるのは耐えられない。だが、それ以上に気になるのは――この男、一体何者なのか?時間が経ち、陽子が食事を運んできた。今度は拒まず、ゆっくりと箸を取った。杏のことを考える以前に、まずは体力を維持しなければならない。いつでも逃げられるように。だが、見えない状況で、本当に逃げられるのか?ほんの一瞬、苦い思いが胸をかすめた。陽子は食事を口に運ぶ様子を確認すると、ホッとしたようにスマホを取り出し、写真を撮って主人に送った。食欲はなかった。半分ほど食べたところで、里香は箸を置いた。陽子は静かに食器を片付け、そのまま部屋を出ていった。里香はソファに腰を落とし、じっと考え込む。

  • 離婚後、恋の始まり   第842話

    どれくらい時間が経ったのか、わからない。里香は再びドアが開く音を聞いた。床に座り込んだまま、微動だにしない。足音が近づき、すぐ目の前で止まる。鋭い視線が降り注いでいるのを感じた。陽子ではない。掠れた声で問いかける。「誰?」返事の代わりに、電子音が響いた。「君は夕飯を食べていない。杏も食べていない。君が水を飲まなければ、彼女も飲まない」息が詰まり、喉が震えた。「バカバカしい。そんなことで私を脅すつもり?今、一番後悔してるのは、彼女のために自分まで巻き込まれたことよ!」沈黙が落ちた。張り詰めた空気が、じわじわと肌に絡みついた。しばらくして、里香はゆっくりと立ち上がり、壁伝いに手探りを始めた。「何をするつもりだ?」電子音が問うと同時に、腕を強く掴まれた。「トイレに行くだけ」その手に支えられながら、足を進めた。出口に近づくと、ふと立ち止まり、静かに言う。「もし本当に善意があるなら、私の目を治して。それに……ここから解放して」相手は何も答えず、そっと手を離した。里香は小さく嘲笑すると、洗面所に入り、ドアをロックした。暗闇に慣れようと、慎重に手探りした。便器を見つけるまでにどれだけ時間がかかっただろうか。鏡も見えないが、自分の顔が青ざめているのはわかる。険しい表情のまま、唇を噛みしめた。どうしてこんなことになったの?あの男……誰なの?絶対に正体を暴いてやる。力を手に入れたら、必ず仕返ししてやる。洗面所を出るまで、約1時間かかった。室内に戻ると、再び手探りを始める。目の前の暗闇にはどうしても慣れない。ただ、恐怖だけが身体を締めつけていた。「杏がどうでもいいなら、雅之は?」唐突に、電子音が響く。体が硬直した。「何が言いたいの?」「君がまともに食事をとらないなら、雅之を狙わせる。二宮グループで彼を押さえつけ、安らかに過ごせないようにしてやる」胸が締めつけられる。唇を噛みしめ、小さく吐き捨てた。「好きにすれば?もう、私と彼は関係ない」相手は再び沈黙した。無視して、手探りを続けた。足がテーブルにぶつかった。上にあるものを触ると、船の模型だった。さらに下へ手を伸ばした、その時――「本当に、彼を気にしていないのか?」去ったと思った矢先、すぐ背後で電子音が響い

  • 離婚後、恋の始まり   第841話

    雅之はじっとかおるを見つめていた。まるで彼女が演技をしていないか確かめるように。「何見てるの?質問してるんだけど?」かおるは彼の沈黙が続くのを見て、二歩前へと踏み出した。必死に感情を押し殺していたが、それでも抑えきれない。もしまた里香を傷つけたのなら、命をかけてでも戦うつもりだった。月宮がそっと手を伸ばし、彼女を引き止めた。「いや、雅之が最近どんな態度だったか、君も見てきただろ?ネットの件で忙しくて、まるで駒のように動き続けてる。もう何日も里香と会ってないんだ。そんな状況で、どうやって彼女を傷つけたり悲しませたりできるっていうんだ?」かおるは充血した目で雅之をにらみつけた。「本当?」雅之は無言のまま煙草を灰皿に押し付け、掠れた声で尋ねた。「里香は君に……何か話してなかったか?どこかへ行くとか、そんなことを」かおるは一瞬、呆然とした。そうだ。どうして忘れていたんだろう?たしかに、里香はそんなことを言っていた。一緒にこの街を出ようって。けれど、里香の性格を考えれば、もし本当に出て行ったとしても、黙っていなくなるなんてありえない。必ず一言くらいは伝えてくれるはずだ。となると、これはただの家出なんかじゃない。誰かに連れ去られた?かおるはリビングを行ったり来たりしながら、必死に考えを巡らせた。「今、里香ちゃんが心を寄せているのは杏だけ……ってことは、誰かが杏を利用して罠に誘い込んだんじゃない?」そう言った瞬間、ハッとして手を叩いた。「その可能性が高い!相手はきっと何か条件を出して、里香ちゃんを納得させたんだ。それで……もし応じなければ杏に危害を加えるとでも言ったんじゃない?そうよ、脅されてたんだ!」雅之は深く目を伏せた。その方向は考えていなかった。なぜなら、里香は新と徹を自ら振り払い、変装までしてスマホを庭に残し、姿を消した。どう見ても、自発的に出て行ったようにしか思えなかった。だが、もし誰かが、そうするよう仕向けたとしたら?それなら、里香一人でここまで綿密に計画するはずがない。何より、かおるを置き去りにするなんて、彼女の性格からしてありえない。里香はきっと分かっていたはずだ。自分がいなくなれば、雅之がかおるを問い詰め、困らせることになると。その因果関係を悟った瞬間、雅之の表情はさらに

  • 離婚後、恋の始まり   第840話

    月宮は、その言葉を聞いて動きを止めた。「何のためにかおるを探そうとしてるんだ?」雅之の声は低く、冷え切っていた。「何も知らないなら、それが一番だ。だが、もし知っていたら……」月宮の口調も鋭くなった。「雅之、たとえかおるが何か知っていたとしても、手を出すのはやめろ。里香がどう思うかはともかく、まず俺が許さない」雅之はゆっくり目を閉じ、それから静かに言った。「かおるを連れてこい」そう言い終えると、一方的に通話を切った。今、唯一の望みは、かおるが彼女の行き先や事情を知っていること。もし何も分からないのなら、自分が何をしでかすか分からなかった。かおるは仕事中だった。スマホを肩と耳の間に挟みながら、キーボードを叩き続けた。「何?仕事中なんだけど」月宮の声が返ってくる。「少し時間取れないか?話がある」「今は無理。電話で済むなら聞くけど、直接会う話なら退勤後にして」上司にこき使われてクタクタのところに、勤務時間中の呼び出しなんて冗談じゃない。だが、次の言葉に指が止まった。「里香のことだ。それでも出られないか?」かおるはスマホを握り直し、声が鋭くなった。「どういう意味?里香に何があったの?」月宮が静かに答えた。「里香が姿を消した」「なっ!?」かおるは椅子を勢いよく引き、立ち上がった。バッグを掴むと、迷わずオフィスを飛び出した。「いつから!?どうしていなくなったの!?」歩きながら矢継ぎ早に問い詰めると、ちょうどその時、オフィスから上司が顔を出した。「おい、かおる!どこ行くつもりだ!?まだ勤務時間中だぞ!早退なんて許さないからな!いいか、勝手に抜けたら給料から差し引くぞ!」振り返りざま、きっぱりと言い放った。「どうぞご自由に。差し引いた分、好きに使って燃やせば?もう辞めるから!」唖然とする上司を無視し、エレベーターに飛び乗った。里香より大切なものなんて、あるわけない!仕事なんて、無くなったらまた探せばいい!電話の向こうで月宮が怪訝そうに尋ねた。「今の、何?」「どうでもいいわ!」息を整える間もなく、すぐに本題に戻る。「早く詳しく話して!里香、どうしていなくなったの!?」「俺も聞いたばかりだ。雅之がつけた護衛をわざと巻いて、変装して出て行ったらしい」

  • 離婚後、恋の始まり   第839話

    彼女のヒステリックな叫びにも、誰一人として応じる者はいなかった。頭がどうにかなりそうだった。騙された。そして今、杏の姿どころか、自分の手足すら思うように動かせず、挙句の果てに視界さえも奪われている。どうすればいい?これから、どうすれば……茫然、自失、自責、後悔。そんな負の感情が渦を巻き、心を押し潰していく。苦しさに耐えきれず、その場に崩れ落ちるように膝をつき、腕で自分の体を抱きしめた。全身が震え、止まらなかった。新と徹はショッピングモールを何周も回ったが、どこを探しても里香の姿は見つからなかった。胸騒ぎがした。何かあったに違いない。二人の直感は、そう告げていた。新はすぐに雅之へ報告し、徹は聡に連絡を入れた。監視システムをハッキングし、里香の行方を追うために。雅之の表情は険しく、目の前のモニターを睨みつけた。映し出されていたのは、里香が女性用トイレに入っていく姿。だが、十分も経たないうちに、中から出てきたのは、全身をすっぽりと覆った女だった。雅之の目が鋭く光った。「画面を切り替えろ。その女を追え」「了解」聡は即座に指を動かしながらも、心の中では思わず問いかけていた。里香……何をしてる?どうして、兄貴がつけた人間を巻こうとするんだ?どこへ行くつもりなんだ?映像は次々と切り替わり、女の姿を追い続ける。やがて彼女はモールを抜け、郊外へと向かっていった。聡が眉をひそめた。「ここから先、監視カメラの範囲外です。一時的に位置が把握できません」雅之が低く呟いた。「スマホにGPSを仕込んである」「えっ?」聡が驚いたように目を見開いた。「スマホに追跡機能を?バレたらどうするつもりだったんですか?」雅之は冷ややかな視線を向けた。「今、それを言うタイミングか?」「……っ、了解です」聡はすぐに切り替え、里香のスマホの位置を特定する作業に取りかかった。「いた!」画面を指差し、声を上げた。「ここです!」雅之はその座標を見据え、すぐさま命じた。「車を用意しろ」「すでに準備できてます、すぐに出発できます」桜井の返答とともに、数台の車が発進した。40分後、車はある小さな一軒家の前で停まった。桜井が部下を率いて突入し、しばらくして険しい表情で戻っ

  • 離婚後、恋の始まり   第838話

    里香の視界はずっと閉ざされたまま。頼れるのは、聞こえてくる音だけだった。何も見えない不安が、じわじわと心を沈めていく。相手は一言も発さず、その正体はまるで霧の中。なぜ、何も話さないのか?もし、それが自分に身元を知られたくないからだとしたら――相手は、自分の知っている誰かということになる。だとしたら、一体誰……?車が走る間、必死に考えを巡らせながら、何度も声をかけてみた。けれど、まるで存在を無視するかのように、相手は一切応じようとしなかった。次第に言葉を発する気力も尽き、やがて車は停まった。誰かに腕を掴まれ、外へと連れ出された。地面は平坦で、しばらく進むと、一瞬だけ石畳のような感触が足裏に伝わった。ここは、一体どこなの?どれほど時間が経ったのか分からない。ふいに、誰かが手首をそっと握った。「小松さん、これから私がお世話をします」落ち着いた、中年女性の声だった。「あなたは誰?ここはどこなの?」里香は、すかさず問い詰めた。「これからは、私のことを陽子とお呼びください。何か必要なことがあれば、遠慮なくおっしゃってください」だが、それ以上の問いには、一切答えようとしなかった。理不尽な沈黙に、押し寄せる無力感。「ねえ!もうここに来たんだから、黙ってないで!杏に会わせてくれるんじゃなかったの!?彼女はどこ!?」怒りが頂点に達し、思わず叫んだ。すると、唐突に耳元で電子音が響いた。「杏は無事だ。君がここで大人しくしている限り、彼女に危害は加えない」「ふざけないで!」怒りのままに、声のする方へ振り向き、叫んだ。「何が目的!?一体誰なの!?なんでこんなことをするの!?」しかし、返答はなく、代わりに足音だけが遠ざかっていく。行かせちゃダメ!このままじゃ、何も分からないままになってしまう。「待って!行かないで!」声の方向へ向かおうとするが、目隠しのせいで何も見えず、思うように動けない。その瞬間、陽子に腕をしっかりと掴まれた。「小松さん、お部屋にご案内します。ゆっくり休んでください」言うが早いか、強引にその場から連れ出された。「放して!離して!」必死に抵抗するが、手が縛られた状態ではどうすることもできない。階段を上がり、部屋へ入ると、陽子が口を開いた。「今から

  • 離婚後、恋の始まり   第837話

    ここ数日、雅之は毎日メッセージを送っていたが、杏の行方は依然として掴めなかった。里香もまた、眠れぬ夜を過ごしていた。動画の注目度は以前ほどではないものの、まだトレンドランキングに残っていた。その日、里香は書斎で図面を描いていた。突然、スマホの着信音が鳴り響く。画面を見ると、見知らぬ番号からの電話だった。一瞬迷ったものの、意を決して通話に出た。もしかしたら、裏で糸を引いている人物がついに動き出したのかもしれない、そんな予感がした。「もしもし、どちら様?」冷静を装いながら問いかけた。しかし、返ってきたのは電子音で加工された声。性別も、感情も読み取れない。「杏に会いたいか?今、私の手の中にいる」「誰なの?杏はどこにいるの?」「今から住所を送る。お前ひとりで来い。雅之には知らせるな。あの二人のボディーガードも連れてくるな。もし誰かにバレたらその場で杏を殺す。そして、すべて雅之の罪にしてやる。今も動画の話題はそこそこ続いてるだろ?こんなタイミングで『雅之が杏を虐待して死なせた』なんて話が流れたら、どうなると思う?」里香は勢いよく立ち上がった。「分かった、行く」相手はそれ以上何も言わず、通話を切る。すぐに、スマホにメッセージが届いた。送られてきたのは郊外の住所。市街地から外れた、人気のない場所だった。胸の奥で不安が渦巻く。雅之に話すべきか?でも、あの脅しが頭から離れない。杏を危険に晒すわけにはいかないし、雅之に殺人犯の汚名を着せることも絶対にできない。決意を固め、里香は最低限の荷物をまとめ、すぐに家を出た。まずはショッピングモールに立ち寄り、人ごみに紛れてトイレへ向かった。そこで服を着替え、帽子とマスクをつけ、顔を隠した。これなら、新や徹にも気づかれないはず。そのままレンタカーを借り、郊外へ向かった。目的地に着くと、そこには一軒家のような独立した建物があった。しばらく様子をうかがっていたが、意を決して中に入ることにした。「……誰かいますか?」慎重に足を踏み入れながら、声をかけた。家は二階建てで、異様なほど静まり返っていた。不気味な雰囲気が漂っている。里香は入り口に立ち、もう一度呼びかけた。「誰かいないの?」しかし、返事はない。これ以上深入りすべきではないかもしれな

  • 離婚後、恋の始まり   第836話

    喜多野夫人だけじゃない、エステティシャンまでいなくなった!?由紀子の顔色がさっと変わった。すぐに異変を察し、ベッドから降りて服を整えると、急いでドアへ向かう。しかし、鍵がかかってる。ドアノブを何度か回してみるが、びくともしない。険しい表情を浮かべながら、由紀子の脳裏にある考えがよぎる。まさか、姉さんが私を裏切った?雅之は一体どんな条件を提示したのか。妹を売るほどの価値がそこにあったというの?由紀子は深く息を吸い、一瞬で冷静さを取り戻す。そしてスマホを取り出し、とある番号にかけた。「今、美容院で閉じ込められてる……由美子が私を雅之に引き渡すつもりみたい。お願い、助けて」電話の向こうで何かを言われると、由紀子の肩からふっと力が抜けた。ベッドに戻って腰を下ろしたものの、その顔は決して穏やかではない。頼みの綱だった由美子が、まさか私を見放すなんて。なら、こちらも遠慮しない。やるなら、とことんやるまでよ。30分後。桜井が数人の部下を引き連れ、美容院へと到着した。リラックスエリアに座っていた喜多野夫人は、彼を見つけるなり立ち上がり、すっと手を差し出す。「こちらへどうぞ」桜井は軽く頷くと、一行はそのまま上階へと向かった。廊下を進みながら、喜多野夫人が問いかける。「これで……私の息子の居場所を教えてくれるのかしら?」桜井はふっと微笑んだ。「二宮夫人にお会いになれば、もちろんお教えしますよ」その言葉に、喜多野夫人はわずかに顔をしかめた。まあ、少し待つくらい問題ないわ。すぐに一行は個室の前へ到着し、喜多野夫人が扉を開けさせる。だが、彼女自身は中へは入らなかった。「中にいるわ」桜井が軽く手を振ると、護衛たちが部屋へ入っていく。しかし――「……誰もいません!」しばらくして戻ってきた護衛の報告に、場の空気が一瞬凍りついた。桜井はすぐさま喜多野夫人に目を向ける。「どういうことです?」喜多野夫人の顔色が、さっと青ざめた。「そんなはずがない!確かにここに連れてきたのよ。それに、ここで催眠作用のある香りを使わせたわ。彼女、いつ出たの!?」信じられない、という表情で部屋へ飛び込む。しかし、部屋には誰の姿もなかった。桜井は微笑を浮かべると、静かに言った。「喜多野夫人

  • 離婚後、恋の始まり   第835話

    喜多野夫人の表情が一瞬こわばり、由紀子が訪ねてきたときの言葉を思い出した。「あのとき、由紀子は『しばらくここにいさせてほしい。その間、誰が来ても会わないし、私を会わせないでほしい』と言っていた……」どうやら、雅之を避けているらしい。妹の性格はよく分かっている。きっと何かをして雅之を怒らせ、頼る場所がなくなってここへ来たのだろう。一瞬、迷いがよぎったが、すぐに平静を装い、淡々と言った。「伝えておくわ。でも、妹はずっと正光様の世話をしていて、心身ともに疲れているの。もう少し休ませてあげたいわ」そう言ってから、話題を変えた。「あなた、私の息子の居場所を知っていると言ったわね。今どこにいるの?」桜井は微笑みながら答えた。「由紀子さんが二宮家に戻ったとき、奥様も息子さんの居場所を知ることになりますよ」「私を脅しているの?」思わず机を叩いた。だが、桜井はまったく動じず、静かに言った。「とんでもない。奥様、誤解しないでください。私は他にも用事がありますので、ゆっくりお考えください」そう言い残し、席を立った。喜多野夫人は怒りで顔が青ざめるのを感じながら、すぐにスマホを取り出し、由紀子に電話をかけた。「お姉さん?どうしたの?」由紀子の落ち着いた声が聞こえてくる。「一体何をしたの?雅之の部下が私のところまで来たわよ!」「気にしなくていいわ。相手にしなければいいの。彼らも喜多野家には手を出せない」その言い方に、ますます苛立ちが募った。「だから、何をしたのか教えて!私にも心の準備が必要よ!」しかし、由紀子は冷静に言った。「お姉さん、私のことは放っておいて」喜多野夫人は思わず目を閉じ、深く息をついた。いつも妹の後始末をしてきたのに、何も話してくれない。それどころか、喜多野家に隠れ続け、戻ろうともしない。そして、息子の居場所を知っているのは雅之だけ。すべてが、あの私生児の手に落ちた。その事実を思うと、胸の奥から煮えたぎるような怒りがこみ上げた。絶対に息子を見つけ出し、喜多野家を取り戻してみせる!そう決意すると、すぐに別の番号を押した。「由紀子に伝えて。私が美容院に誘ったと」由紀子は、喜多野家に留まっていた。電話を切ると、表情が曇った。姉は、もう雅之と接触したようね。そうで

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status