里香は彼を見て、「なんか言ってよ!」と話しかけると、雅之は「まずご飯を」としか言わず、里香を押しのけてテーブルに向かい、朝食を置いた。里香の心がさらに沈んでいった。夫の背中を見つめる目には絶望が満ちていた。離婚を言い出そうとした夫を止めたが、雅之の態度は明らかだった。雅之は彼女を遠ざけ、偽りの約束すらもしてくれなかった。昔の彼はこんなじゃなかったのに!あの頃の雅之はいつも里香の後ろをついて、彼女の行くところならどこへでもついて行き、どうしても離れなかった。その後、里香は雅之を引き取ることを決め、手話の読み方と学び方を教え始めた。雅之が自分を見つめる目は、ますます熱を帯びていった。里香が何をしても、雅之の目線は必ず彼女に向けられていた。まるで、彼女は彼の全世界のようだった。「まだおはようのキスをもらってないよ」里香は歩み寄って言い出した。これは二人が付き合った後の約束だった。「まず朝食を食べて、あとで話したい事があるんだ」雅之は豆乳を里香の前に押し出した。里香はこぶしを握り締めた。「食べないなら、何も言わないつもりなの?」雅之は黒い瞳で里香を見つめていた。「もう聞いたんだろう」昨日クラブの個室での話なのだろう。里香は目を閉じて、「どうして?」と聞いた。何度も何度も耐えてきたとしても、全てが明らかになった今、もう自分を欺くことができなかった。雅之は、「彼女が大切だから、ちゃんと責任をとらなきゃ」と答えた。「じゃ、わたしは?」雅之に視線を向け、里香は無理矢理に笑った。「この一年間は何なんだ」何かを思いついたかのように、里香は雅之の前に歩み寄った。「記憶、取り戻したんだろう? 自分が誰なのかを」「そうだよ」雅之は頷いた。「里香ちゃん、この一年間そばにいてくれてありがとう。ちゃんと償うから、欲しいものがあったら何でも言っていい。全部満足してあげる」「離婚したくない」里香は雅之を見つめて、はっきりと言葉を発した。雅之の男前の顔には冷たさを浮かべていた。「離婚しないといけない」一瞬、雅之からは有無を言わせないような冷たい雰囲気が漂っていた。こんな雅之の顔、これまで見たことがなかった。里香は雅之と目を合わせながら、手のひらに爪を立てた。「無理だよ」償うだと
オフィスに自分の席に着いたとたん、同僚が近づいてきた。「ねえ、聞いた?うちが買収されるって話だよ。買収するのは失踪していた二宮家の三代目若旦那で、名前は二宮雅之っていうらしいよ」里香は固まった。「何だって?」「二宮雅之さんだよ。写真を見たわよ、超イケメンだったわ。一年くらい姿を消していて、最近になって二宮家に戻ってきたみたい。戻ってきてからは、すぐに支店の大規模な改革に取り掛かっているの。それで、うちの会社も買収されたわけよ。あら、こんなイケメンの上司が現れるなんて、まるで夢みたい」里香はスマホを取り出すと、トップニュースで一年間行方不明だった二宮家の三男、二宮雅之が帰ってきたと報じられていた。写真に写っている男性は黒いスーツを着こなし、短く切りそろえた髪型、ハンサムな顔立ち、鋭い目つき、そして冷たさと凛々しさを兼ね備えた気質が溢れ出ている。まさか、雅之が冬木市の大富豪、二宮家の御曹司だったなんて。里香は一瞬、言葉にできないほどの感情で胸が満たされた。皮肉しか思えなかった。夫が大きな部屋を買える御曹司なのだから、喜ぶべきだったのに、夫から離婚を切り出されたばかりの彼女には、喜ぶ余裕などなかった。他の女のために、責任を取るなんて。冗談じゃない!里香はスマホを強く握り締め、目には涙が溢れた。「会議だ。全員、大会議室で集合しろ」マネージャーが姿を現し、大きな声で指示した後、全員が手帳を持って大会議室へ向かった。500人を収容できる巨大な会議室は少し騒がしかったが、誰かが手を叩く音と共に、徐々に静けさが訪れた。「二宮社長のご登場です。皆さん、社長を大いに歓迎しましょう!」マネジャーが興奮気味に言葉を投げかけたその時、会議室のドアが開き、黒いスーツを身にまとった上品な男性が颯爽と入室した。後ろの席に座っていた里香は、まるで生まれ変わったかのように変貌したあの男を見て、まったく知らない誰かを眺めているような気がした。男は冷たい目つきで、温度を感じさせないほどの低い声で話した。入社したばかりなのに、早速頭がくらくらするほどの様々な命令を出した。三時間以上続いた会議が終わり、社員たちが次々と会議室から出ると、里香も立ち上がって会議室を出ようとした。男を無視することにした。「ちょっと待った」そ
雅之は自分のことを何だと思っているの?心臓が引き裂かれるように痛くなり、息も苦しくなった。里香の目に涙が浮かんでいるのを見て、雅之は目が暗くなったが、表情が一層冷たくなった。「僕には事情があるんだ。君を守るために、あえて言わないようにしただけ」「ふう」里香は冷たく笑い、涙を我慢しながら、口調も冷たくなった。「言っとくけど、私、離婚なんて絶対しないから、諦めろ」里香は振り返ってそのまま立ち去った。「クビになりたくはないだろう?」後ろから、男の冷たい声が伝わってきた。「家族もいなし、ようやくこの町で暮らせるようになった君にとっては、この仕事はかなり重要なはずだ」里香はムカッとして彼に視線を向けた。「何をするつもり?」「離婚届にサインしてくれたら、前回の約束をきちんと守るから」これは、れっきとした脅しだ。里香は怒りで手が震えていた。もし二人の距離が近かったら、彼の顔を殴りたかっただろう。「二宮雅之、恥を知れ!」どうしてあっという間にこうなったのか?それとも、雅之がもともとそんなに冷たい人で、これまではただの偽りだったのだろうか?雅之はさりげなくハンカチを取り出し、彼女のそばへ近寄り、優しく彼女の目尻の涙を拭き取った。里香はぱっと彼の手を叩き落し、悔しさが満ちていた目で雅之を睨んだ。「できるものならやってみろ!」離婚だと?そんなのありえない!里香は踵を返して立ち去り、オフィスを出る頃にはもう落ち着きを取り戻した。雅之は上げた手を凍りつかせ、ハンサムな顔を引き締めた。そして手を伸ばし、デスクのインターホンを押した。「人事部に繋がって…」言葉の途中で、里香が辛抱強く彼に手話と識字を教えてくれた光景が頭に浮かんだ。すると話が詰まった。「社長、何でございましょう?」秘書の用心深い声がインターホンから聞こえた。「何でもない」雅之は少しイライラした様子で電話を切った。…社長に呼び出されてどうしたのと同僚に聞かれたが、里香は笑顔でごまかした。席に戻ると、次に何をすべきかとじっくり考え始めた。もし雅之に離婚を迫られたら、二人の関係を公表し、雅之が自分の夫であることをみんなに知らせて大騒ぎするつもりだ。そうすれば、離婚は成立しないはずだ。里香は呆然としたまま、何を考
その女の子は、あの日、クラブの個室で雅之にいつ離婚するのかと聞いた子だった。あの子は親しく雅之の腕を組んでいた。雅之は潔癖のたちだった。拾われた当初の彼はほとんど記憶を失っていたが、本能的な記憶の一部は残っていた。周囲に慣れた後、雅之は里香の家を隅から隅まできれいに片付けるようになった。雅之は人からのものをほとんど受け取らず、屋台のものも食べず、時折普通の人間にはない気質も示した。しかし今、彼は親しい姿で少女に腕を組まれていた。つまり、離婚せずにその子との関係を続けたいと言いたいのか?里香は服を強く握り締め、心臓がきりきり痛み、涙がこぼれそうになった。どうしてそんなひどいことができるの?自分が選んだネックレスを他の女にあげるなんて!里香はスマホを取り出し、雅之に電話をかけたが、かけた瞬間に切られてしまった。ムッとした里香は、再び電話をかけ直した。里香は繋がるまでかけ続けた。「何の用だ?」雅之の口調はとても冷たかった。里香はスマホをしっかりと握りしめていた。電話はつながったものの、何から問いかけたらいいのかわからなかった。雅之の気持ちはすでに行動に表れていたし、質問する必要はなかったのだろう。「気分が悪い…」魔が差したようにかすれた声を発した後、電話を切った。里香はスマホを握りしめ、時計を見つめた。昔であれば、里香が体調を崩していると聞けば、すぐに駆けつけていたことだろう。言葉を話せないため、里香に伝える手話さえも乱れが生じてしまう。里香を心配する姿は、決して偽りのないものだった。時間はゆっくりと過ぎていた。一時間経っても、ニ時間経っても、玄関には人影が見えなかった。里香は胸が痛くなり、目を閉じた。もう本当に自分のことを気にかけてくれなくなったんだね。里香はソファで丸くなり、まるで傷を舐めている獣のように自分の体を強く抱きしめた。そうすれば心の痛みも和らぐかもしれないと思ったからだ。うとうととしていたら、誰かに抱き上げられたような感じがした。里香はぽかんとして、はっと目を開けた。雅之の端正な顔が視界に入ると、涙があふれてきた。「まさくん、お帰り」雅之は里香を抱きしめたまま寝室へ戻り、ベッドに寝かせた後、涙で濡れた里香の顔をじっと見つめていた。雅之はその涙を拭
パシッ里香は雅之の顔を平手打ちした。「潔く別れよって?浮気したクズ男に言われたくないよね」殴られたとは思わなかったのだろ、雅之の瞳孔が一瞬収縮した。大切に育てられてきた彼はこのような扱いを受けたことが一度もなかった。雅之は舌先を動きながら里香の手首をつかみ、そのまま彼女をベッドに押し付けた。「甘やかしすぎた僕が悪かった」雅之の目には温度が感じられず、重苦しい圧迫感が体を包み込み、里香を強く圧倒した。里香は凍りつくような恐怖を心から感じた。雅之は二宮家の御曹司であり、幼い頃から栄華を極めた生活を送ってきたのに。自分はその事実を忘れかけていたところだった。こんな扱いを受けたことがない彼は怒ったに違いない。しかし、雅之は自分の夫でもあった!浮気したのは彼だったのに。里香は恐怖を抑え、平然とした顔で、赤く染まった目で彼をにらんでいた。「まさくんには確かに甘やかされていた。でも、二宮家のお坊ちゃんであるあなたが私を甘やかすなんて、その話、変だと思わない?」雅之の目には冷たいものが隠されていた。「そんな姿、全くかわいくないけど」雅之は里香から手を離し、立ち上がった。見下したような視線を落とし、すぐ背を向けた。里香怒りで激しく胸を上下した。かわいくないって?笑わせるな!昨夜までこのベッドで愛し合っていたのに、今日は「かわいくない」と言われるなんて。あの子に会ったせいか?悔しさが心の中で溢れ、里香は立ち上がり駆け寄って雅之を抱きしめた。「行かないで、雅之!私たちはまだ離婚していないんだから、この家を出るなんて許さないわ!」「頭のおかしい女がいるこの家に?」雅之は冷たく鼻を鳴らした。二人が結婚して半年が経つので、里香はもちろん雅之を惹きつける方法を心得ていた。彼女の柔らかな指は、すぐに雅之の服の中に滑り込み、鍛えられた腹筋をなでた。雅之は息をのみ、里香の手首を握りしめた。「何してる」里香は雅之の目の前に歩み寄った。「かわいくないって言っただろう?雅之、立場をわきまえてから発言した方がいいよ」男の陰鬱な顔色を見て、里香は挑発的に微笑んだ。「その子のために貞操を守りたいとでも言いたいの?でも、私たちはまだ離婚していないわ。だから、あなたには妻の欲望を満たす義務があるのよ」里香はそう
里香は「不満があってもいいですか」と桜井に目を向けて聞くと、桜井は微笑みながら「だめです」と答えた。里香は目を白黒させ書類を受け取り、雅之のオフィスに向かった。桜井はそれを止めたくても止められなかった。里香はドアを押し開け、まっすぐオフィスの中に入った。雅之はすらりとした姿でフレンチドアの前で電話をしていた。後ろからの声に、彼はちらりと振り返り、眉を寄せた。「じゃ、これで」雅之はそう言って電話を切った。「勝手に入るな」雅之は冷たい目で里香を見つめ、口調も冷たくなった。里香は書類をテーブルの上にバンと置いた。「わざとやったんでしょう」雅之は書類をちらりと見て、「これも君の仕事だろう?やりたくなければ、さっさと辞めたらいい。君の代わりはいくらでもいるんだ」と冷たく言った。怒りが湧き上がってきた。このクズ男は間違いなくわざとやったんだ!昨夜殴られた仕返しだ!だから、激しく抱きしめた里香を翌日、工事現場に行かせた。憤慨しながら何も言えない里香を見て、雅之の暗い気分はなんとなく良くなった。「出て行って、次にノックを忘れずに」それだけを言い残し、雅之は視線を手元の仕事に戻した。里香は雅之をじっと見つめ、両手をテーブルにつきながら上半身を前に傾け、彼に近づいて「いいわ。でも次もね、私の許可なしには抱けないのよ」と囁いた。その言葉を残して、里香は書類を手に立ち去った。雅之は絶句した。こいつは何バカなことを言ったんだ。誘ったのはそっちだろう。そうでなければ、里香を抱くはずがない。せっかく良くなった気持ちが一瞬暗くなった。…里香が担当している商業ビルのプロジェクトは、現在工事中だった。里香は車から降り、デコボコした路面を見て、顔をしかめた。前に向かって歩いていると、遠くないところに、戸惑ったようなおばあさんがコンクリートに座っているのが見えた。何人かの人がおばあさんとすれ違ったが、当たり屋ではないかと疑ったのか、誰もおばあさんに近寄らなかった。里香はおばあさんをじっくりと観察していた。おばあさんは洗練された装いで、手首には翡翠のブレスレットを着けていたため、決して当たり屋には見えなかった。少し考えた後、里香はおばあさんのそばに寄って尋ねてみた。「おばあちゃん、どうされまし
里香は笑いを抑えながら録画した後、120番通報した。救急車はすぐに到着した。救急車の中で、里香はメモに書いてある連絡先に電話をかけた。おばあさんが道に迷って怪我をしたという知らせを聞いたら、相手は「すぐに向かいますので、到着するまで少しの間、彼女のそばにいてあげてください」と返信してくれた。里香はわかったと答えた。電話を切ると、二宮奥様はすぐ雅之に電話をかけた。「もしもし?」雅之の冷たい声が電話の向こうから聞こえてきた。「おばあさんが道に迷って、今は病院にいるんだけど、雅之は近くにいるよね?おばあさんの様子を見に行ってくれない?私もすぐにそちらに着くから」雅之は眉をひそめた。「どういうことだ?」「詳しいことはわからないの、いいから早く行って」「分かった」雅之は電話を切ると、立ち上がって病院に向かった。病院の中で、足を検査した結果、おばあさんは軽い骨折をしており、治療のため入院が必要であることが判明した。おばあさんは里香の手をしっかりと握り、年老いた顔に苦しげな表情を浮かべて言った。「孫の嫁さん、足が痛いのよ」里香は少し困った顔で「おばあちゃん、私はあなたの孫の嫁じゃありませんよ」と答えると、おばあさんは子供のように頑固に言い張っていた。「いや、あなたのことだよ。何と言われようと、あなたは私の孫嫁なんだから!」「はい、はい、とりあえず落ち着いてくださいね」おばあさんが興奮し過ぎて体調を崩さないように、里香は急いで落ち着かせようとした。おばあさんが微笑んだ。「どうして私のところに来てくれないの?あの薄情な孫と同じだね。誰も、私に会いに来てくれないの!」里香は微笑んで何も言わなかった。ちょうどその時、病室のドアが開かれ、二人は同時にドアのほうに目を向けた。相手を見ると、里香は目を丸くした。二宮雅之!何で彼はここにいたか?「なぜここに?」雅之は里香を見て眉をひそめた。里香が何か言い出す前に、おばあさんは厳しい表情で雅之を叱りつけた。「雅之、言葉遣いには気をつけなさい!嫁を大切にするのよ!脅かしてはいけないわ!彼女に謝りなさい」二宮雅之「…」このおばあさんが雅之のおばあちゃんだったなんて!里香は「ざまあみろ」と言いたげな視線を雅之に投げかけ、彼の謝罪を待っていた。二人の
そんなこと、こちらが聞きたいくらいだよ!説明しようとしたけれど、雅之の冷たい瞳に見つめられると、里香はふと気づいた。どれだけ説明しても、雅之が信じてはくれないということを。信じられない。記憶を取り戻すだけで、どうして人はこれほどまでに変わるのだろう?それとも、これまで彼女が知っていた雅之は、本当の彼ではなかったのだろうか?「痛い!」手首が痛むのを感じて、里香は眉をひそめた。ほとんど無意識に、雅之は彼女の手を離した。里香の肌は白く、少し力を加えると跡がついてしまう。実際、彼女の手首には指の跡がいくつか残っていた。このような指の跡は、これまでよく里香の腰についていたものだ。雅之の瞳の色が少し暗くなった。「僕は過去の一年間の恩義に免じて、君に手を出すことなく耐えてきたんだ。これ以上追い詰めないでほしい」「それで?何するつもりなの?」里香は澄み切った瞳で彼を睨みつけた。「私を殺す気?できるもんなら、やってみろよ!」里香の目にうるんだ涙の輝きと頑固さを見て、雅之は突然胸が痛くなった。病室のドア前には、緊迫した空気が漂っていた。里香はニヤリと笑って口角を上げた。「雅之、私たちは離婚しないわ。おばあちゃんは私のことを孫の嫁としか見ていないから、私たちを引き裂けるものなんていないのよ!」雅之は全身から寒気を発しながら里香に近づいてきた。里香はすぐさま後ずさり、「何するつもり?殴るの?そんなことしたら、おばあちゃんに言いつけるからね!」と警告した。二宮雅之は呆れた顔で絶句した。この女が何を考えているのか理解できなかった。離婚なんて悪いことでもないのに。彼女が望む条件であれば、何でも満たしてあげるつもりだったのに。雅之はイライラしていたが、このイライラが里香が離婚を拒否したからだけではないことを彼は知っていた。「雅之」その時、廊下の先に一人の美しい中年の女性が現れた。その女性は雅之の継母である由紀子だった。二人に近づいてきた由紀子は、里香の顔を見るなり驚いた表情を浮かべ、「あなたが雅之さんの奥さん、小松里香さんですよね?」と尋ねた。里香は「私のことをご存知ですか?」と驚いた。由紀子は優しく微笑みながら、「雅之を見つけた時、あなたと雅之が一緒にスーパーを歩いているのを目撃しましたよ。二人の仲の
雅之は介護士に目を向け、低い声で言った。「おばあちゃんの世話をしっかり頼む。何かあったら僕に電話しろ……里香には余計な手間をかけさせるな」介護士は「かしこまりました」と頷いた。病室を出ると、里香の細い背中がすでに玄関へ向かっていた。寒さを嫌がるようにマフラーをぎゅっと首元に寄せ、足早に歩いていく。そのまま車のドアを開けて乗り込み、まず暖房のスイッチを入れた。車内が温まるのを待ってからエンジンをかけた。すると、副座席側の窓がコンコンと叩かれた。顔を向けると、そこには雅之の姿。端正な顔立ちに鋭い目つきで、じっとこちらを見つめていた。ため息混じりにドアロックを解除すると、雅之は迷いもせずドアを開けて乗り込んだ。「何か用?」ぶっきらぼうに尋ねると、雅之は平然と聞き返した。「おばあさん、お前に何の用だった?」「別に……大したことじゃない。ただ寂しくて誰かと話したかっただけだと思う」他に話せる相手もいない。ほんの少しでも覚えている自分を呼んだのだろう。「これからまた呼ばれても、無理に相手にしなくていい」雅之の声は冷静だった。たとえ認知症になったとしても、二宮おばあさんが過去にしてきたことは事実。本当に里香を傷つけるかもしれない――そんな警戒心が、彼の中には今も根強く残っている。「わかった」あっさり返すと、里香はハンドルを握り直し、ちらりと彼を見た。「もう話は終わった?」「ん?」「終わったなら、降りていいわよ」雅之は一瞬きょとんとした顔をした後、呆れたように笑った。ほんの少しの情も見せてくれない、相変わらずの女だ。だが彼は降りる素振りも見せず、代わりにシートベルトを締めながら平然と言い放った。「僕もカエデビルに帰る」「……」なんて堂々と便乗するんだろう。けれど、里香も特に気にせず、そのまま車を発進させた。道中、二人の間にはほとんど会話がなかった。静まり返った車内に、暖房の音だけが静かに流れていく。エレベーターの中。上の階へ向かう途中で、里香が念のため確認するように口を開いた。「七日後……ちゃんと来るわよね?」雅之はちらりと彼女を一瞥し、呆れたように言った。「毎回来ないのはお前の方だろ」「それは特別な事情があったからよ」「じゃあ、今回は特別な事情がないこと
雅之の顔色は、氷のように冷たく張り詰めていた。黒い瞳には鋭い光が宿り、相手が病床の祖母だろうと容赦のない視線を向けている。その様子を見て、里香は慌てて声を上げた。「違うの、おばあちゃんは私をいじめてなんかいない!」二宮おばあさんもすぐに頷いて、少し得意げに言った。「そうそう、いじめてないよ。この子がいきなり泣き出して、私は何もしてないんだから」里香:「……」泣くに泣けず、笑うに笑えず――何とも言えない気持ちが込み上げてきた。涙を拭いながら、小さな声でぽつりと漏らした。「おばあちゃんの今の姿を見て、昔のことを思い出しただけ……」その言葉に、雅之の険しい表情が少し和らいだ。「……何を思い出した?」里香は泣き腫らした目で彼をじっと見つめた。「本当に知りたい?」「やっぱりいい」昔のことは思い出さない方がいい。知ってどうなるわけでもない。話題を変えるように、雅之は二宮おばあさんに目を向け、少し穏やかな声で尋ねた。「今日はどうしたんだ?急に里香に会いたくなって」だけど二宮おばあさんは、まだ怯えたような顔のまま。濁った瞳でおそるおそる雅之を見つめた。「お前……怖いよ。もう私の優しい孫じゃない」雅之:「……」気まずい空気が流れかけた時、介護士がすかさず口を挟んだ。「雅之様、そんな言い方はよくありませんよ。おばあさまは今、子どもみたいなものです。奥様をいじめるなんて、できるわけがありません」なるほどね。さっきまで「小松さん」って呼んでたのに、雅之が来た途端に「奥様」か。まぁ、どうでもいいけど。雅之は黙って床に落ちていた花冠を拾い上げ、それをそっと二宮おばあさんの手に戻した。「この花冠、気に入った?」「うん!すごく気に入ったよ!」二宮おばあさんはぱっと顔を輝かせて、嬉しそうに花冠を撫でた。雅之は静かに続けた。「誰が編んでくれたか、分かる?」「孫の嫁が編んでくれたのよ。綺麗でしょ?」雅之はさらに問いかけた。「その孫の嫁って、誰か分かる?」二宮おばあさんは口を開きかけたものの、すぐに困ったような顔になって、しばらく唸った。「誰だったかしら……思い出せないわ」その姿に、里香は胸の奥がぎゅっと締めつけられた。たぶん今教えても、数日後にはまた忘れてしまうだろう。「もういいよ」
二宮おばあさんはゆっくり持ち上げた手をそっと下ろし、濁った目でじっと里香を疑うように見つめた。「本当にそうなのかい?」おばあさんが動かなくなったのを見て、里香はそっと支えながらベッドのヘッドボードにもたれさせた。「うん、もうすぐ離婚するの」「それで……いつ?」「あと7日だよ」二宮おばあさんは指を折りながらぽつりぽつりと数え、それから再び里香を見つめた。「本当に?騙してないね?もし騙したら、また叩くからね!」里香は思わず顔をしかめた。叩くなら叩けばいいじゃないの!ため息まじりに椅子を引き寄せ、腰を下ろすと、おばあさんのしわだらけの顔をじっと見つめた。「本当に私のこと、全然覚えてないの?」おばあさんは仏頂面のまま、ぷいっと顔を背けた。「なんで覚えなきゃいけないんだい?あんた、そんなに大事な人なの?」その言葉に、里香の胸がぎゅっと締め付けられた。そうだよね。私はそんな大事な人じゃない。覚えてるかどうかなんて、どうでもいいんだ。部屋にしんと静寂が広がった。里香は目を伏せたまま、何も言わずに座っていた。その時、ふわりと頭に何かが乗る感触がした。「そんなに気を落とすなよ。これ、あげるよ」ぎこちない声で、二宮おばあさんがぽつりと言った。「ちゃんと大事にしなよ。壊れたら怒るからね」まるで子どもみたいな口ぶりだった。里香は一瞬驚いて、そっと手を伸ばし頭の上の物を取った。花冠。「これ……誰がくれたの?」おばあさんはつんとそっぽを向いて、「知らないよ!」と一言。ちょうどその時、介護士が部屋に入ってきた。「それは以前小松さんが編んで差し上げたものですよ。おばあさまはずっと大切に保管されていました。でも、ある時から花冠のことを口にしなくなって……代わりに保管していたんです。今日突然『花冠が欲しい』っておっしゃったので、お渡ししたらずっと手に持って眺めていらっしゃいましたよ」介護士の言葉を聞いた瞬間、里香は目を見開いた。私が編んだものだったの?すっかり忘れてた……手のひらに載った花冠は、乾いてすっかり色褪せていた。丁寧に保管されていたのが伝わるけど、枯れた花びらはもうかつての美しさを留めていなかった。胸の奥がじんわり熱くなった。気づいた時には、目に溜まった涙がぽろぽろと零
正式な離婚が決まるまで、あと一週間。里香は毎日忙しく、朝早くに出かけて夜遅くに帰る日々を過ごしていた。二人のインターンも一緒に仕事に追われ、慌ただしい毎日を送っている。この日の午後、里香のスマホが鳴った。「もしもし?」少し訝しげに電話に出ると、受話器の向こうから落ち着いた女性の声がした。「小松さんですか?私は二宮おばあさんの介護士です。今お時間ありますか?おばあさんがあなたにお会いしたいとおっしゃっています」「おばあちゃん……私のこと覚えてるんですか?」思わず問い返すと、介護士はあっさりと答えた。「いらっしゃれば分かりますよ」それだけ言って、さっさと電話を切ってしまった。突然の呼び出しに疑問は残ったが、深く考えずに雅之にメッセージを送った。しかし、なかなか返信は来なかった。きっと仕事で忙しいのだろう。午後の予定は特になく、今抱えている案件のほとんどは二人のインターンに任せていた。二人とも努力家で、初めての大きな案件に関わる中で必死に学ぼうとしている。その姿勢は頼もしく、里香にとっても大きな助けになっていた。ひと息ついた里香は、そのまま療養院へ向かうことにした。数日前に降った雪がまだ地面に残っていて、踏みしめるたびにギシギシと音を立てる。その音が妙に心を落ち着かせた。マフラーを整えながら足早に療養院の中へ入った。二宮おばあさんの部屋の前に着くと、ノックをしてしばらく待った。やがて介護士がドアを開けて、にこやかに迎えてくれた。「いらっしゃったんですね。どうぞお入りください」「おばあちゃん、最近お元気ですか?」「相変わらずです。時々はっきりしていて、時々ぼんやりしています」介護士の言葉に軽く頷き、部屋の奥へと進んだ。小さな居間を抜けて寝室のドアを開けると、ベッドに寄りかかる二宮おばあさんの姿が目に入った。手には花冠を持ち、皺だらけの顔にはどこか嬉しそうな表情が浮かんでいる。その姿に、里香の動きが一瞬止まった。かつて自分が花冠を編んであげた時のことが蘇った。あの時もおばあさんはぼんやりとしていたけれど、花冠だけはとても気に入ってくれた。 「おばあちゃん」余計な感傷を振り払って、そっと近づきながら声をかけた。すると、おばあさんは顔を上げたが、その瞬間、眉をひそめて怒りの表情を
二人の距離はすぐそばまで縮まり、雅之の淡く清涼な香りにほんのりタバコの匂いが混ざり合い、里香をふわりと包み込んだ。細長い目がじっと里香を見つめる。漆黒の瞳は底知れない古井戸のように深く、人を引き込んだら最後、決して解き放たないような危うさを秘めていた。里香の長いまつげがかすかに震えた。すぐに後ろへ一歩引き、顔を背けたまま静かに言った。「後悔なんてしない」そう言い終えると、そのまま書斎へ向かって歩き出した。雅之は黙って彼女の背中を見つめる。毅然とした口調のはずなのに、胸の奥にどうしようもない虚しさが広がっていく。この女の心は、本当に石でできてるのか?自分が変わったことに、ほんの少しも気づいていないのか?雅之はゆっくりと後を追いながら、ぼそりと呟いた。「景司が今こんな話を持ちかけてるけど……もし本当の妹が君だって知ったら、きっと後悔するだろうな」「そんなの、どうでもいい」里香の声は相変わらず淡々としていた。両親の情なんて、とっくに期待していない。親子関係を証明しようとしたのも、ただ自分を陥れ続けた人間たちが、これ以上のうのうと裕福な人生を送るのを許せなかったから。奪われたものは、取り返す。景司が後悔しようがしまいが、そんなこと自分には関係ない。雅之は黙ったまま、じっと彼女の横顔を見つめた。しばらくしても何も言わず、その沈黙が妙に重くのしかかった。書斎の入り口にたどり着いたところで、里香はふと立ち止まり、振り返って冷ややかに尋ねた。「まだ帰らないの?」「あと半月で離婚する。もう少し一緒にいたい」そう言いながら、ためらう素振りもなくずかずかと近づいてくる。「邪魔しないから、好きに仕事すればいい」言い終えるや否や、そのままソファに腰を下ろした。里香:「……」ますます冷めた表情のまま、無言でパソコンに向かい、電源を入れると黙々とキーボードを叩き始めた。仕事に集中している時の里香は、周囲に誰がいようとお構いなし。目の前のことにただ没頭するだけ。雅之はそんな彼女を堂々と見つめ続けた。目の奥に浮かぶ笑みはどんどん深くなり、隠しきれない想いがにじみ出していく。その熱すぎる視線に、どれだけ鍛えられた里香でも微かに影響を受けてしまう。耐えきれず顔を上げ、じろりと睨んだ。「ここにい
ゆかりは自分の部屋に戻るなり、スマホを取り出して苛立った様子で電話をかけた。「前に助けてくれるって言ったよね?それなのに、どこにいるの?なんとかしてよ!まさか、私を騙してるんじゃないでしょうね?」電話の向こうからは、いつもの落ち着いた男の声がゆっくりと返ってきた。「そんなに焦るなよ。お前、もう誰かに目をつけられてるの、分かってるか?この前やったこと、もう調べがついてるぞ」「ありえない!」ゆかりは勢いよく立ち上がり、強気な表情を作って言い返した。「あの時は完璧にやったの。バレるはずがない!あんた、まさか私を脅すつもりじゃないでしょうね?」「はっ!」電話の向こうで、みなみが鼻で笑ったのが聞こえた。「お前、雅之が何者か分かってるのか?アイツは自分の親父から二宮グループを奪い取って、挙句に親父を脳卒中で入院させるような男だ。あんな奴の実力を甘く見たら、痛い目見るぞ」ゆかりの表情が強張った。「それじゃ、もう私がやったってバレてるの?すぐに暴露されたりしない?」「今のところはまだな。でも、いずれバレるのは確実だ。ただの時間の問題だな。だから今はおとなしくしてろ。俺からの知らせを待ってな」ゆかりの心はひどく乱れていた。もし自分のしたことが父に知られたら、どれほどの怒りを買うか、想像するだけで震えが止まらない。この二年間、父は何度となく自分の顔をじっと見つめては、ため息をつきながら首を振っていた。その理由なんて分かってる。亡き母の面影を自分に重ねようとしていたからだ。でも、失望するのも無理はない。自分は母にはまるで似ていないのだから。もし父が、身分を偽っていたこと――それどころか、里香を殺そうとしていたことまで知ったら、烈火のごとく怒り狂い、自分が手に入れたすべては一瞬で崩れ去るだろう。そんなの……絶対に許されない!必死に手に入れたものを失うわけにはいかない。「分かった。言う通りにする」今、頼れるのはみなみだけ。彼の言うことを聞くしかない。電話が無言のまま切れると、ゆかりはソファへと腰を下ろし、とにかく様子を見ることにした。---里香が家に帰ると、ちょうど玄関先で雅之と鉢合わせた。「何か用?」不思議そうに問いかけると、雅之は壁にもたれかかり、片手をポケットに突っ込みながら煙草をふ
妹の話題になると、景司の顔にはどこか甘やかしと無奈が入り混じった表情が浮かんだ。里香はそんな彼の様子をじっと見つめ、少し間を置いてから口を開いた。「実は……聞きたいことがあるの」「何?」景司は穏やかな眼差しで里香を見つめた。なぜか分からないけど、里香といると、不思議と親しみを感じる。どこか懐かしいような、心がほっとする感覚。だからなのかもしれない。彼女の前では、いつもより少しだけ優しくなれる気がしていた。里香はしばらく考え込んだあと、ぽつりと話し始めた。「知り合いの話なんだけど、その人の身分が誰かに乗っ取られたの。それで、全部奪われた上に、命まで狙われてる。放火されたり、薬を使われたり、あらゆる手を尽くしてね。そういう場合って……どうすればいいと思う?」景司の眉がわずかに寄った。話を聞くうちに、表情が少しずつ険しくなっていった。「そりゃ、相手の悪事を暴いて、本来の自分の人生を取り戻すべきだろ」里香はじっと彼を見つめたまま、ゆっくり問い返した。「本当にそう思いますか?」「もちろんだよ」景司は迷いなく即答した。「そんなやつ、ろくでもない人間だ。他人の身分も家族の愛情も奪った挙句、それでも足りなくて命まで狙おうとするなんて。そんなの、絶対に許されるはずがない」静かな声の中に、はっきりとした怒りが滲んでいた。里香はふっと目を伏せ、長いまつ毛が感情を隠すように影を落とした。「そう思ってくれるなら、いいんです」「その知り合いって、誰?もし助けが必要なら、俺に言ってくれ」里香はかすかに微笑み、首を横に振った。「大丈夫。もう対処する方法は考えてあるから」「そうか……なら、よかった」景司は軽く頷くと、そのまま話題を変えるように切り出した。「さっきの話に戻るけど、言ったこと、ちゃんと考えてくれないか。雅之は、君には釣り合わない」里香は淡々とした表情のまま答えた。「考えてみます」その瞬間、ちょうど店員がノックをして料理を運んできた。不思議なことに、里香と自分の好みはかなり似ていた。それが妙に嬉しくて、彼女への親近感がまた少し強くなった。食事を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。街の灯りがきらめく中、景司は車で里香をカエデビルまで送り届けた後、そのままホテルへ戻った。部
深冬に入り、初雪が舞い始めた。里香はマフラーで小さな顔をすっぽり包み込みながら、ビルのエントランスを出た。空はすでに薄暗く、少し離れた場所に停まっている車が目に入った。ふと足を止めると、黒いコートを着た景司の姿を目にした。「瀬名さん」声をかけながら近づき、微笑みながら言った。「お待たせしちゃいました?」景司は穏やかに微笑み、車のドアを開けた。「いや、ちょうどよかった。とりあえず乗って」「はい」里香は頷いて車に乗り込んだ。今日、景司が突然連絡をくれて「会いたい」と言ってきた。正直、少し驚いた。でも、断る理由もなかった。血の繋がりでいえば、景司は自分の兄。だったら、彼の本当の考えを探るには、ちょうどいい機会かもしれない。車内は暖房が効いていて、寒さで冷えた体がじんわり温まっていく。マフラーを外しながら、自然と肩の力が抜けた。二人は車でそのままレストランへ向かった。レストランに着いて個室に入ると、景司が口を開いた。「急に戻ってきて驚かせなかった?」「ううん。安江でのお仕事、もう片付いたんですか?」里香が尋ねると、景司は頷いた。「ああ、全部終わったから戻ってきた」そう言いながら、真正面からじっと里香を見つめた。端正で上品な顔立ち。ナチュラルメイクが基本だけど、ときどき鮮やかなリップを引くことがある。それでも――いや、むしろだからこそ、彼女の美しさは際立っていた。柔らかな眉、澄んだ瞳。今も何の警戒心もなくまっすぐ自分を見つめている。景司は、一瞬言葉を飲み込んだ。本題を切り出そうとしていたのに、この瞳の前では妙にためらいが生まれてしまう。沈黙が流れ、耐えかねたように里香が口を開いた。「瀬名さん、私に会いたいって……何かご用ですか?」景司は軽く息をつき、ゆっくりと切り出した。「君は……雅之と別れるつもりはないの?」里香はスプーンを持つ手を止めた。話したかったのは、それ?「どうして?」静かに問い返すと、景司は少し申し訳なさそうに目を伏せ、それでも真剣な顔つきで答えた。「君はアイツと一緒にいても幸せになれない。きっと辛い思いをするだけだ。だから、別れたほうがいい」まさか、離婚を勧めに来たの?あと半月もすれば、離婚の手続きは終わる。それさえ済めば、正式に婚姻関係は解消
里香はかおるを見て、優しく声をかけた。「先にお風呂に入って、それからゆっくり寝なよ。他のことは起きてから考えればいい」「うん……」かおるは小さく頷くと、そのまま以前泊まっていた客室へ向かった。里香も主寝室に戻り、シャワーを浴びた後、ドレッサーの前に座ってスキンケアをしながらぼんやりとかおるのことを考えていた。かおる、自分の考えた方法を受け入れてくれるかな……でも、今は他に方法はない。月宮が家族のプレッシャーに耐えてでも、かおると一緒にいるって決断してくれれば話は別だけど。でも、それができるの?月宮は雅之とは違う。幼い頃から厳しい教育を受けて育ち、そのすべてを月宮家に与えられてきた。彼の今の立場も、財産も、生活のすべてが家族に支えられたもの。そんな月宮が、自分のすべてを捨ててまでかおるを選ぶ覚悟があるのか?それは、天に昇るより難しいことかもしれない。考えれば考えるほど答えの出ない堂々巡りに、里香はそっとため息をついた。もう考えるのはやめよう。布団をめくってベッドに入り、ゆっくりと目を閉じた。うとうとと眠っていた真夜中、スマホの振動音で目が覚めた。眉をひそめながら手探りでスマホを掴み、目を細めて画面を確認してから通話ボタンを押した。「誰?」眠気と不機嫌さが入り混じった声で問いかけると、通話の向こうから低くて落ち着いた声が返ってきた。「里香、会いたい」雅之だった。いつものように心地よい声。でも、どこか掠れている。里香は目を閉じたまま、深いため息をついた。「頭おかしいんじゃない?」そう言い捨てて、容赦なく通話を切った。夜中に何やってんの、ほんとに。スマホを枕元に放り投げ、そのまままた眠りに落ちた。朝、しっかり熟睡できたおかげで目覚めは悪くなかった。キッチンに立ち、朝食の支度をしていると、ベランダからふらふらと魂の抜けたようなかおるが降りてきた。パジャマ姿にボサボサの髪、目の下にはくっきりとしたクマ。「一晩中、寝てないの?」驚いたように尋ねると、かおるは小さく頷き、そのままふにゃっと抱きついてきた。ひんやりとした体温が肌に伝わった。「一晩中考えてた。私、本当に月宮のことが好き。でも、彼はきっと、そんなに私のことを好きじゃないの。私に対する気持ちは『興味』