雅之は狂おうとしているが、里香は全く付き合う気がなく、素早くタクシーに乗り込んでホテルへ向かった。の薄暗い照明の下、雅之のすらりとした背高い姿がその場に立ち尽くしていた。顔を少し横に向けて、全身から冷たく鋭いオーラを放っていた。雅之はゆっくりと自分の顔に触れ、ふっと低く笑った。まるで今までとは違う里香を見たかのように、ますます彼の興味を引きつけた。その時、雅之のスマートフォンが鳴り響いた。電話に出て、「もしもし?」と答えた。電話の向こうから、夏実の優しい声が聞こえてきた。「雅之、出張に行ったのに、どうして私に教えてくれなかったの?」雅之の声は冷たかった。「出張に行くのをお前に知らせる必要があるのか?」夏実は焦りながら、「そういうつもりじゃないの。ただ、雅之がいないと不安で......本当にちょっと怖いの」と言った。雅之はポケットからタバコを取り出し、一本を唇に挟んで火をつけた。火が一瞬跳ね、煙がゆっくりと空に巻き上がった。雅之の声はさらに冷たくなった。「夏実、俺は自分のことに口出しされるのが嫌いなんだ。2年前にもう分かってたはずだろ?」夏実の心臓はドキッとした。「雅之、どうしたの?私、何かあなたを怒らせるようなことをした?」夏実の声には、慎重さがにじみ出ていた。雅之はその声を聞きながらも、鋭い美貌には何の感情も浮かばなかった。「ただ、ふと思ったんだ。お前が前に飛び降りて俺を無理やり結婚させようとしたの、あれ、つまらなかったな」そう言い残して、雅之は電話を一方的に切った。「もしもし?雅之?」夏実は一瞬呆然とし、彼が何を言いたかったのか問いかけようとしたが、電話はすでに切れていた。夏実はスマートフォンを握る手が微かに震えた。どういうこと?結婚したくないってこと?そんなのありえない!夏実は怒りで顔を歪め、別の番号に電話をかけた。「雅之の居場所を教えて!」雅之は薄い唇にタバコを咥え、火の点がかすかに光っていた。そして、桜井を見て言った。「あの無謀な奴を片付けろ」桜井は頷き、「承知しました」と答えた。夜は深まっていた。前田は里香に手を出せなかったことに腹を立て、仲間と酒を飲みながら次にどうやって里香を手に入れるかを計画していた。その時、数人の黒服の男たちが突然押し入ってきて、前田を引きずり
里香はホテルに戻ったが、まだ心が落ち着かない。雅之が安江町に来たなんて。しかも、あの様子だとしばらくここに滞在するつもりらしい。それなら、私がここにいるわけにはいかない!里香は眉をひそめて少し考えた後、スマートフォンを取り出して幸子に電話をかけたが、幸子は全く電話に出なかった。里香の顔は一気に険しくなった。何度も無視されて、まるで自分が弱い存在だと思われているのか?いい加減にしてほしい。里香はすぐに別の番号に電話をかけ、その後シャワーを浴びて、眠りについた。翌朝。昨夜のことを思い出し、幸子の気分は上々だった。前に里香に逃げられたが、昨夜はさすがに逃げられなかったはず。前田様はずっと里香のことを気にかけていたのだ。幸子は子供たちの部屋を見に行こうとしたが、その時、玄関のドアがノックされた。「誰よ?今行くわよ!」幸子は急いで玄関に向かい、ドアを開けると、数人の警察官が立っていた。幸子は一瞬驚き、「何ですか?」と尋ねた。警察官の一人がまず身分証を見せ、厳しい表情で口を開いた「あなたは児童誘拐や女性の売買などの違法取引に関与しているとの通報がありました。今すぐ署までご同行願います」幸子はその場で固まってしまった。「違うわ!私はそんなことしてない!私は孤児院の院長よ!そんなことするわけないじゃない!」警察官は冷静に言った。「詳しいことは、警察署で話しましょう」幸子はそのまま強制的に連行された。里香がこのことを知ったのは、哲也からの電話だった。里香はホテルで朝食を取っている最中だった。哲也の心配そうな声を聞きながら、里香は淡々と答えた。「私が昨夜どこにいたか知ってる?」哲也は驚いて、「昨夜どこにいたんだ?」と尋ねた。里香は軽く笑い、「昨夜、院長が私をに呼び出して、前田に売り飛ばそうとしたのよ」と言った。哲也は驚愕して、「そんなことあり得ない!何か誤解があるんじゃないか?」と信じられない様子で言った。里香は続けた。「5年前にも、院長は私を一度売り飛ばしたのよ。あの時は、私が前田を殴って混乱に乗じて逃げたから助かったけど。私が逃げた後、院長はあなたたちに何て言ったの?」哲也はショックで言葉を失っていた。彼の記憶の中で、幸子はただ性格が悪く、少し癖があるだけの人だったが、根は良い人だと思っ
「大丈夫」里香は淡々とした口調で言った。「5年前のことはもう気にしてないわ。院長が私を育ててくれたから。でも、あの夜でその恩はもう返し終わった。だけど、今回は見逃さない。院長がやったことには責任が伴う。もし何もしていないなら、当然釈放されるわ」哲也は沈黙した。里香はティッシュを取り出して口元を拭きながら言った。「哲也、忠告しておくわ。安江町を出て外の世界で挑戦してみたらどう?まだ若いんだから、ここにいると自分の可能性を無駄にするだけよ」哲也は「分かった、考えてみる」と言った。電話を切ると、里香はそのままホテルに戻った。警察署に行って自分の身元について調べるのは、もう少し後にしようと思っていた。まずは、幸子に少し苦労を味わわせてやる必要がある。そして、雅之を避けるため、里香は数日間外に出なかった。そんなある朝、祐介から電話がかかってきた。「まさか約束を忘れてないよね?」祐介は笑いながら言った。里香は一瞬戸惑い、水を飲む手が止まった。里香が何も言わないのを見て、祐介はため息をつきながら言った。「今夜、パーティーがあるんだよ。前に君、俺と一緒に行くって約束してくれたじゃないか。本当に忘れたの?」里香は急に焦りを感じた。本当に忘れてた!「ごめんなさい、祐介さん!今すぐチケットを取って戻るわ。パーティーまでには間に合うと思うけど、どう?」里香はそう言いながら、急いでチケット予約のアプリを開いた。祐介はまたため息をつき、「間に合うよ。でも、そんなに焦らなくていい。フライト情報を教えてくれれば、俺が迎えに行って、そのままパーティー会場に向かおう」と言った。「分かった」里香はそう答え、電話を切った。すぐに服を着替え、荷物をまとめてホテルを出発し、バスステーションへ向かった。安江町から市内まではバスで2時間、そこから飛行機で3時間。まあ、大丈夫そうだ。飛行機に乗ると、里香はすぐに祐介にフライト情報を送った。彼からは「OK」の返信が来た。里香は少し安心し、窓の外を見つめた。帰る頃には、雅之がもういなくなっているといいけど…。......。豪華な大統領スイートルームの中で。桜井が部屋に入ってきて言った。「社長、北村の旦那の誕生日に招待状が届きました」冬木の北村家は名門の家柄で、
雅之は冷たい声で命じた。「戻ったら、彼女に会いに来るよう伝えろ」桜井は「かしこまりました」と答えた。里香は空港から出ると、すぐに紫灰色の短髪が印象的な美しい男性を見つけた。里香の顔に笑みが浮かんだ。「祐介兄ちゃん」祐介は自然な動作で里香の荷物を受け取り、「疲れてない?まだ時間あるけど、もし疲れてたら一度休むか?」と尋ねた。里香は首を振って、「大丈夫、飛行機で少し寝たから」と答えた。祐介は里香のために車のドアを開け、「じゃあ、まずは着替えに行こう」と言った。里香は頷き、車に乗り込んだ。到着すると、祐介は里香をスタイリストに任せ、自分は休憩スペースで待つことにした。里香は鏡の前に座り、「あまり派手にしなくていいです。シンプルで上品にお願いします」と頼んだ。スタイリストは里香の整った顔立ちを見て、もっと華やかに仕上げたいと思っていたが、里香の要望を聞いてその考えを引っ込めた。すべてが終わったのは、そこから1時間半後だった。祐介は物音に気づいて顔を上げると、里香が階段の手すりに手を添えてゆっくりと降りてくるのが見えた。里香はシャンパンゴールドのスパンコールが施されたドレスを身にまとい、首元はホルターネックデザイン、両肩には細いパールチェーンが垂れていた。ドレス全体には小さなパールが散りばめられており、高貴でありながらも優雅さを失わない。長い髪は頭の上で美しくまとめられ、その精緻な顔には淡いメイクが施されており、まるで天から舞い降りた仙女のようだった。祐介の魅惑的な狐のような目に、一瞬、驚嘆の色が浮かんだ。祐介は立ち上がり、「本当に綺麗だ」と言った。里香は微笑み、「待たせてごめんなさい」と答えた。祐介はスマホを取り出し、「写真を撮ってもいい?」と尋ねた。里香は不思議そうに、「どうして?」と聞いた。祐介は笑いながら、「ただ、こんなに美しい君を写真に撮っておきたいだけさ」と言った。里香は少し妙な感覚を覚え、「やめておこう。もう時間もないし、そろそろ出発しないと」と言った。祐介は少し残念そうに肩をすくめ、「分かった」と答えた。寿宴は冬木の七つ星ホテルで開催され、入口のレッドカーペットの両側にはスタッフが出迎えていた。里香は祐介の腕にしっかりと手を添えて中に入っていった。道中、多くの人々の
宴会場は7階にあり、エレベーターのドアが開くと、祐介と里香は歩き出た。祐介が喜多野家に認められて戻ったことで、彼を知っている人たちが次々と挨拶にやってきて、軽く言葉を交わしていた。里香はただ静かにそばに立ち、まるでオブジェクトのようにその場をやり過ごしていた。その時、突然冷たい気配が里香の背中を覆った。里香は一瞬動きを止め、無意識に振り返った。そして、少し離れた場所にいる人物を見て、瞳孔が一瞬で縮んだ。雅之!どうして彼がここにいるの?里香は反射的に祐介の腕を掴んだ。祐介は彼女を見て、少し近づきながら「どうした?」と尋ねた。「なんでもない」里香は長いまつげを震わせ、必死に感情を抑えようとした。祐介は里香の様子が少しおかしいことに気づき、「もし具合が悪いなら、あっちに行って休んでいいよ。あそこはビュッフェコーナーで、何でも揃ってるから」と提案した。里香は笑顔で首を振り、「大丈夫、祐介兄ちゃんのそばにいるから」と答えた。その言葉を聞いて、祐介の口元に優しい笑みが広がった。「じゃあ、ちゃんと俺についてきてね」里香は心の中が乱れていて、祐介の表情に気づく余裕はなかった。少し離れた場所では、雅之が長い指でシャンパンのグラスを持ち、周りの人々が彼に話しかけていたが、雅之の視線はずっと二人に向けられていた。ふん!やっぱり見間違いじゃなかった。確かに里香だ。どうやら、今夜は祐介のパートナーとして来ているらしい。さっき、祐介があんなに里香に近づいて話していたのに、里香は避けもしなかった。雅之は手に持っていたシャンパンを一気に飲み干し、そのまま祐介と里香の方へ向かおうとした。その瞬間、一人の男が雅之の前に立ちふさがり、笑顔で「雅之さん、北村の旦那があなたをお呼びです」と言った。雅之の端正な顔には冷静で淡々とした表情が浮かび、軽く頷いた。「分かった」そのままその男についていき、冷たい視線はようやく里香から離れた。あの冷たい視線が消えたことで、里香はほっと息をついた。まさか雅之がここにいるなんて、里香には予想外だった。本来、雅之を避けるために出てきたのに、安江町に行けば雅之も出張で来ていて、冬木に戻れば今度は同じ宴会に招かれている。まったく、なんて厄介な縁なんだろう。祐介は里香が落ち着かない様子を見て
雅之の視線がふと下に向かい、すぐにビュッフェコーナーにいる二人の姿を捉えた。女の子はお皿を持ち、小さな口で食べ物をつまんでいる。頬にクリームがついてしまったのか、隣にいる男が優しくティッシュで拭ってあげていた。その光景はまるで絵画のように和やかで美しかった。まるで本当の夫婦のように見える。雅之の鋭い目には、一瞬寒気が走るような冷たい光が宿った。雅之の声もさらに冷たくなり、「どうせいつか離婚するんだから、わざわざ連れてきて笑い者にするつもりはありません」と言った。北村の旦那の顔色はあまり良くなかった。「お前な、いい加減にあのバカ息子と同じ道を歩むのはやめろ」雅之は少し目を伏せ、「おじいさん、すみませんが、少し失礼します」とだけ言い残し、北村の顔色を気にすることなく、そのまま階下へと向かって歩き出した。一方、里香はドレスにクリームがついてしまい、心配そうに尋ねた。「祐介兄ちゃん、このドレス、壊れたりしないよね?」こんなに精巧で美しいドレスが、もし汚れてしまったら大変だ。祐介は優しく言った。「向こうで少し整えたら大丈夫さ、心配しないで」里香は祐介について、屏風の裏へと向かった。そこは人が少なく、ドレスの汚れを気にせずに拭ける場所だった。祐介はウェットティッシュを取り出し、少し近づいて丁寧に拭いてあげた。里香は眉をひそめ、手を伸ばしてティッシュを取ろうとした。「私が自分でやるよ」この距離はちょっと危険だ。誰かに見られたら、誤解されるかもしれないし、それは困る。しかし、祐介は手を離さず、「すぐ終わるから、じっとして」と言った。その瞬間、雅之が近づいてきて、二人が手を握っている親密な様子を目にして、その端正な顔は瞬時に暗くなった。「ここじゃ不便だろ?ホテルにでも行った方がいいんじゃないか?」雅之は冷ややかに言い放ち、鋭い目で二人を見つめた。自分はまんまと無視されてる。あの里香が、他人の寿宴で、他の男とこんなにイチャイチャするとは!里香は驚いて手を引っ込めたが、雅之の言葉を聞いた瞬間、その顔色は一気に冷たくなった。「雅之、変なこと言わないでよ。ドレスが汚れたから、祐介兄ちゃんが拭いてくれていただけよ」雅之は冷たく彼女を見つめ、「自分で拭けないのか?」「あなた......」里香はもう理解した。雅之に
里香は淡々と言った。「私は彼のパートナーだから、もちろん一緒に行くわ」雅之の顔色は「険しい」という言葉そのものだった。この女、自分の立場がわかってないのか?「里香、こっちに来い!」雅之の低い声が冷たく響き、周囲に冷気が漂った。でも、里香は全然動じなかった。この男、私を何だと思ってるの?呼ばれたからって従うなんて、思ってる?雅之は冷たい目で彼女を見つめ、「今ここに来れば、これまでのことは水に流す」と言った。里香は軽く笑い、「行くけど、離婚してくれるならね」と返した。その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が凍りついた。里香はいつもこうだ、あえて「離婚」なんて口にするなんて。しかも、他の人の前で堂々と!雅之の中で怒りが燃え上がり、彼女を睨みつける。その視線はまるで彼女の顔に穴を開けるようだった。里香は少し怯んだ。雅之を怒らせると、ろくなことがないのはわかってる。でも、折れる気にはなれなかった。彼が私をあんなに傷つけておいて、どうして私が折れなきゃならないの?祐介はその様子を興味深そうに見ていた。二人とも頑固だから、こんな二人がうまくやれるはずがない。むしろ、早く離婚した方がいいだろう。祐介がタイミングよく口を開いた。「二宮さん、俺みたいな外野でも、あなたが夏実さんにした約束を知ってるんです。今夜離婚届にサインして、明日結婚証明書を取りに行くのはどう?そうすれば、夏実さんに責任を果たせるよ」里香はその言葉に胸が締め付けられるような痛みを感じた。彼女は目を伏せ、ドレスの裾をぎゅっと握りしめた。祐介のチャラい表情を見て、雅之の目に冷酷な殺意が一瞬浮かんだ。そして、突然雅之は里香に近づき、彼女の後頭部を掴んで強引にキスをした。激しく求め合うようなキスだった。里香は驚いて目を大きく開き、反射的に雅之を押しのけようとした。しかし、雅之はすぐに彼女から離れ、冷たい目で見つめながら、唇の端に悪戯っぽい笑みを浮かべた。「離婚して彼と一緒になりたい?死んだ後なら考えてやってもいいかもな」里香は怒りで震えた。雅之は彼女の手首を掴み、そのまま連れて行こうとした。だが、祐介が里香のもう片方の手を引き止め、狐のような目に冷たい光が宿った。「二宮さん、今夜の彼女は俺のパートナーです」雅之の視線が再び里香に向け
里香は素直に手を引き抜き、笑顔で言った。「私たちは友達だから、もちろんあなたのことを心配するよ」祐介は急に手のひらが空っぽになり、心までぽっかりと穴が開いたような気がした。指を軽くこすり合わせた後、何事もなかったかのようにポケットに手を入れた。「心配しなくていいよ。あいつに俺をどうこうできる力はまだないから」雅之は最近ようやく実家に戻ったばかりで、まだ二宮グループには入っていない。今はDKグループしか持っていないから、大したことはできないはずだ。里香は少しほっとして、「それならよかった」と言った。その時、祐介のスマートフォンが鳴り始めた。彼はスマートフォンを取り出して確認し、眉を上げて里香に言った。「ちょっと電話に出てくるね」「うん」里香は頷き、祐介が屋外のガーデンに向かって歩いていくのを見送った。このホテルの屋外ガーデンはとても美しく、7階にあり、薄暗い灯りと淡い花の香りが漂っていて、すごくロマンチックな雰囲気だった。里香はそのまま身を翻し、静かな隅で待つことにした。ウェイターが通りかかり、里香はシャンパンを一杯手に取り、寿宴の賑やかな光景を眺めていたが、なんだか味気なく感じた。みんな仮面をかぶって話しているみたいで、全然面白くない。そんな時、一人のウェイターが近づいてきて、「小松様、喜多野様が急用でお呼びです」と声をかけた。里香は一瞬驚いた。祐介が自分を呼んでいる?「祐介兄ちゃんはどこにいるの?」ウェイターは「こちらへどうぞ」と言って、里香を案内し始めた。里香はシャンパンを置き、立ち上がってウェイターの後をついていった。外に出ると、ひんやりとした風が吹き抜け、爽やかな感覚があり、花の香りが漂ってきた。思わず深呼吸した。「小松様、喜多野様はこの先にいらっしゃいますので、私はここで失礼します」とウェイターは言い、さっとその場を離れた。「え?」里香は一瞬戸惑ったが、祐介が本当に急用で呼んでいるのかもしれないと思い、そのまま進んでいった。前方には花のアーチが続く回廊があり、里香が角を曲がった瞬間、突然暗闇の中から手が伸びてきて、彼女を強く掴んだ。里香は驚いて叫ぼうとしたが、相手はそれを予測していたかのようにもう一方の手で彼女の口を塞ぎ、くるりと向きを変えて、彼女をツタに覆われた柱に押し付
雅之はじっと里香の顔を見つめ、真剣に言った。「里香、よく考えてみろよ。お前にとって損がない話だろ?」里香の表情が一瞬固まった。よく考えるなら、もしかしたら自分は全然損してないかもしれない。雅之はお金も力も出してくれるし、さらに添い寝までしてくれる。しかも、セックスの技術も完璧で、大いに満足できる。ただ、ベッドで少し時間を無駄にするだけ。それに、二人にとっては初めてのことでもないし、悩む必要なんてない。里香は少し考えた後、「ちょっと考えさせて」と言った。雅之は軽く頷いた。「考えがまとまったら教えてくれ」里香は何も言わずに振り返り、その場を後にした。雅之は彼女の背中を見つめ、唇の端に薄い笑みを浮かべた。その時、スマホの着信音が鳴り、取り出して見ると、新からの電話だった。「もしもし?」新の礼儀正しい声が響いた。「雅之様、奥様が調べてほしいとおっしゃっていた件ですが、すでに判明しました。以前、ホームを荒らしに来た連中は、瀬名家のボディガードでした」「瀬名家?」雅之は目を細め、「しっかり調べろ。幸子と瀬名家の関係を洗い出せ」「かしこまりました」ホームの敷地は広く、門を入るとすぐに広い空き地が広がっていた。ここは子供たちが普段遊ぶ場所だ。三階建ての小さな建物が住居スペースで、暮らしの中心となる場所。その奥には小さな庭もあった。以前は幸子が野菜を育てて自給自足していたが、今では哲也が簡易的な遊び場に作り変えた。ブランコに滑り台、ケンケンパまで、子供たちが自由に遊べる空間になっていた。里香はブランコに腰掛け、吹き付ける冷たい風に身を任せた。拒もうとしたけど、どんなに考えても雅之を拒む理由が見つからなかった。彼の能力を利用すれば、いろんな面倒ごとを省ける。何なら、自分の出自を調べてもらうことだってできる。そうすれば、もう幸子に頼る必要もない。里香は視線を落とし、冷めた表情を浮かべた。「寒くない?」そのとき、哲也が近づいてきて、そっとジャケットを里香の肩にかけた。里香は少し驚いたが、軽く身を引き、「ありがとう、大丈夫」と言った。その微妙な距離感を感じ取った哲也は、特に何も言わず、「何か悩み事?」と問いかけた。里香は哲也を見つめ、「あの親探しのサイト、今どんな感じ?」と尋ねた。
里香は、やせ細り青白くなった幸子の顔をじっと見つめ、淡々と言い放った。「真実が明らかになるまで、ここから出すつもりはないわ。まさか私が、身分を奪われたのが悔しくて、自分のものを取り戻そうとしてるって思った?それなら大間違いよ。正直なところ、親のことなんて大して気にしてなかった。両親がいるかいないかなんて、私にはそこまで重要じゃない」その言葉に、幸子の顔色が一瞬で悪くなった。ガタッと立ち上がり、動揺した目で里香を見つめた。「本当にそんな風に思えるの?あの人、あなたのすべてを奪ったのよ!あなたの両親がどれほど裕福か知ってる?本来なら、あなたはお嬢様なのよ!あの人がそれを奪ったの!本当にそれでいいの?」里香の澄んだ瞳に、冷ややかな光が宿った。「そもそも、あなただって共犯じゃなければできないことじゃない?もしあの時、あなたが彼女に加担しなかったら、こんなことにはならなかったはず。違う?」「私……」幸子は一瞬、言葉を詰まらせた。唇を噛みしめ、悔しそうに続けた。「里香、彼女は私を助ける気なんてないし、あなたのことも決して放っておかない。あなたの存在自体が、彼女にとっての時限爆弾なのよ。だから、彼女は絶対になんとかしてあなたを消そうとする。たとえあなたが両親に興味がなくても、認めたくなくても、彼女があなたを警戒することは避けられない!」確かに、その通りかもしれない。相手がもし、幸子が自分を見つけたことを知ったら。真実を知っているかどうかに関係なく、放っておくはずがない。ふん、幸子はよく分かってるじゃない。里香の表情が揺らいだのを見逃さず、幸子はさらに畳みかけた。「里香、私は他に何もいらない。ただどこか遠くへ逃がしてほしいだけよ。誰にも見つからず、傷つけられない場所に。そしたら、私が知ってることをすべて話すわ。ね、どう?」里香はすぐには答えなかった。幸子の心臓が、高鳴る。まさか、本当に両親のことを気にしてないの?あんな莫大な財産を持つ両親よ?普通なら、誰だって動揺するはずなのに。「彼女を安全な場所に送るなんて、簡単なことじゃない?」不意に、低く落ち着いた声が響いた。幸子はピクリと肩を震わせ、声の主を見た。そして、その顔を確認すると、一瞬驚き、すぐに思い出した。あの時、自分が捕まって殴られた時、里香の
哲也は一瞬驚き、「どうした?」と子どもたちに問いかけた。「哲也さん、この問題が分からないんです、教えてください!」「哲也さん、この布団、ちゃんと掛けられてるか見てもらえますか?」「哲也さん……!」「……」気がつけば、哲也は子どもたちの奇妙な口実にまんまと乗せられ、そのまま連れ去られてしまった。一方、雅之はゆっくりと立ち上がり、こちらへと歩いてきた。背が高く、黒いコートに包まれた体は肩のラインがシャープで、シルエットは洗練されている。成熟した男性の魅力が、その一歩ごとに滲み出ていた。端正で鋭い顔立ちには、どこか余裕を感じさせる薄い笑み。どうやら機嫌は悪くないようだ。そんな雅之を睨むように見つめながら、里香は低い声で問い詰めた。「……今度は何を企んでるの?」雅之はさらりと言った。「お前に近づく男が許せない」「くだらない」呆れたように言い放つと、里香はさっさと自分の休憩部屋へと向かった。しかし、雅之は迷うことなく、そのあとをついていく。部屋の前で立ち止まり、里香は振り返ってジロリと睨んだ。「ついてこないで」だが雅之は余裕の表情のまま、ふっと遠くを指さした。その視線の先には、興味津々な顔でこちらを覗いている子どもたちの姿があった。「もうみんな、僕たちが夫婦だって知ってる。お前が僕を部屋に入れないって言ったら、どう説明するつもり?」里香はくすっと笑い、「私の知ったことか?」と軽く肩をすくめた。「説明したいなら、自分で勝手にして」そう言い放ち、ドアを開けるなり、そのままバタン!と勢いよく閉めてしまった。完全に「入れる気ゼロ」な意思表示だった。雅之:「……」すると、奈々が不思議そうに首をかしげながら尋ねた。「お兄さん、なんで里香さんは部屋に入れてくれないの?」雅之の端正な顔に、ほんの少し寂しげな表情が浮かんだ。彼はしゃがんで奈々の頭を優しく撫でながら、真剣な顔で言った。「僕が怒らせちゃったんだ。許してもらいたいんだけど、協力してくれるか?」奈々はじっと雅之を見つめ、「本当に反省してる?」と疑わしげに聞いた。「うん」雅之が素直に頷くと、奈々はパッと明るい顔になり、元気よく言った。「哲也さんが『間違いを認めて直せる人はいい子』って言ってたよ!私たち、協力
里香は特に追い出すこともせず、そのまま車を発進させてホームへと向かった。帰る頃には、空はすっかり暗くなっていた。玄関先では、哲也と子供たちが外に出てきて、車から降りる里香の姿を見つけると、ぱっと顔を明るくした。「さあ、荷物運ぼうか」そう言いながら、里香はトランクを開けた。哲也は少し驚いた様子で、「買い物に行ってたの?」「どうせ暇だったしね。ホームに足りないものをちょうど買ってきたよ」里香は軽く肩をすくめながら答えた。「ありがとう、里香さん!」子供たちが元気よくお礼を言った。「いいって。気に入ってくれたらそれで十分」里香が微笑んだ、その時だった。助手席のドアが開き、雅之が悠然と車から降りてきた。その高くすらりとした姿が視界に入った瞬間、子供たちは驚いてさっと里香の背中に隠れた。知らない男性に警戒しているのがありありと伝わってくる。哲也も一瞬動きを止め、それからゆっくりと口を開いた。「二宮さん、何かご用ですか?」雅之はちらりと哲也を見やり、すぐに視線を里香へ向けると、さらりと言い放った。「嫁を迎えに来た」哲也:「……」里香は眉をひそめ、ジロリと雅之を睨みつけた。「子供たちの前で変なこと言わないで」雅之はわずかに眉を上げ、どこか楽しげに口を開いた。「僕たち、結婚してるよな?籍も入れてるよな?つまり、お前は僕の嫁だよな?」里香:「……」矢継ぎ早に畳みかけられ、言葉に詰まった。すると、その様子をじっと見ていた小さな女の子が、そっと里香の手を引きながら、不思議そうに尋ねた。「里香さん、この人が『嫁』って言ってるなら、里香さんの旦那さんなの?」「正解」雅之が薄く微笑み、小さな女の子の目をじっと見つめた。「君の名前は?」「わたし、浅野奈々(あさのなな)だよ!」「いい名前だね。何歳?」「今年で八歳!」奈々は生まれつき、綺麗でかっこいい人が大好きだ。雅之の顔は、まさに彼女の好みにどストライクだった。雅之が微笑むと、警戒心が薄れたのか、奈々は自然と近寄り、興味津々に話し始めた。そんな様子を見ながら、里香は何とも言えない気持ちになった。あきれたようにため息をつくと、哲也とともにトランクから荷物を運び出した。ホームの中は、温かな光に包まれていた。雅之と楽しげに話す奈
里香の動きがぴたりと止まった。ここは人通りが多い大通りだ。もしここで抵抗したら、雅之は本当に何でもやりかねない!里香の表情が一瞬で冷たくなったが、それ以上はもがかなかった。雅之は満足げに口角を上げ、その手を握ったまま街を歩き続けた。しばらく歩いた後、里香は冷たく言った。「いつまでこうするつもり?」雅之は彼女を見つめ、「一生」って答えた。「夢でも見てな」雅之の瞳は真剣そのものだった。「いや、本気で言ってる。僕は努力して、この手を一生離さないつもりだ」里香はもう彼の方を見なかった。道端の屋台から漂う強烈な匂いに、お腹がぐぅと鳴った。里香はそのまま焼きくさや屋台に向かって歩き出した。雅之は、無理やり彼女に引っ張られ、一緒に屋台の前に立ち、目を輝かせながら焼きくさやを買う里香を見つめていた。匂いが本当に強烈だった。雅之の表情が一気に沈んだ。里香は焼きくさやを受け取ると、雅之を一瞥しながら言った。「手、離してくれる?食べるから」雅之はその焼きくさやを見て、どうしても理解できなかったが、渋々手を放した。「こんなの食べてて気持ち悪くならないのか?」「全然」里香はきっぱりと首を振った。「むしろ超美味しい。それに、これ食べた後、全身が臭くなるんだよね。もし嫌なら、離れたら?」雅之の顔がさらに曇ったが、結局何も言わず、里香の後ろをついていった。そして、里香が焼きくさやを食べ終わると、次はドリアンを買った。匂いがさらに強烈になる。ドリアンを食べてもまだ足りない様子で、今度は納豆うどんの店に向かった。雅之はその場で立ち止まり、もうついて行こうとしなかった。その表情はまるで雨が降りそうなほど暗かった。ふと、過去の記憶がよみがえった。里香は昔からこういうものが好きだったけど、自分は苦手だったのに、それでもいつも一緒に付き合ってあげた。雅之はしばらく黙っていたが、結局店の中へと足を踏み入れた。里香がうどんをすすりながら顔を上げると、雅之が自分の向かいに座っていた。少し驚いて、「あれ?入ってきたの?臭いって言ってたくせに」雅之は冷たく彼女を見ながら、「いいから食えよ」里香は唇を持ち上げ、にっこりと笑った。雅之が不機嫌そうにしているのを見て、なんだか気分が良くなった。納豆うどんを一杯食べ終わると、里香
「大丈夫」里香は言った。「私が戻ったら、また開廷できる」哲也は少し複雑な表情を浮かべ、里香を見つめた。今は、これが一番の方法なのかもしれない。「ちょっと街を回ってみたい」里香は言った。「何か買ってきてほしいものある?ついでに持って帰るけど」哲也は笑いながら首を振った。「ないよ。早く戻ってきてね」「うん」里香はうなずいた。ホームを出て、車を走らせて町へ向かった。到着した頃にはもう日が沈んでいた。車を路肩に停め、賑やかな街を歩き出した。ちょうど夕食時で、食事や買い物に出ている人が多かった。空気には食べ物の良い匂いが漂い、里香は周りを見渡した。数ヶ月ぶりに戻ってきたけれど、この町も少しずつ変わっていた。あちこちで開発が進んでいて、これから先、冬木のようにもっと繁栄していくのだろう。その時、スマホが鳴った。画面を見ると、病院の介護士からの電話だった。「もしもし?」「里香お姉ちゃん?」杏の声が聞こえた。「今日はどうして来なかったの?」里香は答えた。「急な用事があって行けなかったんだ。今日は調子どう?」「すごく元気だよ」杏はホッとしたように言った。「うん、それならよかった。何か必要なものがあったら、遠慮せずに山田さんに言うんだよ」山田は杏の世話をしてくれている介護士だった。「うん、分かってる。でも、ねえ、お姉ちゃんはいつ戻ってくるの?」里香は空を見上げながら答えた。「正確には分からないけど、できるだけ早く戻るつもりだよ」「そっか……じゃあ、忙しいんだよね。邪魔しないようにするね」杏の声が小さくなり、少し寂しげな感じがした。杏はどこか不安そうで、まるで里香に見捨てられることを恐れているようだった。これも、家庭環境が与えた傷なんだろう。杏の両親は、いい親じゃなかった。でも、自分の両親は?自分の身代わりになったあの女の子は、愛されて育ったのだろうか?幸子の話では、自分の本当の両親は裕福な家の人だったらしい。なら、少なくとも経済的には恵まれていたはずだ。そう思いながら、里香の目がだんだんと冷たくなっていった。私はもともと、普通に両親がいたはずだった。それを、誰かに奪われた。昔は、このことに対して強い執着はなかった。それは、真実を知らなかったからだ。でも、今は違う。何があったのか、絶対に突
「わかった、一緒に行くよ」そう言いながら、哲也は里香とともに倉庫の入口へ向かい、ポケットから鍵を取り出して扉を開けた。扉が軋む音とともに光が差し込み、舞い上がった埃がゆっくりと宙を漂う。幸子はずっと入口を見つめていた。二人の姿を認めると、大きく息をついて安堵の色を浮かべる。「……あの人たち、もう行ったの?」幸子はおそるおそる尋ねた。哲也は頷いた。「ああ。里香が人を連れてきてくれたおかげだ。そうじゃなかったら、もう捕まってたかもしれないぞ。院長、一体誰を怒らせたんだ?あいつら、相当厄介そうだったけど」幸子の目が一瞬揺れた。里香は冷静な目で彼女を見据え、「私の身分を奪ったやつが送り込んだ人間?」と問いかけた。幸子は視線を逸らし、「いつ、私をここから出してくれるの?」と話を逸らそうとした。しかし、里香の声は冷たかった。「まずは私の質問に答えて」幸子はベッドの縁に腰を下ろし、「先に出してくれるなら、何でも話すわ」と言った。里香はしばらく無言のまま、幸子を見つめた。すると、哲也が眉をひそめて言った。「院長……本当は、最初からその人が誰か知ってたんだろ?」しかも、それをずっと隠していた。なぜだ?金のためか?だが、ホームは決して裕福とは言えないし、幸子自身もそれほどお金を持っているわけじゃない。里香は数歩前へ進み、幸子の目をまっすぐに捉えた。そして、ふいに問いかけた。「その人、ホームにいた人間?」幸子の心に衝撃が走った。ここまで正確に当てるなんて……!だが、絶対に言えない。今ここでバラしたら、自分はどうなる?用済みになった自分は、突き出される……そんなことになったら、地獄のような目に遭うに決まってる!幸子が今、一番後悔しているのは、あのクソガキに協力して里香の身分を奪わせたことだ。あのガキなら、この恩を忘れずに、自分によくしてくれるはずだし、将来は面倒を見てくれるかもしれないと思っていた。なのに、結果はどうだ?あのクソガキは、自分を殺そうとした!秘密を暴露されるのが怖いから!幸子の目に、強い憎しみが浮かんだ。それを見逃さなかった里香は、薄く笑いながら、眉をわずかに上げた。「もともと、あんたたちは運命共同体だったのに、結局、あいつが先に手を切ろうとした。もう用無しってこと?」「と
法廷にいる裁判官や弁護士たちは、どこかやりきれない表情を浮かべていた。肝心の原告が来ないのに、一体どうやって審理を進めるつもりなんだろう?出廷しないのは被告だと思っていたのに、まさかの逆パターンとは……雅之は上機嫌で車に乗り込むと、桜井が尋ねた。「社長、どちらへ向かいますか?」「安江町だ」「了解しました」桜井はすぐに察した。社長はきっと、里香を探しに行くつもりなんだろう。まったく……開廷が失敗に終わったのが、よっぽど嬉しいんだな。それを里香に自慢したくてたまらないってところか。澄み渡る青空の下、道端で遊ぶ犬までがやけに可愛く見えた。その頃。ゆかりのスマホが鳴り、部下からの報告を受けていた。どうやら、目的のホームに入ることができなかったらしい。その瞬間、ゆかりの顔色が一変した。「お前たち、あれだけ人数がいたのに、入れなかったってどういうこと?」「実は……あと少しで中に入れそうになった時、突然二人の男が現れたんです。そいつら、ものすごく強くて……俺たち、手も足も出ませんでした。まともにやり合うのは危険だと判断して、仕方なく撤退を……」「使えない奴らめ!」ゆかりは怒鳴りつけ、顔を歪めた。乱暴に電話を切ると、その瞳には陰鬱な光が宿っていた。幸子のババア……まさか逃げるなんて……!あの時、甘さを見せるんじゃなかった。見つけた瞬間に消しておくべきだった!「コンコン」ちょうどその時、部屋のドアがノックされた。「……誰?」ゆかりは鋭い視線を向け、警戒した。「ゆかり、俺だよ」柔らかな声が耳に届いた途端、ゆかりは表情を整え、勢いよく扉を開けた。そして、一気に景司の胸へと飛び込んだ。「お兄ちゃん!」景司は一瞬驚いたが、すぐに優しく問いかけた。「どうした?何かあったのか?」「悪い夢を見たの。すごく怖かった……お兄ちゃん、一緒にいてくれる?」景司は妹の背中を優しく撫でながら、落ち着かせるように言った。「ただの夢だよ。大丈夫、俺がそばにいるから」ゆかりの苛立ちが、少しずつ落ち着いていく。「そういえば、お兄ちゃん、私のところに何か用があったんじゃない?」「ああ、安江町に行こうと思ってな。あのあたり、今開発が進んでるんだけど、ちょうど良さそうな土地があって。現地を見に行こうと思ってる」「
哲也が再びドアを開けると、ちょっと前まで威張っていた男たちがすでに全員倒れているのが見えた。そこに立っていた二人の男は、軽蔑の表情を浮かべながら、「大したことない連中だな」と言った。里香もその二人を見て少し驚いた。どちらも普通の見た目で、人混みに紛れ込んでもおかしくないような顔立ち。普通の服を着て、雰囲気もまったく普通だ。二人が里香を見て、少し頭を下げて敬意を表し、「こんにちは、奥様」と挨拶した。里香は唇を引き締めて、「あなたたち、誰?」と尋ねた。黒いフード付きスウェットを着た男が答えた。「僕は東雲新(しののめ あらた)、こっちは弟の徹(しののめ とおる)です」里香は少し黙った後、突然尋ねた。「雅之の部下は皆同じ姓なの?」東雲凛と聡、そして今度は新と徹……? 新は笑って、八重歯を見せながら答えた。「みんな孤児だから、雅之様がわざわざ一人ひとりの苗字を考えるのが面倒になって、みんな同じ姓にしたんです」里香はますます疑問に思った。「あなたたちは雅之と同じくらいの年齢に見えるのに、なんで彼の部下になったの?」新は「僕たちは子供の頃から雅之様と出会って、その後ずっと彼についていったんです」と答えた。なるほどね。徹は少しイライラして言った。「ぐだぐだうるさいな、もう行こうぜ」そう言って徹は振り返って歩き出した。新は申し訳なさそうに里香を見て、「すみません、奥様。僕たちは先に行きますけど、何かあったらいつでも連絡してください」と言い、徹を追いかけて行った。「おい、奥様にあんな口の利き方して、凛のことを忘れたのか?」と、新は徹に追いついて顔をしかめながら言った。徹は何も言わず、歩く速度を速めた。新はため息をついて、二人で再び隠し場所を見つけ、影から里香を守ることにした。哲也は倒れている人々を指さし、「こいつらはどうする?」と尋ねた。里香は男たちを見て言った。「誰に指示されて来たの?一体何を企んでいるの?」しかし、リーダーらしきボディーガードは何も言わず、歯をくいしばって立ち上がると、冷たく里香を一瞥して背を向けて去って行き、他の者たちも次々と立ち上がり後に続いた。里香の顔色は少し険しいままだった。男たちは正体を明かすことを拒んだが、幸子を探しているのは確かで、それも幸子を見つけない限り諦めるつもりはな