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結婚式の日、私は「死」を選んだ

結婚式の日、私は「死」を選んだ

Short Story · 恋愛
By:  白川 透子Completed
Language: Japanese
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「黒澤様、ご依頼どおり、あなたと瓜二つの遺体をご用意いたしました。十日後、賀川様とのご結婚式会場へお届けいたします」 受話器の向こうから静かに響いた担当者の声に、黒澤雨音(くろさわ・あまね)は、長らく張り詰めていた神経がふっと緩むのを感じた。 「ありがとうございます。よろしくお願いします」 「いえ、こちらこそ。私どもの責任です。ご安心ください。この遺体に疑念を抱く者は、一人として現れないはずです」 その言葉に背中を押されるように、雨音は小さく息を吐いた。 搬入当日の段取りを改めて念入りに確認した後、通話を終えて静かに個室の扉を開けた。 ついさきほどまで賑やかだった室内は、彼女の姿が現れた瞬間、嘘のように静まり返った。まるで空気そのものが凍りついたようだった。

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第1話

中央の席にいた賀川尚弥(かがわ・なおや)が、すぐに立ち上がって彼女の元へ駆け寄った。心配げな眼差しをたたえながら、手話で問いかけた。[雨音、トイレにしては少し長くなかったか?気分悪いなら、今すぐ家に戻ろう]そう言って、彼は彼女の手を取ってその場を離れようとする。その瞳の中には、自分しか映っていない。雨音は胸を締めつけるような痛みに耐え、かすかに首を振った。[大丈夫。みんなと一緒にいたいの]何度か確認を重ねたのち、ようやく彼は彼女の手を握り直し、ふたりは席へと戻った。和やかな空気が戻りかけたその時——静かに、誰かが口を開いた。「尚弥さん、奥さんともうすぐ結婚だってのに、外に囲ってる若い秘書の方はどうするんです?」その一言に、雨音の指先は無意識に力を込め、掌に爪が食い込んだ。顔がかすかに青ざめた。隣の男が、肘でその人を小突いてたしなめた。「おい、奥さん目の前にいるんだから、ちょっとは空気読めよ」「何言ってんだよ、どうせ聞こえねぇって。ただちょっと尚弥さんがどう処理するのか気になっただけだって」嘲笑うような声とともに、テーブルの視線が一斉に尚弥へと向かう。「このまま囲っておくさ」尚弥はエビを一尾つかみ、丁寧に殻を剥くと、それを雨音の器にそっと置きながら、何気なく言った。「彼女はただの暇つぶしだよ。俺が本当に愛してるのは、雨音だけだ。でも雨音が知ったら、きっと俺の元を去ってしまうだろう。だから、うまく隠してる。結婚してからも絶対にバレないように。それに——お前らも気をつけろよ。誰か一人でも雨音に口を滑らせたら、その時は……容赦しない」言葉の最後に込められた冷たさと鋭い視線がその場にいる全員の背筋をわずかに凍らせたこの場にいる誰もが、裏で女のひとりやふたり抱えているような世界に生きている。だからこそ驚く者などおらず、むしろ羨望すら浮かべながら口を開く。「尚弥さんもなかなか大変だな。俺なんか嫁にとっくにバレてるよ」「いやいや、尚弥さんは違うって。これは純愛だろ、な?」場の空気がどっと和むなか、一人がニヤつきながら口を挟んだ。「ねえ尚弥さん、奥さん耳が聞こえないんだから、家の中で秘書と……ってこともあるんじゃ?」その言葉は途中で濁されたが、残された沈黙がすべてを語っていた。尚弥はふ...

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第1話
中央の席にいた賀川尚弥(かがわ・なおや)が、すぐに立ち上がって彼女の元へ駆け寄った。心配げな眼差しをたたえながら、手話で問いかけた。[雨音、トイレにしては少し長くなかったか?気分悪いなら、今すぐ家に戻ろう]そう言って、彼は彼女の手を取ってその場を離れようとする。その瞳の中には、自分しか映っていない。雨音は胸を締めつけるような痛みに耐え、かすかに首を振った。[大丈夫。みんなと一緒にいたいの]何度か確認を重ねたのち、ようやく彼は彼女の手を握り直し、ふたりは席へと戻った。和やかな空気が戻りかけたその時——静かに、誰かが口を開いた。「尚弥さん、奥さんともうすぐ結婚だってのに、外に囲ってる若い秘書の方はどうするんです?」その一言に、雨音の指先は無意識に力を込め、掌に爪が食い込んだ。顔がかすかに青ざめた。隣の男が、肘でその人を小突いてたしなめた。「おい、奥さん目の前にいるんだから、ちょっとは空気読めよ」「何言ってんだよ、どうせ聞こえねぇって。ただちょっと尚弥さんがどう処理するのか気になっただけだって」嘲笑うような声とともに、テーブルの視線が一斉に尚弥へと向かう。「このまま囲っておくさ」尚弥はエビを一尾つかみ、丁寧に殻を剥くと、それを雨音の器にそっと置きながら、何気なく言った。「彼女はただの暇つぶしだよ。俺が本当に愛してるのは、雨音だけだ。でも雨音が知ったら、きっと俺の元を去ってしまうだろう。だから、うまく隠してる。結婚してからも絶対にバレないように。それに——お前らも気をつけろよ。誰か一人でも雨音に口を滑らせたら、その時は……容赦しない」言葉の最後に込められた冷たさと鋭い視線がその場にいる全員の背筋をわずかに凍らせたこの場にいる誰もが、裏で女のひとりやふたり抱えているような世界に生きている。だからこそ驚く者などおらず、むしろ羨望すら浮かべながら口を開く。「尚弥さんもなかなか大変だな。俺なんか嫁にとっくにバレてるよ」「いやいや、尚弥さんは違うって。これは純愛だろ、な?」場の空気がどっと和むなか、一人がニヤつきながら口を挟んだ。「ねえ尚弥さん、奥さん耳が聞こえないんだから、家の中で秘書と……ってこともあるんじゃ?」その言葉は途中で濁されたが、残された沈黙がすべてを語っていた。尚弥はふ
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第2話
雨音はそっと箸を置くと静かに席を立った。もうこれ以上、聞こえないふりをしながら、虚飾にまみれた言葉に耐える必要はなかった。その動きを察した尚弥が、すぐさま立ち上がり、手話で問いかけた。[どうしたの?]雨音はかすかに首を横に振り、小さな声で答えた。「少し疲れたの。先に帰って休むね」彼の返事を待つことなく、彼女は踵を返して個室をあとにした。通りに出た瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは正面の高層ビルの巨大スクリーン。そこには、あのプロポーズの映像が夜の街を鮮やかに彩っていた。【雨音、俺と結婚してくれ!】真っ白な文字が闇に浮かぶように輝いていた。通行人が足を止めて歓声を上げた。「わあ……賀川社長の彼女、耳が聞こえないんだって。それで、彼女のために市内で一番高いビルのスクリーン全部借り切って、プロポーズしたんだって!しかも成功してから一ヶ月ずっとこの映像流してるらしいよ」「ほんとに愛してるんだね……あんな旦那さんなら幸せ間違いなしだよ」そんな声に、雨音はわずかに口角を引きつらせただけだった。ほんの一週間前まで彼女もそう思っていた。彼は世界で一番信じられる人だと。児童養護施設で育ち、九歳のとき高熱をこじらせ、適切な治療を受けられなかったせいで、聴力を失った。それからというもの、彼女は施設でも学校でも常にいじめられるようになった。いじめ、無視、見えない悪意——心の奥に築かれた高い壁は誰にも超えられないはずだった。その壁を最初に揺らしたのが尚弥だった。一目惚れだったと言い、何度も何度も告白してきた彼を雨音は執拗に拒み続けた。それは恋という名の遊びを、彼女が幾度となく経験してきたから。告白は九十九回、拒絶も九十九回。それでも彼は諦めなかった。そんなある日、地震が起きた。鋼材が降ってくる中、彼は迷わず雨音を庇い、自らの肩を貫かれながらも彼女を守り抜いた。病院で目を覚ましたとき、彼は力なく、しかし真っ直ぐに手話を送った。[君が無事でよかった]その瞬間、雨音の心にかすかなひびが入った。三ヶ月かけて手話を習った彼の努力。肩に残る、今も癒えぬ褐色の傷痕。そのすべてが彼の本気の証のように見えた。付き合っていた五年間、尚弥はずっと変わらず優しかった。その誠実な想いは、雨音の心にまっすぐ届いていた。彼
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第3話
雨音は深く息を吸い込み、胸の奥を刺すような痛みをぐっと押し込んで、ゆっくりと立ち上がった。帰ろうとしたその瞬間、大きな手が彼女の腕を掴み、動きを止めた。[雨音、どうして待っててくれなかったの?なんだか、今日は元気ないね。だったら、ドレス見に行こう? オーダーメイドのウエディングドレス、ようやく届いたんだ。気に入らなければ、何度でも直してもらえるよ]尚弥は当たり前のように彼女を抱き寄せ、愛おしげにその髪に手を添えた。「行きたくない。ドレスはあなたが決めて」結婚式のその日には、もう彼の前から姿を消すつもりだった。だから、ドレスなんて彼女にはもう必要なかった。それがどれほど美しくても、彼女にとってはもはや何の意味も持たなかった。尚弥はその冷たい声色にわずかに目を伏せ、不安げに手話で問いかける。[雨音、最近、式の話しても全然楽しそうじゃないよね。まさか、本当は俺と結婚したくないの?]揺らぎと怯えを湛えたその瞳を見つめながら、喉元まで言葉が込み上げる。ええ、そうよ。もうあなたとは結婚しない。裏切ったのはあなた。私たちの愛を泥にまみれさせたのもあなた。なのに、今さら「結婚したくないのか」なんて。よく、そんな言葉を口にできるものね。 だが、彼女はそれを口にしなかった。まだ、その時ではなかったから。ドレスショップの扉をくぐると同時に、カーテンの向こうから姿を現したのは、まるで芸術品のような純白のドレスだった。[黒澤様、こちらが賀川様がフランスでご注文された特注ドレスになります。サイズや仕様のご希望があれば、何なりとお申し付けください]傍のスタッフがすぐにその説明を丁寧に手話へと変換する。その様子を見て、店内のスタッフたちは思わず声をひそめながらささやき合った。「賀川様って、本当に気遣いが行き届いてるわ。通訳までちゃんと手配して」「しかも、あのドレスのピンクダイヤ、オークションで落とした逸品らしいよ。デザイナーに直談判して、あの位置に埋め込んでもらったんだって」「聞いた?そのデザイナーの今年のスケジュール、全部買い取ったらしいよ。一年かけて、彼女のためだけに仕立てた一着なんだって」尚弥は満足そうに微笑みながら、そっと彼女の腰に手を回した。[どう? 気に入った?]ドレスの中心には、鳩の卵ほどの大きさ
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第4話
帰宅したその瞬間、スマホの通知音が鳴り響いた。雨音が画面を開くと、そこにあったのは一枚の写真——上半身裸で背中を向ける尚弥と、胸元の開いたマーメイドドレスに身を包んだ瑶。床を引きずるドレスの裾は腰まで捲られ、白く艶やかな両脚が尚弥のたくましい腰に絡みついている。あまりにも生々しく、そして淫靡な一枚だった。続けて一本の動画が届いた。頬を紅潮させた瑶が、尚弥の首に腕を回し、甘ったるい吐息を漏らしていた。「賀川社長……今日届いたばかりのドレス、もうぐちゃぐちゃじゃないですか」尚弥は喉の奥で笑い、耳元で低く囁いた。「お前がウェディングドレスを着たがったのは、俺に見せるためだろ?ちゃんと雨音と同じデザイナーに頼んで作らせたんだ。今夜はお前の番だろ?」彼女が小さく喘ぎ、映像はそこでぷつりと途切れた。それでもまだ足りないとばかりに、もう一通のメッセージが届いた。【うっかりしてた、黒澤さんって耳が不自由なんですよね?次は字幕つけてあげますね〜(笑)】スマホを握る指の関節が白く浮き出し、雨音の瞳から溢れた涙がぽたぽたと床を濡らした。心が裂けるというのは、こういうことなのか。それまで知らなかった。二人の女にウェディングドレスを着せて悦に浸る男の「愛」など聞きたくもない。そんな愛、耐えられないし、欲しくもない。胸を締め付ける痛みに必死で蓋をし、目元に手をやったとき——薬指の指輪が視界に入った。じっと見つめたのち、それを静かに外してゴミ箱へ投げ捨てた。この指輪は、尚弥が自ら宝飾デザイナーの元で学び、図面を描き、職人の元を訪れ、金槌で一打一打、丹念に仕上げたものだった。「俺が自分で作った指輪じゃなきゃ意味がない。この指に触れるたび、俺の想いを感じられるように——」そう言って、彼はプロポーズしてきた。けれど、今の彼の「愛」はすでに腐りきっていた。それならば、この指輪にも、もはや存在意義はない。深夜。ようやく尚弥が帰ってきた。ベッドに沈む重みとともに、香水と石楠花の混じった匂いが鼻をつき、動画の映像が脳裏に蘇る。雨音はこらえきれず、洗面所に駆け込んで嗚咽を漏らした。[雨音、大丈夫か?医者を呼ぶ!]慌てふためく尚弥を、雨音は目を潤ませながら静かに制した。「平気。ただ……吐き気がするような写真と映
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第5話
きっと後ろめたさがあったのだろう。それから数日間、尚弥は雨音のそばを片時も離れず、仕事も自宅でこなしながら結婚式の準備まで細かく確認していた。そしてその日。彼はどうしても出席しなければならないビジネスパーティーに向かうこととなる。[一緒に来てくれ]と尚弥は言い、雨音が断る間もなくスタイリストの予約まで勝手に済ませていた。会場に到着し、彼女はようやくその場に瑶がいることに気づいた。Vネックのタイトなドレスに身を包んだ瑶は豊満なボディラインをこれでもかというほど際立たせ、笑顔で二人に近づいてきた。「賀川社長、黒澤さん」穏やかで品のある挨拶。まるで前夜にあの動画を送りつけてきた挑発的な彼女とは別人のようだ。さすが尚弥の相手をするだけあって、演技も堂に入っている。雨音はしっかり見ていた。尚弥の目が瑶を捉えた瞬間、ほんのわずかに暗くなり、喉仏が上下に動いたことを。それでも彼は雨音の手を握ったまま、冷徹な上司のような顔で軽く会釈を返した。会場では尚弥の姿を見つけた来賓たちが、次々とグラスを片手に彼の元へ挨拶に訪れてきた。一方で、奥さんたちが雨音に話しかけようとしても、彼女は相変わらず「聴覚障害者」としての役を演じ、何も聞こえないふりを貫いた。尚弥は笑顔で事情を説明しつつ、雨音が退屈しないようにと、わざわざ彼女の好物のスイーツとジュースを選んで運んできた。その姿に周囲の人々から賞賛の声が上がった。「賀川社長って本当に理想の男性よね」「未婚の婚約者をあそこまで気遣うなんて、噂以上だわ」雨音は黙って目を伏せ、長いまつげの陰に冷たい嘲笑を隠した。そのとき、尚弥のスマホが鳴った。画面を見た彼の顔に微かな変化が生じ、すまなさそうに一言。[すみません、少し仕事の連絡がありまして]そして手話で雨音に伝える。[雨音、ちょっと用事がある。すぐ戻るから、ここで待っててね]雨音の視線がふと会場内をさまよったら、瑶の姿は消えていた。ほどなくしてスマホが振動し、画面を見ると、送信者は瑶だった。開くとそこにはチャット画面のスクリーンショットだった。送信者は背中が露わになった写真を送っていた。ファスナーが一番下まで下ろされたドレス。その一枚に、誰もが「その後」を想像せずにはいられない。【賀川社長ファスナーが上がらなくて
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第6話
思わず振り返ろうとした雨音だったが、まだ「聴覚障害」の演技を続けていることを思い出し、無理やりその動きを止めた。尚弥はすぐに彼女の前に駆け寄り、どこか怯えたような瞳で問いかけた。[雨音、君……僕から離れるつもりなのか?もうすぐ結婚するっていうのに、どこへ行こうとしてるんだ?]彼女が何の反応も示さないことに気づくと、ようやく尚弥ははっとし、手話で同じ問いを繰り返した。雨音は表情を崩さず、静かに言った。「友人が遠くへ行くの」その冷静な言い方に尚弥はしばらく彼女の顔をじっと見つめた。嘘ではないと判断したのか、ようやく胸をなでおろした。[よかった……雨音、さっき本当に心臓が止まるかと思ったよ。君がいなくなったら、僕、どうやって生きていけばいいんだ]そう言って彼は雨音を強く抱きしめ、怯えたように腕に力を込めた。心に響くはずのその言葉も雨音の心には一滴の波紋すら起こさなかった。そんなに怖がるくらいなら、なぜ裏切ったの?私が「聞こえない」と思って、何をしてもいいとでも?残念だったね。尚弥はまだ不安げに彼女の腰を抱いたまま言った。[雨音、帰ろう。これからは君を一秒たりとも見失わない]「あら?じゃあ、あなたの秘書はどうするの?」[少し体調が悪くて、もう先に帰ったよ]その嘘が、あまりにも自然だったことに、かえって雨音は寒気を覚えた。駐車場に向かう途中、雨音はある光景を目にした。瑶が一人の男と揉み合っていた。男は彼女の手首をつかみ、逃がすまいとし、もう片手は彼女の腰に触れようとしていた。瑶は抵抗し、ついには平手打ちを喰らわせた。逆上した男はその場に転がっていたビール瓶を掴み、彼女めがけて振り上げた——その瞬間だった。腰に感じていた尚弥の腕のぬくもりが、ふいに消えた。彼は一瞬の迷いもなく瑶の元へ駆け出し、その体をしっかりと抱きしめて庇った。ビール瓶が尚弥の肩に命中し、ガラス片が割れて血が吹き出した。白いシャツは瞬く間に赤に染まった。尚弥の顔は凍りついたように険しくなり、瑶が無事なことを確認すると、そのまま男の胸倉をつかみ、容赦なく拳を叩き込んだ。「誰に手を出してるつもりだ、ああ!?死にてぇのか!」次々に放たれる鉄拳に、男は顔を青ざめさせ、もはや抵抗する余裕もなく許しを乞うばかりだ
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第7話
病院へ向かう車の中。先ほどまで瑶の肩を抱き、気遣いの言葉をかけていた尚弥がようやく雨音の頬の傷に気づいた。病院に着くと、流血が止まらない自分の肩をよそに尚弥は医師に懇願した。「もうすぐ結婚式なんだ。僕の雨音の顔に絶対に傷を残さないでくれ!」そう言い終えると手話で彼女に向き直り、申し訳なさそうに言った。[ごめんね、全部僕のせいだ。さっき瑶を庇ったのは彼女が僕の部下だからだよ。君を怒らせたくなかった……許してくれる?]雨音は何も返さなかった。ただ、医師に向かってこう告げた。「私の傷は後回しでいいので、彼の肩を優先して処置してください」どうせ結婚式には出席しないから、顔に傷が残ろうと、もうどうでもいい。尚弥は彼女が痛みを隠してまで寄り添う姿を、自分のための「無償の愛」だと信じ込み、どこか感極まったように静かに微笑んだ。医師が血に染まったシャツを切り開くと、露わになったのは生々しい傷口。その位置を見た瞬間、雨音の視線が止まった。ちょうど、五年前の地震で鉄筋に貫かれた場所と同じ。当時できた丸い傷跡は新たな裂傷にすっかり覆われ、跡形もなくなっていた。そうか……これは神様が示しているのかもしれない。私たちの関係は、もう終わるべきだと。病院を出る頃、瑶が両腕で自分を抱きながら尚弥にしがみつくように話しかけた。「ねえ、今夜、あなたの家に行ってもいい?」そのか細い声に尚弥は戸惑いながらも、目に見えて心を揺らがせた。視線をそっと雨音に移し、探るように手話で問いかけた。[雨音、今日は瑶がひどく怯えていて……少しの間だけ、うちに泊めてあげてもいいかな?]すぐに、まるで誤解されまいとするかのように、必死で続けた。[変な意味じゃないんだ。ただ、上司として責任があるから……]その言い訳めいた説明に、雨音は手のひらに爪を食い込ませた。この人、本気でこの場に連れて帰るつもりなの?しかし、次の瞬間。自嘲の笑みが口元に浮かんだ。もういいわ。どうせ私が去ったあと、遅かれ早かれ彼女があの家に住むんだから。「好きにして」その一言に、尚弥はどこか安堵しつつも、瑶の前では極力距離を取った。彼女が話しかけようとしても、尚弥は目で制した。雨音は、そんな二人の芝居じみたやりとりすら見る気がせず、窓にもたれて目を閉じた。
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第8話
瑶が両腕で尚弥の首にしがみつき、頬を紅潮させながら、かすれた声で喘いだ。「尚弥……ダメ、もう無理……」尚弥は頭を彼女の胸元にうずめ、嗄れた声で呟いた。「さっきあの男に触られたんだ……お前の体には、俺の痕だけを残さなきゃ気が済まない。今日は俺が『終わり』って言うまで休ませない」瑶は快楽にゆがむ顔を上向け、息も絶え絶えに笑った。「もし……もし桐谷さんに見られたら、どうする?」その言葉が終わらぬうちに、尚弥の動きが止まり、冷えきった声で言い放った。「彼女の耳は聞こえない。バレることはない。……絶対に、彼女の前でこのことを話すな」瑶はしょんぼりとした表情で、尚弥の胸元に指で円を描いた。「わかってるよ。ただ……彼女がもうすぐあなたの奥さんになるのに、私は誰にも知られない存在なんだと思うと、つらくなるの」その弱音に、尚弥の顔に一瞬、哀れみが浮かんだ。彼は彼女の頬を軽くつねり、口元に笑みを浮かべた。「プチ嫉妬魔か?君を家に連れてきたってだけでも、十分特別なんだよ。安心しろ。たとえ結婚しても、君を捨てたりはしない。雨音に与えるものは君にもすべて用意するから」その言葉に、瑶の顔にようやく笑みが戻った。「じゃあ……結婚式までの間、ずっと一緒にいてね?」尚弥は少しだけ躊躇したものの、彼女の潤んだ瞳に見つめられ、結局うなずいた。「ああ、わかった」瑶の目が嬉しそうに輝き、彼の耳元に口を寄せて囁いた。「ねえ、今すぐ……あなたが欲しいの」尚弥の目に再び欲情の色が宿り、彼女の腰を強く引き寄せた。二人の体は再び絡み合い、情欲に溺れていった。そのとき、部屋の外に立つ一人の女性がいた。雷光が窓辺を照らし、その光の中に浮かび上がったのは、蒼白な顔をした雨音だった。彼女は唇を噛み、両手で口を必死に押さえ、嗚咽を堪えようとしていた。涙はとめどなく頬を伝い、視界をぼやけさせた。いくらあの女が送ってきた動画を何度も見たとしても、今この目で見た「現実」ほど心を抉られることはなかった。響き渡る喘ぎ声、甘くねっとりとした囁きの一つひとつが、鋭い刃となって、彼女の心を何度も何度も突き刺した。「……もう、無理」雨音は踵を返し、音もなくその場から逃げ出した。寝室に戻った彼女はベッドの上で膝を抱えて丸くなった。それでも、体は
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第9話
朝になり、雨音が目を覚ましたとき、尚弥と瑶はすでに階下で朝食をとっていた。彼女が姿を見せると尚弥はすぐに立ち上がり、椅子を引いて席をすすめた。差し出されたのは、すっかり冷めた粥。雨音は無言で箸を取り、淡々とそれを口に運ぶ。尚弥はどこか後ろめたさを滲ませながら言った。[雨音、会社で急な出張が入ったんだ。数日間は婚礼の準備をプランナーに任せてもらえる?仕事が終わったらすぐに戻ってくる。結婚式の後はちゃんと一週間休みを取ってあるから、君の好きな場所にハネムーンに行こう]だが雨音はすでに「出張」の本当の理由を知っていた。それでも、彼女はただ軽くうなずいただけだった。玄関先で靴を履いた尚弥を雨音は呼び止めた。「尚弥」尚弥はきょとんとした顔をし、次の瞬間、いつものように彼女の頭を撫でて微笑んだ。[なに?俺がいないと寂しくなっちゃうの?でももうすぐ結婚するんだし、すぐまた会えるよ。毎日、君のそばにいるからね]外から、瑤の明るい呼び声が響いた。尚弥は彼女の頬にキスを落とし、振り返ることなく出ていった。あれが、きっと最後に見る彼の後ろ姿だった。出発して間もなく、雨音のスマホに瑤からメッセージが届いた。【黒澤さん、昨日のこと全部見てたんでしょ?まさかあそこまで我慢できるとは思わなかった〜】【尚弥はね、これから数日間ずっと私に付き添ってくれるって。結婚目前なのに、他の女の隣にいるなんて、あなた本当に世界一哀れな花嫁ね】【今日は二人で新居を買いに行くの。『これからの私たちの家』なんだって!遊びに来てね】雨音は返信をせず、静かにメイドを呼びつけた。「屋敷の中の、私に関するもの全部——写真も持ち物も婚約関連のものも庭に集めてください」メイドが困惑しながら聞いた。「結婚式写真も……ですか?」雨音は視線を客間の中央に掲げられた巨大な結婚式写真へ向けた。自分はカメラを見つめ、尚弥は優しく彼女を見つめる——まるで愛が溢れて止まらないようなその視線。かつては宝物のようだったその一枚が、今となってはただの冷たい虚像にしか見えなかった。「はい、全部です」そしてすべての「思い出」が積み上げられた庭に、彼女は静かに火を点けた。火の粉が舞い上がり、写真、手紙、指輪の箱——すべてが、灰へと変わっていく。五年の記憶。今ここ
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第10話
その頃、瑶の家では——ベッドの上、何度も「ごめんなさい」と懇願する瑶を、尚弥はようやく解放した。彼は乱れた呼吸のまま、彼女の手首を掴み、低く擦れた声で囁いた。「妊娠してるのに……おとなしくしてないとはな」瑶は尚弥の胸に身を寄せ、甘えた声で笑った。「だって、あなたが溜まってるんじゃないかと思って」尚弥は苦笑し、彼女の頬をつねった。「俺にはプチ嫉妬魔がついてるんだな」瑶は顔を背け、声にわずかな棘を忍ばせる。「明日は他の女と結婚するんでしょう?ヤキモチの一つくらい許してよ」その言葉に、尚弥の顔色が一変する。彼は手を放ち、ベッドの上で彼女を見下ろした。「瑶。いいか、雨音の前で騒ぎを起こさなければ、どれだけ甘やかしてもいい。けど、自分の立場を見誤って、彼女の前で俺たちのことを明かすような真似をしたら——」瑶の顔から血の気が引いた。妊娠しているこの身になってさえ、尚弥は平然と彼女を牽制する。だが彼のそばで一年も過ごしてきた瑶の最大の武器は、空気を読む力だった。彼女は目に涙を浮かべ、尚弥の首に腕を回してすがりついた。「わかってるよ。私、黒澤さんの座を奪おうなんて思ってない。彼女は耳が不自由だから、つい……テーブルの下からちょっかい出しただけなの」尚弥は、彼女の不満に気づきながらも、腹に子を宿す身であることを思い出し、少しだけ優しくなった。「もういい。泣くな。ハネムーンから戻ったら、君にも一週間ちゃんと付き合う。結婚しても、お前と子供を疎かにすることは絶対にないから」その言葉に瑶は満足げに微笑み、彼の耳元に唇を寄せた。「それなら……今夜も、たっぷり感じさせてよ」再び彼の瞳が熱を帯び、彼女をベッドに押し倒した。部屋には、夜通し熱を帯びた声が響いていた。翌朝。尚弥は早めに目を覚まし、鏡の前で髪を整えていた。後ろから瑶が抱きつき、彼のワイシャツの襟元にそっと唇を押し当てた。彼はそれに気づかぬまま、彼女の額にキスを落とし、優しく言った。「数日間は、家で安静にしてるんだよ。戻ったら、すぐに会いにくるから」まだ膨らんでいないお腹にそっと手を当て、愛おしそうに微笑んだ。「いい子にしてるんだよ。パパ、すぐ帰ってくるからな」式場へ向かう車の中。尚弥はスマホを開き、てっきり雨音から連
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