中央の席にいた賀川尚弥(かがわ・なおや)が、すぐに立ち上がって彼女の元へ駆け寄った。心配げな眼差しをたたえながら、手話で問いかけた。[雨音、トイレにしては少し長くなかったか?気分悪いなら、今すぐ家に戻ろう]そう言って、彼は彼女の手を取ってその場を離れようとする。その瞳の中には、自分しか映っていない。雨音は胸を締めつけるような痛みに耐え、かすかに首を振った。[大丈夫。みんなと一緒にいたいの]何度か確認を重ねたのち、ようやく彼は彼女の手を握り直し、ふたりは席へと戻った。和やかな空気が戻りかけたその時——静かに、誰かが口を開いた。「尚弥さん、奥さんともうすぐ結婚だってのに、外に囲ってる若い秘書の方はどうするんです?」その一言に、雨音の指先は無意識に力を込め、掌に爪が食い込んだ。顔がかすかに青ざめた。隣の男が、肘でその人を小突いてたしなめた。「おい、奥さん目の前にいるんだから、ちょっとは空気読めよ」「何言ってんだよ、どうせ聞こえねぇって。ただちょっと尚弥さんがどう処理するのか気になっただけだって」嘲笑うような声とともに、テーブルの視線が一斉に尚弥へと向かう。「このまま囲っておくさ」尚弥はエビを一尾つかみ、丁寧に殻を剥くと、それを雨音の器にそっと置きながら、何気なく言った。「彼女はただの暇つぶしだよ。俺が本当に愛してるのは、雨音だけだ。でも雨音が知ったら、きっと俺の元を去ってしまうだろう。だから、うまく隠してる。結婚してからも絶対にバレないように。それに——お前らも気をつけろよ。誰か一人でも雨音に口を滑らせたら、その時は……容赦しない」言葉の最後に込められた冷たさと鋭い視線がその場にいる全員の背筋をわずかに凍らせたこの場にいる誰もが、裏で女のひとりやふたり抱えているような世界に生きている。だからこそ驚く者などおらず、むしろ羨望すら浮かべながら口を開く。「尚弥さんもなかなか大変だな。俺なんか嫁にとっくにバレてるよ」「いやいや、尚弥さんは違うって。これは純愛だろ、な?」場の空気がどっと和むなか、一人がニヤつきながら口を挟んだ。「ねえ尚弥さん、奥さん耳が聞こえないんだから、家の中で秘書と……ってこともあるんじゃ?」その言葉は途中で濁されたが、残された沈黙がすべてを語っていた。尚弥はふ
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