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第10話

Author: 白川 透子
その頃、瑶の家では——

ベッドの上、何度も「ごめんなさい」と懇願する瑶を、尚弥はようやく解放した。

彼は乱れた呼吸のまま、彼女の手首を掴み、低く擦れた声で囁いた。

「妊娠してるのに……おとなしくしてないとはな」

瑶は尚弥の胸に身を寄せ、甘えた声で笑った。

「だって、あなたが溜まってるんじゃないかと思って」

尚弥は苦笑し、彼女の頬をつねった。

「俺にはプチ嫉妬魔がついてるんだな」

瑶は顔を背け、声にわずかな棘を忍ばせる。

「明日は他の女と結婚するんでしょう?ヤキモチの一つくらい許してよ」

その言葉に、尚弥の顔色が一変する。彼は手を放ち、ベッドの上で彼女を見下ろした。

「瑶。いいか、雨音の前で騒ぎを起こさなければ、どれだけ甘やかしてもいい。けど、自分の立場を見誤って、彼女の前で俺たちのことを明かすような真似をしたら——」

瑶の顔から血の気が引いた。

妊娠しているこの身になってさえ、尚弥は平然と彼女を牽制する。

だが彼のそばで一年も過ごしてきた瑶の最大の武器は、空気を読む力だった。

彼女は目に涙を浮かべ、尚弥の首に腕を回してすがりついた。

「わかってるよ。私、黒澤さんの座を奪おうなんて思ってない。彼女は耳が不自由だから、つい……テーブルの下からちょっかい出しただけなの」

尚弥は、彼女の不満に気づきながらも、腹に子を宿す身であることを思い出し、少しだけ優しくなった。

「もういい。泣くな。ハネムーンから戻ったら、君にも一週間ちゃんと付き合う。

結婚しても、お前と子供を疎かにすることは絶対にないから」

その言葉に瑶は満足げに微笑み、彼の耳元に唇を寄せた。

「それなら……今夜も、たっぷり感じさせてよ」

再び彼の瞳が熱を帯び、彼女をベッドに押し倒した。

部屋には、夜通し熱を帯びた声が響いていた。

翌朝。尚弥は早めに目を覚まし、鏡の前で髪を整えていた。

後ろから瑶が抱きつき、彼のワイシャツの襟元にそっと唇を押し当てた。

彼はそれに気づかぬまま、彼女の額にキスを落とし、優しく言った。

「数日間は、家で安静にしてるんだよ。戻ったら、すぐに会いにくるから」

まだ膨らんでいないお腹にそっと手を当て、愛おしそうに微笑んだ。

「いい子にしてるんだよ。パパ、すぐ帰ってくるからな」

式場へ向かう車の中。尚弥はスマホを開き、てっきり雨音から連
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    光希は、美和の手に優しく包まれながらも、どこか浮かない顔をしていた。母の声は優しくもあり、少しばかり強引でもある。「光希、ママが保証するわ。本当に素敵な子なの。一度だけでいいから会ってみて。もし合わなかったら、そのときはちゃんとママが断るから。ね?」実家に戻ってきて、最初に直面したのが「赤ちゃんの頃の婚約」だったとは。光希は思わず苦笑するしかなかった。それは、彼女がまだ生まれる前の話。美和とその親友が同じ時期に妊娠し、もし一人が男の子で、もう一人が女の子だったら将来結婚させよう。同性なら兄妹のように育てよう——そんな微笑ましい約束から始まった縁。やがて二人の子どもは見事に男女で生まれ、「これで私たち、親友から親戚になれるのね」と、二人は胸を躍らせていた。しかし、運命のいたずらで光希は誘拐され、この約束は自然と消えてしまった。それが今になって再び、母たちの間で持ち上がったという。相手の男性も独身、ならば一度再会の場を——と、ふたりの母親は再びその「約束」に夢を馳せたのだ。だが、光希にとって恋愛はまだ遠い存在だった。五年続いた苦く重い恋が、心の奥に残した傷はまだ癒えていない。それを母に話すつもりはなかった。余計な心配をかけたくなかったし、あの頃の記憶を、家族の中に持ち込みたくなかった。だから、一度だけなら——と、彼女は小さく頷いた。「会うだけなら……」それで納得した母は、早速スケジュールを組み始め、あれよあれよという間に、当日の夕方、朝倉家の別荘でディナーが決まった。さらには専属のメイクアップアーティストまで呼んで、髪も服もばっちり整えられる。光希は、ただされるがままに鏡の前に座っていた。だが、まさか。「……あなた?」「……君!?」顔を合わせた瞬間、互いに驚きの声を上げた。視線の先にいたのは、まぎれもなく―佐久間悠真(さくま・ゆうま)。目が合ったその瞬間、時間が止まったようだった。お互いの記憶の中にある姿が、現実と重なる。二人の様子を見た美和と悠真の母親の佐久間瞳(さくま・ひとみ)は、すぐに察したように視線を交わし、「ちょっとお茶を入れてくるわね」と、さりげなくその場を離れていった。残された広い庭には、微妙な空気が流れる。その沈黙を破ったのは、悠真だった。「黒澤さん……いや、朝倉

  • 結婚式の日、私は「死」を選んだ   第19話

    綾乃は、やつれきった尚弥の姿を見つめ、胸が締めつけられるような思いだった。頬はこけ、目には生気がなく、まるで魂が抜け落ちてしまったかのよう——そんな息子の姿に、ただただ心を痛めるしかなかった。「尚弥、お願いだから、少しでもいいから、何か口にしてちょうだい……」けれど彼は、まるでこの世の音が届いていないかのように、じっと黙ったまま、自分だけの世界に閉じこもっていた。本音を言えば、綾乃は耳の聞こえない雨音を息子の嫁として受け入れることに、最後まで納得していなかった。だが、息子がそこまで惚れているのなら……と、仕方なく頭を下げた。上流階級の夫人たちに、「嫁が聾だなんて」と陰で笑われるのは、絶対に嫌だった。それが理由で、夫と共に「出張」という建前で、結婚式への出席を回避した。けれど……たった二日家を空けただけで、賀川家は音を立てて崩れ始めた。雨音の突然の自殺、式場に届けられた棺。息子の不倫スキャンダルが一気に広まり、株価は暴落。そして今、息子は抜け殻のように、ただ座っているだけ。綾乃にとって、そのすべての責任は雨音にあった。——この世界で、外に愛人の一人や二人持っていない男なんている?どうしてあの子だけが、それを受け入れられなかったの?苛立ちが声に滲み出る。「尚弥……雨音さんの死は、あなたのせいじゃないのよ。もし、もう少し大人だったら、こうはならなかったはずよ」その名前にだけ、尚弥の身体が微かに反応した。そして、かすれた声が、ぽつりと漏れる。「母さん、俺が裏切ったんだ。約束を破った。雨音を、俺が……殺したんだ。だから、俺は償わなきゃ……」久しぶりに対面した息子の姿に、博文の眉間がぎゅっと寄った。荒れ果てた精神、沈み切った気力。そして、刻一刻と迫る会社の危機。抑えていた怒りが、ついに爆発する。破れたままのウェディングドレスをつかみ、ゴミ箱に投げ入れる。そして、拳を振り上げる代わりに、指先で息子を激しくなじった。「雨音と結婚するって言い出したのは、お前だろ!愛人を囲ったのも、お前の意思だ!誰に強制されたわけでもない!その結果がこれか?自分で選んだ道に、自分で潰れて、今さら何を見せてるつもりだ!」父が叱る理由を、尚弥もわかっていた。ただ、彼にはもう、何も響かなかった。——あ

  • 結婚式の日、私は「死」を選んだ   第18話

    イギリス。光希——いや、これからは「朝倉光希(あさくら・みつき)」。彼女は目の前にそびえるお城のような邸宅を見つめながら、まるで夢の中にいるかのような気分だった。まさか、ただの海外旅行のつもりだったのに自分の「本当の両親」と、こんな形で再会するなんて。飛行機の中、隣に座っていた貴婦人が、なぜか何度も彼女の顔を見ていた。礼儀として挨拶を交わすと、自然に会話が始まった。貴婦人はイギリスに住む日本人で、今回の帰国は、26年前に行方不明になった娘を探すためだと語った。長年、夫婦で海外に住みながら事業をしており、次女が生まれたのはちょうど正月で日本滞在中のこと。1ヶ月経ったらイギリスに戻るつもりでいたが、出発前日、娘が忽然と姿を消した。すぐに警察に届け出て、友人にも捜索を依頼したが、1ヶ月探しても手がかりはなかった。警察からは「誘拐の可能性が高く、発見の見込みは極めて低い」と通告された。滞在期限も迫っており、夫婦は涙を飲んでイギリスへ帰国せざるを得なかった。けれども、二人はあきらめなかった。それから毎年、同じ街に1ヶ月滞在し、情報を集め続けた。国内の友人にも捜索を依頼し、今年で26年目になる。周囲の人々から「もう諦めるべき」と何度も言われたが、それでも希望の灯は消さなかった。今回も何の手がかりもなく帰国するところだった―ただ、光希を見た瞬間、不思議と心が揺れた。光希も、その貴婦人にどこか懐かしい温もりを感じ、思わず自分の身の上を語ってしまった。彼女が孤児であり、しかも行方不明の娘と同じ都市の出身だと知った瞬間、貴婦人の目に光が宿った。手を取って「もしよければ、下りたらDNA鑑定をお願いできませんか」と言われ、隣にいた夫の真剣な眼差しにも背を押され、光希は自然と頷いていた。空港に着くや否や、二人は一番早く結果が出る機関へと車を走らせた。不安に包まれながら結果が出るまで待った。光希は、まさしく、彼らが26年間探し続けてきた娘だった。その瞬間、夫婦は彼女を力いっぱい抱きしめ、こらえきれないほど泣き崩れた。そして光希も、ようやく知ったのだ。自分は、誰にも望まれなかった存在なんかじゃなかった。自分を、ずっと、ずっと愛して、探し続けてくれた人たちがいたのだ。両親は彼女に尋ねたうえで

  • 結婚式の日、私は「死」を選んだ   第17話

    メッセージを受けて駆けつけたボディーガードがドアを押し開け、震える瑶を抱え上げて、命じられた通りに病院へと向かった。彼女は必死に抗ったが、訓練を積んだ男たちを相手に、もがいたところでどうにもならない。今まさに連れ出されそうになったその瞬間、瑶は声が枯れるほど叫んだ。「尚弥、あんたは黒澤さんだけを愛してるって言ったけど、私たちは一緒にどれだけの夜を過ごしてきたと思ってるの?それでも、私には一片の情もなかったの?愛してるって、あんた、自分で言ったくせに!」だが、尚弥は微動だにせず、ボディーガードに冷たく命じた。「早く病院へ連れて行け」瑶は運ばれる途中も必死に抵抗し、病院に着くなり医師や看護師に助けを求めた。だが、ここは賀川グループが所有する私立病院。スタッフ全員が尚弥を知っており、彼の言葉は絶対だった。瑶は手術台に拘束され、麻酔が打たれると、ゆっくりと意識が闇に沈んでいった。再び目を覚ましたとき、ほんの少し体を動かしただけで、下腹部に鈍く重い痛みが走った。彼女の子どもは、もうどこにもいなかった。瑶の瞳からは、光が完全に失われていた。虚ろな目で、ただ天井を見つめている。尚弥は、医師から流産が確認されたと聞くと、そのまま彼女のベッドサイドに現れた。「退院したら、この街を出て行け。もう、お前の顔は見たくない」瑶の顔を見るたびに、彼は自分の裏切りと、雨音の自殺を思い出し、心が張り裂けそうになるのだった。瑶はわずかに目を動かし、自分がもう「奥さん」の座を永遠に失ったことを悟った。——愛人でいることすら、もう許されない。だから、もう投げやりだった。「尚弥、今のあんた、自分のこと『純愛を貫く男』だと思ってる?隠し子を堕ろさせて、愛人を追い出して、一人で死んだ恋人に浸ってる気分はどう?」その皮肉な言葉に、尚弥の拳がギュッと音を立てて握られた。目が、殺気を帯びる。「黙れ!」それでも瑶は笑みを浮かべて、容赦なく続けた。「最初に身体を重ねたとき、私が頼んだ?違うでしょ?あんたが自分の欲に負けて私を押し倒したんじゃないの?この間も、あんたが連れて帰るって決めた。夜中に私の部屋に来たのも、あんた。私は一度だって無理やりなんかしてない。黒澤さんが死んだのは、あんたが殺したようなもんよ!」

  • 結婚式の日、私は「死」を選んだ   第16話

    瑶の顔がさっと青ざめた。まさか——このことが尚弥の耳に入っていたなんて。とっさに、反射のように否定の言葉が口をついた。「尚弥……何を言ってるの?私、黒澤さんには何も言ってないわ……ほんとうに」けれどその言葉は、尚弥の冷ややかな嗤いにかき消された。彼は無言のまま、彼女の顎を乱暴に掴み上げる。指先に力がこもる。「まだ白を切る気か?俺がメッセージを見てなかったら、お前の正体にも気づけなかっただろうな。俺の前では従順な小ウサギのふりをして、雨音の前じゃずいぶん偉そうだったらしいじゃないか」「何度も警告したよな?雨音は、俺の人生で唯一、本気で愛した女だ。お前は、ただの暇つぶしに過ぎない存在なんだよ」「雨音の死……お前にも責任がある。必ず、代償を払わせてやる」その言葉と同時に、彼の手は彼女の首元へ移動し、容赦なく締めつけてきた。五本の指がじわじわと食い込み、腕には怒りの血管が浮き上がる。顔は冷え切っていて、それが逆に恐ろしかった。息ができない。命の危機にさらされた本能が、瑶の両手を必死に動かせる——彼の手を何度も叩く。でも彼はまったく緩めない。かつてあれほど夢中になったその顔が、今はこの世で一番恐ろしいものに見えた。胸が苦しい。意識が遠のきそうになる中、喉の奥から無理やり二文字を搾り出した。「子ども……」その瞬間だった。尚弥の手が、ようやく彼女の首から離れた。瑶は崩れ落ちるように床に倒れ、苦しげに息を吸い込み、咳き込み、何とか生き延びた。命を繋いだ安心感に体が震える。だが彼女の惨めな姿を目にしても、尚弥の目に浮かぶのは、冷たい無関心だけだった。彼の思考は、もはや一つしかなかった。——この腹の中の子どもを、消す。雨音は、瑶の存在が原因で命を絶った。それが事実なら、瑶という存在も、彼女の腹の中の命も……許せなかった。見るだけで吐き気がする。けれど瑶の中では、逆に希望の光が微かに灯っていた。彼の恐ろしい姿も、絞めつけられた苦しさも、今やもう記憶の彼方。脳内にこだまするのは、たったひとつの言葉だけ——雨音が、死んだ?嫉妬に駆られて、あの結婚式の配信は見なかった。検索もしていない。まさか、あの程度のメッセージと写真で、自殺するなんて。——本当に、脆い女。

  • 結婚式の日、私は「死」を選んだ   第15話

    一方で、瑶は尚弥のあまりにも即答に近い返事に、一瞬きょとんとした。だが次の瞬間、全身が喜びに打ち震えた。今日は尚弥と雨音の結婚式——その事実がある以上、たとえお腹の子を理由にしても、彼を雨音のもとから引き離すには、それ相応の言葉と演技が必要だと思っていた。なのに、彼はわずか一言で承諾した。用意していた言い訳も、小芝居も、出番すらない。そのことに気づいた瞬間、瑶の心臓は高鳴りを増した。これはつまり、自分の存在が、もう雨音を越えたということじゃないの?だったら、「奥さん」の座も、もうすぐ手に入る。しかも今、自分の腹の中には、尚弥の第一子がいる。瑶の瞳には、獲物を狙う確信に満ちた光が宿っていた。たとえ今日、雨音が「奥さん」の名を得たとしても、その座を守れるとは限らない。尚弥が来る前に、瑶はシルクのナイトドレスに着替え、彼の最も好む香水を肌にまとうと、ソファに横たわり、甘い幻想に身を委ねながら彼の到着を待った。やがて、ドアが静かに開く音がした。入ってきた尚弥の視界に飛び込んできたのは、ネグリジェ姿でソファに寝そべる瑶の艶めいた姿。しかし彼の目に浮かんだのは、冷たく鋭い光だった。腹の調子が悪い?——笑わせる。きっとまた、彼を雨音のそばから引き離すための芝居に違いない。昔から、瑶はこうした手を使う女だった。だが当時、彼にとって彼女は単なる暇つぶしの相手。従順で、都合よく甘えてくれるなら、それなりに可愛がってやることもあった。だが、それ以上を求めるような野心は絶対に許せない。彼の心における「妻」という存在は、初めから終わりまで、ただ一人——雨音だけだった。そして雨音の死。瑶、お前にもその責任はある。必ず償わせる——しかし瑶は、その冷気のような殺気にも似た空気に、まるで気づいていなかった。彼女は今、「奥さん」になる夢の中にいた。尚弥の姿を目にすると、彼女はわざと弱々しく、そっと自分の平らなお腹を撫でながら呟いた。「尚弥……今日があなたと黒澤さんの結婚式なのは、分かってる。でも……どうしてもお腹の調子が悪くて……」「あなたにとって初めての赤ちゃんなのよ。なにかあったらって思ったら、怖くて……それで、電話したの」彼は冷え切った視線で、黙って彼女を見つめた。「どこが悪いんだ

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