* * *
十年前―――――
私は大学の近くに一人暮らしをはじめた。 実家は千葉にあり通えない距離ではなかったが、社会勉強したほうがいいと母に言われて一人暮らしをさせられた。 一人っ子で大事に育ててもらったので、料理も洗濯もできなかった私の将来を両親は心配していたのだろう。 私と母が決めた家は古いアパートだった。家賃が安いわりには1DKの広さがあって一人で暮らすには充分だった。 階段を上がって二階の一番右の部屋。玄関は外にむき出しだけど、大学を卒業して就職するまでの間だし、ちょっとボロボロな家でも我慢しよう。 実家は金銭的に余裕がなく、丸くて小さな座布団とちゃぶ台などの家具はリサイクル店で購入した。 ベッドは高いから家にある布団でいいと持参したが、小さいソファーと可愛い花柄のカーテンは奮発して買った。そこで私は一人暮らしを満喫していた。 アルバイトは、近くのファミリーレストランで週に三回。少しずつ生活に慣れつつあった。 大学に入って気がつけば一ヶ月が過ぎていて、友達もできて、それなりに充実した毎日だった。 そんなある日曜日。 今日はアルバイトが入っていなかった。外はあいにくの雨だったので掃除をしたり洗濯をしたりしていた。洗濯物は部屋干し決定だなと思いつつ窓から外を見ると、昼なのに真っ暗だ。 チャイムが鳴り、窓から玄関に振り返る。 誰だろう? 「はーい」 疑いもせず、玄関のドアを開けると知らない男の人が立っていた。 「ちゃんと誰か確認してからじゃないと、危ないよ」 今まで男性に興味を持ったことがなかったけど、すごくカッコイイので見入ってしまう。目がキラキラしているが、凛々しい眉毛が印象的な人。 「そっか。あなたが入居したんだね」 「……はい?」 優しい笑顔になった彼は、天井を見上げる。 「あ、まだ使ってたんだね。このランプ可愛いでしょう?」 玄関の天井にあるランプは、花びらみたいな形をしていた。 入居した時からついていたもので、可愛いからそのまま使っていたのだ。 「これね、兄貴の付き合っていた人からプレゼントされたんだ」 ……ここに住んでいたのだろうか。 謎すぎる。怪しい。私はいまさら警戒しだす。 気がついた彼は、眉を下げて力なく笑った。 「突然、驚かせてごめんね。俺、紫藤大樹(しどうだいき)って言います。ここの家に思い出があって、たまに誰か入居したのかなって見に来ていたんです。そしたら、明かりがついていたので……。もう入居者がいるなら来ないから安心してください。ごめんね。帰ります」 頭を下げて彼は振り返る。外には雨粒が見えるほど激しく雨が降り出していた。 この大雨の中を「帰れ」なんて言うのは酷じゃないか。でも、知らない人を家にあげちゃ駄目って言われているし。 「雨宿りしてもいいかな。玄関で構わない。中に入らなくていいから」 ものすごく迷った。玄関でいいと言われたけれど、もしかしたら急に私のことを襲ってくるかもしれないし。かなり警戒しながら紫藤さんの顔を見るけれど、悪いことをするような瞳じゃない感じがした。外で雨が止むまで待っていたら風邪をひいてしまう。玄関までならいいかな。 「……じゃあ、玄関でなら」 「ありがとうございます。なんか、ごめんね。本当に変な奴じゃないから」 扉の中に入ってきた紫藤さんは、靴を脱がずに黙って立っている。 私は洗濯物を干さなきゃと思い部屋の中に入っていく。 この家に思い出があったらしいけど、どんな思い出だったのだろう。そんなことを考えながら、洗濯物を干し終えた。 玄関を見ると携帯をいじりながら立っている紫藤さんがいた。ずっと立っているのも疲れるに違いない。「あの、もしよければ、どうぞ」座布団を差し出す。「あ、ありがとう」彼はゆっくりと腰を降ろした。居間に戻って読書をしよう。冷蔵庫から作り置きのアイスティーをグラスに注いで座ろうとしたが……紫藤さんも、喉が乾いているかもしれない。もう一つガラスを取ってアイスティーを注ぐ。それを持って私は玄関へと移動した。「あの、もしよければどうぞ。アイスティーですが大丈夫ですか?」 グラスを差し出すと笑顔を向けてくれた。すごくキュートだ。 男の人に対して可愛いと思うのは、失礼なのかな。 「ありがとう。気を使わせて悪いね」 「いえ」 「あ、ほら見て」 携帯の画面を見ると、この家の居間でピースをしている紫藤さんが映っている。 「ここに住んでいた時の写真だよ」 「今はどちらに?」 「K大の近くなんだ。俺そこの大学生をしてるよ」 なんとなく優秀な雰囲気は漂っている気がしたのは、一流大学に通っているからなのか。学生証を見せてくれてウソじゃないことを証明してくれる。 「小さい頃に両親が事故に遭って、兄貴が俺を育ててくれたんだ。俺を大学に入れるために一生懸命働いてくれてさ」 「そうだったんですね」 「あぁ。俺は期待に応えようと思って努力して合格することができたんだ。兄に知らせようと思って携帯電話を手に持ったら電話がかかってきてさ。警察からだった。合格発表の日に兄貴まで交通事故で帰らぬ人になったんだ。その時に、大学の近くに引っ越ししたんだ」 紫藤さんは、きっと寂しかったんだ。 私も二年前に可愛がってくれた祖母が亡くなった。祖母と兄ではまた違うかもしれないけれど身内が亡くなるという悲しみは私にも理解できていた。 「私もお婆ちゃんを亡くしているので、少しは気持ちがわかります」 ふふっと柔らかく笑った紫藤さん。彼はそんなに悪い人じゃないかもしれない。 「人は泣きながら生まれてくるでしょ? 呼吸をするために泣いているんだろうけど、どうも俺は、別れの時を予感して泣いているように感じるんだ」 なんとも、芸術的なことを言う人だ。 「ごめん。なんか、ごめん。おかわりもらってもいいかな?」 「あ、はい」 空っぽになったグラスを差し出してきた紫藤さんとしばらく玄関で話していたのだけど、一向に雨が止む気配はない。 「もし
リビングに戻ると、紫藤さんは喉でクククって笑っている。「すごい慌てようだったね」「男の人を部屋に入れたことが無いので、洗濯物を隠すとか気が回らなかったんです」「男とか女とか以前に普通は洗濯物を隠すでしょ? きっとキミは大事に育てられたお嬢さんだったんだね」「そうかもしれないです。料理も洗濯もできない娘でした。親がなんでもやってくれるのが当たり前だったんです。甘え過ぎていたなぁって、今は反省しています」今は本当にそう思っている。だからこうして一人暮らしをはじめたことは正解だったのではないだろうか。「反省しているならいいじゃん。これから頑張ればいいさ」前向きな考え方ができる紫藤さんを尊敬する。私はどちらかというと悪いほうへ物事を考える性格だから。一度落ち込んでしまうとだんだんとマイナス思考になってしまうのだ。話し込んで気がつけば時間は十九時になっていた。グーッとお腹が鳴ると恥ずかしさのあまり顔が熱くなってしまう。「たしかに、腹減ったよね……」なにか作りましょうかと言いたいところだが、作れる料理といえば、目玉焼き、スクランブルエッグくらいだ。唯一できる料理も焦がしてしまうことが多い。母は心配して、先日、にんじん・玉ねぎ・じゃがいも・お肉とカレールーを送ってきたのだが、それすら危うい。まして他人に食べさせるなんて無理だ。お腹を壊して病院に運ばれてしまうかもしれない。「ご、ごめんなさい。料理できないんです」頭を深く下げてお詫びする。「じゃあ俺が作ってあげようか?」予想外の提案に私は顔を上げた。「そ、そんな。お願いしてもいいんですか?」「うん。冷蔵庫見せてもらうね」ソファーから立ち上がった紫藤さんは、冷蔵庫を開けて中身をチェックしている。窓がカタカタいうほど雨と風は強くて、まだ帰れそうにもないようだ。私はとてもお腹が減っているけれど彼もお腹が空いているに違いない。それならお言葉に甘えて作ってもらう?「カレーライスできるじゃん」「すごい! そうなんですよ。お母さんが作りなさいって材料を送ってくれたんです」「……マジでキミ、ヤバいね」自分の女子力の無さにがっくり落ち込む。「じゃあ台所借りるね」「どうぞ」手際よく料理をはじめだした。包丁で人参の皮を剥き、ジャガイモはボコボコして複雑な形をしているのに簡単に皮を剥いていく。私は
「俺のこと、見たことある?」はて?紫藤さんの顔をじっと見るけど、こんなイケメンな知り合いはいない。「その様子だと知らないみたいだね」「ごめんなさい」「仕方がないさ。深夜番組にやっと出られるようになったんだ」「テレビ……ですか?」コクリとうなずいた紫藤さん。通りでイケメンなわけだ。芸能関係の仕事をしているということになる。「COLORっていう……一応ダンスができるアイドルグループなんだ。まだまだだけどね」「へぇ、踊れるんですね。すごいなぁ」「まあね」「サインもらっておかなきゃなぁ」カレーライスを食べ終えて外を見ると雨は落ち着いてきたようだった。ということは、紫藤さんとお別れの時間になる。ちょっと、寂しいかも。食器を洗ってくれた紫藤さんは、振り返ると軽やかにステップを踏み出した。体の動きにキレがある。すごいと言いながら手を叩くと、満面の笑みをくれた。「この家の前に来ると……なんだか、兄貴に会える気がしてさ。でも、びっくりさせてしまったね。もう、ここはキミの家だから来ないことにするよ」「え……」私は、紫藤さんにわかるくらい悲しそうな顔をしてしまったのかもしれない。真剣な表情で私を見つめてくる。誤解を与えたくないと思って咄嗟に考える。「実は私、お兄ちゃんが欲しいってずっと思っていたんです。一人っ子で……。お母さんにお兄ちゃん作ってと無理なお願いを小さい頃はしていました。ハハ……」そうだ。この寂しいと思う感情は、紫藤さんをお兄ちゃん的存在に感じているのだ。「お兄ちゃんか。そう言えば、俺も妹が欲しかったよ。女の子の気持ちを知りたくてね。女の子は俺のことを何も知らないクセに『カッコイイ。好きです』って言ってくるんだ。外見だけで人を好きになるなんて、なんか、違くない?」私は深くうなずいた。今まで恋らしい恋をしたことがなかったけど、外見だけで人を好きになったりはしないだろう。一目惚れをしたと話している人のことを否定するつもりはないが、私はその人の性格を知らなければ絶対に好きにならない気がしていた。「人を好きになるなんて、簡単なことじゃないと思います。私、一生恋愛なんてしないんじゃないかな?」「俺も」クスクスって笑い合う。「気が合いそうだな、俺とキミ。また、兄代わりで遊びに来てあげる。抜けているところもあるから心配だしね」「はい。
* * *はっと顔を上げて時計を確認するともう二十時だ。パソコンに向かって集中して仕事をしていたので気がつけばこんなに遅い時間になっていた。明日は、COLORのマネージャーとの打ち合わせだ。私が交渉するわけじゃないのに緊張している。新しい部署に来て一週間が過ぎたけれど、覚えることとやることがいっぱいあってストレスがかかっていた。他の社員はすでに退社して私は一人だった。ふぅーっと息を吐きだし、右手で肩を揉み首を回す。「揉んでやろうか?」コーヒーの香りと一緒に聞こえたのは杉野マネージャーの声だ。誰もいないと思ってリラックスしていたのに突然登場したので慌てる。「え、いえ……! けっこうです」「初瀬って案外ピュア?」「……え」「彼氏とかいるの? あ、こういうのってセクハラになっちゃうのかな……」ぼそっとつぶやいた杉野マネージャーは、私のデスクの隣に腰をかける。足が長いと感心してしまう。「彼氏なんていません。私みたいな地味な女は一生独身でしょうね」「ずいぶん、自虐的だな。可愛いのに」か、可愛いなんて。大くんに言われてから言われてない。ということは、もう何年も言われてないことになる。私はこの先、恋愛はしないつもりだ。もう、あんなに悲しい思いをしたくない。「交渉は俺がするから、初瀬はそんなに緊張するなって。早く帰ってしっかり寝て明日に備えろ。な」諭すように言われたので私は素直に頭をさげた。杉野マネージャーは自分のデスクに戻ったのを見届けて、私は帰る準備をはじめる。容姿がよくて気配りもできる杉野マネージャーなら、綺麗な彼女がいるんだろうなぁ。まだ独身で過ごしているのが珍しいと女性社員が噂しているのを聞いた。「お先に失礼します」「お疲れ様」部署を出てエレベーターホールに向かう。もし、あの時――。大くんを部屋に入れていなければ今とは違う人生を歩んでいたかもしれない。恋に怯えることなく、オフィスラブをして、結婚をして子供を産んで。忙しいけれど充実した毎日を送っていた可能性だってある。タラレバだ。過去に戻ることはできないし、その時自分で選んできた道なのだからこれからもその道の続きを歩き続けなければならない。
家に戻ってテレビをつけると、大くんが司会をしているバラエティー番組がやっていた。いつもなら、すぐにチャンネルを変えるけど、今日はすごく大くんを思い出してそのまま見てしまった。相変わらずカッコイイ。美しい滑舌で話していて聞きやすい声だ。キラキラしている。CMに入ると、大人気モデルの宇多寧々(うだねね)さんが可愛い笑顔で映っている。大くんと熱愛報道が出た人だ。あの時、私は心から大くんを愛していたけど、今は別世界の人。ふたをしていた悲しくて苦しい気持ちがあふれてできそうになったので、テレビを消してソファーに横になる。「ふぅ」大くんは、はじめて家を訪れてから一週間後にふたたび来た。たしか、手作りのお弁当を持参して。お母さんが作ってくれるような、カラフルなお弁当だった。まだ会って二回目なのに顔を見た途端すごく安心したのを覚えている。本当にはじめは男性ということを意識してなかった。大学時代にいつも心配して仲良くしてくれていた真里奈〈まりな〉には、大くんのことは話していなかった。そうだ。真里奈に久しぶり電話をしてみようと電話を手に持った。番号を選んでコールを鳴らすとすぐ出てくれる。『もしもし? 久しぶり!』明るく元気な声だ。最近は、お互い仕事が忙しくて会えていない。「元気だった?」『うん! まあ、仕事は忙しいけどね。美羽はどう?』「実は部署が変わっていろいろと大変なんだ。CMとか作る部署でさ……」『すごいじゃない。かっこいい!』イメージキャラクターに大くんを使うことになったとは、まだ外部に情報公開できないのでいうことができなかった。「最近すごく昔のことを思い出すんだよね」過去にあったすべてのことを唯一知っている友人だ。『忘れるのはなかなか難しいよね。毎日のようにテレビにも出てるし。街を歩けば広告に使われていて記憶からなかったことにするっていうほうが難しいよね』「うん……。私のことなんてもう忘れてしまってるのかな」『忘れられるわけないじゃない。もし忘れていたら人として最低ね』大くんのことを、最低なんて言わないで。いまだに、大くんをかばってしまうのだ。『近いうちに呑みに行こうよ』「ありがとう」久しぶりに真里奈の声を聞いて元気が出た。大くんは、私を恨んでいるだろうか。憎んでいるだろうか。今でも、私を思い出してくれることはあ
*予定通り、COLORのマネージャーさんが来社した。会議室で打ち合わせと交渉をする。私も同席させてもらい勉強する。これから私もこのような仕事をして行かなければならないのだ。「池村春子〈いけむらはるこ〉と申します」名乗ってくれた女性は、二十代後半というところだろうか。しっかりしている印象だ。交渉金額は八千万円で、頭がくらくらする金額である。芸能人ってすごすぎる。「先日企画書をお送りさせていただいたのですが目を通していただいたでしょうか? ぜひ、紫藤大樹様にお願いしたいと思います。リッチなマンゴープリンなんで、ちょっぴり贅沢したい日に食べるというコンセプトなんです」熱く語る杉野マネージャーの言葉を池村マネージャーは冷静に話を聞いている。一通り説明を終えたところで池村マネージャーはしっかりとうなずいた。「そうですね。では、ご提示された金額で受けたいと思います」「ありがとうございます」私も頭を深く下げる。「ただ一つ問題がございまして。スケジュールですが……。かなり埋まっていて厳しい状態なんです。来週末で調整してもらえるならぜひお願いしたいのですが」池村マネージャーは手帳を確認しながら淡々と言う。えっ、そんないきなり無理でしょ!CM撮影は、スタジオバージョン、沖縄バージョンに分かれている。パッケージに使う写真の撮影もあり、やることがてんこ盛りだ。さすがに杉野マネージャーは断るのではないかと私は予想したが、このまま話を進めたのだ。「了解しました。打ち合わせは……」言いかけたところで池村マネージャーが制する。「申し訳ありません。今伝えたスケジュールの中で打ち合わせも込めてやってくださらないと無理です。紫藤はどんなに忙しくても週に一度、休みを与えないとストレスが溜まって体に影響が出てしまうのです」あぁ……大くんらしい。彼は気まぐれの猫のようにマイペースだった。「なるほど。ではタイトなスケジュールになると思いますが、いただいた二日間で終わるようにいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします」交渉が終って会社の玄関まで池村マネージャーを見送ると、杉野マネージャーはため息をついた。「CM一本八千万ももらったら、人間らしい生活なんてできないだろうな」「そうですね」エレベーターホールに向かいながら、会話を続ける。「ということで、来
「え? ファンなのか?」「違います」「大丈夫だから。俺が上手くやるから。初瀬は隣で笑顔を作っていればいい。そして、学ぶ。いいか? これは成長するチャンスだ」顔を覗きこんでくる杉野マネージャーと至近距離で目が合う。そしてにっこりと笑ってきた。「案外、可愛いな。お前」「え?」「メイクはバッチリなのにピュアっていうか。まぁ不安がるなって。相手は芸能人だけど同じ人間だからさ」仕事だということをすっかり忘れていた。しっかりしなきゃ。広報に来てまだまだ未経験の私は断るなんてことはできないのだ。「俺が丁寧に教えるから安心してついて来い」「は、はい」杉野マネージャーがもう一度『開』ボタンを押すと、エレベーターの扉が開いた。促されて中に乗った。彼は振り返り私に微笑みかけてくれる。「テレビを見てくれる人が印象に残るようなコマーシャルができるといいな」「そうですね」「気合を入れて頑張るぞ」グイグイ引っ張ってくれるタイプで頼りになる。今の私は仕事に生きるしかないのだ。いきなりすごい展開になってしまったけれど気を引き締めて前進していこうと決意をした。 *それからというもの目まぐるしい日々だった。撮影を行っている会社へ依頼をかけて、スケジュール調整を重ねてバタバタと一日が過ぎていく。仕事が定時の六時で終わることなんてほとんどない。隣の席の千奈津も忙しそうにしている。「完熟バナナのコマーシャルを作るんだけど、アイディアが浮かばない!」んーっと唸って、頭を抱え込んでいる。そんな私と千奈津に杉野マネージャーが缶コーヒーの差し入れをしてくれた。「糖分補給しろー。いいアイディアが浮かぶぞ。来週の会議までに案を搾り出せよ」「はーい」辛そうに返事をしている千奈津。杉野マネージャーって優しい。厳しい部分もあるけど、上司として尊敬できる。私もいずれまた役職が上がる日が来るかもしれない。その時は部下に頼りにしてもらえるような上司になりたいと新たな夢を持つようになった。杉野マネージャーは席に戻る。私も視線をパソコンの液晶に戻した。仕事は大変なのは当たり前だ。あるだけありがたい。恋人はいないけれど充実した社会人生活を過ごせているし、このまま、平和であればいいと願う。大くんに会ってしまったら、人生が狂ってしまうのではないか? い
仕事を終えると、杉野マネージャーは呑みに誘ってくれた。「腹減ったし、どっか行かないか?」「はい。行きましょうか」千奈津は先に帰っていて二人きりだった。上司の誘いだし警戒する必要もないだろうと、二つ返事をしてしまった。連れてきてくれたのはホテルのバーだ。落ち着いた雰囲気で大人が来るところという感じだ。私はもういい年齢だけど精神年齢はまだまだ子供なのかもしれない。カウンターに並んで座ると、とりあえずビールで乾杯しサンドイッチを摘む。「うわ、これ美味しいですね」「だろう? ここのサンドイッチは絶品で大好きなんだよね。可愛いなって思った子しか連れてこない隠れ家的な場所なんだ」「そうなんですか」モグモグと食べていると、プッて噴出される。何が面白かったのか理解できない私はキョトンとしていると、杉野マネージャーはじっと私を見つめる。「あのさ、一応、口説いてんだけどなぁ」「どなたを?」またプッて笑って口元を抑えている。ゴツゴツした大人な男性の手が目に入って、セクシーだと思い顔が熱くなった。「初瀬美羽を」「は……い? わ……私……ですか?」「しっかりしてそうなのに、ピュアで、男性経験が少なそうで。いいなーって思いはじめてるというか」まさかのまさか。こんなに素敵な上司に口説かれるなんてありえない!からかっているのだと思って私はケラケラと笑い出した。「冗談はよしてください」杉野マネージャーは真剣な眼差しを向けてくる。「実は付き合っている人がいるとか?」「いえ」「じゃあ、過去に何かあったとか?」質問を重ねてくるなとは思ったけれど、アルコールも入っていたので私はスラスラと答えてしまう。「過去に……ちょっと辛い恋愛をしてしまってから、恋ができない体質といいますか……」言葉に詰まっていると杉野マネージャーが鋭い視線を送ってくる。「まだ、そいつのこと好きだとか?」まだ、大くんを好き――……?好きという気持ちは冷凍したのだ。だけど、何かのきっかけで溶けてしまったらどうしようと、ずっとずっと不安だった。だからこそ、大くんの映っている番組や、雑誌から目を背けていたし、過去に愛していた人を応援しようなんて大きな心を私は持ち合わせていない。記憶から消すことばかり考えて生きてきた。「おーい、初瀬。大丈夫か? 意識が飛んでるぞ」ぼんやりと考えてし
赤坂side音楽番組の収録を終えた。楽屋に戻ると、大樹は美羽さんに連絡をしている。「終わったよ。これから帰るから。体調はどうだ?」堂々と好きな人とやり取りできるのが、羨ましい。俺は、久美の親に結婚を反対されているっつーのに。腹立つ。会うことすら許してもらえない。大きなため息が出てしまう。私服に着替えながらも、久実のことを考える。久実を幸せにできる男は、俺だけだ。というか、どんなことがあっても離さない。俺は久美がいないと……もう、生きていけない。心から愛している。どんな若くて綺麗なアイドルなんかよりも、世界一、久実が好きだ。どうして、久実のご両親はこんなにも反対するのか。俺に大切な娘を預けるのは心もとないのだろうか。なんとしても、久実との交際や結婚を認めてほしい。一生、久実と生きていきたいと思っている。俺のこの真剣な気持ちが伝わればいいのに……。日曜日に実家まで押しかけるつもりでいた。 強制的に動かなければいけない時期に差し掛かってきている。 苛立ちを流し込むように、ペットボトルの水を一気飲みした。「ご機嫌斜め?」黒柳が顔を覗き込んでくる。「別に!」「スマイルだよ。笑わないと福は訪れないよ」「わかってる」クスクス笑って、黒柳は楽屋を出て行く。俺も帰ろう。「お疲れ」楽屋を出てエレベーターに乗る。セキュリティを超えて ドアを出るとタクシーで帰る。一人の女性をこんなにも愛してしまうなんて予想していなかった。自分の人生の物の見方や思考を変えてくれたのは、間違いなく久実だ。きっと彼女に出会っていなければ、ろくでもない人生を送っていたに違いない。
週末まで仕事をして、金曜日の夜になった。赤坂さんが日曜日に突撃すると言っていたけれど、本当なのだろうか。冗談で言っていると信じたいけれど、彼はまっすぐな性格をしているから、冗談じゃない気もする。でも本当に家に来てしまったら、修羅場になるのではないか。不安な気持ちのまま夕食を食べて、何気なくテレビを見ていると赤坂さんが画面に映し出された。その姿を見るだけで私の心臓は一気にドキドキし始める。すごくかっこいいし、早く会いたくなる。許されるなら同棲をし、今後して、家族になりたい。そんな感情がどんどんと溢れてくるのだ。私の感情を打ち消すかのように、お母さんはさり気なくチャンネルを変えた。「……お母さん」そんな意地悪しないでと心の中でつぶやく。お母さんは小さなため息をついた。そして私に視線を向けないまま口を開く。「忘れるなら早いほうがいいのよ。二番目に好きな人と結婚すると、幸せになるって言うでしょ?」私に言い聞かせるようなそれでいて独り言のような感じだった。「お母さんは、二番目に好きな人がお父さんだったの?」「……」ここほこっとわざとらしく咳をして話をはぐらかされてしまった。お母さんは立ち上がって台所へ行ってしまう。たとえ幸せになれなくても私は一番目に好きな人と結婚したい。反抗的な感情が胸の中を支配していた。
入浴をして自分の部屋に入ると、どっと疲れが出る。 両親は……どうしたら、赤坂さんとの交際や結婚を認めてくれるのかな。 考えてもいい案が浮かばない。 「はぁ……」 赤坂さんに会いたい。抱きしめてほしい。 スマホに着信があり確認すると、赤坂さんだ。 以心伝心みたいで嬉しい。私のスマホに彼の名前が表示されるだけで嫌なことが全部チャラになったような気がするのだ。 慌てて出る。 「もしもし」 『久実、許可は取れたか?』 「あ、うーん……」 『許してくれないか。こうなったら、行くしかないな』 「ちょっと、何を考えてるの?」 『俺は久実を愛してんの。今すぐにでも迎えに行きたい』 これって、プロポーズなのかな。ドキドキして、耳が熱くなる。 今までもプロポーズみたいなことは言ってくれたけど改めて言われると心臓がおかしな動きをする。 「私も、だよ」 赤坂さんを愛おしく思う。 『松葉杖取れたから』 「本当!よかったね!」 『ということで、次の日曜日に突撃するわ』 「はっ⁉︎」 『じゃあな。ちゃんと寝ろよ』 電話が切れてしまい、私は、唖然としていた。 突撃されたら、お父さんは、もっと怒るかもしれない。ど、どうしよう。 冗談なのか、本気なのかわからない。そこが赤坂さんらしいのだけど。 突撃するわ、とか言いつつ、本当に来ないだろうとどこかで思っていた。
一気に部屋の空気が悪くなる。お父さんは無言でグラスのお茶を飲んだ。お母さんは眉間にしわを寄せて小さなため息をつく。散々反対されていたから、いい反応をしてくれないというのは予想ついていた。でも、負ける訳にはいかない。「プロポーズされたのか?」お父さんがいつも以上に低い声で問いかけてくる。怖じけそうになるけれど、私は気持ちを落ち着けて普段話をするように言葉を発した。「まぁ、そんな感じ。私は、赤坂さんがいなきゃ生きていけないの。赤坂さんが挨拶をしたいと言っていたから、会ってもらえない……かな?」お父さんとお母さんが顔を見合わせている。「お願い……。私も大人になったの。だから認めて」箸を止めていたお父さんが食事を再開する。まるで私の話を無視しているかのようだやっぱり、赤坂さんとの結婚はハードルが高い。落ち込みながら、私も食べ物を口に運んだ。味がしない……。きっとショックすぎているからだ。「久実は、自分をわかっているようでわかっていない」お父さんは、厳しく告げる。「自分は、一番自分をわかっているよ」つい、言い返してしまう。お父さんが私をギロッと睨んだ。あまり言い合いをしたくない。関係がこじれたら、もっと話がややこしくなる。部屋の空気が重いまま食事を終えた。
仕事を終えて外に出ると、とっても寒くて、体を縮こませた。 年は明けているけど、春はまだ遠い気がする。春ってなかなか来ないんだよね。待ち遠しい。 電車に揺られて、自宅に帰る。この普通の日常が私にとってはありがたい。赤坂さんが助けてくれたからこそ、こうして生きていられる。 私は、ふとスマホのカレンダーを見た。 来月は美羽さんと紫藤さんの結婚パーティーがあるんだった。 こぢんまりとやると言っていたけど、その中に招待してもらえたので嬉しい。 美羽さんのこと、大好きだし。 赤ちゃん、順調に育っているのかな……。 過去にいろいろあったみたいだから今度こそは絶対に健康で生まれてきてほしいと私も陰ながら願っていた。「ただいま」 家に帰ると、お母さんが作ってくれた夕ご飯の美味しい匂いが漂っている。 「お帰り」 早く、赤坂さんとのことを言わなきゃと思うけど、緊張してしまう。 手を洗ってうがいをしていると、お父さんも珍しく早く帰ってきた。 両親が二人揃っているので、赤坂さんに会ってほしいというには、いいチャンスかもしれない。ダイニングテーブルについて、食事をはじめる。 今日は、お母さんお手製のオムライスとサラダとコーンスープが並んでいた。大好物ばかりなのに緊張して落ち着かない。 「今日は仕事どうだった?」 ……赤坂さんとのこと、言わなきゃ。言わなきゃ。言わなきゃ。 「久実!」 「あ、な、なに?」 お母さんの問いかけに驚いて顔を弾かれたように上げる。 「なんか、変よ」 「そ、そうかな……」 笑ってごまかすがお父さんも不思議そうに覗き込んでくる。これは、チャンスと受け止めるしかない。 「お父さん、お母さん。わ、私ね、赤坂さんと結婚したいの」
そんなことを考えながらスマホを眺めていると……「彼氏から?」同僚がニヤニヤしながら質問してくる。興味津々という感じだ。「まぁ、そんな感じです」私は曖昧な返事をした。人には言えない恋。「どんな人? 誰に似てるの?」身を乗り出し聞いてくる。赤坂さんは赤坂さんであり、他の人に似ているとかない。好きな人が芸能人だとこういう時に、答えに困ってしまう。「そうですね……。うーん……」彼のことを気軽に話せないのが、たまに苦しい。もし週刊誌に撮られてしまっては、赤坂さんだけではなく、COLORのメンバーを傷つけてしまう。そうなると大変だ。自分のせいで迷惑だけは、かけたくない。ちゃんと親の許可を得て結婚するまでは誰にも言えない。外で堂々と会うのも、本当に気をつけなきゃ。『足の怪我が治ってからにしよう』返事をすると、すぐに返事がきた。『すぐ治る。だから、スケジュール聞いておけ。命令』相変わらず、俺様なんだからと……思いつつ、私はキュンとしてしまう。俺様だけど、甘えん坊なところもあるから、私がしっかり支えなきゃ。でも、まずは、両親に報告するのが先だよね。早く一緒に住める日がくればいいな。愛している人とずっとそばにいたい。でも……やっぱり両親のことが不安でたまらなかった。
久実side年末年始をゆっくり休んで、仕事が始まり、そろそろ二週間になろうとしている。赤坂さんと心も体もつながり幸せな毎日で……なんだか夢みたい。夢でありませんようにと、毎日思いながら眠りにつく。私は、ずっと逃げていた。赤坂さんと交際することはいけないことだと思っていたから。けれど、美羽さんから勇気をもらったおかげで、気持ちを伝えられたのだ。お互いの気持ちがしっかりとわかったので、これからは二人で協力してさらに前進していこうと決意していた。今の私にできることは仕事を頑張ること。そして両親に結婚を認めてもらう。そんな気持ちで、今日も、元気いっぱい仕事をしている。パソコンに向かって書類を作りっているのに、ついつい私は赤坂さんのことを思い浮かべて、胸を熱くしていた。……会いたいな。昼休みになり会社近くのカフェで同僚とランチをしていると、赤坂さんからメールが届いた。『久実の両親に早く会いたいんだけど、スケジュール確認してくれたか?』赤坂さんはスネにヒビが入りまだ松葉杖をついて仕事をしている。もうすぐ杖を使わなくても、普通に歩けるようになるらしい。大変な怪我じゃなくてよかったけれど、また怪我をしないか心配になる。私の両親に挨拶をしたいと言われているが、なかなか両親に言い出せない。でも、一歩踏み出さなきゃ、赤坂さんとの未来は開けないのに。両親の反応が怖い。せっかく、ここまで頑張ったのだから勇気を出さないと、本当の幸せは手に入らないよね。
「赤坂さんのことが好きでも……両親の言うことを聞かなきゃって思って」「ってかさ、なんで早く言わなかったんだ?」苛立った口調に怖気づきそうだった。「考えて悩んで……私もそう思ったから。それに、これ以上迷惑をかけちゃいけないって思ったの」「迷惑だと? ふざけんじゃねぇぞ」乱暴に私を抱きしめた。赤坂さんの胸に閉じ込められる。かなり早い心臓の音が聞こえてきた。「俺のこと信じろって」「赤坂さん。ごめんね」「バカ」涙があふれ出し、私は赤坂さんにしがみついた。赤坂さんはもっと強く私を抱き止めてくれる。「でも、好きな気持ちには勝てなかったの」「………」体を起こしてキスをされた。すごく優しいキスに胸が疼く。私のボブに手を差し込んで熱いキスに変わっていく。舌が絡み合い、濡れた音が耳に届いた。唇が離れると赤坂さんは今までに見たことない瞳をしている。「久実、愛してる」「……私も、赤坂さんのことが好き」「俺もだ」「今まで本当にごめんなさい」「大好きっ、赤坂さん、大好き」「うん。俺も」私も赤坂さんのために自分のできる限り尽くしたいと思った。守ってもらうだけじゃなくて、守ってあげたい。頭を撫でられて心地よくなってくる。「両親に認めてもらえるように……頑張るから」赤坂さんはつぶやいた。だけど、すごく力強い言葉に聞こえた。「近いうちに会いに行きたい」「うん………」「やっぱりさ、思いをちゃんと伝えて理解してもらうしかないから」「そうだね……」「俺はどんなことがあっても久実を離さないから。覚えてろよ」頼もしい赤坂さんに一生着いて行く。私は赤坂さんしか、いないから。きっと、大丈夫。絶対に幸せになれると思う。私は赤坂さんのことが愛しくてたまらなくて、自分から愛を込めてキスをした。エンド
そして、四日になった。前日から緊張していてあまり眠れなかった。化粧をして髪の毛をブローした。リビングにはお母さんがいて、テレビを見ていた。「友達と会ってくるね」「気をつけてね」「行ってきます」家を出ると、まだ午前の空気は冷たくて、身震いした。手に息を吹きかけて温める。電車に向かって歩く途中も緊張していた。ちゃんと、思いを伝えることができるといいな……。赤坂さんに恋していると気がついたのはいつだったんだろう。かなり長い間好きだから、好きでいることがスタンダードになっている。できることなら、これから一生……赤坂さんの隣にいたい。マンションに到着し、チャイムを押すとオートロックが開いた。深呼吸して中へ入った。エレベーターが速いスピードで上がっていく。ドアの前に立つといつも以上に激しく心臓が動いていた。チャイムを押すと、ドアが開いた。「おう」「お邪魔します」赤坂さんはパーカーにジーンズのラフな格好をしているが、今日も最高にかっこいい。私は水色のセーターとグレーの短めのスカート。ソファーに座ると温かい紅茶を出してくれて隣にどかっと座った。足はだいぶ楽になったらしくほぼ普通に過ごせているようだ。「久実が会いたいなんて珍しいな」「うん……。話したいことがあって」すぐに本題に入ると、空気が変わった。赤坂さんに緊張が走っている感じだ。「ふーん。なに」赤坂さんのほうに体ごと向いて目をじっと見つめる。何から言えばいいのか緊張していると、赤坂さんはくすっと笑う。「ったく、何?」緊張をほぐそうとしてくれるところも優しい。赤坂さんは人に気を使う人。「私……、赤坂さんのことが好きなんです」少し早口で伝えた。赤坂さんは顔を赤くしているが、表情を変えない。「うん……。で?」「好きなんですけど、交際するのを断りました。その理由を話に来たんです」「……そう。どんな理由?」しっかり伝えなきゃ。息を吸って赤坂さんを見つめた。「両親に反対されています」「え、なんで?」「赤坂さんは恩人ですから……。 だから、対等じゃない……から……」頭の後ろに片手を置いて困惑した顔をしている。眉間にしわを寄せて唇をぎゅっと閉じていた。