プロローグ 「ハァー……」 時計は午前四時。 目が覚めると、瞳が涙で濡れていた。 玉のような汗をかいていて、額には前髪が張りついている。 また、あの日のことが夢に出てきたのだ。 ベッドから降りると『はな』の元へ行く。 そして、手を合わせた。たんぽぽの押し花しおりを胸の前でそっと抱きしめる。 「はな……」 ……はな。 ……はな。 私はその場で横になり悲しみの中、 入社してまだ間もない頃の会話をふっと思い出す――。 『ねえ、果物言葉って、知ってる?』 『くだものことば? 知らないです』 『誕生花や花言葉みたいなものよ。果物言葉は、時期や外観のイメージ・味・性質をもとに作ったものでね。果物屋の仲間が作ったんだって』 入社したばかりの頃、同僚が上司のいない時にホームページを開いて見せてくれた。 スクロールして調べた日は十一月三日。 誕生果は『りんご』で相思相愛と書かれていた。 誰かの誕生日ではない。 私と大くんが付き合った記念日だ。 二十一歳で入社した時は、すでに大くんと別れて二年以上が過ぎていたのに、自分にとっては忘れられない日だった――。 なぜ果物かというと……。 大学を卒業後、大手フルーツメーカーの甘藤-amafuji-に入社し、果物は身近な存在だったから。仕事に一生懸命取り組み順調に年齢を重ねていた。 一般的な悩みはあるだろうけどそんなに不幸なこともなく、普通の人生を歩んできたと人には思われているかもしれない。 私は過去のことを、誰にも打ち明けないで生きてきた。 十九歳の時。 恋は、愛は、果物のように甘いだけじゃないと知った。 人は傷つき、大人になっていく。 『あなただから乗り越えられる試練なのよ』 励ましてくれた母の言葉を信じて、悲しみを胸に抱えながら歩み続けて来たのだ。 傷は、いつか癒えるはず。 辛かった日々は、笑える日が来るはず。 そう思っていたのだけど、深い、深いところで傷ついていて、なかなか楽になれない。 相反して、あなたはいつもキラキラとした笑顔を振りまいていて、アイドルとして生きてとても楽しそうだ。 熱愛報道もされていたみたいだし。 電車や街にあふれる広告や、コマーシャルや雑誌で見るあなたのキメ顔をいつも
第一章 過去と現在が交差する 目覚ましのアラームに起こされた私は慌てて準備をする。 学生時代は黒髪セミロングだったが、ボブヘアーにした。 焦ることが苦手なのに周りの人からは仕事をバリバリやっていると言われる。すっぴんだと童顔なのでメイクを少し濃くしているせいなのかもしれない。 家を出て駅に向かい電車に押し込まれるように乗る。 満員電車が大きく揺れて人の波に押し潰されそうになり、ヒールを履いた足を踏ん張る。 朝の通勤は大嫌い。でもとにかく仕事を頑張らなければ。 何かに集中していないと過去の出来事を思い出して苦しくなってしまう。そんな気持ちで私はずっと仕事に励んできた。 私が働いているのは大手フルーツメーカーの甘藤-amafuji-。 一九二〇年創業で小さな青果店からはじまった。 フルーツショップ事業をはじめ、今では駅に入っているジューススタンド事業や、様々なショッピングセンターに入っているフルーツタルトの販売、カフェなども事業展開している。 日本だけではなく世界にも支店を増やし現在は五千人が働く大手企業だ。 私は本社で働いていて今日から広報へ異動になり、一般社員からリーダーという微妙な役職までつき、複雑な気持ちだ。 四月になり新年度を迎えた。新しい場所で、新しい役職で新たな気持ちで前向きにいこう。一生懸命頑張れば、きっといいことがあると自分に言い聞かせた。 部署に入り上司にあいさつをする。 私に付き添って教えてくれるのは杉野〈すぎの〉マネージャーだ。 杉野マネージャーは、イケメンというよりハンサムが似合うタイプ。黒髪でおしゃれな七三分け。 仕事には厳しいタイプだと聞いていたから一緒に働くのは怖いが、仕事を覚えるチャンスだ。どんなこともなるべく前向きに受け止めていきたいと思っている。 あとは、一年早くリーダーになった美濃千奈津〈みのうちなつ〉も教えてくれる形になったようだ。千奈津とは入社当時から仲良くさせてもらっていた。 スラリとした体型の千奈津はワンピースを着て腰にベルトをしている。ロングヘアーの毛先は綺麗にカールされていていつもハーフアップにしていることが多い。本当に綺麗な子だ。 「美羽と同じ部署で働けるなんて、嬉しい」 「私も千奈津がいるから心強いよ。色々とお世話になりますがよろしくね」 頭を下げるとニッして私を見つめ
午前九時になり朝礼がはじまった。 「おはようございます。初瀬美羽〈はせみう〉と申します。はじめての部署で不慣れなこともありますが、頑張りますので、どうぞよろしくお願いします」 広報部の皆さんが拍手で歓迎してくれる。会社の商品の宣伝する部署でいろいろと忙しいらしい。 今までは総務部で地味な仕事をしていた私にとっては、畑違いの仕事で不安な気持ちでいっぱいだ。 自分の席に座ると千奈津が資料を渡してくれる。 「さて、早速新商品のCM会議があるから出席してもらうわよ」 「はい」 笑顔を向けて返事をした。 杉野マネージャーが近づいてくる。 「初瀬は、早速、リッチマンゴープリンCMの仕事から関わってもらう」 「よろしくお願いします」 いきなりCMの仕事なんて……大丈夫だろうか。大くんが頻繁にテレビに出ているのであまり見ないようにしているから……心配だ。 千奈津も、大くんとの過去のことは知らない。 家族と数少ない限られた友人しか知らない過去なのだ。封印したんだから、思い出す必要はない。無かったことにしたんだから……。 過去をスッキリ忘れられることを願って、私は会議室に行くために立ち上がった。 会議室に入ると社長と広報部部長が最終チェックのために参加している。そのせいか、空気が張り詰めていた。 「では会議をはじめます」 杉野マネージャーの声で会議がはじまる。 資料を開くと『リッチマンゴープリンCM企画案』と書かれている。テレビ用のコマーシャルを作るなんてカッコイイ仕事だなと気楽に考えつつ杉野マネージャーの話に耳を傾けていた。 「八ページにあるように、イメージキャラクターはCOLORの紫藤大樹さんに依頼しようと思います」 う……そ……。 頭が一瞬、真っ白になった。落ち着け私。 イメージキャラクターに大くんが選ばれたからって、実際に会うわけじゃないし、関係ないじゃない。 名前を聞くだけで心臓が過剰反応してしまう。 終わった過去なのに、封印しているのに……どうしてこんなところで、過去と関係することが起きるの? 「来週の水曜日に紫藤さんのマネージャーが来社しますので、その時に契約の話をします」 ほら。やっぱり、本人が来るなんてありえない。 深呼吸して会議に集中しなければ……。 「
* * *十年前――――― 私は大学の近くに一人暮らしをはじめた。 実家は千葉にあり通えない距離ではなかったが、社会勉強したほうがいいと母に言われて一人暮らしをさせられた。 一人っ子で大事に育ててもらったので、料理も洗濯もできなかった私の将来を両親は心配していたのだろう。 私と母が決めた家は古いアパートだった。家賃が安いわりには1DKの広さがあって一人で暮らすには充分だった。 階段を上がって二階の一番右の部屋。玄関は外にむき出しだけど、大学を卒業して就職するまでの間だし、ちょっとボロボロな家でも我慢しよう。 実家は金銭的に余裕がなく、丸くて小さな座布団とちゃぶ台などの家具はリサイクル店で購入した。 ベッドは高いから家にある布団でいいと持参したが、小さいソファーと可愛い花柄のカーテンは奮発して買った。そこで私は一人暮らしを満喫していた。 アルバイトは、近くのファミリーレストランで週に三回。少しずつ生活に慣れつつあった。 大学に入って気がつけば一ヶ月が過ぎていて、友達もできて、それなりに充実した毎日だった。 そんなある日曜日。 今日はアルバイトが入っていなかった。外はあいにくの雨だったので掃除をしたり洗濯をしたりしていた。洗濯物は部屋干し決定だなと思いつつ窓から外を見ると、昼なのに真っ暗だ。 チャイムが鳴り、窓から玄関に振り返る。 誰だろう? 「はーい」 疑いもせず、玄関のドアを開けると知らない男の人が立っていた。 「ちゃんと誰か確認してからじゃないと、危ないよ」 今まで男性に興味を持ったことがなかったけど、すごくカッコイイので見入ってしまう。目がキラキラしているが、凛々しい眉毛が印象的な人。 「そっか。あなたが入居したんだね」 「……はい?」 優しい笑顔になった彼は、天井を見上げる。 「あ、まだ使ってたんだね。このランプ可愛いでしょう?」 玄関の天井にあるランプは、花びらみたいな形をしていた。 入居した時からついていたもので、可愛いからそのまま使っていたのだ。 「これね、兄貴の付き合っていた人からプレゼントされたんだ」 ……ここに住んでいたのだろうか。 謎すぎる。怪しい。私はいまさら警戒しだす。 気がついた彼は、眉を下げて力なく笑った。 「突
「あの、もしよければ、どうぞ」座布団を差し出す。「あ、ありがとう」彼はゆっくりと腰を降ろした。居間に戻って読書をしよう。冷蔵庫から作り置きのアイスティーをグラスに注いで座ろうとしたが……紫藤さんも、喉が乾いているかもしれない。もう一つガラスを取ってアイスティーを注ぐ。それを持って私は玄関へと移動した。「あの、もしよければどうぞ。アイスティーですが大丈夫ですか?」 グラスを差し出すと笑顔を向けてくれた。すごくキュートだ。 男の人に対して可愛いと思うのは、失礼なのかな。 「ありがとう。気を使わせて悪いね」 「いえ」 「あ、ほら見て」 携帯の画面を見ると、この家の居間でピースをしている紫藤さんが映っている。 「ここに住んでいた時の写真だよ」 「今はどちらに?」 「K大の近くなんだ。俺そこの大学生をしてるよ」 なんとなく優秀な雰囲気は漂っている気がしたのは、一流大学に通っているからなのか。学生証を見せてくれてウソじゃないことを証明してくれる。 「小さい頃に両親が事故に遭って、兄貴が俺を育ててくれたんだ。俺を大学に入れるために一生懸命働いてくれてさ」 「そうだったんですね」 「あぁ。俺は期待に応えようと思って努力して合格することができたんだ。兄に知らせようと思って携帯電話を手に持ったら電話がかかってきてさ。警察からだった。合格発表の日に兄貴まで交通事故で帰らぬ人になったんだ。その時に、大学の近くに引っ越ししたんだ」 紫藤さんは、きっと寂しかったんだ。 私も二年前に可愛がってくれた祖母が亡くなった。祖母と兄ではまた違うかもしれないけれど身内が亡くなるという悲しみは私にも理解できていた。 「私もお婆ちゃんを亡くしているので、少しは気持ちがわかります」 ふふっと柔らかく笑った紫藤さん。彼はそんなに悪い人じゃないかもしれない。 「人は泣きながら生まれてくるでしょ? 呼吸をするために泣いているんだろうけど、どうも俺は、別れの時を予感して泣いているように感じるんだ」 なんとも、芸術的なことを言う人だ。 「ごめん。なんか、ごめん。おかわりもらってもいいかな?」 「あ、はい」 空っぽになったグラスを差し出してきた紫藤さんとしばらく玄関で話していたのだけど、一向に雨が止む気配はない。 「もし
リビングに戻ると、紫藤さんは喉でクククって笑っている。「すごい慌てようだったね」「男の人を部屋に入れたことが無いので、洗濯物を隠すとか気が回らなかったんです」「男とか女とか以前に普通は洗濯物を隠すでしょ? きっとキミは大事に育てられたお嬢さんだったんだね」「そうかもしれないです。料理も洗濯もできない娘でした。親がなんでもやってくれるのが当たり前だったんです。甘え過ぎていたなぁって、今は反省しています」今は本当にそう思っている。だからこうして一人暮らしをはじめたことは正解だったのではないだろうか。「反省しているならいいじゃん。これから頑張ればいいさ」前向きな考え方ができる紫藤さんを尊敬する。私はどちらかというと悪いほうへ物事を考える性格だから。一度落ち込んでしまうとだんだんとマイナス思考になってしまうのだ。話し込んで気がつけば時間は十九時になっていた。グーッとお腹が鳴ると恥ずかしさのあまり顔が熱くなってしまう。「たしかに、腹減ったよね……」なにか作りましょうかと言いたいところだが、作れる料理といえば、目玉焼き、スクランブルエッグくらいだ。唯一できる料理も焦がしてしまうことが多い。母は心配して、先日、にんじん・玉ねぎ・じゃがいも・お肉とカレールーを送ってきたのだが、それすら危うい。まして他人に食べさせるなんて無理だ。お腹を壊して病院に運ばれてしまうかもしれない。「ご、ごめんなさい。料理できないんです」頭を深く下げてお詫びする。「じゃあ俺が作ってあげようか?」予想外の提案に私は顔を上げた。「そ、そんな。お願いしてもいいんですか?」「うん。冷蔵庫見せてもらうね」ソファーから立ち上がった紫藤さんは、冷蔵庫を開けて中身をチェックしている。窓がカタカタいうほど雨と風は強くて、まだ帰れそうにもないようだ。私はとてもお腹が減っているけれど彼もお腹が空いているに違いない。それならお言葉に甘えて作ってもらう?「カレーライスできるじゃん」「すごい! そうなんですよ。お母さんが作りなさいって材料を送ってくれたんです」「……マジでキミ、ヤバいね」自分の女子力の無さにがっくり落ち込む。「じゃあ台所借りるね」「どうぞ」手際よく料理をはじめだした。包丁で人参の皮を剥き、ジャガイモはボコボコして複雑な形をしているのに簡単に皮を剥いていく。私は
「俺のこと、見たことある?」はて?紫藤さんの顔をじっと見るけど、こんなイケメンな知り合いはいない。「その様子だと知らないみたいだね」「ごめんなさい」「仕方がないさ。深夜番組にやっと出られるようになったんだ」「テレビ……ですか?」コクリとうなずいた紫藤さん。通りでイケメンなわけだ。芸能関係の仕事をしているということになる。「COLORっていう……一応ダンスができるアイドルグループなんだ。まだまだだけどね」「へぇ、踊れるんですね。すごいなぁ」「まあね」「サインもらっておかなきゃなぁ」カレーライスを食べ終えて外を見ると雨は落ち着いてきたようだった。ということは、紫藤さんとお別れの時間になる。ちょっと、寂しいかも。食器を洗ってくれた紫藤さんは、振り返ると軽やかにステップを踏み出した。体の動きにキレがある。すごいと言いながら手を叩くと、満面の笑みをくれた。「この家の前に来ると……なんだか、兄貴に会える気がしてさ。でも、びっくりさせてしまったね。もう、ここはキミの家だから来ないことにするよ」「え……」私は、紫藤さんにわかるくらい悲しそうな顔をしてしまったのかもしれない。真剣な表情で私を見つめてくる。誤解を与えたくないと思って咄嗟に考える。「実は私、お兄ちゃんが欲しいってずっと思っていたんです。一人っ子で……。お母さんにお兄ちゃん作ってと無理なお願いを小さい頃はしていました。ハハ……」そうだ。この寂しいと思う感情は、紫藤さんをお兄ちゃん的存在に感じているのだ。「お兄ちゃんか。そう言えば、俺も妹が欲しかったよ。女の子の気持ちを知りたくてね。女の子は俺のことを何も知らないクセに『カッコイイ。好きです』って言ってくるんだ。外見だけで人を好きになるなんて、なんか、違くない?」私は深くうなずいた。今まで恋らしい恋をしたことがなかったけど、外見だけで人を好きになったりはしないだろう。一目惚れをしたと話している人のことを否定するつもりはないが、私はその人の性格を知らなければ絶対に好きにならない気がしていた。「人を好きになるなんて、簡単なことじゃないと思います。私、一生恋愛なんてしないんじゃないかな?」「俺も」クスクスって笑い合う。「気が合いそうだな、俺とキミ。また、兄代わりで遊びに来てあげる。抜けているところもあるから心配だしね」「はい。
* * *はっと顔を上げて時計を確認するともう二十時だ。パソコンに向かって集中して仕事をしていたので気がつけばこんなに遅い時間になっていた。明日は、COLORのマネージャーとの打ち合わせだ。私が交渉するわけじゃないのに緊張している。新しい部署に来て一週間が過ぎたけれど、覚えることとやることがいっぱいあってストレスがかかっていた。他の社員はすでに退社して私は一人だった。ふぅーっと息を吐きだし、右手で肩を揉み首を回す。「揉んでやろうか?」コーヒーの香りと一緒に聞こえたのは杉野マネージャーの声だ。誰もいないと思ってリラックスしていたのに突然登場したので慌てる。「え、いえ……! けっこうです」「初瀬って案外ピュア?」「……え」「彼氏とかいるの? あ、こういうのってセクハラになっちゃうのかな……」ぼそっとつぶやいた杉野マネージャーは、私のデスクの隣に腰をかける。足が長いと感心してしまう。「彼氏なんていません。私みたいな地味な女は一生独身でしょうね」「ずいぶん、自虐的だな。可愛いのに」か、可愛いなんて。大くんに言われてから言われてない。ということは、もう何年も言われてないことになる。私はこの先、恋愛はしないつもりだ。もう、あんなに悲しい思いをしたくない。「交渉は俺がするから、初瀬はそんなに緊張するなって。早く帰ってしっかり寝て明日に備えろ。な」諭すように言われたので私は素直に頭をさげた。杉野マネージャーは自分のデスクに戻ったのを見届けて、私は帰る準備をはじめる。容姿がよくて気配りもできる杉野マネージャーなら、綺麗な彼女がいるんだろうなぁ。まだ独身で過ごしているのが珍しいと女性社員が噂しているのを聞いた。「お先に失礼します」「お疲れ様」部署を出てエレベーターホールに向かう。もし、あの時――。大くんを部屋に入れていなければ今とは違う人生を歩んでいたかもしれない。恋に怯えることなく、オフィスラブをして、結婚をして子供を産んで。忙しいけれど充実した毎日を送っていた可能性だってある。タラレバだ。過去に戻ることはできないし、その時自分で選んできた道なのだからこれからもその道の続きを歩き続けなければならない。
そして、その夜。仕事が終わって夜になり、COLORは事務所に集められた。大澤社長と各マネージャーも参加している。「今日みんなに集まってもらったのは、これからのあなたたちの未来について話し合おうかと思って」社長が口を開くと部屋の空気が重たくなっていった。「大樹が結婚して事務所にはいろんな意見の連絡が来たわ。もちろん祝福してくれる人もたくさんいたけれど、一部のファンは大きな怒りを抱えている。アイドルというのはそういう仕事なの」黒柳は壁側に座ってぼんやりと窓を見ている。一応は話を聞いていなさそうにも見えるが彼はこういう性格なのだ。赤坂はいつになく余裕のない表情をしていた。「成人もリュウジも好きな人ができて結婚したいって私に伝えてきたの。だからねそろそろあなたたちの将来を真剣に話し合わなければならないと思って今日は集まってもらったわ」マネージャーたちは、黙って聞いている。俺が結婚も認めてもらったということは、いつかはグループの将来を真剣に考えなければならない時が来るとは覚悟していた。時の流れは早いもので、気がつけば今日のような日がやってきていたのだ。 「今までは結婚を反対して禁止していたけれど、もうそうもいかないわよね。あなたたちは十分大人になった」事務所として大澤社長は理解があるほうだと思う。過去に俺の交際を大反対したのはまだまだ子供だったからだろう。どの道を進んでいけばいいのか。考えるけれど考えがまとまらなかった。しばらく俺たちは無言のままその場にいた。時計の針の音だけが静かに部屋の中に響いていた。「俺は解散するしかないと思ってる……」黒柳がぽつりと言った。
今日は、COLORとしての仕事ではなく、それぞれの現場で仕事をする日だ。 その車の中で池村マネージャーが俺に話しかけてきた。「実は映画監督をしてみないかって依頼があるのですが、どうですか? 興味はありますか?」今までに引き受けたことのない新しい仕事だった。「え? 俺にそんなオファーが来てるの?」驚いて 思わず 変な声が出てしまう。演技は数年前から少しずつ始めてい、てミュージカルに参加させてもらったことをきっかけに演技の仕事も楽しいと思うようになっていたのだ。まさか 映画監督のオファーをもらえるとは想像もしていなかった。「はい。プロモーションビデオの表情がすごくよかったと高く評価してくれたようですよ。ミュージカルも見てこの人には才能があると思ったと言ってくれました。ぜひ、お願いしたいとのことなんです。監督もしながら俳優もやるっていう感じで、かなり大変だと思うんですが……。内容は学園もので青春ミステリーみたいな感じなんですって。新人俳優のオーディションもやるそうで、そこにも審査員として参加してほしいと言われていますよ」タブレットで資料を見せられた。企画書に目を通すと難しそうだけど新たなのチャレンジをしてみたりと心が動かされたのだ。「やってみたい」「では早速仕事を受けておきます」池村マネージャーは早速メールで返事を書いているようだ。新しいことにチャレンジできるということはとてもありがたい。芸能関係の仕事をしていて次から次とやることを与えてもらえるのは当たり前じゃない。心から感謝したいと思った。
大樹side愛する人との平凡な毎日は、あまりにも最高すぎて、夢ではないかと思ってしまう。先日は、美羽との結婚パーティーをやっと開くことができた。美羽のウエディングドレス姿を見た時、本物の天使かと思った。美しくて柔らかい雰囲気で世界一美しい自分の妻だった。同時にこれからも彼女のことを命をかけて守っていかなければならないと感じている。紆余曲折あった俺たちだが、こうして幸せな日々を過ごせるのは心から感謝しなければならない。当たり前じゃないのだから。お腹にいる子供も順調に育っている。六月には生まれてくる予定だ。昨晩は性別もわかり、いよいよ父親になるのだなと覚悟が決まってきた気がする。女の子だった。はなの妹がこの世の中に誕生してくるのだ。子供の誕生は嬉しいが、どうしても生まれてくることができなかったはなへは、申し訳ない気持ちになる。母子共に健康で無事に生まれてくるように『はな』に手を合わせて祈った。手を合わせて振り返ると隣で一緒に手を合わせていた美羽と目が合う。「今日も忙しいの?」「うん。ちょっと遅くなってしまうかもしれないから無理しないで眠っていていいから」美羽は少し寂しそうな表情を浮かべた。「大くんに会いたいから起きていたいけど、お腹の子供に無理をかけたくないから、もしかしたら寝ているかもしれない」「あぁ。大事にして」俺は美羽のお腹を優しく撫でた。「じゃあ行ってくるから」「行ってらっしゃい」玄関先で甘いキスをした。結婚して妊娠しているというのにキスをするたびに彼女はいまだに恥ずかしそうな表情を浮かべるのだ。いつまでピュアなままなのだろうか。そんな美羽を愛おしく思って仕事に行きたくなくなってしまうが、彼女と子供のためにも一生懸命働いてこよう。「今度こそ行ってくるね」「気をつけて」外に出てマンションに行くと、迎えの車が来ていた。
少し眠くなってきたところで、玄関のドアが開く音が聞こえた。立ち上がって迎えに行こうとすればお腹が大きくなってきているので動きがゆっくりだ。ドアが開くと彼は近づいてきて私のことを抱きしめる。「先に寝ていてもよかったんだよ」「ううん。大くんに会いたかったの」素直に気持ちを伝えると頭を撫でてくれた。私のことを優しく抱きしめてくれる。そして、お供えコーナーで手を合わせてから、私は台所に行った。「給食食べる?」「あまり食欲ないから作ってくれたのなら朝に食べようかな」やはり夜遅くなると体重に気をつけているようであんまり食べない。この時間にケーキを出すのはどうかと思ったけれど、早く伝えたくて出すことにした。「ケーキ作ったの?」「うん……。赤ちゃんの性別がわかったから……」こんな夜中にやることじゃないかもしれないけど、これから生まれてくる子供のための思い出を作りたくて思わず作ってしまったのだ。迷惑だと思われてないか心配だったけど、大くんの顔を見るとにっこりと笑ってくれている。「そっか。ありがとう」嫌な表情を全くしないので安心した。ケーキをテーブルに置くと私は説明を始める。ケーキの上にパイナップルとイチゴを盛り付けてあった。「この中にフルーツが入ってるの。ケーキを切って中がパイナップルだったら男の子。イチゴだったら女の子。切ってみて」ナイフを手渡す。「わかった。ドキドキするね」そう言って彼はおそるおそる入刀する。「イチゴだ!」お腹の中にいる赤ちゃんの性別は女の子だったのだ。「楽しみだね。きっと可愛い子供が生まれてくるんだろうな」真夜中だというのに今日は特別だと言ってケーキを食べて、子供の話をしていた。その後、ソファーに並んで座った。大きくなってきたお腹を撫でてくれる。「元気に生まれてくるんだぞ」優しい顔でお腹に話しかけていた。その横顔を見るだけで私は幸せな気持ちになる。はなを妊娠した時、こんな幸福な時間がやってくるとは思わなかったのだ。「名前……どうしようかなって考えてるの」「そうだな」「はなにしようかなと思ったけれど……『はな』は『はな』なんだよ。お腹の中の赤ちゃんははなの代わりじゃない」大くんは納得したように頷いていた。「それはそうだよな」「画数とかも気になるしいい名前がないか考えてみるね」「ありがとう。俺
美羽side結婚パーティーを無事に終えることができ、私は心から安心していた。私と大くんが夫婦になったということをたくさんの人が祝ってくれたことが、嬉しくて ありがたくてたまらなかった 。しかし私が大くんと結婚したことで、傷ついてしまったファンがいるのも事実だ。アイドルとしては、芸能生活を続けていくのはかなり厳しいだろう。覚悟はしていたのに本当に私がそばにいていいのかと悩んでしまう時もある。そんな時は大きくなってきたお腹を撫でて、私と大くんが選んだ道は間違っていないと思うようにしていた。自分で自分を肯定しなければ気持ちがおかしくなってしまいそうになる。あまり落ち込まないようにしよう。大くんは、仕事が立て込んでいて帰ってくるのが遅いみたい。食事は、軽めのものを用意しておいた。入浴も終えてソファーで休んでいたが時計は二十三時。いつも帰りが遅いので平気。私と大くんは再会するまでの間、会えていない期間があった。これに比べると今は必ず帰ってくるので、幸せな状況だと感で胸がいっぱいだ。今日は産婦人科に行ってきて赤ちゃんの性別がはっきりわかったので、伝えようと思っている。手作りのケーキを作ってフルーツの中身で伝えるというささやかなイベントをしようと思った。でも仕事で疲れているところにそんなことをしたら迷惑かな。でも大事なことなので特別な時間にしたい。
「そんな簡単な問題じゃないと思う。もっと冷静になって考えなさい」強い口調で言われたので思わず大澤社長を睨んでしまう。すると大澤社長は呆れたように大きなため息をついた。「あなたの気の強さはわかるけど、落ち着いて考えないといけないのよ。大人なんだからね」「ああ、わかってる」「芸能人だから考えがずれているって思われたら、困るでしょう」本当に困った子というような感じでアルコールを流し込んでいる。社長にとっては俺たちはずっと子供のような存在なのかもしれない。大事に思ってくれているからこそ厳しい言葉をかけてくれているのだろう。「……メンバーで話し合いをしたいと思う。その上でどうするか決めていきたい」大澤社長は俺の真剣な言葉を聞いてじっと瞳を見つめてくる。「わかったわ。メンバーで話し合いをするまでに自分がこれからどうしていきたいか、自分に何ができるのかを考えてきなさい」「……ありがとうございます」俺はペコッと頭を下げた。「解散するにしても、ファンの皆さんが納得する形にしなければいけないのよ。ファンのおかげであなたたちはご飯を食べてこられたのだから。感謝を忘れてはいけないの」大澤社長の言葉が身にしみていた。彼女の言う通りだ。ファンがいたからこそ俺たちは成長しこうして食べていくことができた。音楽を聞いてくれている人たちに元気を届けたいと思いながら過ごしていたけれど、逆に俺たちが勇気や希望をもらえたりしてありがたい存在だった。そのファンたちを怒らせてしまう結果になるかもしれない。それでも俺は自分の人生を愛する人と過ごしていきたいと考えた。俺達COLORは、変わる時なのかもしれない……。
赤坂side「話って何?」俺は、結婚の許可を取るために、大澤社長と二人で完全個室制の居酒屋に来ていた。大澤社長が不思議そうな表情をして俺のことを見ている。COLORは一定のファンは獲得しているが、大樹が結婚したことで離れてしまった人々もいる。人気商売だから仕方がないことではあるが、俺は一人の人間としてあいつに幸せになってもらいたいと思った。それは俺も黒柳も同じこと。愛する人ができたら結婚したいと思うのは普通のことなのだ。しかし立て続けに言われてしまえば社長は頭を抱えてしまうかもしれない。でもいつまでも逃げてるわけにはいかないので俺は勇気を出して口を開いた。「……結婚したいと思っているんだ」「え?」「もう……今すぐにでも結婚したい」唐突に言うと大澤社長は困ったような表情をした。ビールを一口呑んで気持ちを落ち着かせているようにも見える。「大樹が結婚したばかりなのよ。全員が結婚してしまったらアイドルなんて続けていけないと思う」「わかってる」だからといっていつまでも久実を待たせておくわけにはいかないのだ。俺たちの仕事は応援してくれるファンがいて成り立つものであるけれど、何を差し置いても一人の女性を愛していきたいと思ってしまった。「解散したとするじゃない? そうしたらあなたたちはどうやって食べていくの? 好きな女性を守るためには仕事をしていかなきゃいけないのよ」「……」社長の言う通りだ。かなりの貯金はあるが、仕事は続けていかなければならない。俺に仕事がなければ久実の両親も心配するだろう。
司会は事務所のアナウンス部所属の方のようだ。明るい声で話し方が柔らかいいい感じの司会だ。美羽さんと紫藤さんがゆっくりと入場してきた。真っ白なふわふわのレースのウエディングドレスを着た美羽さんはとても可愛らしい。髪の毛も綺麗に結われていて、頭には小さなティアラが乗っかっている。二人は本当に幸せそうに輝いている笑顔を浮かべていた。きっと過去に辛いことがあって乗り越えてきたから今はこうしてあるのだろう。二人が新郎新婦の席に到着すると、紫藤さんが挨拶をした。「皆さんお集まりくださりありがとうございます。本当に仲のいい人しか呼んでいません。気軽な気持ちで食事をして行ってください」結婚パーティーではプロのアーティストだったり、芸人さんがお笑いネタをやってくれたりととても面白かった。自由時間になると、美羽さんが近づいてきてくれる。「久実ちゃん、今日は来てくれてありがとう」「ウエディングドレスとても似合っています」「ありがとう。また今度ゆっくり遊びに来てね」「はい! お腹大事にしてください」「ええ、ありがとう」美羽さんのお腹の赤ちゃんは順調に育っているようだ。早く赤ちゃんが生まれてくるといいなと願っている。美羽さんと紫藤さんは辛い思いをたくさんしてきたらしいので、心から幸せになってほしいと思っていた。アルコールを楽しんでいる赤坂さんに目を向ける。事務所が私との結婚を許してくれたらいいな。でも、たくさんファンがいるだろうから、悲しませてしまわないだろうかと考えてしまう。落ち込んでしまうけど、希望を捨ててはいけない。必ず大好きな人と幸せになりたいと心から願っている。そして今まで支えてくれたファンの方たちにも何か恩返しができればと思っていた。私が直接何かをすることはできないけれど陰ながら応援していきたい。
◆今日は美羽さんと、紫藤さんの結婚パーティーだ。レストランを借り切って親しい人だけを選んでパーティーをするらしく、そこに私を呼んでくれたのだ。ほとんど会ったことがないのにいつも優しくしてくれる美羽さん。忙しいのにメッセージを送るといつも暖かく返事をしてくれる。そんな彼女の大切な日に呼んでもらえたのが嬉しくてたまらなかった。私は薄い水色のドレスを着てレストランへと向かった。会場に到着して席に座ると、私の隣に赤坂さんが座った。「おう」「……こ、こんにちは」「なんでそんなに他人行儀なの?」ムッとした表情をされる。赤坂さんと結婚の約束をしたなんて信じられなくて、今でも夢かと思ってしまう。「なんだか……私たちも婚約しているなんて信じられなくて」「残念ながら本当だ」「残念なんかじゃないよ。すごく嬉しい」赤坂さんはにっこりと笑ってくれた。そしてテーブルの下で手をぎゅっと握ってくれる。誰かに見られたらどうしようと思いながらドキドキしつつも嬉しくて泣きそうだった。「少し待たせてしまうかもしれないけど俺たちももう少しだから頑張ろうな」「うん」大好きな気持ちが胸の中でどんどんと膨らんでいく。こんなに好きになっても大丈夫なのだろうか。小さな声で会話をしていると会場が暗くなった。そしてバイオリンの音楽が響いた。『新郎新婦の入場です』