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第28話

作者: 夏目八月
上原太公と上原世平は北條老夫人の言葉に返す言葉もなかった。彼女の言うことは正しかったからだ。上原家には確かにもう有能な人物は出ないだろうが、北條守は今まさに勢いに乗っており、さらに琴音という女将軍も加わって、彼らの将来は確かに有望だった。

「母上、もうやめましょう。この件はこれで終わりにしましょう」守は言葉を荒立てたくなかった。彼はただこの件を早く解決し、琴音を迎え入れる婚礼の準備に取り掛かりたかった。

持参金の半分を留め置くのは彼の本意ではなかったので、上原家の人々に対して常に後ろめたさを感じていた。

他の人々はほとんど何も言わなかった。北條家の人々は皆後ろめたさを感じており、北條老夫人のように非難の言葉を吐くことはできなかった。

特に次男家の人々にとっては、その言葉は耳障りだった。まるで急に出世した小人のようだと感じ、来たことを非常に後悔していた。どちらにつくべきか分からなくなっていた。

「上原さくら、持参金の目録を出しなさい」北條老夫人は冷たく言った。「あんたが目録を隠しているのは見え見えだよ。守が五割を残すと言ったのだから、目録に従って分けることにするからね」

さくらが密かに細工をすることを防ぐため、彼女は続けた。「偽の目録でごまかそうとしても無駄よ。当時、目録は写しを取って、屋敷に保管してあるのだから」

さくらは笑った。「そうであれば、屋敷に保管してある写しを直接出せばいいのではありませんか?私に出せと言う必要はないでしょう」

彼女は嫁いでから家計を任されており、持参金の目録は常に会計室の私用の棚に保管されていた。鍵を持っているのは彼女だけだった。

写しを取ることなど絶対にできなかったはずだ。

しかも、この一年間、彼女は持参金を家計と薬代の補填に使っていた。こんなに自発的だったのに、彼らがなぜ今日のような事態に備えて写しを取ろうとするだろうか。

北條老夫人は鼻で笑うように言った。「言われたら出すものだよ。出さないつもりなら、そのまま将軍家を出て行きなさい。何一つ持ち出すことは許さんからね」

太公は怒りで目を白黒させた。「お前は…人を馬鹿にし過ぎている!」

さくらは1年間仕えた姑を見つめ、自分の頬を何度か叩きたい衝動に駆られた。

彼女の孝行心は全て無駄だったのだ。

彼女は目録を取り出し、冷たい目で守を見つめて言った。「さあ、取り
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    四貴ばあやは年老いており、他の管理人たちとは別に、小さな独房に収監されていた。他の牢獄に比べれば、比較的清潔な環境であった。刑部に入れられて以来、彼女は水も食事も口にせず、一言も発することはなかった。今中具藤が自ら尋問に赴き、食事を勧めてみたものの、彼女は牢の中で横たわったまま、死を待つかのような様子を見せるばかりだった。玄武にも分かっていた。彼女が大長公主に不利な証言をするはずがないことを。大長公主は彼女が育て上げた子。その絆はとうに主従の域を超えていた。これまで大長公主の側近は入れ替わり立ち替わりしてきたが、唯一彼女だけが最後まで側に仕えてきたのだ。そしてそれゆえに、大長公主の全ての秘密を知る立場にもあった。むしろ、陰謀の数々は彼女の手を経て実行されてきたものも少なくなかった。「今中具藤が今日、土方勤を取り調べたそうだ」と玄武はさくらに告げた。「大長公主は本来、お前の従兄の顔を傷つけた上で一家皆殺しにする予定だったらしい。だが四貴ばあやが土方勤に命令の実行を止めさせたという。もし彼女が止めていなければ、一家そろって黄泉の客となっていたところだ」「本当に狂ってしまったのね」さくらは怒りを露わにした。「母に似た女たちを手段を選ばず連れ去って、東海林椎名の側室にして子を産ませる。父に似た者は顔を潰してから一家皆殺しにする?正気の沙汰じゃないわ」「だからこそ、四貴ばあやだけが知っているはずなんだ。大長公主がどれだけの人々を害してきたのか。大長公主邸では謀反の企みだけでなく、こういった血なまぐさい罪も重ねられてきた。陛下は後者にはお構いにならないだろうが、生きている被害者も、亡くなった方々も、どちらにも正義が必要なはずだ」さくらは玄武の言葉に頷いた。謀反は重罪には違いないが、大長公主に害された一人一人にとって、それは掛け替えのない人生だった。どうして理不尽に踏みにじられなければならなかったのか。「私が話してみる」「では、尋問室に連れて来させよう」「拷問道具は置かないで」玄武は微笑んで答えた。「尋問室に拷問道具など置いてはいない。専用の部屋があってな。必要な時は囚人を向こうへ連れて行くか、道具をこちらへ持ってくるかだ。それに、今回の取り調べではまだ一度も拷問は使っていない。さあ、案内しよう」刑部は威厳に満ちた壮麗な建物で、

  • 桜華、戦場に舞う   第740話

    玄武は彼女を手前に引き寄せ、青あざになった目の周りを優しく撫でた。「痛むか?」「少しだけ」さくらは彼の手を払いのけながら、後ろを振り返った。誰かいないかと気になって仕方がない。「大丈夫だ。誰も入ってこない。一体どうしたんだ?」玄武は心配そうに尋ねた。さくらは一日中保っていた威厳ある態度をようやく緩め、椅子に腰掛けて目の周りを揉んだ。確かに朝よりも腫れが酷くなっているようだ。あの棒太郎め。「今朝早く紫乃と手合わせをしていたら、棒太郎が加わってきて、私と紫乃が両方とも誤って打たれてしまったの」「後で俸禄を減らすとするか」玄武は心配しながらも、思わず笑みがこぼれた。棒太郎は普段は落ち着き払っているのに、紫乃とさくらと一緒にいる時だけは、あの梅月山時代の少年に戻ってしまうのだから。さくらは笑いながら言った。「俸禄を減らされたら彼の命取りよ。お金のことはまだいいけど、石鎖さんが知って師匠に報告でもしたら、師匠からまた別の懲罰が下されることになるわ」「ただの脅しだよ。本当に罰するつもりはない」玄武は彼らの仲の良さを知っていた。幼い頃からの絆は貴重なものだ。それを壊すようなまねはしたくなかった。「ええ。ところで重要な話が」さくらは表情を引き締めた。「陛下が、北條守を御前侍衛長に推薦するよう仰せになったの。式部から辞令が出るそうよ」玄武は少しも驚かなかった。「陛下は前からあいつを使いたがっていた。ただ、北條守が不甲斐なさすぎてな。今回やっと功を立てたから、昇進させるのは当然だ。御前侍衛は玄甲軍に属してはいるが、実質的にはお前の指揮下には入らない。彼らは陛下の命令だけを聞く。今はただの過渡期に過ぎないんだ」「ええ、その通りね。陛下は既に衛府の設立を考えておられる。その時には御前侍衛は玄甲軍から独立することになるでしょう」「衛士十二司には元々御前侍衛も含まれていた。それをわざわざ独立させるということは、陛下が自分の腹心を育てようとしているということだ。北條守は最適な人選だろう。お前との因縁もあるし、将軍家のお前への怨みは邪馬台まで響き渡っているようだからな」さくらの表情が凍りついた。「本当に変な人たちね。自分が間違っているのに、他人のせいにする」「そうでなければ、世の中に『ごろつき』や『ならず者』という言葉は生まれなかっただろうな」玄武は

  • 桜華、戦場に舞う   第739話

    三十余歳、額は広く、がっしりとした体つきではないが引き締まった体格の男で、その表情には明らかな侮蔑の色が浮かんでいた。部下を従え、拱手の礼こそ取ったものの、その眼には傲慢さが滲んでいた。「公務のため遅参いたしました。上原大将、どうかお許しを」さくらは軽く頷き、彼の後ろに二列に並ぶ十二人の衛長たちを一瞥した。一筋縄ではいかない面々だ。揃いも揃って鼻持ちならない態度で、女の大将など眼中にないという様子が露骨だった。まさに、上に立つ者の性根が、部下にも表れているというものだ。「本日は特に用件もない。それぞれの持ち場に戻って......」さくらの言葉が終わらないうちに、親房虎鉄が遮った。「用件がないのなら、ご挨拶も済みましたことだし、これで失礼いたします。宮中の仕事が山積みでして」そう言い捨てると、部下を従えて颯爽と立ち去った。さくらなど眼中にないという態度が露骨だった。山田鉄男は眉をひそめ、「親房虎鉄!」と声を上げた。だが、親房虎鉄は振り向きもせず、そのまま去って行った。山田は困ったように説明した。「さくら様、親房副統領はただ性格が少々傲慢なだけでございます。お気になさらないでください」山田が親房虎鉄を庇おうとしているのが分かったが、さくらはそれには触れず、「ああ、では刑部へ行こう」と言った。刑部は今日、まさに八百屋の大安売りのような騒ぎだった。影森玄武は昨夜一時間帰宅したものの、すぐに戻ってきており、いまだ大長公主の取り調べには着手していなかった。一つには急いで取り調べる必要がないこと。しばらく放置して様子を見るためだ。二つ目は、彼女の供述を裏付ける証拠が必要なため、大長公主邸の大小様々な役人たちを先に取り調べていた。さらに、逃亡した者たちの逮捕も進めなければならない。さくらと山田の到着は折よく、絶好の時を得ていた。刑部の絵師と有田先生が、使用人たちの証言を基に逃亡した執事たちの肖像画を描き終えたところで、まさに禁衛府に捜索を依頼しようとしていた。皆があまりに忙しく、この大将が女性だということにさえ気付いていなかった。さくらが手を伸ばして肖像画を受け取り、一枚一枚開いて見ていた時、今中具藤は彼女の葱のように白く細い指に目を留め、そこからゆっくりと顔を見上げた。青あざのある目を見て一瞬たじろぎ、そこでよう

  • 桜華、戦場に舞う   第738話

    彼女は反論しなかった。明らかに陛下は彼女の意見を本当に聞きたいわけではなく、これは実質的な勅命なのだから。大将の実職を与えておきながら、北冥親王家と確執のある人物を抜擢して、彼女と影森玄武の間を揺さぶる。おそらく、陛下はこうすることで安心感を得られるのだろう。さくらが退出すると、吉田内侍は心配そうに彼女の後ろ姿を見つめた。王妃と親王様が幾度となく重ねられる信頼の試練を乗り越えられるのか、彼には分からなかった。陛下は本来、北條守を直接任命することもできた。上原大将を通す必要などなかったはずだ。また、上原大将による異動であっても、式部を通す必要はなく、一言通達するだけで済むはずだった。しかし陛下は物事を自分の掌握下に置こうと努めている。そのせいで当事者たち、北條守も含めて、誰もが心穏やかではいられない。宮を出たさくらは禁衛府の役所へ向かった。今日が着任日ということで、山田鉄男と御城番総領の村松碧が部下たちを引き連れて待っていた。幸い、誰も彼女の青あざになった目を特に気にする様子はなかった。気づいていても、失礼にならないよう直視を避けていたのかもしれない。衛士統領の親房虎鉄はまだ到着していなかった。さくらは親房虎鉄のことを知っていた。西平大名の親房甲虎の従弟で、西平大名家の分家の中では最も優れた人物とされている。親房甲虎は分家との関係が良くなく、特に親房虎鉄とは仲が悪かった。これは主に、親房虎鉄が本当の実力者であるのに対し、親房甲虎は西平大名の伯爵位を継承しても特に功績もなく、一族の面倒も見切れていないことが原因だった。それどころか親房虎鉄は着実に出世を重ね、禁軍統領にまで上り詰めた。前朝の制度であれば、衛士は玄甲軍の支部ではなく、彼の権限はより大きかったはずだ。これまでは統合されていなかったため、衛士は玄甲軍に属してはいても、親房虎鉄はそれほど気にしていなかっただろう。しかし今回の統合で、しかも大将が女性となれば、さすがに内心では納得していないに違いない。玄甲軍のこれらの人物について、さくらは既に調査を済ませていた。玄武からも話は聞いていた。だから今日、親房虎鉄が来ていなくても気にはならなかった。部下に個性があるのは構わない。ただ、彼女の引いた一線を越えなければいい。御城番の村松碧は、さくらに対して疑念を示

  • 桜華、戦場に舞う   第737話

    さくらは慌てて手を振った。「いいえ、私今朝早く起き過ぎまして、参内の時刻までまだありましたので、屋敷の者と手合わせをしていた時に、不注意で一発食らってしまいました」清和天皇は笑い出した。「そんなに早くから。緊張していたのか?玄甲軍大将が務まるか心配なのか?」さくらは正直に答えた。「確かに緊張しております。何分経験もなく、職務を全うできず、皆様のご期待に添えないのではと危惧しております」粛清帝はさくらの青黒い目の周りを見て、まだ笑みがこぼれそうになったが、大事な言葉を伝えねばならないと思い、表情を引き締めて厳かに言った。「本朝初の女官として、お前が背負うものは玄甲軍大将使としての職務だけではない。太后のお前への期待、そして天下の女子たちの憧れをも担うことになる。他の大将は、ただ忠実に職務を全うし、君を敬い国を愛せばよい。だがお前は言動に慎重を期し、なおかつ職務も立派にこなさねばならぬ。確かに難しい道ではあるが、朕はお前ならできると信じている」さくらは頷いた。「承知いたしました。全力を尽くし、皆様のご期待に背くことのないよう努めさせていただきます」清和天皇は言った。「最も重要なのは、天上にいる父兄の霊を失望させぬことだ。お前の父兄は我が朝の忠烈の臣。勇猛果敢で、君を敬い国を愛した。彼らは天下の太平を願い、民が安らかに暮らせることを望んでいた。お前は彼らの遺志を継がねばならぬ」二度の「君を敬い国を愛す」という言葉に、さくらは心を打たれた。「はい、謹んで承ります。必ずや全力を尽くし、都の安寧を守り、民の平穏な暮らしを守ります。どうか御心配なきよう」清和天皇はその言葉を聞き、改めて彼女をじっくりと観察した。確かに、玄甲軍大将の官服は彼女によく似合い、凛々しい姿を見せている。彼女の武芸なら、玄甲軍を統率することはできるだろう。しかし、統率できるだけでは不十分だ。大将として、彼女には決断を下す責任もある。ただの無謀な武人ではなく、知恵も備えていることを願うばかりだ。天皇は続けた。「今朝早くから、刑部り人手不足の報告があった。禁衛府から人員を抽出して支援に回せ。この事件は尋常ではない。疑わしきは罰せよ。怪しい者は皆連行して取り調べよ。大長公主と親しく付き合っていた官僚の妻族も含めてだ。誥命を持つ者については、お前が主審となれ」「御意」さくらは

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