「また無理やり嫌なことをさせられたんじゃない?」 さっきの喜びは一瞬で消え去った。 「お酒の匂いがすごいよ」と私は少し不機嫌に言った。 私はナプキンで、彼の首元の赤い痕を拭こうとしたが、陽翔に手を掴まれた。 「こういう場所だとお客さんに付き合うのは避けられない。でも、ちゃんと分かってるから」 彼の手は暖かかった。 「怒るなよ、心美。早くお金を稼いで、結婚したいだけなんだ。そしたらもうこんな場所で働かなくて済む」 その時、電話が鳴り響いた。 陽翔は見たが、出なかった。 「上司が戻るように催促してる。心美、一人で帰れるか?」 「少しここで座ってから帰る。先に行って」 私は涙をこらえながら、彼の手を軽く握り返した。 彼は私の頭を撫でて去っていき、足音が遠ざかるとようやく顔を上げた。 でも、まだ誕生日ケーキも食べてないのに。 ふわふわのケーキの中に二つの指輪がずっと隠れていた。
まだ陽翔には話していないけど、私もお金を貯めていたんだ。 本業を辞めずに夜はアダルトショップで、週末や祝日は遊園地で着ぐるみのバイトをして、一生懸命お金を貯めた。 派手な結婚式なんていらないってことも、伝えてない。 お母さんにも話したら、二人が心から愛し合っていれば、シンプルな結婚でいいって言ってくれた。 だけど、あの赤い痕を見た途端に、言葉は全部頭から消えた。 一言も伝える暇もなく、彼はまた私たちの未来のために嫌な仕事をしなければならないんだ。 くよくよしないで。 今日は彼の誕生日だし、プレゼントを渡すことも忘れてしまった。これを機に、全部伝えよう! 「やりたくなければ、今夜で仕事を辞めてもいいんだって!」 心の中で自分を励まし、ケーキを持ってカラオケに入った。 「陽翔はどの部屋にいますか?」受付の人に聞いた。 「えっ…V888です」 受付の女性は忙しそうにしながらも、笑顔で教えてくれた。 何かがおかしい気がしたけれど、深く考える間もなく、指示された方向へ向かった。 VIPルームの方はとても静かで、さっきまでの賑やかなホールとはまるで別世界だった。 不安で胸が締め付けられる。 今は仕事中だから、入っていったら迷惑だろうか? 立ち止まっていると、部屋の中から声が聞こえた。 「陽翔、どんな美人がそばにいるの?こっちは待ちくたびれた」 「彼女がちょっとしつこいんだ。さっきちゃんと話した」 懐かしい声。陽翔だった。 ガラス越しに覗くと、彼はソファの真ん中に座り、華やかな女性たちに囲まれていた。 そのうちの一人は短いスカートを着て、彼に寄り添い、手で彼のチンチンを撫でていた。 陽翔の表情は落ち着いていてリラックスしている。仕事用の服はもう脱いでいる。 これを見て、私は驚いた。 「今回はどこで?またトイレか?」 「陽翔はどこでもできるよな、さすがだぜ」周囲の男たちは慣れた様子で相槌を打ち、酒を掲げていた。 「遊びみたいなもんさ。あの子、素直で面白いんだ」 「どれだけの美人と付き合っているか数え切れないですね」 その言葉を聞いて、陽翔の膝にいた女性がふざけて立ち上がり、歌を選びに行った。 彼女が去ると、陽翔の視線がドアの外へと向けられた。
私はしゃがみ込んで、真っ先に逃げ出したいと思った。 だけど足がその場に釘付けになったように動かない。頭には、母が私の手にそっと押し込んだ預金通帳のことが浮かんだ。「お金をしっかり管理してね、心美ちゃんが幸せならお母さんもそれでいい」と母はあの時そう言ってくれた。夜遅く一人で仕事へ向かう道、真夏に着ぐるみの中で流した汗、そして溜まった暑気。これまでの頑張りを思い出すと、怒りが胸の奥から湧き上がってきた。手の中の粗悪な着ぐるみの頭が割れているのに気付くと、私はそれをかぶり、扉を押し開けた。周囲が状況を把握する前に、陽翔の顔を三回平手打ちした。彼の顔はすぐ赤くなって腫れ上がっていった。それでも怒りが収まらない。残りのケーキをぐしゃぐしゃに押しつけ、彼の頭の上で砕いた。「誕生日おめでとう!」「文句ないよね」「さっき忘れ物してたんだよ」「それは、道徳っていうもの」ケーキにまみれた頭にリングが絡みつき、まるで滑稽な見世物みたいだった。殴るだけ殴って、怒鳴るだけ怒鳴った。もうスパッと決別する時だ。この七年間、無駄になった。部屋からはざわざわとした声が漏れたが、私はそれを背に、外に向かって歩き出した。もう何の関係もない。
「俺が竹内氏企業の後継者だって話、心美ちゃんにプレッシャーかかると思って教えなかった」「あの夜は仕事関係者との会合で、あれはただの付き合いだ。そんなに本気にするなよ」「七年も付き合ってたのに、本当に俺の電話を無視し続けるつもり?」「それとも、この機会に俺を脅して結婚したいのか?」……陽翔からのメッセージには一度も返信せず、彼を避けて、仕事に打ち込んだ。ゴミからは遠ざかって、私はもっと良い自分になる。案の定、一週間ほど無視していたら、彼からの連絡はぱたりと止んだ。これで終わりだと思っていた。けれど、ひと月後、また彼からメッセージが届いた。「心美ちゃんの物、まだ俺の手元にある」開いた写真には、私が何も身に着けていない姿が映っていた。一瞬で手のひらが冷たくなった。いつこんな写真を撮られたのか全く覚えていない。これが彼の仮面の裏の姿なのだろう。手に入らないものは、壊す。「父親のいない心美ちゃんも、心美ちゃんのお母さんも、この写真がネットで拡散されることは望まないよね」「心美ちゃんのいない時間、ずっと寂しかった。もし結婚したいなら、俺の両親に会わせて結婚するから」脅してから飴を渡すやり方。竹内氏企業の後継者である彼は、本当にずるい。
だけど、彼は知らないだろう。私が父を知らずに育ち、ずっと早くから一人で生きる力を培ってきたことを。経験してきたことは、彼が考えているよりずっと多い。こんな写真では、私を脅すことなどできない。彼からの脅迫メッセージとスクショをしっかり保存し、私は彼に返信した。「いいよ。じゃあ、今度の週末に両親に会わせて」私の返事を見て、陽翔は態度を変えて、再び優しい恋人を装い始めた。彼の車で彼の家の別荘に向かう道中、彼はさも困ったような顔を見せた。「心美、俺は色々頑張ったけど、俺の両親が受け入れるかはわからない」「大丈夫、一緒にご飯を食べるだけだよ。俺はずっと心美ちゃんの味方だ」陽翔がここまでしつこい理由にはもう興味はなかった。もしかしたら、今までのように、彼を大切にしてくれる相手が周りにもういないからだろうか?今はただ、彼のわざとらしい演技に吐き気がするだけだ。もういい。やるべきことだけをやろう。クズに感情を使う必要はない。「父さん、母さん、こちらが心美です」食卓では、彼の両親が主賓の席に座り、一瞥しただけでその後は私に見向きもしなかった。私が口を開こうとした瞬間、外から一人の女性が入ってきた。彼の両親はすぐに立ち上がり、私に対するのとは正反対の態度で歓迎した。「萌音ちゃん、来てくれたね。さあ、座って」現れたのは明るく魅力的な女性で、陽翔の隣に案内されて座った。「はじめまして、山本萌音といいます」萌音は陽翔越しに私に微笑み、自己紹介をした。だが、挨拶が終わる前に陽翔の父親が話を引き取った。「萌音ちゃんは陽翔の幼馴染で、最近イギリスから帰ってきて、会社を引き継ぐ準備をしてるんだ」「未来のお嫁さんなら、紹介なんていらないさ!」陽翔の母親はお茶を彼女に注ぎ、その親しげな態度ははっきりとしたものだった。ちょっと待って。これってまさかシーンを間違えたんじゃないの?この女性、なんだか好感が持てる。私は別にクズ男と結婚のために来たんじゃないし、このクズ男なんて、どうでもいい。
「叔父様、叔母様、少し誤解されているようですが、私が今日ここに来たのは、陽翔さんがもう二度と私に付きまとうのをやめるように説得していただきたかったからです」大きな声ではないけれど、テーブルの上の人々の手が一斉に止まった。「それと、表に出せない写真も、早く削除するよう説得してもらえませんか」「証拠はしっかり残してありますし、弁護士にも連絡済みです」「陽翔が卑劣な手で脅してくるので、弁護士の助言を受けて警察にも届け出ています。きっと、警察からそのうち連絡があるでしょう」「私は普通の人で、ネームバリューを気にしないけど、竹内氏企業の評判に傷がつけば、大変になるかもしれませんね」陽翔の母親は顔を真っ赤にし、怒りの声をあげた。「何を勝手なこと言っているのよ!」そう言いながら、陽翔の方を振り返った。彼は顔色を失い、陽翔の母親とは対照的に青ざめていた。一方、陽翔の父親は流石ビジネスマンらしく、落ち着いていた。「言葉には気をつけなさい。何か誤解があるのなら、食事の後に話しましょう」「私は今日は食事に来たわけではなく、状況を伝えに来たんです。誤解かどうかは、陽翔さんに聞いてください」「それと、陽翔さん、次にまたこのような手段を使って絡んできたら、私はもう容赦しません」そう言って立ち去ろうとしたが、先ほどの女性の優しい笑顔を思い出し、足を止めた。「萌音さんも、どんな相手と付き合うか、よく見極めた方がいい。気がついた時には、もう手遅れ」萌音は何か考え込んだ様子だった。私はその家族にもう一瞥もくれず、別荘を出た。
門を出ると、すぐに陽翔の連絡先を全てブロックした。クズ男からの解放、これは本当にお祝いものだ。しかも今まででそこそこ貯金もできた。だから今日は友達たちを誘ってバーで思いっきり盛り上がることにした。友人たちは私の体験談を聞いて大喜びし、早速ホストを奢ってくれた。金持ちの楽しさって、こんなにも楽しいものだったなんて!感情抜きでただお酒を飲んで、ただ楽しい時間を過ごす。賑やかな雰囲気に包まれて、以前のようにただ待つだけの自分じゃない自分を感じた。心から楽しむ自分を感じながら、ふと頭に浮かんだのは、女性客が少ないアダルトグッズ店のこと。ある考えが浮かんで、広がっていく。制限される女性たち、いまだに社会の枠組みから抜け出せない人たちはどれほどいるのだろう?言えない女性の合理的なニーズ、ミスティックなブルーオーシャンが、私を未知の世界に惹き込むようだった。考えにふけっていると、ふと足に異様な感触がした。半分禿げた男が酒臭い息を吐きかけ、私の足に手を伸ばしてきた。友人たちもいるし、場を壊したくなかったので、笑って数度かわしたが、男はついに酒瓶を叩きつけた。「お前みたいな女は顔を立てろ。俺が相手してやるだけありがたく思え。女がバーに来るのなんて、触られたくて来てんだろ?」我慢できない私は、男のハゲ頭に酒瓶をもう一本叩きつけるつもりでしゃがんで瓶を選んだ。だが、立ち上がる前に、誰かがそのハゲ男を何発か殴り倒して、血まみれの鼻で地面に転がしていた。思わず、パンチを入れている男性の顔を見上げると、なんだか見覚えがあった。
「春介!久しぶり!どうしてここにいるの?」バーの外で、私は高橋春介と挨拶を交わした。高校三年間同じクラスだった友人との再会はまるで別世界のような感じだった。「仕事がうまくいかなくて、気分転換に来た」彼は続けて説明した。「さっきから心美ちゃんが少し困っている様子に気付いて、思わず手を出してしまった。」街灯の下、彼のかっこいい横顔は半分影に隠れていた。拳を振った手の一部が傷ついているのが目に留まったので、私は近くのコンビニで絆創膏を買って彼に貼ってあげた。一言一句に応えてくれるし、いざという時に頼りになる。高校時代、数学を教えてくれたあの時と同じ、優しくて責任感のある彼。大学に進学してから、彼も私のことが好きだと偶然耳にしたことがあった。ただ、その頃には私たちの道は既に違っていて、散ってしまっていた。過去はもう、取り戻せないもの。「ちょうど別れたばかりの私は、少し落ち込んでいる彼と共通点も多かった。彼は、帰り道の一番暗い場所まで送ってくれて、そこで連絡先を交換し、建物の外で別れを告げた。その後の半年間、春介からは連絡がなかった。その間に、私は長年貯めていたお金を思い切って女性向けアダルトグッズ業界に投入し、さらに友達の女性心理相談業も取り込んで事業を開始。二つを組み合わせ、会社を立ち上げて『愛光』と名づけた。顧客の開拓やプロモーション、企業との提携、日々の運営など、やるべきことは山積みだった。やはりこのブルーオーシャン市場は予想通り無限のビジネスチャンスに満ちていた。毎日、地に足がつかないほど忙しく、貯金残高がどんどん増えていくのを見ながら、他のことを考える余裕などなかった。まさか、春介と再会するとは思いもよらなかったし、しかも気まずい場面で再会するなんて…。
私の母と春介の母は私たちの結婚式に出席した後、翌日から二人でキャンピングカー旅行に出かけた。 そして、私と春介もいよいよ正式にハネムーン生活を始めた。 春介は普段、手術のスケジュールがぎっしり詰まって忙しく、私も会社の仕事で足元が見えないほどの忙しさだ。 だからこのハネムーンは、私たちにとって本当に待ちに待った休息の時間だった。 やっと心置きなく何日かぐうたらできるのだ。 市場で食材と生花を買って家を飾り、料理を作り始めた。 「俺はダメだ!メスは握れても、包丁は扱えない!」 春介はレシピにある千切りポテトと格闘しながら、ついに……ポテトの角切りを完成させた。 やれやれ、と崩れ落ちる彼はなんだかとても可愛らしい。 「私がやるから!あなたは後でお皿を洗ってね。それと、前に作ってくれたホットワイン、また飲みたいな」 私は包丁を受け取り、笑いながら料理を続けた。 窓の外には、暖かな夕日が私たちを優しく照らしている。 お互いの真っ直ぐな愛は、本当に天からの贈り物だと思う。
病院の屋上で。 少しずつ気持ちが落ち着いていく。 春介が私の手を握っているが、わずかに震えていた。 私はその手に目をやり、春介は少し照れくさそうにしていた。 「変だな。さっき手術中では手が全然震えなかったのに、今になって少し抑えきれなくなってきた。きっと感動しすぎたんだ」 「心美ちゃんのおかげで、ようやくまたメスを握ることができたんだ」 「心美、ありがとう」 春介は私を見つめ、透き通った笑顔を浮かべた。まるで星がその瞳に溶け込んでいるようだった。 私は両手で彼の手をしっかりと握り返した。 「違うよ、春介。私のおかげじゃない」 「今回の成功は、この何年もずっと諦めずに、繰り返し練習してきたからこそ。病気を治し、人を救うことを夢に掲げてきたからこそよ」 「春介の成功も、キャリアも、人生も、私のためじゃなく、自身がより良い自分になるためのもの」 「だからこそ、私たちもより良い関係を築けるの」 光の中、私たちは手を取り合っていた。 互いに繋がりながらも、それぞれが輝いている。 愛はとても大切なこと。人によっては最も大事なことかもしれない。 でも、愛だけが人生のすべての意味じゃない。 私はそのことを理解するまでに七年かかった。 これが私の「恋愛バカの成長プロジェクト」よ。
電話をかけた瞬間、私は七年間の思い出を引き換えにする覚悟をした。 彼からどんな条件を出されても受け入れる覚悟もしていた。 だが、彼は何も聞かずにただ住所を送るようにと言った。 そして、10分も経たないうちに彼は病院に現れた。 「私はRh陰性です。手術室の患者に輸血をお願いします。できるだけ早く」 看護師が急いで血を手術室に運んで行った。 陽翔は少し青ざめた唇で、廊下の椅子に体を預けた。 「ありがとう」私は葡萄糖液を彼に手渡した。 それ以外に、何を言っていいか分からなかった。 「そんなこと、俺に言うなよ」 「言わなきゃいけない」私はうつむいて答えた。「絶対に感謝する」 陽翔は苦笑いして首を振った。 「感謝する必要ない。以前は浮気して、隠して、悪い手段で引き留めようとした。本当に、七年間付き合ってくれてありがとう」 「おかしいよな。前はいつも一緒にいると心美ちゃんがうるさいと思ってた。外に遊びに行きたくなった。でも、心美ちゃんがいなくなって初めて、自分の世界が空っぽだって気づいたんだ」 「もう一度やり直せないかな?俺、何だって変えるから……」 私は手術室を見つめた。今、一番心配している大切な二人がその中にいる。 「ごめんなさい……私、春介ともう結婚するつもりなの」 「たとえ結婚しないとしても、私たちがやり直すことはないわ。過ぎた時間はもう取り戻せない」 「私の性格も知っているでしょ。今日の件は他の方法でお返しするわ」 陽翔は両手を握りしめ、しばらく目を閉じた。 長い沈黙の後、深く息を吐き出した。 「分かった。じゃあ今日で俺たちはさっぱり終わりだな。お互い、何も借りはない」 「心美、幸せになれよ」 陽翔は去っていき、その背中だけが残った。 やがて手術室の明かりが消え、母が手術室から運び出された。 その後ろから春介が現れ、私に安心させるような微笑みを見せた。 その瞬間、身体も心も一気に緩み、私は壁に寄りかかりながら涙をこらえきれずに泣き出した。 うれし涙だった。
「今、病院は血液センターに緊急で調達を依頼していますが、ご家族でなんとかできるなら、急いでください。命がかかっているんです!」 走りながら看護師は言った。状況は本当に緊急だ。 まさかこんな事態になるとは思わなかった。 私はしばらく何も考えられなかったが、頭に一人の姿が浮かんできた。 私は携帯を開き、その懐かしい番号にかけた。 すぐに電話がつながった。 できるだけ震えないように声を押さえた。 「陽翔、お願いしたいことがあるの…」
春介と一緒にウェディングドレスを選びに行く途中、病院から電話がかかってきた。 「お母さまが自宅で突然脳出血を起こし倒れ、後頭部を強打されました」 「非常に危険で、すぐに手術が必要です」 耳元に鋭い耳鳴りが響き、一瞬で周囲のすべてが消えてしまったように感じた。 恐怖、不安、泣きたい気持ち――さまざまな感情が一気に襲ってきた。 春介が隣で何か問いかけていたが、私にはもう何も聞こえなかった。 ただ、まずは冷静にならなければと思い直した。泣いている時間なんてない。 頭をクリアにして、まずは問題を解決しなければ。 病院は近くにあったので、私は春介と急いで向かった。 「当院の脳外科では能力が限られていて、患者さんの状態も思わしくありません。転院を検討した方がいいかもしれません」と、受付の医師が言った。 「急を要する状況で、転院の時間はないと思います」 春介は母の状態を確認し、私と医師に向き直った。 「この手術、できますか?」と私は彼に直接尋ねた。 「以前ならできるかもしれないけれど、今は……自信がない」 春介は少し目を逸らしながら言った。「もう長い間、手術はしていないんだ」 「春介、私が以前言ったこと、覚えてる?」 私は彼の目をじっと見つめた。「『必要なものはきっと与えられる』って」 「今がその時よ」 春介の目が一瞬光を宿し、少し考え込んだあと、彼の視線は再び確固たるものに変わった。 「私はX大病院の脳外科医の春介です。緊急事態です、私が執刀します」 彼は医師にそう告げ、全身にプロの鋭さと威厳がみなぎっていた。 母と春介は手術室へと入っていった。 私は手術室の外で焦りながら待ち続け、落ち着けず歩き回ることしかできなかった。 「必ず母は目を覚まして私の結婚式を見届けてくれる」と信じ、そして「春介なら母を救ってくれる」と信じていた。 突然、手術室の扉が開き、看護師が駆け出してきた。 「手術の具合はどうですか?」と私は急いで尋ねた。 「手術は問題ありませんでした。ただ今問題なのは、お母様がRh陰性の血液型で、病院には血液の在庫がないんです」
年月が経ち、人も環境も変わっていったが、あの夜、月明かりの下でようやく高校時代の両片思いがそっと交わった。 二人の濡れた手が次第に握り合い、私と春介はようやく肩を並べて歩き出した。 陽翔との感じとは違い、私と春介の愛は静かで深い。 母もようやく見合いを勧めるのをやめ、春介の母と個人的に会って仲良くなり、二人で大晦日を一緒に過ごすことまで決めてしまった。 二人とも朗らかな女性で、決めるのは早かった。 紅白歌合戦の音楽を背景に、私は春介と一緒に手をつなぎながら家のベランダから夜景や花火を眺めていた。 二人の母たちはリビングでおしゃべりを楽しみながら、ひまわりの種をつまんでいる。 花火の隙間から、母の声が微かに聞こえてきた。 「心美は小さい頃から父親がいなかったから、私たち二人の生活は楽じゃなかったのよ。それでも彼女がやり遂げようとしていることには、彼女なりの理由が必ずあるわ」 「あの子は本当に素晴らしい子だよ」 おばさんが続けて言った。 「これからは私と春介が、支えられる存在になりたい」 隣で握られている手が、さらに強くなった。 春介は私を抱き寄せ、寒さから守ってくれた。 愛と尊敬、彼は本当に神様からの贈り物のようだった。 陽翔は時折、私の生活に顔を出し続けている。 「前は俺が悪かった、許して。今度こそ償わせて」 私は首を振り、特に心も動かず、それ以上は気にかけない。 人生の努力が報われるとは限らない。 私にとっても、彼にとっても同じことだ。 現実は、受け入れて手放すしかないのだ。 年が明けて、春介は高校時代のキャンパスを再訪するという名目で、私にプロポーズをした。 私は驚きと喜びでその場で受け入れ、不思議と涙が溢れ出して止まらなかった。 待ちに待った、互いに心からの愛が、今ここに。 私たちの結婚は自然と話題にのぼるようになった。 二人で一緒に入籍、式の日取り、式場のことまで話し合った。 今もこれからも、春介と私の間には問題が起こるだろう。 でも私は信じている。 「必要な時に必要なものは与えられる」と。 お互いに愛し合うなら、きっと一緒に乗り越えられる。 ただ、予想もしなかった問題が、すぐに訪
「わざと見合いをして、俺を怒らせようとしてるのか?」 陽翔が怒って、私の手首を掴んで問いかけた。 「わざわざ怒らせる必要なんてないわ。私たちはもう何の関係もないから」 私は落ち着いて事実を述べたが、心の奥で少しイライラして、陽翔の手を振り払いたくなった。 彼は傷ついたような表情を浮かべ、逆にその手をさらに強く握りしめてきた。 「7年も付き合ってタノに、未練は少しもないのか?」 「陽翔、一体何に未練を残せと?」 「最初から最後までの嘘?それとも裏切り?脅し?私の尊厳と努力を踏みにじったこと?」 「陽翔、いい加減にしてよ」 「今、私は目の前の男性と結婚を前提に付き合っているの。いい加減にして、私の人生から出て行って」 「心美、俺を許してくれないのか?変わるから…」 私は、竹内氏の後継者として誇り高く振る舞っていた彼の目に初めて懇願が浮かぶのを見た。 「お前のようなクズ男を許すことはできないわ」 私は断固として言い放ち、彼に一切の希望を砕いてやろうと決めた。まるで、彼の誕生日に私の心を壊した時のように。 陽翔は手を離さず、私が嫌がるほどにしっかりと私を捕らえて店の外に引きずり出そうとした。 その時、春介が立ち上がり、陽翔の手を強引に外していった。 「聞こえなかったのか?彼女は今、俺と結婚を前提に付き合っているんだ。話があるなら外でしよう」 普段穏やかな彼が怒ると、その迫力は一層際立った。 春介の額には青筋が浮かび、二人は店員に促されて外へと向かった。 戻ってきた時には、春介の手には傷がついていた。 「大丈夫さ。あいつの方がもっとひどくやられたから」 何か言おうとしたが、言葉が見つからない。 「彼を騙すために付き合っていると言っただけなのは分かってるよ。別に説明しなくても大丈夫だ。さあ、送っていくよ」 日が暮れ始め、春介は自分の上着を私に掛けてくれた。 彼と共に暗い道を歩くのは、これで二度目だった。 「実は…違うかも」 私は小さく呟いた。 隣の彼は一瞬驚き、足を止めた。 空には、月がいたずらっぽく笑っているようだった。
おばさんは電話で話していた時と変わらず、力強く、笑顔にあふれていた。 彼女はカフェで新しい味のコーヒーとデザートを試しながら、満足そうに笑っている。 「心美ちゃん、もうすぐ息子が迎えに来るの。彼と少し話してみてくれる?」 「でも私は女性の心理カウンセリングしか担当していませんし、男性問題は専門外ですよ」 「大丈夫よ、相談じゃなくて、お見合い。もし無理そうならすぐ追い返すから」 生活を取り戻した彼女の率直な様子に私は断ることもできず、まあもう一人くらい見合い相手が増えても慣れていると覚悟した。 彼女と今後のキャンピングカー旅行について話し笑っていると、店の入り口に見覚えのある姿が入ってきた。 「心美?」 「春介?」 私たちは同時に驚きの声を上げた。 おばさんだけがまるで計画が成功したかのように笑っている。 「この子ったら、ずっと名刺を見つめてぼんやりしてたから、名前を検索してみたの。偶然も偶然、見つけちゃったわ!」 おばさんは電話を受けながら車の調整に向かい、残された私と春介はお互いに目を見合わせた。 私は空港でのあの気まずい場面について説明し、今の自分の仕事について話し始めた。 話が進むうちに、少しずつお互いの心が開かれていった。 「高校の頃の夢が叶って、今は脳神経外科医になった。でも、そんなに楽しいわけじゃないんだ」 彼も徐々に心を開き、仕事での話してくれた。 「実は、仕事の後に付き合った女性がいて…彼女は事故で頭に重傷を負ったんだ。僕が主治医だったんだけど、手術で助けられなかったんだ」 「それから、手術に対する自信がなくなってしまって、手術台に立てなくなってしまった」 「バーで偶然心美ちゃんと会った後、ずっと自分を立て直そうとしているけれど、まだ完全には乗り越えられていないんだ」 「焦らなくてもいいわ。人生って、必要な時にちゃんと必要なものを与えてくれるんだから」 さらに話を続けようとしたその時、またも見覚えのある、そして気まずい空気を感じる人物が近づいてきた。 陽翔だった。 良くない予感がした。
見合いに時間を費やすのは本当に無駄だ。 年明け前、短い動画やライブ配信が流行しているのを見て、今こそ愛光のオンライン相談とライブ配信の事業を拡大するチャンスだと思った。 オンライン会議で、新しいインセンティブプランと具体的な実行計画を提示し、新しいオンライン部門が立ち上がった。 すべてが計画通りに進み、各部門が協力することで、会社の売り上げも目に見えて伸びてきた。 社員の収入も増えていき、私も全体を管理しつつ、必要なところでサポートに回り、毎日忙しく駆け回っていた。 その日は心理カウンセラーの資格を持つ私がサポートとしてオンライン相談に応じることになり、打ち込みがあまり得意でないおばさんが連絡をくれた。 彼女は慌てて自分の状況を伝え、私は彼女の気持ちを落ち着かせながら、音声入力を教え、彼女はようやく長文のメッセージを送ってくれた。 大まかな話は、退職したおばさんが一生添い遂げた夫と離婚したいというものだった。 生活面での些細な摩擦や夫婦生活の不調、長年積もりに積もった我慢の数々… 彼女は若い頃に周りの目を気にして離婚を思いとどまり、子供が生まれればそのために、また受験があるからと先延ばしにしてきた。 そんなこんなで気づけば、髪は白髪まじり、人生でやりたいと思ったことを何一つしていないことに気づいたという。 心理カウンセリングではお客様の代わりに選択をすることはできない。 私たちはただ、彼らが自分の心と向き合えるよう導き、選択の結果についても考えられるようサポートするだけだ。 でも、彼女の話にどこか母の面影がよぎり、私は例外として彼女に自分の連絡先を教えた。 それからも連絡を取り合ううち、深く考えた末、彼女は裁判所に離婚を申請したと言ってきた。 結果を待つ間、彼女は見違えるように解放されたようだった。 彼女は自分の貯金でキャンピングカーを買い、自分の人生で行きたい場所に出かけると言う。 出発前に一度会いたいと誘われ、私は彼女と約束した。