和真の幼なじみが再び彼の助手席に乗ったとき、私は何も言わず、静かに後部座席へと移動し、彼の親友である景の隣に座った。 車が揺れるたび、私の膝は隣の男の引き締まった太腿に触れた。 わざと離さずにいると、彼も動かなかった。 途中、サービスエリアに立ち寄った際、幼なじみは和真にトイレへ付き添うようせがんだ。 車のドアが閉まった瞬間、景は私のうなじを掴み、唇を重ねてきた。 唇を奪われ、理性が溶けていく中で、ふと頭をよぎる。 男を疑い、男を理解し、男になる。 まさに、真理だ。
もっと見る結局、仕事は守れなかった。会社を去る日、ビルの前で、和真と鉢合わせた。私が荷物を持って出てくるのを見て、彼はすぐに車から降りてきた。今日は助手席に理子の姿はない。私は目もくれず、そのまま前を向いた。だが、和真が行く手を遮った。「桃歌、もう意地を張るのはやめよう」「前にも言っただろう?そんなに苦労する必要なんてないんだ」「よりを戻そう。もう二度と理子とは会わないと約束する」私は笑った。彼を見つめながら。人間は、手に入らないものほど執着する生き物だ。彼が今になって「理子とは会わない」と言うのは、ただ、もう彼女とは関係を持ち尽くし、飽きてしまったから。だから、また私を思い出しただけ。「どう?」和真は私が笑ったのを見て、態度が変わったと思ったのか、手を伸ばし、私の腕を掴もうとした。私は身を引いた。「和真」「私にはもう、恋人がいるの」彼は信じられないという顔をした。「そんなはずない!いつの間に?」私は、より深く微笑んだ。「覚えてる?温泉リゾートでのこと」「私、男物のシャツを着てだ」和真の瞳孔が瞬時に収縮し、顔色がみるみるうちに青ざめていった。「このシャツ、彼のものなの」「昨日の夜はずっと一緒にいた。お酒を飲んで、話して、それから、寝た」「桃歌!!」「そんなに怒らないでよ」私は首を傾げて、のんびりと続ける。「だって、あんたも理子と同じことしてたでしょ?」「それも、私たちがまだ付き合ってたときに」「それは違う!あれはただの遊びだった!」「本気で好きだったら、お前と付き合うわけないだろ!」和真は、歯ぎしりするような声で叫んだ。「そうね。確かに違うわ」「私は本気だから。本当に彼が好き」「てめぇ……ちゃんと説明しろ!その男は誰なんだ!」和真は今にも爆発しそうだった。この俺の女を奪おうなんて、どこの馬の骨がそんな真似を。「絶対にぶっ潰してやる!!」怒りに駆られた和真が吠えた、そのとき。「誰をぶっ潰すって?」低く冷えた声が背後から響いた。和真の動きがピタリと止まる。まるで電源を切られた人形のように。硬直したまま、ぎこちなく振り返る。そして、そこに立っているのが誰なのかを認識した瞬間、まるで背骨
理由なんてない。君が、君だから。もしかしたら、それはずっと昔、学生の頃から。もしかしたら、和真の恋人になり、再会したときから。自分でもはっきりとは分からない。ただ、彼女が和真と付き合っていると知った瞬間から、彼は嫌悪していたあの世界に、自ら足を踏み入れるようになった。ただ、彼女をもう少し近くで見たかったから。だからこそ、嫉妬と悔しさを噛み殺しながら、何度も何度も、彼女と和真のそばに現れた。あの日、車の中で、彼女の膝が自分の脚に触れたとき、彼女がそれを避けなかったとき、その瞬間に沸き上がった卑劣な喜びを、この世で知るのは、彼一人だけだった。それでも、彼にはどうすることもできなかった。結局、彼は自分が最も軽蔑していた人間になってしまった。だが、後悔はしていない。一度も、自分の選択を悔やんだことはない。ただ、もっと早く動くべきだった、と後悔をした。彼がすべきだったのは、最初から手を伸ばすこと。もっと早く、もっと大胆に。たとえ、「卑劣な第三者」になったとしても。
私のアパートは狭く、浴室も小さかった。シャワーの水圧も弱く、少し寒かった。だから、彼が強く抱きしめてくれた。彼の身体は熱かった。手も熱かった。濡れた髪に指を差し入れ、頭皮を撫でられただけで、私は全身を震わせた。彼は私を見つめながら、唇を落とした。濡れた髪を指で梳かしながら、ひんやりとした耳たぶを優しく弄んだ。私は目を閉じた。もう、何も我慢したくなかった。「清川先生、もう一度、診察してください」私は彼の手を取り、ゆっくりと胸元に導いた。彼は大きく息を呑み、もう我慢できなかったのだろう。狭いシャワールームの中で、降り注ぐ水の下で、彼と私は何度も何度も、溶け合った。やがて力尽き、私は彼の腕の中で眠りに落ちた。彼の温もりに包まれながら、私は、どこまでも深く、心地よい眠りについた。再び目を覚ましたとき、景はまだ私のアパートにいた。意外だった。何度も目をこすった。彼は袖をまくり、キッチンから料理を運んできた。「起きた?何か食べる?」「なんで……帰らなかったの?」景は皿をテーブルに置き、眠たげな私を見つめた。「帰ったら、またしばらく俺を無視するだろう?」メガネをかけ、セットされていない髪が柔らかく額に垂れている。まるで温かみのある玉のような姿だった。私は彼のメガネ姿が好きだ。でも、それを自分の手で外すのはもっと好き。「清川さん……」彼の前に立ち、顔を上げてその瞳を見つめる。「今の私は何も持ってない」「仕事も失うかもしれない」「それに、私は霜鳥家の娘じゃない。ただの拾われた孤児」「私は自分勝手で、少し見栄っ張り」「そんな私を、清川さんが好きになるとは思えない」景は私の不安や劣等感、迷いを感じ取ったのか、静かに手を伸ばし、強く抱きしめた。「霜鳥さん、俺が大切に思うのは、君だけなんだ」「どうして?」私は彼を見つめ、ぼそりと呟いた。どうして私なの?どうして私を好きだと言うの?私はこんなにもひねくれていて、矛盾だらけで、プライドが高いくせに卑屈で……「理由なんてない。君が、君だから」景はゆっくりと顔を下げ、そっと私に口づけた。
私は、霜鳥家からもらったマンションと車を返した。それだけじゃない。大学卒業後、働きながら貯めた400万円も、すべて両親に渡した。育ててもらった恩は、できる限り返すつもりだ。でも自分の結婚だけは、自分の手で決めたい。霜鳥家を去るとき、家族の顔色はどれも険しかった。そして、そこには、彼ら全員の名前と指印が押された、縁を切るための誓約書があった。私の手には渡らず、顔に投げつけられた。新しい賃貸アパートに引っ越し、気持ちを立て直そうと努力した。その間、景からも何度も連絡があった。彼が私の体調を尋ねたときだけ、簡単に返事をした。何度か会おうとも言われたけれど、私はずっと考えた末に断った。彼に会ったら、きっと自制がきかなくなる。抱きしめたくなる。キスしたくなる。身体を重ねたくなる。彼を完全に自分のものにしたくなる。だけど、それと同時に痛いほどの理性が私を引き裂いた。もしすべてが幻だったら?夢から覚めたとき、何も残っていなかったら?景は、無理に会おうとはせず、しつこくもしてこなかった。時々、私は彼のSNSをこっそり覗いた。たまに投稿されるのは、朝のランニングか夜のランニングのことばかり。私はまるで変態みたいだった。写真を拡大し、彼の姿を貪るように見つめた。仕事は徐々にうまくいかなくなった。なんとなく察していた。和真が裏で手を回しているのかもしれない。でも、今は辞めるわけにもいかず、ただ耐えるしかなかった。給料が何度も引き下げられても。プレッシャーに押し潰されそうになった深夜、残業を終えてアパートに帰ってくると、彼がいた。すでに帝都は秋に入っていた。彼は濃いグレーのトレンチコートを羽織り、アパートの前に立っていた。すらりとした長身。神のように整った顔立ち。指には煙草が挟まれていた。彼が煙草を吸う姿を見るのは初めてだった。私を見た瞬間、彼はすぐに火を消した。私は呆然と立ち尽くした。手に持っていた冷えたサンドイッチが、ぽとりと地面に落ちた。次の瞬間、彼は大股で歩み寄り、何の迷いもなく、私を強く抱きしめてキスをした。そのキスは深く、強引だった。微かに苦いニコチンの味が、肺の奥まで染み込んでいく。なのに、どうしようもなく惹き
我に返ると、目の前には冷たい怒りを浮かべた二人の兄がいた。「桃歌、今すぐ佐伯さんに会いに行くぞ」「行かない」「お前に拒否権はない」「佐伯さんは、お前が頭を下げるなら婚約を考えると言っている」「お前だって分かってるだろ?霜鳥家の事業を立て直すには、佐伯さんの力を借りるのが一番の近道なんだ」私は力を振り絞り、腕を振りほどくと、歯を食いしばって言った。「何度言わせるの?私は行かないって」次兄は苛立ち、また手を振り上げる。だが、長兄がそれを制止した。彼は穏やかな表情で私を見つめ、静かに語りかける。「桃歌、今、家は本当に危機に瀕してるんだ」「もし今回の取引が破談になったら、霜鳥家は終わりだ」「お前も霜鳥家の一員だろ?俺たちはずっとお前を大切にしてきた。頼むから、助けてくれ」私は冷笑し、じっと彼を見据える。「じゃあ、私の将来は?私がどんな目で見られ、どんな扱いを受けるか考えたことある?」「お前は若くて綺麗だし、学歴もある。佐伯さんは本気でお前を気に入ってる。絶対に悪いようにはしない」「桃歌、夢見るのはやめろ。佐伯家に嫁ぎたくて必死な女がどれだけいると思ってるんだ」「私は和真とは絶対に復縁しない」私は二歩後ろへ下がり、冷たく笑う。「そんなに良い縁談なら、自分の娘を嫁に出したら?」「桃歌、お前が家族の情を捨てるっていうなら」「親が今までお前に与えたものを全部返せ。そして霜鳥家とは完全に縁を切れ」「いいよ。全部返す」私が全く取り合わない様子に、大哥の眉が深く寄る。「桃歌、お前はまだ若くて世間を知らない。いずれ結婚したら、実家の存在がどれだけ大事か思い知る時が来る」「その時になって後悔しても、もう遅いぞ」私は、思わず笑ってしまった。思春期の頃、私は苦しんだ。悩み、葛藤し、時には自分を終わらせようとすらした。どうして両親は兄たちにはあれほどの愛情を注ぐのに、私には冷淡なのか、理解できなかった。自分が何か間違っているのかと、深く自分を責めたこともあった。けれど、ある時ふと耳にした。私は霜鳥家に捨てられた子供だった、と。彼らが私を引き取ったのは、利益のための政略結婚に利用するためだったのだ。道具に、愛情なんてあるはずがない。そう悟った時、私はよう
「また、しこりの部分が痛むのか?」景は手を洗い、消毒して拭き終えると、私の前に向き直った。「ごめん、桃歌。ここ数日、本当に忙しくて、すぐに連絡できなかった」私は彼をじっと見つめた。たった三日しか経っていないのに、彼はまた少し痩せた気がする。顎には青く無精髭が伸び、手入れする時間もなかったようだ。思わず手を伸ばし、そっと触れた。「清川さん、髭が伸びてるよ。なんか、ダサい」彼は私の手を握り、そのまま掌に顎を擦りつけながら、くすっと笑った。「すぐ剃るよ」でも、私は彼を引き止めて、立ち上がらせなかった。「冗談だよ。こういうのもカッコいい」「男らしいし、本に書いてあるみたいな『男性ホルモンたっぷり』って感じ」「じゃあ、このまま伸ばそうか?」私は鼻をひくつかせる。「やっぱりやめよう。キスするとき、痛そうだから」彼の口元の笑みが、さらに深まった。「試してみる?」「ここ、オフィスなんだけど……」「大丈夫。今日は半日休みを取ってる。誰も邪魔しない」「ちょうど君に電話しようと思ってたところだったんだ」「そしたら、偶然君が病院に来てるのを見かけて」彼は私の手を包み込み、その表情が次第に真剣なものへと変わる。「ごめん。あの日、君が初めてだって知らなかった」私たちはすぐ近くにいた。すぐ横には窓があり、その向こうには樟の木が見えた。遠くには庭園が広がり、風が淡い香りを運んでくる。光と影が、彼の端正な顔立ちの上をゆらゆらと揺れる。一本一本のまつ毛まで、はっきりと見えた。徹夜続きの疲労で、目の下にはうっすらと青い影が落ちている。目尻には、小さな茶色のほくろ。彼は、私の少女時代にとって、手の届かない憧れだった。鼻の奥がツンとする。言葉にしづらい思いが、胸の奥で膨らんでいた。人は、ずっと仰ぎ見てきた相手の前では、無意識に卑屈になってしまうのかもしれない。だけど、それでも私は彼を手放したくなかった。私はよく分かっている。自分がどれほど自分勝手で、虚栄心の強い人間か。だからこそ、私を食い物にしようとする貪欲で卑しい家族に、私も、私の大切な人も搾取されるのは絶対に嫌だった。彼らとは、早く縁を切りたくてたまらない。そして今この瞬間、私は世界中に向か
部屋に戻ると、もう一度シャワーを浴び、楽な部屋着に着替えた。そして、さっさと荷物をまとめ、温泉リゾートをあとにした。帰りの道中、父から何度も電話がかかってきた。全部無視した。すると、今度は兄からメッセージが届く。「お前、和真と喧嘩したのか?」「さっさと謝れ。もういい加減にしろ」「俺は今、佐伯家との取引を進めてるんだ。邪魔するなよ」胸が詰まるような息苦しさを覚える。「私は彼と付き合ってただけで、売られた覚えはない」「もう別れたし、よりを戻すつもりもない」「お前、調子に乗ってんじゃねえぞ?」「はっきり言っとくぞ。あんな玉の輿を逃したら、お前なんかすぐに霜鳥家から追い出してやるからな」大学を卒業してから、私は完全に自立していた。両親からも、霜鳥家の財産は兄たちのものであり、私には何の関係もないと言われていた。家には何軒も不動産があるのに、私に与えられたのはたった38畳の普通のマンション一つだけ。他の資産はすべて兄夫婦名義になっている。霜鳥家の商売も、霜鳥家の未来も、私には何の関係もない。私は微笑みながら、短く返信した。「お好きにどうぞ」家に戻ると、三日間ひきこもった。どんな家庭に生まれたとしても、簡単に割り切れるものじゃない。感情を消し去るなんて、できるはずもない。夜になると気分が沈み、不眠に苦しんだ。頭が割れそうなほど痛む。仕方なく、キッチンへ行き、酒を少し飲む。アルコールのせいなのか、それとも気分のせいなのか。乳腺のあたりに、鈍い痛みが広がる。薬を飲んでも治らず、むしろどんどん痛みが増していく。我慢できずに病院へ行くことにした。専門医の診察を受けようと、できるだけ景に会わなくて済むように別の医師を選んだ。今の私は、心も体もボロボロで、彼と顔を合わせる自信がない。廊下で順番を待っていると、突然、看護師が声をかけてきた。案内された先は、景のオフィスだった。思わず踵を返し、その場を離れようとする。だが、彼の声が背後から響いた。「待て」振り返ると、彼は二、三日寝ていないのか、目の下にうっすらとクマができていた。疲れが滲んだ顔。「そこに座れ。手を洗ってくる」白衣を脱ぎ、真剣な表情で手を洗い始める。水が指の間を流れてい
私は彼の手を払い、後ずさる。「確か私たち、昨日の時点で別れたはずよ」「だから、私が何をしようと、もう関係ないでしょ?」理子が驚いたように声を上げた。「えっ?桃歌姉、和真兄と別れたの?」私は無表情のまま、彼女を見つめる。「ええ、そうよ。市川さんにとって嬉しいニュースでしょ?」「ちょっと!何それ?」彼女はすぐにムッとした顔になる。「私、喜ぶなんてしてない!私が悪者みたいな言い方はやめてよ!」「和真兄、何とか言ってよ。変な噂を流されて、私が浮気相手だなんて言われたら困るよ!」和真は彼女の手を軽く叩いて宥め、後ろへ下がらせると、私に向かって不機嫌そうに言った。「たったこれだけのことで、まだ文句を言うのか?」「何度も言っただろう?俺と理子は、兄妹みたいなものだって。何もないって」理子も、嫌味ったらしく口を挟んでくる。「桃歌姉、あまり人を疑わない方がいいよ。男女間だって、純粋な友情も成立するから」「桃歌、そんなことで騒ぎ立てると、後で後悔することになるぞ」「別に騒いでなんかいない。ただ、もう付き合いたくないだけ」「それに、昨夜もちゃんと話したはず。私たちはもう終わったの」本当は、彼と長々と話をする気もなかった。正直、体もまだ痛いし。景の馬鹿野郎。三回目に至らなかったのは、さすがに助かった。もしそうなってたら、私は今頃、ベッドから一歩も動けなかっただろう。「じゃあ言ってみろよ」和真が一歩前へ進み、私を見据える。「昨夜、部屋に戻らなかったのは、どこにいたんだ?」私は小さく笑い、軽く眉を上げた。「たまたま会った友達と、ちょっと飲んで話してただけ。悪い?」「本当にそれだけ?」「あんたには関係ないわ」私は適当に髪をかき上げながら、彼を挑発するように微笑んだ。和真の瞳が一瞬鋭く光り、指を突きつけながら声を荒げた。「首のそれは、何だ」彼の視線を追い、指先で首元を軽く触れる。「虫に噛まれたかも」「桃歌!ふざけんなよ!」「じゃあ何だと思ったの?」「それに百歩譲って、本当にあんたが考えてるようなことだったとして、それがどうしたっていうの?」「男女の間にも純粋な友情ってあるんでしょ?ちょっとキスしたくらいで騒ぐこと?」そう言いながら、隣にいる理子
翌朝、私が目を覚ましたときには、すでに陽が高く昇っていた。だが、景の姿は、どこにもなかった。喉の渇きに耐えかね、水を飲もうとした瞬間、身体がまるで轢かれたかのように痛むことに気づいた。しばらくベッドの上でじっとしてから、ようやく身を起こし、枕元に置かれたコップの下に、小さなメモが挟まれているのを見つける。そこには、彼の筆跡でこう書かれていた。「桃歌、ごめん。重篤な事故が発生して、病院が緊急対応に追われている。どうしても戻らなきゃならない」「こっちが落ち着いたら、また連絡する。いい子にしてて」そのメモを見つめたまま、しばらくぼうっとしていた。頭に浮かんだ最初の考えは——もしかして、これは男がよく使う口実なんじゃないかということ。景にとって、昨夜のことは一夜限りの関係に過ぎなかったのかもしれない。それでも、どうしても気になってスマホを開き、検索してみる。トップニュースには、あの連鎖追突事故の報道が出ていた。負傷者たちはちょうど彼の病院の近くで搬送され、多くがすぐに運び込まれたらしい。彼は嘘をついていなかった。ただ、「また連絡する」と言っていたけど……彼が連絡してきたら、何を話すのか。私は何をどうすればいいのか。頭の中はぐちゃぐちゃで、何も考えがまとまらない。でも、一つだけはっきりしているのは。これ以上、ここにいたくない。だから私はすぐにベッドから起き上がり、簡単に身支度を整えたあと、部屋に戻って荷物をまとめることにした。ちょうど庭を出て湖のそばまで来たところで、和真と理子たちの一行とばったり鉢合わせた。関わりたくなかった私は、くるりと背を向けて別の道を行こうとする。だが、理子がすぐに私を呼び止めた。「桃歌姉、そのシャツ……男物よね?」私は思わず、襟元をぎゅっと握りしめた。部屋を出る前、首筋から胸元にかけての無数の痕を鏡で確認し、慌ててクローゼットから新品のメンズシャツを取り出した。おそらく、景が泊まる時のために用意されていたものだろう。理子の一言で、自分の服装に気を取られた私は、少し焦る。だがその前に、和真の顔色が、明らかに変わっていた。「桃歌、その服、どこで手に入れた?」私は平静を装いながら、まず最初に考えたのは、これは私が望んで仕掛
和真の幼なじみ、理子が再び彼の助手席に乗った。私は何も言わず、後部座席のドアを開けようとしたが、ふと動きを止めた。まさか、この短いドライブ旅行に、あの忙しい景まで参加しているとは。すぐに気を取り直し、控えめに彼へと頷く。景はメガネをかけ、どこか疲れた表情を浮かべていた。彼はまぶたを持ち上げ、私を一瞥すると、軽く頷き、そのまま目を閉じた。理子はシートベルトを締めながら、得意げに私へ向かって眉を上げる。「桃歌姉、私、車酔いするから前に座るね」和真も振り返り、私を見た。「車酔いは結構大変なんだ。君も、こんなことでいちいち拗ねるな」私は軽く笑い、「わかったよ」とだけ答えた。彼は少し驚いたようだったが、それ以上は何も言わなかった。なぜなら、その瞬間、理子が一口かじったパンをそのまま彼の口に押し込んだからだ。「美味しくないから、和真兄が食べて」和真は微塵も嫌がる素振りを見せず、当然のように半分食べた。理子はバックミラー越しに私を一瞥し、舌をぺろっと出して笑う。私は無視し、手元の炭酸水を開けようとした。だが、キャップが固く、何度か回そうとしても開かない。前の座席では、理子が自分の水を和真に差し出し、甘えた声を出していた。「和真兄、開けて~。私、昔から力ないの知ってるでしょ?」和真は得意げに、あっさりとキャップを開ける。二人は一本の水を、交互に飲み合っていた。まるで人目を気にする様子もなく。私は少し胸が悪くなり、水を置こうとした。その時、隣からすっと伸びてきた男の手が、私の炭酸水を取り上げた。黒のカジュアルスーツの袖口から、銀灰色のシャツのカフスがのぞく。布地はしなやかに男の華奢な手首を包んでいた。その手は美しく、骨ばっていて、指先まできれいに整えられている。窓から差し込む光の中で、まるで白玉のように滑らかだった。...
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