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第3話

私の心は冷たさに包まれ、松井湊の偽善的な顔を自ら引き裂いてやりたい衝動に駆られた。

「治す?どうやって治すって言うの?あなたのせいで、母さんはもう...」

「先輩!早く来て、母の調子が悪い!」

坂本美世の声が響き、松井湊の顔色が変わった。私の言葉も最後まで聞かず、彼は病室に駆け込んでいった。

私は無意識に唇を歪め、涙が溢れ出てきた。

頭の中には、松井湊が「公平」を強調していたあの厳格な表情が浮かんでくる。

絶望的に気づいた――私はこの男のことをまるで理解していなかったと。

母の遺体に関する手続きには署名が必要で、関係者から何度も電話がかかってきていた。

今、崩れている場合じゃない。

意志を奮い立たせ、母の葬儀の準備を進め、父と一緒に埋葬することにした。

両親の若い頃の写真を選び、二人の笑顔を見つめると、涙が止まらなくなった。

母はかつて、亡くなったら若い頃の父とのツーショットを遺影にしてほしいと言っていた。

「それが私の一番幸せな時期だったから」と。

母は名門の家庭に育ち、父とは一目惚れで恋に落ちた。

自由恋愛をしたが、母の実家は父が何も持っていないことから結婚に反対していた。

しかし母は、自分の選択を貫き、父の姓を名乗ることまで決めた。

写真の中の母に触れながら、私は泣き崩れた。

父は早くに亡くなり、母は一人で家庭の重荷を背負わなければならなかった。

生活は苦しかったが、父との愛に支えられて母は全てを甘んじて受け入れていた。

私が松井湊と結婚する時、母は何度も「お金や名誉を求めない。ただ二人で支え合って穏やかに生きていければそれでいい」と言っていた。

松井湊は母の前で誓った。「一生をかけて、父のように彼女を大切にします」と。

しかし、その誓いは目の前の現実と比べると、ただの空虚な言葉に過ぎなかった。

母が亡くなった夜、松井湊は「手術があるから病院に泊まる」とメッセージを送ってきた。

その直後、坂本美世がSNSに投稿していた。「あなたがいる限り、私は安心です」

投稿には、彼が花を選んでいる後ろ姿の写真が添えられていた。

その背中を、私はよく知っている。それは病院に泊まっていたはずの松井湊だった。

私はただただ滑稽だと思った。

それ以来、松井湊の行動を詮索するのをやめた。

彼も当然のように忙しくなり、病院に泊まるたびに報告を欠かさなかった。

時折、母の透析の状況を尋ねることもあったが、それがますます馬鹿らしく思えた。

本当に母のことを気にかけているのなら、母が既に亡くなっていることを知らないはずがない。

私は少しずつ家の自分の荷物を片付けていった。

松井湊への愛情も、少しずつ消えていった。

母のベッドに横たわり、どれくらい眠ったのか分からなかった。

目を覚ますと、数件の着信があった。松井湊からのものだった。

私が電話に出なかったため、彼はメッセージを送ってきた。

「今どこにいるんだ?これはどういう意味だ?」

メッセージには、テーブルに置かれた離婚届の写真が添えられていた。

どうやら彼は家に帰ってきたらしい。

私は彼に応えるかどうか考えていると、再び彼から電話がかかってきた。

電話に出ると、彼は苛立った口調で言った。

「また何を騒いでいるんだ?」

「もう感情的になるのはやめてくれ、僕は本当に疲れているんだ。美世が言っていたが、あなたが僕と離婚したがっているそうだ。彼女も罪悪感を抱いている。彼女にちゃんと説明してくれないか?」

私は彼に聞いた。「何を説明するの?」

松井湊は苛立ちを隠さずに「もうやめろよ。あなたが母さんのことで不安なのは分かるけど、僕も我慢してるんだ」と答えた。

坂本美世が私の言ったことを彼に伝えたのは明らかだった。

だが、彼はそれを気にかけることもなく、私が本当に離婚を考えているとは思ってもいなかった。

彼は私がただ感情的になっているだけだと思っていた。

「松井湊、離婚届にさっさとサインしてくれ。弁護士を手配して話を進める。それでも君が同意しないなら、私は訴訟を起こす」

「佐藤明穂!」彼は怒鳴った。「もういい加減にしろ!離婚を盾に脅すつもりか?大したことじゃないんだ、そんなことで大袈裟にするな」

大したことじゃない…

彼のその軽々しい口調が胸に刺さった。

私はあの日、母が抱いていた希望が絶望に変わった瞬間を思い出した。

あの無力さ、無助さ、そして失望が、日々私の心を蝕んでいた。

私の夫は、他の女性のために、母の命の希望を奪った。

私は、母のために何もできなかった娘だった。

涙が頬を伝う。

私は手でそれを拭い去り、冷たく言った。「サインしてくれませんか。これ以上、皆に迷惑をかけるのはやめてください」

「佐藤明穂、いつになったらそんなにわがままをやめるんだ?僕は毎日無数の患者を診て、あなたをなだめるのにも疲れてるんだ」

「離婚したいならいいさ、やればいい。あなたの母さんが納得するかどうか見ものだな!」

「彼女の病気をずっと治してきたのは僕だ。離婚したらもうお前たち母娘の面倒は見ないからな!」

松井湊は一方的に吐き出し、電話を切った。

なぜだか分からないが、彼がそう言うのを聞いても、私の心は驚くほど静かだった。

実のところ、松井湊と坂本美世の異常な関係を感じ取るのは、今回が初めてではなかったのだ。

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