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第023話

Author: 夜月 アヤメ
「若子、何か用事でもあるの?」

修は彼女の質問に正面から答えなかったが、確かにそうだった。雅子は彼の後輩である。

若子は唇を噛みしめながらも、本題に入った。

「大学の志望学部を決めなきゃいけないんだけど、何かアドバイスある?」

修は仕事に集中しながら、「自分が興味を持っているものを選べばいい」と言った。

「じゃあ、私は......」

「失礼します」

突然、オフィスのドアのところから声がかかった。

雅子が静かに立っており、冷静な表情で言った。

「藤沢総裁、ジョンソン氏がオンラインに接続しました。お待ちです」

修は「うん」と返事をし、手に持っていた書類を閉じた。「すぐに行く」

彼は立ち上がり、若子のそばを通り過ぎながら言った。

「ちょっと忙しい。用があるなら、後で話そう」

「......うん、わかった」

若子は俯き、少し寂しそうに答えた。

修は歩き出したが、背後から何の反応もないことに気づくと、ふと足を止め、振り返った。

そのまま彼女のそばに戻り、肩を優しく握った。

「どうした?」

「......何でもないわ。仕事の邪魔をしたくないだけ」

彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。

だが、修はすぐには行かなかった。

「お前、どの学部に進みたいんだ?」

若子が顔を上げると、視線の先に雅子が立っていた。

彼女は、まるでプロのキャリアウーマンのような雰囲気をまとい、自信に満ちた表情をしていた。

その姿を見て、若子は心の奥で小さな決意を固めた。

「金融を学びたい」

修の隣に立ち、一緒に働けるようになりたい。

彼のようになりたい。

「金融が好きなのか?」

彼は少し意外そうに尋ねた。

若子は躊躇わずに頷いた。

「うん、好き」

「そうか。それなら金融を学べばいい。卒業後、仕事も紹介してやる」

「SKグループで働ける?」

彼女は期待を込めて小さく尋ねた。

「もちろんだ。金融の専門家は必要だからな」

修は軽く彼女の肩を叩き、再び歩き出した。

しかし、ドアの前で立ち止まり、もう一度振り返ると、こう言った。

「若子、A市の大学を受けろ。遠くへ行くな」

――その言葉があったからこそ、彼女は金融学部を選んだ。

だが今になってみれば、彼にとってもう自分は必要のない存在だった。

「今日、私がここにいたのを見たはずよね?なら、私の
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Comments (2)
goodnovel comment avatar
pinklilyrose-1234
とにかくすぐ読み終わってしまう。続きが気になって仕方ない。
goodnovel comment avatar
松田綾子
すごく続きが気になるから早く読みたい
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    会議はおよそ一時間半ほど続いた。 会場には市の幹部や主要産業の代表、そして金融界の重役たちが集まっていた。 終了後、成之は何人かと軽く言葉を交わしながら、ロビーに立っていた。 「村崎さん、ご一緒に食事でもどうですか?」 そう誘われた瞬間、彼の視線はふと遠くに現れた光莉の姿を捉えた。 「先に行ってください」 そう言い、軽く手を挙げると、彼は彼女のほうへ向かった。 少しして、光莉がハンドバッグを持って彼の前に立つ。 成之は彼女を上から下までさっと見渡し、眉を寄せた。 「......あまり元気がないようですが、昨晩はよく眠れませんでしたか?」 会議中、彼女がどこか上の空だったことに気づいていた。 光莉は軽く笑って肩をすくめる。 「ちょっと夜更かししちゃったみたいで。でも、村崎さんのスピーチ、とても勉強になりました」 少なくとも、退屈な決まり文句の羅列ではなかった。 多くの幹部は、長々と話しているように見えて、中身は何もないことが多い。 台本なしではまともに話せない者も少なくない。 だが、成之は違う。無駄な言葉を一切使わず、どんな場でも的確に話せる。 「先ほど、皆さんが食事に行くと言っていましたが、ご一緒にいかがですか?」 「私は遠慮しておきます」 光莉は微笑みながら首を振った。 「では、僕も行きません」 「え?」 彼女は驚いたように彼を見上げる。 「どうして?」 「大した話もないのに、ただのご機嫌取りばかり。もう聞き飽きました。静かに昼食をとりたい気分です。どこか良い店はありませんか?」 成之は淡々とした口調で言う。 冗談ではなく、本気らしい。 光莉は少し考えた後、尋ねる。 「どんな料理がいいですか?中華?和食?洋食?」 「中華がいいですね。ほかはあまり口に合わなくて」 「それなら、良いお店があります」 光莉はバッグから名刺を取り出し、彼に渡す。 「ここは特に特色のある料理が多くて、ほかの店ではなかなか食べられない味ですよ」 成之は名刺を受け取り、ちらりと目を通す。 「ここなら、そんなに遠くないですね。一緒に行きませんか?」 光莉は少し口元を引きつらせる。 「......私と食事を?」 成之は軽く頷く。 「ええ。お時間はあ

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    花はウキウキしながら、成之の家に向かった。 玄関で使用人に尋ねると、彼は部屋にいるとのことだった。 花はすぐに階段を駆け上がり、部屋の前で扉を叩く。 「おじさん!おじさん!」 扉が開き、スーツ姿の成之が姿を現した。 「どうした?」 「おじさん!若子が出産しました!男の子です!母子ともに元気です!」 「......本当か?」 成之の顔がぱっと明るくなる。だが、すぐに表情を引き締めた。 「......なぜ俺に知らせがなかった?」 「えっと......今、私が知らせに来ました!」 「そうじゃない。西也がなぜ電話をよこさなかったんだ?」 成之は思案する。 ―前に西也に言ったあの言葉のせいで、まだ怒っているのか? 「お兄ちゃんが私に知らせるようにって......でも、どうして自分で連絡しなかったのかはわからないんです。たぶん、彼も忙しかったんでしょ。治療を受けながら、若子の世話もしなきゃいけないので......」 そう言いかけて、花自身も少し言葉に詰まった。 ―でも、電話一本くらいならすぐできるのに......お兄ちゃんはやっぱり少し変だ。 成之はそれ以上追及せず、穏やかに頷いた。 「まあ、どちらにせよ、無事に生まれたのならそれでいい」 「おじさん!若子は私のいとこだから......若子の子どもは私の......えっと......」 花は目をくるくるさせながら考え込んだ。 ―なんて呼べばいいの!? 成之はくすっと笑い、優しく答える。 「お前は従叔母になるな。そして、若子の息子はお前の甥だ」 「ああ、そうそう、それです!」 花は頭をぽりぽりとかきながら苦笑する。 「こういう呼び方、ややこしくておじさんじゃなきゃわからないですね......あ、じゃあその子はおじさんのことを何て呼ぶんですか?」 このあたりで完全に混乱してきた。 成之は落ち着いた口調で答える。 「若子が俺の兄の娘だから......彼女の子どもは俺にとって甥孫にあたる。そして、俺は大叔父だな」 「うぅ......なんかもう頭がこんがらがってきました......!」 花は頭を抱えながら、複雑すぎる親族関係にめまいを感じていた。 「でも、お兄ちゃんの奥さんってだけなら、若子が私のいとこで、つまり

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第829話

    若子は、一刻も早くこの子に名前をつけてあげたかった。 ―この子が生きていくための、たった一つの大切な証を。 彼女は以前、西也に「子どもの名前は西也が決めて」と約束していた。 それを破るわけにはいかない。 ほかの何も彼に与えることはできなくても― でも、彼はずっとそばにいてくれた。 妊娠中も、出産のときも。 どれほど痛みに苦しんでも、彼は決して離れなかった。 それがどれほど心強かったか、どれほど救われたか。 若子は心の底から申し訳なさを感じていた。 だからこそ、せめてこの子の名前は、西也に決めてもらいたかった。 それが、彼女にできる唯一のことだった。 「もう決めてある」 西也は迷いのない声で言った。 「暁......どうだ?夜明けの『暁』」 「あきら......?」 若子はその名を口にしながら、ふと窓の外に目を向けた。 ちょうど朝日が昇る時間だった。 眩い光が世界を照らし、木々の葉を優しく揺らしている。 木漏れ日がきらきらと揺らめき、すべてが新しい始まりのように感じられた。 ―なんて、美しい朝。 その光の下では、ほんの一瞬だけ、すべての悲しみが消えた気がした。 若子はゆっくりと視線を戻し、腕の中の赤ん坊を見つめる。 小さな顔を優しく撫でると、目の奥がじんわりと熱くなった。 「......若子?」 西也が不安そうに覗き込む。 「もしかして、気に入らないなら、別の名前を考えるよ」 彼は焦っていた。 若子が涙を流すたびに、どうしようもなく胸が締めつけられる。 彼女の涙が、自分のせいだったらどうしよう― そんな不安が、いつも心を掻き乱す。 「違うの、西也」 若子はすぐに首を振った。 「この名前......すごく、いい」 そう言うと、腕の中の赤ん坊に微笑みかける。 「......ねえ、これから、あなたの名前は暁よ」 やつれた顔の中に、母としての愛が滲んでいた。 西也は彼女が自分の考えた名前を受け入れてくれたことに、心の底から嬉しさを感じた。 思わず、顔に穏やかな笑みが浮かぶ。 だが、ふと何かが頭をよぎり、真剣な表情に戻った。 「......そういえば、若子」 彼はゆっくりと問いかける。 「この子の名字は.....

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第828話

    修はベッドのそばに座り、そっと手を伸ばす。 優しく頬を撫で、痛ましげな瞳で見つめながら囁いた。 「......バカだな。なんで、もっと早く言ってくれなかったんだ?」 「......ごめんね、修」 若子はか細い声で呟く。 「......修が、この子を望まないんじゃないかって思ったの。だから......言えなかった」 修は深く息を吐き、ゆっくりと首を振った。 「......若子、謝るのは俺のほうだ。こんなに苦しませて......本当に、ごめん」 そのまま、彼女を包み込むように抱きしめる。 「もう絶対に離れたりしない。俺たち三人、一生ずっと一緒だ」 そう言って、修はそっと唇を重ねる。 優しく、慈しむような口づけだった。 「......っ!」 ―「三人」。 その言葉を聞いた瞬間、若子の目がぱちっと開く。 はっきりと意識が戻った。 「若子!ついに目が覚めたんだな!」 西也の声が耳に飛び込んでくる。 目の前には、心底安堵したような顔をした彼がいた。 「体調は?どこか苦しくないか?」 若子はぼんやりと天井を見つめる。 ......修じゃ、ない? そうだ。 彼女が見たのは―ただの夢。 現実ではなく、ただの幻想。 産後の疲れのせいか、叶わないはずの願いが、夢になって現れただけ。 修との未来なんて、とうに終わった話なのに。 「三人で一緒に」なんて、そんなの......ありえない。 「若子?」 放心したような彼女の表情を見て、西也は不安げに顔を覗き込む。 「大丈夫か?具合でも―」 若子はゆっくりと顔を横に向けた。 涙を湛えた瞳で、西也を見つめる。 「......西也」 「俺はここにいる」 彼は優しく微笑む。 「何でも言ってくれ。俺は、いつだってお前のそばにいるから」 ―ついに、彼女が自分の名前を呼んでくれた。 「......赤ちゃんは?」 若子は不安そうに尋ねた。 「元気だよ」 西也はそっと彼女の涙を拭う。 「......会いたい......私の子を見たい......連れてきてもらえる?」 そう言って、彼女はベッドから降りようとする。 「ダメだ」 西也はすぐに彼女の肩を押さえた。 「若子、今は動いちゃダメだ

  • 夫の元カノが帰国!妊娠隠して離婚を決意した私   第827話

    出産室には、女性の悲痛な叫び声が響き渡っていた。 「深呼吸して!もうすぐ赤ちゃんが出てくるわ、頑張って!」 「っ......はぁ、はぁっ......!」 若子は息も絶え絶えになりながら、全身を襲う激痛に耐えていた。 肋骨が砕けるような痛み、全身が引き裂かれるような感覚― 彼女は目をぎゅっと閉じ、蒼白な顔を汗まみれに歪める。 「若子......!」 西也は彼女のそばを離れなかった。 この瞬間、彼女を一人になんてさせられるはずがない。 若子は必死に西也の手を握りしめる。 その力は凄まじく、指が軋むほどだったが―それでも、西也は決して振りほどかなかった。 これくらいの痛みなんて、若子が今味わっている苦しみに比べたら、大したことじゃない。 「っ......あああああっ!!」 若子の叫びが、部屋中に響く。 医者たちは懸命に声をかけながら、出産を促す。 しかし、赤ちゃんの頭が引っかかってしまい、器具を使わなければならなかった。 若子は目の前が真っ白になるほどの激痛に襲われた。 もう、意識が飛びそうだ。 「若子!もう少しだ、頑張れ!」 西也が必死に声をかける。 だが、若子はかすむ視界の中で彼を見つめ、ぼんやりと呟いた。 「......修、どこにいるの......?」 その名前を聞いた瞬間、西也の表情が凍りついた。 ―修。 彼は何も言えず、ただ若子を見つめるしかなかった。 彼女がもう一度、痛みに耐えきれず叫ぶまでは― 「若子、大丈夫だ、俺がいる!」 どんなに彼女が誰の名前を呼ぼうと、今はそれでいい。 すべては、赤ちゃんが無事に生まれてからだ。 彼女がこんなにも苦しんでいるのに、責めるなんてできるはずがない。 責めるべきは、修。 彼の存在が、未だに若子の心を離さないことが許せなかった。 「修......痛い......助けて......」 若子は泣きながら、その名を呼び続ける。 西也は苦しげに目を閉じ、震える彼女の手にそっと口づける。 「若子......よく頑張った」 ―もしできるなら、この痛みをすべて俺が引き受けたい。 お前の心にいるのが俺じゃなくても。 藤沢、お前なんかに、若子の涙を流す資格があるのか? 若子が命がけで子どもを

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