千景は急いでスマホを取り出し、若子に電話をかけた。だが、返ってきたのは「電源が入っていません」という冷たい音声。千景は眉をひそめ、胸に嫌な予感が走った。さっきまで警察が若子と連絡を取っていたはずなのに、なぜ今は繋がらない?若子が一人で出かけて、赤ちゃんを家に残していくなんて、絶対にありえない。家の中から聞こえる赤ちゃんの泣き声はますます大きく、切迫感が増していく。千景は焦りでいっぱいだったが、暗証番号が分からない。それでも、今すぐどうしても中に入らなければならない。あたりを見回し、人目がないことを確かめると、懐から銃を取り出し、サイレンサーを装着した。そして銃口を電子ロックに向けて、素早く二発撃ち込む。パスワードロックは壊れ、千景はすぐにドアを開けた。中に入ると、暁が床に転がって、声を限りに泣いているのが見えた。千景が駆け寄ろうとしたその瞬間、天井から電気ネットが降ってきた。咄嗟の反射で、千景は床を転がりながら避ける。電流がビリビリと流れるネットが床に落ちる。もしも今のが体にかかっていたら、きっとその場で気絶していただろう。部屋を見渡すと、若子がここに厳重なセキュリティを施していたのがよく分かった。どうやらドアが壊された時点で、システムが「強制侵入」と認識して自動的に防御装置が作動する仕組みになっているらしい。千景は頭を振り、細かいことを考える暇もなく、すぐに暁を抱き上げ、電気ネットから離れた。「暁、ママはどこに行った?ママは?」「ママ......いない......ママ......」暁は泣きながらも必死に「ママ」と呼び続けている。千景は、このままでは近所に泣き声が響いてしまうと心配になり、暁を寝室に連れていき、あやした。「大丈夫だよ、叔父さんがいるからね」千景の腕の中で、暁はやっと泣き止んだ。千景はそっと暁をベッドに寝かせ、オムツが濡れているのに気づいて、すぐに替えてあげた。続いて、粉ミルクを作って飲ませると、暁は夢中で哺乳瓶に吸いつき、すぐに落ち着いてくれた。千景は暁を揺りかごに寝かせ、家の中とリビングをくまなく見て回った。若子が家にいないのは明らかだ。絶対に子どもだけを家に置いて出かけるような人じゃない。しかもスマホも繋がらず、厳重なセキュリティも
十数分後、若子の家の玄関前に警察が到着した。実は、以前若子は専門業者に依頼して、家に警備システムを設置していた。そのシステムは近くの警察署と連動していて、万が一の時にはボタン一つで警察に通報される仕組みだ。さっき、家を出る直前に若子はそのボタンを押していた。警察は通報を受けてすぐに駆けつけたが、インターホンをいくら鳴らしても中からは返事がない。彼らは若子のスマホにも電話してみたが、応答はなかった。その頃、千景は花束を抱え、エレベーターから降りてきた。これから若子に会えるという期待で胸を弾ませていた。だが、玄関に近づいた瞬間、数人の警察がドアの前に立っているのを見つけ、すぐに影に隠れた。警察が来てる......なんでだ?まさか弥生がまだ何か揉めてるのか?でも若子は「もう全部解決したから、安心して帰ってきて」と言ってくれていたはずだ。千景は、若子がわざと嘘をついたとは思えなかった。きっと何か予想外の事態が起きたのだろう。ちょうどその時、警官のひとりのスマホが鳴り出した。その警官が電話に出る。「もしもし?」「松本さんですか?今、警報が鳴ったので来たんですが......」電話口で何やら話している。やがて警官は「なるほど、分かりました。本当にご無事なんですね?」と念を押す。「了解しました。念のためシステムの点検もしておいてください。また何かあればご連絡ください」電話を切ると、同僚に向かって説明した。「本人から連絡があって、今は家にいないそうだ。どうやらシステムの誤作動みたいだし、撤収しよう」警察たちはそのまま玄関から立ち去った。千景は陰から様子をうかがい、警察が完全に見えなくなってからそっと出てきた。さっきの会話を思い出しながら、不安げに玄関へ向かう。ドアが開かないということは、やっぱり若子は家にいないのか。千景は合鍵で入ろうとしたが、パスワードを入力しても「間違い」と表示されてしまう。「おかしいな......」もう一度やり直しても同じくエラー。若子が突然、暗証番号を変えた?でも、どうして急に?その時、警官たちが話していた警報システムのことをふと思い出した。さっき警察が「この家の警報システムが作動した」と言っていたのを思い出す。家のセキュリティを強化して、番号まで変えたんだ
「ノラ、私に何でもさせるから......どうか暁には手を出さないで。彼はまだ何もわからない赤ちゃんよ、お願いだから、見逃して」「見逃すつもりですよ。ほら、早く子供をベッドに寝かせてください。早くしないと撃ちますよ」ノラの目にはもう一切の情けも残っていなかった。若子は泣きながら暁にキスし、ボロボロ涙をこぼしながら、そっとベッドに寝かせた。「一体、何をするつもりなの?」「お姉さん、ここから出ましょう。外は気持ち悪い奴らばっかりですし、僕と二人だけの世界へ行きましょう。誰もいない場所で、ずっと一緒に暮らしましょう」「どこに連れていくつもりなの?」ノラはポケットから薬の小瓶を取り出し、ひと粒机に置く。「これを飲んでください」「これは何の薬?」「心配しないでください、死ぬようなものじゃありません。短時間だけ意識がぼんやりするだけで、僕が連れて行きやすくなるんです」「じゃあ、暁はどうするの?何をする気?」「お姉さんが彼を置いていけって言ったでしょ?約束します、暁はここに残します。お姉さんは僕と一緒に行くだけです」「でも、そんなの無理よ。赤ちゃん一人にして、誰が世話をしてくれるの?ミルクもオムツも......」「なるほど、それもそうですね」ノラは小さく頷いて、「じゃあ、暁も一緒に連れていきましょうか。ちょうど毎日お姉さんを脅せますし」そう言って、暁を抱き上げようとした。「やめて!」若子は必死にベッドへ駆け寄り、暁をしっかり抱きしめる。「お願い、彼に触らないで、傷つけないで!」「じゃあどうするんです?お姉さんが一人で僕と行くか、二人で行くか、選ばせてあげてるんですよ」若子の頭は真っ白だった。暁を家に一人で残せば、誰かが気づいてくれるかもしれない。でも、ノラと一緒なら、彼の銃口はずっと暁に向けられるだろう。でも、もし暁を連れて行ったら、この狂気の男が何をするか分からない。「お姉さん、もう決めてくださいよ」「私がついていったら......暁はどうなるの?」「お姉さん、僕の気持ちは分かりますよね?暁が大事なら一緒に連れていってもいいし、放っていきたければそのまま置いていけばいい。ただし、従えば何もしません」若子は、その言葉に唇を噛んだ。苦しすぎる選択が、目の前に突きつけられていた。「じゃあ、あと十
修は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。「どうして、いきなりそんなことを言うんだ?」「別に。ただ言いたくなっただけ。とにかく、もう私に期待しないで」その時、ノラが低い声で命じた。「次は、彼にこう伝えて。『あなたが大嫌い、顔も見たくない、気持ち悪い』って」若子はかぶりを振った。こんなことは言いたくない。だがノラは歯を噛みしめ、銃口を暁に向ける。「言わないんですか?」若子は全身から血の気が引く思いで、すぐに修へ叫んだ。「あんたなんか大嫌い!顔も見たくない!本当に気持ち悪い!」その声には、張り詰めた感情がにじんでいた。修はしばらく固まってしまった。だがノラはさらに言葉を重ねる。「次はこう言って。『あなたはクズ男だ、ベッドでも全然満足できなかった。離婚してから他の男といる方がよっぽど良かった』って」若子は奥歯を噛み締め、涙が次から次へとこぼれ落ちる。怒りと絶望、そして目の前のノラへの激しい憎しみ。ずっと弟のように思っていた少年が、ここまで冷酷で卑劣な本性を隠していたなんて。ノラの銃口は暁の頭に向けられている。若子は自分の手で必死に子供を守ろうとするが、内心、その手が無力だと知っている。ノラが本気を出せば、どうあがいても守れない。若子は目を閉じ、苦しみを噛みしめながら言った。「修、あんたなんか全然ダメよ。ベッドの上でも、私一度も満足したことなかった。離婚してからは、他の男といた方が、よっぽど良かったの」「若子......お前は、自分が何を言っているか分かってるのか?」修の声は信じられないように震え、呼吸も荒くなっていた。「分かってるわ、修。もう私に連絡しないで」ノラはさらに命じる。「もっと言って。『あなたはこの世で一番気持ち悪い男。私は西也を愛してるし、ヴィンセントも好き、ノラだって好き。でも、あなただけは絶対に愛せない』って」若子の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。必死に首を振り、哀願のまなざしをノラに向けて、「お願い、やめて」と口パクで訴える。ノラはちらりと暁に目をやり、さらに銃口を近づける。若子は震え声で叫ぶしかなかった。「修、あんたは私にとってこの世で一番気持ち悪い男よ。私は西也を愛してる、ヴィンセントも好き、ノラだって......でも、あんただけは絶対に愛せない」
若子は暁を抱きしめながら、震えが止まらなかった。「ノラ、私を殺すつもりなの......?」「殺す?」ノラはくすりと笑った。「お姉さん、本当に僕が殺すつもりなら、とっくに命なんてなかったんですよ?今まで何もせずに放っておくわけないじゃないですか」若子は必死に自分を落ち着かせ、深く息を吸って言った。「じゃあ......どうしたいの?」「藤沢さんに電話してください」「なんて言えばいいの?」ノラは目を細めて静かに告げた。「彼は今、こっちに向かってますね。用事ができたって伝えて、今日は来るなと言ってください」若子は躊躇した。「どうしたんです?お姉さん、嫌なんですか?」ノラは銃の安全装置を外しながら低い声で続ける。「僕は本当は殺したくなんてありませんが、悪人ですから、何でもやりますよ」「わ、わかった。今すぐ電話する」若子はもう逆らえなかった。「待って」ノラが手を差し出す。「スマホを渡してください」若子は警戒するように彼を睨みつけたまま、動かなかった。ノラは明らかに苛立ちを見せた。「スマホを、渡してください」若子はしぶしぶスマホを差し出した。ノラが画面を開くと、修に送ろうとしていたメッセージがまだ打ちかけのまま表示されていた。それを全て消去し、連絡先から修の番号を選んで通話を始めた。「スピーカーモードは禁止です」とノラが言い、数歩離れる。電話はすぐにつながった。「もしもし、若子?」修の声が聞こえる。若子は目を閉じて、できるだけ平静を装って答えた。「修、今日は来なくていいわ」「えっ、どういうことだ?大事な話があるんだよ。今そっちに向かってるんだ」「その気持ちは分かる。でも、今日は本当に無理なの。今から外に出ないといけない用事ができて、今日は会えない」「どんな用事なんだ?俺も一緒に行くよ。道すがら話せばいいだろう?」修は諦めきれない様子だった。ノラは低い声で「もし彼が来たら、僕は彼を撃ちます」と凄んでくる。若子の心臓が飛び跳ねた。すぐに言葉を重ねる。「修、来ちゃダメ。これは私の個人的な用事だから、あんたに関係ないの。用事が終わったら連絡するから、今日は絶対来ないで。今もう外に出てるから、来ても私には会えないわ」しばらく沈黙が流れる。やがて修が抑えた声で尋
若子は高鳴る鼓動を必死で抑え込もうとした。きっと思い込みだろう、絵は侑子が描いたものだし、完璧とは限らない。そう自分に言い聞かせた。若子は部屋のドアにちらっと目をやりながら、スマホを取り出し、急いで修へメッセージを打ち始める。【ノラが今うちにいるの。来るときは絶対に揉めないでね。彼、ちょっと様子がおかしい気がする。詳しくは会ったとき話すから。着いたらすぐに......】その瞬間、扉がガチャリと音を立てて開いた。若子は驚いてスマホを落としかけた。「な、なんで入ってきたの......?」ノラが手の中にある鍵をひらひらと振って見せる。「お姉さんがリビングのテーブルに鍵を置いてましたよ?どうやって入ったかは一目瞭然でしょう?」若子は自分の不注意を心底悔やんだ。鍵をリビングに置きっぱなしにするなんて、あまりに迂闊すぎる。ノラは鍵を握り締めたまま、ゆっくりと彼女に近づいた。「でも不思議ですね、お姉さん。どうして部屋のドアに鍵なんてかけたんですか?ただ閉めるだけでいいのに」ノラの距離はどんどん近づき、声も低く、そして不気味に響いていく。若子は息が詰まるような圧迫感に襲われ、無意識に後ろへ後ずさった。揺りかごにぶつかると、慌てて暁を抱き上げ、強く胸に抱き締める。「ノラ、やっぱり暁は眠れないみたい。寝かしつけるのはやめて、一緒に買い物に行こうかしら?冷蔵庫の材料が新鮮じゃないかもしれないし......」とにかく今すぐ家を出たい。強烈な焦りと不安が若子を追い詰めていた。「お姉さん、具合が悪いんですか?」ノラはそっと手を伸ばして、若子の頬に触れた。「顔色がひどく悪いですよ?どうしたんです?なんだか僕を避けているみたいだし......」若子の体は凍りついたように動けなくなった。過剰な反応をすれば逆に危険だ。無理矢理微笑んで返した。「そんなことないわよ、ノラ。あなたの思い過ごしよ。避けてなんかいないから」「僕の考えすぎかな?」ノラは首を傾げ、不気味な笑みを浮かべた。「ところでふと思ったんですが、録音の話、お姉さんは教えてくれなかったはずなのに、どうして僕は知っていたんでしょうね?」若子の頭の中にゾッとする寒気が走った。ノラの口元に浮かんだ笑みを見ると、若子の心臓は激しく打ちつける。子供を抱えたままさらに後ずさりするが