夫を精神病患者に譲った。
View Moreある日のこと、精神科の外来を通りかかると、光子の姿が目に入った。 彼女は髪もボサボサ、目は虚ろで、生気のない姿だった。 その前には幸吉が立っていた。 眉間にシワを寄せ、不機嫌そうな顔をしている。 さらにその後ろには、怯えたように彼の影に隠れている女性がいた。楚々とした雰囲気で、怯えるように光子を見つめていた。 「光子、いい加減にしろよ!雪乃はただの患者だって、何回言えば分かるんだ!」 幸吉が苛立ちを露わにして怒鳴った。 すると光子は突然声を荒げ、幸吉に掴みかかった。 「患者?あんたが患者と何もないなんて、そんな嘘信じるわけないでしょ!」 「あんたたちのLINEのやりとり、全部見たわよ!気持ち悪くて吐きそう!」 すると、幸吉の後ろにいた雪乃が震える声で話し始めた。 「光子さん......幸吉先生は、ただ私の情緒を安定させるためにお家に連れて行ってくれただけなんです。本当に誤解なんです......」 光子の言葉を無視するように、幸吉は苛立ちを込めて彼女を突き飛ばした。 「お前は薬を飲めばいいんだよ!病気なんだから、いちいち疑ってばっかりいないで!」 その場には、かつての同僚たちも立ち会っていた。 彼らは小声で囁き合いながら、この一部始終を見ていた。 「ほらな、やっぱりこの男、変わらないよな」 「『犬は吠えるけど泥を食う』ってこういうことか」 この光景......どこかで見たことがあるような気がした。 でも、何かが違う。 幸吉は相変わらず幸吉だったが、私はもう光子ではなかった。 その時、賢一が私の隣に来て言った。 「光子さんのカルテを見たけど、重度のうつ病と妄想性障害がある。だけど、幸吉が出してた薬は安定剤ばっかりで、ほとんど効果がないね」 私は頷いた。それなら、光子が前よりひどくなっているのも無理はない。 賢一はさらに続けた。 「でも、幸吉も正直、普通じゃないよな。この状態だと......何か事件を起こす可能性が高い。早めに何か手を打たないと......」 賢一が言い終わる前に、光子が突然その女性に向かって掴みかかろうとした。 それを見た幸吉が、怒りに任せて大声を張り上げた。 「もう我慢できない!」
同僚たちが噂話をしているのを聞きながら、私は全く動揺しなかった。 幸吉の今の状況は自業自得。少しも同情する気にならない。 私はデスクに戻り、荷物を整理し始めた。 もうすぐ新しい研究チームのオフィスに移るからだ。 デスクを片付けていると、一枚の離婚届が目に入った。 そこには幸吉のサインがしっかりと書かれていた。 私は思わず笑みを浮かべた。研究チームに選ばれたことよりも、この瞬間の方が何倍も嬉しかった。 離婚届を掲げ、オフィス中に向かって大声で言った。 「みんな!今夜は私のおごりだよ!」 そう言うと、同僚たちは全てを察し、すぐに拍手と歓声が湧き起こった。 その日の午後、私は休暇を取り、役所へと向かった。 役所を出た時、手には真新しい離婚証明書があった。 気分は嘘みたいに軽かった。 隣を見ると、幸吉が苦い顔をして立っていた。 私は彼の顔なんて見る気にもなれず、無表情で手を差し出した。 「車の鍵、ちょうだい」 「車?」 幸吉は一瞬、ポカンとした顔をした。 「どこに行くんだ?送っていくよ」 「幸吉、あんた、自分の立場分かってる?」 私は皮肉を込めた笑みを浮かべ、彼を睨みつけた。 「この車は私の両親が結婚前に買ったもので、名義も私の名前。離婚したんだから、その車にまだしがみつこうなんて、図々しくない?」 幸吉はようやく状況を理解したようで、慌てた顔になった。 「最近お前が車を使ってなかったから、もう必要ないのかと思って......」 私は彼の手から鍵を奪い取り、そのまま振り返って立ち去った。 ちょうどその時、光子がペットボトルを持って現れた。 彼女は私を指差し、怒鳴りつけた。 「友美、良心ってものがあるの?何年も結婚生活を支えてきたのは幸吉さんなのに、離婚したら今度は車まで奪うつもり?」 「あんたみたいな女、捨てられて当然よ!」 私は思わず笑ってしまった。 今さら私に向かってそんなことを言うとは。 腕を組み、光子を見下ろしながら冷たく言った。 「光子さん、まず状況を整理したら?第一に、私と幸吉が離婚した原因はあんたが割り込んできたから。第二に、この車は私の婚前財産だから、あんたには何の関係
「きゃあ!」 光子は大声で悲鳴を上げ、泣きながら走り去った。 幸吉は慌てふためき、私を押しのけると、服も着ずに彼女を追いかけて行った。 私は床に倒れ込んだまま天井を見上げ、ただ呆れるばかりだった。 光子はそのまま病院の屋上に駆け上がっていったらしい。 まあ、狂った人間同士なら、それはそれでお似合いかもしれない。 光子の声は大きく、同じ階で研究会に参加していた医師たちも驚いて出てきた。 事態が深刻だと察し、みんなが屋上へと向かう。 私も溜息をつきながら後を追った。 彼女たちも京一院の所属だ。何かあれば責任を免れないのは分かっている。 「幸吉さん、一緒にいるって言ったのに!どうして私を裏切ったのよ!」 光子の声は甲高く、絶望と狂気が混ざり合っていた。 「光子、そんなこと言うな!落ち着け!話し合えば分かるから、頼むから飛び降りるなんて馬鹿なことをするな!」 幸吉の声は明らかな焦りと恐怖で震えていた。 屋上に着くと、光子は手すりに寄りかかり、身体を揺らしていた。 いつ落ちてもおかしくない危険な状態だった。 周囲に集まった医師たちは、幸吉と私を交互に見て、険しい表情を浮かべていた。 「あの石田主任って、川口先生の旦那さんだよな?」 「でも、あの女は誰だ?どう見ても精神状態が普通じゃない......」 「医師と患者がこんな関係になるなんて、あり得ないだろ」 幸吉は光子にゆっくりと近づこうとした。 「来ないで!」 光子の声がさらに尖り、耳を刺すようだった。 「幸吉さん、あなたは私の人生で唯一の光だった!でもそれがなくなったのよ!」 「もう一緒にいられないなら、死ぬしかないじゃない!」 私は呆れて腕を組み、その場で言った。 「光子、離婚届ならもう用意してあるわ。幸吉もすぐにサインする。だから降りてきなさい」 光子は突然振り返り、激しい目で幸吉を見つめた。 「幸吉さん!彼女の言うこと、本当なの?」 幸吉は一瞬、口ごもった。 「どうなの?嫌なの?」 光子は甲高く笑い、涙を浮かべながら続けた。 「幸吉さん、口では愛してるなんて言いながら、結局私を愛してないのよ!」 その言葉と同時に、光子は体を
私は幸吉の鼻先を指さし、怒りをぶつけた。 「少なくとも私はいくつか論文を書いたけど、あんたは?何一つないじゃない!」 「それに『女』だから何?脳の検査でもしたらどうなの!」 その時、岡田教授が近づいてきた。 「川口先生、今回の研究会は3日間連続ですが、夜は何か予定がありますか?」 幸吉はこの言葉に焦り、私の肩を掴んで慌てて言った。 「岡田教授、友美は私の妻です。夜はもちろん、一緒に予定があります」 岡田教授は少し驚いたような顔をしたが、すぐに表情を戻して「そうですか」とだけ答えた。 その後、私に向かってこう続けた。 「川口先生、もし弁護士が必要でしたら、いつでも声をかけてください。信頼できる人を紹介しますので」 幸吉の顔が一瞬で青ざめた。私が岡田教授と一緒に行こうとすると、幸吉は慌てて私の手を掴み引き止めた。 「友美、今もお前は俺の妻だろ!他の男と出て行くのか?」 「俺の顔を潰す気か?」 私は冷たく笑った。 「あんたに『顔』なんてあるの?」 そして、一言ずつゆっくりと告げた。 「幸吉、私たちはもう終わり。言っとくけど、小清と玲子の件は絶対に許さないから」 私は扉の外をチラリと見やった。 「ほら、外で『光子』が待ってるじゃない」 そのまま出口に向かうと、光子が扉の横に立っていた。 まるで私が彼女の男を奪ったみたいな、悲劇のヒロイン気取りの顔で。 ホテルに戻ると、私は熱いシャワーを浴び、気分を落ち着けていた。 その時、突然ドアベルが鳴った。 ドアの覗き穴から確認すると、幸吉が立っていた。 「何の用?」私はドア越しに尋ねた。 幸吉は険しい顔をしながら冷たく言った。 「お前のバッグだ」 私は「あ」と声を漏らした。バッグを会場に置き忘れていたのを思い出した。 少しだけドアを開け、バッグを受け取ろうとした瞬間、幸吉はドアを強引に押さえつけ、中に入ってきた。 バッグをベッドに放り投げると、私は眉をひそめて尋ねた。 「まさか、中身を勝手に見たんじゃないでしょうね?」 幸吉は深く息を吐き、ポケットからクシャクシャになった検査報告書を取り出して、震える声で言った。 「お前、本当に......流産
私は怒りを抑えきれず、振り返ることもせずに受付に戻り、大きく名前を書き込んだ。 スタッフは私に参加証と部屋の鍵を渡しながら言った。 「川口先生、こちらが参加証とお部屋の鍵です。どうぞ会議が順調に進みますように」 これで光子は中に入れなくなった。 彼女は困ったように顔を歪め、幸吉に向かって申し訳なさそうに言った。 「幸吉さん......本当にごめんなさい。大丈夫です、ここで待ってますから......」 私は二人のやり取りに一切興味がなく、その場をさっさと離れた。 「川口先生、少しお待ちください!」 背後から男性のハキハキとした声が聞こえた。 振り返ると、白衣を着た背の高い男性がこちらに歩いてきた。 「どちら様ですか?」私は少し戸惑いながら尋ねた。 「今回の研究会の主要な責任者の一人、岡田賢一です」 賢一。名前に聞き覚えがある。彼は全国的にも名の知れた精神科の権威で、業界では非常に有名だ。写真では見たことがあったが、実物は写真以上に威厳を感じさせる人物だった。 岡田教授は穏やかに微笑みながら、私と少し離れた場所にいる幸吉と光子を意味深な目で一瞥し、こう言った。 「川口先生、あなたの書かれた論文は全て拝見しました。精神科分野では非常に期待されている方ですね」 「この機会をしっかり活かしてください。無駄な人間関係やくだらない問題に足を引っ張られないように」 私は一瞬驚いたが、すぐに彼の意図を悟った。どうやら、私と幸吉の『ゴシップ』はすでに業界中に広まっているらしい。 私は皮肉めいた笑みを浮かべ、声を潜めて答えた。 「ご心配なく、岡田教授。私は自分のやるべきことを分かっていますし、将来を台無しにするような真似はしません」 この研究会は、私にとって幸吉を完全に切り捨て、新たなスタートを切るための絶好のチャンスになるかもしれない。 その時、幸吉が岡田教授と話をしたい一心で光子をその場に置き去り、こちらに走り寄ってきた。 「岡田教授、初めまして!京一院の精神科主任を務めております幸吉と申します」 幸吉は満面の笑みを浮かべ、手を差し出した。 しかし、岡田教授は軽く会釈をしただけで、幸吉を無視するように私の肩を軽く叩き、こう言った。 「川口先生
事件の後、病院はこの件を収めるため、すべての責任を発狂した患者に押し付けた。 外向けには「幸吉が他の人を守るために緊急シャットダウンボタンを押した」という正当防衛だと説明された。 みんな、それを信じた。 でも、私だけは違った。 目の前で全てを見た私だけは、絶対に信じられなかった...... 数日後、主任から電話が来た。 「友美、B市で全国規模の精神科研究会が開かれる。君を推薦したよ。院長も許可をくれた。この会は、これからの昇進に大きく役立つだろう。ただ......」 「ただ、石田も一緒に参加することになる」 最近、私と幸吉の問題は精神科中の話題になっていた。師匠が心配するのも無理はない。 私は微笑んで答えた。 「大丈夫ですよ、主任」 午後、幸吉が私の机を軽く叩いた。 「行くぞ」 私は彼の顔を見るのも嫌だった。清澄と玲子の件が頭から離れず、今でも心の奥底から許せなかった。 何も言わず、物を持って彼の後ろをついて行った。 車の副座席のドアを開けた瞬間、私は眉をひそめた。 「......ふーん」 幸吉は以前、「自分は潔癖症だから、車内で物を食べるな」と言っていたはずだ。 しかし、副座席には小さなバスケットが置かれ、「光子専用お菓子」と書かれている。 私は幸吉に冷たく言った。 「この車、私が結婚時に持参したのを忘れてないわよね?」 「潔癖症なのは、あなただけじゃないの」 幸吉は一瞬、言葉を失ったように黙り込んだ後、バスケットを後部座席に移しながら言った。 「光子がふざけてやっただけだ」 私がまだ車に乗り込もうとしていた時、突然後ろから力強く引っ張られ、私はよろめきそうになった。 「幸吉!どこ行くの?私を置いて!」 幸吉の顔は一瞬で青ざめ、その後、赤くなった。まさか光子がここまでついてきたとは思わなかったのだろう。 彼は困った表情を浮かべながら言った。 「光子、やめろ。これは全国規模の研究会だ。遊びじゃないんだぞ。重要な会議なんだ」 しかし光子は聞く耳を持たず、私を指差し、声を尖らせた。 「そんな大事な会議に、なんで川口先生だけ連れて行くの?私のことはどうでもいいの?」 そう言うと、彼女は両手
数秒間、空気が完全に凍りついた。 幸吉は信じられないという顔で私を見つめている。 これまで彼が「離婚しよう」と言うたび、私は泣いて縋っていた。それなのに、今回は私があまりにもあっさり同意したことが信じられないのだろう。 同僚たちはそんな私の答えを聞き、明らかにホッとした様子だった。 幸吉はぼんやりと立ち尽くし、ようやく口を開いた。 「お前......今、何て言った?」 私はバッグから事前に準備していた離婚届を取り出し、彼の目の前に差し出した。 「離婚しましょうって言ったのよ」 幸吉は届を受け取らず、口ごもりながら言った。 「友美......お前、本気じゃないよな。ただの喧嘩だろ?ただの気まぐれで言っただけだよな?」 「光子は本当にただの患者なんだ!お前、こんなことで嫉妬するなよ!」 その時、光子が目を赤くし、涙を浮かべながら幸吉を見上げ、小さく震える声で言った。 「幸吉さん......」 私は反射的に彼女を嘲笑おうと口を開きかけたが、その瞬間、オフィス中に警報音が響き渡った。 ここは精神科。この警報が鳴るということは、患者が発作を起こしたということだ。毎月数回はこうしたことが起こるので、私は慣れている。 「何が起きたんだ?」幸吉が動揺した様子で尋ねる。 彼は無意識に光子を守るように少し後ろへ下がらせた。 「さっき入院した3級精神障害患者が急に発作を起こしたみたいです!本当は今日、特殊精神病院に移送する予定だったのに......」 看護師が慌てて駆け込んできて、息を切らしながらそう言った。 私は心臓がギュッと掴まれるような感覚に襲われた。 3級精神障害。それは非常に危険な患者だ。 「主任は?主任はどこにいるの?」 私は辺りを見回し、私たちの科の主任を探した。このような緊急事態では、主任の指示が必要だ。 「主任は市立病院で会議中で、しかも携帯も繋がらないんです!」 看護師は半泣きになりながら答えた。 その場にいた全員の視線が一斉に幸吉に向けられた。 彼は精神科の主任だ。部門主任が不在の今、この場を指揮するのは彼しかいない。 私たちは慌てて発生現場へと向かった。 そこには、中年の男性患者が手に包丁を握りしめ
私は彼の芝居をこれ以上見る気も失せ、率直に言い放った。 「幸吉、もう終わりにしましょう。私は疲れたの。これ以上、あなたの気持ち悪いゲームに付き合うつもりはない」 その瞬間、背後で同僚が気まずそうに咳払いをした。 振り返ると、光子が科のオフィスの入り口に立っていた。 目は真っ赤で、今にも泣き出しそうな顔をしている。 「川口先生......私......こんなことになるなんて思わなかったんです......」 光子は涙声で訴えた。 「ただ......幸吉さんが......彼が私にとって光みたいな存在だったんです......」 彼女はわざとらしく目元を拭きながら、あたかも私が加害者かのような態度で続けた。 「もし川口先生が嫌なら、主治医を変えますから......お願いですから、彼を責めないでください......」 その芝居がかった態度に、私は心底嫌悪感を抱いた。 「無理しなくていいわ。見てるこっちが疲れる」私は冷たく言った。 「もう譲ったから、これから幸吉はあなたのものよ」 私の言葉を聞いた光子の目が一瞬嬉しそうに輝いた。 彼女は幸吉の隣にそっと寄り添い、その腕に軽く手を絡めて、甘ったるい声で言った。 「幸吉さん......もう会うのやめますね。川口先生が悲しむのは嫌だから......」 幸吉の顔には、さらに光子を思いやるような表情が浮かんだ。 次に光子は私にコーヒーを差し出してきた。 「川口先生、これお詫びの印です。幸吉さんから聞いたんですけど、先生、このお店のアイスコーヒーが好きなんですよね?」 私は眉をひそめた。 私が好き?そんなこと初耳だ。 それに、流産したばかりの体にアイスコーヒーなんてあり得ない。 「いらない。飲まないから」 私の拒絶に、幸吉は眉をひそめ、怒りを露わにして叫んだ。 「光子がわざわざ謝ろうとしてるのに、お前どんだけ偉いつもりなんだよ!」 私は争いたくなくて、落ち着いて説明しただけだった。 「今はこれを飲めないの」 しかし、幸吉は光子を庇うようにしてさらに強い口調で責め立てた。 「友美、お前、なんで少しも思いやりがないんだ?医者ならそんなこと分かるだろう!」 私が何か言い返そうと
突然、幸吉の電話が鳴った。画面には光子の名前が表示されている。 幸吉は迷わず電話を取り、急いでベランダへ出て行った。1分後、彼はソファの上に置いていたコートを掴み、靴を履き始めた。 私は光子のSNSを開いた。 投稿されていたのは、たった一言——「眠れない」 たったそれだけで、幸吉は私を置いて出て行こうとしている。 自分が馬鹿らしくなって、思わず冷笑してしまった。 その音を聞いて、幸吉が振り返る。 「友美、頼むから邪魔しないでくれ。光子は本当に辛いんだ。放っておけない」 彼が玄関を出ていこうとするその瞬間、私の腹に鋭い痛みが走った。 次の瞬間、温かい液体が脚を伝い、床に広がっていく。 目に飛び込んできた鮮血の赤に、胸が凍りついた。 「まさか......」 震える手で幸吉に電話をかけた。 「幸吉......私、たぶん流産しそう......」 「友美!お前、いつからそんなに狡猾になったんだ?」 電話越しの幸吉の声は冷たく、心配どころか、非難の色しかない。 「お前、俺を光子のところに行かせたくないからって、そんな嘘をつくのか?」 「お腹が痛いの......血も出てる......」と、私は弱々しく訴えた。 しかし、幸吉はそれを遮り、苛立ちを隠そうともせず言い放った。 「いい加減にしろ!そんな嘘で俺を引き止められるとでも思ってるのか?!」 「光子は今、本当に辛いんだ。俺が行かなかったら、彼女の病状が悪化するんだぞ!お前にも少しは同情心ってものがあるだろう?」 涙が溢れて止まらなかった。 この子は私と幸吉の5年間の結婚生活で、初めて授かった命だったのに...... 私はそれでも必死に懇願した。 「幸吉......お願いだから戻ってきて......私を病院に連れて行って......まだ間に合う......」 幸吉は電話越しに一瞬黙ったが、すぐに苛立ちを露わにしてこう言った。 「もういい!さっきまで元気だったのに、そんな嘘をどう信じろっていうんだ?結局、お前は俺を光子のところに行かせたくないだけだろ!」 そう言って、電話は一方的に切られた。 もう一度かけ直したが、電話はすでに着信拒否されていた。 私はその場に崩れ
石田幸吉と結婚して5年目。 ある日、彼の患者である松田光子がグループチャットに投稿してきた。 彼と顔を寄せ合い、キスをしている写真だ。 コメントにはこう書かれていた—— 「幸吉、幸吉はこの世で一番素晴らしい人!」 私は冷たく一言返した。 「明日、役所を君たちの家に運んであげるわ」 すると、幸吉は即座に私をグループから追放した。 そのうえ、みんなの前で私にビデオ通話をかけてきた。 「光子は俺の患者だ!重度の精神疾患を抱えてるんだぞ!お前、彼女をそんな風に刺激してどうするつもりだ!」 「そんなことも理解できないなら、グループにいる資格なんてない」 画面の向こうでは、光子が涙を流し、悲しげな顔をしているのが見えた。 数分後、彼女はプロフィール画像を更新していた。 二人がペアリングをつけて手を絡め合い、まるで世間の羨望を集める恋人のような写真だ。 だが、もう私はどうでもよかった。 「彼女と一緒に幸せになればいい。私は身を引く」...
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