All Chapters of それだけが、たったひとつの願い: Chapter 81 - Chapter 90

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第八十二話

 以前のバイト先の店長にも頭を下げ、急遽辞めさせてもらった。 バイト仲間の武田くんには結局挨拶できないままだったが仕方がない。 私の居場所がどこからジンの耳に入るかわからないと思うと、いきなり消えるしかなかったから。 だけどあれから四年が経つのだから、今は心配要らないと思う。 ジンはもう捜してなどいないだろう。私という存在すら忘れているかもしれない。「そうだ。由依ちゃん、俺が携わったCMが出来たんだよ。見る?」「例の清涼飲料水のやつですよね。見たいです!」 大手の飲料メーカーが新しい清涼飲料水をこの夏に発売するらしく、なんとうちの会社がそのCM撮影を請け負うことになったのだ。 大きな仕事だし、担当の上森さんがかなり力を入れていたのを知っていたから、私も出来上がるのが楽しみだった。 私は嬉々としながら上森さんのデスクのそばに移動して、パソコンのモニター画面を覗き込んだ。 上森さんがUSBを差し込んで動画を再生させると、アップテンポな曲と共に映像が流れ始める。「曲も雰囲気も活気があっていいよね」 上森さんの言葉にうなずきながら、私は映像に釘付けになった。 CMは十五秒と三十秒のバージョンがあるが、見せてくれたのは後者のほうで、若い男女が何人かでバーベキューをしている楽しそうな映像だった。「……え……」 似ている。瞬間的にそう思ったところで映像が切り替わった。 爽やかにペットボトルの中身を飲んだ男性の顔のアップで終わっている。 ――――ジンだった。「どうしたの、由依ちゃん」 そう声をかけられても呆然としたまま、驚きすぎて動悸がおさまらない。「わかった! さっきのモデルがイケメンすぎて、ときめいちゃったとか?」 事情を知らない上森さんがシャレにならないことを言う。「爽やかさが売りの商品ですからCMにはピッタリの人材ですね」 当たり障りのない会話と作り笑いで、私は挙動不審さをごまかした。 この会社は芸能界と密接に関係があるのだから、ここで働くのならばこういうケースも覚悟しておかなければいけなかった。 いちいち動揺するな、と心の中で自分を叱責する。「あ、来たよ、由依ちゃんの“保護者”さん」 パソコンの画面から顔を上げると、相変わらず柔らかい癒し系の空気を醸し出す甲さんを見つけた。 遠い距離から軽く会釈をすると、甲さんは麻
last updateLast Updated : 2025-01-20
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第八十三話

「付き合ってませんよ。それにしても“保護者”ですか」 もちろん甲さんはきちんと交際疑惑を否定してくれた。「美山さんは由依ちゃんよりちょっと年上なだけなんだし、“保護者”っていうのはおかしくないですか?」「はは。そうですね。保護者というより……“情報提供者”って感じですかね」 それ以上言うなと念をこめて私が甲さんに視線を送ると、そこでやっとふたりの会話が止まった。 上森さんは不思議そうな表情を浮かべていて、最後は話がかみ合わない形だったけれどそれでいい。 甲さんがポロリと漏らした“情報提供者”という言葉の意味は私にしかわからないから。 そのあと私たちはレストランに入り、テーブルにつくと同時に私は甲さんにつめよった。「甲さん、さっきのはなんですか。“情報提供者”だなんて言ったら、私がまた上森さんに突っ込まれます」「ごめん」 私がムッと口を尖らせると、甲さんが注文し終わったランチメニューを片づけながらおかしそうにクスクスと笑う。「上森さんにはごまかしといてよ」 今は甲さんを通じて私はいろいろと情報を得ている状況だから、“情報提供者”というのは決して間違ってはいない。「姉と母は元気にしてるんでしょうか……」「うん。ふたりとも変わりはないと聞いてるよ。ついでに言うと社長も元気に仕事してる」 四年前、相馬コーポレーションとポラリス・プロは倒産を免れた。 結局ジンがドラマに出演してくれたのだ。 私が消えたあと、しばらくは抵抗していたらしいけれど、突然なにか吹っ切れたように大人しくショウさんの説得に応じたみたいで、そのあともずっと彼は芸能の仕事を続けている。 姉は相馬さんのツテで系列会社へ就職し、母は予定どおり施設に入所した。 すべて良い方向に進んだのだと、私はあとから甲さんを通じて事情を知った。 相馬さんも苦境を乗り越え、元気で仕事にまい進しているならなによりだ。 今みんなが幸せに暮らせてるのは、私はジンのおかげだと思っている。「それと、さっき会社でびっくりしました。清涼飲料水のCMに……」「見たんだね。あれ、五月からテレビで放映だから」 運ばれてきたパスタを口に運び、甲さんがいつものように緩慢に笑う。「うちの会社が携わってるCMに出てるなんて知らなくて、ほんとに驚きましたよ」「もう慣れてきたころかと思ったけど。日本でのCM出
last updateLast Updated : 2025-01-21
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第八十四話

 写真集やCM、エステのイメージキャラクターなど、今ではあらゆる仕事のオファーが殺到しているらしく、台湾では飛ぶ鳥を落とす勢いの時の人となっているそうだ。「あの清涼飲料水のCM、いい感じだったよね」「はい。最後にジンの爽やかなスマイルで終わってて素敵な仕上がりでした」「そっか。……撮影以外では笑わないけどね」 その言葉を聞き、まだダメなのかと胸にズキンと痛みが走って顔が引きつっていく。 おこがましいけれど、それは私のせいかもしれないと自分を責めたくなった。「ジン、前回の映画のときにすごく痩せてましたけど身体を壊してませんか?」「香港の映画かな」 甲さんからジンが出演したドラマや映画の映像をいつもこっそりと見せてもらっていた。 きちんと完成した作品はもちろん、甲さんが撮影現場の様子を後ろから撮ったメイキングのような映像まで。 今でも私は、ジンの一番のファンだから。 だけど香港映画に出演していたジンの姿を見て、私は愕然としたのだ。 映し出されたジンは坊主に近いくらい髪を短く切り、頬が痩せこけていてまるで別人だった。「あれね、麻薬密売人の役だったから。体重をわざと落としたんだよ。そのほうがリアルだってジン自身が提案して」「そうだったんですか。具合が悪いわけじゃなくて良かった」 すべては役作りだったのだと甲さんから説明を聞いて、ホッと胸をなでおろした。「リアルすぎて、本当に麻薬をやってるんじゃないかって冗談混じりに週刊誌で騒がれたよ」「そんな……」「ま、週刊誌は相変わらず好き勝手書くから。痩せたことも、鶏ガラみたいだとかさ。ジン自身はもう髪も伸びたし、体重も少しずつ戻ってるから大丈夫だけど」 たしかに先ほど目にしたCMの映像で髪の長さはある程度戻っていたように思う。 以前よりは短いけれど夏向けのCMだから爽やかだ。 体重もゲッソリという印象ではなかったから増えたのかもしれない。 CMとあの映画のときでは、同一人物とは思えないくらいに違って見えた。「役作りだからって、まさかあんなに髪を切って痩せるとは俺も思わなかった。出来上がりの映画を見たら由依ちゃんもびっくりするよ。ジンが役に入り込んでるから」「やっぱり、彼は天才ですね」 元々彼は天才だったのだろうし、俳優をやっていくプロ意識みたいなものが芽生えた今は無敵に近いと思う。
last updateLast Updated : 2025-01-21
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第八十五話

 役作りのために髪をばっさり切るという普通なら嫌がりそうな行為まで気にせずにやるし、そのままでも十分なのに異常さを出すためにゲッソリと痩せる。 私の前ではなんでもおいしそうに食べていたころのジンを思い出すと、今の彼を尊敬するし、感動を覚えた。 まさに最後の映画デートのときに私が言ったようなカメレオン俳優になれていると思う。 誰にも負けない演技力が魅力の、本当にすごい俳優に成長しているのだ。「これ、今週発売になった雑誌。ジンがインタビューされてる記事が出てる。いつものように和訳をつけといたから」「ありがとうございます」 甲さんが鞄から雑誌を取り出して私に手渡してくれた。 ジンが載る台湾の雑誌は、いつもこうして甲さんに見せてもらっている。 たとえそれが一ページだけだったとしても。 私に見せるために、仕事の合間に和訳してメモを貼ってくれている甲さんには心から感謝だ。「由依ちゃん、このままでいいの?」 今回は載っているページ数が多いな、などと思いながらパラパラと雑誌をめくっている途中で甲さんにそう言われて顔を上げた。「なにがですか?」「だって、それ」 私の手中にある雑誌を甲さんが優しく指し示し、何事だろうかと私は視線を戻して記事を確認した。【胸キュン俳優特集】というタイトルでジンが女性記者と対談している。『ラブストーリーと言えば今やHarryさんが代名詞とも言えますが、プレッシャーはありますか?』 そういうような質問を記者からいくつか出され、ジンがそれに答える形式だ。 その中にこんなやり取りがあった。 記者 『女性ファンはみんなHarryさんのキスシーンにうっとりしていますよ?』 ジン 『それは光栄です。キスシーンは恋愛ドラマにおいて重要ですから』 記者 『緊張したり、やりにくさはないですか?』 ジン 『ないです。キスと言っても芝居ですからね。お互いの肉と肉がただぶつかってるだけですよ』 最後のジンの文言にハッとして、紙面から顔を上げて甲さんを見た。「これは……」「そう。どこかで聞いた言葉だね。あのとき俺も由依ちゃんの隣に居たから覚えてる」 それは四年前に私が彼に言った言葉だった。『想い合ってるふたりがするものが“キス”でしょ。お芝居でやるものは、お互いの肉と肉がただぶつかってるだけだよ』 あのときのことを、ジンはま
last updateLast Updated : 2025-01-22
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第八十六話

「次のページも見て?」 甲さんに促され、再び紙面に視線を落とすと記者がプライベートについて質問していた。 記者 『こんなにカッコいいHarryさんですから昔からモテましたよね? 今までフラれた経験なんてないんじゃないですか?』 ジン 『ありますよ。彼女に急にいなくなられた経験が』 明らかに私のことだとわかるような文言をジンがインタビューで答えるなんて、今までは一度もなかった。いったいどういう気持ちの変化なのか。 記者 『Harryさんがフラれたんですか? 信じられないです』 ジン 『当時の僕は幼かったんでしょう。その彼女には一度も好きだと言われなかったんで、元々好かれていなかったのかもしれないですけどね』 反論したいのにできない。 もどかしい気持ちと悲しい気持ちが交錯して胸が張り裂けそうだ。「ジンは由依ちゃんのことを忘れてないよ。もう一度会わなくていいの?」 甲さんにそう尋ねられたけれど、私はふるふると力なく首を横に振った。「このままでいいんです。私は今までどおり、一番のファンとして彼の活躍を見守ります。だから甲さん、私のことはこれからも口外無用でお願いします」 今さら会ってどうなるんだ。 勝手にいなくなった四年前のことを詫びても、もうどうでもいい昔の話だと彼は思っているかもしれないし、逆に未だに怒っていて許してくれないかもしれない。 どちらにしろ、謝ることは私の単なるエゴであり自己満足でしかないと思う。 だいたい、どんな顔をしてジンと会えばいいかわからない。 あの時は仕方がなかった、こうするしかなかった、と理解してもらいたいなんて図々しい。 だからこのままでいい。私は逃げるとあのとき決めたのだから。 彼との赤い糸を四年前に切ったのは、私だ。 それからひと月ほどが経ち、私は変わらぬ日常を過ごしていた。「頼めるのは由依ちゃんだけなんだ。俺を助けて!」 仕事中に突然上森さんが顔の前で両手を合わせて私に懇願してきたけれど、なにがなんだかわからない。いったいどうしたのだろう。「バイトの松井さん、親戚に不幸があったから明日バイトには来られないって連絡があったんだ」「そうですか」「そうですかじゃないよ。明日のMVの撮影、松井さんにも手伝ってもらう予定にしてたのに手が足りなくなる」 だからそんなに焦っていたのかと、上森さんの様子
last updateLast Updated : 2025-01-22
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第八十七話

 電話連絡をしたりメールを送ったり、メーカーから送られてくるイベント用のサンプルを整理したり、会社ではそんな事務仕事と雑用しかしていない。 幸いコネで正社員として雇ってもらっているけれど、現場には一度も行ったことがないのだ。 そんな私ではなんの役にも立てないような気がする。「大丈夫。準備をちょっと手伝ってもらうだけだから。明日の仕事は俺が営業して頼み込んでやっと取れた仕事なんだよ」 上森さんは話しながらも、私に向かって両手を合わせ続けている。 明日は撮影に使うものを準備したり片づけたり、おそらくそういう雑用係が足りないのだろう。「ごめんね由依ちゃん、上森くんのこと助けてあげて?」 そんなふうに麻耶さんにまで頼まれたらうなずくしかないし、仕事なのだから私が断れるはずはないのだ。 それに上森さんにとっても会社にとっても重要な仕事だから、私にできることは協力しなければいけない。「誰のMVなんですか?」「なんと、鳥飼大和(とりかいやまと)! 明日由依ちゃんも会えるよ」 うれしいでしょ? と言わんばかりに上森さんがミーハーっぽく笑う。 鳥飼 大和は、現在人気急上昇中のイケメン・シンガーソングライターで、私は特に会いたい願望はないけれど、彼の作る楽曲はうっとりとする綺麗なものが多くて素敵だと思っている。 翌日の朝、上森さんから知らされた待ち合わせの場所へ時間どおりに到着した。 スタジオで撮影なのだろうと私は勝手に思いこんでいたが、詳しい話を聞くと今日は外でのロケだった。「由依ちゃん、おはよう。迷わなかった?」「はい、なんとか。ここ、すごいですね。船ばっかり」 先に来ていた上森さんに挨拶しながら、辺りをキョロキョロと見回してしまう。「船じゃなくてクルーザーって言ってよ!」 上森さんに盛大に笑われたが、私の頬をかすめる潮風は心地よかった。 ここは何隻もクルーザーが停泊しているマリーナで、普段こんなところに来ない私にはなにもかもが目新しい。 今回の鳥飼大和のMVは、七月に発売の新曲に合わせて夏らしいものにするためにクルーザーでの撮影になったらしい。 今日は幸い雲ひとつない晴天で、キラキラと日差しが眩しいからこのロケには絶好の天気だ。 クルーザーを少し沖合いまで出しての撮影なので、荷物の積み忘れがあってはならない。 上森さん主導の元に着
last updateLast Updated : 2025-01-23
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第八十八話

「由依ちゃん、それシャンパングラスだから割らないように注意して」 私がたまたま手にした荷物はどうやら『ワレモノ注意』だったらしく、上森さんから丁寧に扱うようにと指令が飛んできた。「高価なシャンパングラスなんですね」「うん。少しでも演者が映えるようにね」 撮影はクルーザーのデッキで行われる。 男女のカップルが楽しそうにシャンパングラスを片手に談笑するシーンだ。 さほど広くはない屋内スペースに小さなウッドテーブルがあり、沖合いに着いたら最後の準備としてそこにシャンパンとグラスをセッティングするように言われている。「鳥飼大和なら、このクルーザーもシャンパングラスも似合っちゃいますね」 大事に荷物を抱えて持つ私を、上森さんがポカンとした表情で見つめた。「由依ちゃん、今日の台本のチェックした?」「もちろんです。少しでも段取りを頭に入れようと、きちんと目を通しました」「鳥飼大和は出ないよ」 驚きすぎて目を丸くしてしまう。 てっきり今日は鳥飼大和自身がMVに出演するのだと思い込んでいた。「でも上森さんが昨日……」「自分のMVだから見学に来るだけ」 出来をチェックするために来るけれど、まさか自分は出演しないだなんて想定外だ。 昨日の夜、渡された台本を私は家でじっくりと何度も読み返した。 だけどそれはスタッフとしてスムーズに仕事が進むように、詳細を頭に叩き込むためだったから、演者の名前の欄を見落としていた。 そんな自分がまぬけすぎて、一気に気持ちが落ちていく。「おはようございます。よろしくお願いします」 片隅であわててもう一度台本をチェックしようとしていたら、遠くのほうから聞いたことのある低い声が耳に届いた。 この声は……… チラリとその方向へ視線を向けると、予感したとおりショウさんの姿が現れて上森さんに挨拶している。 私は咄嗟に物陰に隠れ、震える手で台本の演者欄を確認した。【出演:Harry 神山めぐ】 ……不覚だった。今日この場で撮影するのが、ジンだったなんて。 どうしよう、このままではジンと顔を合わせてしまう。 四年ものあいだ私は逃げ続けて来たのに、ここで見つかってしまうのかと頭が一気にパニックになった。「おはようございます。上森さん、最近よく会いますよね」 背後でまた聞き覚えのある声がする。 映像の中ではたくさん
last updateLast Updated : 2025-01-23
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第八十九話

 私は彼の気配を背中で感じつつ、ほかのスタッフに紛れてその場を離れた。 このまま仕事をすっぽかして帰るわけにはいかないし、どうしたものかと物陰で考え込んでいたら、今度は相手役である神山(こうやま)めぐが到着したらしい。 周りにいたスタッフが一斉に挨拶している声が聞こえた。 彼女は少し前から売れ始めたグラビアアイドルで、少しずつ女優の仕事も始めているスタイル抜群のかわいらしい女性だ。 私も挨拶に加わり、よろしくお願いしますとにこやかに頭を下げる。 だけど彼女はテレビや雑誌の中とは違ってやけにツンとした態度で、首をちょこっと振っただけで周りから目をそらせて自分の控室へと向かった。 若気の至りなのかもしれないけれど、あまり褒められた態度ではなかった。 いつの間にかジンとショウさんの姿も見当たらなくなっていた。 マリーナの近くに控室を用意しているから、そちらに移動したのだろう。 そこで着替えやメイクをしてもらう予定になっている。 現場はバタバタとしているし、いざ撮影が始まれば私はほかのスタッフに紛れて目立たなくしていればいい。 いるかいないかわからない空気のように気配を消していれば、私だとわからない可能性もある。 しかし、ジンが日本で仕事をする機会が増えるのなら、今後は絶対に気を付けなくてはいけない。もしくは、まったく違う業種への転職も考えなくては。 着々と準備を進めていると、しばらくしてから鳥飼大和が姿を見せた。 挨拶がてらに監督とにこやかに談笑する彼は神山めぐとは違って愛想がいい。 世間のふたりのイメージは逆だから、それが私には不思議な光景だった。 積み込みなど抜けがないかどうかチェックしていたら、早々に神山めぐが控室から出てきてクルーザーに乗り込んできた。 薄いオレンジのトップスは彼女の豊満なバストを強調させていて、その谷間にサングラスが引っ掛けられている。 下は短いデニムのショートパンツ姿で、細くて長い美脚だ。「いやぁ、今日もかわいいですね!」 花が咲いたようだとか、メイクをするとさらにオーラが増すだとか、上森さんが必死に褒めちぎっているから笑いそうになる。 だけど入り時間が早いのはありがたい。 女優のメイク待ちで時間が押すというのは、この世界ではよくあることらしいから。 キョロキョロとしている彼女に、私は椅子を用意し
last updateLast Updated : 2025-01-24
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第九十話

「風は気持ちいいいけど、日差しが強いわね」 彼女がそんな感想を述べ、自分の女性マネージャーに耳打ちしたあとデッキでひとりになった。 どうやらなにか取りにでも行かせたようだ。 ひとりで大丈夫だろうか、と彼女の様子を見ていたら不意にバチッと目が合ってしまった。 すると彼女は無表情で右手を上げ、私に手招きの合図を送ってくる。 なにか用事なのかと、私はすかさず彼女のほうへ歩み寄った。「ちょっと、傘を差してくれない?」「……傘、ですか?」「この日差しじゃ日焼けするって言ってんのよ。早く!」 彼女の脇にマネージャーが持ってきたと思われる大きな日傘が立てかけられているのに気づき、私はあわててそれを開いた。「紫外線はお肌の大敵なの。あなたでもそれくらいはわかるでしょ?」 気が利かないわね、とでも言いたそうな表情で吐き捨てられた。 かわいい容姿とは裏腹にドス黒い性格をしていて、そのギャップに私は唖然としてしまったが、これが本来の神山めぐなのだろう。 だいたい、本番までにはまだ時間があるし、紫外線を気にするのならなにか上から羽織ればいい。 それにこのデッキは紫外線を遮る屋根などがなく、一番太陽が当たる場所だ。 嫌なら室内もあるのだから避難すればいいものを、と彼女の子供っぽさにあきれてしまう。 それらをぐっと飲みこんで、私はにこやかに彼女に傘を差し向けた。「あの……マネージャーの方はどちらへ?」 いつまでこの傘を差していればいいのだろう。私にも仕事があるからそろそろ解放してもらいたい。「冷たいカフェラテを買いに行かせたの。戻ってくるのが遅いわね。サボってるのかしら、あの役立たず」 なにかを取りに行かせたわけではなく、飲み物を買いに行かせたのだ。なのに、役立たずとはひどい言いようだと思う。「あ、よろしくお願いします」 突如彼女がかわいらしい声を出した。 監督を始め、鳥飼大和やスタッフたちが全員クルーザーに乗り込んできたからだ。 どうやら沖合いに出る準備が整ったらしい。 これは非常にまずいと、そう思ったときにはもう遅かった。 ジンとショウさんがこちらに歩いて来てしまっている。 デッキはクルーザーの先端で最奥だからどこにも逃げ場がなく、どうすることもできなかった。 先に気づいたのはショウさんで、私を目にすると歩みを止めてその場で固まった
last updateLast Updated : 2025-01-24
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第九十一話

 つかつかとショウさんが一直線に私に近づいて来る。「ここでなにをしてるんだ」「あの……日差しが……傘を……」 顔が引きつって小さく発した声が震えた。 四年前に私はジンの前から綺麗さっぱり消えるとショウさんに約束したのだから、イレギュラーだったとは言え、また目の前に現れたのは立派な約束違反だ。「大丈夫ですよ。この人見慣れないけど不審者じゃないです。上森さんの会社のスタッフみたいですから」 なにも知らない神山めぐが明るくかわいい声を出す。 ショウさんは彼女には愛想笑いを浮かべ、再び鋭い視線を私に寄こした。 どうしてお前がここにいるんだ、とまるで責められているようで胸が痛い。「へぇ、上森さんとこの会社ね。……これはあとで甲に聞かないと」 もうダメだ。うちの会社と甲さんが懇意にしていることにショウさんは気づいて、なぜ私がそこに在籍しているのかすべてを一瞬で悟ったのだと思う。 このままでは甲さんに迷惑をかけてしまう。 私がずっと甲さんに口止めをお願いしていたのだと、どんなに責められてもそこだけは主張しなければいけない。 甲さんはなにも悪くないのに、巻き添えにするのはどうしても嫌だ。「出発はまだ? 神山さんのマネージャーさん待ち?」 デッキの手すりを背にして腕組みをしたジンが無表情でそう言い放った。 神山めぐがあわてて苦笑いを浮かべる。 自分がカフェラテを買いに行かせたからだと白状したくないのだろう。「今日はキスシーンもあるんですから、仲良くいきましょ」 神山めぐがメディアで見せる愛想のいい表情を見せて、媚びるようにジンにまとわりつく。 忘れていたわけではないけれど、今日のラストの撮影はキスシーンだった。 鳥飼大和が演じるものだと先ほどまで思っていた私は、実際に撮影するのがジンだとわかり、以前に封印したはずの気持ちが蘇ってきたのか胸を締め付けられた。 甲さんに見せてもらっていたドラマや映画で、ジンがキスシーンを演じていることは何度もあった。 だけどそれは、お芝居なのだからときちんと私の中で折り合いがついていた。 でも今日は生のキスシーンを間近で見ることになる。きっと私はつらくて目を背けるだろう。 そんなことを考えていると神山めぐのマネージャーさんが戻って来て、クルーザーが沖合いへと出航した。 全員室内へ移動する中、上森さんに
last updateLast Updated : 2025-01-25
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