「由依ちゃん、それシャンパングラスだから割らないように注意して」 私がたまたま手にした荷物はどうやら『ワレモノ注意』だったらしく、上森さんから丁寧に扱うようにと指令が飛んできた。「高価なシャンパングラスなんですね」「うん。少しでも演者が映えるようにね」 撮影はクルーザーのデッキで行われる。 男女のカップルが楽しそうにシャンパングラスを片手に談笑するシーンだ。 さほど広くはない屋内スペースに小さなウッドテーブルがあり、沖合いに着いたら最後の準備としてそこにシャンパンとグラスをセッティングするように言われている。「鳥飼大和なら、このクルーザーもシャンパングラスも似合っちゃいますね」 大事に荷物を抱えて持つ私を、上森さんがポカンとした表情で見つめた。「由依ちゃん、今日の台本のチェックした?」「もちろんです。少しでも段取りを頭に入れようと、きちんと目を通しました」「鳥飼大和は出ないよ」 驚きすぎて目を丸くしてしまう。 てっきり今日は鳥飼大和自身がMVに出演するのだと思い込んでいた。「でも上森さんが昨日……」「自分のMVだから見学に来るだけ」 出来をチェックするために来るけれど、まさか自分は出演しないだなんて想定外だ。 昨日の夜、渡された台本を私は家でじっくりと何度も読み返した。 だけどそれはスタッフとしてスムーズに仕事が進むように、詳細を頭に叩き込むためだったから、演者の名前の欄を見落としていた。 そんな自分がまぬけすぎて、一気に気持ちが落ちていく。「おはようございます。よろしくお願いします」 片隅であわててもう一度台本をチェックしようとしていたら、遠くのほうから聞いたことのある低い声が耳に届いた。 この声は……… チラリとその方向へ視線を向けると、予感したとおりショウさんの姿が現れて上森さんに挨拶している。 私は咄嗟に物陰に隠れ、震える手で台本の演者欄を確認した。【出演:Harry 神山めぐ】 ……不覚だった。今日この場で撮影するのが、ジンだったなんて。 どうしよう、このままではジンと顔を合わせてしまう。 四年ものあいだ私は逃げ続けて来たのに、ここで見つかってしまうのかと頭が一気にパニックになった。「おはようございます。上森さん、最近よく会いますよね」 背後でまた聞き覚えのある声がする。 映像の中ではたくさん
私は彼の気配を背中で感じつつ、ほかのスタッフに紛れてその場を離れた。 このまま仕事をすっぽかして帰るわけにはいかないし、どうしたものかと物陰で考え込んでいたら、今度は相手役である神山(こうやま)めぐが到着したらしい。 周りにいたスタッフが一斉に挨拶している声が聞こえた。 彼女は少し前から売れ始めたグラビアアイドルで、少しずつ女優の仕事も始めているスタイル抜群のかわいらしい女性だ。 私も挨拶に加わり、よろしくお願いしますとにこやかに頭を下げる。 だけど彼女はテレビや雑誌の中とは違ってやけにツンとした態度で、首をちょこっと振っただけで周りから目をそらせて自分の控室へと向かった。 若気の至りなのかもしれないけれど、あまり褒められた態度ではなかった。 いつの間にかジンとショウさんの姿も見当たらなくなっていた。 マリーナの近くに控室を用意しているから、そちらに移動したのだろう。 そこで着替えやメイクをしてもらう予定になっている。 現場はバタバタとしているし、いざ撮影が始まれば私はほかのスタッフに紛れて目立たなくしていればいい。 いるかいないかわからない空気のように気配を消していれば、私だとわからない可能性もある。 しかし、ジンが日本で仕事をする機会が増えるのなら、今後は絶対に気を付けなくてはいけない。もしくは、まったく違う業種への転職も考えなくては。 着々と準備を進めていると、しばらくしてから鳥飼大和が姿を見せた。 挨拶がてらに監督とにこやかに談笑する彼は神山めぐとは違って愛想がいい。 世間のふたりのイメージは逆だから、それが私には不思議な光景だった。 積み込みなど抜けがないかどうかチェックしていたら、早々に神山めぐが控室から出てきてクルーザーに乗り込んできた。 薄いオレンジのトップスは彼女の豊満なバストを強調させていて、その谷間にサングラスが引っ掛けられている。 下は短いデニムのショートパンツ姿で、細くて長い美脚だ。「いやぁ、今日もかわいいですね!」 花が咲いたようだとか、メイクをするとさらにオーラが増すだとか、上森さんが必死に褒めちぎっているから笑いそうになる。 だけど入り時間が早いのはありがたい。 女優のメイク待ちで時間が押すというのは、この世界ではよくあることらしいから。 キョロキョロとしている彼女に、私は椅子を用意し
「風は気持ちいいいけど、日差しが強いわね」 彼女がそんな感想を述べ、自分の女性マネージャーに耳打ちしたあとデッキでひとりになった。 どうやらなにか取りにでも行かせたようだ。 ひとりで大丈夫だろうか、と彼女の様子を見ていたら不意にバチッと目が合ってしまった。 すると彼女は無表情で右手を上げ、私に手招きの合図を送ってくる。 なにか用事なのかと、私はすかさず彼女のほうへ歩み寄った。「ちょっと、傘を差してくれない?」「……傘、ですか?」「この日差しじゃ日焼けするって言ってんのよ。早く!」 彼女の脇にマネージャーが持ってきたと思われる大きな日傘が立てかけられているのに気づき、私はあわててそれを開いた。「紫外線はお肌の大敵なの。あなたでもそれくらいはわかるでしょ?」 気が利かないわね、とでも言いたそうな表情で吐き捨てられた。 かわいい容姿とは裏腹にドス黒い性格をしていて、そのギャップに私は唖然としてしまったが、これが本来の神山めぐなのだろう。 だいたい、本番までにはまだ時間があるし、紫外線を気にするのならなにか上から羽織ればいい。 それにこのデッキは紫外線を遮る屋根などがなく、一番太陽が当たる場所だ。 嫌なら室内もあるのだから避難すればいいものを、と彼女の子供っぽさにあきれてしまう。 それらをぐっと飲みこんで、私はにこやかに彼女に傘を差し向けた。「あの……マネージャーの方はどちらへ?」 いつまでこの傘を差していればいいのだろう。私にも仕事があるからそろそろ解放してもらいたい。「冷たいカフェラテを買いに行かせたの。戻ってくるのが遅いわね。サボってるのかしら、あの役立たず」 なにかを取りに行かせたわけではなく、飲み物を買いに行かせたのだ。なのに、役立たずとはひどい言いようだと思う。「あ、よろしくお願いします」 突如彼女がかわいらしい声を出した。 監督を始め、鳥飼大和やスタッフたちが全員クルーザーに乗り込んできたからだ。 どうやら沖合いに出る準備が整ったらしい。 これは非常にまずいと、そう思ったときにはもう遅かった。 ジンとショウさんがこちらに歩いて来てしまっている。 デッキはクルーザーの先端で最奥だからどこにも逃げ場がなく、どうすることもできなかった。 先に気づいたのはショウさんで、私を目にすると歩みを止めてその場で固まった
つかつかとショウさんが一直線に私に近づいて来る。「ここでなにをしてるんだ」「あの……日差しが……傘を……」 顔が引きつって小さく発した声が震えた。 四年前に私はジンの前から綺麗さっぱり消えるとショウさんに約束したのだから、イレギュラーだったとは言え、また目の前に現れたのは立派な約束違反だ。「大丈夫ですよ。この人見慣れないけど不審者じゃないです。上森さんの会社のスタッフみたいですから」 なにも知らない神山めぐが明るくかわいい声を出す。 ショウさんは彼女には愛想笑いを浮かべ、再び鋭い視線を私に寄こした。 どうしてお前がここにいるんだ、とまるで責められているようで胸が痛い。「へぇ、上森さんとこの会社ね。……これはあとで甲に聞かないと」 もうダメだ。うちの会社と甲さんが懇意にしていることにショウさんは気づいて、なぜ私がそこに在籍しているのかすべてを一瞬で悟ったのだと思う。 このままでは甲さんに迷惑をかけてしまう。 私がずっと甲さんに口止めをお願いしていたのだと、どんなに責められてもそこだけは主張しなければいけない。 甲さんはなにも悪くないのに、巻き添えにするのはどうしても嫌だ。「出発はまだ? 神山さんのマネージャーさん待ち?」 デッキの手すりを背にして腕組みをしたジンが無表情でそう言い放った。 神山めぐがあわてて苦笑いを浮かべる。 自分がカフェラテを買いに行かせたからだと白状したくないのだろう。「今日はキスシーンもあるんですから、仲良くいきましょ」 神山めぐがメディアで見せる愛想のいい表情を見せて、媚びるようにジンにまとわりつく。 忘れていたわけではないけれど、今日のラストの撮影はキスシーンだった。 鳥飼大和が演じるものだと先ほどまで思っていた私は、実際に撮影するのがジンだとわかり、以前に封印したはずの気持ちが蘇ってきたのか胸を締め付けられた。 甲さんに見せてもらっていたドラマや映画で、ジンがキスシーンを演じていることは何度もあった。 だけどそれは、お芝居なのだからときちんと私の中で折り合いがついていた。 でも今日は生のキスシーンを間近で見ることになる。きっと私はつらくて目を背けるだろう。 そんなことを考えていると神山めぐのマネージャーさんが戻って来て、クルーザーが沖合いへと出航した。 全員室内へ移動する中、上森さんに
仕事なのだし、今日だけの辛抱だ。 神山めぐにどんなワガママを言われようと、滞りなく撮影が終わるならそれでいい。 しかし、ジンとショウさんに見つかってしまったことは問題だ。 引っ越しは別としても転職はせざるを得なくなった。 麻耶さんも上森さんもとても良い人で働きやすかったから、本当は辞めたくないのだけど。 だけどもしもジンが今後私と関わる気がないとしたら、今までどおり社内で事務仕事だけしていれば基本的に接触することはないわけだから、転職しなくて済むかもしれない。そのあたりは甲さんに相談しよう。 ジンは私を見つけた最初こそ驚いていたものの、そのあとは私と目を合わせるどころか一瞬たりとも視線を寄こさなかった。 私のことは知らないし関係ないといった態度に見受けられるので、今さら私がどこで働こうと、どこに住んでいようと、どうでもいいのかもしれない。 いろいろ悶々と考えていると、なんだか気分が悪くなってきた。 どうやらクルーザーの揺れで軽く船酔いしたらしい。 ペットボトルの水を口に含み、自分の体調の変化をごまかそうとしたが胃がムカムカする。 クルーザーが沖合に出ると言っても大した距離ではなく、混雑したマリーナから離れて海をバックに撮影したいだけなのだ。 程なくしてクルーザーが停止し、スタッフ全員が撮影のために準備を急ぐ。 着ていた上着を脱ぎ、真っ白なシャツ姿でデッキへと向かうジンが自然と視界に入って思わず見惚れそうになってしまった。 なんてカッコいいのだろう。彼の筋肉質なフォルムは誰もが目を奪われると思う。 二十五歳になったジンは、あのころより男らしさや大人の魅力も色気も断然増してきている。 もう私の知っているジンではないみたいだ。「由依ちゃん、シャンパンをグラスについでふたりに持って行ってくれるかな」 どうして私が、と顔が引きつってしまった。 ほかにもたくさんスタッフはいるのに、なぜ私がジンと接触するようなポジションに置かれるのだろうと上森さんを少しだけ恨んだ。 私はフーッと息を吐き、なんでもない素振りでふたりにグラスを持って近づいた。「よろしくお願いします」 グラスをジンに渡すとき、指先同士が少し触れてドキッとしてしまう。 だけど私は目を合わさなかった。おそらくジンもこちらを見ていないだろう。「ちょっと!」 神山めぐにも
「ここ、濡れてるわ。こういうのは拭いといてくれないと困るの。衣装が汚れるでしょ?!」 デッキの手すりに海水のしぶきが飛んだのか濡れていたらしく、そのクレームだった。「申し訳ありません、すぐ拭きます」 私は雑巾を取りに戻り、デッキに飛んだ水しぶきをチェックしつつ拭いてまわった。 彼女の言い方はきつかったが、そこまで気が回らなかった私も悪い。 演者が気持ちよく撮影できるようにするのもスタッフの役目だから。 しかしこんなときに限ってどんどん気分が悪くなってくる。 立ったりしゃがんだり、激しく動いているのも酔う原因かもしれない。「具合が悪いんじゃないですか? 顔が青いですよ」 声をかけてくれたのは神山めぐの女性マネージャーだった。 その言葉が聞こえたのか、ジンがチラリとこちらを見たような気がした。 大丈夫です、と愛想笑いで私は返事をしたけれど、仏頂面になったのはなぜか神山めぐだ。「なによ、どうせ仮病でしょ? 私に指図されて反発してるのが見え見えなんだけど!」「違います。ちょっと船酔いしただけですので大丈夫ですから」「じゃあさっさと拭いてよね。そこも濡れてるわよ!」 吐き気は増すし、意識がぼうっとしてきて集中力が欠けてきたから、本当は大丈夫ではない。「だからそこじゃないってば。水滴が見えないの? こっちじゃなくてそっちよ!」 どこだろう? と立ち上がったときだった。急に大きい波が来て船体が横にガクンと揺れた。「わっ!」 身体がふわりと宙に浮く。「由依!!」 ジンの声が聞こえた気がしたけれど、私はそのまま海へ投げ出され、バシャンという音と共に水の中で意識を手放した。 次に私がぼんやりと意識を取り戻したのは救急車の中で、そのまま救急病院へと搬送された。「由依ちゃん」 少し眠ってしまったみたいだったが、気がつくと病院のベッドのそばに麻耶さんの姿があった。「すみません、私……」「いいのよ、起きないで」 我に返って身体を起こそうとしたけれど、麻耶さんに制止された。「私、たしか海に落ちて……」 大波が来てデッキが揺れ、私は海に落ちたはずだと記憶がよみがえってきた。「溺れたのよ。無事で本当に良かった」 ホッとしたと安堵の表情を浮かべ、麻耶さんがやさしく私の手を握る。「ご迷惑をおかけしてすみません。……ロケ……撮影はどうなった
「私のせいで……ごめんなさい」「事故なんだから気にしなくていいわ。今、上森くんが対応してくれてるから」 中止になったとはいえ後始末やフォローがあるため、上森さんが私に付き添って病院に来るわけにもいかず、会社にいた麻耶さんが代わりに来てくれたそうだ。 多くの人に迷惑をかけてしまい、申し訳なさで胸がいっぱいになる。「Harryさんも飛び込んじゃったしね。どのみち撮影は無理だもの」「え?!」「由依ちゃんは気を失ってたから知らないよね。Harryさんが海に飛び込んで、溺れてる由依ちゃんを助けてくれたのよ」 そういえば海に落ちる直前、『由依』と私の名を呼ぶジンの声が聞こえたような気がした。 あれは空耳ではなかったのだと思うと、目頭が熱くなってくる。 ジンが再び私の名を呼んでくれたのだ。 そんなことはもう二度とないと思っていたのに。 それだけではなく、危険を顧みずに私のために海に飛び込んでくれた。 今日の彼は私に対しては冷たい態度を取っていたけれど、本当はちっとも変わっていなくて、ジンはあのころのままのやさしい人だった。 そう実感したらうれしくて、思い出してはいけないはずの感情が私の胸を締め付けて涙腺を刺激した。「由依ちゃんはHarryさんと……どういう関係?」 ゆっくりと起き上がった私に対し、静かな声音で麻耶さんが核心を突く質問をする。「彼はポラリス・プロ所属だから、美山さんとの繋がりで由依ちゃんとも知り合いなのかと思ったけど、ふたりはワケありだよね?」 私がなにも言わなくても事情を察したのか、麻耶さんは話しながらひとりで納得していた。「そうじゃなきゃ、あんなに必死になって騒がない」「必死?」「そう。『由依! 由依!』って何度も呼びかけて、救急車が来るまで抱きしめていたらしいから」 それを聞いた途端、堰を切ったように涙があふれ、止まることなくぽろぽろと頬を伝っていく。「あの……彼は……彼は無事なんですよね? 怪我したりしてませんよね?」
海に飛び込んだジンがどこか怪我をしていないだろうかと不安に襲われた私は、麻耶さんに詰め寄るように彼の様子を尋ねた。 ジンは私と違って芸能人だから身体に傷がついたら大変なのに。「大丈夫みたい。念のために今検査中のはずだけど」「彼、今ここにいるんですか?」「マネージャーさんに検査を受けるように言われてたから」 たしかにショウさんの性格を考えたらそのまま放っておくわけがない。 ジンが病院できちんと検査を受けているのなら安心だ。「私、彼にお礼を言わなきゃ」 ベッドから出て立ち上がろうとする私の両肩に手を添えて、麻耶さんがダメだとストップをかける。「由依ちゃん、今は安静にしてなさい!」「彼にお礼を……いえ、謝らなきゃいけないんです、いろいろと。だから行かせてください!」 自己満足でもなんでもいい。 謝りたいと思う気持ちがあるのなら、そうするべきなのだと私は気づいた。 四年前、消える決断を私ひとりでしてしまい、たくさん傷つけたことを彼の目を見て心から詫びよう。 会ってきちんと謝らないと、蘇ってしまった気持ちにケリがつけられない。私もジンも一歩も前に進めない。 麻耶さんの制止を振り切ってベッドを離れようとしたとき、ゴロゴロと重い音を立てて病室の出入り口の扉が開いた。「由依、気がついたんだな」 ジンがホッとしたような表情を浮かべながら私の元へと近づいて来る。 どうやら病室の前で私の声が聞こえたらしく、ノックをすることも忘れて入って来てしまったらしい。「マジで怖かった。由依が無事で……生きていてくれて良かった」 安堵からくる涙をこらえつつ、ジンが顔を歪めながらそのまま私を強く抱きしめた。 そばに麻耶さんがいるとか、自分が芸能人だなんて今はどうでもいいのだと、彼の胸のぬくもりから伝わってくる。 蘇った気持ちを再び封印しなくてはいけないと思っていけれど、撮影現場でジンを目にしたあのときからそれは無理だったのだ。 四年の歳月なんて関係ない。 あの一瞬で蘇ってしまった気持ちは ―― 純粋な恋心だった。
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普