海に飛び込んだジンがどこか怪我をしていないだろうかと不安に襲われた私は、麻耶さんに詰め寄るように彼の様子を尋ねた。 ジンは私と違って芸能人だから身体に傷がついたら大変なのに。「大丈夫みたい。念のために今検査中のはずだけど」「彼、今ここにいるんですか?」「マネージャーさんに検査を受けるように言われてたから」 たしかにショウさんの性格を考えたらそのまま放っておくわけがない。 ジンが病院できちんと検査を受けているのなら安心だ。「私、彼にお礼を言わなきゃ」 ベッドから出て立ち上がろうとする私の両肩に手を添えて、麻耶さんがダメだとストップをかける。「由依ちゃん、今は安静にしてなさい!」「彼にお礼を……いえ、謝らなきゃいけないんです、いろいろと。だから行かせてください!」 自己満足でもなんでもいい。 謝りたいと思う気持ちがあるのなら、そうするべきなのだと私は気づいた。 四年前、消える決断を私ひとりでしてしまい、たくさん傷つけたことを彼の目を見て心から詫びよう。 会ってきちんと謝らないと、蘇ってしまった気持ちにケリがつけられない。私もジンも一歩も前に進めない。 麻耶さんの制止を振り切ってベッドを離れようとしたとき、ゴロゴロと重い音を立てて病室の出入り口の扉が開いた。「由依、気がついたんだな」 ジンがホッとしたような表情を浮かべながら私の元へと近づいて来る。 どうやら病室の前で私の声が聞こえたらしく、ノックをすることも忘れて入って来てしまったらしい。「マジで怖かった。由依が無事で……生きていてくれて良かった」 安堵からくる涙をこらえつつ、ジンが顔を歪めながらそのまま私を強く抱きしめた。 そばに麻耶さんがいるとか、自分が芸能人だなんて今はどうでもいいのだと、彼の胸のぬくもりから伝わってくる。 蘇った気持ちを再び封印しなくてはいけないと思っていけれど、撮影現場でジンを目にしたあのときからそれは無理だったのだ。 四年の歳月なんて関係ない。 あの一瞬で蘇ってしまった気持ちは ―― 純粋な恋心だった。
◇◇◇「由依をどこにやったんだよ! 隠したのはわかってる。居場所を教えてくれ!」 四年前、俺は人生で一度だけ本気でショウくんに対して怒りが湧いた。 自分よりさらに上背のあるショウくんの胸倉を掴み、大声で怒鳴ったのを今でもはっきりと覚えている。 だけどショウくんは冷静な顔をして、「知らない」と言い張った。 それは嘘に決まっている。 由依が突然いなくなった理由も居場所も本当に知らないというのなら、捜さないのは不自然だろう。 だから裏でショウくんが糸を引いているのだと、証拠はないが俺にはわかった。 ガキのころからずっと一緒にいて兄弟同然なのだから、その性格は知り尽くしている。 マンションからは由依の荷物が消え、実家にも帰った様子はなく、バイト先にも行ってみたがすでに辞めていた。『お元気で。素敵な俳優さんになってください』 やっと連絡が取れたのがうれしくて、あわててメッセージを開いたものの、そう書かれていた。 ……なんだそれ。 由依が勝手に消えるはずがないし、その文章もショウくんに指図されて送ってきたのかと疑ってしまう。 そのあとすぐメッセージアプリのアカウントは削除され、電話番号もキャリアメールのアドレスもすべて変わっていて、連絡を取る手段がなにもなくなった。 甲くんにも協力を依頼して行方を捜してみたけれど見つからない。行く当てなどないはずなのに、どこにいるのだろう。「なぁ……頼むよ、ショウくん。由依のそばにいさせてくれ」 半月ほど経ったころ、俺はたまらなくなってショウくんに頭を下げて頼んだ。 もうお手上げ状態で気が狂いそうだった。自力で捜す術もないし、行方を知っているだろうショウくんに真向から尋ねるしかなかった。「なんでもするよ。これからもショウくんの言うとおりにする」 ショウくんが出演させたがってるドラマにも出るし、歌をやらせたいならボイストレーニングもサボらずに通う。 どんな交換条件でものむからと、ショウくんに懇願した。「由依を返してほしい」「ジン……」「それだけが、俺のたったひとつの願いだ」 それ以外のことは願わないから、ひとつくらい俺の頼みをきいてくれたっていいだろう。「まるで俺が人をさらったような言い方をするなよ」 うなだれる俺を見て、ショウくんはつらそうに顔をしかめた。「由依は大人だ。この状況を理解し
どんなに求めても由依が俺の元に戻ってこないのなら、ショウくんにこれ以上歯向かう理由がない。 俺は薫平を失ったときと同じように、ある意味自分自身を封印した。 とうの昔に捨てた自我が、由依と出会ったことでいつの間にか蘇り、自分の思うように生きたいと願ってしまった。 だけどそれは所詮叶わないのだ。 俺は由依と出会う前の、中身のない自分に戻る。 ……それでいい。 どうせ俺は、由依のいない世界では生きられないから。 それから数日が経ち、俺はドラマのオファーを受けた。 ロボットのように無感情なほうが役に入り込めたのかもしれない。 俺はそのあともショウくんの指示どおりに働き続けた。 爽やかな二枚目のヒーロー役から、クセの強い麻薬密売人の役まで、文句を言わずなんでもやった。 もちろん、キスシーンも。 どの女優と唇を重ねても、なんの感情も湧いてこないのだから、ただ肉と肉がぶつかってるだけだった。 どんなに綺麗に着飾った女優でも由依には敵わない。 由依はどこでなにをしているのだろう。 彼女は俺のことを、少しは愛してくれていただろうか。 四年が過ぎても、由依は見つからないままだった。 文句を言わなくなった俺に、ショウくんは味をしめたかのようにどんどん仕事を入れてくる。 グアムでの写真集撮影、それが終わると台湾でのイベントのゲスト出演、日本でのCM撮影など、スケジュールはこの先もびっしりだ。 そんな中で舞い込んだのが、鳥飼大和の新曲のMV撮影だった。 クルーザーでの撮影らしいから、俺も気分転換できるし、外のロケのほうが開放的で好きだ。「Harryさんってハーフなんですか? 日本語が上手ですね」 相手役の神山めぐが挨拶のときに声をワントーン上げて俺に話しかけてきたが、裏表がありそうだと俺は直感した。 こういうタイプは大抵、マネージャーや下のスタッフには冷たく当たるものだと俺にはお見通しだから。 着替えとヘアメイクを終えてクルーザーに移動すると、すでに神山めぐが船内にいるのが目に入った。 鳥飼大和も来ていて、軽く挨拶を交わしながら船内に移動する。 そこで俺は幻を見たのかと思った。いや、頭がおかしくなったのかと自分を疑った。 デッキにいる神山めぐに日傘を差している女性スタッフが、どう見ても由依に見える。「ここでなにをしてるんだ」とショウ
うちとかなり親しい関係の会社なのに、こんなに近くにいたことをずっと誰も知らずにいたなんてありえない。 チラリと由依を盗み見ると、彼女も動揺を隠せないでいるようだ。 ショウくんもどうやら知らないようだったから、これはまったくの偶然なのだろう。 久しぶりに見る由依は、あのころのままだった。 もちろん大人っぽさは増していたが、愛くるしい瞳も、ぷっくりした唇も、以前とまったく変わらない。 これから撮影が始まるというのに、俺の心の中は大きくかき乱され、冷静に振るまおうとしたけれど無理だった。 ずっと会いたかった人にやっと会えたのに、俺は声をかけることすらできずにいた。 まるで俺たちを敬遠するかのように、上森さんに呼ばれて彼女がこの場を去っていく。 俺は思わずその後姿を見つめてしまった。「あのスタッフさんとお知り合いですか?」 どうせただの好奇心だろうけれど、なにも知らない神山めぐが余計なことを詮索し始める。 元カノだ、などと言えるわけもなく、俺は聞こえないフリを決め込んだ。「女優の私に日光が当たってるのに知らん顔をしたんですよ。日傘くらい言われなくても差しに来いって感じ。バカですよね」 神山めぐは俺を怒らせる才能に長けている。 今の言葉で、一瞬で頭に血がのぼったのが自分でもわかった。「ふざけるな。アイツのなにを知ってるんだ」 無視していればよかったのに、気がついたらそう言い返していた。彼女が罵られることに我慢ならなかった。 由依は少なくとも絶対にお前よりは頭が良くて気が利いて、思いやりもあるしやさしい女だ、と言い放たなかっただけマシだろう。 だけど俺が由依をかばったのがいけなかったのか、沖合いに着くと神山めぐが由依を呼び寄せてあれこれ文句を言い始めた。 デッキが濡れているだとか、内容は陰険なイジメに等しい。 いい加減止めに入ろうと思ったときに、クルーザーの横から大波が来て船体が大きく揺れた。「わっ!」 由依の声だと気づいたときには、彼女の身体が浮いて放り出されるのが目に入った。 俺はいてもたってもいられなくて、後先考えずに由依を追って海へとダイブした。 絶対助けなければと思った……俺の、愛する人を。 薫平を亡くしてからというもの、水泳だけは必死になってやっていたから俺は泳ぎには自信がある。 薫平は俺のせいで死なせてしまっ
「マジで怖かった。由依が無事で……生きててくれて良かった」 由依と俺が運ばれた救急病院の病室で、俺が言った言葉は紛れもない本心だ。 薫平のように死なせてたまるか。由依には生きていてほしいんだ。 涙をこらえつつ抱き着いた由依には温もりが戻っていて、良かったと安心したら余計に抱きしめる腕に力がこもった。 MVのロケは中止となり、クルーザーでの撮影自体が見直されることになった。「ジン、怪我がなくてホントに良かったよ」 後日、別の打ち合わせで事務所に赴くと、甲くんが俺の顔を見るなり心配そうに声をかけてきた。「甲くん、ほかに言うことはない?」「え?」「由依が上森さんの会社にいるって知ってたんだろ? というより、あそこで働けるように口添えしたのは甲くんだよな?」 ズバリ核心をつくように尋ねると、甲くんは申し訳なさそうに顔を歪めてガバっと思いきり頭を下げた。「ごめん! 俺……」「もういい。今さら責めても仕方ない」 甲くんは由依を捜してくれているのだと思っていたけれど、実は隠していたのは甲くん自身だった。 足元を救われたにもほどがある。見つかるわけがないじゃないか。「いいんだ。由依の居場所がわかったし、元気で生きててくれた。それだけでもう十分だ」 静かなトーンで怒ることのない俺を不思議に思ったのか、ゆっくりと頭を上げた甲くんがなんとも言えない悲しげな視線を寄こす。「由依ちゃんに今の会社を紹介したのはたしかに俺だよ。だけどそれは、偶然またふたりが出会えないかなって心のどこかで期待したからだ」「なんだよ、それ」「いろいろ不運が重なって離れたふたりだけど……気持ちはまだ残ってるだろ?」 なぜ今さらはっきりと俺の気持ちを暴くようなことを言うのかわからず、俺は戸惑って甲くんから目を逸らせた。「今でも由依が好きで手に入れたいと思う。だけどその願いは叶わない」 四年前のあのころのまま、俺の気持ちはちっとも変わっていないけれど、そのたったひとつの願いが叶わないのはもう知っている。 それが運命なら受け入れるしかないのだと思う。 これからも俺は自我を捨てて生きていく。 今現在由依が幸せなら、それを見守るしかない。
◇◇◇ 上森さんはあのあと、各方面へ謝罪したり打ち合わせを重ねたり、かなりの後始末に追われていた。 もちろん私も微力ながらサポートしていて、毎日残業になっている。 結局病室では、あのあとすぐに看護師さんが来てしまい、ジンとはロクに話もできずに別れてしまった。 力強く抱きしめられ、彼のぬくもりを感じて四年ぶりに胸が高鳴った。 だけどそれ以上の進展を期待してはいけない。 きちんと彼に謝れなかったのは、心残りではあるけれど。「由依ちゃん、今日はもう上がりなよ」 定時を一時間ほど過ぎたころ、疲れている私に上森さんがやさしく声をかけてくれた。「でもまだメールの送付が終わっていないのがあるので、もう少しがんばります」 たいしたサポートは私にはできないが、上森さんには迷惑をかけたのだから出来る限り協力したい。「いいよ。俺がやっとくからたまには早く帰って。それに由依ちゃんにはお客さんが来てるんだ」「私に?」 それが誰なのかまったく想像がつかない。 あるとしたら甲さんくらいだけれど、上森さんの口調からするとそうではないようだった。 ほら、と上森さんに促された出入り口の方角を見ると、背の高い男性が壁に寄りかかっているのに気づいた。 少し長めの漆黒の髪をしたスーツ姿の男性が腕組みをしながらこちらを見ている。 私はあわてて荷物をまとめ、その男性へと歩み寄った。「ショウさん……」「ちょっといいか? 話がある」 ロケでの失態を謝ろうとして頭を下げかけた瞬間にそう言われ、ふたりで会社をあとにした。 もうすぐ初夏を迎える夕方の空は、まだ日が沈む気配はなくオレンジ色だ。 どこに行くのかわからずにショウさんのあとをついていくと、連れて来られたのは近くにあるパーキングだった。「今日車で来たから。とりあえず乗れ」 有無を言わせない感じがあのころのままでなんだか懐かしい。 私は助手席の扉を開け、失礼しますと言いながらそこへ乗り込んだ。「ちゃんと話すのは久しぶりだな」「はい。四年ぶりです」 私たちを乗せた車は大通りを滑らかに走っていく。 こんなふうにまたショウさんと話す日が来るとは思ってもみなかった。「この間のロケでは……すみませんでした。私のせいでご迷惑をおかけして」 正面を見据えたまま運転するショウさんに、私は静かな口調で謝罪した。「命に別
「ジンは泳げますよね?」「俺にはもうひとり実の弟がいた。子供のころに死んだけど」 小さいころになくなったと聞いてなんと言っていいのかわからず、言葉に詰まってふたりともしばらく沈黙してしまう。「それと……すみません、約束違反ですよね。四年前に姿を消したのにまた現れるなんて」「まったくだ。消えるならずっとそうしてくれればいいものを。だけど、あれは甲が仕組んだことだろう」 お前は悪くないと言われてるような気がして涙腺が緩みそうになる。 だけど私は擁護してもらう立場ではないのだ。「違います。甲さんは悪くないんです。ずっと口止めをしていたのは私なんですから。お願いですから甲さんを責めないでください」 今日はほとんど無表情だったショウさんの口元が、このとき少しだけ不機嫌そうに曲がった。「あのとき消えると言い出したのは由依だが、最初にジンと別れろと言ったのは俺だ。このことは俺とお前と甲の三人だけが知ってる密約だろう? なのに途中でなぜ俺だけを外すんだ。そこがものすごく気に入らない」「……すみません」 謝りながらこうべを垂れると、ショウさんがハァーッと盛大な溜め息をつく。「お前はやさしい女だな。俺とジンのことを考えたからだろう?」「………」「俺たちの仲が壊れないように、ウソをつき続けさせたくないと思ったのか」 私がなにを考えて行動したかすべてお見通しのショウさんには敵わない。 私はジンとショウさんにはずっと仲の良い兄弟でいてほしかったから、亀裂なんて生じさせたくなかった。 ジンのことを絶対的に守れるのはショウさんだと確信していたのだ。「甲は……ちゃんとお前の面倒を見てたのか?」「はい。十分すぎるくらいにいつも気遣ってくれていました」 甲さんがいなければ私は今のように暮らせていなかった。「そこで確認しておきたいことがあるんだが」 いったいなにを聞かれるのだろうと、私は姿勢を正して気構える。「甲のことが、好きなのか?」「……え?」 突拍子もない質問が飛んできたせいで、私は唖然としながら考え込んだ。「だから……今は甲のことが好きで、甲と付き合ってるのかと聞いているんだ」「いいえ。違います!」 多少声が大きくなったのが自分でもわかった。 完全否定する私を横目でチラリと見て、ショウさんがおかしそうに笑う。「だろうな。甲にも同じ質問
てっきり車でどこかのカフェに移動して、こみあった話になるのだろうかと予想していたからなんだか拍子抜けだ。まさかこんな端的な内容で、車の中で済んでしまうとは思わなかった。 だけど顔を見てきちんと謝罪することもできたし、ショウさんと話せて本当によかったと思う。 私のほうから会いに行くとなれば勇気がいっただろうから、来てくれたショウさんには感謝しかない。「話は終わりだ。着いたぞ」 見覚えのある場所を通り、ショウさんは車を静かに駐車場に停めた。「ここって……」「まさか、忘れたわけじゃないだろう?」 クイっと顎で前方を指し示し、ショウさんは先に車を降りてしまう。 ここにはもう来ることはないと思っていた。 懐かしさやつらさ、いろんな感情が目まぐるしく蘇ってきて私の胸を締め付ける。 私も車から降りてその建物を見上げた。「社長は売らなかったんだ。由依がいつでも戻ってこられるようにと頑なにここだけは守ってた」 連れて来られた場所は相馬さんが所有していたあのマンションで、初めて訪れたときと同じように今も優雅にそびえたっていた。 四年前、相馬さんの会社が大変なことになったときに、私が使わせてもらっていた部屋は売りに出されたのだと思っていた。 最上階で見晴らしも良く、手入れも行き届いているからすぐに売れたのだろう、と。 だけど私のために売られていなかったなんて今初めて知った。 今さらだけど相馬さんに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。「今は誰も使ってない。中に入ってみないか? 綺麗にしてあるから」 返事を待つことなく、ショウさんは私の手首を掴んでエントランスを抜けていく。 あの部屋に入るのは、いろんなことを思い出してきっと苦しくなってしまうから私にはまだ無理だ。懐かしいと本気で思えるくらいの年月が経たないと立ち入れない場所だと思う。「私はいいです」「来いって」 踵を返そうとする私の腕を取り、ショウさんはほとんど無理やりのように私を部屋に押し入れた。「ショウくん、自分で呼び出したくせに来るのが遅い!」 玄関に靴が脱いであると気づくのと同時にリビングから声が聞こえた。 未だに私の手首をつかむショウさんを不安げに見上げると、なぜだか穏やかな笑みを浮かべている。 手首は離されることはなく、そのままなだれ込むように部屋に上がり、ショウ
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普