「悪いな。遅くなった」「ショウくんが謝るなんて珍し………」 ジンが振り返りざまに私の姿を確認した途端、驚いて発していた言葉をピタリと止めた。「本当に……俺は悪い兄貴だ。お前がこの世で一番大切にしてる人を脅すようにして取り上げた」 私の手首を解放して静かに淡々と話し始めるショウさんに対し、ジンはなにがなんだかわからずに不思議そうな顔をしていた。「……なに言ってるんだよ」「四年前、お前たちを引き裂いたのは俺だ」 なにを今さら懺悔してるのだと言わんばかりにジンは呆れた表情をしていたけれど、ショウさんは眉間にシワを寄せ、いきなりその場にしゃがんで床に膝を折った。これは“土下座”と同じ行為だ。「俺は世間では敏腕マネージャーなんて言われてるが、兄としては最低だ。血も涙もない人間だと蔑まれても仕方がない」 いつも勝ち気で、愛はあったけれど言葉はぶっきらぼうな印象の人だったのに。こんなショウさんは初めて見る。「由依にもすまないと思ってる。四年前、ひどいことを言ってお前を傷つけた」「もういいんです」「それに、俺も約束違反なんだ」 ショウさんと同じようにしゃがみこみ、視線を合わせてみて初めてわかったが、彼の目に薄っすらと涙がにじんでいた。「覚えてるか? 俺とお前が四年前に最後に交わした約束」 もちろん覚えている。 ジンがまた自然に笑えるようにしてあげてほしいと、私が最後にお願いしたことだろう。「申し訳ないが……あれは俺には無理だ」「ショウさん……」「だから約束違反なのはお互いさまなんだよ」 この四年、映像や雑誌の中のジンは綺麗な笑顔を見せていたけれど、それはあくまで仕事上の顔で、撮影以外では笑わないのだと甲さんが話していたのを思い出す。「由依、お前がジンを元に戻してやってほしい。それはお前にしかできない」 ショウさんからまさかそんなことを告げられるとは思ってもみなかった。「ジンのそばに、いてやってくれないか」 ショウさんの瞳を通して悲痛な思いが伝わってきて、彼の本気の言葉に涙腺がじわりと緩んだ。「なんだよ、それ」 ショウさんの言葉を聞き、ジンがイラついた声をあげた。 腕組みをしたまま身体を横に向け、何度か私たちの方向に冷たい視線を寄こす。「俺と由依を引き裂いたかと思ったら、今度はくっ付けるのか。なんでも自分の思いどおりで、俺たち
憤るようにジンが声を荒らげたが、ショウさんは真っすぐにジンを見つめ返した。「ああそうだ。なんとでも言え。これは、弟を抜け殻みたいにした兄貴の償いだ」 ショウさんもきっとこの四年間苦しんだのだ。 どうがんばってもジンの笑顔が戻らなくなってしまったのは自分のせいだと、自責の念が拭えなかったのだと思う。別れてつらかったのは私やジンだけではない。「あれから四年も経ってるんだぞ?」「四年は長いな。だけどその年月が過ぎても、お前たちの気持ちはちっとも変わってないじゃないか」 ショウさんはそう言いながら膝を折る姿勢をやめて立ち上がった。「正直、別れたらお互いすぐに忘れるだろうと高をくくっていた。若い男女が付き合って燃え上がったとしても、そのときだけだろうと。だけどお前と由依は違った」 マネージャーとしてではなくやさしい兄の顔をして、ショウさんがふわりと微笑む。「本当に赤い糸で繋がってるのかもな」 すぐそばにいた私の肩をポンポンと叩き、ショウさんがそのまま玄関を出ていく。 ガチャリ、と扉が閉まる音がしたのを最後に、部屋が静寂に包まれた。「あの人ありえないよな」 しばらくしてジンがポツリとつぶやいた。「ショウさんは必死だったんだよ。ジンを全力で守ろうとしてた」 あのころのジンは週刊誌の紙面を騒がせ、記者とトラブルになり……さらに事務所も倒産危機だった。 そんな中、なんとかジンを守ろうとショウさんは躍起になっていて、手段を選んでいられなかったのだ。「なんで由依はそこまで物分かりがいいんだよ。損な性格だな。俺はそんなに守られなきゃいけないほど弱くないんだけど」 ぼやくような言い方をしたジンを見て、思わず笑みがこぼれる。ジンと話して笑うのは久しぶりだ。「あの……この前は助けてくれてありがとう。ちゃんとお礼を言えてなかったよね」 ペコリと頭を下げると、ジンが眉根を下げて微妙な顔つきになった。「あのときは、船内で顔色悪いって気づいた時点で休めって俺が言うべきだったんだ。そしたら海で溺れることもなかったのに。悪かった」 逆にジンに謝られてしまった。 船酔いをしていたのにそれを上森さんに告げずに働いたのだから、悪いのは私だ。「謝るのは私のほう。ロケのこともそうだし、四年前のことも」 目頭が熱くなって鼻の奥がツンとしてきたが、泣いてはいけないとグ
「いなくなった恋人を、俺が捜さないとでも思ったのか? あのあと俺がどれだけ心配したかわかるか?」 ジンが身体の向きを変え、正面を向きながら頭を下げたままの私に近づいた。「由依が行きそうなところは全部捜した。だけど見つからないから、甲くんに警察への捜索願と探偵を雇うのも頼んだ。……ま、それは甲くんがやってるフリだけしてたんだろうな。自分は居場所を知ってるんだから捜索願なんて出すわけがない」 私ばかりか、甲さんにも裏切られたという念が拭えないのだろう。 そんなジンを見ていたら胸が痛くなってくる。「私が悪いの。甲さんを巻き込んだ。本当なら甲さんとも連絡を絶って完全に消えるべきだった。だけどどうしてもできなかったの。姉や母の様子も気になったし、なにより……あなたのことが気になったから」 ジンは私の言葉を聞いても腹を立ててはいないようだったが、眉だけがピクリと動いた。「私はズルい女なの。自分から消えたくせに、あなたがどう過ごしているのか、元気にしているのかを知りたい欲が出て……」「それで四年間、ずっと甲くんと連絡取り合ってたのか?」 コクンとうなずくと同時に我慢の限界が来て、ポロリと涙がこぼれ落ちた。私はあわててそれを手の平で拭う。「俺はなにも知らなかったのに、由依は俺のことを知ってたなんてズルい」「ごめんなさい。ジンのことが好きだったから、どうしても知りたかった」 気がつくとジンが私の目の前まで来ていて、自分の両手で私の両手をそっと包んだ。「好きだった、って……すでに過去形か」 違う。過去形で言ったのは、当時の心境を言いたかっただけだ。「昔も今も、私が好きな人はひとりだよ」 遠回しに告白めいた言葉を言うと、またぽろぽろと涙がこぼれる。 だけど両手をふさがれていて今度はそれを拭うことができない。 そう思っていたら、ジンが右手を差し出して私の頬をやさしく撫でながら涙を拭った。「俺のこと、好きなのか?」「ジン……」「今現在の話だ。由依、ちゃんと言って。誰に遠慮もいらないし、ほかの人間のことなんて考えなくていい。俺を好きかどうか、それを聞きたい」 ずっと卑怯に逃げ続けてきた私だけれど、ジンの瞳が私を捉えて逃げることを二度と許してくれそうにない。 今でも気持ちが残っているのか確認したい、はっきりさせたいのだとジンの目力から伝わってくる。
今度は誰になにを言われようが、この気持ちはもう止めることができないと思う。 私たちはこの四年間気持ちを抑え続け、その上で再び磁石のように引き合ったのだからお互いに離れられない。 ジンが私の唇を深く奪い、強弱をつけながら翻弄する。 覆いかぶさるように攻められ、私の背中が弓なりになったところでジンが私の身体を抱き上げた。 昔私が使っていた部屋に向かい、綺麗に布団が敷かれてあるベッドの上にそっと降ろされる。 お互い気持ちを確かめ合ったばかりで、ふたりともこの流れを止める術を知らない。 ジンが自身の服を脱ぎつつ、私の首筋から胸元にかけて顔をうずめる。 裸になった彼の上半身は引き締まっていて、それを見ただけでドキドキして一気に顔や身体が紅潮した。 愛する人とひとつになる幸せを思い出した。 四年前もこうしてジンに抱かれ、私は幸せを感じていた、と。 ジンの目力と男の色気に誘われ、気がついたら私も夢中で求めていて、ジンの腕の中で悦びをかみしめる。 ―― 本当に幸せだ。「ショウくんが言ってた“四年前にした約束”ってなに?」 ベッドで腕枕をしながら抱き着き、自分だけが知らないのは理不尽だとばかりにジンが私に小声で問う。「ジンの笑顔を取り戻してください、ってお願いしたの」「……は?」「あのころのジンはいろいろあって笑わなくなってたから」 ジンが小さく溜め息を吐いたあとクスクスと笑った。「由依とショウくんって似てるかも。俺を笑わすことなんて簡単なのに、それにふたりとも気づかないんだから」 私とショウさんが似ていると自覚したことは一度もない。 だけど、ジンのことを大事に思っている部分は似ているのかもしれない。「ショウくんは最後に正解にたどり着いたみたいだな」「……正解って?」「由依がそばにいれば、俺はいくらでも笑えるってこと」 だからショウさんは『俺には無理だ。お前にしかできない』と言ったのだと合点がいった。「もう絶対離さないから。逃げるなよ?」「ジンが浮気したら逃げるかも」「は? 」 冗談めかして私が言うと、ジンは納得がいかない顔をして私の頬をもてあそんだ。「だって世間じゃ『抱かれたい男No.1』でしょ?」「だけど、その男が抱くのは由依だけだ」 そう言ってチュっと額にキスをされると、つい先ほどまでの情事を思い出して途端にカー
【スピンオフ・ショウの恋】「帰るの?」 俺がベッドから抜け出そうとすると、肩に細い手がしなだれかかる。「君はもう少し寝て帰ればいい」「酷い人ね。女優をホテルのベッドに置き去りにしようだなんて」「俺は明日から日本なんだ。準備もあるし仕方ないだろう」 女優というそのカテゴリーで合ってはいるが、落ち目になっていると自分で気づいていないのだろうか。「あなたの抱き方、素敵だったわ」「そりゃどうも」 柳 莉紋(リュウ リーウェン)……四年前に清純派で売り出し、人気を博したのはもう過去の栄光となっている。 モデルから女優に転身して以降、現場でワガママばかり言う彼女にスタッフは皆嫌気がさし、今は仕事が激減している状態だ。 演技が下手なくせに態度だけは誰よりも大きいとなれば、周りが離れていくのは当然だろう。 顔がかわいいだけなら、芸能人はほかにいくらでもいるのだから。 そのあたりをわかっていないのが、この女の浅はかなところだ。「日本から戻ったらまた会って?」 大きな瞳で俺をうるうると見つめてくるが、ベッドに寝そべっているせいか昔の清純な面影は皆無だ。 俺はシャツを羽織り、ボタンを留めながら作り笑いで微笑んだ。「俺の弟を今後は狙わないと約束するならね」「もちろんよ。そんなことしないわ」 従順でよろしい、と俺は彼女の頭を義務的にふわりと撫でた。 なんだか面倒なことになりそうだな……などと、ホテルを出てからふと思う。 一夜限り、もしくは何回かの逢瀬のあと自然消滅するつもりだが、彼女は俺が思っているよりしつこいかもしれない。 そんな嫌な予感が頭をよぎり、真夜中の台北の街で盛大な溜め息を吐きだした。 だけどこれで彼女がジンにちょっかいを出すことはないだろう。 だいたい、事の発端はそれなのだ。 アジアを股にかけて売れていくジンに、突然彼女は興味を抱いてすり寄ってきた。 熱愛報道でも出れば、自分にもまた世間が注目するのではないかと目論んだのだろう。 完全に売名行為じゃないか。 由依という恋人がいるのだからジンが相手にしないのはわかっているが、そういうことではない。 真実か否かが問題ではなく噂自体が困るのだ。 彼女がジンに接近するのを防ぐため、逆に俺のほうから接近した。 元々肉食なのか、男に飢えてい
「ショウさん、エマの仕事のことなんですが……」 台湾の事務所で仕事をしていたら、エマのマネージャーをしている後輩から相談を受けた。「ドラマの五番手くらいで、オファーが来たんです。主人公の友達役で」「いいじゃないか。エマが嫌じゃないなら受ければ」 高 嫣然(ガオ イェンラン)……英名は『エマ』。 二年ほど前にうちの事務所に移籍してきたが、売れっ子と呼ぶには程遠い22歳の若手女優だ。 俺が少しのあいだマネージメントしていた時期もあったけれど、ジンのことで忙しくてすぐに担当を今の後輩に任せた。 事務所の力や売り方も大いに関係するだろうが、ドラマの話がきても端役ばかりで、エマはなかなかブレークには至らない。 だけど普通はこんなものだ。 簡単にスター街道を歩めるジンのほうが珍しい。「雰囲気が地味ですからね。目立たないのがダメですよね」 エマはどこも整形などしていない天然美人だが、たしかに印象としては“普通”なのだ。 例えばロングの黒髪が印象的なアジアンビューティーだとか、顔が西洋っぽくてフランス人形みたいだとか、そういう特徴的な部分がない。 だけど仕事に対しては真面目だし、演技に関しても勉強熱心で性格が謙虚だから、主役に抜擢される大女優にしてやりたいと俺は心から思っている。 といっても、彼女のマネージメントから外れている俺がしてやれることは少ない。「いっそ、キャラを変えてみるのはどうですかね?」 いきなり後輩がわけのわからない発言をしてきて俺は首をひねった。 顔が笑っていないから、どうやら冗談で言ってるわけではなさそうだ。「おバカキャラとか!」「十代のアイドルじゃあるまいし、それじゃ普通に頭の悪い女になるだろ」 インパクトを与えたい気持ちはわかるけれど、頼むからおかしな方向にいかずに大事に育ててくれと思ってしまう。「あ! セクシー系でいくのはどうですか? 服もメイクも大人っぽくして胸の谷間チラチラ見せるようにすれば、もっと仕事が舞い込みますよね」「やめろ!」 聞いてられないとばかりに俺は話を遮った。「なんでですか?」「エマには合わないだろう?」 なにを考えてるのだと、あきれて溜め息が漏れた。 俺が今こいつを止めておかないと、そのうちエマはオールヌードにでもされそうだ。 ふと、事務所に貼ってある
『ショウさんにご相談したいことがあって……』 ひと月ほど経ったころ、突然俺にそんな電話をかけてきたのはエマ本人だった。「俺に?」『はい。ショウさんに直接会って聞いてもらいたいことがあります』 仕事の相談をするならば、まず現在のマネージャーに言うのが筋なのに、なぜ俺に話すのだろう。 不思議に思ったものの俺はとりあえず了承した。「わかった。早速だが今夜はどうだ? ちょうど俺は予定があいてる」『私も大丈夫です』 俺たちは急遽夜に会うことにした。 レストランで食事をしながら彼女の話を聞いてやろう。 エマと会うのは数ヶ月ぶりだったが、レストランの席で変装に使っていたマスクと眼鏡を外した顔は、以前と変わらず綺麗なままだった。 女優だから美しいのは当たり前だけれど、エマには自然と惹きこまれそうになる不思議な魅力がある。 素の美しさ、と言うべきものだろうか。「ショウさん、相変わらずカッコいいですね。でっかい犬みたい」「犬? それ褒めてないだろ」 軽口を言う俺を見ながらウフフと笑い、長い髪を耳にかける仕草がかわいらしい。 冗談でも俺を犬に例えるのはエマかジンくらいのものだ。「なにを頼む? なんでもいいからいっぱい食えよ」「私、一応女優ですよ。太っちゃダメでしょう?」 体重や体型を気にするのは芸能人としては当然のことだが、エマはきちんと意識できている。「俺と飯を食うのは久しぶりだからいいだろ」「ブクブクに太っても知らないんだから」 エマは元々細いから、多少食べたくらいでブクブクに太るなんてことは体質的にありえない。 だけど夜に炭水化物を大量に、というのは気が引けるだろうから、俺は上質な牛肉のステーキを注文した。 彼女がそれを口に運んで満足そうな表情をすると、俺も心がなごんでいく。自分でも不思議な現象だ。「で、話って?」 ディナーも程よく進んだころに赤ワインを口にしながら尋ねると、途端にエマの顔から笑みが消えていく。 なにかタイミングがまずかっただろうかと思ったが、今日はその話を聞きに来たのだから仕方がない。「何か悩みでも?」 エマが泣きそうな表情を浮かべたのを目にし、俺は一瞬焦ってしまった。 泣かせるつもりなんか毛頭ないのだが、いったいどうしたのだろう。「あの……仕事のことで……」 言いにくそう
エマは上目遣いで俺の言葉にじっと耳を傾けていた。「隠れて水面下でならいいと思うが、それでも週刊誌にかぎつけられない保証はないからな」「結局この仕事を続けているうちは隠れてコソコソするしかないんですよね」 まるで世界の終わりでもやってきたかのように、肩を落としながらエマはつぶやいた。 先ほどの嫌な予感が当たりそうだと思ったが、俺は覚悟を決めて真正面からエマに視線を送った。「好きな男でもできたのか?」 たとえ答えがイエスだとわかっていたとしても、そう聞くしかないじゃないか。「はい。私、その人と恋愛したいんです」 返事は予想したとおりで、俺は小さく息を吐いた。「恋愛?」「誰もが羨む恋じゃなくていいんです。普通の恋愛がしたい」 エマは女優だが、その前にひとりの女だ。 好きな男ができればデートもしたいだろうし、ゆくゆくは結婚も考えるだろう。「私は芸能界の仕事が好きです。CMだって雑誌だって撮影は楽しい。ドラマはもっと大きな役をやりたいって欲が私も人並みにはあります」 だったら恋愛は諦めろよ、と続けそうになって、俺は寸でのところで言葉を飲み込んだ。 考えて頭の中であれこれ天秤にかけるというのは、長年染みついた俺の悪い癖なのだ。「相手は誰だ? この業界のヤツだろう?」 学生時代の同級生というパターンもあるが、俺の予想では99%の確率で“芸能関係者”だと思う。 プロデューサー、ディレクター、スタイリスト、などの線は薄い。 エマが悩むくらいだから、相手の男はモデルや俳優やミュージシャンなど、表舞台の“演者”の線が濃厚だろう。「同じ業界はまずいですよね」「それは相手による」 例えば女たらしで有名な男だとしたらダメだろう。それは話にならない。 エマのイメージがガタ落ちになってしまう。 だけど、爽やかさを売りにしているイケメンモデルや好感度の高い俳優ならどうだろうか。 スクープされても美男美女カップル誕生だから、祝福ムードで世間に受け入れられるかもしれない。 そんな脳内シミュレーションをしたところで俺は頭が痛くなり、自然と小さくうなるような声が出た。 どちらにしてもモヤモヤというかムカムカしてきて、それがなぜなのか俺にも理由はわからない。「私ね、引退も考えてるんです」「恋愛のために引退するのか?」 も
「すみませんでした」 「いや、終わり良ければすべて良し。あ、そうそう、ショウさんが心配して様子を見に来てくれたみたいだ」 彼のほうへ目をやると、監督に対してていねいに頭を下げてあいさつをしていた。 会社の人間として今後も仕事がもらえるようにコミュニケーションを取ってくれているのだ。「ショウさん……お疲れ様です」 「控室で話そう」 ショウさんはおじぎをする私の背中に手を添え、マネージャーと三人で控室へ戻った。「俺、コーヒーを買ってきますね」 なんとなくわざとらしい笑みをたたえて、マネージャーが外に出ていく。 おそらくショウさんがふたりで話したいから席をはずせと言ったのだろう。「あの……エイミーに付いていなくて大丈夫なんですか?」 マネージャーとして彼女のそばにいたほうがいいのではないかと気にかかったけれど、ショウさんはふるりと首を横に振った。「今日はもう終わったんだ。急いでここへ向かったらエマの撮影に立ち会えるんじゃないかと思って飛んできた」 「そうだったんですか。ありがとうございます」 おもむろに彼が腕を引き寄せ、たくましい胸に私を閉じ込める。 突然の行為にドキドキしながら、私も彼の大きな背中に手を回して抱きついた。「あ。マネージャーが戻ってきちゃいますね」 ずっとこうしてはいられない。ほかの誰かにこんなところを見られたら大変なことになる。「ゆっくりのんびりコーヒーを買いに行くように言ってある」 「大丈夫ですか? 私たちの関係に気づいたんじゃ……」 「いや。元マネージャーとしてエマと話したいってことにしてあるから」 心の中でマネージャーに「ウソをついてごめんなさい」と謝っておく。 だけどこれで大好きなショウさんとあと少しの時間、ふたりきりでいられる。「おととい、なにがあったんだ? 急に泣き出したって聞いたぞ?」 「ちょっと……情緒不安定で」 「俺となかなか会えなかったからか?」 身体を離し、背の高いショウさんが私の顔を覗き込んできた。 鋭い瞳に射貫かれ、甘い声で問われたらごまかすなんてできなくて、素直にうなずいてしまった。「ごめんな。俺のせいだな」 「違うんです。私が悪いんです。……ヤキモチを焼いたから」 「ヤキモチ? 誰に?」 そんなの聞かなくてもわかると思うけれど。 口ごもる私を見て、
翌日。ショウさんから電話がかかってきた。『昨日の撮影だけど、体調不良で延期になったって聞いた。大丈夫か?』 どうやら私のマネージャーがそう伝えたらしい。だけどショウさんは私との電話で、原因が体調不良ではないと気づいているだろう。「心配してくれたんですか?」 『当たり前だ』 間髪入れずに返事をしてくれたことがうれしい。彼が心配する相手がこの世で私だけならいいのにと、欲深い考えまで浮かんでしまう。「ありがとうございます。大丈夫です。明日はショウさんのことを思い出しながらがんばりますね」 『エマ……』 「しっかりしなきゃ、CMを下ろされちゃいますもんね」 最後は彼を心配させすぎないよう、明るい声で電話を切った。〝空元気〟という言葉がしっくりくる。 次の日、再び撮影がおこなわれるスタジオへ向かった。 二日前と同じように衣装に着替え、メイクを施してもらう。「エマさん、おとといはすみませんでした。体調が悪かったんですね。私、全然気づかなくて……」 「こちらこそリスケさせてもらって申し訳ないです」 ヘアメイク担当の女性がいきなり謝るものだから、ブンブンと顔を横に振って恐縮した。 体調不良は表向きの理由だから、彼女が気に病む必要はなにもない。 すべて準備が整ったところでマネージャーが呼びにきた。「エマ、撮影本番だ。いけるか?」 「はい」 スタジオに入り、監督やスタッフに先日のことを詫びてからスタンバイする。 幸いにも監督に怒っている様子はなくてホッとした。温和な性格の男性でよかった。 二日前と同じように、スタジオのセットのソファーに寝そべる。 菓子を手に取り、うっとりと眺めたところで監督からカットがかかった。「表情がまだ硬い。もっとリラックスしていこう」 「すみません」 いったん立ち上がって、フゥーッと深呼吸をしながら頭を切り替える。大丈夫、自分を信じろと言い聞かせて気持ちを高めた。 そのとき、スタジオの入口がそっと開き、男性がひとり入ってくるのがわかった。――ショウさんだ。 どんな会話をしているのかは聞こえないが、ショウさんが私のマネージャーに声をかけてヒソヒソと話をしている。 彼がここに現れたことが信じられなくて見入っていると、自然と視線が交錯した。『が・ん・ば・れ』 やさしい瞳がそう言っている気がし
「エマ、とにかく次の撮影までゆっくり休んで」 自宅マンションまで送ってもらった私は、深々と頭を下げてマネージャーを見送った。「私って、本当にダメだな……」 ポツリとひとりごとが漏れたあと、頭に浮かんでくるのはショウさんの顔だった。 ……会いたいな。それが無理なら声だけでも聞きたい。……電話をしたら迷惑だろうか。 彼が忙しくしているのは百も承知なのだけれど、それでもスマホを手にして通話ボタンを押してしまった。 打ち合わせ中だとか、タイミングが悪ければ出てはもらえないだろう。 しかし数コールのあと、『もしもし』といつもの低い声が耳に届いた。愛してやまないショウさんの声だ。「ショウさん……今、電話して平気でしたか?」 『ああ。少しなら。そっちの撮影は順調か?』 「いえ、今は家にいます」 『CMの撮影なのにもう終わったのか? えらく早いな』 「……」 私のスケジュールを把握してくれていたことが単純にうれしい。 だけど、そのあとの言葉にはすぐに反応できなくて、口ごもってしまった。『……エマ?』 「実は、今日は中止になったんです」 『中止?! なぜだ』 「私が悪いんです。……うまくできなくて」 コントロール不可能な感情に支配されて、泣きだしてしまっただなんて言えなかった。 ショウさんに慰めてほしいわけでも、がんばれと激励してほしいわけでもない。今日のことは自分の責任だとわかっている。甘えちゃいけない。『大丈夫か?』 彼のやさしい声が聞こえてきて、心にジーンと沁み入った。 あんなに不安定だった気持ちが途端にないでいくのだから不思議だ。 顔が見たいな。可能ならビデオ通話に切り替えてもらおうかな。そう考えた矢先だった――――『あ、いた! ショウさん、ちょっといいですか?』 スマホの向こう側から、彼を呼ぶ女性の声がした。おそらくエイミーだ。ショウさんも『今行く』と返事をしている。 正直、エイミーがうらやましい。仕事の相談に乗ってもらえて、付き添う彼に見守ってもらえる。 ショウさんは本当に素敵でカッコいいから、近くにいたら自然と好きになるに決まっている。エイミーだってそうだ。『話の途中ですまない。俺、行かなきゃ』 「はい。突然電話してすみませんでした。お仕事がんばってくださいね」 『また連絡する』 声が
小さなものでいい。楽しいこと、幸せなこと……私にとってそれは何なのかと考えたら、真っ先にショウさんの顔が浮かんだ。 彼と一緒にいられるだけで楽しくて、こんな素敵な人が恋人なのだと思うと幸せな気持ちになる。『エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも』 『待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいだし』 先ほどの言葉がタイミング悪く脳裏に浮かんでしまった。 愛されているのは私のはずなのに。 うれしそうに微笑み合うのは私だけの特権なのに。 そう考えたらつらくなって、自然な笑顔を作らなきゃいけないはずが、反対に涙がポロポロとこぼれ落ちた。「あれ? エマさん?!」 私の様子に気づいた監督とスタッフがあわててやってくる。もちろん撮影は一旦ストップだ。「エマ、どうしたの」 マネージャーが駆け寄ってきて、私にそっとティッシュを差し出した。「すみません」 小さく声に出して謝ると、周りにいたスタッフ全員が困った顔をして私の様子を見守った。 心配されているのはわかるけれど、その視線が突き刺さるように痛い。すべて私のせいだ。早く撮影を再開しなければと思うのに、涙が止まってくれない。「ちょっと休憩しよう」 監督がそう告げ、私は頭を下げて謝罪したあと、マネージャーに付き添われて控室に戻った。 肩が出ているドレス姿だったため、マネージャーが背中から上着をそっと掛けてくれた。「なにかあった?」 「……」 「こんなこと珍しいじゃないか。体調が悪いの?」 「えっと……そうじゃないんですけど……」 うつむきながらボソボソと言葉を紡ぎながらも、マネージャーの目は見られなかった。 プロとして失格だ。心が不安定になっているという理由なんて通らない。「監督と話してくるから。とりあえずここで待機してて?」 「はい」 マネージャーがそばにあった水のペットボトルを手渡し、そのまま控室を出ていった。 ほうっと息を吐いてそのまま待っていると、マネージャーが戻ってきて、今日の撮影は中止になったと告げた。監督と話し合った末に、そう決めたらしい。 申し訳なさでいっぱいになりながらも、私はマネージャーと共に監督のもとへ行き、誠心誠意謝罪した。数日後にまた日程を決めて撮影をおこなうとのことだ。 どうやらマネ
ショウさんのことだとすぐにわかった。彼は裏方にしておくにはもったいないくらいのイケメンだから。「けっこう前に変わったんですよ」 「そうなんですね。実は、あのマネージャーさんは今、エイミーちゃんのマネージメントをしてるって聞いたものだから。エマさんの担当からは外れたのかと思って」 エイミーはうちの事務所に電撃移籍してきたモデルだ。今後は俳優業も積極的にやりたいと言っているらしい。 二重の瞳がパッチリとしていて、二十歳とは思えないくらいの色気を醸し出している、女子力の高い子。事務所も全力で売り込みをかけるつもりのようだ。 ジンくんのサポートは甲さんとふたり体制でおこなうことになったため、ショウさんが当面、エイミーのマネージメントを担当すると聞いている。「エイミーちゃん、幸せですね。事務所を移籍して飛ぶ鳥を落とす勢いだし、大好きな人にマネージャーになってもらえて」 「……大好き?」 思わず聞き返してしまった。ショウさんとは年の差があるけれど、エイミーにとってみたら恋愛対象に入るのかもしれない。「あ、これは私の勘なんですけど、エイミーちゃんはあのイケメンのマネージャーさんに恋してるのかも」 「そう……ですか」 「待ち時間とか、一緒にいるときはすごく仲よさそうに話しているみたいですし」 ……ダメだ。聞けば聞くほどグサグサと胸に傷が出来ていく。 ショウさんの恋人は私だ。いくらエイミーが大人っぽくて魅力的でも、彼はそんなに簡単に落ちたりしない。 私を裏切って傷つけるようなことはしない人だと信じている。 信じているはずなのに……――会えていないという現実が、私の心を真っ黒に塗りつぶしていく。 コンコンコンと控室の扉がノックされ、返事をすると男性マネージャーが姿を現した。「エマ、準備できた?」 「はい」 「オッケー。スタジオへ行こう」 マネージャーの後ろをついていき、撮影スタジオに入る。 監督やスタッフに頭を下げてあいさつしたけれど、笑顔が引きつっていたかもしれない。 設置してある撮影用のソファーへうつ伏せで寝そべるようにと指示があった。 うっとりとした顔で商品の菓子をつまみ、ゆっくりと口へ入れる。言われたとおりにしたはずなのに、監督から「カット!」と声がかかった。「エマさん、表情をもう少し明るくして。食べたあと、幸
ずっと密かに恋焦がれていたショウさんに告白をして、付き合えるようになって早くも二ヶ月が過ぎた。 交際は順調……のはず。といっても、私も仕事があるし、ショウさんもジンくんのマネージメントで忙しくしていて海外を飛び回っている。だから実はそんなに会えていない。 連絡が来た日は浮かれ、来なかった日は落ち込んで不安になる。そんな毎日を送る私は、至極単純にできているなと自分でも思う。 普通の人たちのようにふたりでテーマパークへ行って、手を繋ぎながらデートを楽しみたい……というのは、密かに思い描いている願望だ。 しかし、ショウさんとの恋愛は誰にも言えない秘密。 堂々とデートなんてできない。……私がこの仕事を辞めない限りは。それは付き合い始めた当初からわかっていた。◇◇◇ 今日は以前からお世話になっているチョコレート菓子の新しいCM撮影の日。 衣装のドレスに着替えた私は控室でスマホをいじりながら待機していた。「エマさん、本日もよろしくお願いします」 「こちらこそよろしくお願いします」 やってきたのはヘアメイク担当の女性だった。彼女とは何度か一緒に仕事をしていて顔なじみになっている。「今回は大人っぽい商品イメージなんで、ヘアメイクもそういうオーダーが来ています」 笑みを浮かべてコクリとうなずくと、彼女は私の前髪をあげてピンで固定し、慣れた手つきでテキパキと顔に化粧下地を塗り始めた。「うわぁ、すごく肌の調子がいいですね」 「そうですか?」 「エマさんは元々きめ細かくて綺麗な肌なんですけど、今日は潤っていて絶好調です。なにか良いことありました?」 そう聞かれ、すぐに頭に思い浮かんだのはショウさんの顔だ。 秘密だとしても、恋は恋。彼と付き合い始めてからの私は毎日がバラ色で、わかりやすく浮かれていると思う。「わかった! 恋人ができたとか?」 「で、できてないですよ!」 図星を指されてドキドキしながらも、ウソをつかなければいけないのが心苦しい。 本当なら正直に話して、女子らしく恋バナに花を咲かせたいところなのだけれど。 にこやかに話をしながらもメイクが終わる。髪を綺麗にセットし、髪飾りを付けて完成となった。 鏡のほうを向いてみると、そこには普段より大人に見える自分がいた。さすがプロのヘアメイクの腕前は違う。「めちゃくちゃ素
「私、島田菫(しまだ すみれ)です」 「俺は美山甲」 「甲さん……お名前覚えました!」 俺はショウさんから〝人畜無害な男〟と呼ばれるくらい、こういうときは警戒心を抱かれない。ある意味そこはほかの人よりも得をしている。 それにしても、彼女が浮かべた屈託のない笑みが俺の胸を高鳴らせた。笑った顔が愛くるしくて、目が離せなくなっている。自分でも驚きだ。「すみれちゃんの名前って、ひらがな?」 「いいえ。花の漢字で一文字で、えっと……」 「どんな字かわかったよ。良い名前だね」 懸命に説明しようとする彼女に苦笑いを返した。 〝菫〟はジンの名と同じ漢字だ。それをこの場で言うことはできないのだけれど。「甲さんは台湾に住んでるんですか?」 「いや、仕事で来ただけ。東京在住だよ」 「お仕事でこちらに……だから北京語がペラペラだったんですね」 「菫ちゃんは?」 「私は有休を消化しろって言われたから、ふらっと旅行に」 どうやら彼女はひとり旅をしていたらしい。 今日の飛行機で日本へ帰ると言うのでくわしく聞いてみると、俺と同じ便のようだ。 駅へたどり着き、券売機でトークンを買うところまで彼女に付き合った。 おそるおそる機械の操作をする姿がまたかわいくて、自然と顔がほころんでくる。「本当にお世話になりました」 「じゃあ、気をつけて。あとで空港でまた会うかもだけど」 「甲さん、あの……」 空港でまた会える保証はない。ここでお別れか……と寂しさを感じていると、彼女が恥ずかしそうにしながら自分の名刺を差し出した。「名刺を交換してもらえないですか?」 「ああ、うん」 あわててスーツの内ポケットに入れていた名刺入れから名刺を一枚取り出す。「帰国後に……連絡をもらえるとうれしいです」 「え?」 「お礼をさせてください。次は東京で会いましょう」 お礼なんて別にしてもらわなくてもいいのだけれど。 俺は素直にうなずいていた。純粋に彼女にまた会いたいと思ったから。「食事に誘っていいかな? ご馳走するよ」 「それじゃ今日の〝お礼〟にならないじゃないですか」 「あはは。そっか。菫ちゃん、SNSのアドレスも交換していい?」 なんとなくだが、恋の始まりを感じた。 きっと俺は、ジンと同じ名前のこの子に恋をするだろう、と――――。 ――END
「彼女は怖がっています」 「これを渡そうと思っただけなんだけどな」 そう言って手渡してきたのは台湾の紙幣だった。意味がわからなくて思わず首をひねる。「これは?」 「この子、さっきうちの店でお茶を買ったんだよ。代金で受け取った紙幣が一枚多かったから、返そうとしたんだ」 「そうだったんですか」 「追いかけたらこんなところまで来ちまった」 後ろに隠れている彼女に今のことを日本語で説明すると、顔を真っ赤にして恥ずかしそうに前へ出てきた。「パニックになって逃げちゃいました。本当にごめんなさい」 深々と頭を下げる彼女のそばで俺が通訳をすると、男性は「いいよいいよ」と言って怒ることなく来た道を戻っていく。 「親切なおじさんだったのに、私……勘違いして怖がって。悪いことをしましたね」 肩を落としてシュンとする彼女のことを、こんなときなのにかわいいと思ってしまった。 目がくりっとしていて、セミロングの髪はサラサラのストレート。おどおどする様子が小動物みたいで愛らしい。「とにかく、何事もなくてよかったね」 「本当にありがとうございました。あなたがいなかったらどうなっていたか……」 少しばかり通訳をしただけで、こんなにも感謝されるとは思ってもみなかった。 一日一善。良いおこないをすると気分がいい。「ところで、ここはどこですか?」 「……え?」 「必死で逃げていたから、どっちに来たのかわからなくなっちゃいました。ホテルに戻りたいのに……」 上下左右にスマホの角度を変えながらアプリで地図を確認する彼女は、どうやら〝方向音痴〟のようだ。「どこのホテル?」 「ここです」 彼女がスマホの画面をこちらに向けた。そこは俺がよく利用しているホテルの近くだ。「タクシーを拾おうか?」 「運転手さんになにか言われたときに言葉が通じないと困るので、できれば電車で行きたいんですが……」 「じゃあMRTだね」 「MRT? ああ、地下鉄!」 台北市內でもっとも速くて便利な公共交通手段と言えば、MRTと呼ばれる地下鉄になる。 平均五分毎に一本の割合で列車が走っているので、時間のロスも少なくて快適だ。「乗れるよね?」 この周辺に来るときも乗ってきたはずだが、一応聞いてみた。すると彼女は「たぶん」と不安げに答えて眉尻を下げる。「なんか、コインみた
【スピンオフ・甲のロマンス】◇◇◇「では甲さん、それでよろしくお願いします」 「わかりました」 台北にある芸能事務所で打ち合わせを終えた俺は、静かに席を立ってミーティングルームを出る。 これまでジンのマネージメントはすべてショウさんがおこなっていたが、三ヶ月前からその体制が変わった。 ひとつひとつの仕事や全体の方向性を決めるのは今までどおりショウさんが担当する。 けれどジンが日本で仕事をするとき、ショウさんは立ち会わず、代わりに俺がマネージャーとして付くことになったのだ。「これから日本に戻られるんですか?」 スタッフにそう尋ねられた俺は愛想笑いをしつつ首を縦に振った。「夜の便だから少し時間はあるんですよ。久しぶりに台北の街をブラブラして帰ろうかと」 普通の観光や出張なら、こういう時間にお土産を買ったりするのだろうけど。 俺の場合、しょっちゅう行き来しているからお土産のネタも尽きてしまい、わざわざ購入する意味がなくなってしまった。 だいたい、日本に帰って真っ先に会うのはジンだ。よほど珍しいものを見つけない限りは必要ない。 なんだか小腹がすいた。なにか食べよう。台湾に来たら必ず立ち寄る店があり、俺は迷わずそこへ足を踏み入れた。 牛肉麺(ニューロウミェン)は台湾を代表するグルメのひとつ。 牛肉を入れて煮込んだスープに、細いうどんのようなコシのある麺を入れて食べる麺料理だ。 注文して出てきた牛肉麺に舌鼓を打ち、腹を満たした俺は店を出て駅へ続く道を歩き始めた。 「きゃっ!」 「あ、すみません」 路地の角を曲がった瞬間、走ってきた二十代の女性と正面からぶつかった。 思わず日本語で謝ってしまったので、「すみません、大丈夫ですか?」と北京語で言い直したのだが……「え! なんであの人は追いかけてくるの?」 返ってきた言語はナチュラルな日本語だった。どうやら彼女は日本人らしい。 そして、自分が走ってきた後方からやってくる初老の男性のほうを見つめて怯えていた。「どうしました?」 日本語で問いかけると、彼女は神様にでもすがるような目で俺を見た。「あの、日本の方ですか?」 「はい」 「さっきからずっと追いかけられてるんです。なにか言ってきてるんですけど、言葉がわからないから怖くて……」 男性は一見すると普