All Chapters of それだけが、たったひとつの願い: Chapter 91 - Chapter 100

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第九十二話

 仕事なのだし、今日だけの辛抱だ。 神山めぐにどんなワガママを言われようと、滞りなく撮影が終わるならそれでいい。 しかし、ジンとショウさんに見つかってしまったことは問題だ。 引っ越しは別としても転職はせざるを得なくなった。 麻耶さんも上森さんもとても良い人で働きやすかったから、本当は辞めたくないのだけど。 だけどもしもジンが今後私と関わる気がないとしたら、今までどおり社内で事務仕事だけしていれば基本的に接触することはないわけだから、転職しなくて済むかもしれない。そのあたりは甲さんに相談しよう。 ジンは私を見つけた最初こそ驚いていたものの、そのあとは私と目を合わせるどころか一瞬たりとも視線を寄こさなかった。 私のことは知らないし関係ないといった態度に見受けられるので、今さら私がどこで働こうと、どこに住んでいようと、どうでもいいのかもしれない。 いろいろ悶々と考えていると、なんだか気分が悪くなってきた。 どうやらクルーザーの揺れで軽く船酔いしたらしい。 ペットボトルの水を口に含み、自分の体調の変化をごまかそうとしたが胃がムカムカする。 クルーザーが沖合に出ると言っても大した距離ではなく、混雑したマリーナから離れて海をバックに撮影したいだけなのだ。 程なくしてクルーザーが停止し、スタッフ全員が撮影のために準備を急ぐ。 着ていた上着を脱ぎ、真っ白なシャツ姿でデッキへと向かうジンが自然と視界に入って思わず見惚れそうになってしまった。 なんてカッコいいのだろう。彼の筋肉質なフォルムは誰もが目を奪われると思う。 二十五歳になったジンは、あのころより男らしさや大人の魅力も色気も断然増してきている。 もう私の知っているジンではないみたいだ。「由依ちゃん、シャンパンをグラスについでふたりに持って行ってくれるかな」 どうして私が、と顔が引きつってしまった。 ほかにもたくさんスタッフはいるのに、なぜ私がジンと接触するようなポジションに置かれるのだろうと上森さんを少しだけ恨んだ。 私はフーッと息を吐き、なんでもない素振りでふたりにグラスを持って近づいた。「よろしくお願いします」 グラスをジンに渡すとき、指先同士が少し触れてドキッとしてしまう。 だけど私は目を合わさなかった。おそらくジンもこちらを見ていないだろう。「ちょっと!」 神山めぐにも
last updateLast Updated : 2025-01-25
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第九十三話

「ここ、濡れてるわ。こういうのは拭いといてくれないと困るの。衣装が汚れるでしょ?!」 デッキの手すりに海水のしぶきが飛んだのか濡れていたらしく、そのクレームだった。「申し訳ありません、すぐ拭きます」 私は雑巾を取りに戻り、デッキに飛んだ水しぶきをチェックしつつ拭いてまわった。 彼女の言い方はきつかったが、そこまで気が回らなかった私も悪い。 演者が気持ちよく撮影できるようにするのもスタッフの役目だから。 しかしこんなときに限ってどんどん気分が悪くなってくる。 立ったりしゃがんだり、激しく動いているのも酔う原因かもしれない。「具合が悪いんじゃないですか? 顔が青いですよ」 声をかけてくれたのは神山めぐの女性マネージャーだった。 その言葉が聞こえたのか、ジンがチラリとこちらを見たような気がした。 大丈夫です、と愛想笑いで私は返事をしたけれど、仏頂面になったのはなぜか神山めぐだ。「なによ、どうせ仮病でしょ? 私に指図されて反発してるのが見え見えなんだけど!」「違います。ちょっと船酔いしただけですので大丈夫ですから」「じゃあさっさと拭いてよね。そこも濡れてるわよ!」 吐き気は増すし、意識がぼうっとしてきて集中力が欠けてきたから、本当は大丈夫ではない。「だからそこじゃないってば。水滴が見えないの? こっちじゃなくてそっちよ!」 どこだろう? と立ち上がったときだった。急に大きい波が来て船体が横にガクンと揺れた。「わっ!」 身体がふわりと宙に浮く。「由依!!」 ジンの声が聞こえた気がしたけれど、私はそのまま海へ投げ出され、バシャンという音と共に水の中で意識を手放した。 次に私がぼんやりと意識を取り戻したのは救急車の中で、そのまま救急病院へと搬送された。「由依ちゃん」 少し眠ってしまったみたいだったが、気がつくと病院のベッドのそばに麻耶さんの姿があった。「すみません、私……」「いいのよ、起きないで」 我に返って身体を起こそうとしたけれど、麻耶さんに制止された。「私、たしか海に落ちて……」 大波が来てデッキが揺れ、私は海に落ちたはずだと記憶がよみがえってきた。「溺れたのよ。無事で本当に良かった」 ホッとしたと安堵の表情を浮かべ、麻耶さんがやさしく私の手を握る。「ご迷惑をおかけしてすみません。……ロケ……撮影はどうなった
last updateLast Updated : 2025-01-26
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第九十四話

「私のせいで……ごめんなさい」「事故なんだから気にしなくていいわ。今、上森くんが対応してくれてるから」 中止になったとはいえ後始末やフォローがあるため、上森さんが私に付き添って病院に来るわけにもいかず、会社にいた麻耶さんが代わりに来てくれたそうだ。 多くの人に迷惑をかけてしまい、申し訳なさで胸がいっぱいになる。「Harryさんも飛び込んじゃったしね。どのみち撮影は無理だもの」「え?!」「由依ちゃんは気を失ってたから知らないよね。Harryさんが海に飛び込んで、溺れてる由依ちゃんを助けてくれたのよ」 そういえば海に落ちる直前、『由依』と私の名を呼ぶジンの声が聞こえたような気がした。 あれは空耳ではなかったのだと思うと、目頭が熱くなってくる。 ジンが再び私の名を呼んでくれたのだ。 そんなことはもう二度とないと思っていたのに。 それだけではなく、危険を顧みずに私のために海に飛び込んでくれた。 今日の彼は私に対しては冷たい態度を取っていたけれど、本当はちっとも変わっていなくて、ジンはあのころのままのやさしい人だった。 そう実感したらうれしくて、思い出してはいけないはずの感情が私の胸を締め付けて涙腺を刺激した。「由依ちゃんはHarryさんと……どういう関係?」 ゆっくりと起き上がった私に対し、静かな声音で麻耶さんが核心を突く質問をする。「彼はポラリス・プロ所属だから、美山さんとの繋がりで由依ちゃんとも知り合いなのかと思ったけど、ふたりはワケありだよね?」 私がなにも言わなくても事情を察したのか、麻耶さんは話しながらひとりで納得していた。「そうじゃなきゃ、あんなに必死になって騒がない」「必死?」「そう。『由依! 由依!』って何度も呼びかけて、救急車が来るまで抱きしめていたらしいから」 それを聞いた途端、堰を切ったように涙があふれ、止まることなくぽろぽろと頬を伝っていく。「あの……彼は……彼は無事なんですよね? 怪我したりしてませんよね?」
last updateLast Updated : 2025-01-26
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第九十五話

 海に飛び込んだジンがどこか怪我をしていないだろうかと不安に襲われた私は、麻耶さんに詰め寄るように彼の様子を尋ねた。 ジンは私と違って芸能人だから身体に傷がついたら大変なのに。「大丈夫みたい。念のために今検査中のはずだけど」「彼、今ここにいるんですか?」「マネージャーさんに検査を受けるように言われてたから」 たしかにショウさんの性格を考えたらそのまま放っておくわけがない。 ジンが病院できちんと検査を受けているのなら安心だ。「私、彼にお礼を言わなきゃ」 ベッドから出て立ち上がろうとする私の両肩に手を添えて、麻耶さんがダメだとストップをかける。「由依ちゃん、今は安静にしてなさい!」「彼にお礼を……いえ、謝らなきゃいけないんです、いろいろと。だから行かせてください!」 自己満足でもなんでもいい。 謝りたいと思う気持ちがあるのなら、そうするべきなのだと私は気づいた。 四年前、消える決断を私ひとりでしてしまい、たくさん傷つけたことを彼の目を見て心から詫びよう。 会ってきちんと謝らないと、蘇ってしまった気持ちにケリがつけられない。私もジンも一歩も前に進めない。 麻耶さんの制止を振り切ってベッドを離れようとしたとき、ゴロゴロと重い音を立てて病室の出入り口の扉が開いた。「由依、気がついたんだな」 ジンがホッとしたような表情を浮かべながら私の元へと近づいて来る。 どうやら病室の前で私の声が聞こえたらしく、ノックをすることも忘れて入って来てしまったらしい。「マジで怖かった。由依が無事で……生きていてくれて良かった」 安堵からくる涙をこらえつつ、ジンが顔を歪めながらそのまま私を強く抱きしめた。 そばに麻耶さんがいるとか、自分が芸能人だなんて今はどうでもいいのだと、彼の胸のぬくもりから伝わってくる。 蘇った気持ちを再び封印しなくてはいけないと思っていけれど、撮影現場でジンを目にしたあのときからそれは無理だったのだ。 四年の歳月なんて関係ない。 あの一瞬で蘇ってしまった気持ちは ―― 純粋な恋心だった。
last updateLast Updated : 2025-01-27
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第九十六話

◇◇◇「由依をどこにやったんだよ! 隠したのはわかってる。居場所を教えてくれ!」 四年前、俺は人生で一度だけ本気でショウくんに対して怒りが湧いた。 自分よりさらに上背のあるショウくんの胸倉を掴み、大声で怒鳴ったのを今でもはっきりと覚えている。 だけどショウくんは冷静な顔をして、「知らない」と言い張った。 それは嘘に決まっている。 由依が突然いなくなった理由も居場所も本当に知らないというのなら、捜さないのは不自然だろう。 だから裏でショウくんが糸を引いているのだと、証拠はないが俺にはわかった。 ガキのころからずっと一緒にいて兄弟同然なのだから、その性格は知り尽くしている。 マンションからは由依の荷物が消え、実家にも帰った様子はなく、バイト先にも行ってみたがすでに辞めていた。『お元気で。素敵な俳優さんになってください』 やっと連絡が取れたのがうれしくて、あわててメッセージを開いたものの、そう書かれていた。 ……なんだそれ。 由依が勝手に消えるはずがないし、その文章もショウくんに指図されて送ってきたのかと疑ってしまう。 そのあとすぐメッセージアプリのアカウントは削除され、電話番号もキャリアメールのアドレスもすべて変わっていて、連絡を取る手段がなにもなくなった。 甲くんにも協力を依頼して行方を捜してみたけれど見つからない。行く当てなどないはずなのに、どこにいるのだろう。「なぁ……頼むよ、ショウくん。由依のそばにいさせてくれ」 半月ほど経ったころ、俺はたまらなくなってショウくんに頭を下げて頼んだ。 もうお手上げ状態で気が狂いそうだった。自力で捜す術もないし、行方を知っているだろうショウくんに真向から尋ねるしかなかった。「なんでもするよ。これからもショウくんの言うとおりにする」 ショウくんが出演させたがってるドラマにも出るし、歌をやらせたいならボイストレーニングもサボらずに通う。 どんな交換条件でものむからと、ショウくんに懇願した。「由依を返してほしい」「ジン……」「それだけが、俺のたったひとつの願いだ」 それ以外のことは願わないから、ひとつくらい俺の頼みをきいてくれたっていいだろう。「まるで俺が人をさらったような言い方をするなよ」 うなだれる俺を見て、ショウくんはつらそうに顔をしかめた。「由依は大人だ。この状況を理解し
last updateLast Updated : 2025-01-27
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第九十七話

 どんなに求めても由依が俺の元に戻ってこないのなら、ショウくんにこれ以上歯向かう理由がない。 俺は薫平を失ったときと同じように、ある意味自分自身を封印した。 とうの昔に捨てた自我が、由依と出会ったことでいつの間にか蘇り、自分の思うように生きたいと願ってしまった。 だけどそれは所詮叶わないのだ。 俺は由依と出会う前の、中身のない自分に戻る。 ……それでいい。 どうせ俺は、由依のいない世界では生きられないから。 それから数日が経ち、俺はドラマのオファーを受けた。 ロボットのように無感情なほうが役に入り込めたのかもしれない。 俺はそのあともショウくんの指示どおりに働き続けた。 爽やかな二枚目のヒーロー役から、クセの強い麻薬密売人の役まで、文句を言わずなんでもやった。 もちろん、キスシーンも。 どの女優と唇を重ねても、なんの感情も湧いてこないのだから、ただ肉と肉がぶつかってるだけだった。 どんなに綺麗に着飾った女優でも由依には敵わない。 由依はどこでなにをしているのだろう。 彼女は俺のことを、少しは愛してくれていただろうか。 四年が過ぎても、由依は見つからないままだった。 文句を言わなくなった俺に、ショウくんは味をしめたかのようにどんどん仕事を入れてくる。 グアムでの写真集撮影、それが終わると台湾でのイベントのゲスト出演、日本でのCM撮影など、スケジュールはこの先もびっしりだ。 そんな中で舞い込んだのが、鳥飼大和の新曲のMV撮影だった。 クルーザーでの撮影らしいから、俺も気分転換できるし、外のロケのほうが開放的で好きだ。「Harryさんってハーフなんですか? 日本語が上手ですね」 相手役の神山めぐが挨拶のときに声をワントーン上げて俺に話しかけてきたが、裏表がありそうだと俺は直感した。 こういうタイプは大抵、マネージャーや下のスタッフには冷たく当たるものだと俺にはお見通しだから。 着替えとヘアメイクを終えてクルーザーに移動すると、すでに神山めぐが船内にいるのが目に入った。 鳥飼大和も来ていて、軽く挨拶を交わしながら船内に移動する。 そこで俺は幻を見たのかと思った。いや、頭がおかしくなったのかと自分を疑った。 デッキにいる神山めぐに日傘を差している女性スタッフが、どう見ても由依に見える。「ここでなにをしてるんだ」とショウ
last updateLast Updated : 2025-01-28
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第九十八話

 うちとかなり親しい関係の会社なのに、こんなに近くにいたことをずっと誰も知らずにいたなんてありえない。 チラリと由依を盗み見ると、彼女も動揺を隠せないでいるようだ。 ショウくんもどうやら知らないようだったから、これはまったくの偶然なのだろう。 久しぶりに見る由依は、あのころのままだった。 もちろん大人っぽさは増していたが、愛くるしい瞳も、ぷっくりした唇も、以前とまったく変わらない。 これから撮影が始まるというのに、俺の心の中は大きくかき乱され、冷静に振るまおうとしたけれど無理だった。 ずっと会いたかった人にやっと会えたのに、俺は声をかけることすらできずにいた。 まるで俺たちを敬遠するかのように、上森さんに呼ばれて彼女がこの場を去っていく。 俺は思わずその後姿を見つめてしまった。「あのスタッフさんとお知り合いですか?」 どうせただの好奇心だろうけれど、なにも知らない神山めぐが余計なことを詮索し始める。 元カノだ、などと言えるわけもなく、俺は聞こえないフリを決め込んだ。「女優の私に日光が当たってるのに知らん顔をしたんですよ。日傘くらい言われなくても差しに来いって感じ。バカですよね」 神山めぐは俺を怒らせる才能に長けている。 今の言葉で、一瞬で頭に血がのぼったのが自分でもわかった。「ふざけるな。アイツのなにを知ってるんだ」 無視していればよかったのに、気がついたらそう言い返していた。彼女が罵られることに我慢ならなかった。 由依は少なくとも絶対にお前よりは頭が良くて気が利いて、思いやりもあるしやさしい女だ、と言い放たなかっただけマシだろう。 だけど俺が由依をかばったのがいけなかったのか、沖合いに着くと神山めぐが由依を呼び寄せてあれこれ文句を言い始めた。 デッキが濡れているだとか、内容は陰険なイジメに等しい。 いい加減止めに入ろうと思ったときに、クルーザーの横から大波が来て船体が大きく揺れた。「わっ!」 由依の声だと気づいたときには、彼女の身体が浮いて放り出されるのが目に入った。 俺はいてもたってもいられなくて、後先考えずに由依を追って海へとダイブした。 絶対助けなければと思った……俺の、愛する人を。 薫平を亡くしてからというもの、水泳だけは必死になってやっていたから俺は泳ぎには自信がある。 薫平は俺のせいで死なせてしまっ
last updateLast Updated : 2025-01-28
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第九十九話

「マジで怖かった。由依が無事で……生きててくれて良かった」 由依と俺が運ばれた救急病院の病室で、俺が言った言葉は紛れもない本心だ。 薫平のように死なせてたまるか。由依には生きていてほしいんだ。 涙をこらえつつ抱き着いた由依には温もりが戻っていて、良かったと安心したら余計に抱きしめる腕に力がこもった。 MVのロケは中止となり、クルーザーでの撮影自体が見直されることになった。「ジン、怪我がなくてホントに良かったよ」 後日、別の打ち合わせで事務所に赴くと、甲くんが俺の顔を見るなり心配そうに声をかけてきた。「甲くん、ほかに言うことはない?」「え?」「由依が上森さんの会社にいるって知ってたんだろ? というより、あそこで働けるように口添えしたのは甲くんだよな?」 ズバリ核心をつくように尋ねると、甲くんは申し訳なさそうに顔を歪めてガバっと思いきり頭を下げた。「ごめん! 俺……」「もういい。今さら責めても仕方ない」 甲くんは由依を捜してくれているのだと思っていたけれど、実は隠していたのは甲くん自身だった。 足元を救われたにもほどがある。見つかるわけがないじゃないか。「いいんだ。由依の居場所がわかったし、元気で生きててくれた。それだけでもう十分だ」 静かなトーンで怒ることのない俺を不思議に思ったのか、ゆっくりと頭を上げた甲くんがなんとも言えない悲しげな視線を寄こす。「由依ちゃんに今の会社を紹介したのはたしかに俺だよ。だけどそれは、偶然またふたりが出会えないかなって心のどこかで期待したからだ」「なんだよ、それ」「いろいろ不運が重なって離れたふたりだけど……気持ちはまだ残ってるだろ?」 なぜ今さらはっきりと俺の気持ちを暴くようなことを言うのかわからず、俺は戸惑って甲くんから目を逸らせた。「今でも由依が好きで手に入れたいと思う。だけどその願いは叶わない」 四年前のあのころのまま、俺の気持ちはちっとも変わっていないけれど、そのたったひとつの願いが叶わないのはもう知っている。 それが運命なら受け入れるしかないのだと思う。 これからも俺は自我を捨てて生きていく。 今現在由依が幸せなら、それを見守るしかない。
last updateLast Updated : 2025-01-29
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第百話

◇◇◇ 上森さんはあのあと、各方面へ謝罪したり打ち合わせを重ねたり、かなりの後始末に追われていた。 もちろん私も微力ながらサポートしていて、毎日残業になっている。 結局病室では、あのあとすぐに看護師さんが来てしまい、ジンとはロクに話もできずに別れてしまった。 力強く抱きしめられ、彼のぬくもりを感じて四年ぶりに胸が高鳴った。 だけどそれ以上の進展を期待してはいけない。 きちんと彼に謝れなかったのは、心残りではあるけれど。「由依ちゃん、今日はもう上がりなよ」 定時を一時間ほど過ぎたころ、疲れている私に上森さんがやさしく声をかけてくれた。「でもまだメールの送付が終わっていないのがあるので、もう少しがんばります」 たいしたサポートは私にはできないが、上森さんには迷惑をかけたのだから出来る限り協力したい。「いいよ。俺がやっとくからたまには早く帰って。それに由依ちゃんにはお客さんが来てるんだ」「私に?」 それが誰なのかまったく想像がつかない。 あるとしたら甲さんくらいだけれど、上森さんの口調からするとそうではないようだった。 ほら、と上森さんに促された出入り口の方角を見ると、背の高い男性が壁に寄りかかっているのに気づいた。 少し長めの漆黒の髪をしたスーツ姿の男性が腕組みをしながらこちらを見ている。 私はあわてて荷物をまとめ、その男性へと歩み寄った。「ショウさん……」「ちょっといいか? 話がある」 ロケでの失態を謝ろうとして頭を下げかけた瞬間にそう言われ、ふたりで会社をあとにした。 もうすぐ初夏を迎える夕方の空は、まだ日が沈む気配はなくオレンジ色だ。 どこに行くのかわからずにショウさんのあとをついていくと、連れて来られたのは近くにあるパーキングだった。「今日車で来たから。とりあえず乗れ」 有無を言わせない感じがあのころのままでなんだか懐かしい。 私は助手席の扉を開け、失礼しますと言いながらそこへ乗り込んだ。「ちゃんと話すのは久しぶりだな」「はい。四年ぶりです」 私たちを乗せた車は大通りを滑らかに走っていく。 こんなふうにまたショウさんと話す日が来るとは思ってもみなかった。「この間のロケでは……すみませんでした。私のせいでご迷惑をおかけして」 正面を見据えたまま運転するショウさんに、私は静かな口調で謝罪した。「命に別
last updateLast Updated : 2025-01-29
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第百一話

「ジンは泳げますよね?」「俺にはもうひとり実の弟がいた。子供のころに死んだけど」 小さいころになくなったと聞いてなんと言っていいのかわからず、言葉に詰まってふたりともしばらく沈黙してしまう。「それと……すみません、約束違反ですよね。四年前に姿を消したのにまた現れるなんて」「まったくだ。消えるならずっとそうしてくれればいいものを。だけど、あれは甲が仕組んだことだろう」 お前は悪くないと言われてるような気がして涙腺が緩みそうになる。 だけど私は擁護してもらう立場ではないのだ。「違います。甲さんは悪くないんです。ずっと口止めをしていたのは私なんですから。お願いですから甲さんを責めないでください」 今日はほとんど無表情だったショウさんの口元が、このとき少しだけ不機嫌そうに曲がった。「あのとき消えると言い出したのは由依だが、最初にジンと別れろと言ったのは俺だ。このことは俺とお前と甲の三人だけが知ってる密約だろう? なのに途中でなぜ俺だけを外すんだ。そこがものすごく気に入らない」「……すみません」 謝りながらこうべを垂れると、ショウさんがハァーッと盛大な溜め息をつく。「お前はやさしい女だな。俺とジンのことを考えたからだろう?」「………」「俺たちの仲が壊れないように、ウソをつき続けさせたくないと思ったのか」 私がなにを考えて行動したかすべてお見通しのショウさんには敵わない。 私はジンとショウさんにはずっと仲の良い兄弟でいてほしかったから、亀裂なんて生じさせたくなかった。 ジンのことを絶対的に守れるのはショウさんだと確信していたのだ。「甲は……ちゃんとお前の面倒を見てたのか?」「はい。十分すぎるくらいにいつも気遣ってくれていました」 甲さんがいなければ私は今のように暮らせていなかった。「そこで確認しておきたいことがあるんだが」 いったいなにを聞かれるのだろうと、私は姿勢を正して気構える。「甲のことが、好きなのか?」「……え?」 突拍子もない質問が飛んできたせいで、私は唖然としながら考え込んだ。「だから……今は甲のことが好きで、甲と付き合ってるのかと聞いているんだ」「いいえ。違います!」 多少声が大きくなったのが自分でもわかった。 完全否定する私を横目でチラリと見て、ショウさんがおかしそうに笑う。「だろうな。甲にも同じ質問
last updateLast Updated : 2025-01-30
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