契約終了、霜村様に手放して欲しい のすべてのチャプター: チャプター 281 - チャプター 290

霜村冷司の暗紅色の瞳が微かに震え、何かを迷っているようだったが、数秒の躊躇の後、再び冷たい表情に戻った。彼は片手でワイングラスを握り、冷ややかで遠ざけるような瞳で新井杏奈を見つめ、淡々と言った。「彼女を探しに行くな。そして、彼女を邪魔しないでくれ……」彼は既に和泉夕子と桐生志越の関係を受け入れる決意をしたのだ。だからこそ、彼女を困らせないために手を引くことにしたのだ……新井杏奈は信じられない思いで固まったまま、彼に問いかけた。「霜村さん、あなた、本当に諦めるんですか？」彼女は今まで、こんなにも一人の女性を愛する男性を見たことがなかった。霜村冷司が初めてだった。彼は和泉夕子を愛し、命をも投げ出し、全てを捨てる覚悟がある男だった。しかし、そんな彼がまさか手を引くと選択するとは……霜村冷司は新井杏奈の言葉に答えず、ただ黙ってワインを一杯、また一杯と飲み続けた。飲み方が急すぎたのか、或いは何か他の理由があったのか、彼の端正で立体的な顔色が急に蒼白になった。彼は手にしていたワイングラスを置き、長い指でカウンターに手をつき、身をかがめてゴミ箱に血を吐き出した。真紅の血が彼の唇から滴り落ち、ゴミ箱と清潔な床を赤く染めていった……新井杏奈はその光景を目にし、驚きのあまり悲鳴をあげた。「霜村さん、胃からの出血です！誰か、彼を病院に連れて行ってください！」しかし、彼は全く意に介さず、唇の血を指で拭き取り、駆け寄ってきた使用人たちに冷たい声で命じた。「近寄るな」使用人たちは彼に言われるまま、足を止めた。彼はその場で冷たい視線を戻し、再びワイングラスを手に取り、飲み続けた。新井杏奈は彼の態度に青ざめ、すぐに携帯電話を取り出し、相川涼介に連絡を入れ、彼を病院に運ぶために駆けつけるよう頼んだ。相川涼介はすぐ近くに住んでおり、すぐに駆けつけたが、バーのカウンターに並んだ無数の空き瓶と床の血を見て、新井杏奈と同じように顔を曇らせた。彼はすぐに霜村冷司に近づき、彼を支えながら説得を試みた。「霜村さん、もう飲まないでください。一緒に病院へ行きましょう。まずは胃を治さないと……」しかし、霜村冷司は彼を突き放し、片手で激しい痛みに耐えながらも、一切彼らの協力を受け入れようとはしなかった。今夜は酒に溺れて意識を手放すことしか考えていないかの

和泉夕子は沈黙したまま彼の問いに答えなかった。彼女の淡い表情には感情が読み取れず、池内蓮司はその意図を測りかねていた。数秒の間を置いた後、彼は冷淡に言った。「答えないのなら、俺の側にいて春奈の身代わりを続けるんだな……」和泉夕子は拳を握りしめながらも、反論せずに質問を返した。「それで、池内さん、私たちは離婚できますか？」池内蓮司は彼女の言葉に反応し、笑みを浮かべた。「お前は、認めるんだな？ お前の性格は少しも姉には似ていない。もし姉なら、一度傷つけられたら二度と振り返らないだろう。なのに、お前はあの厄介者の男に少し甘い言葉を囁かれただけで、彼のもとに戻っていく」和泉夕子は黙って彼の言葉に従った。「そうですね。私は姉とは全然違います。あなたもそのことをよくわかっているはずです。それなのに、無理に私を彼女に見立てようとしています……」池内蓮司は一瞬動揺し、言葉に詰まったが、和泉夕子は続けた。「池内さん、実は私もわかっています。あなたが私を姉として扱うのは、この心臓のためだけではなく、彼女に対する罪悪感を和らげるためだと」池内蓮司はその言葉に冷笑を漏らした。「罪悪感？ 俺が彼女にそんなものを持つはずがない」「そうですか？」和泉夕子は穏やかに反問し、続けた。「姉はあなたから逃れるために、命を絶つことまで選びました。彼女にとってあなたの存在は、死ぬよりも辛いものであったのかもしれません。あなたが私を姉として見立てるのは、過去を償おうとしているからでしょう。でも池内さん、どんなにしても、彼女はもう戻っては来ません。そんな虚構の存在に自分を騙し続けるのはやめた方がいいのではないですか？」池内蓮司の表情が一気に暗くなり、周囲には陰鬱な雰囲気が漂い、彼の姿は不気味なほど恐ろしげだった。和泉夕子は彼の様子に恐怖を覚えつつも、自分の言葉が彼の心をえぐり、真実を突きつけたことを悟っていた。彼が怒り狂うかもしれないと怖れながらも、彼女は勇気を振り絞って、さらに自分の考えに導こうとした。「池内さん、姉が生前に願ったことは、私を生かすことであって、彼女の代わりをさせることではありません。もし本当に彼女に償いたいのであれば、私を自由にしてほしい……」池内蓮司は冷ややかな目で彼女を見つめ、「そんなに離婚したいのか？」と一言だけ言った。和泉夕子は彼が

翌朝、和泉夕子は身支度を整え、部屋から出てそのままダイニングへ向かった。池内蓮司はゆっくりとパンを切りながら、彼女が現れるとちらりと横目で見た。「君の車、取り戻しておいたよ」和泉夕子は一瞬驚き、以前にクラブの地下駐車場に忘れたままだったベンツのことを思い出した。「ありがとうございます、お義兄さん……」彼女は自然に「お義兄さん」と口にし、違和感もなくその言葉を使った。池内蓮司は表情を変えず、携帯で建築図面を見続けていた。彼が何も言わないので、和泉夕子もきちんと行儀よく、静かにフレンチスタイルの朝食を取った。軽く食事を済ませた後、彼に挨拶をして、車の鍵を持って外へ出た。彼女は志越に約束していたことを思い出し、池内蓮司との一件が片付いたら沙耶香を連れて会いに行くつもりだった。別荘を出て車のドアを開けようとしたとき、白い車が目の前に停まった。ドアが開き、白いロングドレスを着た新井杏奈が車から降りてきた。彼女は和泉夕子の前に歩み寄ると、美しく整った顔に穏やかな微笑みを浮かべ、「和泉さん、少しお時間をいただけますか？」と尋ねた。和泉夕子は新井杏奈が何のために来たのかを察し、微笑みながら断った。「すみません、新井先生、今は時間がないので、また別の日にお願いします」そう言って車のドアを開けようとしたが、新井杏奈が彼女を引き止めた。「和泉さん、霜村さんのことを拒絶しているのは分かっています。でも、私がここに来たのは、無理に彼のもとに戻ってほしいからではなく、どうしても知っておいてほしいことがあるんです。少しだけ、せめて一時間でいいので話を聞いてもらえませんか？」新井杏奈がほとんど懇願するような口調で頼むのを聞き、和泉夕子は断りきれず、軽く頷いた。新井杏奈は安堵の息をつき、彼女を車に誘って、少し有名なカフェへと連れて行った。そのカフェは落ち着いた雰囲気で、ゆったりとした欧米の音楽が耳に心地よく響き、気分をリラックスさせてくれる。二人はカウンター席に座り、コーヒーとスイーツを頼んでから、しばらくして新井杏奈が口を開いた。「和泉さん、十年前のことですが、A大学の前で、怪我をした少年がいたことを覚えていますか？」和泉夕子は、彼女がすぐに霜村冷司のことを持ち出すと思っていたが、十年前の話題が出てきて驚いた。

「望月景真が現れたことで、お二人の間にさらに亀裂が生まれました。あの別荘で彼と一緒に去ることを選んだあなたを見て、霜村さんは手を引こうと考えていました。でも、その後あなたが私のために九条千夏を敵に回したのです……」「彼は九条千夏がどれだけ危険な人物か知っていたので、あなたがその場で命を落とすのではないかと心配しました。私からの電話を受けて、すぐに施設に駆けつけたのです。その時、彼はあなたを連れて立ち去ることもできましたが、そうすればあなたの存在が明らかになることは避けられませんでした」「彼はあなたのためなら母親と対立する覚悟もしていましたが、あなたを彼のいる闇の世界に巻き込み、血と苦しみを共に背負わせることは望んでいませんでした。さらに、彼は当時、あなたが自分を愛していないと思っていたため、あなたを巻き込むのを避けたのです……」「ただ、彼はあの一撃があなたの命を奪うことになるとは思いもしなかったのです……」新井杏奈は一旦言葉を止め、再び口を開いたとき、声が少し掠れていた。「和泉さん、あなたが亡くなる間際、彼の電話が繋がらなかったのは、彼がNASAでの会議に出席していたからです」「それと、彼があなたの番号を保存していなかったのではなく、既にその番号を暗記していたからです……」「さらに、彼は藤原優子と一緒に寝たことは一度もありません。彼女が勝手に彼のヒューストンの自宅に入り込んでいただけです」「和泉さん、彼はあなたを一度も誰かの代わりにしていません。最初から最後まで愛していたのは、あなただけなのです！」「もういい！」和泉夕子は突然声を張り上げ、もともと澄んでいた瞳が今は紅く染まっていた。彼女は何かに強く刺激されたように全身を震わせ、テーブルの上の携帯を掴み、席を立ってそのまま外へと歩き出した。しかし新井杏奈が追いかけ、彼女の行く手を再び塞いだ。「和泉さん、もう一つだけ、どうしてもお伝えしなければならないことがあります」「実は望月景真だけでなく、霜村さんもあなたのために自殺を図ったのです……」「彼はあなたの墓前で手首を切り、自殺しようとしました。幸い誰かに発見されて命拾いしましたが、さもなければとっくにこの世を去っていたでしょう……」「さらにこの三年間、彼はあなたの命日に、自分があなたを叩いた右手の手首に深く

雨はますます激しくなり、降りしきる雨水が彼の全身を容赦なく濡らしていった。黒々とした髪、きっちりと仕立てられたスーツ、そのすべてが雨に打たれたまま。完璧な美貌の顔を伝って流れ落ちる雨粒は、彼の長い首筋に消えていく。彼はそれに気づくこともなく、振り返らずに車へと歩み続けた。新井杏奈は、彼が戻ってきたのを見てすぐに傘を差し、彼の前に立って雨を遮った。「霜村さん、申し訳ありません……」彼の許可も得ず、勝手に和泉さんに会いに行ったことを詫びた。すべてを打ち明ければ、和泉さんが彼のもとに戻ることを考えてくれるかもしれないと思っていたが、結果は違っていた。霜村冷司の前髪から滴る雨が、彼の濃密な睫毛にかかり、わずかに震えた。彼は冷ややかに澄んだ瞳を新井杏奈に向けて言った。「もう終わったんだ。これからは、彼女の前で私のことを話さないでくれ……」新井杏奈は目の前の霜村冷司を見つめ、その言葉を受け入れ難かった。「霜村さん、和泉さんは確かにあなたを愛していました」霜村冷司は薄く微笑みながら口元を歪めた。「いや、彼女が愛していたのは桐生志越だ……」彼の様子に新井杏奈は眉をひそめ、「霜村さん、和泉さんは確かにかつてあなたを深く愛していました。ただ、彼女があなたを試したとき、失望を感じ続け、それが今の結末に繋がったのです……」霜村冷司の冷たい瞳は少しずつ赤みを帯びていった。彼は俯き、ふと自分の右手を見つめた。彼女は先ほど、この手を見たとき泣いていた。彼女が初めて彼のために涙を流したのだ。これが「愛していた」ということなのか？だが、どうしてもそれを実感することができなかった。彼は遠くに見える小さな彼女の姿を見つめ、静かに呟いた。「杏奈、彼女は、桐生志越をもっと愛している……」きっと彼女はかつて自分を愛していたのだろう。だが、桐生志越に比べれば、彼女を傷つけた自分など何の価値もないのかもしれない……新井杏奈は傘を握りしめ、焦りを感じながら言った。「霜村さん、和泉さんが桐生志越に対して抱いているのは愛情よりも罪悪感が強いと感じています。もしあなたがもっと早く真実を話していたら、彼女は桐生志越を選ばなかったかもしれません。ですが、彼女はこれを知る前に、桐生志越に一生支えると約束してしまった。もしあなたがもう少し早く説明