ホーム / ロマンス / 桜華、戦場に舞う / チャプター 541 - チャプター 550

桜華、戦場に舞う のすべてのチャプター: チャプター 541 - チャプター 550

625 チャプター

第541話

影森玄武は彼らを目にした瞬間、心臓が喉元まで飛び上がりそうになった。どこからこれほどの人数が現れたのか。しかも、その中には明らかに武芸の心得が浅い者もいる。鉄鉤と縄を使わなければ城壁も登れないほどだ。一体何者なのか。深夜に衛所に忍び込む目的は何なのか。もし彼らが物音を立てでもしたら、今夜の救出計画は水の泡となってしまう。玄武たちは暗がりに身を潜めていたが、城壁に沿って素早く近づいてくる彼らに声をかけることもできない。仕方あるまい。衛兵の交代も終わりに近づいている。一刻も早く潜入を開始せねばならない。天方十一郎たちも前方に潜む三人の気配を察知した。しかし、闇に紛れて黒装束に身を包んだ彼らの姿は、顔こそ隠していないものの、はっきりとは見分けられなかった。敵か味方か判断がつかないまま、その三人は燕のように身軽く、彼らの目指す方向へと瞬く間に消えていった。天方たちは一瞬呆然とした。まさか、自分たちと同じ救出の目的なのだろうか。だが、それはありえないはずだ。本営との連絡は途絶えているとはいえ、元帥が交代して親房甲虎となったことは知っている。親房甲虎といえば、天方にとっては義理の兄だ。武将の出でありながら、長らく戦場から遠ざかり、机上の空論を得意とする男。実力が皆無というわけではないが。ただ、彼は傲慢で自負心が強く、得失を天秤にかけるタイプの男だ。判断を迫られれば、必ず面倒な手段は避けて通る。交渉か救出か、となれば間違いなく前者を選ぶ。両方を試みるような真似はしないだろう。一息ついた天方は、手で潜入の合図を送った。衛所は広大で、十二棟の建物が立ち並ぶ。地牢は第十一棟と第十二棟の間にある独立した小屋の地下に設けられていた。その場所が厳重な警備下にあることは間違いない。各所で警備の交代が行われている中、彼らは東へ西へと身を隠しながら、何とか第十一棟まで辿り着いた。第十一棟の壁に身を寄せながら、そっと地牢入口の警備の様子を窺おうとした矢先、先ほどの三人も同じように壁際に潜んでいるのが見えた。そのうちの一人が首を伸ばして様子を窺っている。地牢に近いため、周囲には明かりが灯されていた。ただ、彼らの潜む場所は、折よく傍らの大木の影が落ちかかり、ほどよい暗がりとなっていた。とはいえ、先ほどよりは明るく、互いの姿も幾分か見分けられるよ
last update最終更新日 : 2024-11-28
続きを読む

第542話

三つの黒い影が素早く飛び出していった。実のところ、好機など存在しなかった。小屋の周囲は灯りで照らされ、白昼のような明るさではないにせよ、物や人の動きは十分に見分けられた。とりわけ、百を超える目が見張る中、どれほど素早く、どれほど軽やかに動こうとも、最後には小屋の前に立って扉を破らねばならない。そして一旦地牢に入れば、まさに甕の中の鼈だ。玄武と皆無幹心は事前の偵察でその状況を把握していた。そのため、計画では皆無幹心と有田先生が見張りの注意を引き付け、玄武が地牢に潜入して囚人を救出。救出後は速やかに尾張拓磨に引き渡し、その後で玄武が戻って皆無幹心と有田先生の撤退を援護する手筈となっていた。今や天方十一郎たちが加わったことで、見張りを引き付ける戦力は更に増えた。影森玄武の姿が小屋の扉に向かって一直線に飛んだ。鉄製の扉は容易には破れないはずだが、玄武は黄金の太刀を手にしていた。二十八斤の重さを持ちながら、刃は鋼鉄さえも断ち切る鋭さを誇る名刀だ。真気を刀身に込めて数回斬りつけると、鉄扉の片側が裂け、蹴り開かれた。振り返ると、師匠が長刀を手に入口を守り、有田先生は既に多数の守備兵と戦いを交えていた。師匠のことは心配していない。ただ、有田先生の方が気がかりだった。武芸は特別優れているわけではないが、軽身功に長けている。敵を翻弄して疲れさせ、隙を突いて反撃するのが持ち味だが、それでも危険は否めない。最後にもう一度目をやると、天方十一郎たちも戦いに加わっていた。玄武はほっと胸を撫で下ろした。人数が増えれば、それだけ心強い。鉄扉を守り切ってくれれば、地牢からの救出も可能なはずだ。この衛所の地牢は、実質的には地下密室と地下道の複合施設だった。戦略的に建造されたこの場所は、両国の戦争が拡大し、羅刹国が劣勢に追い込まれた際の、主将の退避路や隠れ家として機能するよう設計されていた。しかし、玄武はこの地下道と密室の規模を見誤っていた。下層に降りると、地下道は複雑に入り組み、密室は優に百を超えていた。しかも一本道で続いている。衛所の規模を遥かに超えており、明らかに別の場所にまで掘り進められているようだった。それでも玄武は、血の匂いを手掛かりに、第三地下道の密室の一つで目的の人物を探し当てた。血の匂いに加え、この扉が他と異なっていたことも決
last update最終更新日 : 2024-11-28
続きを読む

第543話

その日の昼下がり、浪牙山での会談で、親房甲虎の態度は異常なほど強硬だった。会談の前、天方許夫と斉藤鹿之佑は、ビクターの前で影森玄武の名を出すなと強く諫めていた。しかし親房は、彼らが北冥親王の元部下だったことから、単に玄武を庇おうとしているだけだと考え、表向きは同意しながらも、胸の内では別の思惑を巡らせていた。これまでの会談では、七瀬四郎と引き換えに金や米、絹織物などを提示してきたが、ビクターはいずれも拒否し続け、交渉は膠着状態が続いていた。今回、親房の忍耐は限界に達していた。七瀬四郎のためにすでに多くの譲歩を重ねてきた。銀五千両から一万両へ、米三千石、絹織物二千反と破格の条件を提示しても合意に至らないのは、相手の強欲以外の何物でもない。薩摩城の譲渡など論外だった。北冥親王の手で奪還した城を手放せば、世間の指弾は免れまい。この日の会談でも、米の量を五千石まで増やしたが、ビクターの返答は変わらなかった。「誠意が見えんな」親房は怒りに任せて机を叩きつけた。「これほどの譲歩をしているというのに、法外な要求ばかり。全く道理が通じん。そうまでいうなら、もはや話し合う余地もない」通訳を介してその言葉を聞いたビクターは、冷笑を浮かべた。「本当に交渉を打ち切るおつもりか?貴様らの密偵を見捨てるというのか?」「誠意がないのはそちらだ」親房は言い放った。「話し合う意思がないのなら、もう構わん。好きにするがいい。これは北冥親王の意向だ」天方許夫と斉藤鹿之佑は青ざめた。親王様の名を出すなと約束したはずではなかったか。「北冥親王?」その名は通訳を必要としなかった。ビクターの全身が緊張に震えた。「北冥親王が来ているのか?どこにいる?なぜ直接交渉に来ない?」ビクターの通訳がその言葉を伝えると、親房が口を開きかけたところで、斉藤鹿之佑が横から口を挟んだ。「実はこういうことでして。我らが北冥親王様より命を受けておりますが、ご本人は新婚間もないため、今は都を離れることができないのです」斉藤鹿之佑は羅刹国の言葉で話したため、通訳は必要なかった。その言葉の意味が分からない親房は、不審そうに鹿之佑を見つめた。「北冥親王は来ているな?」ビクターは疑わしげな目で斉藤鹿之佑を見据えた。斉藤鹿之佑は微笑みを浮かべながら答えた。「もし親王様がここにいらっしゃれば、
last update最終更新日 : 2024-11-28
続きを読む

第544話

親房甲虎は二人の異様な様子に疑念を抱いた。交渉の采配は自分にある。もう話し合いは不要と宣言したのに、なぜ二人はビクターを必死に引き止めようとするのか。邪馬台奪還後に統帥を任された親房は、部下の将校たちからまだ十分な信頼を得られていない。この交渉でも采配を奪われれば、威厳に関わる。そんな事態は決して許せなかった。「お前たち二人、戻れ!」甲虎は厳しい声で命じた。そして通訳に言い付けた。「ビクターに伝えろ。誠意がないなら交渉は終わりだ。続けるというなら、私の提示した条件で話をしろ」通訳が伝え終わると、ビクターは親房甲虎の方を振り返った。その表情には苛立ちが見え、余裕があるようには見えなかった。しかし油断はできない。「城に戻る!」と命じた。斉藤鹿之佑と天方許夫は後を追い、必死でビクターを引き止めようとした。斉藤鹿之佑は深々と頭を下げながら懇願した。「ビクター元帥、親房元帥は七瀬四郎のことをご存じない。何の感情的な繋がりもないから、薩摩城と引き換えにする気がないのです。しかし我々にとって七瀬四郎は、共に戦った大切な戦友。どうか今しばらくお待ちください。親房元帥を説得してみます」「説得できるなら、とうの昔にしているはずだ」ビクターは冷ややかな目で睨みつけた。「それに、お前たちの影北冥親王も言っているではないか。薩摩城との交換に応じないのなら、話し合うことなどない」「いいえ、違います。わが親王様はすでに薩摩に向かっております。数日中には到着するはず。親王様は七瀬四郎を重んじておられます。親王様が来れば、必ず事態は好転するはずです」「北冥親王が来る、だと?」ビクターは斉藤鹿之佑の表情を逃すまいと見据えた。斉藤鹿之佑は日に焼けた顔に誠意を込めて頷いた。「はい、数日のうちには」一方、天方許夫は親房甲虎の元に戻り、謝罪の言葉を述べた。「元帥、どうかお静かに。確かに交渉打ち切りを決めましたが、あまりに性急な決定は後々批判を招きかねません。もう少し慎重に進めるべきではないでしょうか」親房甲虎は二人の様子に疑念を抱き、天方許夫を脇に呼んだ。「本当のことを話せ。北冥親王は今どこにいる?」天方許夫は真実を語れなかった。親王様の救出作戦は斉藤鹿之佑と自分にしか知らされておらず、親房元帥には伏せられていたのだ。恨みを買うわけにもいかず、天方許夫は慎重
last update最終更新日 : 2024-11-28
続きを読む

第545話

斉藤鹿之佑と天方許夫は心中穏やかではなかった。これほど誠意のない交渉で、どうしてビクターを引き止められようか。今は只々、ビクターが戻る前に親王様が七瀬四郎を救出できることを祈るばかりだ。さもなければ、その結末は想像するだけでも戦慄する。一方、影森玄武は既に清張を救出し、外に飛び出したものの、そこでは激しい戦闘が繰り広げられていた。天方十一郎たちの数人が既に負傷していた。師匠がいるおかげで、今のところ劣勢には陥っていないが、敵の数が刻一刻と増えている。一刻も早く撤退せねばならない。玄武が飛び出すや否や、十数人の敵が襲いかかってきた。彼は身を翻し、稲妻のように飛び上がると、背負っていた人物を尾張拓磨に受け渡した。尾張拓磨はすぐさまその人を背負い、夜陰に紛れて素早く立ち去った。玄武は軽身功を駆使して戻った。一人を救い出しても、また何人かが捕らわれては、この救出作戦は失敗に終わる。金錯刀を手に、有田先生の傍まで飛び込んだ玄武は、一刀横に薙ぎ払い、雷のような勢いで有田先生を包囲する兵士たちを押し返した。皆無幹心は主力の武芸者たちと対峙していた。確かにビクターは多くの武芸者を連れて行ったが、それでも十数名の猛者が残されていた。人質が救出されたことを知った皆無幹心は、もはや鉄門を守る必要もないと判断し、全力で戦い始めた。師弟の連携は無敵と言えるほどだったが、敵の数が余りに多すぎた。師弟なら容易に脱出できるが、他の者たちにとっては難しい。そのため、一人ずつ包囲を突破させ、順次撤退させていくしかなかった。もはや時間的な余裕はない。ビクターの帰還も、近隣の駐屯軍の到着も懸念された。そのため玄武は容赦なく攻撃を繰り出した。黄金の太刀に真気を込め、旋風のような剣術で一刀で数人を薙ぎ払った。真気の消耗は激しかったが、敵を素早く押し返し、仲間たちの脱出の機会を作るためには、それも止むを得なかった。皆無幹心は玄武の決意を見て取り、自身も全力を出し切った。師弟の息の合った連携で、彼らを一歩一歩城壁の平台まで後退させていく。城壁は高く、天方十一郎はなんとか飛び越えられたものの、他の者たちは鉄鉤と縄を使って登らねばならず、その間に乱れ飛ぶ刃に斬られる危険が高かった。師弟は視線を交わし、皆無幹心が一人で敵を引き付ける間、玄武が一人ずつ外へ運び出すことに
last update最終更新日 : 2024-11-28
続きを読む

第546話

広大な陵墓園林には、戦死した多くの兵士たちが眠っていた。入口には巨大な慰霊碑が建っている。奥へ進むと、管理人の住居が数軒あった。管理人たちは既に制圧され、その一室に縛り上げられ、口を塞がれて助けを呼ぶこともできない状態で閉じ込められていた。彼らは救出作戦の前に、ここに食料と水を用意していた。それは主に、七瀬四郎が拷問を受けているであろうことを考えてのことだった。羅刹国軍は大敗の怒りを彼にぶつけているはずで、重傷を負っているなら、すぐには山越えはできない。ただ、これほど大人数になるとは予想していなかったため、用意した量は十分ではなかった。到着すると、尾張拓磨は既に清張の手当てを始めていた。玄武は天方十一郎を下ろすと、休む間もなく薬と包帯を師匠と有田先生に渡した。「まずは手当てを」天方十一郎は背中の傷に加え、無理な逃走で体力を消耗し、陵墓園林に着いた時には既に意識を失っていた。影森玄武は薬丸を砕いて水で流し込み、背中の衣服を裂いて傷を確認した。肩甲骨から腰まで走る傷は、ほとんど骨が見えるほどの深さだった。事前に止血の秘孔を押さえていなければ、失血死は免れなかっただろう。だが、長時間の止血術も体に負担がかかる。その後遺症が深刻にならないことを祈るばかりだ。傷の手当てを終え、目の前の男たちを見渡した玄武は、天方十一郎以外の顔が誰一人として判別できなかった。残酷な拷問で意識を失ったままの清張でさえ、じっと見つめても誰なのか分からない。天方十一郎が体を支えながら、手を上げた。「天方十一郎、参上!」一瞬の静寂の後、全員が続いた。「斎藤芳辰、参上!」「禾津利継、参上!」「禾津衣良、参上!」「五島三郎、参上!」「五島五郎、参上!」「小早田秀水、参上!」「日比野綱吉、参上!」「村松陸夫、参上!」玄武は顔を背け、長く堪えていた涙が頬を伝った。しばらくして感情を抑え込み、「上原家軍を代表して、諸君の帰還を歓迎する」十一人が生きていた。十一人が生還した。この瞬間の感動を、誰が理解できようか。十人の漢たちは顔を覆い、指の隙間から涙が滲み出た。声を立てて泣くことも憚られる。上原家軍――彼らは決して忘れなかった。元帥が倒れても、自分たちが上原家軍であることを。今、やっと胸を張って上原家軍と名乗れ
last update最終更新日 : 2024-11-29
続きを読む

第547話

皆が同情の眼差しを向けながらも、同時に自分の妻もまた他家に嫁いでいるかもしれないという現実に思い至った。ここにいる中で、村松陸夫だけが婚約も結婚もしていなかった。十一郎の母方の甥で、初めて戦場に赴いた一兵卒に過ぎなかったのだ。五島三郎と五島五郎は茨城県の出身で、陸夫や小早田秀水と同じく一介の兵士だった。斎藤芳辰は斎藤家の六郎の兄だが、実は斎藤夫人の雅子が拾い育てた養子だった。学問の道に向かず武芸を好んだため、戦場で己を鍛えることを選び、数年の間に百人隊長にまで上り詰めていた捕虜となる前だった。出陣前、斎藤芳辰には婚約者がいた。だが、戦死の報が伝わった今となっては、おそらく他家に嫁いでいるだろう。斎藤家の当主は仁徳の人で、若い女性に一生涯の未婚未亡人を強いるようなことはしない。そんな形で彼女の人生を台無しにはできなかったのだ。斎藤芳辰も婚約者の幸せを願っていた。ただ、天方十一郎のことを思うと胸が痛んだ。この数年、天方はよく妻のことを語っていた。二人の思い出を繰り返し話していたのだ。清張も語っていた。臆病で打たれ弱い妻のことを。自分の戦死を知ったら、きっと長い間泣き続けるだろうと。清張は、妻が安告侯爵家に留まって待ち続けることなく、実家に戻ることを願っていた。彼らが戻れない可能性が高かったからだ。この数年は本当に危険と隣り合わせだった。いつ捕らえられてもおかしくない。一度捕まれば、生還の望みはない。彼らは忠義を選び、信義を裏切った。妻たちに申し訳が立たなかった。禾津利継と禾津衣良は治部卿の息子たちだった。禾津利継は嫡子、禾津衣良は庶子で、上には学問の道を選んだ三人の兄がいた。武の道を選んで戦場に赴いたのは、この二人だけだった。二人が「戦死」した当時、父はまだ治部次官だった。息子二人の軍功と父自身の勤勉さが相まって、父は治部卿の位まで上り詰めた。影森玄武と上原さくらの婚儀も、この禾津治部卿が取り仕切ったのだった。しばらくして、天方十一郎は顔を上げた。苦しげな笑みを浮かべ、目に溜まった涙を必死に堪えながら言った。「これでよかったのかもしれない。彼女が再婚したことで、この数年の孤独から解放された。あの人は賑やかなのが好きだった。空っぽの家で独り暮らすなんて、辛すぎたはず。結局、私が彼女を裏切ったようなものだ。良い縁が見つかっ
last update最終更新日 : 2024-11-29
続きを読む

第548話

暑さが日に日に増し、親王家では既に氷を使い始めていた。影森玄武からは未だに便りがない。上原さくらは不安を募らせていた。皆無師叔と共に向かったとはいえ、羅刹国の辺境の街に潜入して人質を救出するのは危険極まりない。特に羅刹国の兵士たちが辺境に集結している今は。紅竹からの探りによれば、将軍家の周囲には平服姿の禁衛が昼夜交代で警備に当たっているという。天皇も葉月琴音を狙う者の存在を察知したのだろう。平安京の情勢は不明だが、特別調査使の木幡刑部卿が都に戻り、報告があった。一家惨殺事件の真相は、夫人が魂喰蟲の毒に冒されて正気を失い、一家を殺害したというもの。首謀者は地元の小商人、和泉屋半兵衛だった。犯人は既に自白し、罪を認めている。動機は商売敵への嫉妬だった。被害者一家が偽善的な慈善活動で評判を得て商売を奪っていったことに恨みを抱き、妻が蟲毒を知っていたことから、手島医師を買収して枝子に魂喰蟲を仕込ませ、発狂させて一家を殺させたのだという。特別調査使には朝廷の裁可を待たずに死刑を執行できる権限があるため、木幡次門は犯人の自白を得るや、甲斐役所に和泉屋半兵衛夫妻の斬首を命じ、被害者の魂を慰めた。そのため、この案件は刑部での再審理は不要となった。さくらがこの事を知ったのは、青雀が戻って来て告げたからだった。青雀の話では、犯人は裁判所で涙を流しながら、一時の過ちを悔い、深く後悔していると述べたという。木幡刑部卿はその悔悟の情を汲み、子女への連座は避け、夫婦二人の処刑だけで事件を結んだとのことだった。さくらは何か腑に落ちないものを感じていた。商売の争いは日常茶飯事で、一時の感情で人を殺めることも珍しくない。しかしこれは明らかに周到な計画があった。魂喰蟲の毒すら知る者は少ない。和泉屋半兵衛の妻が知っていたとしても、手島医師を買収して毒を盛り、その後の魂喰蟲を操って殺人に至るまで、一連の手順に一点の狂いもない。さくらは小商人を侮るつもりはなかったが、これは明らかに計画的な一家惨殺だ。枝子が有罪となれば、彼女も必ず死を免れない。一時の激情による殺人なら疑問を抱くこともなかったが、この事件はまだ多くの疑点が残されている。「青雀、あなたはどう思う?」さくらが尋ねた。総髪に結った青雀は、さっぱりとした装いながら、落ち着いた様子で答えた。「事件
last update最終更新日 : 2024-11-29
続きを読む

第549話

さくらが疑問を抱いたことで、紫乃も確かめてみることにした。紅竹に頼んで、淡嶋親王の動向を見張る者を配置してもらった。ただし、くれぐれも跡を残さないよう、誰にも気付かれないよう念を押した。先日の将軍家襲撃事件でさくらが救援に出たことで、既に宮中で説明を求められている。天皇が北冥親王家に疑いの目を向けている今、何事も慎重にならざるを得なかった。突如の豪雨が降り出した日は、北條涼子が平陽侯爵家に入る日と重なった。豪雨の中、小さな駕籠が平陽侯爵家の裏門をくぐった。涼子には見栄えのする嫁入り道具もなく、駕籠に乗る前、北條守に怨めしい眼差しを向けていた。屋敷に入ると、儀姫に対面し、妾としての礼茶を捧げたものの、平陽侯爵の顔すら拝むことはできなかった。平陽侯爵の老夫人は彼女に会おうともせず、ただ品の良くない玉の腕輪一対を賜り物として与え、秋日館に住まわせることを命じただけだった。連れてきた二人の付き添い女も、屋敷に入って半刻も経たないうちに将軍家へ返され、儀姫が新たに何人かの女を付けた。世話をするというより、その態度には敬意のかけらもなかった。妾として迎え入れられたにもかかわらず、妾としての待遇さえ与えられない。彼女は深く傷ついたが、ここが平陽侯爵家であることを思い知り、将軍家でのように自由気ままに怒りを爆発させることはできなかった。その夜、涼子は入浴を済ませ、艶やかに着飾った。初夜だけは、どんなことがあっても侯爵が訪れるはずだと思っていた。そんな最低限の体面は保たれるはずだと。しかし、子の刻を過ぎても平陽侯爵の姿はなく、髪飾りを外した彼女は布団に潜り込み、堪えていた涙をこぼした。翌日、問い合わせてみると、侯爵は昨夜、小嵐夫人の部屋に宿泊していたという。小嵐夫人は平陽侯爵唯一の側室で、子供もおり、今は身重でもあった。侯爵の世話など適わない状態なのに、侯爵秋日館を訪れるよりも、小嵐夫人の傍にいることを選んだのだ。北條涼子が嫁いだ後の将軍家は、まるで嘘のように静かになった。北條守は屋敷の外にいる禁衛の姿を見つけ、その意味を理解した。葉月琴音を密かに監視し、同時に刺客の再来を警戒しているのだ。胸の内に、嵐の前の重圧感が募っていく。事態の深刻さを理解していた。もし追及が始まれば、将軍家は家財没収、果ては斬首も免れまい。これは単に
last update最終更新日 : 2024-11-29
続きを読む

第550話

紫乃と棒太郎は、その言葉の意味を理解した。平安京の情勢は必ず大きく変わる。皇太子が即位すれば、真っ先に鹿背田城の事件を徹底的に調査するはず。復讐のため、政権の安定のため、そして新たな国境線を定めるため。北條守に親房夕美への情があるなら、彼女を実家に帰すべきだ。しかし、自分の家族を守るために親房夕美を将軍家に留め置き、親房甲虎に将軍家の後ろ盾になることを強いるなら、それは葉月琴音と同じ、極めて利己的な人間だということになる。「賭けましょうよ」紫乃が興味深そうに言った。「北條守が親房夕美に離縁状を出すかどうか。私は出さないと思うわ」棒太郎は北條守を軽蔑していたが、戦場での勇猛さを思い出し、わずかながら期待を寄せた。「出すんじゃないか?少なくとも戦場では責任感のある男だったからな」二人はさくらに視線を向けた。「あなたはどっち?」さくらは首を傾げた。「実は、私も北條守のことはよく分かっていないの」紫乃は千両の藩札を取り出した。「それでも選んでよ。千両で賭けましょう」「そんな大金は無理だよ!」棒太郎は慌てて首を振った。勝てばまだいいが、千両負けて梅月山に戻ったら、師匠に殺されること間違いないから。「そんな大金じゃなくて、遊び程度に十両にしましょう」さくらは笑いながら提案した。「じゃあ、どっち?」紫乃は藩札を慌てて仕舞い込んだ。財布は見せるものではない。先ほどの棒太郎の目つきは、まるで奪い取りそうだったから。さくらは考え込んだ。「きっと......良心の呵責を和らげるため、形だけ親房夕美に相談するでしょう。でも本音は言わない。もし親房夕美が離縁を拒めば、それを都合よく受け入れるはず」「あら、意外と分かってるじゃない」紫乃は笑った。「でも、その展開は確認のしようがないわね。将軍家は禁衛に監視されてるから、盗み聞きもできないでしょう」さくらは手を広げた。「だから、結論としては『離縁状は出さない』を選ぶわ」「私たち二人で棒太郎と賭けることになるわね。可哀想に、負けたら二十両も払うことになるわ」紫乃が笑った。棒太郎は溜息をついた。「北條守よ、どうか人として正しい選択をして、俺の銀子を助けてくれ」六月二十一日、影森玄武は七瀬四郎たちを連れて陵墓園林を離れた。三日の間に、ビクターは街中を捜索し尽くし、まもなく陵墓園林に
last update最終更新日 : 2024-11-30
続きを読む
前へ
1
...
5354555657
...
63
DMCA.com Protection Status