さくらが疑問を抱いたことで、紫乃も確かめてみることにした。紅竹に頼んで、淡嶋親王の動向を見張る者を配置してもらった。ただし、くれぐれも跡を残さないよう、誰にも気付かれないよう念を押した。先日の将軍家襲撃事件でさくらが救援に出たことで、既に宮中で説明を求められている。天皇が北冥親王家に疑いの目を向けている今、何事も慎重にならざるを得なかった。突如の豪雨が降り出した日は、北條涼子が平陽侯爵家に入る日と重なった。豪雨の中、小さな駕籠が平陽侯爵家の裏門をくぐった。涼子には見栄えのする嫁入り道具もなく、駕籠に乗る前、北條守に怨めしい眼差しを向けていた。屋敷に入ると、儀姫に対面し、妾としての礼茶を捧げたものの、平陽侯爵の顔すら拝むことはできなかった。平陽侯爵の老夫人は彼女に会おうともせず、ただ品の良くない玉の腕輪一対を賜り物として与え、秋日館に住まわせることを命じただけだった。連れてきた二人の付き添い女も、屋敷に入って半刻も経たないうちに将軍家へ返され、儀姫が新たに何人かの女を付けた。世話をするというより、その態度には敬意のかけらもなかった。妾として迎え入れられたにもかかわらず、妾としての待遇さえ与えられない。彼女は深く傷ついたが、ここが平陽侯爵家であることを思い知り、将軍家でのように自由気ままに怒りを爆発させることはできなかった。その夜、涼子は入浴を済ませ、艶やかに着飾った。初夜だけは、どんなことがあっても侯爵が訪れるはずだと思っていた。そんな最低限の体面は保たれるはずだと。しかし、子の刻を過ぎても平陽侯爵の姿はなく、髪飾りを外した彼女は布団に潜り込み、堪えていた涙をこぼした。翌日、問い合わせてみると、侯爵は昨夜、小嵐夫人の部屋に宿泊していたという。小嵐夫人は平陽侯爵唯一の側室で、子供もおり、今は身重でもあった。侯爵の世話など適わない状態なのに、侯爵秋日館を訪れるよりも、小嵐夫人の傍にいることを選んだのだ。北條涼子が嫁いだ後の将軍家は、まるで嘘のように静かになった。北條守は屋敷の外にいる禁衛の姿を見つけ、その意味を理解した。葉月琴音を密かに監視し、同時に刺客の再来を警戒しているのだ。胸の内に、嵐の前の重圧感が募っていく。事態の深刻さを理解していた。もし追及が始まれば、将軍家は家財没収、果ては斬首も免れまい。これは単に
紫乃と棒太郎は、その言葉の意味を理解した。平安京の情勢は必ず大きく変わる。皇太子が即位すれば、真っ先に鹿背田城の事件を徹底的に調査するはず。復讐のため、政権の安定のため、そして新たな国境線を定めるため。北條守に親房夕美への情があるなら、彼女を実家に帰すべきだ。しかし、自分の家族を守るために親房夕美を将軍家に留め置き、親房甲虎に将軍家の後ろ盾になることを強いるなら、それは葉月琴音と同じ、極めて利己的な人間だということになる。「賭けましょうよ」紫乃が興味深そうに言った。「北條守が親房夕美に離縁状を出すかどうか。私は出さないと思うわ」棒太郎は北條守を軽蔑していたが、戦場での勇猛さを思い出し、わずかながら期待を寄せた。「出すんじゃないか?少なくとも戦場では責任感のある男だったからな」二人はさくらに視線を向けた。「あなたはどっち?」さくらは首を傾げた。「実は、私も北條守のことはよく分かっていないの」紫乃は千両の藩札を取り出した。「それでも選んでよ。千両で賭けましょう」「そんな大金は無理だよ!」棒太郎は慌てて首を振った。勝てばまだいいが、千両負けて梅月山に戻ったら、師匠に殺されること間違いないから。「そんな大金じゃなくて、遊び程度に十両にしましょう」さくらは笑いながら提案した。「じゃあ、どっち?」紫乃は藩札を慌てて仕舞い込んだ。財布は見せるものではない。先ほどの棒太郎の目つきは、まるで奪い取りそうだったから。さくらは考え込んだ。「きっと......良心の呵責を和らげるため、形だけ親房夕美に相談するでしょう。でも本音は言わない。もし親房夕美が離縁を拒めば、それを都合よく受け入れるはず」「あら、意外と分かってるじゃない」紫乃は笑った。「でも、その展開は確認のしようがないわね。将軍家は禁衛に監視されてるから、盗み聞きもできないでしょう」さくらは手を広げた。「だから、結論としては『離縁状は出さない』を選ぶわ」「私たち二人で棒太郎と賭けることになるわね。可哀想に、負けたら二十両も払うことになるわ」紫乃が笑った。棒太郎は溜息をついた。「北條守よ、どうか人として正しい選択をして、俺の銀子を助けてくれ」六月二十一日、影森玄武は七瀬四郎たちを連れて陵墓園林を離れた。三日の間に、ビクターは街中を捜索し尽くし、まもなく陵墓園林に
六月十九日、親房甲虎は天方許夫と斉藤鹿之佑に三千の兵を率いさせ、薩摩城外の山々へと向かわせた。影森玄武と七瀬四郎を迎え入れるためである。救出作戦がどうなるかは知る由もないが、迎えの兵は必ず送らねばならない。元帥としての座を守るため、万全を期すしかなかった。しかし、もし北冥親王が救出に失敗し、羅刹国の手に落ちたとしても、それは彼の運命だろう。羅刹国の辺境の城まで兵を送り込むわけにはいかないのだ。斉藤鹿之佑と天方許夫は軍勢を率いて、薩摩城外の最も高い山に到着すると、千の兵をその場で待機させ。その後、二人は残りの二千の兵を率いて更に進軍を続け、一刻も早く親王様の一行との合流を果たそうとした。だが、次の山を越えたところで足を止めた。その先は草原の部族の領域だ。少人数なら潜入も可能だが、二千の兵を率いて進むことは、即ち宣戦布告に等しい。実のところ、親王様が草原に到達さえすれば、羅刹国も軽々しく追って来れまい。せいぜい腕の立つ追っ手を少数送り込むのが関の山だ。しかも親王様が無傷であれば、そのくらいの追っ手なら何とかなるはずだった。二日が過ぎ、六月二十一日を迎えた。天方許夫は待ち切れない様子で、斉藤鹿之佑に向かって言った。「このまま手をこまねいているわけにもいくまい。俺が十数名を率いて草原に下り、向こうの山を越えて親王様を探してみよう。七瀬四郎の救出の際に、お怪我をされているかもしれんからな」「焦るな」斉藤鹿之佑は諭すように答えた。「十数名では何の役にも立たん。この広大な山々には密林が広がり、まともな道さえない。あの方々と出会えるかどうかは、運任せというものだ」「だが、ここで待機しているだけでは何の助けにもならん」天方許夫は苛立たしげに続けた。「元帥があれほどの兵を派遣したところで、何の意味もありはしない。一行が草原を渡れれば、それは既に安全圏だということだ。我々は三千であろうと千であろうと、草原を越えて山に入ることなどできはしない」斉藤鹿之佑は声を潜めて答えた。「これは陛下への見せ場よ。救出に全力を尽くしているという形を作りたいだけさ。我らの三千が役に立とうが立つまいが、元帥殿の眼中にはないのだ」二人は深いため息をつく。かつて最高の元帥に仕えた身として、親房の采配には首を傾げざるを得なかった。だが、今や天皇の信任を得ているのは
彼ら二人は最終的に共に向かうことを決めた。どちらにせよ、兵はここに留まっており、国境を侵すことも、草原の部族に踏み込むこともない。彼ら百人が分隊で向かうだけだ。果たして、分隊で向かうことで草原の斥候の注意を引かず、彼らは烏横山に登り、山頂で待つことにした。烏横山は広大だが、彼らは高地を占めており、どこに動きがあっても見渡せる。盲目に降りるわけにはいかない。烏横山は羅刹国と草原が半分ずつ占めており、下手をすれば衝突が起こる恐れがある。理性的に判断すればそうだが、彼らは一部の兵を残し、状況が変わったらすぐに知らせるように指示し、十数人を連れてさらに下りていくことにした。影森玄武たちは既に烏横山の麓に到着しており、この山を越えれば草原だ。草原部族の注意を引かない程度の十数人で草原に入り、ビクターは追ってこないだろう。しかし、ずっと逃げ続けたため、影森玄武はまだ大丈夫だが、他の者たちは疲れ切って、両足が震えるほどだった。さらに、数人は救出の際に負傷し、天方十一郎も最初は歩けたものの、次第に抱えられ、最後は背負われて移動した。影森玄武は負傷していないが、衛所で包囲された兵を追い払う際に真気を消耗し、まだ回復していない。師匠の皆無幹心を除けば、皆疲れ切っていた。したがって、彼らは烏横山に登る前に少し休憩する必要があった。しかし、座って休憩し始めて香を一つ焚く時間も経たないうちに、皆無幹心が猛然と立ち上がり、目を閉じてしばらくの間耳を澄ませた。そして目を開けて言った。「彼らが追ってきた。こんなに早く......ビクターの武芸の達人たちだ。すぐに山を登らねばならん」と。影森玄武は薬瓶を取り出し、数粒を取って負傷者たちに渡した。今最も心配なのは清張烈央だった。逃げ続ける道中、彼の息は弱々しく、傷口は赤く腫れ、膿を持ち始めていた。一部は回復の兆しを見せているものの、それも丹治先生の薬のお陰であった。玄武は烈央の頬を軽く叩いた。「烈央、また出発するぞ。私が背負う。しっかり持ちこたえるんだ。都で妻が待っているだろう。彼女を待たせたままにはできんぞ」妻の話を聞いて、烈央は僅かに目を開け、虚ろな目で玄武を見つめた。「私が......足手まとい......」玄武は、烈央が口を開けた隙に砕いた薬を押し込んだ。「私が背負う。さあ、行くぞ」
もう待てない。追手が迫っている。皆無幹心と影森玄武は視線を交わし、最も原始的だが唯一の方法を選んだ――背負って飛ぶのだ。しかし、尾張拓磨と有田先生以外の十一人を背負わねばならない。少なくとも五、六往復は必要になる。極度の疲労と真気の消耗がある中で......まさに命懸けの仕事だった。「師匠、申し訳ありません」玄武は心苦しそうな目で見つめた。皆無幹心は溜息をつき、「わしには弟子がお前一人。それなのに梅月山一の厄介者を娶るとは。わしがお前を心配せずに、誰が心配するというのだ?」玄武は幸せだと言いかけたが、師匠の憐れむような眼差しに、言葉を飲み込んだ。上ってから話そう。師匠の反骨精神を知っている。自分の意見に同意しないと、必ず反抗してくるのだから。もう話している場合ではない。影森玄武は最初に斎藤芳辰を背負い、皆無幹心は十一郎を背負った。残りの者たちは清張烈央の世話をしながら、二人の戻りを待った。影森玄武は斎藤芳辰に言った。「しっかりと掴まれ。呼吸以外の動きは一切するな」斎藤芳辰は小さく頷き、適度な力で玄武の首に腕を回した。次の瞬間、体が宙に浮き、断崖へと飛び出した。玄武は小さな木を確実に掴んだ。しかし、何度も往復せねばならぬため、この木に全体重をかけるわけにはいかない。膝で岩壁を押さえ、足場を探る。僅かな突起を見つけ、そこに足を寄せた。その力を借りて更に上へ。今度は左手で木を掴まねばならない。玄武が手を伸ばした瞬間、下で見守る者たちは息を呑んだ。心臓が喉まで飛び出しそうになる。下から見上げる角度では、木との距離が正確に掴めない。届かないのではないかという不安が全員を包む。だが、玄武の手は確実に木を捉えていた。皆の心臓が、ようやく元の位置に戻っていく。皆無幹心は別のルートを選んだ。といっても、単に違う木を使うだけのことだ。これらの木がどれほどの根の深さで生えているのか誰も知らない。何度もの負荷に耐えられるはずもない。皆無幹心の選んだ経路はより危険だった。より急峻で、一歩間違えれば転落は避けられない。五島三郎は胸を撫で下ろしながら、絶え間なく流れる額の汗を拭った。「ありゃまあ、危なかった。まったく危なかった」他の者たちは息を殺したまま、喉から一言も漏らすまいとしていた。五島三郎の言葉に、さらに緊張が高まり
皆が恐怖に口を押さえ、この一部始終を見つめていた。このまま転落するのではないかという恐怖が全員を包み込む。危機一髪のその時、皆無幹心と尾張拓磨が同時に飛びかかった。それぞれが玄武の片手を掴み、もう片方の手で小さな木を握る。しかし二人の距離が離れているため、玄武を支えることはできても、上に引き上げることはできない。さらに、四人分の体重が二本の小さな木にかかっている。極めて危険な状態だ。その瞬間、十一郎が素早く鉄鉤付きの縄を降ろした。その長さはちょうど玄武の右手に届くほどだった。尾張拓磨と玄武の視線が交わり、互いに頷き合った次の瞬間、尾張が手を放す。玄武は即座に右手で縄を掴んだ。続いて皆無幹心も手を放し、玄武は左手でも縄を握った。両手で縄を握りしめる――これは二人分の重さを上で引き上げるしかないということを意味していた。縄は上の木に巻き付けるほどの長さはなく、天方十一郎は鉄鉤の先も降ろさざるを得なかった。縄が風に揺られないよう、確実に王の手元に届けるためには、それしか方法がなかったのだ。木に巻き付けられない以上、人力だけが頼りだ。しかし、無傷の者たちですら疲労困憊。歯を食いしばり、血が滲むほど力を込めても、わずか一丈も引き上げることができない。有田先生は無事に上がったものの、尾張拓磨と皆無幹心は安心して離れることができない。万が一の縄の破断に備え、すぐに対応できる位置を保っている。しかし、ここで完全な行き詰まりとなった。上の者たちには引き上げる力が残っておらず、下の二人には足場がない。そして、昏睡している清張烈央の頭は後ろに反れたまま――このままでは彼の傷が更に悪化してしまう。天方十一郎は必死に周囲を見回した。蔓を見つけられれば、それを繋ぎ合わせて木に巻きつけ、力を借りることができるはずだ。だが、ここにある蔓は細すぎる。手で引っ張れば千切れてしまうような代物で、まったく役に立たない。危機的状況の中、背中の傷も顧みず、小早田秀水の腰にしがみついた。彼らが引きずり落とされるのを必死で防ぐ。しかし、これは一時しのぎに過ぎない。このままでは全員が力尽き、二人の転落を見守ることしかできなくなる。その時、真上の密林から一団が姿を現した。木々や雑草に遮られて、下にいる黒装束の者たちの姿はぼんやりとしか見えない。誰なのかも判然とし
斉藤鹿之佑は彼を突き放すように離し、じっくりと見つめた。昔の面影はないが、確かに斎藤芳辰だ。「年を取ったな」鹿之佑は笑いと涙を浮かべながら言った。「醜くなったじゃないか、どうしてこんなに醜くなった?」「再会は後だ。他の者たちを見てやってくれ」玄武は息も絶え絶えに言った。両手は震えが止まらず、背から降ろした清張烈央は地面に寝かされたまま、何度か呼びかけても目覚めない。斉藤鹿之佑と天方許夫は十一人の生存者たちを見つめ、涙があふれ出た。これほど多くの者が生き延びていたことは、まさに天佑であった。だが今は清張烈央の容態が危急を要する。その場に医術を心得た者はおらず、丹薬を砕いて飲ませることしかできない。皆無幹心にも手の施しようがなかった。経絡を通す術には長けているが、清張烈央の症状は明らかに内傷ではない。傷口が化膿し、高熱を引き起こしているのだ。極めて危険な状態である。「上がれ!」下方からビクターの咆哮が響いた。追っ手を率いて到着したものの、この断崖を前に、何人が登れるかも定かではない。「ここは羅刹国の領土だ!無断で侵入した者には死を!」「行くぞ」と玄武は苦しげに立ち上がり、下で怒り狂うビクターを一瞥しながら、ゆっくりと命令を下した。「急いで離れるんだ」奴らを上がらせてやればいい。数人も登れまい。あの小さな木々は、もう根こそぎになりそうなのだから。「北冥親王!」ビクターが怒号を上げた。「大和国の狡猾者め!まともな交渉もせず、このような卑怯な手を!」玄武は羅刹国の言葉で返した。「邪馬台を侵略した時、お前たちは我々と交渉などしなかったはずだ」彼は手を振り上げた。「さらばだ、ビクター」背筋を伸ばし、一歩ずつ前進する。数歩も進めば、下の者たちの視界から消えるだろう。玄武は肩を落とした。疲労が限界に達している。両腕はもはや自分のものとは思えず、歩く時の自然な振りさえままならない。斉藤鹿之佑は清張烈央を、天方許夫は十一郎を背負っていた。どんなに制止しても許夫は譲らなかった。十一郎の背中の傷は再び開いていたに違いない。彼らが到着するまでの間、十一郎は文字通り命を賭けていたのだ。山を登り、下り、小隊に分かれて草原を横切る。強い風が吹き抜け、蒸し暑さを払いのけ、些か気力を取り戻させた。草原を過ぎ、再び山道を登ると、兵士たちの歓声
十一郎は親房甲虎の背を見つめていた。本当に気付かなかったのか、それとも名前すら耳に入らなかったのか。あるいは、意図的に知らぬ振りをしたのか。もういい。有田先生の言う通りだ。すべてを手放すことは、誰にとっても良いことなのだから。今は清張のことが最優先だ。軍医は診察を終え、険しい表情で玄武から清張烈央に与えた薬を確認すると、「この薬のお陰で、ここまで持ちこたえられたのでしょう」と告げた。軍には良質な傷薬があったが、治療を施した後も軍医は首を振り、玄武を外に呼び出して話をした。「玄......親王様、私めは全力を尽くしますが、せいぜい七、八日が限度でございます。断言はできませんが......体中に無傷の箇所がないほど、あちこちが発赤し、化膿しております。親王様の良薬がなければ、とうに息絶えていたことでしょう」「薬なら......まだある。これを続けて与えれば、一月は持たぬか?」軍医は首を振った。「無理でございます。この薬は心脈を守るもの。ここまで持ちこたえられただけでも上出来。一月など......」玄武は眉を寄せた。「では、お前が都まで同行せよ。親房元帥には私から話をつける」軍医も涙を拭いながら答えた。「承知いたしました。ああ、なんと気の毒な......しかし、敬服いたします。あの意志の強さ。きっと、家族のことを案じて、どうしても最期を迎えたくないのでしょう。普通の人なら、拷問の段階で既に」その言葉を聞いた玄武は、胸を何かで刺されたような痛みを覚えた。この数年、邪馬台の戦場に身を置き、特に激戦が続いた当初は、自身も幾度となく死線を彷徨った。だが、その時は大業半ばであり、上原夫人からさくらとの縁を約束されていた。どうしても生き延びて、長年思い続けた彼女を娶らねばならなかった。そんな信念が、幾多の苦難を乗り越える支えとなった。軍医に最善を尽くすよう頼んだ後、玄武は小早田秀水たちのもとへ向かい、尋ねた。「この数年、清張が最も口にした人物は誰だ?誰のことを一番案じていた?」小早田秀水は答えた。「もちろん両親のことですが、妻のことも頻繁に話していました。妻の話をする時はいつも笑顔で......二人で作った人生の目標リストのことをよく語っていました。男の約束は重い、と。今は邪馬台のために、その約束を守れなくなるかもしれない。国には忠義を
北條守は慌ただしく将軍家に戻った。周防からの使者の報せを聞いた時から、胸が締め付けられる思いだった。葉月琴音の性格をあまりにも知り尽くしている。矛盾した性格の持ち主で、強がりながらも死を恐れ、行き詰まっても必ず抗おうとする。今回も、おとなしく投降するとは思えなかった。そして今や、二人の間に情は残っていない。生き延びるため、琴音が何をするか、予測もつかない。この時期、彼女は都を離れたがっていた。しかし、安寧館を出れば暗殺者が待ち構えているのではと恐れていた。あの暗殺未遂は、彼女を本当に震え上がらせたのだ。おそらく、事が起きた時の対処法を何度も考えていたのだろう。だからこそ、平安京の使者が来ることを告げなかった。彼女が準備を整えることを警戒してのことだ。吉祥居に着くと、琴音が自らの喉元に剣を当てているのが目に入った。胸が沈んだ。「葉月琴音、剣を下ろせ!」琴音の目が凍てついたように冷たく光り、その視線が剣のように彼を射抜いた。歯を噛みしめるように言う。「北條守!」親房虎鉄も二名の衛士を連れて到着し、すぐさま北條守を制止した。「近づき過ぎないように」北條守は複雑な眼差しで虎鉄を見た。何を懸念しているのか、分かっていた。「葉月、周防殿と共に刑部へ行くんだ」虎鉄を挟んで北條守は諭すように言った。「余計なことはするな。調べるべきことは協力して明らかにすれば良い。刑部も無理な取り調べはしない」「馬鹿な!」琴音の目が炎のように燃えた。「無理な取り調べをしないなら、なぜ将軍家に置いておけないの?北條守、一つだけ聞かせて。今のあなたには、私への情など微塵も残っていないということ?」北條守は居心地の悪そうな表情を浮かべた。「それは俺たち二人の問題だ。まずは刑部の職務に従ってくれ」琴音は冷笑を浮かべた。「従う?いいでしょう。こちらへ来て、あなたの手で私を捕らえて。御前侍衛副将なんでしょう?」北條守は動かない。琴音の目の中の怒りが徐々に消え、深い悲しみだけが残った。声も虚ろだ。「北條守、私たち一緒に関ヶ原の戦場を駆けて、生死を共にしたわね。鹿背田城に向かう時、あなたが私に何を言ったか、覚えてる?」その言葉に、守の瞳孔が収縮した。思わず頷く。「覚えている」「覚えていてくれて良かった」琴音の目に涙が光った。「刑部についていくわ。将
刑部大輔が自ら将軍邸に赴き、葉月琴音の逃亡を防ぐため、まず屋敷を包囲した。この事態に親房夕美は震え上がり、文月館に身を隠して外に出られなかった。葉月の逮捕が目的と知って、やっと姿を見せた。騒ぎが起きた時点で、琴音は察していた。安寧館の廊下に立ち、剣を構える。冷たい風が彼女の半ば毀れた顔を撫でていく。死のような静寂が漂っていた。安寧館に踏み込んできた役人たちを見つめ、剣を優雅に舞わせ、先頭の役人に向けた。「葉月琴音、おとなしく投降しろ!」安寧館の外から、刑部大輔の周防光長が怒鳴った。「北條守は?」琴音は冷ややかに問うた。北條守の復職は知っていた。天皇の側近として、すべてを知っていたはずなのに、一度も戻って来て教えてはくれなかった。周防は彼女の問いには答えず、厳しい声で言った。「抵抗しない方がいい。しても無駄だ。将軍邸は完全に包囲されている」しかし琴音は自らの喉元に剣を当て、不気味な冷笑を浮かべた。「北條守を呼べ!」夕美は彼女が投降を拒むのを見て、将軍家に累が及ぶことを懸念し、慌てて叫んだ。「葉月、馬鹿なことはやめて!」琴音は夕美など眼中にない様子で、相変わらず冷たい声で周防に言い放った。「北條守を呼べと言っている。聞きたいことがある。どのみち死ぬのなら、早く死んだ方が苦しまずに済む」周防は眉をひそめた。今、葉月琴音を死なせるわけにはいかない。平安京使者の怒りを受け止めさせねばならない。死ぬにしても、使者の目の前でなければ。「葉月、お前は死んで楽になれるかもしれんが、両親や親族を巻き込むことになるぞ。軽挙妄動は慎むがいい」「両親?親族?」琴音は嘲笑的に冷笑した。「私のことなど、彼らは一度でも気にかけてくれましたか?世間の噂を気にして、さっさと都を離れた。私という娘の存在すら認めない彼らの生死など、どうでもいい」「それでも将軍家に累を及ぼすことはできないでしょう!」夕美は怒りを露わにした。琴音は夕美を、まるで泥を見るような目で睨んだ。「将軍家なんて、私の道連れになればいい」夕美は怒りで指先を震わせながらも、安寧館に踏み込む勇気はなかった。「なんて悪意に満ちた......」琴音は横たえた剣が既に喉元の皮膚を破り、血が滲んでいるのもかまわず、冷たく声を上げた。「くだらない。北條守を連れて来い」周防は眉
清和天皇と朝廷の面々に残された選択肢は二つ。一つは、虐殺の事実を完全に否認すること。もう一つは、これまで事態を知らなかったと装い、国書受領後に平安京の調査に協力し、然るべき者を処罰する。後の祭りとはいえ、国の名誉を挽回する機会にはなる。国書には境界線の問題には触れられていなかった。この件は熟慮の上での行動を要する。天皇は大臣たちと三日間に渡って協議を重ねた。第一の選択肢は論外だった。平安京は正式な国書で告発してきた以上、十分な証拠を握っているはずだ。加えて、平安京国内での世論工作も長期に及び、両国の国境では既に騒動が広がっている。責任逃れをすれば、即座に開戦となるだろう。となれば第二の選択肢しかない。責めを負うべき者には、相応の処分を下さねばならない。決断を下した後、清和天皇は穂村宰相と暫し目を交わした。他の者たちは沈黙を保ち、誰も口を開こうとしない。この事態に対処するには、佐藤大将を召還して責任を問わねばならないからだ。しかし、佐藤大将は生涯を戦場で過ごしてきた。文利天皇の治世から反乱の平定や盗賊の討伐に従事し、邪馬台の戦場を踏み、野心的な遊牧民族を撃退し、最後は関ヶ原の守備についた。これほどの年月、佐藤家の息子たちも戦場を転々とし、幾人が命を落としたことか。二月十九日は、この老将の古稀の祝いの日だ。この年齢にして未だ辺境を守る武将は、大和国の建国以来、彼一人のみである。誰が召還を言い出せようか。清和天皇は最後に玄武に視線を向けた。「北冥親王よ、かつて邪馬台の元帥であった汝は、この件をどう処理すべきと考える?」一同は驚きを隠せなかった。なぜ北冥親王に問うのか?北冥親王妃は佐藤大将の孫娘である。彼から召還と問責の進言があれば、夫婦の不和を招くではないか。清家本宗は背筋が凍る思いがした。夫人の逆鱗に触れた際の様々な結末が脳裏をよぎり、同情心が溢れ出て、一歩前に進み出た。「陛下、臣は佐藤大将を召還して事態の調査を行い、関ヶ原の指揮権は一時的に養子の佐藤八郎に委ねることを提案いたします」兵部大臣である彼への諮問は、本来なら宰相の後であるべきだった。両者からの提案が最も適切なはずなのだ。天皇は清家本宗を一瞥した後、「他に異論はあるか?」と問うた。しばしの沈黙の後、次々と大臣たちが「臣も同意見でございます」と声を
二日後、深水青葉が水無月清湖からの伝書鳩の便りを携えて玄武を訪ねた。表情は険しい。「平安京の皇帝が使者を大和国に派遣すると。国書も間もなく到着するそうです」玄武の表情が暗くなった。来るべきものが、ついに来たか。正月も明けぬうちに、清和天皇は御前侍衛を玄甲軍から独立させ、上原さくらの管轄外とすることを宣言した。御前侍衛副将には相変わらず北條守が任命された。北條守には信じられない思いだった。あの日、淡嶋親王家の萬木執事との出会いを思い返し、まさか本当に親王家の助力があったのではと胸中で思案を巡らせた。しかし、もし本当に淡嶋親王家の手が働いているのなら、この復職には危険が潜んでいるはずだ。相談できる相手もなく、帰宅して親房夕美に話すと、彼女は言った。「相手が何を企んでいようと、元の職に戻れるなら良いじゃありませんか?しかも今は上原さくらの指揮下にもない。これ以上の好条件はないでしょう」北條守は眉間に深い皺を寄せた。「いや、駄目だ。何か陰謀がある可能性が高い。陛下にお話ししなければ」夕美は信じられないという表情で夫を見つめた。「正気ですか?そんなことを陛下にお話しして、お怒りを買えば職を失うことになります。そうなれば、一生出世の道は断たれる。御前侍衛副将どころか、普通の禁衛にさえなれなくなってしまいます」北條守は黙り込んだ。同じ不安を抱いていた。「言わないで。私の言う通りにして。淡嶋親王家があなたを助けるのは、あの時上原さくらとの離縁を止められなかった後ろめたさから......」北條守は首を振り、妻の言葉を遮った。「それはおかしい。仮に淡嶋親王妃に後ろめたさがあるとしても、それは上原さくらに対してであって、俺に対してのはずがない。俺こそ、上原さくらに対して申し訳が立たないのだ」「あなたって本当に......」夕美は目を丸くして怒りを爆発させた。「もういいわ。彼らがどんな思惑を持っているにせよ、淡嶋親王には野心がないのは確かです。謀反など考えてもいない。あなたを復職させたのは、何かあった時にあなたの力を借りたいからでしょう」「それもおかしい。私の職を守れるほどの力があるということは、これまでの臆病で控えめな態度が演技だったということになる」「そんなことを気にする必要があるの?自分のことだけ考えなさい。御前侍衛副将の職を望んで
守は無相の深い瞳に潜む陰謀の色を見て、背筋が凍った。大長公主の謀反事件さえ決着していないというのに、もう天皇の側近を手駒にしようというのか?淡嶋親王は本当に臆病なのか?一体何を企んでいるのか?自分の器量は分かっている。二枚舌を使うような真似は到底できない。特に天皇の側近として......そんなことをすれば、首が十個あっても足りまい。ほとんど反射的に立ち上がり、深々と一礼する。「萬木殿、申し訳ございませんが、家に用事が......これで失礼させていただきます」言い終わるや否や、踵を返して足早に立ち去った。無相は北條守の背を呆然と見送りながら、次第に表情を引き締めていった。自分の目を疑わずにはいられなかった。まさか、この男には少しの大志もないというのか?御前侍衛副将という地位が何を意味するか、本当に分かっているのだろうか?天皇の腹心として、朝廷の二位大臣よりも強い影響力を持ち得る立場なのだ。野心がないはずはない。接触する前に徹底的に調査したはずだ。将軍家の名を輝かせることは、彼の悲願のはずだった。一族の執念とも言えるものだ。三年もの服喪期間を甘んじて受け入れるなど、あり得ないはずだ。それとも......既に誰かが先手を打ったのか?服喪の上申書が留め置かれていることは、ある程度知れ渡っている。先回りされていても不思議ではない。だが、ここ最近も監視は続けていた。年が明けてからは、禁衛府の武術場以外にほとんど足を運んでいない。喪中という事情もあり、人との付き合いもなく、西平大名家を除けば訪問者もいなかったはずだ。西平大名家か?しかし、それも考えにくい。親房甲虎は邪馬台にいる。親房鉄将は役立たず。残りは婦女子ばかり。どうやって北條守を助けられるというのか?無相は考え込んだ。おそらく、北條守は淡嶋親王家の力量を信用していないのだろう。無理もない。この数年、淡嶋親王は縮こまった亀以下の有様だったのだから。とはいえ、燕良親王家の身分を表に出すわけにもいかない。大長公主が手なずけていた大臣たちも、今となっては一人として頼りにならない。全員が尻込みしている状態だ。ため息が漏れる。以前から燕良親王に進言していたのだ。大長公主の人脈は徐々に吸収し、彼女だけに握らせるべきではないと。しかし燕良親王は、大長公主が疑われることはないと過信し続けた。そ
北條守は特に驚かなかった。御前侍衛副将としての経験は浅くとも、陛下がこの部署を独立させようとしている意図は察知していた。彼は愚かではなかったのだ。天皇が北冥親王を警戒しているのは明らかだった。上原さくらに御前の警護、ましてや自身の身辺警護までを任せるはずがない。苦笑しながら守は答えた。「致し方ありません。母の喪に服すべき身です」無相は微笑みながら、自ら茶を注ぎ、静かな声で告げた。「親王様がお力添えできるかもしれません」守は思わず目を見開いた。都でほとんど誰とも交際のない淡嶋親王に、そのような力があるというのか?そもそも、あり得るかどうかも分からない後悔の念だけで?仮に後悔があるにしても、それはさくらに対してであって、自分に対してではないはずだ。彼は決して愚かではなかった。淡嶋親王に助力する力があるかどうかはさておき、仮に援助を受ければ、今後は親王の意のままになることは明らかだった。「萬木殿、母の喪に服することは祖制でございます。陛下の特命がない限り免除は......私は朝廷の重臣でもなく、辺境を守る将軍でもありません。私でなければならない理由などございません」無相は穏やかに微笑んだ。「北條様は自らを過小評価なさっている。度重なる失態にも関わらず、陛下がまだ機会を与えようとされる。その理由をご存知ですか?」守も実はそれが疑問だった。「なぜでしょうか?」「北冥親王家との確執があるからです」無相は分析を始めた。「玄甲軍は元々影森玄武様が統率していた。刑部卿に任命された後も、我が朝の多くの官員同様、兼職は可能だったはず。しかし、なぜ陛下は上原さくら様を玄甲軍大将に任命されたのでしょう?」守は考え込んだ。何となく見えてきた気もしたが、確信は持てない。軽々しい発言は慎むべきと思い、「なぜでしょうか?」と問い返すに留めた。無相は彼の慎重な態度など意に介さず、率直に語り始めた。「玄甲軍の指揮官を交代させれば、必ず反発が起きます。玄甲軍は影森玄武様が厳選し、育て上げた精鋭たち。しかし、影森玄武様から上原さくら様への交代なら、夫婦間の引き継ぎということで、さほどの反発もない。ですが、上原さくら様の玄甲軍大将としての任期は長くはないでしょう。陛下は徐々に彼女の権限を削っていく。まずは御前侍衛、次に衛士、そして禁衛府......最終的には
その人物こそ、燕良親王家に仕える無相先生であった。ただし、親王家での姿とは装いも面貌も異なっていた。無相は一歩進み出て、深々と一礼すると、「北條様、御母君と御兄嫁様のことは存じております。謹んでお悔やみ申し上げます」と述べた。所詮は見知らぬ人物である。北條守は距離を置いたまま応じた。「ご配慮感謝いたします。お名前もお告げにならないのでしたら、これで失礼させていただきます」「北條様」と無相が言った。「私は萬木と申します。淡嶋親王家に仕える者でございます。淡嶋親王妃様のご意向で、お見舞いにまいりました。ただ、以前、王妃様の姪御さまである上原さくら様とのご不和がございましたゆえ、突然の訪問は憚られ......」北條守は淡嶋親王家の人々とはほとんど面識がなかったが、家令に萬木という者がいることは知っていた。目の前の男がその人物なのだろう。しかし、その風采は穏やかで教養深く、実務を取り仕切る家令というよりは、学者のような印象を受けた。もっとも、親王家に仕える者なら、当然相応の学識は持ち合わせているはずだ。淡嶋親王妃からの見舞いとは意外だった。胸中に様々な感情が去来する。「淡嶋親王妃様のご厚意、恐縮です。私の不徳の致すところ、お義母......いえ、上原夫人と王妃様のご期待に添えませんでした」「もし差し支えなければ、お茶屋で少々お話を......親王妃様からのお言付けがございまして」北條守は結婚式の当日に関ヶ原へ赴き、帰京後すぐに離縁となった。その際、淡嶋親王妃はさくらの味方につくことはなかった。恐らく離縁を望んでいなかったのだろう、と北條守は考えていた。そのため、どこか親王妃に好感を抱いていた。それに、淡嶋親王家は都で常に控えめな立ち位置を保っている。一度や二度の付き合いなら、問題はあるまい。「承知いたしました。ご案内願います」北條守は軽く会釈を返した。二人がお茶屋に入っていく様子を、幾つもの目が物陰から追っていた。無相は北條守を見つめていた。実のところ、これまでも密かに彼を観察し続け、常に見張りを付けていたのだ。年が明けて以来、北條守は一回り痩せ、顔の輪郭がより際立つようになっていた。眼差しにも、以前より一段と落ち着きと深刻さが増していた。しかし無相は些か失望していた。北條守の中に、憤怒の気配も、瞳の奥に潜む野心も、微
百宝斎の店主を呼び、手下と共に品物の査定をさせた。次々と開けられる箱から、母が隠し持っていた金の延べ棒や数々の高価な装飾品が出てきた。ばあやの話では、一部は母の持参金で、一部は祖母の遺品。分家していなかったため叔母には分配されなかったという。そして幾つかは上原さくらから贈られたもの。さくらが離縁した時、これらは全て隠されたまま。幸い、さくらも問い質すことはなかった。北條守はばあやにさくらからの品々を選び分けさせ、返却することにした。ばあやは溜息をついた。「お返ししても、あの方はお受け取りにならないでしょう。それなら第二老夫人様にお渡しした方が。あの方と第二老夫人様は仲がよろしいのですから」「さくらが叔母上に渡すのは彼女の自由だが、俺たちが勝手に決めることはできない」北條守はそう考えていた。親房夕美はこれに反対した。些細な金品に執着があるわけではない。ただ、親王家の人々との一切の関わりを断ちたかった。さくらが持ち出さなかったのだから、売却なり質入れなりして、その代金を第二老夫人に渡せばよいではないか。「上原さくらはそんなものに関心はないでしょう。それより、美奈子さんが亡くなる前に質に入れた品々があったはず。上原さくらに返すより、それを請け戻す方が良いのではありませんか?」「兄嫁の品も本来なら返すべきものだ」北條守は言った。夕美の言い分は筋が通らないと感じた。「関わりを断つというなら、なおさら返すべきだ。たとえあの人が捨てようと、それはあの人の判断だ」百宝斎の者たちがいる手前、夕美は夫のやり方に腹を立てながらも、これ以上家の恥をさらすまいと、彼を外に連れ出して話をすることにした。蔵の外に出ると、北條守は自分の外套を自然な仕草で夕美の肩にかけた。早産から体調が完全には戻っていない彼女を、この寒さから守りたかった。夕美は一瞬たじろいだ。夫の蒼白い顔を見つめると、胸に燻っていた怒りが半ば消えかけた。しかし、そんな些細な感動で現状が変わるわけではない。柔らかくなりかけた表情が再び硬くなる。「こんな小手先で私を説得しようというのなら、やめていただきたいわ。私はそんな簡単には納得しませんから。今の将軍家の状況はご存知でしょう?次男家への返済については反対しません。でも上原さくらに装飾品を返すなら、その分の金を別途次男家に支払わなけ
落ち着きを取り戻した後、ある疑問が湧いた。なぜ母上は突然叔父の診察を命じたのか。しばらく考えてから尋ねた。「今日、恵子叔母上が参内なさったとか」太后は笑みを浮かべた。「そう、私が呼んだのよ。司宝局から新しい装身具が届いて、その中に純金の七色の揺れ飾りがあったの。皇后も定子妃も欲しがっていてね。皇后は后位にいるのだから、望むものを与えても問題はない。かといって、定子妃は身重で功もある。どちらに与えるべきか迷っていたから、思い切ってあなたの叔母にやることにしたの。ところがあの強欲な女ったら、その揺れ飾りだけでなく、七、八点も持って行ってしまったのよ。本当に後悔しているわ」天皇も笑いを漏らした。「叔母上がお喜びなら、それでよいのです。叔母上が嬉しければ、母上も嬉しいでしょう」財物など惜しくはない。母上を喜ばせることができれば、それでよかった。夜餐を終えると、天皇は退出した。太后は玉春、玉夏を従え、散歩に出かけた。長年続けてきた習慣で、どんなに寒い日でも、食後少し休んでは必ず外に出るのだった。凛とした北風が唸りを上げて吹き抜ける中、太后は連なる宮灯を見上げた。遠くの灯火ほど、水霧に浸かった琉璃のように朧げで、はっきりとは見分けがつかない。玉春は太后が何か仰るのを待っていたが、御花園まで歩き通しても、一言も発せられなかった。ただ時折、重く垂れ込める夜空を見上げるばかりで、溜息さえもつかなかった。玉春には分かっていた。太后が北冥親王のことを案じ、陛下の疑念が兄弟の不和を招くことを恐れておられることが。太后と陛下は深い母子の情で結ばれているものの、前朝に関することとなると、太后は一言も余計なことは言えない。太后の言葉には重みがある。しかしその重みゆえに慎重にならざるを得ない。さもなければ、北冥親王が太后の心を取り込んだと陛下に思われかねないのだから。北冥親王邸では――恵子皇太妃は純金の七宝揺れ飾りをさくらに、石榴の腕輪を紫乃に贈り、残りは自分への褒美として、日々装いに心を配っていた。姉である太后が言っていた。女は如何なる時も、如何なる境遇でも、できる限り身なりを整え、自分を愛でなければならないと。天皇は北條守と淡嶋親王邸に監視の目を向けた。北冥親王邸もまた、この二家を注視していた。北條守は首を傾げた。服喪の願いを提出した