広大な陵墓園林には、戦死した多くの兵士たちが眠っていた。入口には巨大な慰霊碑が建っている。奥へ進むと、管理人の住居が数軒あった。管理人たちは既に制圧され、その一室に縛り上げられ、口を塞がれて助けを呼ぶこともできない状態で閉じ込められていた。彼らは救出作戦の前に、ここに食料と水を用意していた。それは主に、七瀬四郎が拷問を受けているであろうことを考えてのことだった。羅刹国軍は大敗の怒りを彼にぶつけているはずで、重傷を負っているなら、すぐには山越えはできない。ただ、これほど大人数になるとは予想していなかったため、用意した量は十分ではなかった。到着すると、尾張拓磨は既に清張の手当てを始めていた。玄武は天方十一郎を下ろすと、休む間もなく薬と包帯を師匠と有田先生に渡した。「まずは手当てを」天方十一郎は背中の傷に加え、無理な逃走で体力を消耗し、陵墓園林に着いた時には既に意識を失っていた。影森玄武は薬丸を砕いて水で流し込み、背中の衣服を裂いて傷を確認した。肩甲骨から腰まで走る傷は、ほとんど骨が見えるほどの深さだった。事前に止血の秘孔を押さえていなければ、失血死は免れなかっただろう。だが、長時間の止血術も体に負担がかかる。その後遺症が深刻にならないことを祈るばかりだ。傷の手当てを終え、目の前の男たちを見渡した玄武は、天方十一郎以外の顔が誰一人として判別できなかった。残酷な拷問で意識を失ったままの清張でさえ、じっと見つめても誰なのか分からない。天方十一郎が体を支えながら、手を上げた。「天方十一郎、参上!」一瞬の静寂の後、全員が続いた。「斎藤芳辰、参上!」「禾津利継、参上!」「禾津衣良、参上!」「五島三郎、参上!」「五島五郎、参上!」「小早田秀水、参上!」「日比野綱吉、参上!」「村松陸夫、参上!」玄武は顔を背け、長く堪えていた涙が頬を伝った。しばらくして感情を抑え込み、「上原家軍を代表して、諸君の帰還を歓迎する」十一人が生きていた。十一人が生還した。この瞬間の感動を、誰が理解できようか。十人の漢たちは顔を覆い、指の隙間から涙が滲み出た。声を立てて泣くことも憚られる。上原家軍――彼らは決して忘れなかった。元帥が倒れても、自分たちが上原家軍であることを。今、やっと胸を張って上原家軍と名乗れ
皆が同情の眼差しを向けながらも、同時に自分の妻もまた他家に嫁いでいるかもしれないという現実に思い至った。ここにいる中で、村松陸夫だけが婚約も結婚もしていなかった。十一郎の母方の甥で、初めて戦場に赴いた一兵卒に過ぎなかったのだ。五島三郎と五島五郎は茨城県の出身で、陸夫や小早田秀水と同じく一介の兵士だった。斎藤芳辰は斎藤家の六郎の兄だが、実は斎藤夫人の雅子が拾い育てた養子だった。学問の道に向かず武芸を好んだため、戦場で己を鍛えることを選び、数年の間に百人隊長にまで上り詰めていた捕虜となる前だった。出陣前、斎藤芳辰には婚約者がいた。だが、戦死の報が伝わった今となっては、おそらく他家に嫁いでいるだろう。斎藤家の当主は仁徳の人で、若い女性に一生涯の未婚未亡人を強いるようなことはしない。そんな形で彼女の人生を台無しにはできなかったのだ。斎藤芳辰も婚約者の幸せを願っていた。ただ、天方十一郎のことを思うと胸が痛んだ。この数年、天方はよく妻のことを語っていた。二人の思い出を繰り返し話していたのだ。清張も語っていた。臆病で打たれ弱い妻のことを。自分の戦死を知ったら、きっと長い間泣き続けるだろうと。清張は、妻が安告侯爵家に留まって待ち続けることなく、実家に戻ることを願っていた。彼らが戻れない可能性が高かったからだ。この数年は本当に危険と隣り合わせだった。いつ捕らえられてもおかしくない。一度捕まれば、生還の望みはない。彼らは忠義を選び、信義を裏切った。妻たちに申し訳が立たなかった。禾津利継と禾津衣良は治部卿の息子たちだった。禾津利継は嫡子、禾津衣良は庶子で、上には学問の道を選んだ三人の兄がいた。武の道を選んで戦場に赴いたのは、この二人だけだった。二人が「戦死」した当時、父はまだ治部次官だった。息子二人の軍功と父自身の勤勉さが相まって、父は治部卿の位まで上り詰めた。影森玄武と上原さくらの婚儀も、この禾津治部卿が取り仕切ったのだった。しばらくして、天方十一郎は顔を上げた。苦しげな笑みを浮かべ、目に溜まった涙を必死に堪えながら言った。「これでよかったのかもしれない。彼女が再婚したことで、この数年の孤独から解放された。あの人は賑やかなのが好きだった。空っぽの家で独り暮らすなんて、辛すぎたはず。結局、私が彼女を裏切ったようなものだ。良い縁が見つかっ
暑さが日に日に増し、親王家では既に氷を使い始めていた。影森玄武からは未だに便りがない。上原さくらは不安を募らせていた。皆無師叔と共に向かったとはいえ、羅刹国の辺境の街に潜入して人質を救出するのは危険極まりない。特に羅刹国の兵士たちが辺境に集結している今は。紅竹からの探りによれば、将軍家の周囲には平服姿の禁衛が昼夜交代で警備に当たっているという。天皇も葉月琴音を狙う者の存在を察知したのだろう。平安京の情勢は不明だが、特別調査使の木幡刑部卿が都に戻り、報告があった。一家惨殺事件の真相は、夫人が魂喰蟲の毒に冒されて正気を失い、一家を殺害したというもの。首謀者は地元の小商人、和泉屋半兵衛だった。犯人は既に自白し、罪を認めている。動機は商売敵への嫉妬だった。被害者一家が偽善的な慈善活動で評判を得て商売を奪っていったことに恨みを抱き、妻が蟲毒を知っていたことから、手島医師を買収して枝子に魂喰蟲を仕込ませ、発狂させて一家を殺させたのだという。特別調査使には朝廷の裁可を待たずに死刑を執行できる権限があるため、木幡次門は犯人の自白を得るや、甲斐役所に和泉屋半兵衛夫妻の斬首を命じ、被害者の魂を慰めた。そのため、この案件は刑部での再審理は不要となった。さくらがこの事を知ったのは、青雀が戻って来て告げたからだった。青雀の話では、犯人は裁判所で涙を流しながら、一時の過ちを悔い、深く後悔していると述べたという。木幡刑部卿はその悔悟の情を汲み、子女への連座は避け、夫婦二人の処刑だけで事件を結んだとのことだった。さくらは何か腑に落ちないものを感じていた。商売の争いは日常茶飯事で、一時の感情で人を殺めることも珍しくない。しかしこれは明らかに周到な計画があった。魂喰蟲の毒すら知る者は少ない。和泉屋半兵衛の妻が知っていたとしても、手島医師を買収して毒を盛り、その後の魂喰蟲を操って殺人に至るまで、一連の手順に一点の狂いもない。さくらは小商人を侮るつもりはなかったが、これは明らかに計画的な一家惨殺だ。枝子が有罪となれば、彼女も必ず死を免れない。一時の激情による殺人なら疑問を抱くこともなかったが、この事件はまだ多くの疑点が残されている。「青雀、あなたはどう思う?」さくらが尋ねた。総髪に結った青雀は、さっぱりとした装いながら、落ち着いた様子で答えた。「事件
さくらが疑問を抱いたことで、紫乃も確かめてみることにした。紅竹に頼んで、淡嶋親王の動向を見張る者を配置してもらった。ただし、くれぐれも跡を残さないよう、誰にも気付かれないよう念を押した。先日の将軍家襲撃事件でさくらが救援に出たことで、既に宮中で説明を求められている。天皇が北冥親王家に疑いの目を向けている今、何事も慎重にならざるを得なかった。突如の豪雨が降り出した日は、北條涼子が平陽侯爵家に入る日と重なった。豪雨の中、小さな駕籠が平陽侯爵家の裏門をくぐった。涼子には見栄えのする嫁入り道具もなく、駕籠に乗る前、北條守に怨めしい眼差しを向けていた。屋敷に入ると、儀姫に対面し、妾としての礼茶を捧げたものの、平陽侯爵の顔すら拝むことはできなかった。平陽侯爵の老夫人は彼女に会おうともせず、ただ品の良くない玉の腕輪一対を賜り物として与え、秋日館に住まわせることを命じただけだった。連れてきた二人の付き添い女も、屋敷に入って半刻も経たないうちに将軍家へ返され、儀姫が新たに何人かの女を付けた。世話をするというより、その態度には敬意のかけらもなかった。妾として迎え入れられたにもかかわらず、妾としての待遇さえ与えられない。彼女は深く傷ついたが、ここが平陽侯爵家であることを思い知り、将軍家でのように自由気ままに怒りを爆発させることはできなかった。その夜、涼子は入浴を済ませ、艶やかに着飾った。初夜だけは、どんなことがあっても侯爵が訪れるはずだと思っていた。そんな最低限の体面は保たれるはずだと。しかし、子の刻を過ぎても平陽侯爵の姿はなく、髪飾りを外した彼女は布団に潜り込み、堪えていた涙をこぼした。翌日、問い合わせてみると、侯爵は昨夜、小嵐夫人の部屋に宿泊していたという。小嵐夫人は平陽侯爵唯一の側室で、子供もおり、今は身重でもあった。侯爵の世話など適わない状態なのに、侯爵秋日館を訪れるよりも、小嵐夫人の傍にいることを選んだのだ。北條涼子が嫁いだ後の将軍家は、まるで嘘のように静かになった。北條守は屋敷の外にいる禁衛の姿を見つけ、その意味を理解した。葉月琴音を密かに監視し、同時に刺客の再来を警戒しているのだ。胸の内に、嵐の前の重圧感が募っていく。事態の深刻さを理解していた。もし追及が始まれば、将軍家は家財没収、果ては斬首も免れまい。これは単に
紫乃と棒太郎は、その言葉の意味を理解した。平安京の情勢は必ず大きく変わる。皇太子が即位すれば、真っ先に鹿背田城の事件を徹底的に調査するはず。復讐のため、政権の安定のため、そして新たな国境線を定めるため。北條守に親房夕美への情があるなら、彼女を実家に帰すべきだ。しかし、自分の家族を守るために親房夕美を将軍家に留め置き、親房甲虎に将軍家の後ろ盾になることを強いるなら、それは葉月琴音と同じ、極めて利己的な人間だということになる。「賭けましょうよ」紫乃が興味深そうに言った。「北條守が親房夕美に離縁状を出すかどうか。私は出さないと思うわ」棒太郎は北條守を軽蔑していたが、戦場での勇猛さを思い出し、わずかながら期待を寄せた。「出すんじゃないか?少なくとも戦場では責任感のある男だったからな」二人はさくらに視線を向けた。「あなたはどっち?」さくらは首を傾げた。「実は、私も北條守のことはよく分かっていないの」紫乃は千両の藩札を取り出した。「それでも選んでよ。千両で賭けましょう」「そんな大金は無理だよ!」棒太郎は慌てて首を振った。勝てばまだいいが、千両負けて梅月山に戻ったら、師匠に殺されること間違いないから。「そんな大金じゃなくて、遊び程度に十両にしましょう」さくらは笑いながら提案した。「じゃあ、どっち?」紫乃は藩札を慌てて仕舞い込んだ。財布は見せるものではない。先ほどの棒太郎の目つきは、まるで奪い取りそうだったから。さくらは考え込んだ。「きっと......良心の呵責を和らげるため、形だけ親房夕美に相談するでしょう。でも本音は言わない。もし親房夕美が離縁を拒めば、それを都合よく受け入れるはず」「あら、意外と分かってるじゃない」紫乃は笑った。「でも、その展開は確認のしようがないわね。将軍家は禁衛に監視されてるから、盗み聞きもできないでしょう」さくらは手を広げた。「だから、結論としては『離縁状は出さない』を選ぶわ」「私たち二人で棒太郎と賭けることになるわね。可哀想に、負けたら二十両も払うことになるわ」紫乃が笑った。棒太郎は溜息をついた。「北條守よ、どうか人として正しい選択をして、俺の銀子を助けてくれ」六月二十一日、影森玄武は七瀬四郎たちを連れて陵墓園林を離れた。三日の間に、ビクターは街中を捜索し尽くし、まもなく陵墓園林に
六月十九日、親房甲虎は天方許夫と斉藤鹿之佑に三千の兵を率いさせ、薩摩城外の山々へと向かわせた。影森玄武と七瀬四郎を迎え入れるためである。救出作戦がどうなるかは知る由もないが、迎えの兵は必ず送らねばならない。元帥としての座を守るため、万全を期すしかなかった。しかし、もし北冥親王が救出に失敗し、羅刹国の手に落ちたとしても、それは彼の運命だろう。羅刹国の辺境の城まで兵を送り込むわけにはいかないのだ。斉藤鹿之佑と天方許夫は軍勢を率いて、薩摩城外の最も高い山に到着すると、千の兵をその場で待機させ。その後、二人は残りの二千の兵を率いて更に進軍を続け、一刻も早く親王様の一行との合流を果たそうとした。だが、次の山を越えたところで足を止めた。その先は草原の部族の領域だ。少人数なら潜入も可能だが、二千の兵を率いて進むことは、即ち宣戦布告に等しい。実のところ、親王様が草原に到達さえすれば、羅刹国も軽々しく追って来れまい。せいぜい腕の立つ追っ手を少数送り込むのが関の山だ。しかも親王様が無傷であれば、そのくらいの追っ手なら何とかなるはずだった。二日が過ぎ、六月二十一日を迎えた。天方許夫は待ち切れない様子で、斉藤鹿之佑に向かって言った。「このまま手をこまねいているわけにもいくまい。俺が十数名を率いて草原に下り、向こうの山を越えて親王様を探してみよう。七瀬四郎の救出の際に、お怪我をされているかもしれんからな」「焦るな」斉藤鹿之佑は諭すように答えた。「十数名では何の役にも立たん。この広大な山々には密林が広がり、まともな道さえない。あの方々と出会えるかどうかは、運任せというものだ」「だが、ここで待機しているだけでは何の助けにもならん」天方許夫は苛立たしげに続けた。「元帥があれほどの兵を派遣したところで、何の意味もありはしない。一行が草原を渡れれば、それは既に安全圏だということだ。我々は三千であろうと千であろうと、草原を越えて山に入ることなどできはしない」斉藤鹿之佑は声を潜めて答えた。「これは陛下への見せ場よ。救出に全力を尽くしているという形を作りたいだけさ。我らの三千が役に立とうが立つまいが、元帥殿の眼中にはないのだ」二人は深いため息をつく。かつて最高の元帥に仕えた身として、親房の采配には首を傾げざるを得なかった。だが、今や天皇の信任を得ているのは
彼ら二人は最終的に共に向かうことを決めた。どちらにせよ、兵はここに留まっており、国境を侵すことも、草原の部族に踏み込むこともない。彼ら百人が分隊で向かうだけだ。果たして、分隊で向かうことで草原の斥候の注意を引かず、彼らは烏横山に登り、山頂で待つことにした。烏横山は広大だが、彼らは高地を占めており、どこに動きがあっても見渡せる。盲目に降りるわけにはいかない。烏横山は羅刹国と草原が半分ずつ占めており、下手をすれば衝突が起こる恐れがある。理性的に判断すればそうだが、彼らは一部の兵を残し、状況が変わったらすぐに知らせるように指示し、十数人を連れてさらに下りていくことにした。影森玄武たちは既に烏横山の麓に到着しており、この山を越えれば草原だ。草原部族の注意を引かない程度の十数人で草原に入り、ビクターは追ってこないだろう。しかし、ずっと逃げ続けたため、影森玄武はまだ大丈夫だが、他の者たちは疲れ切って、両足が震えるほどだった。さらに、数人は救出の際に負傷し、天方十一郎も最初は歩けたものの、次第に抱えられ、最後は背負われて移動した。影森玄武は負傷していないが、衛所で包囲された兵を追い払う際に真気を消耗し、まだ回復していない。師匠の皆無幹心を除けば、皆疲れ切っていた。したがって、彼らは烏横山に登る前に少し休憩する必要があった。しかし、座って休憩し始めて香を一つ焚く時間も経たないうちに、皆無幹心が猛然と立ち上がり、目を閉じてしばらくの間耳を澄ませた。そして目を開けて言った。「彼らが追ってきた。こんなに早く......ビクターの武芸の達人たちだ。すぐに山を登らねばならん」と。影森玄武は薬瓶を取り出し、数粒を取って負傷者たちに渡した。今最も心配なのは清張烈央だった。逃げ続ける道中、彼の息は弱々しく、傷口は赤く腫れ、膿を持ち始めていた。一部は回復の兆しを見せているものの、それも丹治先生の薬のお陰であった。玄武は烈央の頬を軽く叩いた。「烈央、また出発するぞ。私が背負う。しっかり持ちこたえるんだ。都で妻が待っているだろう。彼女を待たせたままにはできんぞ」妻の話を聞いて、烈央は僅かに目を開け、虚ろな目で玄武を見つめた。「私が......足手まとい......」玄武は、烈央が口を開けた隙に砕いた薬を押し込んだ。「私が背負う。さあ、行くぞ」
もう待てない。追手が迫っている。皆無幹心と影森玄武は視線を交わし、最も原始的だが唯一の方法を選んだ――背負って飛ぶのだ。しかし、尾張拓磨と有田先生以外の十一人を背負わねばならない。少なくとも五、六往復は必要になる。極度の疲労と真気の消耗がある中で......まさに命懸けの仕事だった。「師匠、申し訳ありません」玄武は心苦しそうな目で見つめた。皆無幹心は溜息をつき、「わしには弟子がお前一人。それなのに梅月山一の厄介者を娶るとは。わしがお前を心配せずに、誰が心配するというのだ?」玄武は幸せだと言いかけたが、師匠の憐れむような眼差しに、言葉を飲み込んだ。上ってから話そう。師匠の反骨精神を知っている。自分の意見に同意しないと、必ず反抗してくるのだから。もう話している場合ではない。影森玄武は最初に斎藤芳辰を背負い、皆無幹心は十一郎を背負った。残りの者たちは清張烈央の世話をしながら、二人の戻りを待った。影森玄武は斎藤芳辰に言った。「しっかりと掴まれ。呼吸以外の動きは一切するな」斎藤芳辰は小さく頷き、適度な力で玄武の首に腕を回した。次の瞬間、体が宙に浮き、断崖へと飛び出した。玄武は小さな木を確実に掴んだ。しかし、何度も往復せねばならぬため、この木に全体重をかけるわけにはいかない。膝で岩壁を押さえ、足場を探る。僅かな突起を見つけ、そこに足を寄せた。その力を借りて更に上へ。今度は左手で木を掴まねばならない。玄武が手を伸ばした瞬間、下で見守る者たちは息を呑んだ。心臓が喉まで飛び出しそうになる。下から見上げる角度では、木との距離が正確に掴めない。届かないのではないかという不安が全員を包む。だが、玄武の手は確実に木を捉えていた。皆の心臓が、ようやく元の位置に戻っていく。皆無幹心は別のルートを選んだ。といっても、単に違う木を使うだけのことだ。これらの木がどれほどの根の深さで生えているのか誰も知らない。何度もの負荷に耐えられるはずもない。皆無幹心の選んだ経路はより危険だった。より急峻で、一歩間違えれば転落は避けられない。五島三郎は胸を撫で下ろしながら、絶え間なく流れる額の汗を拭った。「ありゃまあ、危なかった。まったく危なかった」他の者たちは息を殺したまま、喉から一言も漏らすまいとしていた。五島三郎の言葉に、さらに緊張が高まり
三姫子は香月の絶望的な泣き様を見つめ、同じ女として胸が締め付けられた。追い詰められなければ、こんな体面を失うようなことはしなかっただろう。「夕美を連れて参れ」三姫子は表情を引き締めた。「どんな手を使ってでも」織世が数人の老女を従えて部屋を出ると、三姫子は香月に向き直った。「あなたは自分への答えを求めてここに来たのでしょう。だから彼女が何を言おうと、真実であれ嘘であれ、ご自身の感覚を信じなさい。そうすれば、自分の中で決着がつき、次にすべきことも見えてくるはず」香月は涙を拭い、蒼白な顔を上げた。際立って美しい容姿ではなかったが、凛とした気品が漂っていた。「ご親切に感謝いたします」千代子もまた三姫子とさくらに説明を続けた。娘を案じる気持ちと、これだけの親族が集まったのも、ただ真相を明らかにしたいがためだと。光世と夕美の過去の関係は知らなかったという。後に香月が知って実家に話したとき、家族は「昔の一時の迷いに過ぎない、今の夫婦仲を壊すことはない」と諭したのだった。そうして平穏な日々が戻り、確かに光世は結婚後、女道楽も控えめになり、側室一人すら置かなかった。「あの日、娘が泣きながら帰ってきて、二人がまだ関係を持っていると……薬王堂で親密な様子だったと聞かされては、親として黙っているわけにはまいりません」さくらには、この家庭内の揉め事が複雑に絡み合った糸のように感じられた。「ご心情はよく分かります」高熱に喘ぎながらも、三姫子は冷静に言葉を紡いだ。「確かに過去の出来事とはいえ、あれは表沙汰にできない不義密通。人倫に背く行為でした。風紀を乱すと非難されても仕方ありません。だからこそ香月様の胸に棘が残っているのでしょう。ただし、この件は夕美だけを責められません。光世さんにも相応の過失がある」「ええ、重々承知しております」千代子は慌てて言った。「そのため息子たちも婿殿を諭しに参りました。ですが婿殿が離縁を持ち出し……私どもは反対なのです。どうしても続けられないのなら、和解離縁という形を……今日このような騒動を起こしましたのも、やむを得ずのことで、どうかお許しください」三姫子は苦笑を浮かべた。「お許しも何も。ただ事態が収まることを願うばかりです」もはやどうでもいい。これほど腐り切った状況なのだ。さらに腐るのも構わない。いずれもっと腐り果
家の恥を外に晒すまいという配慮など、香月にはもはやなかった。だがさくらの威厳の前に、涙をこらえながら、母や義姉、叔母たちと共に西平大名家の正庁へと入っていった。西平大名家側は、親房鉄将がまだ勤務中で不在。蒼月が女中たちを従えているだけで、これほどの大勢に対峙するのは初めての経験だった。夕美を呼びに人を走らせたが、さくらが来ていると聞いた夕美は、なおさら姿を見せようとしなかった。結局、事態を知った三姫子が、高熱を押して事態の収拾に現れた。さくらは三姫子の姿を見て胸が痛んだ。わずか数日の間に一回り痩せ、蝋のように黄ばんだ顔は血の気を失い、唇だけが熱に焼かれて赤く染まっていた。歩くにも人の手を借りねばならぬほど、弱々しい様子だった。普段から親しかった三姫子が楽章の義姉と知り、さらに親近感を覚えたさくらは、こんな状態で夕美の尻拭いをさせるのが忍びなく、「夕美さんが出てこられないのなら、老夫人にお願いしましょう。病人を立たせておくわけにはまいりません」と声を上げた。「申し訳ございません。母上も体調を崩されておりまして……」蒼月が答えた。香月は理不尽な要求をするつもりはなかった。ただ、これまで抑えてきた思いを、今ここで夕美にぶつけたかった。たった一つの質問に答えてもらえれば、それで良かった。目を真っ赤に腫らしながら、香月は切々と訴えた。「私は誰かを責めたいわけではございません。ただ夕美さんに一つだけお聞きしたい。あの日、薬王堂へ行かれたのは、意図的に夫を探されたのでしょうか、それとも本当に薬を買いに……ただそれだけを、正直にお答えいただきたいのです。もし本当に偶然の出会いだったのなら、私の思い過ごしとして謝罪いたします。夫が職を失い、天方総兵官様にまでご迷惑をおかけしたこと、すべて私の責任……私が家から追い出されても甘んじて受けます」その言葉には明確な意図が込められていた。この数日間、きっと一睡もできぬほど考え抜いた末の言葉なのだろう。香月の目は泣き腫らして赤く、涙の跡が生々しかった。その心の張り裂けそうな表情に、見ている者まで胸が締め付けられた。三姫子は香月の母・千代子の方を向き、疲れた声で言った。「千代子様、私たちも長年の知り合いです。お付き合いは浅くとも、私がどんな人間かはご存知のはず。率直に申し上げますが、この件で夕美に問いた
光世の妻が押しかけてきたのには、それなりの理由があった。まず、世間の噂が収まらないことだ。村松光世が薬王堂で薬材を管理していたことは広く知れ渡り、連日、患者ではない野次馬が押し寄せては罵声を浴びせる始末だった。薬王堂は患者すら入れない有様となり、ついに採薬から戻った丹治先生が自ら、村松光世の解雇を宣言せざるを得なくなった。もはや薬王堂とは無関係だと。もう一つの理由は、天方家の縁談だった。やっと見つけた娘を天方十一郎の母、村松裕子は気に入り、先方も同意していた。あとは十一郎の承諾を得て、生年月日を取り交わすばかりだった。ところが一件が発覚すると、先方は仲人を寄越し、縁談を白紙に戻すと言い出した。これまでの付き合いは、ただのお茶飲み話だったということにしたいと。激怒した裕子は実家に戻り、村松家の長老たちに裁定を仰いだ。長老たちは村松光世を呼び寄せ、痛烈に叱責した。従兄弟の情を踏みにじったことはまだしも、何年経っても尻の拭い方も知らぬ馬鹿者が、世間の笑い者になるどころか、村松家の面目を潰し、おまけに十一郎と天方家の名誉まで台無しにしたと。光世は薬王堂の職を失い、すでに癪に障っていたところへ、村松家の長老からの叱責で名誉も失墜し、怒りのあまり離縁を口にした。それが一時の感情に任せた言葉だったのか、本気だったのかは定かではない。だが、一度口に出したその言葉は、光世の妻・白雲香月の怒りに油を注ぐ結果となった。実家は六位官に過ぎず、大きな権勢はないものの、娘が侮辱されるのを黙って見過ごすわけにはいかない。兄たちは即座に光世の元へ押しかけ、暴力を振るった後、女性親族を引き連れて夕美のもとへ向かった。香月が夕美を追及する理由は明確だった。あの日、夕美がわざわざ薬王堂まで出向いて光世に愚痴をこぼしたのは、計算づくの行動だと。下心があっての仕業だと確信していた。白雲家の一族は予想以上に大人数だった。叔母や伯母など十数人に、さらに下女や老女を加えた二、三十人が、浩々としたぞろぞろと西平大名邸へ押し寄せた。最初は騒ぎ立てることもなく、ただ夕美に出てきて香月と話をつけるよう要求した。だが夕美は恐れて姿を見せず、屋敷の奥に隠れたまま、早く別邸へ移っていれば良かったと後悔するばかり。三姫子は高熱で寝込み、老夫人は体調を崩しており、このような事
有田先生と道枝執事は持てる人脈を駆使して、この古い事件の調査を始めた。西平大名家の傍系の長老たちに話を聞くと、みな口を揃えて「あの子は火事で亡くなった」と言い、親房展夫妻が長く嘆き悲しんでいたという。明らかに真相を知らない者たちの証言で、陽雲が以前調べた時と同じく、表面的な情報に過ぎなかった。調査が進む一方で、北條守と親房夕美の離縁は円満に成立した。双方の同意を得て、争いもなく、持参金も返された。嫁入りの時は都中の注目を集めたというのに、今は目立たないようにと願うばかり。夕美は三姫子に、「将軍家が困窮しているのは承知している。大きな家具や寝具、箱は要らない。細々とした物と絹織物、装飾品だけで十分です」と伝え、ただし嫁資の不動産だけは真っ先に取り戻した。三姫子は自ら采配を振るわず、家の執事に任せきりだった。姑と夕美は三姫子に、光世の妻に会って誤解を解くよう懇願し、千金を用意するとまで言い出した。しかし三姫子も蒼月も反対した。千金で夕美の名誉を買い戻すなど、割に合わないと。この一件が片付いた途端、三姫子は病に倒れた。夜中に突然の高熱で意識が朦朧となり、急いで医者を呼んだ。診断によれば心火が強く、五臓が焦り、秋風に当たって冷えを引き、それが熱となったのだという。嫡子嫡女に庶子庶女まで、皆が看病に集まり、側室たちも次々と姿を見せた。庶子たちは雅君書院には通えなかったものの、三姫子は決して冷遇することなく、専任の乳母を付けて教育を施した。男児たちは同じく私塾で学んでいた。この結婚生活において、三姫子は持てる限りの心力を注ぎ込んだ。普通の人間ができること、できないことを問わず、すべてを成し遂げようとしてきた。西平大名老夫人は三姫子の病を知り、自分が追い詰めすぎたと後悔した。怒りに任せて夕美を叱りつけ、別邸で暮らすよう命じた。「甥や姪に迷惑をかけるな」と。夕美が当然のように騒ぎ立てると、老夫人は激怒し、平手打ちを食らわせた。「この不埒者め!三姫子がどれほどあんたのために尽くしてきたというのだ。いつまで家に迷惑をかけ続ける?あんたを育てたからといって、一生面倒を見なければならないとでも?」三姫子の病が重かったからこそ、老夫人も慈しみの心を見せたのだろう。それに、体面を重んじる老夫人にとって、娘が二度も実家に戻ってく
しかし青葉はその件について詳しくなかった。「親房展が爵位を継いでいないだって?師匠の調査が間違っていたということか?」「有田先生に聞けば分かるはずだ」玄武は即座に提案した。書斎に呼ばれた有田先生は、確かにその当時の事情を知っていた。諸侯の家系のことなら、三代前まではある程度把握しているのだ。まあ、ある程度だが。「親房展が爵位を継いだことは確かにございません」有田先生は丁寧に説明を始めた。「当時の大名様はご病気で、世子を定めていなかった。展様が戦功を立てて帰京された際、世子に推挙されましたが、その後、大名様の容態が回復に向かい、結局お元気になられた。そのため爵位継承は先送りになり……その後、何があったのかは存じませんが、大名様は突然、長孫の甲虎様を世孫に推挙なさった。そこには何か事情があったに違いありませんが、部外者には分かりません。私にも分かりません。恐らく西平大名家の長老方と、現在の老夫人様だけがご存じなのでしょう」この話は、突然謎めいたものとなった。親房展が爵位を継いでいないのなら、単に世子に封じられただけで楽章が家に福をもたらすと断言できたのだろうか。しかも楽章が生まれた年に世子となり、五歳で送り出されるまで爵位を継承していない。むしろ楽章は当時の大名様には利があったが、親房展にはさほど福をもたらしていないように聞こえる。確実に、この中に何か重要な謎が隠されている。そして恐らく、長老たちでさえ真相は知らないだろう。本当のことを知っているのは、現在の西平大名老夫人だけなのだ。「もう調べるのはやめましょう」さくらは静かに言った。「五郎師兄の判断に任せましょう。私たちは知っているだけでいい。どんな決断をしても、支持するだけです」確かにこれは楽章自身の問題だ。どうするかを決めるのは彼の権利であり、彼が心地よいと感じる方法で進めればいい。さくらは胸が痛んだ。実は以前、五郎師兄とはそれほど親しくなかった。その理由の一つは、彼の放蕩な性格で、いつも遊郭に入り浸っていたからだ。もう一つは、彼が何事にも不真面目で、何も真剣に捉えなかったこと。みんなで遊んでいる時も、両手を後ろに組んで傍観し、「子供じみてるな」と言い残して立ち去ってしまうのだ。さくらは今でも覚えている。梅月山に来て二年目の冬、後山で雪だるまを三つ作った。父と
深水青葉は残りの話を続けた。萌虎が追い出された後、妖術使いは彼が生きられまいと踏んでいた。死のうが生きようが、最後は狼の餌食となり、骨すら残らないだろうと。だが思いがけず菅原陽雲がその辺りを通りかかった。夜になって赤子のような弱々しい泣き声を耳にした陽雲は、何か妖怪に出会えるのではと興味を持ち、その声を頼りに進んでいった。しかし、萌虎を見つけた時の陽雲は落胆した。第一に、赤子ではなく五、六歳ほどの子供だった。第二に、妖怪でもなく、死にかけの病児だった。しかも、どれほどの間ここに放置されていたのか、片方の足の指はネズミに食いちぎられ、血を流していた。近くには毒蛇も出没していたが、萌虎があまりにも衰弱して動かなかったため、蛇も襲わなかったのだ。この子の福運の強さを疑う者があろうか。息も絶え絶えだったのに、陽雲に助けられ、数日間の重湯と二服の薬膳で、まるで奇跡のように命を取り戻した。都では名医たちが束手をこまねいていたというのに、たった二服の薬膳と数碗の重湯で回復したのだ。まさに不思議としか言いようがない。陽雲は眉をひそめた。痩せこけた猿のような男の子は、全身合わせても三両の肉もないだろう。しかも聞けば、もう六歳だという。三、四歳にしか見えない体つきの子供を育て上げるのは、並大抵の苦労ではないだろう。陽雲は最初、この子を元の場所に戻そうと考えた。だが、毒蛇に囲まれていた時でさえ叫び声一つ上げなかったことを思い出した。人として最も大切な胆力を持っているなら、引き取ってみるのも悪くはない。あとは運命次第だろう。五、六歳ともなれば、記憶は残る。師匠を信頼するようになった楽章は、自分の生い立ちを打ち明けた。陽雲が調査を命じ、真相が明らかになった。寺の火災で萌虎が死んだと西平大名家が思い込んだ後、陽雲は剣を携え、妖術使いを梅月山まで連れて行った。折しも秋晴れの良い季節で、陽雲は「干し肉作りには持って来いの天気だ」と言った。そして長い竿を立て、妖術使いを縛り付けた。舌は美味しくないからと、最初にそこだけ切り落とした。妖術使いがいつ息絶えたかは定かではない。ただ、三ヶ月後に下ろされた時、埋葬する価値もなく、むしろ筵を無駄にするのも、穴を掘って大地を穢すのも惜しいということで、狼の餌食にされた。しかし狼でさえ、冬を越
夕食後、さくらと玄武は青葉を書斎へと連れ込んだ。二人は左右から挟むように立ち、青葉が逃げ出せないよう、そのまま部屋の中へ押し込んだ。「なんと無作法な」塾の教師となった青葉は、学者らしい口調で嘆いた。「そんな乱暴な真似は」それでも結局、肘掛け椅子に座らされた青葉は、好奇心に満ちた目で見つめる師弟たちに向かい、少々むっとした様子で言った。「聞きたいことがあるなら、はっきり言うがいい」玄武が最初に切り出した。「一つ目の質問だが、五郎師兄が最近、西平大名邸の周辺を頻繁に訪れているのは、師叔か師匠の指示なのか?親房甲虎に何か動きでもあったのか?」さくらはより深刻な表情で続けた。「二つ目。今夜の五郎師兄の様子が気になるの。紫乃を見る目つきが普段と違うし、いつもみたいに反発しなくなった。何か心当たりはある?」青葉には一つの取り柄があった。話すべきことと、そうでないことの線引きが明確だったのだ。楽章の出自について、他人には隠すべきだろうが、親しい師弟に対して秘密にする必要はないと考えていた。師匠は早くから楽章の身の上を青葉に明かし、時折諭すように言っていた。人生は長いようで短い。いつ何が起こるか分からない。執着しすぎるのは良くないと。青葉も楽章にそう伝えたことがあった。だが楽章は、万華宗の皆が自分の家族だ、他人のことは気にならないと答えるだけだった。「楽章は親房甲虎と親房鉄将の末弟だ。親房夕美が姉で、三姫子夫人は兄嫁にあたる。最近、西平大名邸を頻繁に訪れているのは、おそらく屋敷で起きた騒動と関係があるのだろう。老夫人が病で寝込み、雪心丸が必要なのだ。楽章は雪心丸を持っているから、どうやって渡すか考えているのだろう」青葉の言葉に、玄武とさくらは目を丸くして言葉を失った。二人はありとあらゆる可能性を考えていたが、まさかこんな事実があったとは。さくらは両手を口に当てたまま、しばらくして下ろすと「どうやって万華宗に?お父様が送られたの?西平大名老夫人が実のお母様?どうして一度も会いに来なかったの?」と矢継ぎ早に尋ねた。「長い話だが、かいつまんで話そう」青葉は姿勢を正した。「父親の先代西平大名・親房展は道術に執着していた。楽章が生まれた時、戦功を立てて帰朝し、爵位を継いだ。満月の祝いの時に道士を招いて占いをしてもらったところ、楽章は両親に大
だが楽章は黙ったまま、ただ黙々と酒を飲み続けた。一壺を空けると、今度は紫乃の分まで奪おうとする。紫乃は彼が酔いすぎだと判断し、必死で守った。二人は都景楼の屋上で追いかけっこを始め、先ほどまでの重苦しい空気は、夜風と共に吹き散らされていった。紫乃は結局、この件をさくらに打ち明けなかった。約束はしていなかったものの、楽章が誰にも知られたくない胸の内を吐露したのだから、武家の誇りにかけても、軽々しく噂話にするわけにはいかなかった。しかし、ここ数日、楽章が西平大名邸の周辺を徘徊している姿が、御城番の目に留まっていた。村松碧がさくらに報告すると、さくらは不審に思った。五郎師兄は、あそこで何をしているのだろう?知り合いでもいるのだろうか。その夜の夕食時、さくらは尋ねてみた。「五郎師兄、最近何かお忙しいの?」楽章は顔を上げた。「別に。ぶらぶらしているだけだ」「西平大名邸の近くを?」楽章は紫乃を鋭く見つめた。紫乃は驚いて即座に弁明した。「私、何も言ってないわよ」さくらは二人の様子を窺った。一方は怒りを、もう一方は無実を主張する表情。まるで何か秘密を抱えているようだ。さらに問おうとした時、玄武が箸で料理を取り分けながら「さあ、食事にしよう」と促した。さくらは疑わしげに二人を見やった。二人は同時に俯いて食事を始め、箸を運ぶ動作まで同じように揃っていた。「ある夜のこと」深水青葉は悠然と言葉を紡いだ。「あの二人が都景楼で酒を酌み交わしていたのを見かけたよ。追いかけっこをしたかと思えば、悲鳴や笑い声が聞こえてきてね。実に賑やかなものだった」「あの日のこと?」さくらは驚いて二人を見た。「五郎師兄が『空を飛ぼう』って誘った日?」「騒いでなんかいないわ。悲鳴も上げてないし、はしゃぎもしてない。ただ私の酒を奪おうとしただけよ」紫乃は弁解した。「大師兄」楽章は青葉を睨みつけた。「どうしてそれを?私たちを尾行でもしたんですか?盗み聞きしてたんですか?」突然立ち上がり、声を荒げる。「なんてことを!人の後をつけるなんて!」「誰が尾行なんかするものか」青葉は怪訝な表情で楽章を見つめた。「そんな大きな騒ぎを立てておいて、下の者が気付かないとでも?それにしても随分と取り乱しているな。後ろめたいことでもあったのか?まさか二人は……」「やめろ!」楽章
楽章は黙したまま、酒壺を傾け、大きく喉を鳴らして飲み干した。それから夜光珠を丁寧に箱に収めた。光が消えると、三日月と星々だけが残された。紫乃は楽章がこんな身の上だったとは思いもよらなかった。さくらからも聞いたことがない。遊郭に入り浸って、芸者の唄を聴いたり、自ら笛を吹いて聴かせたり。そんな放蕩な振る舞いをする男が、まさか大名家の息子だったとは。楽章の沈黙の中、紫乃の頭には後宮争いの物語が浮かんでいた。父親に利をもたらした誕生なら、きっと溺愛されただろう。側室の息子が寵愛を受ければ、それは当然、正室とその子への挑戦となる。母親がどんな人物だったかは分からないが、手腕のある女性ではなかったのだろう。でなければ、楽章がこうして家に帰れない身となることもなかったはず。「西平大名家の老夫人が、お戻りになるのを許さないの?家督を争うことを恐れて?」紫乃は慎重に探りを入れた。「誰も、俺が生きていることを知らないんだ」楽章は空虚な笑みを浮かべた。「それでいい。親房家は表面は華やかだが、内部は危機だらけだ。俺の存在を知らない方が都合がいい。あの混乱に巻き込まれずに済む。ただ、都に戻って三姫子さんの苦労を知ってしまった以上、黙ってはいられない。家の当主の妻とはいえ、所詮は他家の人間だ。背負わされている責任が重すぎる」「じゃあ……三姫子夫人を助けたいの?」紫乃は彼の取り留めのない話を整理しようとした。「助けられない。だからこそ、気が滅入るんだ」「でも、どうやって助けるの?それに、お義母様だって、あなたを認めないでしょう。手を差し伸べれば、何か企んでいると警戒されるだけじゃない?」「大名家なんて、どうでもいい」楽章は冷たく言い放った。「欲しいものは何もない。ただ、三姫子さんが賢明なら、今のうちに逃げ道を作るべきだ。都に執着する必要なんてない。子どもたちを連れて、どこか安全な場所へ……俺たち武家ならそうする。でも、そんな助言を聞く耳を持たないだろうから、黙っているさ」「でも気になるわ」紫乃は首を傾げた。「親房夕美は、あなたの妹?それとも姉?少なくとも血のつながりはあるはずなのに、どうして心配しないの?」楽章は冷笑を浮かべた。「彼女は年上だ。私は末っ子さ。なぜ彼女のことに首を突っ込む必要がある?すべて自分で選んだ道だ。三姫子さんとは違う。彼女は巻