皆が同情の眼差しを向けながらも、同時に自分の妻もまた他家に嫁いでいるかもしれないという現実に思い至った。ここにいる中で、村松陸夫だけが婚約も結婚もしていなかった。十一郎の母方の甥で、初めて戦場に赴いた一兵卒に過ぎなかったのだ。五島三郎と五島五郎は茨城県の出身で、陸夫や小早田秀水と同じく一介の兵士だった。斎藤芳辰は斎藤家の六郎の兄だが、実は斎藤夫人の雅子が拾い育てた養子だった。学問の道に向かず武芸を好んだため、戦場で己を鍛えることを選び、数年の間に百人隊長にまで上り詰めていた捕虜となる前だった。出陣前、斎藤芳辰には婚約者がいた。だが、戦死の報が伝わった今となっては、おそらく他家に嫁いでいるだろう。斎藤家の当主は仁徳の人で、若い女性に一生涯の未婚未亡人を強いるようなことはしない。そんな形で彼女の人生を台無しにはできなかったのだ。斎藤芳辰も婚約者の幸せを願っていた。ただ、天方十一郎のことを思うと胸が痛んだ。この数年、天方はよく妻のことを語っていた。二人の思い出を繰り返し話していたのだ。清張も語っていた。臆病で打たれ弱い妻のことを。自分の戦死を知ったら、きっと長い間泣き続けるだろうと。清張は、妻が安告侯爵家に留まって待ち続けることなく、実家に戻ることを願っていた。彼らが戻れない可能性が高かったからだ。この数年は本当に危険と隣り合わせだった。いつ捕らえられてもおかしくない。一度捕まれば、生還の望みはない。彼らは忠義を選び、信義を裏切った。妻たちに申し訳が立たなかった。禾津利継と禾津衣良は治部卿の息子たちだった。禾津利継は嫡子、禾津衣良は庶子で、上には学問の道を選んだ三人の兄がいた。武の道を選んで戦場に赴いたのは、この二人だけだった。二人が「戦死」した当時、父はまだ治部次官だった。息子二人の軍功と父自身の勤勉さが相まって、父は治部卿の位まで上り詰めた。影森玄武と上原さくらの婚儀も、この禾津治部卿が取り仕切ったのだった。しばらくして、天方十一郎は顔を上げた。苦しげな笑みを浮かべ、目に溜まった涙を必死に堪えながら言った。「これでよかったのかもしれない。彼女が再婚したことで、この数年の孤独から解放された。あの人は賑やかなのが好きだった。空っぽの家で独り暮らすなんて、辛すぎたはず。結局、私が彼女を裏切ったようなものだ。良い縁が見つかっ
暑さが日に日に増し、親王家では既に氷を使い始めていた。影森玄武からは未だに便りがない。上原さくらは不安を募らせていた。皆無師叔と共に向かったとはいえ、羅刹国の辺境の街に潜入して人質を救出するのは危険極まりない。特に羅刹国の兵士たちが辺境に集結している今は。紅竹からの探りによれば、将軍家の周囲には平服姿の禁衛が昼夜交代で警備に当たっているという。天皇も葉月琴音を狙う者の存在を察知したのだろう。平安京の情勢は不明だが、特別調査使の木幡刑部卿が都に戻り、報告があった。一家惨殺事件の真相は、夫人が魂喰蟲の毒に冒されて正気を失い、一家を殺害したというもの。首謀者は地元の小商人、和泉屋半兵衛だった。犯人は既に自白し、罪を認めている。動機は商売敵への嫉妬だった。被害者一家が偽善的な慈善活動で評判を得て商売を奪っていったことに恨みを抱き、妻が蟲毒を知っていたことから、手島医師を買収して枝子に魂喰蟲を仕込ませ、発狂させて一家を殺させたのだという。特別調査使には朝廷の裁可を待たずに死刑を執行できる権限があるため、木幡次門は犯人の自白を得るや、甲斐役所に和泉屋半兵衛夫妻の斬首を命じ、被害者の魂を慰めた。そのため、この案件は刑部での再審理は不要となった。さくらがこの事を知ったのは、青雀が戻って来て告げたからだった。青雀の話では、犯人は裁判所で涙を流しながら、一時の過ちを悔い、深く後悔していると述べたという。木幡刑部卿はその悔悟の情を汲み、子女への連座は避け、夫婦二人の処刑だけで事件を結んだとのことだった。さくらは何か腑に落ちないものを感じていた。商売の争いは日常茶飯事で、一時の感情で人を殺めることも珍しくない。しかしこれは明らかに周到な計画があった。魂喰蟲の毒すら知る者は少ない。和泉屋半兵衛の妻が知っていたとしても、手島医師を買収して毒を盛り、その後の魂喰蟲を操って殺人に至るまで、一連の手順に一点の狂いもない。さくらは小商人を侮るつもりはなかったが、これは明らかに計画的な一家惨殺だ。枝子が有罪となれば、彼女も必ず死を免れない。一時の激情による殺人なら疑問を抱くこともなかったが、この事件はまだ多くの疑点が残されている。「青雀、あなたはどう思う?」さくらが尋ねた。総髪に結った青雀は、さっぱりとした装いながら、落ち着いた様子で答えた。「事件
さくらが疑問を抱いたことで、紫乃も確かめてみることにした。紅竹に頼んで、淡嶋親王の動向を見張る者を配置してもらった。ただし、くれぐれも跡を残さないよう、誰にも気付かれないよう念を押した。先日の将軍家襲撃事件でさくらが救援に出たことで、既に宮中で説明を求められている。天皇が北冥親王家に疑いの目を向けている今、何事も慎重にならざるを得なかった。突如の豪雨が降り出した日は、北條涼子が平陽侯爵家に入る日と重なった。豪雨の中、小さな駕籠が平陽侯爵家の裏門をくぐった。涼子には見栄えのする嫁入り道具もなく、駕籠に乗る前、北條守に怨めしい眼差しを向けていた。屋敷に入ると、儀姫に対面し、妾としての礼茶を捧げたものの、平陽侯爵の顔すら拝むことはできなかった。平陽侯爵の老夫人は彼女に会おうともせず、ただ品の良くない玉の腕輪一対を賜り物として与え、秋日館に住まわせることを命じただけだった。連れてきた二人の付き添い女も、屋敷に入って半刻も経たないうちに将軍家へ返され、儀姫が新たに何人かの女を付けた。世話をするというより、その態度には敬意のかけらもなかった。妾として迎え入れられたにもかかわらず、妾としての待遇さえ与えられない。彼女は深く傷ついたが、ここが平陽侯爵家であることを思い知り、将軍家でのように自由気ままに怒りを爆発させることはできなかった。その夜、涼子は入浴を済ませ、艶やかに着飾った。初夜だけは、どんなことがあっても侯爵が訪れるはずだと思っていた。そんな最低限の体面は保たれるはずだと。しかし、子の刻を過ぎても平陽侯爵の姿はなく、髪飾りを外した彼女は布団に潜り込み、堪えていた涙をこぼした。翌日、問い合わせてみると、侯爵は昨夜、小嵐夫人の部屋に宿泊していたという。小嵐夫人は平陽侯爵唯一の側室で、子供もおり、今は身重でもあった。侯爵の世話など適わない状態なのに、侯爵秋日館を訪れるよりも、小嵐夫人の傍にいることを選んだのだ。北條涼子が嫁いだ後の将軍家は、まるで嘘のように静かになった。北條守は屋敷の外にいる禁衛の姿を見つけ、その意味を理解した。葉月琴音を密かに監視し、同時に刺客の再来を警戒しているのだ。胸の内に、嵐の前の重圧感が募っていく。事態の深刻さを理解していた。もし追及が始まれば、将軍家は家財没収、果ては斬首も免れまい。これは単に
紫乃と棒太郎は、その言葉の意味を理解した。平安京の情勢は必ず大きく変わる。皇太子が即位すれば、真っ先に鹿背田城の事件を徹底的に調査するはず。復讐のため、政権の安定のため、そして新たな国境線を定めるため。北條守に親房夕美への情があるなら、彼女を実家に帰すべきだ。しかし、自分の家族を守るために親房夕美を将軍家に留め置き、親房甲虎に将軍家の後ろ盾になることを強いるなら、それは葉月琴音と同じ、極めて利己的な人間だということになる。「賭けましょうよ」紫乃が興味深そうに言った。「北條守が親房夕美に離縁状を出すかどうか。私は出さないと思うわ」棒太郎は北條守を軽蔑していたが、戦場での勇猛さを思い出し、わずかながら期待を寄せた。「出すんじゃないか?少なくとも戦場では責任感のある男だったからな」二人はさくらに視線を向けた。「あなたはどっち?」さくらは首を傾げた。「実は、私も北條守のことはよく分かっていないの」紫乃は千両の藩札を取り出した。「それでも選んでよ。千両で賭けましょう」「そんな大金は無理だよ!」棒太郎は慌てて首を振った。勝てばまだいいが、千両負けて梅月山に戻ったら、師匠に殺されること間違いないから。「そんな大金じゃなくて、遊び程度に十両にしましょう」さくらは笑いながら提案した。「じゃあ、どっち?」紫乃は藩札を慌てて仕舞い込んだ。財布は見せるものではない。先ほどの棒太郎の目つきは、まるで奪い取りそうだったから。さくらは考え込んだ。「きっと......良心の呵責を和らげるため、形だけ親房夕美に相談するでしょう。でも本音は言わない。もし親房夕美が離縁を拒めば、それを都合よく受け入れるはず」「あら、意外と分かってるじゃない」紫乃は笑った。「でも、その展開は確認のしようがないわね。将軍家は禁衛に監視されてるから、盗み聞きもできないでしょう」さくらは手を広げた。「だから、結論としては『離縁状は出さない』を選ぶわ」「私たち二人で棒太郎と賭けることになるわね。可哀想に、負けたら二十両も払うことになるわ」紫乃が笑った。棒太郎は溜息をついた。「北條守よ、どうか人として正しい選択をして、俺の銀子を助けてくれ」六月二十一日、影森玄武は七瀬四郎たちを連れて陵墓園林を離れた。三日の間に、ビクターは街中を捜索し尽くし、まもなく陵墓園林に
六月十九日、親房甲虎は天方許夫と斉藤鹿之佑に三千の兵を率いさせ、薩摩城外の山々へと向かわせた。影森玄武と七瀬四郎を迎え入れるためである。救出作戦がどうなるかは知る由もないが、迎えの兵は必ず送らねばならない。元帥としての座を守るため、万全を期すしかなかった。しかし、もし北冥親王が救出に失敗し、羅刹国の手に落ちたとしても、それは彼の運命だろう。羅刹国の辺境の城まで兵を送り込むわけにはいかないのだ。斉藤鹿之佑と天方許夫は軍勢を率いて、薩摩城外の最も高い山に到着すると、千の兵をその場で待機させ。その後、二人は残りの二千の兵を率いて更に進軍を続け、一刻も早く親王様の一行との合流を果たそうとした。だが、次の山を越えたところで足を止めた。その先は草原の部族の領域だ。少人数なら潜入も可能だが、二千の兵を率いて進むことは、即ち宣戦布告に等しい。実のところ、親王様が草原に到達さえすれば、羅刹国も軽々しく追って来れまい。せいぜい腕の立つ追っ手を少数送り込むのが関の山だ。しかも親王様が無傷であれば、そのくらいの追っ手なら何とかなるはずだった。二日が過ぎ、六月二十一日を迎えた。天方許夫は待ち切れない様子で、斉藤鹿之佑に向かって言った。「このまま手をこまねいているわけにもいくまい。俺が十数名を率いて草原に下り、向こうの山を越えて親王様を探してみよう。七瀬四郎の救出の際に、お怪我をされているかもしれんからな」「焦るな」斉藤鹿之佑は諭すように答えた。「十数名では何の役にも立たん。この広大な山々には密林が広がり、まともな道さえない。あの方々と出会えるかどうかは、運任せというものだ」「だが、ここで待機しているだけでは何の助けにもならん」天方許夫は苛立たしげに続けた。「元帥があれほどの兵を派遣したところで、何の意味もありはしない。一行が草原を渡れれば、それは既に安全圏だということだ。我々は三千であろうと千であろうと、草原を越えて山に入ることなどできはしない」斉藤鹿之佑は声を潜めて答えた。「これは陛下への見せ場よ。救出に全力を尽くしているという形を作りたいだけさ。我らの三千が役に立とうが立つまいが、元帥殿の眼中にはないのだ」二人は深いため息をつく。かつて最高の元帥に仕えた身として、親房の采配には首を傾げざるを得なかった。だが、今や天皇の信任を得ているのは
彼ら二人は最終的に共に向かうことを決めた。どちらにせよ、兵はここに留まっており、国境を侵すことも、草原の部族に踏み込むこともない。彼ら百人が分隊で向かうだけだ。果たして、分隊で向かうことで草原の斥候の注意を引かず、彼らは烏横山に登り、山頂で待つことにした。烏横山は広大だが、彼らは高地を占めており、どこに動きがあっても見渡せる。盲目に降りるわけにはいかない。烏横山は羅刹国と草原が半分ずつ占めており、下手をすれば衝突が起こる恐れがある。理性的に判断すればそうだが、彼らは一部の兵を残し、状況が変わったらすぐに知らせるように指示し、十数人を連れてさらに下りていくことにした。影森玄武たちは既に烏横山の麓に到着しており、この山を越えれば草原だ。草原部族の注意を引かない程度の十数人で草原に入り、ビクターは追ってこないだろう。しかし、ずっと逃げ続けたため、影森玄武はまだ大丈夫だが、他の者たちは疲れ切って、両足が震えるほどだった。さらに、数人は救出の際に負傷し、天方十一郎も最初は歩けたものの、次第に抱えられ、最後は背負われて移動した。影森玄武は負傷していないが、衛所で包囲された兵を追い払う際に真気を消耗し、まだ回復していない。師匠の皆無幹心を除けば、皆疲れ切っていた。したがって、彼らは烏横山に登る前に少し休憩する必要があった。しかし、座って休憩し始めて香を一つ焚く時間も経たないうちに、皆無幹心が猛然と立ち上がり、目を閉じてしばらくの間耳を澄ませた。そして目を開けて言った。「彼らが追ってきた。こんなに早く......ビクターの武芸の達人たちだ。すぐに山を登らねばならん」と。影森玄武は薬瓶を取り出し、数粒を取って負傷者たちに渡した。今最も心配なのは清張烈央だった。逃げ続ける道中、彼の息は弱々しく、傷口は赤く腫れ、膿を持ち始めていた。一部は回復の兆しを見せているものの、それも丹治先生の薬のお陰であった。玄武は烈央の頬を軽く叩いた。「烈央、また出発するぞ。私が背負う。しっかり持ちこたえるんだ。都で妻が待っているだろう。彼女を待たせたままにはできんぞ」妻の話を聞いて、烈央は僅かに目を開け、虚ろな目で玄武を見つめた。「私が......足手まとい......」玄武は、烈央が口を開けた隙に砕いた薬を押し込んだ。「私が背負う。さあ、行くぞ」
もう待てない。追手が迫っている。皆無幹心と影森玄武は視線を交わし、最も原始的だが唯一の方法を選んだ――背負って飛ぶのだ。しかし、尾張拓磨と有田先生以外の十一人を背負わねばならない。少なくとも五、六往復は必要になる。極度の疲労と真気の消耗がある中で......まさに命懸けの仕事だった。「師匠、申し訳ありません」玄武は心苦しそうな目で見つめた。皆無幹心は溜息をつき、「わしには弟子がお前一人。それなのに梅月山一の厄介者を娶るとは。わしがお前を心配せずに、誰が心配するというのだ?」玄武は幸せだと言いかけたが、師匠の憐れむような眼差しに、言葉を飲み込んだ。上ってから話そう。師匠の反骨精神を知っている。自分の意見に同意しないと、必ず反抗してくるのだから。もう話している場合ではない。影森玄武は最初に斎藤芳辰を背負い、皆無幹心は十一郎を背負った。残りの者たちは清張烈央の世話をしながら、二人の戻りを待った。影森玄武は斎藤芳辰に言った。「しっかりと掴まれ。呼吸以外の動きは一切するな」斎藤芳辰は小さく頷き、適度な力で玄武の首に腕を回した。次の瞬間、体が宙に浮き、断崖へと飛び出した。玄武は小さな木を確実に掴んだ。しかし、何度も往復せねばならぬため、この木に全体重をかけるわけにはいかない。膝で岩壁を押さえ、足場を探る。僅かな突起を見つけ、そこに足を寄せた。その力を借りて更に上へ。今度は左手で木を掴まねばならない。玄武が手を伸ばした瞬間、下で見守る者たちは息を呑んだ。心臓が喉まで飛び出しそうになる。下から見上げる角度では、木との距離が正確に掴めない。届かないのではないかという不安が全員を包む。だが、玄武の手は確実に木を捉えていた。皆の心臓が、ようやく元の位置に戻っていく。皆無幹心は別のルートを選んだ。といっても、単に違う木を使うだけのことだ。これらの木がどれほどの根の深さで生えているのか誰も知らない。何度もの負荷に耐えられるはずもない。皆無幹心の選んだ経路はより危険だった。より急峻で、一歩間違えれば転落は避けられない。五島三郎は胸を撫で下ろしながら、絶え間なく流れる額の汗を拭った。「ありゃまあ、危なかった。まったく危なかった」他の者たちは息を殺したまま、喉から一言も漏らすまいとしていた。五島三郎の言葉に、さらに緊張が高まり
皆が恐怖に口を押さえ、この一部始終を見つめていた。このまま転落するのではないかという恐怖が全員を包み込む。危機一髪のその時、皆無幹心と尾張拓磨が同時に飛びかかった。それぞれが玄武の片手を掴み、もう片方の手で小さな木を握る。しかし二人の距離が離れているため、玄武を支えることはできても、上に引き上げることはできない。さらに、四人分の体重が二本の小さな木にかかっている。極めて危険な状態だ。その瞬間、十一郎が素早く鉄鉤付きの縄を降ろした。その長さはちょうど玄武の右手に届くほどだった。尾張拓磨と玄武の視線が交わり、互いに頷き合った次の瞬間、尾張が手を放す。玄武は即座に右手で縄を掴んだ。続いて皆無幹心も手を放し、玄武は左手でも縄を握った。両手で縄を握りしめる――これは二人分の重さを上で引き上げるしかないということを意味していた。縄は上の木に巻き付けるほどの長さはなく、天方十一郎は鉄鉤の先も降ろさざるを得なかった。縄が風に揺られないよう、確実に王の手元に届けるためには、それしか方法がなかったのだ。木に巻き付けられない以上、人力だけが頼りだ。しかし、無傷の者たちですら疲労困憊。歯を食いしばり、血が滲むほど力を込めても、わずか一丈も引き上げることができない。有田先生は無事に上がったものの、尾張拓磨と皆無幹心は安心して離れることができない。万が一の縄の破断に備え、すぐに対応できる位置を保っている。しかし、ここで完全な行き詰まりとなった。上の者たちには引き上げる力が残っておらず、下の二人には足場がない。そして、昏睡している清張烈央の頭は後ろに反れたまま――このままでは彼の傷が更に悪化してしまう。天方十一郎は必死に周囲を見回した。蔓を見つけられれば、それを繋ぎ合わせて木に巻きつけ、力を借りることができるはずだ。だが、ここにある蔓は細すぎる。手で引っ張れば千切れてしまうような代物で、まったく役に立たない。危機的状況の中、背中の傷も顧みず、小早田秀水の腰にしがみついた。彼らが引きずり落とされるのを必死で防ぐ。しかし、これは一時しのぎに過ぎない。このままでは全員が力尽き、二人の転落を見守ることしかできなくなる。その時、真上の密林から一団が姿を現した。木々や雑草に遮られて、下にいる黒装束の者たちの姿はぼんやりとしか見えない。誰なのかも判然とし
心玲が下がると、紫乃は言った。「この女、見てるとイライラするわ」さくらは笑って言った。「そう言っても、なかなか使えるのよ。さすが宮仕えだけあって、今ではお珠の仕事もずいぶん減ったわ」紫乃は笑って、「お珠はどうするの?そろそろ嫁がせてもいい頃じゃない?」と言った。さくらはため息をついた。「この忙しさが一段落したら、良い相手を探してあげるつもりよ。でも、寂しいわね。彼女も私と同い年。早く嫁にやらなきゃ、売れ残ってしまう」「村上天生はどう?」紫乃は眉を上げて尋ねた。「彼じゃ、お珠が飢え死にしてしまうわ」紫乃は吹き出した。「それもそうね。彼は宗門を養わなきゃいけないし、奥さんに渡せるお金なんてあるのかしら?彼みたいな人は結婚しない方がいいわ。女を不幸にするだけよ。覚えてる?小さい頃、あなたに結婚を申し込んだことがあったでしょ?それで石鎖さんに追いかけられて、子供なのに女を口説くなんてって、こっぴどく叱られたのよ」さくらは笑ったが、心の中では少し寂しさを感じていた。梅月山と京はまるで分水嶺のように、彼女の人生を二つに分けてしまった。今、梅月山に戻ったとしても、あの頃の気持ちには戻れないだろう。お珠と石鎖さんの話が出た途端、お珠が慌てて駆け込んできた。「お嬢様、いえ、王妃様、沢村お嬢様、石鎖さんが来ました!姫君様がご出産だそうです!」さくらはすぐに立ち上がった。「出産?もう予定日なの?」「もうすぐのはずですが、石鎖さんは危険な状態だと、丹治先生を呼ぶように言っていました。でも、丹治先生は京にいません」「え?石鎖さんはどこ?」さくらは焦って尋ねた。お珠は言った。「伝言を伝えるとすぐに帰って行きました。何があったのかは分かりませんが、とにかくものすごく怒っていました」さくらは即座に言った。「行きましょう。今すぐに」紫乃は深呼吸をして、「出産?私、まだ心の準備ができていないわ。出産なんて見たことない」と言った。「行きましょう」さくらは紫乃の腕を掴んだ。「あなたが出産するわけじゃないの。様子を見に行くのよ。石鎖さんがあんなに怒っていたんだから、きっと何かあったのよ」二人は急いで馬小屋へ向かった。お珠が御者に馬車を用意させている頃には、二人の姿はもうなかった。お珠は足踏みをして、「もう、また私を置いて行っちゃった」と呟い
さくらの言葉はここまでだった。三姫子にも理解できた。それ以上のことは考えなかった。彼女のような女性が考えても仕方のないことだ。彼女ができることは、西平大名家が誰と付き合おうと、後ろ暗いところがないようにすることだけだった。三姫子が去った後、有田先生がやってきた。有田先生は普段、王妃に一人で会うことはほとんどない。しかし、三姫子が入ってきた時から彼は気に掛けており、外でしばらく話を聞いていた。さくらも彼が外で聞いていることを知っていて、尋ねた。「先生、今の私の言い方、適切でしたでしょうか?」「大変適切でした」有田先生は拱手した。「王妃の言葉は、あまり明確すぎても、また曖昧すぎてもいけません。何しろ、邪馬台の兵は上原家軍か北冥軍ですから」さくらはため息をついた。「そうね。だからこそ、私も見て見ぬふりはできない。でも、西平大名家は今、三姫子夫人が仕切っている。あまりはっきり言いすぎると、彼女を怖がらせてしまう」「ですから、王妃の対応は適切だったのです」有田先生はそう言うと、「それでは、失礼します」と告げた。さくらは彼がそのまま出て行こうとするのを見て、少し驚いた。この件について話し合うために来たと思っていたのに、ただ褒めるためだけだったのだろうか?彼女は苦笑した。まあ、いいか。有田先生は親王家の家司だが、玄武は彼を軍師として用いていた。有田先生は屋敷中のあらゆる事柄を管理しており、家令のような役割も担っていた。王妃であるさくらと、親王である玄武の直属だった。有田先生は筆頭家司だった。本来であればもう一人同格の家司がいるはずだったが、玄武は人選びに厳しく、未だに見つかっていない。そのため、有田先生一人で二人の役割をこなしており、親王家での地位は非常に高かった。有田先生は忙しく、朝から晩まで姿を見ることはほとんどない。彼の補佐役である道枝執事が下の者たちの管理をし、親王家の雑務全般を取り仕切っていた。親王家は主人は少ないが、使用人は本当に多かった。さくらは時々、各部署の責任者と会い、山のような雑務の報告を聞くのは大変だと感じていた。彼女が何も言わなくても、有田先生は道枝執事に指示を出し、王妃に必要な報告だけを上げさせ、些細なことは報告しなくていいようにしていた。本当に気が利く人だった。椎名紗月はこのところ頻繁に親王家
燕良親王妃は西平大名邸に招待状を送り、明日に訪問すると告げた。三姫子は王妃の言葉を思い出し、厳しい表情になった。少し考えてから、織世に指示を出した。「贈り物を持ってきて。北冥親王家へ行く」「奥様、先に招待状を送った方がよろしいのでは?」織世は尋ねた。「このままでは、失礼にあたるかと」「いいえ、夕美を連れ帰った時、王妃に謝罪に伺うと伝えたから、失礼には当たらないわ。明日、燕良親王家から客が来る。招待状を送って日取りを決めている時間はない」北冥親王邸にて。さくらは三姫子の腫れ上がった顔と、はっきりと残る手形を見て、尋ねた。「大丈夫ですか?」三姫子は苦笑した。「ええ。自分で叩きました。西平大名家で私を叩ける人間はいませんから」さくらは彼女の家庭のことに立ち入るつもりはなかった。ただ、目の前のやつれた顔にもかかわらず、依然として凛とした風格を保つ西平大名夫人を見て、感慨深いものがあった。感情の起伏が激しくない主婦が、名家にとってどれほど重要か。改めて実感した。さくらは言った。「わざわざ謝罪に来る必要はありませんでした。大したことではありませんし、私は彼女を気にも留めていません。それに、謝罪するにしても、夫人であるあなたに来る必要はありません」三姫子は少し考えて、思い切って本題を切り出した。「王妃様、お許しください。謝罪は口実です。実は王妃様にお尋ねしたいことがございまして」さくらは茶を口に含み、ゆっくりと飲み干すと、三姫子の顔を淡い視線で捉えた。「何でしょうか」さくらは彼女が何を聞きたいか分かっていた。燕良親王家が西平大名家に招待状を送ったことについてだ。燕良親王が京に戻ってからの行動はすべて、玄武の監視下にあった。棒太郎が自ら指揮を執り、影で監視させている。これほどの警戒は、燕良親王の身分に相応しいものだった。三姫子は心配そうな顔を見せないようにしていたが、夕美の件で心労が重なり、平静を保つのが難しくなっていた。「王妃様、ご存じの通り、燕良親王が西平大名邸に招待状を送ってきました。西平大名家の当主は邪馬台におり、燕良親王は領地から戻ってまず皇宮に参内し、次に北冥親王邸へ、そして西平大名邸へお越しになります。私は女ですので、作法に疎く、どのようにお迎えすればいいのか分かりません。王妃様、ご指南いただけませんでしょうか」
将軍家の美奈子はまず北冥親王邸へ行き、その後、夕美が実家に連れ戻されたと聞いて、急いで西平大名邸に向かった。北條守は勤務中だったため、この騒動については何も知らなかった。事態がここまで悪化してしまった以上、美奈子は来ざるを得なかった。「長い病」の身を押して西平大名邸に現れると、彼女は重いため息をついた。詳しい事情は分からなかったが、親王家へ行ってさくらに詰め寄るなど、きっと守と何かあったに違いない。西平大名夫人は何も言わず、ただ夕美が身ごもっていることを伝え、将軍家に戻ってゆっくり静養するように言った。美奈子は多くを聞けなかったが、当然疑問はあった。めでたいことなのに、なぜ親王家で騒ぎを起こしたのか。夕美の妊娠に、北條老夫人と守は大喜びした。夜、守は夕美を優しく抱きしめ、夕美は彼の胸の中で声を殺して泣いた。まだ悔しい気持ちはあったが、彼が真心で接してくれるなら、この生活も何とか続けていけるだろうと思った。しかし、彼女が天方家を訪れたことは、数日後には噂となり、街中に広まってしまった。常に体面を気にする北條老夫人は夕美を呼びつけ、厳しく問い詰めた。「あんたは守の子を身ごもりながら天方家へ行ったのか。一体何を考えているんだ?その子は誰の子だ?まさか、天方十一郎が戻ってきたからって、よりを戻して出来た子じゃないでしょうね?」夕美はこの姑に対して、もはや何の敬意も払っていなかったので、冷たく言い放った。「この子が誰の子か、生まれたら分かるでしょう。復縁だのなんだの、そんなことを言ったら、夫の顔が丸潰れです。そんな噂が広まったら、夫は笑いものにされるわ」そう言うと、彼女は背を向けて出て行った。夕美は内心、ひどく屈辱を感じていた。落ちぶれたとはいえ、誰にでも足蹴にされる覚えはない。将軍家の人間には、彼女を責める資格などない。ここで沙布と喜咲の命が奪われたのだ。彼女を責める資格が誰にある?あの騒動の張本人は安寧館でのうのうと暮らし、贅沢三昧じゃないか。老夫人はそんなに偉そうにするなら、なぜ彼女を叱りつけない?葉月琴音は冷酷非情で、誰も逆らえない。まるで、彼女を貴婦人の様に大切に扱って、衣食住にも一切の不足はない。北條守は勤務中に同僚たちの噂話を耳にし、詳しく聞いて初めて、夕美が天方家に行ったことを知った。彼は面目を失い、帰宅
親房夕美は恐怖で凍り付いた。三姫子がこれほど取り乱すのを見たことがなかった。彼女は常に落ち着き払っていて、どんなことが起きても冷静沈着に対処してきた。どんな難題でも、鮮やかに解決してきた。しかし、今の彼女はまるで鬼のようだった。「よく見なさい。これがあなた。周りの人間が見ているあなたよ。狂気に取り憑かれ、身分も礼儀もわきまえず、廉恥心もなく、最低限の体面すら守れない。これがあなたなの」三姫子は夕美の手をぐいと掴んだ。「さあ、行くのでしょう?母上のところへ?行きなさい。私と一緒に行きなさい。母上を怒り死にさせて、あなたが自害して償えば、この家は静かになる」夕美は恐怖で後ずさりし、三姫子を怯えた目で見ていた。息を荒くしながら、心の中で何度も否定した。違う、違う、自分はこんなんじゃない。自分はこんなに狂ってない。「義姉様......行きません......もう......行きませんから......」織世に支えられて椅子に座ると、三姫子の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。西平大名家に嫁いでから今日まで、この家のため、心を尽くしてきた。舅姑、義弟、そして義妹、夫の妾や子供たちに、少しでも不自由をさせたことはなかった。数年前、妾たちが騒ぎを起こした時、夫も彼女たちの肩を持ち、三姫子は辛い思いをした。その後、彼女は奔走して夫のために仕事を探し、評判を上げることに尽力した。自分の子供たちに影響が出ないよう。皆が彼女を頼りにしていたが、皆が彼女の言うことを聞くわけではなかった。本当に姫氏を支えてくれたのは、義弟夫婦だけだった。姑は悪い人ではないが、優しすぎるのだ。三姫子が苦労して決めた規則も、姑の優しさで水の泡となることが多かった。家の中のことはまだしも、この義妹は何度も面倒事を起こしてきた。今、彼女は北條家の嫁として、まず天方家を騒がせ、次に北冥親王邸まで乗り込んだ。親王家の規律は厳しいとはいえ、客人もいたし、天方家にも多くの使用人が見ていた。噂好きの人間がいれば、すぐに広まってしまう。もし、このことが世間に知られれば、姫氏が苦労して築き上げてきた西平大名家の面目は丸つぶれになってしまう。彼女はしばらく気持ちを落ち着かせ、夕美に言った。「落ち着いたの?もう冷静に話せるようになった?よく考えなさい。離縁して戻ってくるか、北條守とやり直すか。も
彼女は祖母の胸に飛び込み、しばらく抱きしめられた後、顔を上げた。目は赤かったが、瞳は輝いていた。まるで本心からそう思っているかのようだった。さくらと紫乃は顔を見合わせた。二人とも、どこか腑に落ちない気持ちだった。しかし、彼女たちの目的は玉葉に諦めさせることだった。左大臣と天方十一郎に説明ができれば、それで十分だった。これ以上、何かを言う必要はなかった。左大臣邸を後にした二人は、親王邸に戻った。後で天方十一郎に結果を伝えればいい。さくらは結果だけを伝えるつもりだったが、考え直して、紫乃に直接行くように言った。相良玉葉の言葉をすべて伝えるようにと。さくらは恋愛感情には鈍感な方だったが、それでも玉葉が素早く決断を下した後の、あの辛そうな様子は見て取れた。彼女は天方十一郎に、ただの気の迷い以上の感情を抱いていたのではないか。以前、二人は何か接点があったのだろうか。しかし、それは考えにくい。二人は十歳近く歳が離れているし、十一郎は早くに軍に入り、十五歳で赤野間将軍に従って京都付近の衛所に配属された。衛所にいても家に帰ることはできたが、玉葉と接点を持つ機会はなかったはずだ。十一郎は紫乃の話を聞き終えると、ただ頷いた。「分かりました。王妃と義妹には苦労をかけました。有田先生にも、このような理由を考えていただき、感謝します」紫乃は少し考えてから言った。「兄さん、玉葉さんは本当に良い娘よ。彼女はあなたの平安を祈っていました」十一郎は紫乃の目が肥えていることを知っていた。彼女が玉葉を認めるということは、彼女が本当に優れた女性である証拠だった。しかし、彼も玉葉の優秀さは知っていた。だからこそ、彼女のような若くて素晴らしい女性は、優しくて温かい若者と結ばれるべきだと思ったのだ。十一郎は微笑んで言った。「私も彼女の無事を祈っている。早く良い人に巡り合ってほしい」一方、西平大名夫人の三姫子は親房夕美を屋敷に連れ帰ると、単刀直入に切り出した。「もう疑心暗鬼になるのはやめなさい。この件は、まず天方十一郎が気づいたのよ。寝室の床の隅や壁の隙間から、村松光世の玉佩を見つけたの。残りは、私が話した」夕美は三姫子の言葉を聞き、信じられないという目で彼女を見つめた。「彼が玉佩を見つけた?私の義姉なのに、隠してくれずに、更に油を注ぐようにすべてを話したの?私
言い訳は有田先生が考え出した。天方十一郎に確認したところ、朝廷からまだ任命が下りておらず、どこに派遣されるか分からないという。相良玉葉は左大臣の掌中の珠、心の宝。もし彼女を娶れば、後に赴任地へ共に行くことになり、三年五年と京に戻れないかもしれない。玉葉さんは純真で孝行な人柄。どうして家族から離れて、彼と共に辺境の地で苦労するようなことができようか。この理由は皆が絶妙だと考えた。相良玉葉は祖父母に大変孝行で、高齢の祖父母を離れて京を去ることなど、できるはずもないからだ。翌日、影森玄武は刑部に戻らねばならず、さくらと紫乃が左大臣邸を訪れることになった。相良玉葉も出迎えに現れた。淡い黄色の長衣に同色の袴を身につけ、スカートには銀糸で蝶々が数多く刺繍されていた。歩くたびに銀糸が柔らかな光を放ち、まるで蝶々が舞うかのようだった。「相良玉葉と申します。王妃様にお目にかかれて光栄です」彼女は礼儀正しく挨拶した。その作法は完璧で、一点の非も見出せないほどで、まさに名家の令嬢の風格そのものだった。「そんなに改まらなくていいのよ」さくらは微笑みながら彼女を見つめ、横の紫乃を見やった。紫乃は目を輝かせ、相良玉葉に対する賞賛の眼差しを隠せないでいた。かつて紫乃が家で礼儀作法を学んだ時、ばあやは戒尺で彼女を叱咤した。手や膝を幾度も打たれ、苦労して身につけた作法は、どうしても堅苦しいものになってしまった。しかし玉葉の礼は、まるで雲の流れのように自然で優雅だった。その佇まいは静かで上品で、あの狂った親房夕美とは比べものにならないほど格が上だった。玉葉の両親も同席していた。夫婦仲が大変睦まじく、そのおかげで玉葉も温和で優美に育ったのだろう。さくらは言った。「皆さまがお揃いですので、率直に申し上げます。昨日、天方十一郎をお呼びしました。彼は現在、任命待ちで、辺境への赴任も考えられるとのこと。玉葉さんが純真で孝行な方と知っており、もし彼と共に辺境へ行けば、第一に苦労をかけ、第二に家族から離れて孝行もできなくなる。そのことを心苦しく思っているそうです」この言葉に、皆が沈黙した。玉葉も黙り込んだ。彼女は天方十一郎との結婚を望んでいたが、自分の想う人と結ばれるために祖父母や両親と離れ、何年も会えず、孝行もできないとなれば、それは耐えられないことだった。
十一郎は苦笑した。「縁談の噂は私が流したものです。今さら、親房夕美の気持ちを断ち切るための偽りの噂だったと言えば、私は言行不一致の小人に見えてしまいます」紫乃が尋ねた。「じゃあ、本当に結婚するつもりなら、玉葉さんを考えるの?」「紫乃よ、私が彼女に相応しいかって?」十一郎は繰り返した。「正直、彼女のことはよく知らない。名声は高いって聞いているが、私より十歳も若いだろう。それに私は初婚じゃない。彼女に迷惑をかけるわけにはいかない」「彼女は構わないと言っているわ」紫乃は言った。十一郎は笑った。「本当に望んでいるはずがない。少女の英雄崇拝だよ。すぐに過ぎ去る。親王様の言う通り、上手い断り方を考えて、相良家と相葉さんの面目を傷つけないようにしたい。紫乃、お前は知恵者だろう。義兄のために考えてくれないか」紫乃は言った。「私は断り方なんて考えてあげないわ。義母と同じで、早く結婚して子供を持ってほしいの。そうすれば親房夕美にいつまでも気にかけられることもないでしょう」「この小娘め。自分は毎日結婚しないって言ってるくせに、なぜ義兄を結婚に追い込もうとする」十一郎は呆れ気味に言った。「世間は女は結婚しか道がないって言うけど、私はそんなの信じないわ」紫乃はさくらを見て笑った。「それに、私が結婚しなくても、さくらが一生面倒を見てくれるもの」玄武は外を見た。日が西に傾きはじめ、彼の心は完全に冷え切っていた。今日はもう出かけられない。はぁ!彼はさくらを一瞥した。彼女は兄妹の会話を興味深そうに聞いていた。まるで他人の結婚問題に特別な関心があるかのように。自分の夫のことを気にかけてくれればいいのに。もう落ち込んでしまう。最後に天方十一郎は言った。「実は、今私に嫁ぎたいという女性は大勢いますが、数日もすれば考えを改めます。信じられないなら見ていてください。相良左大臣への返事は親王様にお任せします。どう返答なさるかは、親王様のお考えに従いますから」玄武は無表情で言った。「誰か、有田先生を呼んでくれ」天方十一郎は左大臣への対応は無理だった。彼は嘘をつくのが得意ではない。策略を考えるのは、得意な人に任せた方がいい。十一郎はこの件にそれほど関心がないようで、むしろ玄武と別の話をしたがっていた。そのため、書斎で二人きりになることを願い出た。「私が
さくらは笑いながら言った。「何言ってるの。すぐにあなたの義兄が来るわ。ある令嬢が彼に目をつけて、意向を聞きたいんだけど、実は彼はもう断っているの。だから今回呼んだのは、本当に彼女のことが気に入らないのか、それとも結婚する気がないのかを確認するためよ」紫乃は目を輝かせ、急いで入ってきた。「本当?どんな令嬢が、私の兄を見初めたの?早く教えて」「相良左大臣の孫娘、相良玉葉よ」さくらは小声で言った。「これは外に漏らさないでね。まだ決まったわけじゃないから」「彼女?」紫乃は座るや否や、すぐに立ち上がった。驚愕の表情で叫んだ。「兄さんは頭がおかしいの?玉葉さんなのに、どうして断るの?こんなに素晴らしい娘よ。礼儀正しくて正義感があり、文才も抜群、容姿も美しい。どの名家だって争って手に入れたいくらいの娘なのに」「うるさいわは」さくら彼女を睨んだ。紫乃は座り直し、にこやかに言った。「一瞬の興奮かもしれないわ。本当に玉葉さんは兄を好きなの?衝動的じゃない?」「それが心配なのよ。たぶん兄さんは......」さくらは言葉を濁した。「それより、十一郎のお母さんとまだ縁組みしてないのに、勝手に兄さんって呼ぶのは適切じゃないんじゃない?」紫乃は大きく手を振った。「武芸界の仲間同士、そんなの関係ないわ。いい日取りを待ってるだけよ。私、義母にもお目にかかったわ。義母は私のような娘がいることに、すごく喜んでいたの」「あなた、実の兄弟もいるのに、どうして天方十一郎を兄にしたいの?」さくらには理解できなかった。紫乃は本当は誰にも本気で見初められるほど気に入った人はいない。友人を選ぶにも厳しいくせに、二人が幼なじみだからこそ今の関係があるのだ。紫乃は椅子に座り、両足をぶらぶら揺らしながら答えた。「気が合うからよ」彼女は本当の理由は言わなかった。さくらのように、敬愛できる兄が一人か、いや、何人もいてほしいと密かに思っていたのだ。待つこともなく、天方十一郎がやってきた。呼びに行った者が素早く、十一郎自身も迅速だった。彼は常に物事を迅速に処理することに慣れており、何かあればすぐに対応する。しかし、親王様が彼を呼んだのが縁談のためだとは思いもしなかった。彼は今すぐ結婚するつもりはなく、一切を落ち着かせてから、この問題を考えようと思っていた。自分の意図を隠さ