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第0005話

Author: 龍之介
夜、シャロンホテル33階。

華やかな酒宴が進むなか、大きな窓からは雲城の夜景が一望できる。

ピアノの優雅な旋律が響き、ワインの香りが漂う会場の片隅、綿はバーの前に寄りかかり、無造作にワイングラスを揺らしていた。

半開きの目で、退屈そうに周囲を見渡す。

男たちの視線は、ひそかに彼女に集まっていた。だが、その堂々たる美しさに圧倒され、誰も声をかけることができなかった。

今日の彼女は、黒いキャミソールロングドレスを纏っている。スカートの裾には細やかなプリーツが施され、歩くたびにスリットから伸びる白い脚がちらりと覗く。

ドレスは彼女の身体を優雅に包み込み、流れるような曲線を際立たせる。カールした髪が背中に落ち、その肌には蝶のタトゥーが美しく浮かび上がっていた。

そんな彼女の手元で、スマホが震える。綿は視線を落とし、届いたメッセージを見る。

天河『酒宴に行った?』

綿『うん』

短く返信し、ため息をつく。

昨晩、酔い潰れた彼女を家まで送り届けた天河は、今夜の宴への出席を説得し、さらには「お見合い相手」まで手配していた。

問題は、彼女が酔った勢いで、それを承諾してしまったことだった。

酒に酔った時の約束ほど、厄介なものはない。

「……綿さん?」

耳元で、不意に聞こえた。どこかたどたどしい、拙い日本語。

不意に顔を上げると、金髪碧眼の男が立っていた。

そして、その目を輝かせながら、驚きの声を上げる。

「本当に君なのか?」

綿もまた、思わず驚いた。

「……ジョン?」

どうしてここに――?

傍らにいたアシスタントが、不思議そうに尋ねる。

「ジョン様、桜井様とお知り合いですか?」

ジョンは微笑みながら頷く。

――五年前。

海外旅行中、事故に遭ったジョンを助けたのは、彼女だった。

「ジョン様は、本日の特別ゲストでいらっしゃいます」

アシスタントが説明する。

「桜井様はご存じないかもしれませんが、ジョン様は現在、海外で非常に注目されている金融投資家なのです」

綿は、ぼんやりと彼を見つめた。

――ジョンが、そんなに成功しているなんて。

五年前、彼は家もなく、橋の下で暮らすホームレスだったというのに。

ジョンは謙虚な笑みを浮かべ、照れくさそうに言った。

「いやいや、大したことないよ。それより、あの時は本当に綿さんに助けてもらったんだよ」

彼女がいなければ、きっとあの橋の下で死んでいただろう。綿は、彼の命の恩人だ。

「今回はどうして日本に?」

綿が尋ねると、ジョンは笑顔でドアの方を指差した。

「高杉さんとの仕事でね」

――その名前を聞いた瞬間、綿の呼吸が止まった。

雲城で「高杉」といえば、彼女が最も会いたくない、あの人しかいない。

綿が顔を上げると、そこに立っていたのは彼女が最も会いたくない男、高杉輝明だった。

男はオーダーメイドのスーツをまとい、颯爽とした姿勢で立っている。広い肩と引き締まった腰のバランスが見事で、洗練された雰囲気を漂わせていた。

宴会場に足を踏み入れるや否や、その場の視線は一斉に彼へと向けられた。多くの人々が彼に話しかけ、少しでも顔を覚えてもらおうと必死になっている。

彼は若いにもかかわらず、その地位は揺るぎなく、年配の実業家たちでさえ「高杉様」と敬意を込めて呼ばざるを得なかった。

綿にとって、輝明は――彼女を愛していないことを除けば、完璧な男だった。

彼の隣には、白いドレスをまとった小柄な女性が寄り添っていた。

陸川グループの令嬢、陸川嬌。

陸川家は雲城の四大家族の一つで、その華やかな背景は言うまでもない。

両親からの溺愛に加え、彼女には三人の兄がいて、誰もが彼女を大切にしていた。

綿と嬌は長年の友人だった。

だが皮肉なことに、二人は同じ男を愛してしまった。

愛だけでなく、友情さえも失った。

彼女は、完全な敗者だった。

嬌はそっと輝明の腕に手を絡ませ、二人は微笑みを交わす。輝明の表情には、穏やかな優しさが滲んでいた。

――嬌に対して、彼はいつも優しかった。

その光景を目の当たりにした瞬間、綿の胸が強く締めつけられた。

――結婚していた三年間、彼は一度もこんな風に微笑んだことはなかったのに。

まるで、彼女との結婚など最初から存在しなかったかのように。

「綿さん、あの人が有名な高杉さんだよ。紹介するね」

ジョンはそう言いながら、綿の手を取り、高杉輝明の方へと歩き出した。

綿は思わず苦笑した。

――私に、誰かがわざわざ高杉を「紹介」する必要があるの?

七年間。

彼の優しさも、情熱も、冷たさも、すべて見てきたのは、誰よりも自分なのに。

「ヘイ、高杉さん!」

ジョンが明るい声で輝明に呼びかける。

輝明はまずジョンに視線を向けたが、次の瞬間、綿の姿をとらえた。

綿は思わず息を呑んだ。

――目が合ってしまった。

不意を突かれたように、彼女は反射的に身を翻し、その場を立ち去ろうとする。しかし、ジョンが綿の手首を握り、引き止めた。

輝明の目が、一瞬だけジョンの手元に落ちる。そのまま冷静な表情で、しっかりと彼の手が綿を掴んでいるのを見つめていた。

――離婚したばかりで、もう次の男か。綿も、なかなかのやり手だな。

「綿ちゃんも来てたのね」

嬌が驚いたように声を上げる。

ジョンは嬌の方を見て、意外そうに尋ねた。

「えっ?高杉さんって、既婚者だって聞いてたけど……もしかして、この方が奥さん?」

――その言葉を聞いた瞬間、綿の目が暗く沈んだ。

結婚して三年。

彼女という「妻」は、まるで泡のように儚く、あまりにも小さな存在だった。

ジョンと同じように、彼女が輝明の妻であることを知らない人間は多い。

それはつまり――輝明自身が、そう扱ってきたということ。

嬌は、一瞬躊躇うように輝明を見上げた。彼の腕をそっと握りしめる。

――この場で、自分にどんな「立場」を与えてくれるのか。

緊張したような表情で、それを待っている。

輝明は、ほんの一瞥だけ綿に向け、冷たく言った。

「そうだ」

「へぇ、高杉さんは才能があって、奥さんは美しい。まさにお似合いの二人だな」

そう言いながら、彼は綿の方へと振り返った。

「綿さんもそう思わない?」

綿は、ワイングラスを強く握りしめた。視線の先――漆黒の瞳が、彼女を見つめていた。

一瞬、呼吸が詰まる。彼女は、表情を変えず、静かに微笑んでみせた。それでも、心は、激しく引き裂かれ、息が詰まるほど痛かった。

――結婚して三年間、彼は一度も彼女を妻として紹介したことはなかったのに。

綿がその理由を尋ねるたび、彼は決まって不機嫌そうにこう言った。

「ただの結婚だろ。わざわざ世間に知らせる必要なんてない。ガキみたいなことを言うな」

今になって思えば、知らせる必要がなかったのではなく、「桜井綿」という存在に、その価値がなかっただけなのだ。

そのことを理解した嬌は、どこか誇らしげに、それでいて少し気恥ずかしそうに微笑んだ。

これは――輝明が初めて、彼女を「妻」として認めた瞬間だった。しかも、その場には綿がいた。

綿はまつげを伏せ、淡く微笑む。

「確かに、お似合いですね」

その一言を聞いた瞬間、輝明の眉がわずかに動く。ポケットの中で、拳がゆっくりと握られた。

――綿に「好きだ」と言われた、あの日のことを思い出す。

彼女は、明るく輝く瞳で、堂々と言い切った。

「誰かがあなたとお似合いだなんて、そんなの絶対に許せない!」

「あなたにふさわしいのは、この私――桜井綿だけよ!」

なのに、今――

彼女は微笑みながら、自分と嬌ちゃんが「お似合い」と言っている。

こんなに従順で、大人しく、穏やかに笑って――いったい、何を企んでいる?

「高杉さん、こちらは僕の友人、桜井綿さんだよ」

ジョンが綿を紹介すると、綿は穏やかな笑みを浮かべ、右手を差し出した。

「はじめまして、高杉さん。お噂はかねがね伺っています」

その言葉に、輝明の瞳が微かに揺れる。

「高杉さん」――それはまるで、一線を引かれたかのような響きだった。

彼女の微笑みは美しかった。けれど、その目の奥には、鋭い刃のような光が潜んでいた。

初めて、彼女に「殺傷力」というものを感じた。

輝明は、その手を取らなかった。

綿は気にしなかった。彼に冷たくされたのは、これが初めてではなかったのだから。

――そもそも、彼にとって「桜井綿」は、尊重に値する存在ではなかった。

その場の異様な空気にも気づかず、ジョンは綿を惜しみなく称賛する。

「綿さんは、僕が今まで出会った中で一番優しくて、素晴らしい女性だよ。本当に尊敬している」

その言葉に、輝明はふとジョンの視線を見た。ジョンの目は、ただの友情だけではない、別の感情を宿していた。

輝明は、冷たく笑う。

何度も嬌に罠を仕掛け、彼女が水を怖がることを知りながら、プールに突き落とした女が――?

クラブで、簡単に男とホテルに行こうとした女が――?

そんな女が、「優しい」?

――笑わせるな。

綿は、彼の嘲笑に気づいた。ゆっくりと表情を崩し、淡々と言う。

「ジョン、高杉さんはどうやら、私のことをあまり好ましく思っていないようです。お話の邪魔をしてしまいましたね」

そう言うと、綿は静かにその場を離れた。

彼女の歩調はゆったりとして、どこか気怠げだった。けれど、背中にある蝶のタトゥーが揺れるたび、まるで生きているかのように艶やかに浮かび上がる。

――だが、輝明にはそれが、ひどく目障りだった。

ジョンは苦笑しながら、軽く肩をすくめる。

「この世に綿さんを嫌う人がいるなんて、信じられないな。もしそんな人がいるなら……きっと、その人の目が見えていないんだろうね」

「……」

綿には、ニュースをチェックする習慣がある。特に彼に関するものは、欠かさなかった。

今朝、彼が嬌と共に新製品発表会に参加したニュースも、彼女は目にしていたはずだ。

――それでも、彼にメッセージを送ることも、電話をかけることもなかった。

本当に、今度こそ、手放すつもりなのか?

嬌は、じっと輝明を観察していた。彼女は、ずっと気になっていた。綿が離婚を申し出た後、輝明は特に喜んでいるようには見えなかった。それどころか、何か考え込むように、時折ふと黙り込むことがあった。

――まさか、綿のことを気にしているの?

その可能性が頭をよぎった瞬間、胸の奥がざわめく。

――そんなはずはない。

そう思いたかった。

だが、その時――

「大変だ!」

大広間の一角から、誰かの叫び声が響く。

「韓井総一郎社長が、心臓発作で倒れた!」
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Comments (1)
goodnovel comment avatar
蘇枋美郷
私の元夫って言ってやれば良かったのに!
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  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0784話

    「でも、易くん……お母さん夢を見たの。日奈が外でうまくやっていけていない夢を……ねえ、これは神様が私を責めているのかしら。嬌ちゃんにもっとよくしてあげなかったことを……」 陸川夫人は涙をこぼしながら、易の腕をきつく握りしめた。 易は陸川夫人を横目で睨みながら、胸に重苦しいものを感じていた。 眉をひそめながら、彼女が自分の腕を握る手を見下ろす。陸川夫人の指は血の気がなく、真っ白になっていた。その痛々しさは一目でわかった。 「お母さん、もうそんなことを考えないで」 易の声にはためらいが滲んでいた。 「嬌は永遠に日奈にはなれないし、日奈だって、嬌によくすることで外で幸せになれるわけじゃない……」 易は、母親のこの夢を打ち壊したくはなかった。 だが、これ以上はごまかせない。現実を直視する時が来たのだ。 母も自分も、そろそろ現実を見なければ。 「いや、嬌に私たちが尽くしてきたことを、天が見逃すはずがないわ!」 陸川夫人は深く息を吸い込んで、ますます顔色が悪くなっていった。 日奈が行方不明になった年、陸川夫人は一時呼吸困難に陥り、死にかけた。 その後、彼女は虚ろな状態が続き、何年も立ち直れなかった。 日奈が行方不明になって3年目には、陸川夫人の精神状態はますます悪化していた。 そんな陸川夫人を見かねた育恒は、施設から子供を引き取ることを提案し、「この子に優しくすれば、きっと日奈も見つかる」と陸川夫人に話した。 それから、あっという間に何年も過ぎた。 育恒は陸川夫人を騙し、自分自身も騙し、そして陸川家全体をも騙し続けていた。 「易くん、お願い……嬌ちゃんを何とかして助け出してちょうだい」陸川夫人は今にも崩れそうだった。 易の胸はえぐられるように痛んだ。 彼は陸川夫人を抱き上げ、ソファに座らせた。 「お母さん……困らせないで」 「易くん、嬌ちゃんはあなたの妹なのよ!」陸川夫人は涙を止められなかった。 「お母さん、陸川家はこの何年も嬌ちゃんに十分な愛情を注いできた。でも、嬌ちゃんがこれ以上やり続けるなら、陸川家全体が巻き添えを食らうことになる!俺には手の打ちようがない!」 そう言い切った瞬間、陸川夫人の目が大きく見開かれた。 まるで何か

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0783話

    輝明はふと顔を上げて言った。 「森下、家には帰らない。医学院近くのラーメン屋に行こう」 森下は意外そうな表情で上司を見て、軽く頷いた。「わかりました」 言葉では「手放す」と言いながらも、実際には綿を忘れることなどできないのだろう。 心から愛した人との思い出、自然と追いかけたくなるものだ。 以前は綿が二人の思い出を探し求めていた。 今では、輝明がそれをしている。 車が医学院近くに停まった時、輝明は手をアームレストに置いたまま、ドアを開けることができなかった。 「……あれは桜井さんですか?」 森下はラーメン屋の中にいる綿の姿に気づき、驚いて声を上げた。 ラーメン屋には大きな窓があり、その前の席に座れば街道を向いた席になる。 綿はその窓際に座り、スマホをいじりながら一人でラーメンを食べていた。 大きな窓越しに、彼女の美しい横顔がくっきりと見えた。 輝明の心は一気に沈み、深い闇に飲み込まれるような感覚に襲われた。 綿は、思い出を忘れていなかった…… しかし、彼は車を降りて彼女の隣に座る勇気を持てなかった。 「桜井さんがここにいるなんて、どういうことでしょうか?」 森下には、このラーメン屋にまつわる二人の思い出を知る由もなかった。 「社長、中に入りますか?」 森下が問いかけると、輝明は首を横に振った。 彼はただ車の中から静かに見つめていた。 綿がラーメンを食べる速度は速くなかった。 時折、スマホを操作する姿も見えた。 髪が何度も顔にかかり、それを後ろにまとめようとするが、ヘアゴムがなくて結べないようだった。 苛立ちがその美しい顔に表れていた。 外は真冬の12月、積もった雪はまだ溶けておらず、道路には氷と雪が混じり合っている。 店内は適度に暖かく、穏やかで居心地の良い雰囲気に包まれていた。 輝明は、思わず微笑んだ。 大学時代と同じだ。 髪を下ろしておきながら、ヘアゴムを持ち歩かないのが彼女の癖で。だから、食事のたびに苛立つのだ。 かつて、夜の10時半ごろ、彼女が彼を連れ出してラーメンを食べに行ったことがあった。 彼を労わりたいと言って、特製トッピングで肉と卵を追加したラーメンを奢ってくれた。

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0782話

    忘れるはずがなかった。彼女の姿が見えなくなるまで、森下の車が到着しても綿はすでにその場を離れていた。しかし、たとえ森下の車が先に到着したとしても、今の輝明はもう綿を無理に車に乗せようとはしなかった。 愛すれば愛するほど、相手を尊重するようになるものだ。彼女の視線ひとつ、話すときの口調ひとつが気になり始める。 綿は言った。 「愛するということは、罪悪感を感じることでもあるけど、それだけじゃなく、大切にすることでもあるの」 「社長」森下が彼を呼ぶ。 「うん」輝明は短く応じた。 「また桜井さんと話がこじれましたか?」森下が尋ねた。 輝明は苦笑いを浮かべた。「彼女はもう、一緒にラーメンを食べることすら嫌がるようになった」 「社長、焦らずに少しずつ進めていきましょう」森下が慰めるように言った。 輝明は首を振る。「無力感がひどいよ」 誰にもt理解できない。どう頑張っても報われないこの感覚を。 森下はため息をつきながら言った。「でも社長、桜井さんはあなたを愛するために、7年間もの間ずっと耐え続けてきたんです。一人の女性に愛される7年間なんて、人生でいくつもあるわけじゃないですよ」 もしも自分を7年間も愛し続けてくれる人がいるなら、たとえ神様が現れても、自分の人生は彼女のためだけのものになるだろう、と森下は思った。 「やはり嬌が原因ですね」森下はそう呟くと、つい悪態をつく。 輝明は目を上げ、「彼女はどうしている?」と尋ねた。 「すでに目を覚まし、また留置場に戻されました。陸川家は依然として動きを見せていません。彼女を見捨てたようにも見えます」 輝明は訝しげに眉をひそめる。見捨てた?あんなに嬌を可愛がっていた彼らが? 「陸川家が何を企んでいるのか、調べて」 「分かりました。社長、とりあえず家にお送りしますね」森下は車のドアを開け、輝明に車に乗るよう促した。 そのとき、横を通るスタッフがクリスマスツリーを担いでホールへと運んでいるのが目に入る。 輝明はそれを見て呟いた。「もうすぐクリスマスか」 「ええ、クリスマスですね。前に……」 森下は何かを言いかけたが、考え直したように笑いながら言葉を変えた。「とにかく、帰りましょう、社長」 「何を思い出

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0781話

    綿は眉をひそめた。「高杉さん、食事が足りなかったの?」 輝明は視線を落とし、過去の記憶を思い返していた。大学時代、彼が部活の用事で遅くなる日々が続いていた頃、綿がインスタントラーメンや手作りの麺類を持って訪れてくれた。あの頃は寒い冬だったが、二人の心は今よりもずっと温かかった。 だが、もう四年も心穏やかに一緒に食事をする機会がなかったのだ。 ふと、二人でラーメンを食べたあの日々が懐かしくなった。 けれども、彼女はその記憶をすっかり忘れてしまったのだろうか。 「味の好みが似ていたと思うんだけど」 彼は森下に電話をかけ、車を呼び出すよう指示した。 綿は微笑んだが、目は冷めていた。 「必要ない。用事があるので帰ります」 彼女がその場を立ち去ろうとした瞬間、輝明は彼女の腕をつかんだ。 その動きに、綿は彼の手に目をやり、黙って「放して」という意思を込めた視線を送った。 その視線に気づいた輝明は言った。 「越えたことはしない。ただ一杯のラーメンをご馳走したいだけだ。それを食べたら、すぐに送るよ」 彼の声は低く、静かだった。 綿はため息をつき、苛立ちを隠さずに言い返した。 「高杉さん、これが既に越えているんですよ」 輝明は一歩も引かない。 「研究所に2000億を投資したばかりだ。一緒に食事をするくらいのことも許されないのか?」 綿は皮肉たっぷりに笑った。 「高杉さんはご自分でおっしゃいましたよね。これは私のための投資ではないと。それなら、10000億を投資されても、私は食事の義務を負いませんよ」 輝明は短く息をつき、三秒間黙った。 再び立ち去ろうとする綿の腕を、彼は再びしっかりと握った。 今度はその目がわずかに悲しげで、委ねるような弱々しい光を宿していた。 彼の行動は、「他意はない。ただ食事を共にしたいだけだ」と語っているようだった。 彼がこんな風に誰かに懇願する姿を見たことがあっただろうか? 少なくとも、彼女は少年時代の彼の生意気で堂々とした姿をよく覚えている。あの頃、誰も彼の口から「お願い」を聞いたことがないと言われていた。 「今回だけ」 彼の声はかすれていて、低く、かつ切実だった。 綿は唇を噛み、わずかに動揺し

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0780話

    徹はその場を和らげるように笑みを浮かべた。 「たしかに。世間では高杉さんの資産についていろいろ噂がありますが、一番詳しいのは桜井さんじゃないですか?」 綿の表情は一瞬で冷たくなった。 「それはがっかりさせるでしょうね」 彼女は淡々とした声で言葉を続けた。 「私は高杉さんがどれだけの資産を持っているかなんて知りませんし、知る機会もありませんでした。結婚していた3年間、一円たりとも彼の金を使ったことはありません。それどころか、笑顔すら向けられたことがありませんでした」 この一言は、冷水を浴びせかけたようにその場の空気を一気に冷やした。 徹は慎重に輝明の顔色をうかがった。食事の場に彼も同席しているのだから、綿の発言はあまりにも無遠慮だった。だが、不思議なことに、輝明は何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を聞いていた。 しばらくして、彼が口を開く。 「もう一度、桜井さんと結婚してみたらどう?」 言葉を言い切る前に、綿がすかさず声を上げる。 「何のために?一度死んでみて懲りずに、また二度目の死を試したいの?あなた、そんなに簡単に騙されるようには見えないけど?」 輝明はしばし沈黙した。 彼女の反応があまりに鋭かったので、彼は話題を切り替えることにした。 「投資の話に戻りましょう」 だが、綿は冷たい口調で言い返す。 「投資ね?それならまず2000億を出して誠意を見せてよ」 彼女は腕を組み、苛立ちを隠そうともしない。 徹は内心冷や汗をかいていた。もし二人が本格的に言い争い始めたらどうすればいいのか。輝明が我慢しきれず、研究所を潰すような行動に出たらどうなるのか。 この二人の関係はそうだと知ったのなら、輝明を助けるんじゃなかった。彼がそんな懸念を抱いている間に、輝明は口元に笑みを浮かべ、静かに言った。 「2000億では足りないでしょう。では、6000億を投資しましょうか。それで誠意は十分と言えるでしょうか?」 彼はスーツのポケットから小切手を取り出し、さらりとテーブルに置いた。 綿は言葉を失った。 徹がその場を取り繕うように笑いながら言った。「二人とも、そのへんでやめにしましょう。まずは食事を楽しみましょう」 綿は目の前の小切手を手に取って確

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0779話

    夜、クラウドダイニング。 綿は白いワンピースに濃い色のコートを羽織り、手には世界限定のバッグを持って店内に入った。その瞬間、注目の的となった。彼女の全身から感じられる上品さと優雅さが周囲の注目を集めたのだ。 知人を見つければ微笑み、店員に案内される際は「ありがとうございます」と静かに声をかける。その所作一つ一つが自然に人々の好感を引き寄せた。 最近、嬌が警察に連行されて以降、人々は改めて綿という人物を見直しているようだった。 遠くからでも輝明と徹が話しているのが見えた。彼らは何か楽しそうな話をしているようで、徹は朗らかに笑っていた。 綿は口元を引き締め、表情を整えた後、きっぱりとした足取りで彼らの元へ向かった。 「来たね」 徹が彼女を見つけて声をかけると、輝明も振り返った。その視線の先には、コートを脱ぎ、店員に渡す綿の姿があった。 彼女は袖を軽くまくって、ゆっくりと徹のそばに腰掛けた。 その首元にはバタフライのモチーフのネックレスが輝いており、白い肌を際立たせていた。爪にはネイルが施されていなかったが、全体の美しさにまったく影響を与えない。 髪はざっくりとまとめられ、クリップで留められているだけだったが、それでも整然としていた。 彼女は視線を上げ、輝明に向けて控えめな微笑みを浮かべた。 「高杉さん、こんばんは。研究所の院長をしております桜井綿と申します。自己紹介は不要ですよね?」 その声には微かな距離感が漂っていた。 輝明は黙り込んだ。彼女とは十分に知り合いだ。確かに自己紹介の必要などない。 一方、徹は二人を交互に見ながら、ようやく綿が彼に強い拒絶感を抱いている理由を理解した。この二人が顔を合わせると、場の空気がどうにも重い。 「まあ、友人として軽く食事をしながら、研究所のプロジェクトや進捗について少し話せればいいんじゃないかな」 徹は場を和らげようと口を挟んだ。 「ああ、そうですね。でも、高杉さん、理解できるでしょうか?このパートも省いてしまって構いませんよね?」 綿の言葉に、輝明は微笑みを浮かべた。 徹は心の中で冷や汗をかいた。いくら場を繕おうとしても、綿のこの態度では話にならない。投資家にこんな扱いをするなど、とても許されるものではない。

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0778話

    綿が疲れたように電話越しで文句を言うのをやめると、電話の向こう側から穏やかな声が聞こえた。 「もう言い終わった?」 彼女は歯を食いしばりながら答える。 「終わった!」 「水でも飲めよ」 その言葉に、綿は皮肉な笑みを浮かべた。 「あなたって本当に!」 彼女が言い終わらないうちに、輝明は静かに彼女の言葉を遮った。 「投資したいと望んだのは俺じゃない。山田徹がこの話を持ち上げてきたんだ」 その言葉に綿は詰まった。 「山田さんが言うには、研究所の後期の費用負担がますます大きくなるそうだ。俺が参加すれば研究がスムーズに進む、とね。もし君が俺の参加を望まないなら、参加しない」 彼の声は誠実で、まるで彼女のためにすべてを引き下がる覚悟を持っているかのようだった。 「君たちの役に立てると思っていただけだ。申し訳ない……」 そのトーンに、綿の心は微妙に揺れた。 「本当に、あなたが自ら望んで参加したわけじゃないの?」 「違う」 輝明は即座に答えた。 綿は眉をひそめ、さらに問い詰めた。 「じゃあ、山田さんは私たちの関係を知っていながら、あえてあなたを引き込んだの?」 輝明は苦笑しながら否定した。 「彼に悪意はないよ。それに、君が研究所にいるから俺を選んだわけでもない。ただ単に、俺が適任者だっただけだ」 綿はそれ以上言葉を発することなく、電話を切ろうとした瞬間、再び彼の冷静な声が響いた。 「今、彼が求めているのは俺の資金だ」 彼の言葉に、綿は立ち止まった。 だから山田さんはあの食事会に出席するよう頼んだのね。 すべてが一瞬で理解できた。 彼女を通じて、輝明の投資を取り付けたいのだ。 その時、彼の声がさらに柔らかく聞こえてきた。 「俺は約束したことは守る。手放すと言ったからには、君を自由にする」 彼の声は低く、どこか本心を隠したような響きがあった。 綿はそれ以上答えず、電話を切った。 彼が本当に言葉通りに行動するのかどうか、それはまだわからない。 彼女はスマホを机に叩きつけるように置き、深く息を吐いた。 さっきまでの苛立ちは消え、少し気持ちが楽になった。 彼が無理に参加しようとしたわけじ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0777話

    徹は陽菜を連れて研究所を出ていった。 綿は椅子に腰を下ろし、しばらく考え込んでいた。 この研究所のトップは結局、徹だった。 この事実を前に、彼女の心にはどうしようもない苛立ちが湧き上がっていた。 もしここに祖母がいたら、徹は祖母をこんなふうに困らせたりはしなかっただろう。 むしろ祖母の方が、研究所のために自ら進んで譲歩していたに違いない。 綿は首を振り、心を落ち着けようとする。 「早くこの研究を完成させて、この場を離れたい」 その思いが胸中でますます強くなる。 「すべてが片付いたら、山奥に隠居して暮らそう」 ふとそんな未来を想像した。 もし父の会社が自分を必要とするなら、会社を継ぐのも悪くない。 「でも、父が必要としないなら?」 そんな時は、かつての夢を追いかけ、国外で留学し、ジュエリーデザインを学ぼう。 彼女はふと溜息をつく。考えれば考えるほど、怒りが心の中で燃え上がっていくのを感じる。 苛立ちを抑えられない彼女は、スマホを取り出し、ブロックリストを開く。 そこには輝明の番号が登録されていた。 彼女は一瞬躊躇したものの、彼をリストから外し、電話をかけた。 ……出ない。 呼び出し音だけが続く。 もう一度かけても応答がなく、綿は眉をひそめた。 三度目をかけるのは嫌になり、スマホを机の上に放り投げたその時―― スマホが振動した。 画面に映し出された名前は「高杉輝明」。 彼女の表情は一瞬で冷たくなった。 「わざと?」彼女はそう思わずにはいられなかった。 彼女が諦めると、わざわざかけ直してくるとは…… 綿は電話に出るが、音声をスピーカーに切り替え、机に置いたまま黙り込む。 しかし、電話の向こう側からも何の声も聞こえてこない。 ……何も言わない? 両者の間に張り詰めた沈黙が続く。そして、彼女は苛立ちを募らせながら電話を切った。 何様のつもりなのよ! 彼女の声が室内に響く。 一方、輝明のオフィス。電話を切られた彼は、静かに森下を睨みつけた。 森下は冷や汗をかき、困った表情を浮かべた。 実は綿からの電話に輝明は驚いていた。まさか彼女が自分をブロックリストから外して電話し

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0776話

    徹はうなずき、静かに言った。 「今後の消耗はどんどん増える一方だ。だから、実力のある人が加わるなら、それに越したことはない」 「その人とは誰ですか?」 綿が問いかけた。 「夜になればわかる」 徹は笑顔を見せ、続けた。 「そのためにわざわざ君を探しに来たんだ」 彼の言葉には暗に「断らないでほしい」という意味が込められていた。 綿は沈黙した。 彼女の中には漠然とした不安が広がっていた。 「それって、輝明ですか?」 綿が探るように言うと、徹は驚いた顔を見せた。 彼女がこれほど敏感だとは思わなかったのだ。 「もし彼なら、でも――」 彼が言葉を続ける前に、綿がそれを遮った。 「山田さん、もし輝明があなたにいくら投資しているのか教えてください。私がその倍を出します」 彼女の声には冷たさがあり、その表情には一切の妥協が見られなかった。 彼女はその男を研究所に関与させたくなかった。 「桜井さん、感情的にならないでくれ!輝明が投資してくれるのは、我々にとって重要な機会なんだ」 徹は真剣な顔で説得するように言った。 だが、綿は静かに首を振った。 「山田さん、もう一度よく考えてください」 「考えた上での結論だよ。だからこそ、夜に来てほしいんだ」 彼の声には固い決意が滲んでいた。 綿は言葉に詰まった。 徹の眉間には一瞬皺が寄った。 綿の胸中には苛立ちが広がっていく。 彼女は強く逆らいたい気持ちを抑えきれない。 しかし、彼女には理解していることがあった。 研究所では、彼女が院長であり投資家であるとはいえ、その立場は徹の好意に依存しているということだ。 彼女の出資額は徹のそれに及ばず、この研究所の創設者も徹だった。 彼女はあくまで「共同経営者」でしかない。 彼女が意見を言う資格はあるが、それを受け入れるかどうかは徹次第だった。 さらに、彼女が自ら身を引くこともできる。 だが、「SH2Nの研究を完成させること」は、彼女の祖母の夢だった。 彼女が去ることは、その夢を裏切ることに等しかった。 徹も、自分が競争から外れることを恐れていないのかもしれない。結局のところ、綿が一人去ったとこ

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