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第0005話

Author: 龍之介
夜、シャロンホテル33階。

華やかな酒宴が進むなか、大きな窓からは雲城の夜景が一望できる。

ピアノの優雅な旋律が響き、ワインの香りが漂う会場の片隅、綿はバーの前に寄りかかり、無造作にワイングラスを揺らしていた。

半開きの目で、退屈そうに周囲を見渡す。

男たちの視線は、ひそかに彼女に集まっていた。だが、その堂々たる美しさに圧倒され、誰も声をかけることができなかった。

今日の彼女は、黒いキャミソールロングドレスを纏っている。スカートの裾には細やかなプリーツが施され、歩くたびにスリットから伸びる白い脚がちらりと覗く。

ドレスは彼女の身体を優雅に包み込み、流れるような曲線を際立たせる。カールした髪が背中に落ち、その肌には蝶のタトゥーが美しく浮かび上がっていた。

そんな彼女の手元で、スマホが震える。綿は視線を落とし、届いたメッセージを見る。

天河『酒宴に行った?』

綿『うん』

短く返信し、ため息をつく。

昨晩、酔い潰れた彼女を家まで送り届けた天河は、今夜の宴への出席を説得し、さらには「お見合い相手」まで手配していた。

問題は、彼女が酔った勢いで、それを承諾してしまったことだった。

酒に酔った時の約束ほど、厄介なものはない。

「……綿さん?」

耳元で、不意に聞こえた。どこかたどたどしい、拙い日本語。

不意に顔を上げると、金髪碧眼の男が立っていた。

そして、その目を輝かせながら、驚きの声を上げる。

「本当に君なのか?」

綿もまた、思わず驚いた。

「……ジョン?」

どうしてここに――?

傍らにいたアシスタントが、不思議そうに尋ねる。

「ジョン様、桜井様とお知り合いですか?」

ジョンは微笑みながら頷く。

――五年前。

海外旅行中、事故に遭ったジョンを助けたのは、彼女だった。

「ジョン様は、本日の特別ゲストでいらっしゃいます」

アシスタントが説明する。

「桜井様はご存じないかもしれませんが、ジョン様は現在、海外で非常に注目されている金融投資家なのです」

綿は、ぼんやりと彼を見つめた。

――ジョンが、そんなに成功しているなんて。

五年前、彼は家もなく、橋の下で暮らすホームレスだったというのに。

ジョンは謙虚な笑みを浮かべ、照れくさそうに言った。

「いやいや、大したことないよ。それより、あの時は本当に綿さんに助けてもらったんだよ」

彼女がいなければ、きっとあの橋の下で死んでいただろう。綿は、彼の命の恩人だ。

「今回はどうして日本に?」

綿が尋ねると、ジョンは笑顔でドアの方を指差した。

「高杉さんとの仕事でね」

――その名前を聞いた瞬間、綿の呼吸が止まった。

雲城で「高杉」といえば、彼女が最も会いたくない、あの人しかいない。

綿が顔を上げると、そこに立っていたのは彼女が最も会いたくない男、高杉輝明だった。

男はオーダーメイドのスーツをまとい、颯爽とした姿勢で立っている。広い肩と引き締まった腰のバランスが見事で、洗練された雰囲気を漂わせていた。

宴会場に足を踏み入れるや否や、その場の視線は一斉に彼へと向けられた。多くの人々が彼に話しかけ、少しでも顔を覚えてもらおうと必死になっている。

彼は若いにもかかわらず、その地位は揺るぎなく、年配の実業家たちでさえ「高杉様」と敬意を込めて呼ばざるを得なかった。

綿にとって、輝明は――彼女を愛していないことを除けば、完璧な男だった。

彼の隣には、白いドレスをまとった小柄な女性が寄り添っていた。

陸川グループの令嬢、陸川嬌。

陸川家は雲城の四大家族の一つで、その華やかな背景は言うまでもない。

両親からの溺愛に加え、彼女には三人の兄がいて、誰もが彼女を大切にしていた。

綿と嬌は長年の友人だった。

だが皮肉なことに、二人は同じ男を愛してしまった。

愛だけでなく、友情さえも失った。

彼女は、完全な敗者だった。

嬌はそっと輝明の腕に手を絡ませ、二人は微笑みを交わす。輝明の表情には、穏やかな優しさが滲んでいた。

――嬌に対して、彼はいつも優しかった。

その光景を目の当たりにした瞬間、綿の胸が強く締めつけられた。

――結婚していた三年間、彼は一度もこんな風に微笑んだことはなかったのに。

まるで、彼女との結婚など最初から存在しなかったかのように。

「綿さん、あの人が有名な高杉さんだよ。紹介するね」

ジョンはそう言いながら、綿の手を取り、高杉輝明の方へと歩き出した。

綿は思わず苦笑した。

――私に、誰かがわざわざ高杉を「紹介」する必要があるの?

七年間。

彼の優しさも、情熱も、冷たさも、すべて見てきたのは、誰よりも自分なのに。

「ヘイ、高杉さん!」

ジョンが明るい声で輝明に呼びかける。

輝明はまずジョンに視線を向けたが、次の瞬間、綿の姿をとらえた。

綿は思わず息を呑んだ。

――目が合ってしまった。

不意を突かれたように、彼女は反射的に身を翻し、その場を立ち去ろうとする。しかし、ジョンが綿の手首を握り、引き止めた。

輝明の目が、一瞬だけジョンの手元に落ちる。そのまま冷静な表情で、しっかりと彼の手が綿を掴んでいるのを見つめていた。

――離婚したばかりで、もう次の男か。綿も、なかなかのやり手だな。

「綿ちゃんも来てたのね」

嬌が驚いたように声を上げる。

ジョンは嬌の方を見て、意外そうに尋ねた。

「えっ?高杉さんって、既婚者だって聞いてたけど……もしかして、この方が奥さん?」

――その言葉を聞いた瞬間、綿の目が暗く沈んだ。

結婚して三年。

彼女という「妻」は、まるで泡のように儚く、あまりにも小さな存在だった。

ジョンと同じように、彼女が輝明の妻であることを知らない人間は多い。

それはつまり――輝明自身が、そう扱ってきたということ。

嬌は、一瞬躊躇うように輝明を見上げた。彼の腕をそっと握りしめる。

――この場で、自分にどんな「立場」を与えてくれるのか。

緊張したような表情で、それを待っている。

輝明は、ほんの一瞥だけ綿に向け、冷たく言った。

「そうだ」

「へぇ、高杉さんは才能があって、奥さんは美しい。まさにお似合いの二人だな」

そう言いながら、彼は綿の方へと振り返った。

「綿さんもそう思わない?」

綿は、ワイングラスを強く握りしめた。視線の先――漆黒の瞳が、彼女を見つめていた。

一瞬、呼吸が詰まる。彼女は、表情を変えず、静かに微笑んでみせた。それでも、心は、激しく引き裂かれ、息が詰まるほど痛かった。

――結婚して三年間、彼は一度も彼女を妻として紹介したことはなかったのに。

綿がその理由を尋ねるたび、彼は決まって不機嫌そうにこう言った。

「ただの結婚だろ。わざわざ世間に知らせる必要なんてない。ガキみたいなことを言うな」

今になって思えば、知らせる必要がなかったのではなく、「桜井綿」という存在に、その価値がなかっただけなのだ。

そのことを理解した嬌は、どこか誇らしげに、それでいて少し気恥ずかしそうに微笑んだ。

これは――輝明が初めて、彼女を「妻」として認めた瞬間だった。しかも、その場には綿がいた。

綿はまつげを伏せ、淡く微笑む。

「確かに、お似合いですね」

その一言を聞いた瞬間、輝明の眉がわずかに動く。ポケットの中で、拳がゆっくりと握られた。

――綿に「好きだ」と言われた、あの日のことを思い出す。

彼女は、明るく輝く瞳で、堂々と言い切った。

「誰かがあなたとお似合いだなんて、そんなの絶対に許せない!」

「あなたにふさわしいのは、この私――桜井綿だけよ!」

なのに、今――

彼女は微笑みながら、自分と嬌ちゃんが「お似合い」と言っている。

こんなに従順で、大人しく、穏やかに笑って――いったい、何を企んでいる?

「高杉さん、こちらは僕の友人、桜井綿さんだよ」

ジョンが綿を紹介すると、綿は穏やかな笑みを浮かべ、右手を差し出した。

「はじめまして、高杉さん。お噂はかねがね伺っています」

その言葉に、輝明の瞳が微かに揺れる。

「高杉さん」――それはまるで、一線を引かれたかのような響きだった。

彼女の微笑みは美しかった。けれど、その目の奥には、鋭い刃のような光が潜んでいた。

初めて、彼女に「殺傷力」というものを感じた。

輝明は、その手を取らなかった。

綿は気にしなかった。彼に冷たくされたのは、これが初めてではなかったのだから。

――そもそも、彼にとって「桜井綿」は、尊重に値する存在ではなかった。

その場の異様な空気にも気づかず、ジョンは綿を惜しみなく称賛する。

「綿さんは、僕が今まで出会った中で一番優しくて、素晴らしい女性だよ。本当に尊敬している」

その言葉に、輝明はふとジョンの視線を見た。ジョンの目は、ただの友情だけではない、別の感情を宿していた。

輝明は、冷たく笑う。

何度も嬌に罠を仕掛け、彼女が水を怖がることを知りながら、プールに突き落とした女が――?

クラブで、簡単に男とホテルに行こうとした女が――?

そんな女が、「優しい」?

――笑わせるな。

綿は、彼の嘲笑に気づいた。ゆっくりと表情を崩し、淡々と言う。

「ジョン、高杉さんはどうやら、私のことをあまり好ましく思っていないようです。お話の邪魔をしてしまいましたね」

そう言うと、綿は静かにその場を離れた。

彼女の歩調はゆったりとして、どこか気怠げだった。けれど、背中にある蝶のタトゥーが揺れるたび、まるで生きているかのように艶やかに浮かび上がる。

――だが、輝明にはそれが、ひどく目障りだった。

ジョンは苦笑しながら、軽く肩をすくめる。

「この世に綿さんを嫌う人がいるなんて、信じられないな。もしそんな人がいるなら……きっと、その人の目が見えていないんだろうね」

「……」

綿には、ニュースをチェックする習慣がある。特に彼に関するものは、欠かさなかった。

今朝、彼が嬌と共に新製品発表会に参加したニュースも、彼女は目にしていたはずだ。

――それでも、彼にメッセージを送ることも、電話をかけることもなかった。

本当に、今度こそ、手放すつもりなのか?

嬌は、じっと輝明を観察していた。彼女は、ずっと気になっていた。綿が離婚を申し出た後、輝明は特に喜んでいるようには見えなかった。それどころか、何か考え込むように、時折ふと黙り込むことがあった。

――まさか、綿のことを気にしているの?

その可能性が頭をよぎった瞬間、胸の奥がざわめく。

――そんなはずはない。

そう思いたかった。

だが、その時――

「大変だ!」

大広間の一角から、誰かの叫び声が響く。

「韓井総一郎社長が、心臓発作で倒れた!」
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Comments (1)
goodnovel comment avatar
蘇枋美郷
私の元夫って言ってやれば良かったのに!
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  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0703話

    「黒崎さん、おめでとうございます」綿は丁寧に声をかけた。キリナは微笑みながら、同じく礼儀正しく返した。「ありがとうございます、桜井さん。ご光臨いただけて感謝しております」「玲奈が忙しくて来られないから、代わりに私が来ました。黒崎さんから招待状をいただいていませんので、勝手にお邪魔してしまいました。どうぞご容赦ください」綿は柔らかな微笑みを浮かべながらも、一方で招待状が送られていないことを遠回しに指摘し、もう一方では自分がここに来た理由を伝えた。キリナは少し気まずそうな表情を浮かべる。実際、桜井家に招待状を送るつもりはなかった。一つは、適切ではないと感じたからだ。綿の母親である盛晴はすでにデザイン業界で名の知れた人物だったが、彼女の専門は服飾デザインであり、キリナのジュエリー展覧とは畑違いだ。そしてもう一つ、綿との関係が少々複雑だったためだ。さらに、輝明も招待していたこともあり、様々な事情を考慮した結果、綿への招待は見送った。だが、まさかこんな形で彼女が現れるとは思ってもみなかった。「気まずがらなくても大丈夫ですよ。黒崎さんには黒崎さんのご事情があるのでしょう」綿はキリナのためにわざと場を和らげる言葉を口にする。しかし、かえってそれがキリナの気まずさを深めたようだ。「それでは、桜井さん、中へどうぞ」彼女は奥を指し示した。綿は一声返事をして中に進む。背後でキリナが誰かに話しているのが耳に入った。「バタフライさんから返事は来た?今日、来るのかしら?外にはたくさんのマスコミが待っているのよ。私が大々的に話題にしたからよ。バタフライさんが来るって」「社長、バタフライさんからは返信がありません。おそらく、来ないのではないかと……」「それじゃ、私の面目が丸潰れじゃない!」キリナの隣にいた男性がすぐさまフォローする。「何をおっしゃるんですか。あのバタフライさんですよ?誰にでも簡単に招ける方じゃないんですから、皆さんだって理解してくれますよ。それに、どうしてもなら、バタフライさんが裏切ってきたとか、ギャラの条件が合わず来られなかったとか、適当に言い訳すればいいんですよ!」綿は思わず後ろを振り返った。――ギャラが合わず来られなかった。なんて適当な言い草だ。人を貶めるなんて、それほど簡単なことなのか。綿の顔は冷たくな

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0702話

    「そうだね」綿は天河と一緒に階段を上がった。 「お前、行く気はあるのか?招待状を用意してやるぞ」天河は、綿がジュエリーを好きなことを覚えている。 「大丈夫よ。玲奈が行けないので、彼女の代わりに行くわ」 「そうかそうか。玲奈は最近も忙しいのか?」 「もちろん。でいうか、パパの誕生日のとき、彼女が特別に帰ってきたんだよ」 「ほう?俺の記憶じゃ、ちょうど休みと重なっただけだったと思うが?」 「パパ……分かってるけど、言わないのが大人の態度ってもんよ」 ……ソウシジュエリーの展示会。 キリナはマスコミのインタビューを受けていた。今日の展示会は非常に盛大で、炎の展示会をも上回るほど人々を驚かせた。 綿は黒いワンピースに身を包み、外には毛皮のコートを羽織っていた。足元はヒール、優雅さと品格を兼ね備えた姿だ。 彼女は今日は玲奈の名義で参加しており、玲奈に恥をかかせないよう完璧に装った。玲奈から「気に入ったジュエリーがあれば写真を撮って、ソウシジュエリーを応援してね」と言われていたのだ。業界ではソウシジュエリーが勢いに乗っていると評判だ。この機会にキリナと顔見知りになっておけば、将来的にジュエリーを求める際に、キリナがあまり意地悪をしないだろう。 「桜井さんがいらっしゃいました!」受付のサインエリアで記者たちが声を上げた。 「久しぶりに桜井さんを拝見しましたが、ますます美しくなられましたね!」 「本当ですね、桜井さんは離婚後、どんどん綺麗になっていらっしゃる。逆に高杉社長の方が少し疲れているようですね」 綿は彼らの言葉を聞き、微笑みながらサインエリアで名前を書いた。 彼女は自分の名前をサインしたが、持っているのは玲奈からもらった招待状だった。記者たちが綿に質問すると、彼女はきっぱりと答えた。 「玲奈は雲城にいませんので、彼女の代わりに来ました」 この言葉を、少し早く会場入りしていた陽菜が聞いていた。 陽菜は驚いた様子で、綿もこの展示会に来るとは思わなかった。前日、ソウシジュエリーの話をしたときの綿の無関心な表情を思い出していたからだ。 「まさか、桜井も招待状を持っているなんて……」陽菜は内心で舌打ちした。ソウシジュエリーの招待状は非常に貴重で、簡単には手に入ら

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0701話

    天河は手を伸ばし、綿の頭を軽く叩いた。「何を馬鹿なことを言ってるんだ?」綿は怠けたように笑い、天河の腕に抱きついて言った。「パパ、私は本当にパパが大好き」「そうか、本当に愛してるんだな?愛してるなら、なんで父娘の縁を切るなんて言ったんだ?」天河は根に持っている様子だ。綿は唇を尖らせた。「パ〜パ」「パパ?俺が何回も綿って呼んでも、お前は振り向きもしなかったな!最後は人にひどい目に遭わされて戻ってきたんだ!」天河は心底悲しんでいる様子だった。一生懸命家族のことを考えてきたのに、大切な娘は男のために父親との縁を切ると言ったのだ。天河の失望は大きかった。「パパ、昔は私が未熟だったの。これからは本当に迷惑をかけないから」綿は父親の心を傷つけたことを知っていた。だからもう二度とそんなことはしないと心に決めた。「もういい、そんなことを言うな。家族なんてものは、迷惑をかけたり負担をかけたりするためにいるもんだ」天河は娘の手を軽く叩きながら、ため息をついて言った。「老後、俺とお前の母さんを邪魔だなんて思うなよ!」綿は首を横に振った。「そんなことはしないよ。ずっと一緒にいるから」「じゃあ、ちょっと聞くけど」天河は向き直り、真剣な表情で言った。「俺の友人が今日病院でお前を見たって言うんだが、病院で何してたんだ?」綿は一瞬怯んだ。「えっ?」「高杉家のばあさんが倒れたって聞いたぞ。本当のことを言え、病院に行ったのはそのおばあさんを見舞うためか?」天河は、何もかも知っているぞという顔で綿を見た。綿は唇を尖らせた。「友人が見たって言うなら、きっと誰と一緒にいたかも知ってるんでしょ。なんで改めて聞くの?」「その通りだ!俺の友人は、お前が輝明と一緒にいたって言ってたぞ!それだけじゃない、お前が彼の面倒を見ていたって!ああ、腹が立つ!」天河は大げさに太腿を叩きながら叫んだ。「俺の娘がどうしてそんなことをするんだ?あんなクズ男の世話をするなんて、どういうつもりだ!」天河の顔は赤くなっていた。実際、彼は綿が帰宅するのを待ちながら、この話をどう切り出すか考えていたのだ。離婚したのに元夫の世話をするなんて、これはもう自分から求めているようなものじゃないか。「パパ、私……」綿は少し考えて言った。「たしかに離婚したし、感情もないけど。でも、情はあるで

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0700話

    輝明は眉間に皺を寄せ、不快感を隠せなかった。「またか?どこの部門だ?」 「また安全監査部です。上からの指示らしいです……」森下の声は焦りが滲んでいた。「社長、一度会社に戻っていただけませんか?」 輝明は点滴のボトルを見上げた。 綿は彼をじっと見つめ、彼が何をしようとしているのかを察したようだった。「点滴がまだ終わってないわよ」 輝明は唇を引き結び、「終わってからまた打つよ」と言って電話を切った。彼は立ち上がり、自分で点滴の針を抜こうとした。 綿はそれを止めようと一歩踏み出したが、彼のはっきりした動作を目にし、再び手を引っ込めた。 彼女は、これ以上踏み込むべきではないと感じた。 輝明は、差し出されてから引っ込められた彼女の手を見て、意味深な眼差しで彼女を見つめた。「君の言うことを聞くよ。この件が片付いたら、ちゃんと胃を労わる」 そう言い残し、彼は上着を掴んで病室を後にした。 綿はその場に立ち尽くし、空っぽになった病室を見つめながら、静かに笑った。 「私の言うことを聞く?それはないわ」 彼女は苦笑しながら心の中で呟いた。 「聞くのは自分の声だけ」 かつて彼は彼女の言葉など聞いたことがなかった。そして今、離婚してから急に「聞く」と言う。それが滑稽に思えた。 綿は病室を後にした。 廊下で待っていた看護師が声をかけてきた。「桜井さん、また高杉さん、点滴を途中でやめちゃったんですか?」 綿は苦笑いを浮かべた。また?じゃあ初めてじゃないのね。 「まあ、彼の命ですから。私たちがどうこうできるわけじゃない。彼が治療を嫌がるなら、無理やりベッドに縛り付けるわけにもいかないでしょう?」 看護師は困り顔で言った。「高杉さん、本当に誰の言うことも聞かないんですよね」 その言葉に綿の心が少し痛んだ。 誰の言うことも聞かない?違う。かつて彼は嬌の言葉を聞いていた。 …… 夜の11時過ぎ、綿が帰宅すると、すでに疲れていた。 病院から戻った後は、柏花草のエキスを取り出す作業をしていたのだ。 天河はまだ起きており、仕事を片付けながら愛娘を待っていた。 「おや、今日は特別な日か?研究所で寝泊まりしてるんじゃないのかと思ったぞ」 綿は上着を脱ぎながら

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0699話

    病室のドアが押し開けられ、綿が振り向くと、秀美が入ってきた。 秀美は尋ねた。「明くんはどこにいるの?」 「胃の具合が悪くなったので、急診に連れて行き、点滴を受けてもらいました」綿が答えた。 秀美は少し驚いた表情を見せたあと、ため息をついた。「この子、本当に心配ばかりかけて……綿ちゃんがいなくなってから、あの子の生活はまるで破綻してしまったようなもの。綿ちゃん、私は……」 秀美は綿を見つめた。何か言いたげな様子だが、目の前の彼女を見ているうちに、言葉を飲み込み、何も言わず、ただ深いため息をついた。 綿は秀美を見つめ、その姿に心が締めつけられる思いだった。 おばあちゃんが倒れ、輝明が次々と問題に直面し、家のことはすべて秀美が背負わなければならなくなった。 しかし、彼女も仕事を持つ身だ。 大人の世界は本当に厳しく、不条理なものだと感じた。綿は彼女を気遣い、できるだけ力になろうと思った。 「おばさん、もう何も言わないでください」 綿は微笑みながら秀美の肩を軽く叩き、続けてこう言った。「これから毎朝、おばあちゃんの様子を見に来ます」 「分かったわ」 秀美は感激した表情で頷いた。 美香が綿を可愛がったのも納得だ。綿は家族の中でも特に孝行で、秀美にとっては感謝の念でいっぱいだった。 モニターには、おばあちゃんの心拍が徐々に安定していることが表示されていた。 綿は安心して秀美に挨拶をし、部屋を出た。 彼女は小林院長にメッセージを送った。【院長、おばあちゃんに救心薬を飲ませました。状態は落ち着いています。引き続き、病院での見守りをお願いできればと思います】 小林院長からすぐに返信があった。【わかった。桜井先生、こちらも全力でサポートする。一緒に頑張って、お祖母様を必ず元気にしましょう】 彼は綿と連携できることを喜び、いつか彼女が段田綿として病院に来て、さらに多くの人を救うことを願っていた。 綿が緊急室に戻ると、輝明は眠っていた。 きっと相当疲れているのだろう、眠っていてもおかしくない。 彼女は病床のそばに立ち、彼の眉と目を見つめて複雑な感情を抱いた。 看護師が入ってきて点滴を確認し、小声で話しかけてきた。「桜井さん、お帰りなさい」 綿は頷き、看護師

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0698話

    輝明は黙ったまま立ち上がり、綿のもとへ向かった。 かつての穏やかな雰囲気とは違い、冷たく、どこか強引だった。 綿は本当に変わった。彼を愛していたその心だけでなく、他の多くの面でも変わってしまった。 医者が輝明を診察し、点滴をつけた後、彼に何度も注意を促した。「一日三食、必ず時間通りに食べてください」 綿は横で話を聞いていただけで何も言わなかった。 「もし医者の言うことを聞いていれば、こんなに何度も胃病を再発して病院に運ばれることもないのに」綿は心の中でため息をついた。 「森下は今忙しいでしょうから、呼んでなかった。看護師さんに点滴を見てもらうよう頼んでたから」 彼女はベッドサイドに熱いお湯を注いだコップを置き、冷たい表情で病床の輝明を見た。「お祖母さんを見に行くから、あなた、一人で大丈夫でしょう?」 輝明は綿を見つめ、唇を少し動かした。 「大丈夫じゃない」と言いたかったが、まだ祖母の容態を知らない。 「俺も一緒に行って、祖母を見たい」彼は言った。 「今は動けないでしょう、いい加減にしなさい」綿は眉をひそめ、少し苛立った表情を浮かべた。 輝明は黙ったまま、綿が続けた。「私が見てくるから、帰ってきたら容態を教えてあげるわ」 病院を出る時も緊急を通るのだから。 彼はそれを聞いてうなずいた。 綿は軽く返事をしてから、点滴の様子を確認した後、立ち去る前に再び看護師に念を押した。「彼には付き添いがいません。点滴が終わるまで、よろしくお願いします」 輝明は綿がすべてを整えてくれる姿を見て、目に罪悪感を浮かべた。 「自分で墓穴を掘る」とはまさにこのことだ。彼は心の中で苦笑いを浮かべた。 ──彼女にどうやって償いをすればいいのだろうか? それは答えの見つからない問題だった。 綿が病室に着くと、秀美がちょうど廊下で電話をしており、祖母の容態を俊安に説明していた。 俊安は会議中で、どうしても抜けられないという。 冷たい天気が人を疲れさせる。 秀美は何晩もよく眠れておらず、顔にはかなり疲労がにじんでいた。 電話を切った秀美は、戻ってきた綿に急いで尋ねた。「綿ちゃん、どうだった?何か分かった?」 綿は首を振り、成果はないと答えた。 ただ、「叔母

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0697話

    綿は顔を少し傾けて輝明を見た。「何?」 輝明は数秒間黙ったまま彼女を見つめ、再び追いかけた。「君、帰るのか?」 綿は「おお」と軽く声を漏らし、淡々と言った。「どうしたの?未練でもあるの?」 輝明は綿を睨むように見つめ、綿も同じように彼を見返した。 二人の視線が交錯し、しばらくの間無言だった。このようにお互いを見つめ合うのは久しぶりだった。 かつての「未練がましい」視線は綿の目にだけあったが、今ではそれが輝明の目にも表れていた。 一方で、以前は輝明の目にだけ見られた「冷ややかで皮肉めいた」表情が、今では綿の目に浮かんでいた。 「もし俺が未練があると言ったら、もう少しここにいてくれるか?」彼は唇を引き締め、エレベーターの上昇する数字を見つめた。 綿は彼をちらりと見て、くすりと笑った。「真心が足りないわね」 輝明は言葉を失った。彼は人に頼ることを知らない人間だった。幼い頃から誰にも頭を下げたことがなかったのだ。 エレベーターが一階に到着した。 輝明が胃を抑えている仕草を、綿は見逃さなかった。彼女はため息をつき、「こっちに来て」と言った。 輝明は目を上げた。「何だ?」 綿がエレベーターを降りると、輝明はまだエレベーターの中にいた。 彼女は振り返り、やや強めの声で言った。「降りて」 輝明は少し戸惑いながらも彼女の指示に従い、エレベーターを降りた。 彼の目にはわずかな寂しさが浮かんでいた。 綿は彼のそんな姿を見るのは初めてで、少しだけ驚いたようだったが、彼女は何も言わず歩き出した。 輝明はその後を急いで追った。何も言わなくても、綿が呼べば、彼はどこへでもついていくつもりだった。 診療所の長い廊下を歩きながら、彼らは通り過ぎる患者たちの疲れた表情や、吸い殻だらけの灰皿を目にした。 綿は時折後ろを振り返り、輝明の歩みが遅いことに気づく。 胃痛のためにゆっくり歩いているのか、それとも彼女ともう少し一緒にいたいから歩みを緩めているのか、定かではなかった。 彼の目はじっと綿の背中を追いかけていた。 かつて自分にくっついていた「小さな影」が、今では自分が追いかける「大きな背中」となったのだ。 「もっと早く歩いて」 綿が催促すると、彼は

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0696話

    綿は何も言わず、椅子を蹴って輝明に示し、「座って少し休んで」と伝えた。 輝明は綿を一瞥すると、椅子に腰を下ろした。 「この人物の映像をすべてコピーして、このメールアドレスに送ってください」 綿はメールアドレスをメモし、「正面の顔を探してください」と付け加えた。 警備員は眉をひそめ、「それは難しいですね」と答えた。 この人物は反追跡能力が高く、映像の中には正面を映した場面が一つもなかった。 「難しいからこそ、あなたを頼りにしているんです」綿は警備員の肩を軽く叩き、微笑んだ。「うまくいったら、きちんと報酬を渡しますから」 警備員は苦笑しながら頷き、黙々と作業に取り掛かった。 輝明は椅子にもたれかかりながら、綿をじっと見つめた。その眼差しには複雑な感情が渦巻いていた。彼はこんな綿を見るのは初めてだった。 かつて彼は綿をただの平凡な女性、社会で一ヶ月も生き延びられないようなガラスのような存在だと思っていた。 しかし、今目の前にいる彼女は、かつての彼が持っていた偏見を覆す存在だった。 強く、賢く、彼の支えになれる人。 そう考えると、後悔の念が胸を締め付けた。なぜあの時、嬌に惑わされ、自分の判断力を失ってしまったのか。ただ嬌が自分を助けたからという理由で、綿を諦めてしまうなんて、どうかしていた。しかし、それ以上に悔やむべきは、どうしてあんなにも綿を傷つけてしまったのかということだ。彼女はこうして目の前にいる。それなのに、もう彼のものではないのだ。その現実が輝明の心を引き裂いていた。綿を、自らの手で失ってしまったのだ……彼は静かに目を伏せ、右手を力強く握りしめた。 そんな輝明を見て、綿は彼の状態が良くないと判断した。「帰りましょうか?」と声をかける。 輝明は顔を上げ、「君は?」と尋ねた。 「一緒に行く」綿は淡々と答えた。 彼女は一人で監視室に残るつもりはないようだった。映像の素材もある程度揃ったため、後は康史たちに任せれば十分だった。 輝明は、綿をじっと見つめたまま動けなかった。なんだかここを離れたくない気分になり、彼女ともう少し一緒にいたいと思ってしまった。監視室を出たら、これほど彼女に近づける機会はもうないだろう。こうして間近で彼女

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0695話

    輝明は綿をじっと見つめ続けた。伯父が表向きは体面を重んじる人物であることは、彼も十分に理解している。しかし、この状況下で伯父が自ら率先して助け舟を出すことはないだろう。つまり、これは綿自身の意思によるものだ。 輝明は心の底から綿に感謝していた。そして、彼女を失い、傷つけてしまったことを深く後悔している。どのように償えばよいのか見当もつかない。だからこそ、これからの長い人生をかけて少しずつでも贖罪していくしかないのだ。 「ありがとう」輝明は力ない声で言い、軽く頷いた。 綿は何も言わず、救急室の方を見つめた。ちょうどその時、救急室のランプが消え、小林院長が出てきた。 「問題ない。ただ、少し驚かれたようです」 綿は首をかしげた。「おばあちゃんが驚くなんて、どうしてですか?」 「それは、付き添いの方に聞くべきでしょうね」小林院長はそれだけ言うと黙り込んだ。 綿はさらに疑念を抱き、秀美に目を向けた。 秀美は複雑な表情を浮かべながら言った。「私、何もお義母さんを刺激するようなことはしてないわ。ただ、明くんの工場の件が……」 「驚きが原因です。そして、救急措置中、お義母さんが窒息死しそうな兆候が見られました」小林院長は慎重に説明した。 綿は言葉を失った。窒息死? 輝明も驚きで固まった。「院長、それって……」 秀美は一歩後ずさりしながら、「つまり、誰かが、お義母さんを?」と震える声で尋ねた。 小林院長は黙っていたが、その沈黙が答えを物語っていた。 輝明は眉をひそめ、すぐさま立ち去ろうとした。「どこへ行くの?」秀美が問いかける。 「監視室だ」 「私も行く」綿がすかさず言った。 秀美は何かを言いたそうにしたが、二人の様子を見て、結局口をつぐんだ。 輝明は綿に目を向けた。 「私も手伝うわ」 「ありがとう」 「気にしないで。あなたのためじゃなく、おばあちゃんが以前よくしてくれたから」 綿の答えに、輝明は苦笑した。確かに、彼が聞きたかった言葉ではなかった。 監視室に入ると、輝明は警備員に指示を出しながら、モニターに映る映像を確認していた。立ちっぱなしの彼の姿勢は不安定で、時折胃のあたりを押さえ、浅い呼吸を繰り返していた。 綿はそんな彼

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