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第0005話

夜、シャロンホテル33階。

 酒宴が進行しており、大きな窓からは横浜の華やかな夜景が一望できる。

 優雅なピアノの音色が響く中、綿はバーの前に気怠げに寄りかかり、手にしたワイングラスを無造作に揺らしていた。彼女の目は半開きで、退屈そうに周囲を見渡している。

 場内の男性たちは彼女に目を奪われているが、声をかける勇気はなかった。

 今日の彼女は黒いキャミソールのロングドレスを着ており、スカートの裾にはいくつかのプリーツが施され、美しい白い脚が見え隠れしている。

 ドレスはゆったりと彼女の体にかかり、その完璧な曲線を引き立てている。カールした髪は背中に垂れ、蝶のタトゥーがちらりと見え、その存在感は際立っていた。

 携帯が鳴り、綿は画面に目を落とした。メッセージが届いていた。

 パパ:「酒宴に行った?」

 綿はため息をつき、返信した。「うん」

 昨晩、綿天河が彼女を家に連れ帰り、酔った彼女に今夜の宴に出席するよう説得し、お見合い相手まで手配してくれたのだった。

 問題は、彼女が酔っ払ってそれを同意してしまったことだ。

 酔っ払いは本当に失敗のもとだ!

 「綿さん?」耳元で突然聞き慣れない日本語が聞こえた。

 綿が少し頭を傾けると、金色の髪と碧い瞳をもつ外国人が立っていた。

 彼の目が輝き、「本当に君なのか?」と驚喜の声を上げた。

 綿も驚いた。「ジョン?どうしてここにいるの?」

 ジョンのアシスタントは不思議そうに尋ねた。「ジョンさんと綿さんはお知り合いですか?」

 綿は微笑んだ。五年前、彼女が海外旅行中にジョンが事故に遭い、彼を救ったのだ。

 アシスタントが説明した。「ジョンは今日の酒宴の特別ゲストです。綿さんはご存じないかもしれませんが、彼は今、海外で非常に人気のある金融投資家です」

 綿はぼんやりとしながら、ジョンがそんなに成功したとは信じられなかった。

 五年前、彼は家もなく、外で物乞いをしていたホームレスだった。

 ジョンは手を振り、謙虚で照れくさそうに言った。「そんなにすごくないよ。当時は綿に本当に助けられたんだ…」

 彼女がいなければ、ジョンはあの橋の下で死んでいただろう。綿は彼の命の恩人だった。

 「今回は国内に何の用で?」綿は礼儀正しく尋ねた。

 ジョンが答えようとしたが、笑顔でドアの方を指差した。「高杉さんと協力するために来たんだ」

 その呼び名を聞いた瞬間、綿は息を呑んだ。

 横浜で最も権力のある「高杉さん」といえば、あの人しかいない。

 綿が頭を上げて見ると、果たして彼女が最も会いたくない人物――高杉輝明がそこにいた。

 男はオーダーメイドのスーツを身にまとい、姿勢は颯爽としており、広い肩と細い腰のバランスが見事だった。

 宴会に入ると、たちまち全場の注目を浴び、多くの人が彼に話しかけ、顔を覚えてもらおうとした。

 彼は若いにもかかわらず、その地位は揺るぎなく、年配の先輩たちでさえ「高杉様」と敬意をもって呼ばなければならなかった。

 綿にとって、輝明は彼女を愛していないことを除けば、完璧で何一つ欠点がない人物だった。

 彼のそばには白いドレスを着た小柄な女性、陸川グループの令嬢である陸川嬌が立っていた。

 陸川家は横浜の四大家族の一つで、その背景は華々しい。陸川家の両親は娘を非常に愛し、陸川嬌には三人の兄がいて、皆が彼女をとても大切にしていた。

 綿と嬌は長年の友人だったが、皮肉なことに同じ男を好きになってしまった。

 愛を得られなかっただけでなく、友情も失ってしまったのだ。

 彼女は完全に敗者だった。

 嬌は輝明の腕に手を絡ませ、二人は視線を交わして微笑んだ。輝明の顔には柔らかな表情が浮かんでいた。

 嬌に対して、彼はいつも優しかった。

 綿はその光景を見て、胸が痛んだ。

 輝明と結婚していた間、彼は一度も彼女にこんな風に微笑んだことはなかった。

 まるで、彼らの結婚は彼にとって存在しなかったかのようだった。

 「綿さん、これが有名な高杉先生だ。紹介するよ」ジョンは綿の手を引き、輝明の方へと歩いて行った。

 綿は苦笑した。彼女にとって輝明を紹介してもらう必要があるだろうか?

 七年間、彼の優しさと情熱、自由奔放な姿、そして冷淡で無情な面をすべて見てきた。

 彼女は誰よりも輝明を知っていたのだ。

 「ヘイ、高杉!」ジョンが輝明の方に向かって声をかけた。

 輝明の目がジョンに向けられたが、わずか一瞬で綿に移った。

 綿は不意を突かれ、輝明の視線と対峙してしまった。

 彼女は反射的に身を翻して立ち去ろうとしたが、ジョンに引き止められてしまった。

 輝明は冷静な表情で、ジョンが綿の手首をしっかり握っているのを見つめた。

 彼と離婚したばかりで、もう次の男を見つけたとは、綿もなかなかのやり手だ。

 「綿ちゃんもいたのね」嬌が驚いた声を上げた。

 「こちらの方は?」ジョンは驚いて嬌を見た。「高杉さんが既婚だと聞いていたけど、この方が奥さんですか?」

 綿の目が暗くなった。

 結婚して三年、彼女という妻はまるで泡沫のように儚く、小さな存在だった。

 ジョンと同じように、彼女が輝明の妻であることを知らない人は大勢いる。それは輝明自身も同じだった。

 嬌は慎重に輝明を見つめ、彼の腕にしがみついた。

 彼女は少し緊張した様子で、輝明が自分にどんな立場を与えてくれるのかを待っているようだった。

 輝明は綿に一瞥をくれ、冷たい声で言った。「そうだ」

 「ああ、男は才能、女は美貌。本当にお似合いだね」ジョンは驚いて言い、笑顔で綿 に尋ね

た。「そう思わないか、綿?」

 綿は目を上げ、輝明の深い漆黒の瞳と対峙し、思わずグラスを握りしめた。

 彼女の外見は平静を装っていたが、心は激しく引き裂かれ、息が詰まるほどの痛みを感じていた。

 彼は一度も彼女を妻として紹介したことはなかった。

 彼女がその理由を尋ねると、彼はいつも不機嫌そうに答えた。「ただの関係だ。全世界に知らせる必要はない。幼稚だ」

 今思えば、知らせる必要がなかったのではなく、綿がその価値がなかっただけだ。

 嬌はその認識を得て、少し恥ずかしそうな表情を浮かべた。

 これは輝明が初めて彼女を妻として認めた瞬間であり、しかも綿の前でのことだった。

 綿はまつげを下げて微笑み、「確かにお似合いですね」と応じた。

 その言葉を聞いて、輝明は眉をひそめ、ポケットの中で手を握りしめた。

 綿が初めて自分に「好きだ」と言ったときのことを思い出した。彼女は明るく輝く目で自信満々に言った。「他の誰があなたとお似合いだなんて許せない。あなたにふさわしいのは私、綿だけよ!」

 今、彼女は笑顔で自分と嬌が本当にお似合いだと言っている。

 こんなに従順で、大人しく、彼女は一体何を企んでいるのか?

 「高杉さん、こちらは私の友人、綿です」ジョンは輝明に紹介した。

 綿は苦い気持ちを隠しながら、右手を差し出して微笑んだ。「こんにちは、高杉さん。お噂はかねがね伺っています」

 輝明は無表情で綿の目元を見つめ、「高杉さん」という言葉に嫌悪感を覚えた。

 初めて彼女の前で、言葉の持つ殺傷力を感じた。

 彼女は確かに笑顔で美しく微笑んでいたが、その目には鋭い刃が隠れていた。

 輝明は手を伸ばさなかった。

 綿は気にしない。彼に冷たくされたのはこれが初めてではなかったから。輝明にとって、彼女は尊重される価値がない存在だった。

 ジョンはこの異様な雰囲気に気づかず、綿を惜しみなく称賛した。「綿は、私が出会った中で最も優しく、最も素晴らしい女性だ。彼女を非常に尊敬している」

 ジョンの目は綿を見るとき、明らかに友好的なだけではなかった。

 輝明はその視線を見て、綿を見つめ、冷笑した。

 何度も嬌に罠を仕掛け、彼女が水を恐れることを知っていながらプールに突き落とす。

 そんな女性が優しい?

 クラブで簡単に男とホテルに行くような綿に、彼はますます嫌悪感を抱いた。

 輝明の嘲笑を感じた綿は、笑顔を消して言った。「ジョン、高杉さんは私を好まないようです。お話しを続けてください、お邪魔しませんから」

 そう言って、綿はその場を去った。

 彼女の歩調は気怠げで、背中にある蝶のタトゥーが目に入り、生き生きとしているが、輝明には目障りだった。

 ジョンは笑って言った。「この世に綿を嫌う人がいるなんて、考えられないな。もしそうなら、その人は目が見えていないに違いない」

 高杉:「……」

 綿は常にニュースをチェックする習慣があり、特に彼に関するものは欠かさなかった。

 今朝、彼が嬌と共に新製品発表会に参加したニュースを彼女も見たはずだ。それでも、彼にメッセージを送ることも電話をかけることもなかった。

 本当に、今回は手放す気になったのか?

 嬌は輝明を注意深く観察していた。彼女は気づいた、綿が離婚を申し出た後、輝明は特に喜んでいる様子はなかった。

 嬌は心配になった。輝明が綿に対して感情を持ち始めたのではないか?

 突然、大広間に叫び声が響いた。「大変だ!韓井 総一郎社長が心臓発作を起こして倒れた!」

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