Share

第0004話

Author: 龍之介
綿は、目の前で自分の手を引いていく男を見つめた。酔いが回ったせいか、視界が少し霞む。

――あの頃も、彼はこうやって私の手を引いた。

追手から逃げるように、必死に走ったあの日。

もし――

もしあの時、輝明がもう少し冷たかったら。

こんなにも深く、彼を愛してしまうことはなかっただろう。

家族を捨ててまで、彼と結婚しようとは思わなかったかもしれない。

それなのに――

どうして、彼がここにいるの?何をしようとしているの?

私が他の男と親しげにしているのを見て、嫉妬でもしてるの?

――ありえない。

綿は、その考えをすぐに振り払った。

――輝明は心を持たない。彼は私を、一度たりとも愛したことがない。だから、嫉妬するはずがない。

――バタン。

重い扉の音とともに、綿はトイレの中へと押し込まれた。酒のせいで、身体から力が抜ける。

洗面台の端に追いやられた瞬間、逆光の中に立つ輝明の姿がぼんやりと映る。影に包まれた顔――それでも、その美しさだけは際立っていた。

そして、冷たい声が落ちる。

「綿。俺たちは、まだ離婚していない」

奥歯を噛みしめながら、低く絞り出すような声だった。

綿は、鏡を見た。そこに映るのは、自分の背中に刻まれた蝶のタトゥー。まるで自由を求めるかのように羽を広げている。

彼女はゆっくりと目を上げ、痛みを押し殺しながら、静かに言った。

「――高杉さん、離婚届にはもうサインしたわ。ある意味では、もう離婚しているのよ」

――ピキッ。

わずかに、輝明の表情が動いた。その瞬間、彼の指が、強く綿の手首を握り締める。

「……高杉、さん?」

その名を、一語ずつ噛み締めるように、低く問いただす。

綿は微笑んだ。

「何?高杉さんって呼ぶの、間違ってる?」

綿が彼にそう呼びかけたのは、これが初めてだった。今まで、彼のそばではずっと――

「明くん」

「明お兄ちゃん」

どんな時も、優しい声で、彼の名前を呼んでいた。

でも、彼が「その呼び方はやめろ」と言ったから、彼女は二度とそう呼ばなかった。

結婚して三年、距離は縮まるどころか、ただ広がるばかりだった。

綿は、少しだけ顔を近づける。

「違うわね」

「私はあなたを『元夫』と呼ぶべきね」

彼の瞳が、一瞬で冷たく凍る。そして、綿の細い腕を、さらに強く引いた。彼女の背中が、勢いよく洗面台にぶつかる。

「綿、お前――俺に挑発してるのか?」

「どこが挑発?」

綿は、薄く微笑みながら皮肉げに言う。その態度が、輝明の神経をさらに逆撫でした。

「桜井さん、大丈夫?」

――コン、コン。

外から、控えめなノック音とともに聞こえたのは、男の声。綿は、わずかに目を細めた。

その名を聞いた瞬間、輝明は眉をひそめる。

……小林家の息子か。はっ。こんなにも早く絡んでくるとは。

綿は、ゆっくりと唇の端を持ち上げた。まるで面白いものを見つけたかのように。

そして、ゆっくりと輝明の目を見つめながら、甘く囁いた。

「大丈夫よ、小林くん。少し待っててくださいね」

――わざとだった。

彼女は意識的に「小林くん」の名前を強調した。まるで、「あなたはもう、私の世界に必要のない人」と告げるように。

輝明の眉がわずかに動く。その瞳の奥に、怒りの火が灯った。

――綿が、俺の目の前で、他の男と密会する?

「……綿。」

輝明は、ゆっくりと歯を食いしばりながら、彼女の顎を強く掴む。

「お前――本当に、あいつとホテルに行くつもりか?」

綿は、何のためらいもなく、彼の手を振り払う。そして、最も優しく、最も冷たく微笑みながら、彼の耳元で囁く。

「元夫、あなたには関係ないでしょう?」

――カチン。

その瞬間、輝明の中で何かが切れた。綿の挑発が、彼の怒りに火をつける。

ドンッ!綿の腰を掴み、壁に押しつけると、迷いなく唇を塞いだ。

――関係ない?だったら、俺が関係あるってことを思い出させてやるよ。

――俺たちはただ離婚届にサインしただけ。法的手続きはまだ終わっていない。つまり、綿はまだ俺の妻だ。それなのに、俺の目の前で他の男とホテルに行く?そんな侮辱、耐えられるはずがない。

綿の瞳が驚きに見開かれる。信じられない、と言わんばかりに。

結婚して三年間、一度も触れたことがなかったのに、なぜ今になって?

唇は強引で、まるで噛みつくように。綿は痛みを感じ、酒のせいで全身の力が抜けていく。

「んっ……!」

耐えきれず、洗面台に手をついた。そして――思いきり、彼の足を踏みつける。

「っ……!」

痛みが走る。だが、輝明はそれでも綿を放さなかった。さらに彼女の腰を引き寄せ、キスを深める。

綿は眉をひそめ、必死に抵抗した。手を引き抜き、全力で彼を突き飛ばす。そして――

パチンッ!!

鋭い音が洗面所に響いた。

輝明は頭を横にそらし、唇を舐める。口紅の味とウイスキーの香りが混じる。

綿は大きく息を吸い込み、口紅が唇の周りに滲んでいた。目が赤く潤み、震えている。

指で唇を拭いながら、輝明は彼女をじっと見つめ、そして――笑った。

「……これが、お前の望みだったんじゃないのか?」

再び彼女に迫り、抑えきれない怒りを込めて言う。

「こんな格好で男を誘っておいて、あの男は良くて、俺はダメだって?」

「綿、お前、俺の前で何を気取っている?」

「……高杉輝明、あんたって、本当に最低」

綿は怒りをぶつけ、目には失望が浮かんでいた。

彼女が本当に望んでいたもの――それすら、彼にはわからないのか?欲しかったのは、ただ少しの愛だけだった。それなのに、一度たりとも与えられることはなかった。

彼は、彼女に思い知らせた。

――自分は価値のない安物だと。

――ただの、笑いものだと。

「最低?」

輝明の目が細まる。

「泣いて、俺に結婚してくれと頼んだのは誰だった?」

綿の心が、一瞬に震えた。胸が上下し、彼の侮辱を聞いて、ただただ寒さを感じる。

彼女の愛は――彼にとって、ただ彼女を傷つけるための武器だった。

彼のために、家族と決裂した。

彼のために、誘拐犯と取引した。

彼のために、すべてを捨てた。

だが、この七年間は――何の価値もなかった。

綿は鼻をすすり、笑う。その目に涙を浮かべながら。そして、震える唇で、静かに言った。

「……高杉輝明。あなたを愛したことが、私の大きな過ちだった」

輝明は、鏡越しに彼女の背中を見つめた。彼女の言葉が、心に突き刺さる。足が、一瞬ふらついた。壁に手をつく。

――高杉輝明。あなたを愛したことが、私の大きな過ちだった。

「ふっ……」

乾いた笑いが漏れた。だが、彼はまだ気づいていなかった。

七年間、自分を愛し続けた女を、今度こそ――永遠に失ったことに。

綿はトイレから出ると、震える手で唇を拭った。

――汚い。

嬌とキスしたの唇で、私に触れた?

――耐えられない。

唇を擦りながら、涙を滲ませる。玲奈を見つけると、その腕を掴み、何も言わず外へ向かった。

「綿ちゃん、大丈夫?」

玲奈は困惑しながら尋ねる。

「……大丈夫。大丈夫よ」

それでも、声は震えていた。

ハイヒールを脱ぎ捨て、裸足で歩く。行き交う人の視線など、どうでもよかった。

冷たい夜風が吹き抜ける。彼女は、やっと決心したように叫んだ。

「もう二度と――高杉輝明を愛さない!」

「二度と!もう!絶対に!」

叫ぶ声は、静かな夜の街に響いた。だが――彼女自身にも、わかっていた。

この道のりはあまりにも痛すぎた。

彼のために自分を犠牲にし、彼のためにすべてを投げ打ち、それでも——彼からは、何一つ与えられなかった。こんなふうに自分を踏みにじるなんて、なんて愚かだったのか。

――もう二度と、あの男には会わない。

自分の人生を取り戻す。花は花に、木は木に――本来あるべき姿に戻すんだ。

「綿!!」

後ろから玲奈が駆け寄り、強く抱きしめた。

綿の肩が、小刻みに震えている。静かに、静かに――声もなく泣き続ける彼女の姿に、玲奈は胸が締めつけられる。

言葉なんて、何もいらなかった。玲奈は、ただそっと腕を回し、綿の震えを受け止めることしかできなかった。

綿は、どうやって帰ってきたのか覚えていなかった。

気がつくと、すでに翌日の午後だった。

重いまぶたをゆっくりと開け、ベッドの上でぼんやりと座り込む。ズキズキと痛む頭を押さえながら、深く息をついた。

――ピロン

スマホの通知音が響く。

綿は、無意識に手を伸ばし、画面を覗き込んだ。そして、次の瞬間、動きが止まる。

『本日、高杉グループ社長・高杉輝明氏が、陸川家の令嬢と共に、新作化粧品発表会に出席』

無機質なテキストが、スクリーンに浮かんでいる。指先で画面をスワイプし、動画を再生した。

そこには――

嬌が輝明の腕にしっかりとしがみつき、カメラに向かって優雅に微笑む姿が映っていた。メディアのフラッシュを浴びながら、二人は笑顔で立っている。

――とても「お似合い」に見えた。

綿の手が、スマホを握りしめる。目の奥がじんわりと熱くなり、視界が滲む。

――結婚して三年間、彼は一度も私をイベントに連れて行ったことがなかった。なのに、今や……

離婚したばかりのその口で、こんなにも堂々と「大切な人」を世界に向けて紹介している。

昨夜、あの洗面所で、彼に強引に奪われた唇の感触が蘇る。その直後の映像が、こんな形で映し出されるなんて、皮肉以外の何物でもなかった。

――コン、コン。

ドアがノックされる音。

綿は顔を上げ、感情を押し殺したまま、静かに言った。

「……入って」

ゆっくりとドアが開く。紺色のスーツを身に纏い、優雅な微笑みを浮かべた天河が立っていた。

「綿、昨夜の約束、忘れてないよね?」

綿は、瞬きをした。

――約束?

何のことだろう?

Continue to read this book for free
Scan code to download App

Related chapters

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0005話

    夜、シャロンホテル33階。華やかな酒宴が進むなか、大きな窓からは雲城の夜景が一望できる。ピアノの優雅な旋律が響き、ワインの香りが漂う会場の片隅、綿はバーの前に寄りかかり、無造作にワイングラスを揺らしていた。半開きの目で、退屈そうに周囲を見渡す。男たちの視線は、ひそかに彼女に集まっていた。だが、その堂々たる美しさに圧倒され、誰も声をかけることができなかった。今日の彼女は、黒いキャミソールロングドレスを纏っている。スカートの裾には細やかなプリーツが施され、歩くたびにスリットから伸びる白い脚がちらりと覗く。ドレスは彼女の身体を優雅に包み込み、流れるような曲線を際立たせる。カールした髪が背中に落ち、その肌には蝶のタトゥーが美しく浮かび上がっていた。そんな彼女の手元で、スマホが震える。綿は視線を落とし、届いたメッセージを見る。天河『酒宴に行った?』綿『うん』短く返信し、ため息をつく。昨晩、酔い潰れた彼女を家まで送り届けた天河は、今夜の宴への出席を説得し、さらには「お見合い相手」まで手配していた。問題は、彼女が酔った勢いで、それを承諾してしまったことだった。酒に酔った時の約束ほど、厄介なものはない。「……綿さん?」耳元で、不意に聞こえた。どこかたどたどしい、拙い日本語。不意に顔を上げると、金髪碧眼の男が立っていた。そして、その目を輝かせながら、驚きの声を上げる。「本当に君なのか?」綿もまた、思わず驚いた。「……ジョン?」どうしてここに――?傍らにいたアシスタントが、不思議そうに尋ねる。「ジョン様、桜井様とお知り合いですか?」ジョンは微笑みながら頷く。――五年前。海外旅行中、事故に遭ったジョンを助けたのは、彼女だった。「ジョン様は、本日の特別ゲストでいらっしゃいます」アシスタントが説明する。「桜井様はご存じないかもしれませんが、ジョン様は現在、海外で非常に注目されている金融投資家なのです」綿は、ぼんやりと彼を見つめた。――ジョンが、そんなに成功しているなんて。五年前、彼は家もなく、橋の下で暮らすホームレスだったというのに。ジョンは謙虚な笑みを浮かべ、照れくさそうに言った。「いやいや、大したことないよ。それより、あの時は本当に綿さんに助けてもらった

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0006話

    大広間が一気に混乱に陥った。人々はワイングラスを置き、次々と韓井総一郎が倒れた場所へと集まり、何が起こったのかを確かめようとしていた。「救急車は呼んだか?」「いつ到着するんだ?ここで韓井社長が死んだら、韓井家は黙らないぞ!」綿は目を上げ、倒れている男性を見た。50代くらいだろうか。青白い顔に、ぐったりとした体。手元の時計を確認する。――市立病院までは車で15分。だが、この時間帯は渋滞がひどい。救急車を待っていたら、間に合わないかもしれない。ホテルのスタッフはまだ何の対応もできておらず、その間にも男性の容態は悪化している。綿は静かに息を吸い、眉を寄せた。――もう、黙って見ている時間はない。前へと歩み出し、力強く声を上げる。「ちょっと見せてください」その瞬間、一斉に視線が集まった。――桜井綿?「お前に何ができる?」男の声が、ざわめきの中で響いた。「桜井家は医学の名門だが、お前はただの飾り物だろう。医術なんて何も学んでいないはずだ!」その言葉に、人々の間で次々と騒ぎが起こる。「そうだ!人の命がかかっているんだぞ!韓井社長を素人に任せるなんて、火に飛び込ませるようなもんだ!」「もしここで死んだら、責任を取れるのか?これは子供の遊びじゃないんだぞ!」「彼女に治療させるわけにはいかない!どけ!」怒号が飛び交う。まるで、あらかじめ打ち合わせでもしていたかのように、彼女を否定する言葉が次々と投げかけられた。綿は、まだ男性に触れてもいないのに、すでに人々に押しのけられていた。「でも、もう待てません!」強く訴えるが、その声は雑音にかき消される。「たとえ死んでも、お前みたいな無能な飾りに救われるくらいならマシだ!」――その声は、鋭く突き刺さるような女性のものだった。同時に、強く肩を押される。たとえ死んでも、私に助けられるのは嫌だというのか。その言葉は、冷たい刃のように胸に突き刺さる。綿は無意識に息を詰まらせ、感情が一瞬にして凍りついた。ふらりと後ろへ二歩下がる。目の前には、壁のように立ちはだかる黒い人の波。――敵意に満ちた視線。その圧倒的な拒絶の中で、胸の奥がじわりと痺れる感覚を覚えた。無能?お飾り?彼女の医術を疑われたことなど、一度もな

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0007話

    ――それは、綿だった。嬌は強く押され、そのまま床に倒れ込む。すぐさま、輝明が彼女を支えた。その間、綿は膝をつき、素早い手つきで韓井社長のネクタイを外し、脇へと放る。嬌は驚き、輝明に支えられたまま綿を見つめた。「綿ちゃん、何をしてるの?大丈夫なの?」周囲も呆然とし、ざわめきが広がる。「陸川お嬢様でもどうにもできなかったのに、彼女に何ができる?」「しかも、こんなに体面を重んじる韓井社長の服を勝手に脱がせるなんて……一体何を考えてるんだ?」疑念と非難の声が次々と上がる。嬌は唇を結び、優しく語りかけるように言った。「綿ちゃん、無理しなくていいのよ。みんなが何か言ったからって、気にすることないわ」「普段は桜井家の皆さんが甘やかしてくれるかもしれないけど、今は家でふざけてるときじゃないの。命に関わることなんだから――」焦った嬌は手を伸ばし、綿の腕を引こうとする。しかし――「黙ってて」冷たく、鋭い声が嬌の動きを止めた。綿は彼女の腕を振り払い、目を細める。嬌は言葉を失う。――その視線に、背筋が凍るような感覚を覚えた。綿はふと輝明を見やる。彼は、今も嬌を抱きしめたまま、戸惑ったような表情を浮かべていた。綿は冷たく言い放つ。「高杉さん、あなたの「大切な人」を、ちゃんと見張ってて」輝明は綿の冷淡な態度に、わずかに眉をひそめる。「綿、嬌はお前を心配してるんだ。彼女の善意を無視するな」綿は、ふっと笑った。――それは本当に「心配」なのか?それとも、韓井社長を助けた「手柄」を奪われることが怖いのか?彼女は、嬌の本性を知っている。長年の友人だからこそ、誰よりもその本質を見抜いている。嬌が涙を流せば、周りは皆彼女を庇い、誰もが彼女の味方になる。綿自身も、ずっとそうやって彼女に尽くしてきた。――だが、もう二度と、同じ過ちは繰り返さない。そんな思いを抱えながら、綿はゆっくりと輝明を見上げる。「綿、俺たちが長年夫婦だったんだ。そのよしみで忠告しておく。余計なことには首を突っ込むな」輝明の低い声が、静かに響く。綿は、じっと彼を見つめ、苦笑した。「……あなたも、私を「無能な役立たず」だと思ってるの?」輝明は、無言だった。その沈黙が、答えだった。綿は鼻をすすり、どこ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0008話

    男は、心に突き刺さる棘のような痛みを感じながら、慌てて言った。「いやいや、冗談だよ。本気にするなって!」綿は、薄く笑いながらグラスを手に取り、一口含む。「本気に決まってるじゃない。私は昔から、何事にも真剣なの」琥珀色の液体が、グラスの中で揺れる。その瞬間、綿の脳裏に浮かんだのは――嬌を庇い、その細い身体をしっかりと抱きしめる輝明の姿だった。喉の奥からこみ上げる、不快感。自分は、嬌に劣るのか?どこが劣っているのか?なぜ、輝明はいつも、自分を邪魔者のように扱うのか?そんな思いが渦巻く中――「桜井綿、お前って本当に心が狭いよな」男が突然、強い口調で言い放つ。「だから高杉輝明は、お前を好きにならないんだよ!」――ピクリ。綿の指が、わずかにグラスを締める。「……なんですって?」ゆっくりと顔を上げると、その瞳には、冷たい光が宿っていた。まるで、逆鱗に触れた龍のように。――どうして、彼らが私を「心が狭い」と言える?もし私が韓井社長を助けられなかったら、彼らは、どんな態度をとっただろう。きっと、今頃私を「無能」「恥さらし」と笑い、許しを乞うたところで、さらに嘲り、踏みにじったはずだ。ならば――なぜ、私だけが「心が狭い」と言わなければならない?綿は、手に持っていたグラスを男の足元めがけて放り投げた。パリーンッ——!割れた破片が床に散らばる。誰もが息を飲む中、綿は冷ややかに言い放つ。「跪くのが嫌なら、手伝ってあげようか?」――カチッ。指先で、ペンのキャップを外す音が響いた。場内が、一瞬にして凍りつく。彼女は、一体何をしようとしているのか?男は、綿の視線に射抜かれたように硬直した。脳裏に浮かぶのは、韓井社長の首元に、迷いなく突き立てられたペン。その正確さ、速さ、そして、一切の躊躇を見せない、鋭い手際。男は唾を飲み込み、足を引いた。しかし――綿は、そんな男の動きを逃さず、ペンを指先でくるくると回しながら、じっと見つめる。怠惰な仕草とは裏腹に、その瞳には、冷え冷えとした光が宿っていた。「知ってる?」静かに囁くように、彼女は言った。「このペン一本で、人を助けることも――殺すこともできるの」男は背筋に、冷たい汗が流れた。「――三秒あげ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0009話

    綿の心臓が大きく跳ね上がり、瞳孔がわずかに縮まる。――今、彼はなんて言った?「彼女の夫だ」と?信じられなかった。輝明は、いつだって自分たちの結婚を認めようとしなかったはずだ。綿の驚いた表情を見た輝明は、心の奥に小さな苛立ちを覚えた。――彼女の夫だと言っただけで、なぜそんなに驚く?ジョンが戸惑いながら指をさし、驚いた様子で口を開いた。「……あなたたち、夫婦だったんですか?」綿は、すぐにジョンに目を向けた。彼を欺いていたことに、申し訳なさがこみ上げる。ジョンの瞳には、明らかな失望と怒りが滲んでいた。彼は、この二人に振り回され、適切な敬意を払われていないと感じているのだろう。しかし、彼の口から出た言葉は、そんな感情とは裏腹に、どこまでも誠実だった。「綿さん、僕は本当に君のことを尊敬している。君のことを詮索するつもりはない。でも、もし助けが必要なら、いつでも言って」その言葉に、綿は胸が締め付けられるのを感じた。家族以外で、こんなにも自分を気にかけてくれる人がいたのは、どれくらいぶりだろう。感謝の言葉を口にしようとした、その瞬間――ガシッ。突然、手首が掴まれた。振り返るまもなく、冷たい声が響く。「ジョンさん、ありがとう。でも、俺の妻に他人の助けは必要ない」輝明が、鋭い目でジョンを一瞥し、そのまま綿の腕を引いた。「――ッ!」ジョンは一瞬呆然とし、次に何かを言いかけたが、言葉にならなかった。綿は眉をひそめ、声を荒げる。「高杉輝明、放して!何をしているの?」だが、彼は振り返らず、まるで彼女の抵抗など気にも留めていないかのように、足を速める。綿は、素足のまま冷たい地面を踏みしめる。硬い石に足をぶつけた瞬間、鋭い痛みが走り、「痛っ!」と息を飲んだ。その小さな声に、輝明の足が止まる。ゆっくりと振り返ると、綿の目はわずかに赤くなっていた。「……輝明、痛い」声が掠れ、喉の奥で詰まるような、滲んだ音を帯びていた。彼は一瞬言葉を失い、ふっと視線を落とす。裸足になった彼女の足元を見つめると、かすかに腫れ始めているのがわかった。――もし、これが嬌だったら?彼は、こんなに乱暴に扱うだろうか?いいや、絶対にそんなことはしない。ふと胸の奥が、理由もなく強く引き裂か

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0010話

    輝明は、綿の言葉に驚きを隠せなかった。彼女と祖母の関係は非常に良好で、祖母は実の孫娘のように綿を可愛がっていた。輝明が少しでも彼女に冷たくすれば、祖母はすぐに綿をかばい、何度も会社まで乗り込んできては、彼を叱りつけたほどだった。そんな彼女が、祖母の誕生日に出席しないと言うなんて――信じられなかった。「綿、嬌の件はもう済んだことだ」眉をひそめ、穏やかな口調で言う。「済んだ?じゃあ何、私が突き落としたってことで終わらせる気?」綿は間髪入れずに反論した。輝明はこれ以上、この話を続けるつもりはなかった。不快感を隠そうともせず、低く言い放つ。「わがままなことを言うな」綿は彼を睨みつけた。失望の色が、瞳の奥にじんわりと広がっていく。――わがまま、だって?ふっと笑いが漏れる。「結婚したばかりの頃は、確かにわがままだったかもしれない。でも、その後は? 私がどれだけ駄々をこねた?」「あなたが言ったでしょ?『お前を甘やかすことはできない』って。そんなの、とっくにわかってるよ」「今さら私がわがまま言ったって、誰か構ってくれる?」綿は靴を履きながら、静かに言った。その声には、怒りもなければ、涙もない。ただ、静かで、どこか空虚だった。目を上げると、輝明に包帯を返す。だが、その瞳は正直だった。どれだけ平静を装っても、憎しみでも、失望でも、彼に向ける視線の奥には、拭いきれない想いが滲んでいた。「もし私が嬌だったら、きっとあなたにしがみついて、思いっきりわがまま言ったのに」目を細めて微笑む。その笑顔は明るく見えるけれど、どこか苦い。彼女は嬌ではない。その資格はなかった。他人が持っているものは、彼女も持っていた。他人が持っていないものも、彼女は持っていた。それなのに、今――彼女は初めて、誰かを羨ましいと思った。――嬌は、輝明の愛を手に入れた。喉の奥で小さく音を鳴らしながら、輝明は目を細める。胸の奥で、じわりと得体の知れない熱が広がっていくのを感じた。「時間ができたら、連絡して。役所で離婚手続きをしよう」綿は微笑みながらそう言った。その目は澄んでいて、明るく、美しく輝いていた。――もう、泣いてすがる綿ではない。本当に、手放す覚悟を決めたのだ。輝明は眉をひそめる。胸の奥に、鈍く引き

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0011話

    綿は指輪を取りに別荘へ向かった。パスワードを入力し、ドアノブに手をかける。しかし――「パスワードが違います」無機質なエラーメッセージが響いた。綿は一瞬驚いたが、すぐにもう一度入力する。しかし結果は同じ。三度目の試行も失敗し、指紋認証すら弾かれた。電子ロックの警告音が鳴り響く。――パスワードが変更されている。さすがは高杉輝明。手が早いこと。そんなに私に来てほしくなかった?たった二日で、もうパスワードを変えたなんて。綿はスマホを取り出し、輝明に電話をかけようとした。その時、ガチャリとドアが開く音がした。「……綿ちゃん?」呼びかけられた声に振り向くと、そこにいたのは、ゆったりとした白いシャツ一枚を身に纏った嬌だった。シャツの下は、何も履いていないように見える。頬は赤く染まり、首筋には鮮やかな紅が差していた。髪は無造作に乱れ、艶めいた雰囲気を纏っている。 綿の目がわずかに揺れた。「誰?」奥から聞こえた低い声に、綿の体が硬直する。視線を奥へ向けると、バスローブ姿の輝明が、タオルで髪を拭きながらこちらを見ていた。嬌は微笑みながら彼の元へと歩み寄り、細い腕を彼の腰に回した。「綿ちゃんが来たわよ」親密に絡む二人を前に、綿は拳を握りしめた。彼らがここで何をしていたのか――想像するまでもない。結婚してから、輝明はほとんど家に帰らなかった。仕事が忙しいと言い訳していたが、本当の理由は、自分の存在がこの家にとって、彼にとって、何の意味もなかったからだ。「指輪を取りに来たのか?」冷ややかな声が、彼女の思考を遮る。綿は、ただ静かに頷いた。「上にある。自分で取りに行け」それだけ言い捨て、輝明は部屋の奥へと消えていった。綿は唇を噛みしめた。嬌は輝明が去ると、まるで家の主のような顔をし、「綿ちゃん、私が案内するわ」と微笑んだ。綿は冷ややかな目で彼女を一瞥し、「自分で探せるから、余計なお世話よ」と言い放った。「余計なお世話?」嬌は小さく笑い、もう隠す気もないように冷たく言い捨てる。「この家の本当の妻は最初からあたしよ。あんたなんて、所詮ただの身代わりよ」身代わり――その言葉を聞いても、綿の表情は変わらなかった。今さら、何を言われようと心が動くことはない。何も言わずに階段を

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0012話

    綿は、目の前で輝明が嬌の手を掴み、自分を見捨てる瞬間を見届けた。落下する感覚と共に、心の奥がじわじわと冷たくなっていく。結局のところ、彼は一度も自分を選んだことがなかった。どんなに傷ついても、どんなに痛みをこらえても——「綿ちゃん!」嬌の声が遠くで響く。しかし、綿の意識は次第にぼやけ、階段の途中で身体を打ちつける激しい衝撃とともに、全身に鋭い痛みが走った。うっすらと目を開くと、視界の端に輝明と嬌の姿が映る。見下ろしてくる二人の表情は冷たく、まるで関係のない他人を見るような無関心さがあった。胸が苦しい。痛いのは、身体よりも、心のほうだった。どんな言葉よりも、この光景がすべてを物語っていた。「嬌ちゃんは数日前、お前に水に突き落とされたばかりなのに、今度は殴って階段から突き落とすつもりだったのか」輝明の低い声が、冷たく響く。「桜井綿、お前は本当にひどい女だな」綿はまつげを震わせ、無意識に笑った。——笑うしかなかった。次の瞬間、涙が静かに頬を伝う。ほら、やっぱりそうだ。彼は、どんな時でも嬌を信じる。どんな時でも、悪いのは自分。理由なんてどうでもいい。ただ、嬌が傷つけば、彼にとっての答えは決まっていた。「明くん……綿ちゃんも、きっとわざとじゃなかったの。ただ、きっと……つらかっただけ……」嬌が、泣きそうな顔で言う。まるで彼女がこう言うことで、綿の罪が少し軽くなるとでも言うように。「だからって、お前を傷つけていい理由にはならないだろう?」輝明の声がさらに冷たくなる。「嬌、お前は優しすぎる。そんなことじゃ、あいつはどこまでもつけ上がる」嬌は涙を拭いながら、俯いた。「明くん、ごめんなさい……迷惑をかけちゃって……」彼女の言葉を聞き、輝明は自分の声が厳しすぎたことに気づく。すぐに表情を和らげ、「嬌ちゃん、お前が悪いわけじゃない。お前は、俺にとって決して迷惑なんかじゃない」と、優しく言った。――当然だろう。あの日、輝明が誘拐されたとき、嬌は彼を救うために命を懸けた。彼にとって嬌は「どんなことがあっても守るべき存在」だった。たとえ何をしても、どんなことがあっても、彼は嬌を守る。それが彼の「ルール」。嬌はまだ涙の跡を残したまま、彼を見上げる。「じゃあ……綿ちゃんのこと、もう責めないであげてくれる?」

Latest chapter

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0784話

    「でも、易くん……お母さん夢を見たの。日奈が外でうまくやっていけていない夢を……ねえ、これは神様が私を責めているのかしら。嬌ちゃんにもっとよくしてあげなかったことを……」 陸川夫人は涙をこぼしながら、易の腕をきつく握りしめた。 易は陸川夫人を横目で睨みながら、胸に重苦しいものを感じていた。 眉をひそめながら、彼女が自分の腕を握る手を見下ろす。陸川夫人の指は血の気がなく、真っ白になっていた。その痛々しさは一目でわかった。 「お母さん、もうそんなことを考えないで」 易の声にはためらいが滲んでいた。 「嬌は永遠に日奈にはなれないし、日奈だって、嬌によくすることで外で幸せになれるわけじゃない……」 易は、母親のこの夢を打ち壊したくはなかった。 だが、これ以上はごまかせない。現実を直視する時が来たのだ。 母も自分も、そろそろ現実を見なければ。 「いや、嬌に私たちが尽くしてきたことを、天が見逃すはずがないわ!」 陸川夫人は深く息を吸い込んで、ますます顔色が悪くなっていった。 日奈が行方不明になった年、陸川夫人は一時呼吸困難に陥り、死にかけた。 その後、彼女は虚ろな状態が続き、何年も立ち直れなかった。 日奈が行方不明になって3年目には、陸川夫人の精神状態はますます悪化していた。 そんな陸川夫人を見かねた育恒は、施設から子供を引き取ることを提案し、「この子に優しくすれば、きっと日奈も見つかる」と陸川夫人に話した。 それから、あっという間に何年も過ぎた。 育恒は陸川夫人を騙し、自分自身も騙し、そして陸川家全体をも騙し続けていた。 「易くん、お願い……嬌ちゃんを何とかして助け出してちょうだい」陸川夫人は今にも崩れそうだった。 易の胸はえぐられるように痛んだ。 彼は陸川夫人を抱き上げ、ソファに座らせた。 「お母さん……困らせないで」 「易くん、嬌ちゃんはあなたの妹なのよ!」陸川夫人は涙を止められなかった。 「お母さん、陸川家はこの何年も嬌ちゃんに十分な愛情を注いできた。でも、嬌ちゃんがこれ以上やり続けるなら、陸川家全体が巻き添えを食らうことになる!俺には手の打ちようがない!」 そう言い切った瞬間、陸川夫人の目が大きく見開かれた。 まるで何か

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0783話

    輝明はふと顔を上げて言った。 「森下、家には帰らない。医学院近くのラーメン屋に行こう」 森下は意外そうな表情で上司を見て、軽く頷いた。「わかりました」 言葉では「手放す」と言いながらも、実際には綿を忘れることなどできないのだろう。 心から愛した人との思い出、自然と追いかけたくなるものだ。 以前は綿が二人の思い出を探し求めていた。 今では、輝明がそれをしている。 車が医学院近くに停まった時、輝明は手をアームレストに置いたまま、ドアを開けることができなかった。 「……あれは桜井さんですか?」 森下はラーメン屋の中にいる綿の姿に気づき、驚いて声を上げた。 ラーメン屋には大きな窓があり、その前の席に座れば街道を向いた席になる。 綿はその窓際に座り、スマホをいじりながら一人でラーメンを食べていた。 大きな窓越しに、彼女の美しい横顔がくっきりと見えた。 輝明の心は一気に沈み、深い闇に飲み込まれるような感覚に襲われた。 綿は、思い出を忘れていなかった…… しかし、彼は車を降りて彼女の隣に座る勇気を持てなかった。 「桜井さんがここにいるなんて、どういうことでしょうか?」 森下には、このラーメン屋にまつわる二人の思い出を知る由もなかった。 「社長、中に入りますか?」 森下が問いかけると、輝明は首を横に振った。 彼はただ車の中から静かに見つめていた。 綿がラーメンを食べる速度は速くなかった。 時折、スマホを操作する姿も見えた。 髪が何度も顔にかかり、それを後ろにまとめようとするが、ヘアゴムがなくて結べないようだった。 苛立ちがその美しい顔に表れていた。 外は真冬の12月、積もった雪はまだ溶けておらず、道路には氷と雪が混じり合っている。 店内は適度に暖かく、穏やかで居心地の良い雰囲気に包まれていた。 輝明は、思わず微笑んだ。 大学時代と同じだ。 髪を下ろしておきながら、ヘアゴムを持ち歩かないのが彼女の癖で。だから、食事のたびに苛立つのだ。 かつて、夜の10時半ごろ、彼女が彼を連れ出してラーメンを食べに行ったことがあった。 彼を労わりたいと言って、特製トッピングで肉と卵を追加したラーメンを奢ってくれた。

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0782話

    忘れるはずがなかった。彼女の姿が見えなくなるまで、森下の車が到着しても綿はすでにその場を離れていた。しかし、たとえ森下の車が先に到着したとしても、今の輝明はもう綿を無理に車に乗せようとはしなかった。 愛すれば愛するほど、相手を尊重するようになるものだ。彼女の視線ひとつ、話すときの口調ひとつが気になり始める。 綿は言った。 「愛するということは、罪悪感を感じることでもあるけど、それだけじゃなく、大切にすることでもあるの」 「社長」森下が彼を呼ぶ。 「うん」輝明は短く応じた。 「また桜井さんと話がこじれましたか?」森下が尋ねた。 輝明は苦笑いを浮かべた。「彼女はもう、一緒にラーメンを食べることすら嫌がるようになった」 「社長、焦らずに少しずつ進めていきましょう」森下が慰めるように言った。 輝明は首を振る。「無力感がひどいよ」 誰にもt理解できない。どう頑張っても報われないこの感覚を。 森下はため息をつきながら言った。「でも社長、桜井さんはあなたを愛するために、7年間もの間ずっと耐え続けてきたんです。一人の女性に愛される7年間なんて、人生でいくつもあるわけじゃないですよ」 もしも自分を7年間も愛し続けてくれる人がいるなら、たとえ神様が現れても、自分の人生は彼女のためだけのものになるだろう、と森下は思った。 「やはり嬌が原因ですね」森下はそう呟くと、つい悪態をつく。 輝明は目を上げ、「彼女はどうしている?」と尋ねた。 「すでに目を覚まし、また留置場に戻されました。陸川家は依然として動きを見せていません。彼女を見捨てたようにも見えます」 輝明は訝しげに眉をひそめる。見捨てた?あんなに嬌を可愛がっていた彼らが? 「陸川家が何を企んでいるのか、調べて」 「分かりました。社長、とりあえず家にお送りしますね」森下は車のドアを開け、輝明に車に乗るよう促した。 そのとき、横を通るスタッフがクリスマスツリーを担いでホールへと運んでいるのが目に入る。 輝明はそれを見て呟いた。「もうすぐクリスマスか」 「ええ、クリスマスですね。前に……」 森下は何かを言いかけたが、考え直したように笑いながら言葉を変えた。「とにかく、帰りましょう、社長」 「何を思い出

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0781話

    綿は眉をひそめた。「高杉さん、食事が足りなかったの?」 輝明は視線を落とし、過去の記憶を思い返していた。大学時代、彼が部活の用事で遅くなる日々が続いていた頃、綿がインスタントラーメンや手作りの麺類を持って訪れてくれた。あの頃は寒い冬だったが、二人の心は今よりもずっと温かかった。 だが、もう四年も心穏やかに一緒に食事をする機会がなかったのだ。 ふと、二人でラーメンを食べたあの日々が懐かしくなった。 けれども、彼女はその記憶をすっかり忘れてしまったのだろうか。 「味の好みが似ていたと思うんだけど」 彼は森下に電話をかけ、車を呼び出すよう指示した。 綿は微笑んだが、目は冷めていた。 「必要ない。用事があるので帰ります」 彼女がその場を立ち去ろうとした瞬間、輝明は彼女の腕をつかんだ。 その動きに、綿は彼の手に目をやり、黙って「放して」という意思を込めた視線を送った。 その視線に気づいた輝明は言った。 「越えたことはしない。ただ一杯のラーメンをご馳走したいだけだ。それを食べたら、すぐに送るよ」 彼の声は低く、静かだった。 綿はため息をつき、苛立ちを隠さずに言い返した。 「高杉さん、これが既に越えているんですよ」 輝明は一歩も引かない。 「研究所に2000億を投資したばかりだ。一緒に食事をするくらいのことも許されないのか?」 綿は皮肉たっぷりに笑った。 「高杉さんはご自分でおっしゃいましたよね。これは私のための投資ではないと。それなら、10000億を投資されても、私は食事の義務を負いませんよ」 輝明は短く息をつき、三秒間黙った。 再び立ち去ろうとする綿の腕を、彼は再びしっかりと握った。 今度はその目がわずかに悲しげで、委ねるような弱々しい光を宿していた。 彼の行動は、「他意はない。ただ食事を共にしたいだけだ」と語っているようだった。 彼がこんな風に誰かに懇願する姿を見たことがあっただろうか? 少なくとも、彼女は少年時代の彼の生意気で堂々とした姿をよく覚えている。あの頃、誰も彼の口から「お願い」を聞いたことがないと言われていた。 「今回だけ」 彼の声はかすれていて、低く、かつ切実だった。 綿は唇を噛み、わずかに動揺し

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0780話

    徹はその場を和らげるように笑みを浮かべた。 「たしかに。世間では高杉さんの資産についていろいろ噂がありますが、一番詳しいのは桜井さんじゃないですか?」 綿の表情は一瞬で冷たくなった。 「それはがっかりさせるでしょうね」 彼女は淡々とした声で言葉を続けた。 「私は高杉さんがどれだけの資産を持っているかなんて知りませんし、知る機会もありませんでした。結婚していた3年間、一円たりとも彼の金を使ったことはありません。それどころか、笑顔すら向けられたことがありませんでした」 この一言は、冷水を浴びせかけたようにその場の空気を一気に冷やした。 徹は慎重に輝明の顔色をうかがった。食事の場に彼も同席しているのだから、綿の発言はあまりにも無遠慮だった。だが、不思議なことに、輝明は何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を聞いていた。 しばらくして、彼が口を開く。 「もう一度、桜井さんと結婚してみたらどう?」 言葉を言い切る前に、綿がすかさず声を上げる。 「何のために?一度死んでみて懲りずに、また二度目の死を試したいの?あなた、そんなに簡単に騙されるようには見えないけど?」 輝明はしばし沈黙した。 彼女の反応があまりに鋭かったので、彼は話題を切り替えることにした。 「投資の話に戻りましょう」 だが、綿は冷たい口調で言い返す。 「投資ね?それならまず2000億を出して誠意を見せてよ」 彼女は腕を組み、苛立ちを隠そうともしない。 徹は内心冷や汗をかいていた。もし二人が本格的に言い争い始めたらどうすればいいのか。輝明が我慢しきれず、研究所を潰すような行動に出たらどうなるのか。 この二人の関係はそうだと知ったのなら、輝明を助けるんじゃなかった。彼がそんな懸念を抱いている間に、輝明は口元に笑みを浮かべ、静かに言った。 「2000億では足りないでしょう。では、6000億を投資しましょうか。それで誠意は十分と言えるでしょうか?」 彼はスーツのポケットから小切手を取り出し、さらりとテーブルに置いた。 綿は言葉を失った。 徹がその場を取り繕うように笑いながら言った。「二人とも、そのへんでやめにしましょう。まずは食事を楽しみましょう」 綿は目の前の小切手を手に取って確

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0779話

    夜、クラウドダイニング。 綿は白いワンピースに濃い色のコートを羽織り、手には世界限定のバッグを持って店内に入った。その瞬間、注目の的となった。彼女の全身から感じられる上品さと優雅さが周囲の注目を集めたのだ。 知人を見つければ微笑み、店員に案内される際は「ありがとうございます」と静かに声をかける。その所作一つ一つが自然に人々の好感を引き寄せた。 最近、嬌が警察に連行されて以降、人々は改めて綿という人物を見直しているようだった。 遠くからでも輝明と徹が話しているのが見えた。彼らは何か楽しそうな話をしているようで、徹は朗らかに笑っていた。 綿は口元を引き締め、表情を整えた後、きっぱりとした足取りで彼らの元へ向かった。 「来たね」 徹が彼女を見つけて声をかけると、輝明も振り返った。その視線の先には、コートを脱ぎ、店員に渡す綿の姿があった。 彼女は袖を軽くまくって、ゆっくりと徹のそばに腰掛けた。 その首元にはバタフライのモチーフのネックレスが輝いており、白い肌を際立たせていた。爪にはネイルが施されていなかったが、全体の美しさにまったく影響を与えない。 髪はざっくりとまとめられ、クリップで留められているだけだったが、それでも整然としていた。 彼女は視線を上げ、輝明に向けて控えめな微笑みを浮かべた。 「高杉さん、こんばんは。研究所の院長をしております桜井綿と申します。自己紹介は不要ですよね?」 その声には微かな距離感が漂っていた。 輝明は黙り込んだ。彼女とは十分に知り合いだ。確かに自己紹介の必要などない。 一方、徹は二人を交互に見ながら、ようやく綿が彼に強い拒絶感を抱いている理由を理解した。この二人が顔を合わせると、場の空気がどうにも重い。 「まあ、友人として軽く食事をしながら、研究所のプロジェクトや進捗について少し話せればいいんじゃないかな」 徹は場を和らげようと口を挟んだ。 「ああ、そうですね。でも、高杉さん、理解できるでしょうか?このパートも省いてしまって構いませんよね?」 綿の言葉に、輝明は微笑みを浮かべた。 徹は心の中で冷や汗をかいた。いくら場を繕おうとしても、綿のこの態度では話にならない。投資家にこんな扱いをするなど、とても許されるものではない。

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0778話

    綿が疲れたように電話越しで文句を言うのをやめると、電話の向こう側から穏やかな声が聞こえた。 「もう言い終わった?」 彼女は歯を食いしばりながら答える。 「終わった!」 「水でも飲めよ」 その言葉に、綿は皮肉な笑みを浮かべた。 「あなたって本当に!」 彼女が言い終わらないうちに、輝明は静かに彼女の言葉を遮った。 「投資したいと望んだのは俺じゃない。山田徹がこの話を持ち上げてきたんだ」 その言葉に綿は詰まった。 「山田さんが言うには、研究所の後期の費用負担がますます大きくなるそうだ。俺が参加すれば研究がスムーズに進む、とね。もし君が俺の参加を望まないなら、参加しない」 彼の声は誠実で、まるで彼女のためにすべてを引き下がる覚悟を持っているかのようだった。 「君たちの役に立てると思っていただけだ。申し訳ない……」 そのトーンに、綿の心は微妙に揺れた。 「本当に、あなたが自ら望んで参加したわけじゃないの?」 「違う」 輝明は即座に答えた。 綿は眉をひそめ、さらに問い詰めた。 「じゃあ、山田さんは私たちの関係を知っていながら、あえてあなたを引き込んだの?」 輝明は苦笑しながら否定した。 「彼に悪意はないよ。それに、君が研究所にいるから俺を選んだわけでもない。ただ単に、俺が適任者だっただけだ」 綿はそれ以上言葉を発することなく、電話を切ろうとした瞬間、再び彼の冷静な声が響いた。 「今、彼が求めているのは俺の資金だ」 彼の言葉に、綿は立ち止まった。 だから山田さんはあの食事会に出席するよう頼んだのね。 すべてが一瞬で理解できた。 彼女を通じて、輝明の投資を取り付けたいのだ。 その時、彼の声がさらに柔らかく聞こえてきた。 「俺は約束したことは守る。手放すと言ったからには、君を自由にする」 彼の声は低く、どこか本心を隠したような響きがあった。 綿はそれ以上答えず、電話を切った。 彼が本当に言葉通りに行動するのかどうか、それはまだわからない。 彼女はスマホを机に叩きつけるように置き、深く息を吐いた。 さっきまでの苛立ちは消え、少し気持ちが楽になった。 彼が無理に参加しようとしたわけじ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0777話

    徹は陽菜を連れて研究所を出ていった。 綿は椅子に腰を下ろし、しばらく考え込んでいた。 この研究所のトップは結局、徹だった。 この事実を前に、彼女の心にはどうしようもない苛立ちが湧き上がっていた。 もしここに祖母がいたら、徹は祖母をこんなふうに困らせたりはしなかっただろう。 むしろ祖母の方が、研究所のために自ら進んで譲歩していたに違いない。 綿は首を振り、心を落ち着けようとする。 「早くこの研究を完成させて、この場を離れたい」 その思いが胸中でますます強くなる。 「すべてが片付いたら、山奥に隠居して暮らそう」 ふとそんな未来を想像した。 もし父の会社が自分を必要とするなら、会社を継ぐのも悪くない。 「でも、父が必要としないなら?」 そんな時は、かつての夢を追いかけ、国外で留学し、ジュエリーデザインを学ぼう。 彼女はふと溜息をつく。考えれば考えるほど、怒りが心の中で燃え上がっていくのを感じる。 苛立ちを抑えられない彼女は、スマホを取り出し、ブロックリストを開く。 そこには輝明の番号が登録されていた。 彼女は一瞬躊躇したものの、彼をリストから外し、電話をかけた。 ……出ない。 呼び出し音だけが続く。 もう一度かけても応答がなく、綿は眉をひそめた。 三度目をかけるのは嫌になり、スマホを机の上に放り投げたその時―― スマホが振動した。 画面に映し出された名前は「高杉輝明」。 彼女の表情は一瞬で冷たくなった。 「わざと?」彼女はそう思わずにはいられなかった。 彼女が諦めると、わざわざかけ直してくるとは…… 綿は電話に出るが、音声をスピーカーに切り替え、机に置いたまま黙り込む。 しかし、電話の向こう側からも何の声も聞こえてこない。 ……何も言わない? 両者の間に張り詰めた沈黙が続く。そして、彼女は苛立ちを募らせながら電話を切った。 何様のつもりなのよ! 彼女の声が室内に響く。 一方、輝明のオフィス。電話を切られた彼は、静かに森下を睨みつけた。 森下は冷や汗をかき、困った表情を浮かべた。 実は綿からの電話に輝明は驚いていた。まさか彼女が自分をブロックリストから外して電話し

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0776話

    徹はうなずき、静かに言った。 「今後の消耗はどんどん増える一方だ。だから、実力のある人が加わるなら、それに越したことはない」 「その人とは誰ですか?」 綿が問いかけた。 「夜になればわかる」 徹は笑顔を見せ、続けた。 「そのためにわざわざ君を探しに来たんだ」 彼の言葉には暗に「断らないでほしい」という意味が込められていた。 綿は沈黙した。 彼女の中には漠然とした不安が広がっていた。 「それって、輝明ですか?」 綿が探るように言うと、徹は驚いた顔を見せた。 彼女がこれほど敏感だとは思わなかったのだ。 「もし彼なら、でも――」 彼が言葉を続ける前に、綿がそれを遮った。 「山田さん、もし輝明があなたにいくら投資しているのか教えてください。私がその倍を出します」 彼女の声には冷たさがあり、その表情には一切の妥協が見られなかった。 彼女はその男を研究所に関与させたくなかった。 「桜井さん、感情的にならないでくれ!輝明が投資してくれるのは、我々にとって重要な機会なんだ」 徹は真剣な顔で説得するように言った。 だが、綿は静かに首を振った。 「山田さん、もう一度よく考えてください」 「考えた上での結論だよ。だからこそ、夜に来てほしいんだ」 彼の声には固い決意が滲んでいた。 綿は言葉に詰まった。 徹の眉間には一瞬皺が寄った。 綿の胸中には苛立ちが広がっていく。 彼女は強く逆らいたい気持ちを抑えきれない。 しかし、彼女には理解していることがあった。 研究所では、彼女が院長であり投資家であるとはいえ、その立場は徹の好意に依存しているということだ。 彼女の出資額は徹のそれに及ばず、この研究所の創設者も徹だった。 彼女はあくまで「共同経営者」でしかない。 彼女が意見を言う資格はあるが、それを受け入れるかどうかは徹次第だった。 さらに、彼女が自ら身を引くこともできる。 だが、「SH2Nの研究を完成させること」は、彼女の祖母の夢だった。 彼女が去ることは、その夢を裏切ることに等しかった。 徹も、自分が競争から外れることを恐れていないのかもしれない。結局のところ、綿が一人去ったとこ

Explore and read good novels for free
Free access to a vast number of good novels on GoodNovel app. Download the books you like and read anywhere & anytime.
Read books for free on the app
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status