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第0002話

Author: 龍之介
「パパ、あなたの言う通りだったわ。輝明の心を温めることなんて、私にはできなかった。間違っていた、帰りたい……おうちに帰りたいの……」

綿のかすれた声が、静まり返ったリビングに沈んだ。

桜井家は南城でも指折りの名家であり、医者の家系でもある。

祖父は成功した実業家であり、祖母は心臓外科の名医。その二人は、周囲から理想の夫婦と称えられていた。

幼い頃から綿は祖母のもとで医学を学んでいた。祖母は彼女を天才と呼び、「あなたはこの道を歩むべく生まれてきたのだ」とまで言った。

祖父と祖母は、彼女が医師としての道を歩めるように環境を整え、父は彼女のために莫大な資産を築いた。母は、「綿はいつまでもあたしの可愛い娘よ」といつも優しく微笑みながら、彼女をそっと包み込むように愛し続けた。

けれども綿は、そのすべての捨てた。ただ一人のために。

高杉輝明。

愛のために全てを投げ打ち、彼のもとへと飛び込んだ自分を、かつては「愛に生きる勇者」だと信じていた。だが今、思い返せば、ただの愚か者だった。

綿は深く息を吸い込むと、静かに階段を上り、シャワーを浴びた。流れ落ちる湯とともに、張り詰めていた感情がほどけていくのを感じる。肌を拭き、丁寧に髪を梳かし、軽く化粧を施した。

もう、泣かない。

荷物をまとめ終えると、リビングの壁にかかった一枚の絵に目を向けた。

輝明と共に描いた夕焼けの絵。

彼女はそっと指先で絵の端をなぞる。結婚したばかりの頃の、あの幸福感が胸をよぎる。

――結婚式なんてなくてもいい。輝明の妻になれるだけで、それで十分。

そう信じていた。

だが、父は激怒した。

――「お前は自分の価値を貶めている。いつか、大きな過ちだったと気づく日が来るぞ」

あの日の言葉が、いまさらになって胸に突き刺さる。

綿は、そっと絵を額縁から外した。

一度、深く息を吸う。

そして──

破り捨てた。

絵の断片が、床に散る。その欠片を手でかき集め、ゴミ箱へ押し込んだ。

終わりだ。

この選択が、命を削るほどの痛みを伴うものだったことは確かだ。

だが、まだ生きている。

これからは、ただ平穏に、穏やかに生きていきたい。

それだけを、願う。

新婚初夜、輝明が投げつけた離婚届。綿はそれを引き出しの奥から取り出し、そっとテーブルの上に置いた。そして、その紙を見つめながら、まるで花がほころぶような笑みを浮かべる。

「輝明、あなたの望み通りよ。どうかお幸せに」

言葉を残し、別荘のドアを閉める。振り返ると、暗紫色のパガーニが静かに佇んでいた。

車のドアが開き、一人の少年がが軽やかに降り立つ。唇の端を吊り上げながら、冗談めかした口調で言った。

「お嬢様、やっとその地獄から抜け出す気になったんだね?」

「来るのが早いわね」

綿は車の前を回り込み、運転席に乗り込む。

森田雅彦――幼い頃から彼女に付き従ってきた少年。かつて、プールで溺れかけた彼を綿が助けた。それ以来、彼は何の迷いもなく、綿の後をついて回るようになった。

「もちろんさ。この日を三年も待っていたんだから!」

綿の胸がちくりと痛む。シートベルトを締め、静かに尋ねた。

「みんな、最初からこの結婚はいずれ私が負けるって思ってたの?」

雅彦はじっと彼女を見つめる。答えは、沈黙の中にあった。

綿の瞳がわずかに陰る。

「輝明……みんながあなたなんか愛しちゃいけないって言ったのに、それでも私はあえて飛び込んだのよ」

胸が痛い。息をするたび、心の奥がひどく軋む。

綿は片手でハンドルを握り、もう片方でギアを入れた。そして、深くアクセルを踏み込む。

エンジンが唸りを上げ、暗紫色のパガーニが鋭く夜の道を切り裂いた。まるで心の鬱憤を晴らすように。

やがて車は静かに停まり、ネオンが揺れるタトゥーショップの前でエンジンを切る。

綿がドアを開け、迷いなく店内へと足を踏み入れると、雅彦も無言のままその後を追った。

「勅使、このタトゥーをお願い」

綿はiPadを男に渡した。

画面に映るのは、繊細で美しい蝶のデザイン。まるで今にも羽ばたきそうな、生命力に満ちた一枚だった。

「どこに彫る?」

勅使の問いに、綿は黙って上着を脱いだ。

黒いキャミソールの下、透き通るように白い肌が現れる。滑らかなラインを描く右肩から背中にかけて、美しさとは対照的な深い刀傷が刻まれていた。

「これは……」

勅使は思わず息を呑んだ。

綿が答えるより先に、雅彦が肩をすくめて言う。

「お嬢様が若気の至りで無茶をしたんだ、あるクズを助けるために」

その言葉を聞いて、勅使はすぐに察した。

――輝明のためか。

綿があの男を愛していたことは、誰もが知っていた。激しく、狂おしいほどに。

彼女の命を賭けるほどの存在は、輝明以外にありえなかった。

綿はベッドにうつ伏せになり、淡々と言う。

「麻酔は要らない、そのまま始めて」

勅使は言葉を飲み込む。痛みを気遣いたかったが、彼女の決意を覆せないこともわかっていた。

綿はいつもそうだった。一度決めたら、誰にも止められない。

だからこそ、輝明のためにここまでしてしまったのだ。

「この傷……思ったより深いな」

針を走らせながら、勅使がぽつりと呟く。

「君の背中に、こんな深い傷があるなんて……知らなかった。あの人のために、こんなにも傷ついて……結局、何が残ったんだ?」

その問いに、綿は答えない。

ただ目を閉じると、記憶が四年前へと引き戻されていった――

あの日、輝明は誘拐された。犯人たちは彼の命を狙い、綿はただ一人、時間を稼ぐために後を追った。

だが、気づかれた瞬間、捕らえられた。

犯人はニヤリと笑い、「交換しようか?」と囁いた。輝明の命と、彼女自身を。

綿は迷わず頷いた。

しかし、彼らは彼女をただの交換条件で済ませるつもりはなかった。抵抗する彼女にナイフが振り下ろされ、背中に鋭い痛みが走った。

だが、それだけでは終わらない。彼女が桜井家の娘だと知った彼らは、生かして帰すわけにはいかないと判断した。

そして、彼女を縛り、石を括りつけて海へと投げ落とした。

冷たい水が全身を包み、重く、深く、沈んでいく。

息ができない。

もがけばもがくほど、喉に塩水が流れ込む。

視界が暗くなり、意識が遠のく中で、彼女はただ必死に――それでも生きようとした。

……それ以来、彼女は二度と水に入れなくなった。

ズキン、と背中に傷に痛みが走る。綿は唇を噛み、耐えながら思う。

この傷跡を覆うのは、あの男を愛した証を消すために。

麻酔を使わないのは、この痛みを深く記憶に刻み込むために。

そして誓う。

――これからは、ただ自分のために生きる。

病院の病室。

輝明はベッドの横に座り、黙々とリンゴの皮をむいていた。ナイフの音が規則的に響く中、不意に柔らかな声が彼の手を止めた。

「輝明くん、私たち……もう終わりにしようか」

刃の動きを止め、視線を上げる。涙を浮かべた嬌が、かすかに震えながら彼を見つめていた。

「何を言っているんだ?」

彼は優しく問いかける。

嬌は鼻をすすり、声を絞り出すように言った。

「綿ちゃんは、あなたのことを本当に愛してる……私は、彼女を傷つけたくないの」

頬を伝う涙を拭いながら、嬌の目には迷いが浮かんでいた。

輝明は微かに眉をひそめる。頭の中に、綿のあの言葉が蘇る。

――私たち、離婚しましょう。

信じられない。綿が離婚を望むなんて。

これは、自分が嬌を突き落とさなかったことを証明しようとするための、綿の意地なのか?

「後であいつを連れてきて謝らせる」

淡々と言いながら、削ったリンゴの一片を嬌に差し出す。

嬌の目には涙が滲む。彼女は唇を噛み、リングを受け取ろうとしない。

「明くん……」

「責任は取るって言っただろう。必ず君と結婚する」

輝明は手を上げ、そっと嬌の頭を撫でながら、余計な心配をしないようにと示した。

その言葉を聞いて、嬌は素直に頷いた。けれど、心の奥には満足とは裏腹な、綿への憎しみが渦巻いていた。

輝明の妻の座にしがみつくなんて、本当に恥知らずな女……!

輝明は何とも言えぬ重さを感じながら、適当な口実を作って立ち上がった。

「会社に用事がある。また後で来るよ」

嬌は彼の背中を見送りながら、その悔しさを奥へと押し込めた。

綿の顔を思い浮かべると、自然と歯ぎしりしてしまう。

「綿、愛してくれない男のそばに居続けて、何が手に入るの?」

病院を出た瞬間、輝明のスマホが振動する。画面を見ると、岩段秋年の名前が表示されていた。

岩段家は雲城四大家族の一つであり、秋年はその岩段グループの社長を務めている。輝明とは幼い頃からの幼馴染で、互いに気心が知れた間柄だった。

通話ボタンを押すと、すぐに秋年の気だるげな声が聞こえてきた。

「お前の『清楚な彼女』はどうしてる?」

輝明は車のドアを開けて乗り込み、落ち着いた調子で答えた。

「……嬌は無事だ」

「そりゃそうだろう。庭中の人間が総出で助けに行ったんだからな。怪我ひとつないさ」

秋年はニヤリと笑うと、からかうようにもう一度尋ねた。

「で、お前の奥さんは?」

輝明は冷笑し、わざと秋年の口調を真似る。

「彼女に何かあるわけがないだろ?」

「……高杉、お前な」

秋年の声が、急に熱を帯びた。

「俺が、お前の奥さんを助けたんだぞ? 今日、俺がいなかったら、プールで溺れて死んでたんだ」

その言葉に、輝明の眉がわずかに動く。脳裏に浮かぶのは、青白い顔をした綿の姿。気づけば、無意識にハンドルを握りしめていた。

だが、すぐに冷静を取り戻し、吐き捨てるように言う。

「何を言ってる。彼女は深海にだって潜れるんだ。たかがプールで溺れるわけがない」

「演技か? そうは見えなかったが……」

秋年はため息混じりに呆れたように言う。

「……もし本当に演技だとしたら、お前の奥さんもずいぶんと容赦がないな。陸川が水を怖がるのは、昔、お前を助けたせいだってこと、知らないわけじゃないだろうに。それなのに、そんな彼女をわざわざ水に突き落とすとはな」

他の誰も知らないことだが、秋年だけは知っていた。

輝明が嬌を妻にすると決めた理由。それは、かつて誘拐された輝明を救ったのが、陸川嬌だったからだ。

嬌は、彼の命を救った。だから彼は、一生をかけて彼女を守らなければならない。

秋年の言葉を聞きながら、輝明は胸の奥に広がる漠然とした不安を押し殺した。まるで、何か大切なものが、少しずつ崩れ落ちていくような感覚。彼は低い声で言った。

「……もういい、切るぞ」

「今夜、Skのクラブに行かないか?」

「行かない」

そう言って、輝明は通話を切った。

前方の赤信号をぼんやりと見つめながら、秋年の言葉が耳の奥でこだまする。

――俺が、お前の奥さんを助けたんだぞ? 今日、俺がいなかったら、プールで溺れて死んでたんだ。

輝明は眉を寄せた。脳裏に蘇るのは、綿の震える声。

――私も、水が怖いの……

彼女はなぜ、水を怖がるのか。疑念が胸の奥で膨らんでいく。

無意識にアクセルを踏み込んでいた。車は、別荘へと向かう。

到着すると、勢いよくドアを開け、苛立った声で叫んだ。

「……綿!」

靴を脱ぎ捨て、廊下を渡る。

リビングに入ったが、綿の姿はなかった。

いつもなら、彼が帰れば、階段を駆け下りてくるか、キッチンで何かをしている綿の姿があるはずなのに。

今日は、別荘全体が静まり返っていた。

不穏な予感を抱えたまま、輝明は階段を上る。

寝室のドアを開けた瞬間、違和感が背筋を這い上がる。

部屋は、まるで何事もなかったかのように、きれいに片付いていた。埃ひとつない。

輝明は、一瞬、息を呑む。

クローゼットを開くと、中は空っぽだった。

洗面所に並んでいたはずの二人分の歯ブラシも、今は彼のものだけが残っている。

……綿。

行ってしまったのか?
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    「でも、易くん……お母さん夢を見たの。日奈が外でうまくやっていけていない夢を……ねえ、これは神様が私を責めているのかしら。嬌ちゃんにもっとよくしてあげなかったことを……」 陸川夫人は涙をこぼしながら、易の腕をきつく握りしめた。 易は陸川夫人を横目で睨みながら、胸に重苦しいものを感じていた。 眉をひそめながら、彼女が自分の腕を握る手を見下ろす。陸川夫人の指は血の気がなく、真っ白になっていた。その痛々しさは一目でわかった。 「お母さん、もうそんなことを考えないで」 易の声にはためらいが滲んでいた。 「嬌は永遠に日奈にはなれないし、日奈だって、嬌によくすることで外で幸せになれるわけじゃない……」 易は、母親のこの夢を打ち壊したくはなかった。 だが、これ以上はごまかせない。現実を直視する時が来たのだ。 母も自分も、そろそろ現実を見なければ。 「いや、嬌に私たちが尽くしてきたことを、天が見逃すはずがないわ!」 陸川夫人は深く息を吸い込んで、ますます顔色が悪くなっていった。 日奈が行方不明になった年、陸川夫人は一時呼吸困難に陥り、死にかけた。 その後、彼女は虚ろな状態が続き、何年も立ち直れなかった。 日奈が行方不明になって3年目には、陸川夫人の精神状態はますます悪化していた。 そんな陸川夫人を見かねた育恒は、施設から子供を引き取ることを提案し、「この子に優しくすれば、きっと日奈も見つかる」と陸川夫人に話した。 それから、あっという間に何年も過ぎた。 育恒は陸川夫人を騙し、自分自身も騙し、そして陸川家全体をも騙し続けていた。 「易くん、お願い……嬌ちゃんを何とかして助け出してちょうだい」陸川夫人は今にも崩れそうだった。 易の胸はえぐられるように痛んだ。 彼は陸川夫人を抱き上げ、ソファに座らせた。 「お母さん……困らせないで」 「易くん、嬌ちゃんはあなたの妹なのよ!」陸川夫人は涙を止められなかった。 「お母さん、陸川家はこの何年も嬌ちゃんに十分な愛情を注いできた。でも、嬌ちゃんがこれ以上やり続けるなら、陸川家全体が巻き添えを食らうことになる!俺には手の打ちようがない!」 そう言い切った瞬間、陸川夫人の目が大きく見開かれた。 まるで何か

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0783話

    輝明はふと顔を上げて言った。 「森下、家には帰らない。医学院近くのラーメン屋に行こう」 森下は意外そうな表情で上司を見て、軽く頷いた。「わかりました」 言葉では「手放す」と言いながらも、実際には綿を忘れることなどできないのだろう。 心から愛した人との思い出、自然と追いかけたくなるものだ。 以前は綿が二人の思い出を探し求めていた。 今では、輝明がそれをしている。 車が医学院近くに停まった時、輝明は手をアームレストに置いたまま、ドアを開けることができなかった。 「……あれは桜井さんですか?」 森下はラーメン屋の中にいる綿の姿に気づき、驚いて声を上げた。 ラーメン屋には大きな窓があり、その前の席に座れば街道を向いた席になる。 綿はその窓際に座り、スマホをいじりながら一人でラーメンを食べていた。 大きな窓越しに、彼女の美しい横顔がくっきりと見えた。 輝明の心は一気に沈み、深い闇に飲み込まれるような感覚に襲われた。 綿は、思い出を忘れていなかった…… しかし、彼は車を降りて彼女の隣に座る勇気を持てなかった。 「桜井さんがここにいるなんて、どういうことでしょうか?」 森下には、このラーメン屋にまつわる二人の思い出を知る由もなかった。 「社長、中に入りますか?」 森下が問いかけると、輝明は首を横に振った。 彼はただ車の中から静かに見つめていた。 綿がラーメンを食べる速度は速くなかった。 時折、スマホを操作する姿も見えた。 髪が何度も顔にかかり、それを後ろにまとめようとするが、ヘアゴムがなくて結べないようだった。 苛立ちがその美しい顔に表れていた。 外は真冬の12月、積もった雪はまだ溶けておらず、道路には氷と雪が混じり合っている。 店内は適度に暖かく、穏やかで居心地の良い雰囲気に包まれていた。 輝明は、思わず微笑んだ。 大学時代と同じだ。 髪を下ろしておきながら、ヘアゴムを持ち歩かないのが彼女の癖で。だから、食事のたびに苛立つのだ。 かつて、夜の10時半ごろ、彼女が彼を連れ出してラーメンを食べに行ったことがあった。 彼を労わりたいと言って、特製トッピングで肉と卵を追加したラーメンを奢ってくれた。

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0782話

    忘れるはずがなかった。彼女の姿が見えなくなるまで、森下の車が到着しても綿はすでにその場を離れていた。しかし、たとえ森下の車が先に到着したとしても、今の輝明はもう綿を無理に車に乗せようとはしなかった。 愛すれば愛するほど、相手を尊重するようになるものだ。彼女の視線ひとつ、話すときの口調ひとつが気になり始める。 綿は言った。 「愛するということは、罪悪感を感じることでもあるけど、それだけじゃなく、大切にすることでもあるの」 「社長」森下が彼を呼ぶ。 「うん」輝明は短く応じた。 「また桜井さんと話がこじれましたか?」森下が尋ねた。 輝明は苦笑いを浮かべた。「彼女はもう、一緒にラーメンを食べることすら嫌がるようになった」 「社長、焦らずに少しずつ進めていきましょう」森下が慰めるように言った。 輝明は首を振る。「無力感がひどいよ」 誰にもt理解できない。どう頑張っても報われないこの感覚を。 森下はため息をつきながら言った。「でも社長、桜井さんはあなたを愛するために、7年間もの間ずっと耐え続けてきたんです。一人の女性に愛される7年間なんて、人生でいくつもあるわけじゃないですよ」 もしも自分を7年間も愛し続けてくれる人がいるなら、たとえ神様が現れても、自分の人生は彼女のためだけのものになるだろう、と森下は思った。 「やはり嬌が原因ですね」森下はそう呟くと、つい悪態をつく。 輝明は目を上げ、「彼女はどうしている?」と尋ねた。 「すでに目を覚まし、また留置場に戻されました。陸川家は依然として動きを見せていません。彼女を見捨てたようにも見えます」 輝明は訝しげに眉をひそめる。見捨てた?あんなに嬌を可愛がっていた彼らが? 「陸川家が何を企んでいるのか、調べて」 「分かりました。社長、とりあえず家にお送りしますね」森下は車のドアを開け、輝明に車に乗るよう促した。 そのとき、横を通るスタッフがクリスマスツリーを担いでホールへと運んでいるのが目に入る。 輝明はそれを見て呟いた。「もうすぐクリスマスか」 「ええ、クリスマスですね。前に……」 森下は何かを言いかけたが、考え直したように笑いながら言葉を変えた。「とにかく、帰りましょう、社長」 「何を思い出

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0781話

    綿は眉をひそめた。「高杉さん、食事が足りなかったの?」 輝明は視線を落とし、過去の記憶を思い返していた。大学時代、彼が部活の用事で遅くなる日々が続いていた頃、綿がインスタントラーメンや手作りの麺類を持って訪れてくれた。あの頃は寒い冬だったが、二人の心は今よりもずっと温かかった。 だが、もう四年も心穏やかに一緒に食事をする機会がなかったのだ。 ふと、二人でラーメンを食べたあの日々が懐かしくなった。 けれども、彼女はその記憶をすっかり忘れてしまったのだろうか。 「味の好みが似ていたと思うんだけど」 彼は森下に電話をかけ、車を呼び出すよう指示した。 綿は微笑んだが、目は冷めていた。 「必要ない。用事があるので帰ります」 彼女がその場を立ち去ろうとした瞬間、輝明は彼女の腕をつかんだ。 その動きに、綿は彼の手に目をやり、黙って「放して」という意思を込めた視線を送った。 その視線に気づいた輝明は言った。 「越えたことはしない。ただ一杯のラーメンをご馳走したいだけだ。それを食べたら、すぐに送るよ」 彼の声は低く、静かだった。 綿はため息をつき、苛立ちを隠さずに言い返した。 「高杉さん、これが既に越えているんですよ」 輝明は一歩も引かない。 「研究所に2000億を投資したばかりだ。一緒に食事をするくらいのことも許されないのか?」 綿は皮肉たっぷりに笑った。 「高杉さんはご自分でおっしゃいましたよね。これは私のための投資ではないと。それなら、10000億を投資されても、私は食事の義務を負いませんよ」 輝明は短く息をつき、三秒間黙った。 再び立ち去ろうとする綿の腕を、彼は再びしっかりと握った。 今度はその目がわずかに悲しげで、委ねるような弱々しい光を宿していた。 彼の行動は、「他意はない。ただ食事を共にしたいだけだ」と語っているようだった。 彼がこんな風に誰かに懇願する姿を見たことがあっただろうか? 少なくとも、彼女は少年時代の彼の生意気で堂々とした姿をよく覚えている。あの頃、誰も彼の口から「お願い」を聞いたことがないと言われていた。 「今回だけ」 彼の声はかすれていて、低く、かつ切実だった。 綿は唇を噛み、わずかに動揺し

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0780話

    徹はその場を和らげるように笑みを浮かべた。 「たしかに。世間では高杉さんの資産についていろいろ噂がありますが、一番詳しいのは桜井さんじゃないですか?」 綿の表情は一瞬で冷たくなった。 「それはがっかりさせるでしょうね」 彼女は淡々とした声で言葉を続けた。 「私は高杉さんがどれだけの資産を持っているかなんて知りませんし、知る機会もありませんでした。結婚していた3年間、一円たりとも彼の金を使ったことはありません。それどころか、笑顔すら向けられたことがありませんでした」 この一言は、冷水を浴びせかけたようにその場の空気を一気に冷やした。 徹は慎重に輝明の顔色をうかがった。食事の場に彼も同席しているのだから、綿の発言はあまりにも無遠慮だった。だが、不思議なことに、輝明は何も言わず、ただ静かに彼女の言葉を聞いていた。 しばらくして、彼が口を開く。 「もう一度、桜井さんと結婚してみたらどう?」 言葉を言い切る前に、綿がすかさず声を上げる。 「何のために?一度死んでみて懲りずに、また二度目の死を試したいの?あなた、そんなに簡単に騙されるようには見えないけど?」 輝明はしばし沈黙した。 彼女の反応があまりに鋭かったので、彼は話題を切り替えることにした。 「投資の話に戻りましょう」 だが、綿は冷たい口調で言い返す。 「投資ね?それならまず2000億を出して誠意を見せてよ」 彼女は腕を組み、苛立ちを隠そうともしない。 徹は内心冷や汗をかいていた。もし二人が本格的に言い争い始めたらどうすればいいのか。輝明が我慢しきれず、研究所を潰すような行動に出たらどうなるのか。 この二人の関係はそうだと知ったのなら、輝明を助けるんじゃなかった。彼がそんな懸念を抱いている間に、輝明は口元に笑みを浮かべ、静かに言った。 「2000億では足りないでしょう。では、6000億を投資しましょうか。それで誠意は十分と言えるでしょうか?」 彼はスーツのポケットから小切手を取り出し、さらりとテーブルに置いた。 綿は言葉を失った。 徹がその場を取り繕うように笑いながら言った。「二人とも、そのへんでやめにしましょう。まずは食事を楽しみましょう」 綿は目の前の小切手を手に取って確

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0779話

    夜、クラウドダイニング。 綿は白いワンピースに濃い色のコートを羽織り、手には世界限定のバッグを持って店内に入った。その瞬間、注目の的となった。彼女の全身から感じられる上品さと優雅さが周囲の注目を集めたのだ。 知人を見つければ微笑み、店員に案内される際は「ありがとうございます」と静かに声をかける。その所作一つ一つが自然に人々の好感を引き寄せた。 最近、嬌が警察に連行されて以降、人々は改めて綿という人物を見直しているようだった。 遠くからでも輝明と徹が話しているのが見えた。彼らは何か楽しそうな話をしているようで、徹は朗らかに笑っていた。 綿は口元を引き締め、表情を整えた後、きっぱりとした足取りで彼らの元へ向かった。 「来たね」 徹が彼女を見つけて声をかけると、輝明も振り返った。その視線の先には、コートを脱ぎ、店員に渡す綿の姿があった。 彼女は袖を軽くまくって、ゆっくりと徹のそばに腰掛けた。 その首元にはバタフライのモチーフのネックレスが輝いており、白い肌を際立たせていた。爪にはネイルが施されていなかったが、全体の美しさにまったく影響を与えない。 髪はざっくりとまとめられ、クリップで留められているだけだったが、それでも整然としていた。 彼女は視線を上げ、輝明に向けて控えめな微笑みを浮かべた。 「高杉さん、こんばんは。研究所の院長をしております桜井綿と申します。自己紹介は不要ですよね?」 その声には微かな距離感が漂っていた。 輝明は黙り込んだ。彼女とは十分に知り合いだ。確かに自己紹介の必要などない。 一方、徹は二人を交互に見ながら、ようやく綿が彼に強い拒絶感を抱いている理由を理解した。この二人が顔を合わせると、場の空気がどうにも重い。 「まあ、友人として軽く食事をしながら、研究所のプロジェクトや進捗について少し話せればいいんじゃないかな」 徹は場を和らげようと口を挟んだ。 「ああ、そうですね。でも、高杉さん、理解できるでしょうか?このパートも省いてしまって構いませんよね?」 綿の言葉に、輝明は微笑みを浮かべた。 徹は心の中で冷や汗をかいた。いくら場を繕おうとしても、綿のこの態度では話にならない。投資家にこんな扱いをするなど、とても許されるものではない。

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0778話

    綿が疲れたように電話越しで文句を言うのをやめると、電話の向こう側から穏やかな声が聞こえた。 「もう言い終わった?」 彼女は歯を食いしばりながら答える。 「終わった!」 「水でも飲めよ」 その言葉に、綿は皮肉な笑みを浮かべた。 「あなたって本当に!」 彼女が言い終わらないうちに、輝明は静かに彼女の言葉を遮った。 「投資したいと望んだのは俺じゃない。山田徹がこの話を持ち上げてきたんだ」 その言葉に綿は詰まった。 「山田さんが言うには、研究所の後期の費用負担がますます大きくなるそうだ。俺が参加すれば研究がスムーズに進む、とね。もし君が俺の参加を望まないなら、参加しない」 彼の声は誠実で、まるで彼女のためにすべてを引き下がる覚悟を持っているかのようだった。 「君たちの役に立てると思っていただけだ。申し訳ない……」 そのトーンに、綿の心は微妙に揺れた。 「本当に、あなたが自ら望んで参加したわけじゃないの?」 「違う」 輝明は即座に答えた。 綿は眉をひそめ、さらに問い詰めた。 「じゃあ、山田さんは私たちの関係を知っていながら、あえてあなたを引き込んだの?」 輝明は苦笑しながら否定した。 「彼に悪意はないよ。それに、君が研究所にいるから俺を選んだわけでもない。ただ単に、俺が適任者だっただけだ」 綿はそれ以上言葉を発することなく、電話を切ろうとした瞬間、再び彼の冷静な声が響いた。 「今、彼が求めているのは俺の資金だ」 彼の言葉に、綿は立ち止まった。 だから山田さんはあの食事会に出席するよう頼んだのね。 すべてが一瞬で理解できた。 彼女を通じて、輝明の投資を取り付けたいのだ。 その時、彼の声がさらに柔らかく聞こえてきた。 「俺は約束したことは守る。手放すと言ったからには、君を自由にする」 彼の声は低く、どこか本心を隠したような響きがあった。 綿はそれ以上答えず、電話を切った。 彼が本当に言葉通りに行動するのかどうか、それはまだわからない。 彼女はスマホを机に叩きつけるように置き、深く息を吐いた。 さっきまでの苛立ちは消え、少し気持ちが楽になった。 彼が無理に参加しようとしたわけじ

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0777話

    徹は陽菜を連れて研究所を出ていった。 綿は椅子に腰を下ろし、しばらく考え込んでいた。 この研究所のトップは結局、徹だった。 この事実を前に、彼女の心にはどうしようもない苛立ちが湧き上がっていた。 もしここに祖母がいたら、徹は祖母をこんなふうに困らせたりはしなかっただろう。 むしろ祖母の方が、研究所のために自ら進んで譲歩していたに違いない。 綿は首を振り、心を落ち着けようとする。 「早くこの研究を完成させて、この場を離れたい」 その思いが胸中でますます強くなる。 「すべてが片付いたら、山奥に隠居して暮らそう」 ふとそんな未来を想像した。 もし父の会社が自分を必要とするなら、会社を継ぐのも悪くない。 「でも、父が必要としないなら?」 そんな時は、かつての夢を追いかけ、国外で留学し、ジュエリーデザインを学ぼう。 彼女はふと溜息をつく。考えれば考えるほど、怒りが心の中で燃え上がっていくのを感じる。 苛立ちを抑えられない彼女は、スマホを取り出し、ブロックリストを開く。 そこには輝明の番号が登録されていた。 彼女は一瞬躊躇したものの、彼をリストから外し、電話をかけた。 ……出ない。 呼び出し音だけが続く。 もう一度かけても応答がなく、綿は眉をひそめた。 三度目をかけるのは嫌になり、スマホを机の上に放り投げたその時―― スマホが振動した。 画面に映し出された名前は「高杉輝明」。 彼女の表情は一瞬で冷たくなった。 「わざと?」彼女はそう思わずにはいられなかった。 彼女が諦めると、わざわざかけ直してくるとは…… 綿は電話に出るが、音声をスピーカーに切り替え、机に置いたまま黙り込む。 しかし、電話の向こう側からも何の声も聞こえてこない。 ……何も言わない? 両者の間に張り詰めた沈黙が続く。そして、彼女は苛立ちを募らせながら電話を切った。 何様のつもりなのよ! 彼女の声が室内に響く。 一方、輝明のオフィス。電話を切られた彼は、静かに森下を睨みつけた。 森下は冷や汗をかき、困った表情を浮かべた。 実は綿からの電話に輝明は驚いていた。まさか彼女が自分をブロックリストから外して電話し

  • 高杉社長、今の奥様はあなたには釣り合わないでしょう   第0776話

    徹はうなずき、静かに言った。 「今後の消耗はどんどん増える一方だ。だから、実力のある人が加わるなら、それに越したことはない」 「その人とは誰ですか?」 綿が問いかけた。 「夜になればわかる」 徹は笑顔を見せ、続けた。 「そのためにわざわざ君を探しに来たんだ」 彼の言葉には暗に「断らないでほしい」という意味が込められていた。 綿は沈黙した。 彼女の中には漠然とした不安が広がっていた。 「それって、輝明ですか?」 綿が探るように言うと、徹は驚いた顔を見せた。 彼女がこれほど敏感だとは思わなかったのだ。 「もし彼なら、でも――」 彼が言葉を続ける前に、綿がそれを遮った。 「山田さん、もし輝明があなたにいくら投資しているのか教えてください。私がその倍を出します」 彼女の声には冷たさがあり、その表情には一切の妥協が見られなかった。 彼女はその男を研究所に関与させたくなかった。 「桜井さん、感情的にならないでくれ!輝明が投資してくれるのは、我々にとって重要な機会なんだ」 徹は真剣な顔で説得するように言った。 だが、綿は静かに首を振った。 「山田さん、もう一度よく考えてください」 「考えた上での結論だよ。だからこそ、夜に来てほしいんだ」 彼の声には固い決意が滲んでいた。 綿は言葉に詰まった。 徹の眉間には一瞬皺が寄った。 綿の胸中には苛立ちが広がっていく。 彼女は強く逆らいたい気持ちを抑えきれない。 しかし、彼女には理解していることがあった。 研究所では、彼女が院長であり投資家であるとはいえ、その立場は徹の好意に依存しているということだ。 彼女の出資額は徹のそれに及ばず、この研究所の創設者も徹だった。 彼女はあくまで「共同経営者」でしかない。 彼女が意見を言う資格はあるが、それを受け入れるかどうかは徹次第だった。 さらに、彼女が自ら身を引くこともできる。 だが、「SH2Nの研究を完成させること」は、彼女の祖母の夢だった。 彼女が去ることは、その夢を裏切ることに等しかった。 徹も、自分が競争から外れることを恐れていないのかもしれない。結局のところ、綿が一人去ったとこ

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