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第2話

「死体、歯周病がひどかったんじゃない?歯が悪かったのかもね」

兄は振り返って桜井警官をじっと見つめ、表情はすぐに冷静さを取り戻した。「失踪届が出てないなら、歯科クリニックの治療記録を調べてみるといいかも。もしかしたら、身元がわかるかもしれない」

私は苦笑した。

桜井警官は黙って頷く。

その後、彼は振り返るとドアを蹴飛ばし、半開きになったドアがぐらついた。「全員集まれ!犯人が見つかるまで帰れると思うな!」

兄は静かに頭を元の位置に戻し、亡者に敬意を表すように一礼した。

「心配するな、必ず安らかにしてやる」

その言葉を聞いた瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。

もし、これが私の遺体だって知ったら、お兄ちゃんはそれでも同じことを言ってくれるのかな?

その時、LINEの着信音が鳴った。

兄は「加藤水産」のアイコンを見て、一瞬眉をひそめたが、結局電話を取った。

「もしもし、桐生さん?急にごめんね。最近、朱理ちゃん見かけた?

もう1週間以上、店に出てなくてさ、電話も繋がらないし、家に行っても誰もいないんだ。もしかして、桐生さんのところにいるかと思って」

加藤慎一郎は市場で私の隣に店を構えている隣人だ。名前は少し年寄りっぽいが、実際には私より二つ上なだけ。家族で水産業をやっていて、加藤自身も控えめで親切な性格。困っている人を見かけると、いつもすぐに手を差し伸べていた。

綾香が亡くなる前、私はよく兄を連れて魚を買いに行った。

その思い出が頭をよぎり、目がしみて痛んだ。

綾香と兄は、私の作る魚の煮付けが大好きだった。でも、あの日以来、兄は魚を一切口にしなくなった。

「あんな冷血女が俺のそばにいるわけないだろ」

兄は私の名前を聞くと、いつも生理的に嫌悪感をあらわにする。できることなら、私の名前が出てきたスマホをそのままゴミ箱に捨て、手を何度も消毒するだろう。

電話の向こうで加藤が一瞬言葉を失った。そして、少し間を置いてからため息をついた。

「桐生さん、外野だからあんまり口出しはしないけど、朱理ちゃんは決して冷たい子じゃないよ。

警察もちゃんと調べてるんだろう?あの時だって、彼女に見捨てるつもりなんてなかったはずだ。

婚約者を失った痛みはわかるけど、桐生さんと朱理ちゃんの関係は――」

「もういい」

兄は冷たく言い放ち、怒りをこめた目で電話を切った。ついでに加藤をブロックした。

顔を上げると、桜井警官がドアの前に立っていて、気まずそうな顔をしていた。

「えっと、さっきタバコ落としちゃってさ......」

桜井警官は解剖台の下を指差した。そこには、静かに転がっている一箱のタバコがあった。

兄はそれを拾い、桜井警官に手渡した。そして、無言でドアに鍵をかけた。

「桐生さん、君の辛さはわかるけど、あの現場の痕跡は、君が最も信頼している先生が鑑定したものなんだよ。彼は今まで一度もミスをしたことがない。その意味が、君には一番よくわかってるはずだ」

桜井警官はタバコの箱をぎゅっと握りしめた。「これ以上、朱理ちゃんを苦しめるのはやめてくれ。彼女もこの数年、ずっと辛い思いをしてるんだ」

兄は冷たい笑みを浮かべた。「辛い?それは綾香のことか?俺のことか?それとも、可哀想な明日香ちゃんか?

朱理が自分の命を守るために逃げたせいで、綾香は外で56回も刺されたんだ。犯人は今でも逃げ続けてる!何も知らないお前たちが、俺に朱理を許せと言うのか?

言っとくけど、たとえ朱理が俺の目の前で灰になるまで燃えたとしても、俺は許せない!」

兄の怒声が廊下に響き渡り、その音が私の心を裂くように痛んだ。

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