夜、家に戻ると、屋内にはすでに明かりが灯り、笑い声が響いていたが、まるで自分だけがその場の茶番かのように感じた。しかし、茶番はまだ始まったばかりで、部屋の中から口論の声が聞こえてきた。「お義姉さん、別にあなたを責めるわけじゃないけど。悠香は昔、自分の兄を死なせただけじゃなくて、今でも有名校の近くにある家に住んでいるじゃない。お義父さんの言うことを聞いて、その家を私たちに譲ってくれないか?剛史こそが青葉家の継承者なんだから」女性の言葉が終わると、祖父の声が響いた。「はな、そもそもお前が私たち青葉家に嫁いできたのは、息子を産んでくれたからだ。それでかろうじて受け入れてやったが、今では海翔がお前の娘のせいで死んだんだぞ。お前がどう思おうと、その家は手放さなければならん」「それに、悟志は今、昇進したんだろう?給料も増えただろうから、今月から毎月100000円を剛史に送金して、剛史の学費に充てるようにしなさい」壁越しに内容ははっきりとは聞こえなかったが、もう十分に見慣れた光景だった。耳で聞かなくても、だいたいの状況は簡単に想像がつく。そして予想通り、部屋の中から母のヒステリックな怒鳴り声が響いてきた。「なぜ私と悟志が剛史を養わなきゃならないの?あの子は私たちの子供じゃないし、自分の家をあんたたちに譲るなんて、どうしてしなきゃいけないの?」「いい加減にして!私の息子が死んだことを利用して、私を操ろうなんて無駄よ!」母の怒鳴り声が途切れたあと、ドアの軋む音が聞こえた。ゆっくり顔を上げると、そこには母と視線がぶつかった。半分が影に沈んだ母の顔が一瞬止まったかと思うと、すぐにこちらに駆け寄り、私の首をがっしりと掴んだ。「このクソ女!あんたが海翔を死なせたせいで、私はこんな屈辱を受けなきゃならないんだ!」「私と父さんが、海翔に有名校に近い家を買うためどれだけ苦労してきたと思う?昼も夜も働いてお金を稼いで、やっとの思いで買った家なのに、あんたが海翔を死なせたせいで、今度はあんたの意地汚い叔母にまで家を奪われようとしている!」母の手が首に食い込む感覚に、私はただ頭を垂れ、何も抵抗しなかった。視線は足元へと落ち、パンツの裾から制御できずに黄色い液体が伝っていくのを見つめていた。呼吸が痛み出すほど締め付けられたとき、母は私
夜遅く、母に家の門前に置き去りにされた私は、身を縮めて眠りについたが、夢の中には兄の姿ばかりが浮かんでいた。兄は私を藁の山の中に隠れさせて、かくれんぼをしていた。石につまずいて倒れた私を見て、心配そうに抱き上げ、膝に乗せてくれた。私はクスクスと笑っていた。だが、そんな幸せな光景が一瞬にして消え、代わりに見えたのは、腫れ上がり原形を留めない兄の亡骸だった。胸の奥が痛みで震える。恐怖は鋭い刃のように、夢の中でも私の心を引き裂いていく。けれど、夜が終われば朝はやってくる。毎年の贖罪の旅も、いつかは終わるのだ。私は3日間を耐え抜いた。そしてようやく、帰途に就いた。帰り道では、行きのように失禁することもなく、それで母の機嫌もだいぶ良くなった。私も少し気持ちが軽くなった。家に戻ると、母は手提げかばんをソファに投げ出した。「私は麻雀をしに出かけるから、あんたは家でご飯を作って、父さんが帰ってきたら一緒に食べなさい」その言葉を残すと、母は一言も私に目を向けることなく、さっさと出て行った。急いで去っていく母の背中を見つめながら、私はまた手のひらを強く握りしめた。毎年、故郷での儀式を終えた後、母は5日間姿を消す。彼女がこの家から逃げたがっている理由も、私はよく知っている。この家には、どこにでも兄の痕跡が残っているからだ。私も逃げたいと思ったことがある。実際、昔は逃げようとしたこともあった。だが、母に見つかったそのとき、彼女は狂ったように私の首を絞めながら叫んだ。「悠香、お兄ちゃんはあんたが殺したんだ。あんたはどうして逃げられると思うんだ?ここにいて、お兄ちゃんの遺品を見て、自分がどれだけお兄ちゃんを惨めにしたか反省しろ!」それ以来、私は逃げるのをやめた。故郷での儀式に参加してから家に戻っても、いつも兄の姿が私の目の前に浮かんでいる。私はもう逃げる勇気がない。あのおかしい儀式のように、私の存在自体が、この家で兄のために贖罪するためのものであるかのようだからだ。心臓の痛みが胸に広がると同時に、胃のあたりにも痙攣するような痛みが襲ってきた。まるで鋭い刃で裂かれ、炎で焼かれているかのように、全身が痛みに包まれた。私は体を縮こまらせ、耐え切れない苦痛の中でふと、窓際に置かれた兄のカ
父が家に戻ったのは、私が夕飯を作り終える寸前だった。私の顔にある青紫の痕に気づいた父は、微かに眉をひそめた。「顔の傷を見せるなと言っただろう。町内会がまた騒ぎ出したらどうするつもりだ」私は手にしていたボウルを少し強く握りしめ、無意識に太ももの傷をつかんだ。ナイフで切った傷口から赤い血が太ももを伝い、白いタイルにいくつかの血の跡を残した。父の視線が一瞬、床に落ちたが、何事もなかったかのように冷たい顔で言った。「お母さんに伝えてくれ、俺は1か月出張に出る」そう言うと、父は急いで部屋に戻り、適当に荷物を詰め込んで、また急いで家を出て行った。「バタン」というドアの音が家中に響き渡った。かつては笑い声で満ちていたこの家は、再び冷たい静寂に包まれた。私の体もその無言の苦痛に耐えきれず、地面にぐったりと倒れ込んでしまった。思い出すのは、かつての家族4人での光景だった。父に抱かれ、公園で遊んでいたあの日。父は私のお尻をつまんで「お前はデブでずんぐりむっくりだな」と笑いながら言っていた。「俺の娘は世界一可愛い」とも。だが、兄が事故に遭ってからというもの、祖父母は私を様々な因習で罰していた。母はヒステリックに私を責め立て、「なぜ死んだのがあんたじゃないのか」と、怒りに満ちた言葉を浴びせてきた。ただ一人、父だけは私に厳しい言葉をかけたことがない。ただ私に会いたくないだけだ。一緒に食事もとらず、話すことも避けていた。父は本当に何もしていなかった。ただ、彼が毎日家を出るときに響くドアを叩く音が、なぜか私の心に痛みを引き起こし、体を震わせた。疼くて息が詰まる。まるで故郷に戻るたびに失禁してしまうかのように。今では父のそのドアを叩く音を聞くだけで、自然に吐き気をもよおすほどだ。そう思っているうちに、胃の中が暴れ始め、私はもう胃の痙攣に耐えられなくなり、トイレに駆け込んだ。五臓六腑が吐き出されるような苦しみの中でようやく落ち着き、震える体を便器のそばにぐったりと倒し、痛むお腹を抱えていた。もしも、父も母も、祖父母もこんなに私を憎んでいるなら。みんなの望む通り、兄のために命をもって贖罪しようか。
夜も更け、お腹の痛みがやわらいでいくのを感じた私は、マフラーで顔と頭を覆い、夜の静寂に紛れて家を出た。道端には金髪に染めた数人の少年たちがいた。私は慣れた手つきで、路上に停まっていたスクーターの鍵をペンチで開け、万能キーでエンジンをかけた。夜風に吹かれ髪が乱れる様子は、まるで兄が湖の中で私を助けてくれたときのあの乱れた髪のようだった。私はクスクスと笑い、開放感に満ちた笑いを浮かべた。それを見て、周りの少年たちも静かに微笑んでいた。とりわけヒロの目がじっと私を見つめる様子は、幼い頃の兄が私を見ていたときの優しい眼差しにそっくりだった。窃盗が終わると、私たちは湖のほとりへ向かった。彼らは私を褒め、じゃれ合いながら、「さすが学年一位の優等生だ。何を教えてもすぐ覚えるし、鍵開けもお手のものだな」と言ってくれた。私は軽く微笑みながらタバコに火をつけ、口から吐き出す煙が夜の空気に溶けていくのを眺めていた。これで私たちの窃盗は100回目だった。私が彼らと戦利品を分け合わず、ただ一緒に行動するだけだった。だから彼らは喜んで私を仲間に入れてくれていた。警察に見つかっても、絶対に私のことは口外せず、優等生の私が捕まることがないようにと先に逃がしてくれるとまで約束してくれていた。彼らも確かにそれをやり遂げた。100回の窃盗の中で、彼らは時々警察署の常連になっていた。しかし私の姿が警察署に現れることは一度もなかった。警察に捕まり、刑期が少し延びることがあっても、誰も私の存在を漏らすことはなかった。思い出に浸っていると、ヒロが薬の瓶を取り出し、綿棒で私の頬にそっと触れた。唇の端に刺すような痛みと冷たさが伝わってくる。私はタバコを捨てて微笑み、顔を彼のほうに寄せた。何度も殴られたあとにヒロが薬を塗ってくれたことがあったが、もうその回数も覚えていない。兄が亡くなって以来、ヒロはいつもそばにいてくれたように感じる。私は彼がいつ現れたのも、どれだけ私のそばにいたかも覚えていない。ビールを開けて祝おうとしたそのとき、警笛の音が響き、皆の背筋が一瞬で緊張した。ヒロが私の手をぎゅっと握りしめた。「悠香、俺が連れて行くから。安心して、警察に捕まらせたりしない」月明かりの中に浮かぶ彼の横顔は、
ヒロは私の提案に同意しなかった。彼は、「君は優等生だから、前科を残すわけにはいかない。もうすぐ大学入試があるし、君には明るい未来が待っているんだ」と言ってくれた。でも、ヒロは知らないのだ。私はもう、生きていくための全ての力を使い果たしてしまっていることを。もうこれ以上、苦しみ続けるのは嫌だ。涙が瞬く間に頬を伝って落ちていく。「ヒロ、先に皆を連れて逃げてくれない?お願いだから」ヒロの体が小さく震えたが、私の言った通り、遠くへと走り去っていった。その背中を見つめながら、私は微笑んで頬の涙を拭った。ヒロは昔からこうして優しくて、私が泣けばいつも私の頼みを聞いてくれた。泣きながら「一緒に物を盗んでほしい」と頼んだときも、顔が青ざめて怯えていたのに、私の願いを叶えるために、彼は泥棒になってくれた。思えば、なんて滑稽なことだろう。みんなに嫌われるこの泥棒の一団のリーダーは、結局のところ私なのだから。そうしてぼんやりと考えているうちに、警察に捕まってしまった。銀色の手錠が手首にかけられた瞬間、私は笑みを浮かべた。やっと終わるんだ。
警察署の窒息するような威圧的な雰囲気の中、警察官は怒りに満ちた顔で、なぜバイクを盗んだのかと私に問いかけた。私は冷静に周りを見渡し、何も言わなかった。警察署に来たのは初めてだったが、それは子供の頃を思い出させた。兄に抱かれながら、「お兄ちゃん、私の夢は将来警察官になることだよ」と、純粋に話していたあの頃。しかし今や、私の口角には嗤笑が浮かんだ。その夢は兄を死なせた罪の重さに押しつぶされ、遠く感じるばかりだった。1時間後、母がやってきた。私を見つけると、ためらいもなく平手打ちをくらわせた。「悠香、あんたは何てやつなんだ。食べさせてやって、着るものも与えてやったのに、盗みなんかして!」と母はヒステリックに叫んだ。その顔は、兄の亡骸が引き上げられた時の取り乱した母の顔と重なった。「悠香、このクズ!息子を殺しやがって!」私は手首の手錠を震わせ、頬のしびれる痛みを感じながらも、何も反応しなかった。ただ、母の怒りに満ちた顔をじっと見つめていた。その時、警察官が「子供を叩いたって意味がない。今すべきことは彼女をカウンセリングに連れて行くことだ」と声をかけた。警察の言葉が終わると、母の怒りの声が再び響いた。「カウンセリングだって?」言っている間に、母が駆け寄って私の髪を引っ張った。「悠香、あんたは一体いつまで私を苦しめるんだ!あんたが私の家を地獄にした。今度は狂人になって恥をかかせやがって…私は一体なぜあんたのようなクズを生んだのだ」私は痺れる頭皮の痛みを感じつつ、何も言わず、動くこともせず、ただ母の狂った顔をじっと見つめていた。本当は母にこう伝えたい気持ちもあった。心配しないで、すぐにでも命を捧げて兄に償うから。しかし、今はこの抑えた怒りと共に母に反抗することで、不思議な快感を感じていた。母がまるで私の髪をすべて引き抜こうとするかのように乱暴に引っ張っているその時。突然、父の声が響き渡った。「悠香、いつまでこんな無茶を続けるんだ。反抗期にも限度があるだろう」兄が亡くなってから父が私に言った、最も厳しい言葉だった。涙が自然にこぼれ落ちた。あの夜、父に傘を届けに行ったとき、隣人の佐藤さんと話しているのを聞いたことが思い出された。「あの時、どうして二人目なんかを産
ヒロ(一)悠香は死んだ。俺の目の前で、彼女は息を引き取った。彼女の身体は鮮やかな紅に染まり、最後に浮かべていた薄い微笑みが静かに消えていった。その笑みを見た俺は、絶望的に泣き叫んだ。自分の無力さが憎かった。彼女の命が尽きるその瞬間に、なぜ俺は彼女を引き止められなかったのか。異変に気づいていたのに、なぜ。悠香と出会ったのは十年前だ。全身に青あざをまとって天橋に座り、足をぶらつかせながら鼻歌を歌っていたあの時が始まりだった。俺は、彼女が川に飛び込むのではと心配になり、慌てて彼女を手すりから抱き下ろした。しかし、彼女はただ笑って肩を叩き、こう言ったんだ。「あなたの名前は?そんなに心配するなよ。私、川には飛び込まないよ。だって、私はうちのだった一人の子供なんだから、死ぬわけにはいかないんだ」彼女の笑顔を見ながら、なぜか涙が込み上げてくるのを感じた。俺はそこで知ったんだ。世の中には、親のいない俺以上に不幸な人がいるんだと。その後、俺は時々悠香に出会うようになった。母親のために食事を運び、麻雀クラブへと足を運ぶ姿を何度も見かけた。負けを喰らった母親が熱々の麺を彼女の顔に叩きつけるのもまた、目の前で見た。その時初めて、親がいることが必ずしも幸せではないのだと知った。ある日、悠香が団地で宿題をしていた時、俺はつい声をかけてしまった。彼女は本当に賢くて、俺が何も言う前にこう言った。「さっき見てたでしょう?大丈夫だよ。母さんはただ、兄が亡くなってから心がとても辛くなっただけなんだ」彼女の淡々とした顔を見て、俺は拳をぎゅっと握りしめた。さっき、彼女の母親が熱々の麺を彼女にこぼしただけじゃなく、彼女自身が腕にボールペンを突き立てたのを見たからだ。しかし、俺はそれをあえて指摘しなかった。人にはそれぞれ心の奥底に傷がある。彼女にも俺にも、きっと。それから俺は、昔の同級生に話を聞いて、悠香のことをもっと知った。彼女は学年トップの成績を誇り、周囲の男子からも注目される存在で、笑顔が愛らしく、未来を期待されていた。そんな彼女に近づくのが恐ろしかった。でも、悠香は何度も俺の前に現れ、ビールを飲もう、タバコを吸おうと誘ってきた。俺は、彼女が腕をまた傷つけるのが嫌で、彼女の頼みを断る
ヒロ(二)悠香が亡くなった後、彼女の母親は精神病院に入院した。周囲の人々はみな彼女に同情していた。続けざまに二人の子供を失ったのだからと。しかし、俺には同情なんて微塵も湧かなかった。悠香が生きていた頃に味わったあの苦しみを、彼女の母親も当然、味わうべきだったからだ。俺はさらに、悠香が残した日記の一冊を、彼女の父親に送りつけた。悠香の心の奥底で、最も愛していたのは父親だったことを俺は知っていた。ある夜、悠香の父親が俺を訪ねてきた。四十代の男が、たった一夜で髪が真っ白になっていた。震える体で、彼は俺に訊ねた。「悠香は、どうやって生きてきたのか」と。俺は、悠香の生活をありのままに伝えた。トイレに隠していたナイフ、川辺に灰となって積もる吸い殻、迷信的な儀式で彼女に掛けられた赤い布、尿で濡れた新幹線の座席。彼は震えながら、まるで子供のように泣き出した。「悠香に対して、本当にひどいことをしてしまった。俺が間違っていた。悠香の兄を失った悲しみを、悠香のせいにするべきではなかった」だが、彼の涙を見ていると、俺の胸にはただ嘲笑と冷笑が浮かぶばかりだった。彼の涙なんて、俺には所詮偽物に過ぎない。俺は彼を決して許さない。悠香もきっと彼を許さないだろう。