彼は微かに驚いた。「会社のこと、お前は……知っているのか?」「ええ、今日知ったばかりだけど」私は軽く肩をすくめようと思ったが、力が全く入らなかった。「だから、あなたがした選択を変える気はないんでしょ?」彼が江川アナを再び注目させることを惜しむわけがない。やはり、彼の表情は少し硬くなった。「彼女の子供の状況は楽観視できないんだ。刺激を与えるわけにはいかない。でも、安心してくれ、状態がよくなったら、もう君に不快な思いをさせないから」「……」本当にその上辺だけの空っぽの話を聞いて、数十年先まで失望してしまうわ。悲しみを抑え、がっかりした表情で彼を見つめた。「じゃあ、私がもし妊娠して彼女よりもさらにひどい状況だったとしたら?」ここに立っている一分一秒、下腹部の痛みと下半身の湿りを感じた。だが、私の夫は彼の想い人が刺激に耐えられないからといって、私には我慢しろと言うのだ。つまり私には元々全く価値のない人間だから、我慢するしかないというのか。江川宏は身体を微かに硬くし、すぐに苦笑いを浮かべて言った「お前も彼女と同じように幼稚になったのか?」「何ですって?」「安全日以外の日にゴムなしでやったことがあるか?お前が妊娠なんてするわけないだろ」突然、どこからともなく冷たい風が吹き込んできて、骨までその寒気が沁みるのを感じた。私の心臓は震え、声もかすれていた。「あなたはただの一度も私達に子供ができるって思わなかったの?」彼は眉をひそめて言った。「お前、子供がほしかったのか……」「もういいわ」私は突然自分の感情を抑えられなくなり、冷たい声でスパッと切り捨てた。「時間があるって言ったわよね、午後さっさと手続きを済ませましょ」江川宏は瞬時に顔を曇らせて言った「時間がなくなった」「今日時間がないなら、明日にしましょう」私は唇を噛みしめ、ゆっくりと口を開いた。「明日の午後、役所の前で待ってるわ」「それなら、昼、どうしても離婚するっていうなら最後の晩餐といこうじゃないか」彼は視線を下にし私を睨みつけた。泣きそうになりながら、私は首を振った。「どうせ別れる身、思い出なんてこれ以上必要ないわ」言い終わると、エレベーターのドアが開いた。私は彼をもう一度見る勇気もなく、後ろを向きエレベーターに乗り込んだ。……
私は一瞬驚いて、無意識に江川宏を見た。彼はいつものように態度を崩さず、優しそうにしていた。私を腕に抱きしめているその様子は、確かに離婚しに来た二人には見えなかった。ロビーの床は乾いていた。私は彼の手をそっと離し、唇を噛んで言った。「違います、私たちは離婚しに来たのです」「あ……」職員は少し残念そうに言った。「二人が一緒になるのは簡単ではないですよね。お二人の関係は良さそうなのに、本当に離婚なさるのですか?離婚はやはり慎重にならないと、衝動的にすると後悔されます。一度亀裂が生じると、再び修復するのは難しいですからね」私は視線を下に向け、力なく言い返した。「順序を逆にされているかもしれませんが、亀裂は離婚の結果ではなく、亀裂が生じたからこそ離婚に至るのです」よほど追い詰められない限り、どの夫婦も離婚したいとは思わないだろう。職員はもう説得しないで言った。「そうですか、ではあちらへどうぞ。こんな天気ですので、人もほとんどいません。どの窓口でも構いませんよ」「ありがとう、お願いします」お礼を言った後、一番近い空いている窓口に座った。「こんにちは、離婚の手続きをお願いします」「手続きの書類はお持ちですか?」「持ってきました」私は身分証明書、結婚証明書、戸籍謄本を一緒に提出し、その後、立っている江川宏を見た。「あなたのは?」彼はぼんやりしていたが、声が聞こえてやっと反応した。完璧な美しい顔には、暗く不明瞭な感情が渦巻いていた。「持ってきたよ」声がなんとなくかすれていた。「こちらにお願いします」職員は手を差し出したが、江川宏は全く動かなかった。ファイルケースを握っている手に青筋が浮かび、動く気配がなかった。私は我慢できずに彼を急かした。「江川宏?」「ああ」彼は軽く応えた。目の奥に微かな悲痛の色が閃いた。しかし、最終的に私に急かされて、ファイルを手放した。職員は眉をひそめて言った。「お二人は本当に離婚を望まれていますか?」「はい」私は迷うことなく答えたが、隣の人は何も言わなかった。職員は江川宏を見つめて言った。「男性の方はどうですか?もしもまだよく考えていないのなら、家に帰って再度話し合ってください」「彼もよく考えました」私は穏やかに言った「この結婚証明書を私が持っている限り、い
彼は微かに驚いて「なぜ知っている?」と言った。結婚生活が終わりに近づいて、何も言い訳する必要はない。私は率直に言った。「あの日、あなたとお爺さんがオフィスで話しているのを、私はドアの前で聞いていたの。その時、あなたは私に対して何の感情も持っていないと認めた事も聞いたわ。実は、この結婚は最初から最後まで間違っていたのでしょうね」「違うよ」彼は迫られたように否定し、眉をひそめて考えを巡らせ「俺が認めたのはその質問に対してじゃないよ。君は誤解している……」と説明した。今の私に言い争いをする必要なんてなかった。彼をじっと見つめながら、淡々と笑って言った。「それなら、私を愛したことはあるの?」「……」江川宏は一瞬驚いた。これは彼にとって酷な質問だったかもしれない。「南……」「説明する必要はないわ、私が可哀想に見えるでしょ」私は何事もない様子で笑って言った。「加藤伸二に私が渡した離婚協議書を持ってこさせて。将来、あなたは他の人と結婚するでしょう、ここに書いてある株の財産分与は適切ではないわ……」彼は突然力強い声を出し、真面目な顔つきではっきりと言い切った。「俺は結婚なんかしない」私のまつげがぴくりと震えた。「それは……あなたの問題でしょ。とにかく、この株は私が持つには妥当じゃないわ」私は自分がそんなに悟った人間じゃないということはよくわかっていた。長年愛した人なのだから、離婚したら、再会するのは不適切だろう。時間に任せるのは、過去の傷跡を消す事であって、古傷をえぐる事ではないはずだ。それに、江川アナがこの株のことを知りでもしたら、私は安心して日々を過ごせないだろう。関係を断つと決めたのなら、その後には何も起こらないようにキッパリと切ってしまわないと。「俺に関わることをそんなに恐れているのか?」江川宏は顔を沈め、腕時計をちらりと見て、薄い唇をギュッと引き締めた。「俺には残り5分しかない。署名したくないなら、次回にしないか」「今すぐ署名します」私は歯をギリッと噛み、素早く自分の名前を空いている箇所に署名した。手こずったとしても、必ず解決法は見つかるものだ。最優先させることはこの手続きを今すぐ終わらせることだ。窓口に戻ると、職員は他の書類をチェックし終え、離婚協議書を再び見返した。確認が終わり
「後悔するのがそんなに心配?」彼ははっきりしない声で「でも、俺は君が赤の他人扱いしてきそうで、それがもっと心配だな」と言った。周りはとても寒かったが、彼の抱擁は昔と変わらない温度でとても暖かく感じた。彼の言葉に私は驚き動揺した。ハッとした時には、彼はもう車のドアを開けてくれていた。私が乗った後、振り返らずに去っていった。雨のカーテン越しに、彼のスラリと高いその背中がびっしょり濡れているのが見えた。胸の中は何万匹もの蟻に食い荒らされてしまったかのように、空っぽになっていった。結婚というのはこんなにあっさりと終了してしまうものなのか。30分ほどの時間を空けておくだけでいい。役所に行って書類を提出し、署名するだけだ。1ヶ月後、再び時間を作って役所に行く。二人の考えが変わらなければ、婚姻証明書と形は同じの離婚証明書をもらえるのだ。今までの全てがこうしてバッサリと断ち切られてしまうのだった。かつて同じベッドで寝て、共に生きてきたことがまるで夢のようだ。もちろん、そうなる条件は江川宏が約束を破らなければ、という話なのだが。河崎来依の家に戻った時、私がドアを開けるよりも早く彼女がドアを開けた。「帰ってきたの?」「うん」私は軽く笑って、何事もなかったかのような態度をとった。彼女は私が家に入り、スリッパに履き替えるのを静かに見つめ、恐る恐る口を開いて言った。「江川宏からメッセージが来たの。あなたたちは……本当に離婚するんだよね?」「そうだね、もう申請したし、1ヶ月後に離婚の証明書を受け取る予定だよ」私はコートを脱ぎ、髪を頭の後ろに適当にまとめて、一つに結んだ。「彼からメッセージって、何を言ってきたの?」彼女はためらいながら口を開いた。「私にこの一ヶ月間あなたのことを任せたよって」「まさか私が飛び降りるとでも心配しているの?」私は自虐的に言った。「彼にあまり考えすぎるなって伝えて。私一人いなくなったところで、地球は変わらずに回り続けるわよ」「違うよ」河崎来依は否定し、眉間に皺を寄せて考えながら言った。「私はこの言葉に何か別の意味があるような気がする。彼は本気で離婚するつもりかしら? ただ今だけ一時的に対応してるだけなんじゃ。離婚の冷却期間中に一方が申請を取り下げれば離婚できなくなるから」「
土屋じいさんは焦った口調で「若奥様!早く戻ってきてください。お爺様が大変お怒りで、若様に殴りかかろうとしています。若奥様にしか止められません!」「何?」半分聞いたところで、私はすぐに立ち上がり、コートを手にかけて外に向かった。江川宏のことを心配しているわけではなかった。お爺さんには江川宏だけでなく、他にも孫がいるが、結局一番可愛がっているのは彼なのだ。手を出すとしても本気ではないし、命までとったりはもちろんしない。ただ、お爺さんの体を思うと、やはりあまり怒らせないほうが良かった。何か起きてからでは遅いのだ。やむを得ない限り、土屋じいさんもこんなに焦ったりはしない。土屋じいさんは言った。「戻ってきてみればわかります!」心の中でどう思っていても、江川家の邸宅に到着した時、私はたじろいでしまった。書斎に着くと、かつて風光明媚な姿だった江川宏が、今は地面に跪き叩かれていた。立てずにうずくまり、痛みで額に青筋が浮き出ていた。黒檀のテーブルの縁に手をかけて、なんとか倒れないでいた。さらに驚いたことに、そこにはアナの姿もあった。私は口を開こうと思っていたが、いつも私に親切に接してくれるお爺さんが土屋じいさんに厳しい目を向けた。「南に電話をかけたのはお前か?」「……はい」土屋じいさんはこう答えるしかなかった。「いつも自分で勝手にやりやがって!」お爺さんは怒り狂って叫んだ。「お前ら全員出て行け!」「お爺さん……」私はやはりお爺さんの体が心配で、諌めようと思った。お爺さんは手を左右に振って言った。「心配するな、私はこんなんじゃまだ死なん。外で待ってなさい」そう言われて。私は土屋じいさんと共にそこを離れるしかなかった。 後ろから、お爺さんの冷たい笑い声が聞こえてきた。「お前は本当にお前の母親と同じように察しが悪いやつだな、さっさと出て行け!」江川アナは優しい声で言った。「お爺さん、宏にこんなに当たって何の意味があるの?清水南が自分から離婚を言い出したのよ。それに、彼女には家をあげたんだから、十分すぎるくらいよ。宏はあなたの孫でしょ、南はただの他人よ」「黙ってろ!」お爺さんは怒り狂い、江川宏をにらみつけながら怒鳴りつけた。「これがお前の好きな女か?節操もなく、こせこせしているのは言うまでもなく、人の話すら
できるだけ江川宏との結婚生活を続けるなんてもう考えなかった。お爺さんのこの力強い言葉を聞いて、心が温かくなった。江川宏は唇を噛んで「私は南を裏切りましたが、彼女以外の女性と再婚するつもりはなかったんです」「考えたことがないだと?考えたこともないのに、南がどうしてお前と離婚することになったんだ?お前が彼女にあきらめさせたんじゃないのか?」とお爺さんは彼の言葉を一つも信じなかった。江川宏は黒檀の椅子を支えにしてゆっくりと立ち上がった。「本当に考えたことはありません。ただ、アナのことも放っておけないし、しかも今妊娠しているし」「お前は本当に博愛主義者だな!」お爺さんは湯飲みを彼に投げつけた。彼はそれを避けることはせず、正面から受け止めた。額にはすぐに血が滲み出た。しかし、表情は変わらず、真剣に言った。「私は温子叔母さんに約束しました。彼女をきちんと守ると」「では南はどうなる?会社での噂は広まってしまっているぞ。江川アナをお前のそばに呼び寄せて、みんなに南が他人の結婚の邪魔者をしていると思うようにさせた。どうやって彼女への責任を取るつもりだ?」「彼女は……アナよりも精神的に強く自立しています。簡単に周りから影響されることはなく、あんな謂れもない噂なんか気にしませんよ」思いもよらず、江川宏に褒められるとは。しかもこんな状況で。褒められて、胸が悲しみと苦しみで満たされた。私は生まれつき強く自立していたわけではない。かつては温室の花のように育ったこともある。のちに他の方法はなく、精いっぱい強く逞しい雑草になったのだ。今では、それが彼からの扱いで私がつらい思いをする原因になっていたとは。「南は幼い頃から親もなく、叔母の家に厄介になってきた。お前は彼女が叔母からどれだけ軽蔑の眼差しで見られてきたか分かるか?強くなり自立しなければ、誰かを当てになんかできなかったんだぞ?」お爺さんはため息をつき、孫が期待通りにならないのを悔やみながら問い詰めた「お前を頼るのか、しょっちゅう自分を傷つける夫をか?」江川宏の瞳が一瞬暗くなった。「彼女は、私にこのような話をしたことはないですから」「それはお前が彼女の話を聞けるような立場じゃないからだろう。自分の良心に問いかけてみろ、一日でも良い夫でいたことがあるのか」お爺さんは厳しく叱っ
私達は普段めったにこの部屋を使うことはなかった。しかし、使用人がきれいに掃除してくれていて、ほこり一つなかった。シーツカバー等も三日に一回交換しているようだった。ベッドの枕側にはウェディングフォトが飾られていた。レトロ調の写真で、腕の良いレタッチャーの技によって一切加工されたようには見えなかった。江川宏がベッドに座ると、私は再び手を引っ込めようしたが、彼は握りしめて眉をひそめた。「離婚はまだ完全に成立していないのに、薬さえ塗ってもらえないのか?」「……薬箱を取ってくるわ。じゃなきゃ何を塗れっていうのよ?」私は仕方なく妥協するしかなかった。そしてようやく彼は私の手を離した。「よろしくな」引き出しから救急箱を見つけ、消毒液と軟膏を取り出して彼の前に立った。額の傷は目を引くほど痛ましかった。私は少し頭を下げ、片手で彼の後頭部を支え、もう一方の手で血を拭き取った。お爺さんは手加減しなかったようで、血を拭き取ってもすぐ新しい血が滲んできた。私は見ているだけで痛くなった。「痛い?」「痛い、とても痛い」彼は私を見上げた。彼の瞳は黒曜石のように輝いていてまぶしかった。私は気が緩んで、傷口に息を吹きかけながら消毒してあげた。彼は満足そうに「これで痛くなくなるよ。ありがとう、こんな妻がいるっていいな」と言った。「私たちはもう離婚するでしょ……」「君といるのに慣れちゃったんだよ」彼は物寂しそうな表情で下を向き、長いまつ毛が垂れ下がった。その様子がどうも人畜無害な感じだった。私の心も少しズキッとした。「大丈夫、これからゆっくり変えていけばいいわ」いつかは必ず変わるから。私も慣れてしまったことがあった。毎晩寝ているときは寝返りを打つと彼の腰を抱きしめ、彼の腕の中で眠っていたのだ。しかし、ここ最近は寝返りを打っても抱きしめる相手はなく、夜中に目が覚めて長い間ぼんやりとしてからまた眠りに入っていた。多くの人々がこう言う。二人が別れることは難しいことではない。最も難しいのはお互いがいない生活に慣れることなのだと。空っぽになった家の中で声をかけても、それに応えてくれる人はもういないのだ。しかし幸いなことに、時間という痛み止めの薬が存在する。いつかはまたそれに慣れてしまうのだ。江川宏は黙っていたが、突然唇を動か
私は胸が苦しくなり切なさも感じた。全身が一瞬で言葉にできないほどつらくなった。これは私たちの結婚指輪だ。結婚の時、彼は気にも留めていなかったが、お爺さんはこの義理の孫娘には最高のものをくれたのだった。二千万の結納金、高額な新居、トップジュエリーデザイナーがデザインした特注の結婚指輪。のちに、結納金は育ててくれた叔母さんにあげた。新居も私が身を落ち着ける所ではなかった。私と一緒にいてくれたのは、たった一つのこの指輪だけだった。新婚当初、私は心から嬉しくてこの指輪を薬指にはめていた。江川宏は私が江川グループで働いていると知った後、すぐに私に控えめにするよう求めた。そして、その日のうちに薬指から外し、ネックレスにつけて首から下げていたのだ。それから三年間ずっと首にさげていた。かつて私を喜ばせてくれたものが、この時突然皮肉な存在になってしまった。私はこの指輪と同じく、江川宏にとっては公には出せない存在なのだ。私は自嘲する笑みを浮かべた。「ただ外すのを忘れてただけよ」確かに忘れていたのだ。もっと的確に言うなら、慣れてしまったのだ。一人でいる時や不安な時に、この指輪を触る習慣があった。————江川宏は私の夫だ。かつてはただ彼の事が好きだというだけで、たくさんの力がもらえるような気がしていた。彼は信じなかった。「ただ忘れてただけ?」「いる?今すぐ元の持ち主に返すわ」私は手を首の後ろに回し、ネックレスを外そうとした。少しずつ、彼にまつわる物を私から消していく。消すのが早ければ、その分忘れるのも早くなるはずだ。江川宏は冷ややかな顔つきになり、私の手首を掴んで動きを止め、強い口調で言った。「外すな、それは君のものだ」「これは結婚指輪ですよ。江川宏さん」私は口角を引っ張り、真剣に彼に念を押した。それと同時に自分にも念を押した。「今日外さなくても、一ヶ月後にはどのみち外すでしょう」江川宏は薬指にある指輪を親指で撫で、あまり見せない固執した瞳で言った。「じゃあ、もし俺がずっと外さなかったらどうする?」私は大きく息を吸って言った。「それはあなたの問題です」ともかく、彼のそのわずかな言葉で、私たちの結婚に希望があるなどと思いたくなかった。話が終わると、彼を振りほどき、身を翻して外に