「戻ってもいい。会社の記念日、夜に出席する」 啓司は苛立って言った。 「わかった」 葵が朝食を残して、紗枝を一瞥してから出た。啓司が振り返ると、紗枝が後ろに立っていた。なんだか心細くなってきた。「いつ目覚めた?」紗枝の顔色は落ち着いた。「ちょうど葵が結婚してやると言った時だった。おめでとう」啓司の心が突然刺された。空気が数秒止まった。 啓司は黒い目で彼女を見つめた。「何か意見があれば、今言って」 彼女の一言で葵との結婚を取りやめにすると思った。紗枝が首を横に振った。そして前と同じことを言った。「おめでとう。いつでも離婚の手続きを付き合うよ。「でも、前提条件として、逸之を返すこと」啓司の心は沈んだ。 紗枝が今、彼のことをまったく気にしなくなった。誰かと一緒にいること、そしてほかの女と結婚すること、全て気にしなくなった。啓司は非常にイライラしたが、どうしてイライラになったか分からなかった。彼は激しく咳き込み、葵が持ってきた朝食を直接ゴミ箱に捨てた。 「食べたいものを自分で注文して」 話してから、彼は紗枝の傍を通り過ぎて、書斎に向かった。彼が本当に世間知らずだと紗枝が思った。葵が持ってきた朝食を食べると思ったのか。彼女は台所に行って、自分で朝食を作った。食べてから、啓司にショートメールを送って出かけた。 啓司は書斎で紗枝の願いを待っていたが、結局ショートメールだった。「会社に行く」とてもシンプルな言葉だった。 それを読んで、彼の顔色は暗くなった。書斎を出て階段を降りて見ると、紗枝はとっくに出かけた。台所に何も残されなかった。彼女は自分の朝食を用意してくれなかった…啓司の腹痛と頭痛がさらにひどくなった。 運転手に朝食を買ってもらった。…紗枝が会社について、携帯を開いて見た。外国の番号に昨夜知らない電話が入ったことを分かった。電話番後の所在地は桃洲市、彼女は折り返し電話しなかった。ただ電話番後の持ち主を調べてもらった。葵だとすぐわかった…昨日、葵の盗作の件、大炎上となり、彼女が自分で連絡してくるのは常識だった。紗枝は彼女からの電話を待っていた。案の定、しばらくして、再び電話がかかってきた。紗枝は外国のIPアドレスを使って、変声シス
アシスタントが慎重に携帯を拾い上げた。「葵、どうなったの?」「時先生に謝罪し、それに盗作を公に認めるって」アシスタントは眉をひそめた。「それはいけない。盗作を認めたら、今までの努力は全て水の泡になっちゃうじゃないか?」葵は暫くこの時先生を無視することにした。時間を無駄にして、お金の為じゃなく、国際裁判を起こすなんて、ありえないと思った。今、彼女にとって最も重要なことは、紗枝の事、そして啓司と結婚することだった。曲はそんなに重要ではなかった。「今夜、会社の設立記念パーティー、私は良く用意しておく。ネットの盗作問題は当分の間お金を使ってどうにか抑えて」葵は、自分の少なめのお金は長持ちしないことを十分承知していた。でも、順調に結婚すれば全てが解決できると思った。会社。暫くして、紗枝が唯からの電話をもらった。「紗枝、今日来るの?」今日は週末で、紗枝と景之を誘ってピクニックに行こうと思った。紗枝は断った。「啓司にしっかりと見張られるの。今、逸之が見つけられたし、景之の身元がばれたらおしまいだ」「数日後にまた会おう」唯が聞いて、納得した。「わかった。頑張って、早く彼の精子を手に入れて、私たちはエストニアに戻ろう」「ええ」紗枝は無意識にお腹に手を当てた。なぜかしならないが、今回戻ってから、啓司が前より警戒するようになってきた。子供を作るには少し難しくなった気がした…丁度その時、ドアがノックされ、ガラスドア越しに、牧野が立っていた。彼女はすぐ電話を切った。「牧野、何か御用?」牧野が入ってきた。「紗枝さん、社長がお呼びです」啓司が今日ここに来ないと紗枝は思ったが。不本意たが、逸之が彼に掴まれたので、紗枝はいかなければならなかった。「わかった」牧野が彼女を待って、一緒に社長室に向かった。途中、牧野が我慢できず話しかけた。「紗枝さん、言っておくが、黒木社長はここ数年ずっと君を探しました。僕から見れば、君のことを気にしています」紗枝が一時立ち止まった。牧野も立ち止まった。紗枝が微笑んで言った。「私の事、気にしてると思う?」牧野は一瞬唖然として、眼鏡の下の真面目な顔は混乱した。紗枝は続けて言った。「牧野、この前、どうやって私を対応したか覚えてる?啓司に電話した時、ほ
紗枝を啓司のオフィスまで送ってから、牧野が離れた。ドアは閉まってないので、紗枝が軽く押しのけて入った。啓司は椅子に座って、書類をじっと見ていた。 イケメンの男が真面目に働いている姿はとても格好よかった。紗枝は、最初に彼の顔に騙されただろうかと思った。 彼女が来るのを知って、彼は頭を上げずに言った。「ここに来て」 紗枝は近寄った。「何か御用?」 「今後、下に行かなくていい」 啓司は書類を置いて彼女を見た。「君もここで仕事する」 紗枝は「なぜ?」と疑問に思った。「理由はない。会社の決定だ」 会社の決定より、彼の決定と言えばいい。低い廊下にいた時、頭を上げないのが常識だった。「わかった」 それでいい、近づく機会が増えた。 紗枝が計算したが、昨夜、妊娠の可能性が低すぎた。 「パソコンを持って来る」紗枝が言った。彼女が出る前に、所持品、パソコンも含め、全ての物が運ばれてきた。デスクも運んできた。啓司が立ち上がって彼女のそばに歩き、彼女の事務用品を見た。 「気になるんだけど、最近会社で何をしていたの?」昔、紗枝はただの主婦だった。 彼の生活の世話をする以外、外に出て仕事をすることはなかった。紗枝は彼を振り返って見た。「知りたいか?見せてやるよ」彼女は、啓司がまだ自分を警戒していると分かった。 そうでなければ、昨日、わざと我慢する必要はなかった。 啓司は本当に興味を湧いてきた。「いいよ」 彼の熱い視線の下で紗枝が椅子に座って、パソコンの電源を入れた。 自分が退屈した時の仕事を見せた。一瞥して啓司が驚いた。紗枝のパソコンにプロジェクトの提案書が少なくなかった。彼女はいつの間にかこんなものを書けるようになったのか?紗枝は顔を上げて、啓司のはっきりとした横顔をみて、深呼吸をしてゆっくりと話しかけた。「昨夜、あなたは楽しくなかっただろう?」啓司の体が硬直し、頭を下げて彼女の視線に合わせると、不意に喉仏が動いた。紗枝が背筋を伸ばして座った。彼の薄い唇に近づいた。「実は、私もとてもつらかった」 啓司の目が不思議に満ちていた。 こんな言葉は彼女の口から出るものじゃなかった。二人が結婚してから、彼女の手が自分を軽く触れると顔がすぐ赤くなった。いまは、
結構時間が経ってから、紗枝は何かおかしいと感じた。 啓司はただ彼女にキスをし続け、前に進まなかった。紗枝が呼吸しづらくなって、酸素不足で頭が真っ白になったとき、ドアがノックされた。啓司は立ち止まった。 秘書が仕事の報告だった。 紗枝は急いで座った。 再び失敗で終わった。 昼、二人は一緒食事に向かった。 運転手さんが運転して、啓司がいつも行くトレストランまで送ってくれた。 食事中、啓司が試して言った。「心配しないで、離婚しないから」 紗枝は唖然とした。 紗枝がよく理解できなかった。彼がゆっくり説明してくれた。「葵が欲しいのはタイトルだった。それを彼女にしてやる」 「法的な結婚については、心配しないで、君と離婚しない」 紗枝は信じられなくて彼を見た。「ふざけるな」 「満足しなかったら、別の方法を考える」 紗枝は彼が自分を試していたのを気づかなかった。「私たちは離婚して、貴方が葵と結婚して」 啓司の顔色は暗くなった。 彼の推測は間違っていなかった。紗枝は彼とセックスするが、一緒にしたくはなかった。「どうしたの?僕と結婚しても満足しないのか、今、僕にほかの女と結婚させるつもりか?」啓司は箸をテーブルに置いて、表情が冷たくなった。 葵と結婚したいのは、私じゃなくて、彼自身じゃなかったか?帰る途中、車内は静かだった。 啓司が突然話しかけた。「覚えてくれ、僕たちは法律上の夫婦だ。池田辰夫と合わないでくれ」 紗枝は唖然とした。「どうして?あなたは葵と一緒にいていい、私は友達と会ってはいけないのか?」 「寝取られて困るから!」 「これはどういう意味なの?」 「どんな意味、君は知っているだろう」啓司の声は氷のように冷たかった。「友達だったら、子供の件どう説明するの?」紗枝が喉を詰まらせた。彼女は辰夫と何の関係もないと認めてはいけなかった。そうでないと、逸之の事、説明しにくくなると思った。「子供の件、あれは事故だ。私一人で育てる。辰夫と何の関係もない」 自分の妻が他人の子供を持つことを気にしない男はいないだろう。しかも、その男は啓司だった。 紗枝は子供が事故だと言って、啓司の頭の中に神経が張り切った。「事故だと?事故は一回だったのか、それとも二回だったの
啓司の心臓はドキドキと高鳴り、彼女の手や脚の擦り傷を見ると、再び彼女を車に引き戻し、運転手に病院へ行くよう指示した。紗枝は車の中で後悔と恐怖を感じた。さっきの行動は確かに衝動的すぎた。彼女には景之と逸之がいるのだから、自分が無事でなければならなかった。啓司は険しい顔つきで問い詰めた。「何に怒っているんだ?」紗枝の手と脚には鈍い痛みがあり、彼女は何も答えなかった。車内は再び静寂に包まれた。啓司は、紗枝が黙っているときが一番嫌いだった。かつて彼女はよく喋っていた。特に子供の頃は、彼の耳元で絶えずしゃべり続けていた。だが今では、何かというとすぐ黙り込んでしまう。彼は苛立ちを抑えられなかった。「さっき、どこへ行こうとしていた?」「ただ車を降りて歩きたかっただけで、どこに行くつもりはない」子供たちは彼の元にあるんだから、どこへ行こうと言うの?運転手は車を市立病院の前に停め、啓司は彼女を連れて車を降りた。外科診察室。啓司が先にドアを開けて中に入った。「黒木さん、どうしてここに?」馴染みのある声が響いた。和彦は白衣をまとい、診察室の中に座っていた。いつものような軽薄さはなく、真剣な表情をしていた。啓司は彼に答えなかった。「なんでお前がここにいるんだ?」和彦の視線は思わず彼の背後にいる紗枝に向けられたが、すぐに引き戻された。「爺さんが生活を経験しろと言ったんで、ここに来ました」彼は元々医学に興味がなかったが、爺さんに無理やり医学を勉強させられ、その上、法律や国際ビジネスなども学ばされた。今、爺さんは彼に実践経験を積ませ、将来の家業の管理に役立てようとしていた。爺さんが和彦がもしここに来なかったら、彼に清水家との結婚を提案すると言うので、彼は来ないわけにいかなかった。あの唯とそのやんちゃな子供を思い浮かべると、和彦は頭痛がしてきた。啓司はそれ以上質問せず、紗枝に向かって「彼女の傷を治療してやれ」と言った。和彦はそれを聞き、紗枝の腕と脚にある擦り傷を見つけた。「こっちに来て座れ」彼は公務としての態度をとった。紗枝は、啓司がいる限り、和彦が自分に対して何もしないだろうと知っていた。それで、彼女は椅子に座り、彼に自分の傷を見せた。和彦は丁寧に傷を確認し、使い捨
和彦は、彼女が塗りにくい箇所があるだろうと思い、手を伸ばして手伝おうとした。紗枝は彼の手が伸びてくるのを見て、反射的に自分を叩こうとしているのだと勘違いし、本能的に避けた。その結果、軟膏が直接和彦の手の甲に落ちてしまった。「ごめんなさい」紗枝は立ち上がり、「今すぐ出ます」と言った。和彦は彼女が誤解していることに気づき、思わず説明した。「さっきはただ薬を塗ってあげようと思っただけだ」「ありがとう、でも結構です」紗枝は去ろうとした。和彦は彼女に再び誤解されたくなかったため、彼女を引き止めた。「黒木さんが、お前をここで待つようにと言ったんだ」紗枝は彼を冷たい目で見つめた。「外で待っていればいいです」そんな紗枝の姿を見て、和彦は胸に何とも言えない痛みを感じた。「俺を怖がらないで。もうお前を傷つけないから」怖がらないで?もう傷つけない?紗枝はまるで笑い話を聞いたかのようだった。以前も和彦は、彼女に警戒を解かせるために、同じようなことを言っていた。「すみません、通してください」傷つけるかどうかに関わらず、こういう人間とは関わりたくなかった。和彦は依然としてドアの前に立ちはだかり、動こうとしなかった。「薬をちゃんと塗ってから外に出るんだ」紗枝は彼がまた何か悪巧みをしているのかと疑い、彼の気まぐれな性格が再び爆発するのを恐れ、無駄なことは避けたいと考え、薬を塗ることにした。「今後はあんな無茶なことをするなよ。車から飛び降りるなんてどれだけ危険かわかっているのか。幸い、今回は軽い傷で済んだけど」和彦は心配そうに言った。紗枝は何も答えなかった。和彦の気まぐれな性格は、彼女にはすでに見抜かれていた。彼女は素早く薬を塗り終え。「澤村さん、薬を塗りました。もう行ってもいいですか?」と尋ねた。澄んだが冷たい目で彼を見つめる彼女を前にして、和彦の心は鋭く刺されるような痛みを感じた。「ここにいてくれ。何もしないと約束するから、いい?」彼はできるだけ優しく声をかけた。紗枝の目には一瞬、陰りが差した。どうせ彼が言うこと守れないのだと彼女は分かっていた。だが、どうしようもなかった。この場では彼の言うことに従うしかなかった。しかも、彼は啓司の親しい友人でもあり、彼女には逃げ場がなかっ
車に乗った後、啓司は一度病院を振り返った。「さっき僕がいなくなった後、和彦と何を話していたんだ?」「彼が大学時代に人を助けたことがあるかどうかを聞いてきた」紗枝は隠さずに答えた。人を助けた?啓司は葵が大学に通っていた頃、和彦と彼の母親が事故に遭ったときに彼女が二人を助けたことを思い出した。「それで?」「それで、あなたが来たの」紗枝はその話をこれ以上したくなかった。時刻は遅くなっていた。啓司は今夜、周年記念パーティーに出席する予定があった。紗枝は彼と一緒に会社に戻る必要はないと感じ、窓の外で舞い散る木の葉を見つめながら言った。「帰りたいの」「今夜、君も一緒にパーティーに参加してもらう」紗枝は驚いた表情を浮かべた。啓司は特に説明もせず、運転手に会場へ向かうよう指示した。周年記念パーティーが始まる前に、啓司は紗枝を静かな個室に案内した。彼女は蒼穹色のドレスに着替え、その姿はまるで俗世に染まらない女神のように、清純で美しかった。啓司は個室のドアのところで彼女を見つめ、その深い瞳には一瞬、驚きと感動が走った。彼の喉がわずかに動いた。「ここで待っていろ。夜になったら一緒に帰るから」紗枝は顔を上げ、彼を見つめながら軽く頷いた。「わかったわ」彼女の従順な姿に、啓司の心は静かに波打った。彼はそれ以上何も言わず、足早にその場を去った。会社の周年記念パーティー。葵と綾子も早々に到着していた。「紗枝が牡丹に戻ってきたって本当?」綾子が尋ねた。「ええ。どういうわけかわかりませんけど、たぶんまた啓司さんにまとわりついてるんじゃないでしょうか。二人はまだ離婚していませんし、彼女は厄介な人ですから」葵は綾子に、実は啓司が紗枝に牡丹に戻るよう指示したことを伝えていなかった。綾子は手に持ったワインを軽く飲みながら、前回の寿宴で二人が曖昧な関係であるところに遭遇したことを思い出していた。もしかして、息子はまだ紗枝に未練があるのか?綾子は葵に対してわずかに憂いを帯びた目を向けた。「彼女はいったいいつになったら息子を放してくれるのかしら」そう言うと、彼女は再び葵を見て言った。「啓司が君を妻にすることを約束した以上、君は早く妊娠する方法を考えるべきよ。今日は、私が手伝って
パーティーの最中。啓司は母親が次々と差し出してくる酒を見つめながら、視線を葵の方向へと落とした。彼はすべてを理解していた。「今夜はまだ仕事があるから、これ以上は飲めない」啓司は再び差し出された酒を婉曲に断った。綾子は彼が少し酔い始めているのを見て、葵に目配せをした。葵はすぐに啓司の側に駆け寄り、彼を支えた。「黒木さん、酒を飲んだんだから、私が送りますね」今日はどうしても彼と何かを起こさなければならなかった。啓司はまだ意識がはっきりしており、腕を引き抜こうとしたが、その視線は遠くにある蒼穹色のドレスをまとった、妖艶で美しい女性に固定された。彼は葵を押しのけず、ただ紗枝を深く見つめた。紗枝がここに現れた途端、多くの人々の注目を集めた。彼女の美貌はあまりに際立っており、ほとんどの人々が彼女がかつての夏目家の聴覚障害を持つ長女だと気づかなかった。綾子もふと彼女を見て、動揺を隠せなかった。かつての紗枝はあまり自分を飾らなかったため、美しいながらも目立たなかった。しかし今の彼女は、まるで別人のようだった。紗枝は人々の異様な視線を浴びながら、まっすぐに啓司と葵の前にやってきた。「柳沢さん、啓司を迎えに来ました」その一言で、場にいた全員の視線が集まった。「彼女、夏目さんじゃないか?黒木様の妻だ」「夏目さんだって? どうしてこんなに変わったんだ? こんなに綺麗になって」「彼女は元々綺麗だったよ、ただ今まで公の場にあまり出なかっただけ」「柳沢さんよりも綺麗に見えるね。でも彼女が来たってことは、柳沢さんの方が第三者ってことか…」葵も人々の囁きを聞き、恥ずかしさで顔が真っ赤になった。その時、啓司は彼女の手を引き離し、深い瞳を紗枝に向けた。「どうして降りてきたんだ?」紗枝は彼の様子を見て、まだ薬の効果が現れていないようだった。「あなたが酒を飲んでいたから、酔っ払うのが心配で降りてきたの」二人の会話は葵をさらに苦しめた。紗枝の言うことは、彼女がとっくにここに来ていたというの?啓司は無意識に口元に微笑みを浮かべた。「外で待っていてくれ」「わかった」紗枝は身を翻して出て行った。ちょうどドアに差し掛かったところで、一人のスーツを着た、冷たい表情を持つ男性が近づいてき
啓司のオフィスは広くはなかったが、壁には数多くの新聞記事が掲げられていた。迷子捜索の広告や、聴覚障害児童への支援を訴える記事などが並んでいた。紗枝はオフィスに入ると、あたりを見回した。盲目者向けの特別なパソコンやスマホも置かれていた。彼女の心にあった疑念は一時的に和らいだ。「しっかり仕事してね。私は邪魔しないから」「分かった。送っていくよ」啓司は、紗枝が自分を信じてくれたことに安堵し、答えた。「いいわ。あなたは仕事を優先して」紗枝は一人でオフィスを出た。帰り道、彼女は唯に電話をかけた。「唯、さっき啓司の会社に行ってきたけど、本当に慈善事業をやってるみたい」以前、彼女は唯とこの件について話していた。「彼、そんなところまで落ちぶれたの?」唯は仕事をしながら尋ねた。「でも、私は今の仕事も悪くないと思う。人助けをして、平穏な日々を過ごしてる」紗枝はずっと穏やかな生活を望んでいた。「紗枝、もしかして彼に心を許して、やり直そうとしてるんじゃない?でも、彼は今は盲目だけど、もし記憶が戻って目が見えるようになったら、元の彼に戻るかもしれない。それでも大丈夫?」紗枝はすぐに答えられなかった。人間というのは最も変わりやすい存在で、誰もずっと変わらないとは限らない。「でも、今は彼と離婚するわけにもいかないし、しばらくはこのままでいいと思う」「それでもいいけど、自分の財産はしっかり守りなさいよ。騙されないようにね」唯が念を押した。その言葉を聞いて、紗枝は思い出した。今、家の料理人や介護士の給料は啓司が出している。彼は多額の借金を抱えているはずなのに、どうしてその余裕があるのだろうか?家に戻った紗枝は、料理人と介護士に給料について尋ねた。すると、二人は口を揃えて答えた。料理人は月二十万円、看護師は月三十万円。「今後は私が直接振り込むから、口座番号を教えて」紗枝が去った後、彼らはすぐにこっそりと牧野に電話をかけた。幸い、啓司は給料の件について事前に計画を立てており、彼らには最低額を伝えるよう指示していたのだった。「よくやった。これからは料理の材料や日用品もできるだけ安いものを買うように」牧野はそう指示しながら、内心では複雑な気持ちを抱えていた。社長、本当にわざと苦労してるよな。お金持って
しばらくの沈黙の後、啓司が口を開いた。「そこは少し古びているから、君は妊娠中だし、行くのは不便だと思う」「大丈夫、私は遠くから見るだけでいいから」紗枝は答えた。啓司はこれ以上断れず、仕方なく頷いた。「分かった」そう言うと、彼は自室へ行き、服を着替え始めた。部屋に入るなり、彼はすぐに牧野に電話をかけた。「今晩、チャリティー会社を準備して、社長と社員をちゃんと手配しておくこと」牧野はちょうど婚約者のために料理をしている最中で、電話を取るとその顔は一瞬で曇った。「社長、いっそ奥様に本当のことを話したらどうですか?女性って、みんなお金が好きなんですから」「お前は指示を実行すればいい」啓司はそれ以上余計なことを言わず、電話を切った。もし紗枝が彼にまだ多くの財産があることを知ったら、次の瞬間には離婚を要求するに違いない。彼は紗枝の性格をよく知っていた。彼女の一番の弱点は「心の優しさ」だということも。牧野は仕方なく、婚約者との時間を諦めて、準備に取り掛かった。心が優しいのは紗枝だけではなかった。出雲おばさんもまた、啓司の境遇を知って以来、彼に同情の気持ちを持っていた。彼女は特に、啓司が家の介護士や料理人を手配してくれ、何が食べたいかを頼めばすぐに用意してくれることに感心していた。さらに、近所の人々も彼のことを褒め始めていた。彼が道路の修理を手伝い、水道がない家には電話一つで解決してくれたという。「出雲さん、本当にいい婿を迎えましたね。見た目も素晴らしいし、何より頼れる人ですよ」「そうですよ。目が見えないのを除けば、あんなに立派な男性は滅多にいないです。いつも清潔にして、きちんとした身なりで、とても素敵です」出雲おばさんは最近、体調も良くなったように感じ、こうした近所の声を聞くたびに、啓司への評価を高めていった。「彼が変わらず、紗枝に優しくしてくれるなら、それで十分です」紗枝も家で曲を書きながら、時々出雲おばさんが近所の人々と啓司の話をしているのを耳にした。それでも、彼女は完全に安心することはなかった。翌朝、景之が学校に行った後、紗枝は啓司と一緒に彼の職場へ向かった。車内で、紗枝は何気なく尋ねた。「こうして車で送り迎えされるのって、月にいくらかかるの?」啓司は少し考えて答えた。「
美希はほっと安堵した。やはり自分の娘だ。何が一番大切かをよく分かっている。紗枝とは違って。横で太郎は冷たく鼻で笑った。昭子が部屋を出た後、すぐに美希に向かって言った。「母さん、もし昭子が黒木拓司と結婚したら、俺は黒木家の義弟のままだ。だから俺、会社を作りたいんだけど、その資金を――」彼が話を終える前に、美希が彼の言葉を遮った。「いい加減にしなさい。あなたは鈴木家の次男としてちゃんとやりなさい。一日中、金を無駄遣いすることばかり考えないの!」その言葉を聞いて、太郎の顔は一瞬で怒りに染まった。「母さん、本当に俺を怒らせたいの?俺が真実を紗枝に話したらどうなると思う?そしたら俺たちみんな終わりだ!」「そんなこと、あんたにできるわけない!」美希は怒りに任せて水の入ったコップをテーブルに叩きつけた。太郎は気まずそうに視線をそらし、立ち上がって部屋を出た。しかし、家を出た後も行くところがなく、彼は聖華高級クラブに行って酒を飲むことにした。「この店で一番綺麗な子を呼んでくれ!」太郎が到着すると、すぐに周囲の注目を集めた。その姿は常連客である澤村和彦の目にも留まった。和彦はすぐに部下に太郎の動向を監視させ、自分はスマホを取り出して電話をかけた。「黒木さん」彼は最近啓司と連絡を取り始めたばかりだった。啓司が本当に記憶喪失しているとは思っていなかった。最初に彼に連絡した時、啓司は全く相手にしなかった。最近ようやく少し話すようになり、少し思い出したと言っていた。「何の用だ?」啓司は仕事中に電話を受け取り、尋ねた。「さっき太郎が聖華に来たよ。めっちゃ金を持っている、来るなり、会場を全部貸し切ったんだ」和彦はこの無能な男のことをまだ覚えていた。かつて桃洲の一番の富豪だった夏目家を台無しにした太郎が、どうして金持ちぶれるのかと疑問に思った。「放っておけ」啓司は淡々とキーボードを叩きながら答えた。あいつには前に紗枝に関わるなと警告した。それ以上のことには興味がない。「分かったよ」和彦は少し落胆した様子で答えた。「そういえば、黒木さん、ニュース見たよ。会社を全部黒木拓司に任せたって本当?」「一時的にな」その言葉に、和彦はようやく安堵の息をついた。彼は啓司が目が見えないから、誰にでも侮られると
車の中。逸之はずっと頭を下げたままで、言葉を発することができなかった。紗枝は、今日ほど怒りと心配が入り混じった日はなかった。彼女は逸之に何も尋ねず、彼が自分から話すのを待っていた。啓司も同じ車に乗っており、牧野に捜索を中止するよう指示を出した。家に戻り、啓司が仕事に戻った。逸之は紗枝に甘え始めた。「ママ、ごめんなさい。どうしてもママと啓司おじさんに会いたくて、行っちゃったんだ」彼は可愛らしい声で謝った。以前なら、謝ればママはすぐに心を許し、許してくれたものだ。しかし、今回は違った。紗枝の顔は相変わらず冷たいままだった。逸之は少し慌てて、どうすればいいのか分からなくなり、ふと上階に行って出雲おばさんにお願いしようと考えた。まだ二、三歩歩いていないうちに、紗枝が口を開けた。「待ちなさい」逸之はその場で足を止め、大人しく立ち尽くした。「ママ、本当に反省してるよ」「君は本当にただママと啓司おじさんに会いたかっただけ?」紗枝の突然の質問に、逸之の瞳が一瞬縮まった。「ママ、僕が悪かった。本当にごめんなさい」紗枝は、彼の少し青ざめた顔を見ても心を動かさなかった。「次にまた勝手に家を出たら、もう君のことは知らないからね」と紗枝は厳しく告げた。逸之は彼女が本当に怒っていることを悟り、慌てて何度も頷いた。「もうしない!約束する!」彼は病院でずっと一人で過ごしていた。化学療法を受けるか、薬を飲むか、そればかりだった。彼は本当にずっと一人でいたくなかった。「ママ、僕、今日病院に戻ろうか?」逸之は小さな声で尋ねた。「病院」という言葉を聞いて、紗枝は胸を痛めた。「逸ちゃん、いい子にしてね。もう少し待てば手術ができるから」「うん、分かった」逸之は頷き、紗枝に抱きついた。ママ、まだ僕のことを気にかけてくれてる。よかった......午後になり、紗枝は逸之を病院に送り届けた。医師が彼の検査を終えた後、紗枝は彼が啓司に会いたいと言っていたことを思い出し、尋ねた。「逸ちゃん、啓司おじさんのこと好きなの?」逸之は一瞬言葉を詰まらせた。クズ親父のことを好きになるわけがない。しかし、ママがそう聞いている以上、否定的な答えは望んでいないだろう。「うん、好きだよ」息子が啓司を好きだと言うのを聞
逸之は誰かが自分を呼んでいるような気がして振り向くと、そこには明一が立っていた。彼は不思議そうな顔をして、目の前の子どもが誰なのかと考えた。明一はそのまま逸之の前に歩み寄り、言った。「景ちゃん、どうしたの?なんで俺を無視するんだ?」どうやら兄を知っているらしい。逸之は少し面倒くさそうに明一を横目で見た。「何か用?」子供らしい高い声で話す逸之の様子に、いつも真面目な景之とのギャップを感じた明一は、少し驚いた。「景之、なんか急に女の子っぽくなった?」「......」逸之の顔が黒くなる。お前が女の子だ。お前の家族全員が女の子だ。明一はそんな彼を見て笑い、「でも、こんな話し方も可愛いじゃん」と続けた。「もしかして、僕と遊びに来たの?いいよ!僕が案内してあげる。この黒木家で僕が知らない場所なんてないから!」その言葉を聞いて、逸之は少し違和感を覚えた。「知らない場所なんてないって、どういうこと?」「僕は黒木明一、黒木家の直系の唯一の孫だよ、忘れたの?」明一は得意げに言った。黒木明一......逸之はその名前を思い返し、すぐに思い出した。兄が言っていた。あのクズ親父の従兄弟には息子がいて、その名前がたしか「明一」だったと。ああ、なるほど、彼か。逸之は目の前の、少し間抜けそうに見えるが、顔立ちは悪くない男の子を上下に見た。「ああ、思い出した」逸之はそう言うと、そのまま明一の前を通り過った。「特に用事はないから、邪魔しないで」明一は遠ざかる小さな背中を見つめ、がっくり肩を落とした。景之、どうして急に僕を無視するんだ?僕、何か悪いことしたのかな......?明一は諦めきれず、再び彼を追いかけた。「景之、僕のお父さんが新しく買った飛行機の模型、貸してあげるから一緒に遊ばないか?」「いらない」逸之は目の前の明一を、行く手を阻む邪魔者だと思った。彼には黒木家の屋敷についてもっと知りたいことがあったからだ。「もうついてくるなよ。じゃないとぶっ飛ばすからな」その言葉に、明一はかつての悪い記憶を思い出し、即座に足を止めた。そして、逸之が見えなくなるまでその場に立ち尽くした。彼はしょんぼりと帰り、その日の出来事を母親の夢美に話した。一方、逸之は黒木家の邸宅を歩き回りながら、その
拓司もふと顔を上げ、彼女を見上げた。昨夜のパーティーの時とは違い、この瞬間、世界には二人しかいないような静けさが漂っていた。紗枝の目がわずかに揺らぎ、まだ状況を飲み込めないうちに、後ろから誰かに強く抱きしめられた。「どうしてベランダで歯を磨いてるんだ?外はこんなに寒いのに、風邪をひいたらどうする?」啓司がかすれた声で言った。紗枝は我に返り、すぐに視線を引き戻し、啓司の腕の中から身を引いた。幸い、今の啓司には見えない。「大丈夫。そんなに寒くないよ」紗枝はすぐに部屋に戻った。紗枝は啓司が見えないと思っていたが、実は啓司には随所に「目」があった。拓司が近づいた時点で、誰かがすぐに彼に知らせていたのだ。啓司はベランダに立ち、冷たい風が顔に当たる中、スマホの音が鳴った。彼は電話を取り上げた。拓司からだった。「母さんが、お前は記憶を失っていると言っていた。本当らしいな」拓司はそう言うと、一言一句をはっきりと噛み締めるように続けた。「もう一度言っておくが、紗枝が好きなのは、最初から最後まで僕だ。お前じゃない」拓司は電話を切り、積もった雪を踏みしめながら立ち去った。その言葉により、啓司の頭の中には、わざと忘れようとしていた記憶が一気に押し寄せた。特に、紗枝の声が頭の中で何度も繰り返された。「啓司、私が好きなのはあなたじゃない。本当は最初からずっと間違えていたの」間違えていた......紗枝は洗面を終え、平静を取り戻していた。彼女は簡単に荷物をまとめ、啓司に向かって言った。「準備はいい?早く帰りましょう」「うん」紗枝は啓司の異変に気づかなかった。二人は帰りの車に乗り込んだが、啓司は道中一言も口を開かなかった。紗枝も静かに雪景色を見つめていた。二人とも心の中に重い何かを抱えていたが、それを口にすることはなかった。桑鈴町。紗枝は逸之がいなくなっていることに気づいた。彼の部屋には誰もおらず、残されたのは一枚のメモだった――「お兄ちゃん、用事があってしばらく出かけるよ。数日後に戻るから」「逸之はいついなくなったの?」彼女は尋ねた。景之は彼女に言った、昨晩、逸之はまだそこにいたと。紗枝は少し震えながら言った。「誰かが彼を連れて行ったんじゃないかしら?」景之は首を振りながら、心
啓司はそれでようやく動きを止めた。紗枝が再び眠りにつくのを待って、浴室に行き、冷水シャワーを浴びた。一方その頃――逸之は使用人に案内され、使用人に極めて豪華な子供部屋に案内され、綾子は来客を見送った後、急いで部屋に向かった。「景ちゃん、待たせてごめんね。何か食べたいものある?」と、綾子は優しい笑顔で話しかけた。逸之は目の前の美しい、そして年齢を重ねても優雅さを失わない女性を見て、「意地悪な姑だ」と思いつつ、表面上は愛嬌たっぷりに振る舞った。「綾子おばあさん、僕、おばあさんに会いたかった!どうしてもっと早く来てくれなかったの?」そう言って彼は彼女の足に抱きつき、鼻水をこすりつけた。綾子は驚いた。景之がこんなに自分に甘えてくるのは初めてだった。「ごめんなさいね、おばあさんが悪かった。君を一人ここに残すつもりはなかったのよ」「君が来たって聞いて、おばあさん、すぐにでも君のそばに飛んで行きたかったんだから」逸之は少し驚いた。兄がこんなに祖母に気に入られているなんて信じられなかった。「本当?」彼は可哀想な顔をして綾子を見つめた。「もちろん本当よ」と綾子は言った後、こう尋ねた。「でも、どうして急におばあさんのところに来ようと思ったの?お家でママに叱られたの?もしよければ、これからおばあさんと一緒に住まない?おばあさんが君をちゃんと大事にしてあげるわ」逸之は黒木家の事情を知りたかったので、すぐに答えた。「うん、いいよ」綾子は喜びを隠せず、すぐに秘書に指示して、景之のためにもっと大きな部屋を用意するよう命じた。逸之は彼女がこれほど親切にしてくれることに疑問を抱いた。自分が彼女の実の孫であることを知らないはずなのに、なぜこんなに優しいのか?「おばあさん、僕眠くなっちゃった。寝たいな」「いいわ、寝なさい」逸之は彼女の服を引っ張りながら言った。「おばあさん、ここで僕のそばにいてくれる?怖いから」「いいわよ」綾子はもちろん断ることはなかった。啓司を小さくしたようなこの子を見ていると、綾子は何とも言えない愛しさを感じていた。しかし夜、逸之は綾子を全く休ませなかった。時には水を頼み、時にはトイレに連れて行ってほしいとせがむなど、彼女はほとんど眠ることができなかった。こんなに忍耐強い綾子を前に、逸之は
紗枝は言い終わると布団を整え始めた。「夜は私がソファーで寝るわ」啓司は少し眉をひそめた。「君は妊娠しているんだ。ベッドで寝なさい」紗枝は、彼が今でもこんなに紳士的であることに驚きつつ、妊娠中の自分には確かにベッドが楽だと思い、頷いた。お風呂を済ませてから、紗枝は大きなベッドに横たわった。そこにはかすかに清潔な香りが漂っていた。啓司は少し離れたソファーで横になっていたが、その長い脚はどうにも収まりがつかないようだった。紗枝は部屋の明かりを消したが、なかなか眠れなかった。目を閉じるたびに、拓司の穏やかな笑顔が頭に浮かんできた。心の中に多くの疑問があったが、それを聞くべきかどうか迷っていた。どれくらいの時間が経ったのか、紗枝はようやく眠りについた。しかし、外では強風が吹き荒れ、彼女は長く眠ることができず、悪夢にうなされて突然目を覚ました。「啓司!」彼女は無意識のうちに彼の名前を呼んでいた。ほどなくして、大きな手が彼女の手をそっと包み込んだ。「どうした?」啓司がいつの間にかベッドのそばに来ていた。紗枝の心臓は速く鼓動しており、夢の中で自分をいじめる人々の姿が頭の中に次々と浮かんできた。彼女は思わず深く息を吸い込んだ。「大丈夫。ただ悪夢を見ただけ」啓司はそれを聞くと、何も言わずに布団を引き開け、ベッドに入り、紗枝をその腕の中に抱きしめた。紗枝は驚いて拒もうとしたが、彼の低い声が耳に届いた。「怖がるな。俺がそばにいる」彼の言葉を聞いて、紗枝は不思議と安心し、それ以上何も言わず、彼に身を委ねた。しばらくして、彼女は堪えきれずに尋ねた。「啓司、本当に私のことしか覚えていないの?」啓司は胸がざわつき、すぐに頷いた。「そうだ」紗枝は肯定的な答えを聞いて、さらに問いかけた。「本当に私のことが好きなの?」「はい」彼はためらうことなく答えた。記憶を失う前の啓司なら、決して紗枝を愛しているとは認めなかっただろう。紗枝は彼の胸に寄り添いながら、ある思いがますます強くなっていった。それは、このまま全てを受け入れてもいいのではないかということだ。どうせ医者によると、啓司が記憶を取り戻す可能性は低いのだから、このまま続けていけばいいのではないかと。「でも、昔の君は私のことを少しも好きじゃなかった
紗枝は知らなかった。啓司はずっと我慢していた。彼は誰よりも自分の立場を理解していた。視力を失った今、自分を狙う者がどれだけいるか、痛いほど分かっている。今はプライドを気にする時ではない。「ありがとう」紗枝が席に座り、彼にもケーキを一つ差し出した。「あなたもどうぞ」二人が一緒にケーキを食べる様子が拓司の目にも映り、その温かな視線が一瞬冷たさを帯びた。秘書の清子が来たとき、最初に目にしたのは隅の方に座る紗枝と啓司だった。二人とも周囲から散々侮辱されているにもかかわらず、まるで気にせず、自分たちの世界に浸っているようだった。清子は紗枝をじっと見つめ、彼女が本当に美しいことに気づいた。彼女の一挙手一投足からは温かみと優雅さがにじみ出ており、特にその瞳は、まるで澄んだ泉のように輝いていた。だからこそ、啓司が彼女と離婚したがらないのも納得できた。一方、書斎では綾子が黒木おお爺さんに厳しく叱られていた。話の内容は、彼女が皆を騙し、拓司に啓司の代役をさせた件に他ならなかった。綾子は言い返すことなく、叱責をただ黙って受けていた。やがて執事が時間を告げると、綾子は部屋を出た。黒木おお爺さんは杖をつきながら部屋を出て、紗枝が来ているのに気づいたが、何も言わずに皆に食事を先に済ませるように言い、その後に先祖供養を行うことにした。綾子はその時、使用人から景之が来ていると聞いた。「寒いから、彼にゆっくり休むように言って、美味しいものを用意してあげて」使用人は頷いた。逸之は家政婦に連れられて部屋へ向かい、周囲の豪華な室内装飾を見渡していた。「綾子おばあさんはどこ?」「今日は綾子さまが忙しいから先にお部屋でゆっくり休んでいてください。忙しいのが終わったら、すぐにお見舞いに行きますから。今晩はここに泊まってくださいね」「ありがとうございます」逸之はおとなしく微笑みながら礼を言った。かわいくてお利口な逸之を見て、すぐに彼に心を奪われた家政婦は、思わず言った。「ほんとうにお世辞がうまいわね」紗枝はまだ、次男がこっそりタクシーでここに来たことを知らなかった。彼は啓司と一緒に食事をした後、先祖供養を済ませてから帰るつもりだった。食事の後、予想に反して黒木おお爺さんは二人を家に留めることにした。「今日は家に泊まっていき