啓司は長い足で一歩一歩階段を降りて、紗枝の前に来た。彼女の顔に垂れた涙の粒があり、拳を握りしめて、体を守る形でソファー向いて寝ていた。部屋のエアコンは非常に低温度に設定していた。彼は手を伸ばして紗枝に毛布を掛けた。電話して朝食を持ってきてもらおうとしたときに、外から玄関のドアが開けられた。葵が朝食の袋を手にして、ハイヒールで入ってきた。 「啓司君、朝食を持ってきた。今日は会社の記念日だよね。これから一緒に行こうよ…」 言葉が終える前に、彼女の視線はソファで眠っている紗枝に落ちた。 葵は信じられず、その場で佇んだ。 紗枝はどうしてここに寝たのか?二人が一晩中ここで…啓司は眠そうな目で彼女を見て、不思議に聞いた。「どうやって入ったの?」こっそりと入って、入り口のセキュリティシステムを通すことはできない筈だが、もしかして、指紋認証あるいは顔認証システムを事前に登録したのか。葵は朝食の袋を手に握りしめ、顔が少し青ざめた。「叔母さんがアレンジしてくれて、今後、啓司君の世話をするために」前に、葵に啓司の子供を作るため、綾子が牡丹別荘のセキュリティシステムに葵の情報を入れてもらった。彼女が自由に出入りするために。葵が今日暇があってやってきた。昨日、時先生に連絡する予定だったが、残念なことに、電話が通じなかった。彼女は長い間紗枝から目を離さなかった。声を低くして聞いた。「啓司君、これは?」「外で話そう」 昨夜よく眠れず、補聴器をつけてないので、二人の話は紗枝を起こせなかった。啓司について葵が外に出た。心の悔しい気持ちが頂点に達した。「紗枝はどうしてソファーで寝たの?」啓司はタバコに火をつけた。「僕が戻ってもらった」葵の顔が凍りついた。 「啓司君、彼女と離婚したじゃないか?こうするのは良くないだろう?」「僕たちは結婚もせず、君が勝手に我が家に入るのは良くないじゃないか?」葵は再び息を詰まらせた。 啓司は電話を取り、セキュリティシステム担当者に電話して、葵の顔及び指紋認証を解除してもらった。葵は静かに耳を傾け、心の中では非常に悔しかった。 部屋の外で、葵の場所から窓ガラス越で丁度紗枝を見えた。葵は再び啓司を見て、突然に彼が2日前に言ったことを思い出した。 「啓司君、前に言われ
「戻ってもいい。会社の記念日、夜に出席する」 啓司は苛立って言った。 「わかった」 葵が朝食を残して、紗枝を一瞥してから出た。啓司が振り返ると、紗枝が後ろに立っていた。なんだか心細くなってきた。「いつ目覚めた?」紗枝の顔色は落ち着いた。「ちょうど葵が結婚してやると言った時だった。おめでとう」啓司の心が突然刺された。空気が数秒止まった。 啓司は黒い目で彼女を見つめた。「何か意見があれば、今言って」 彼女の一言で葵との結婚を取りやめにすると思った。紗枝が首を横に振った。そして前と同じことを言った。「おめでとう。いつでも離婚の手続きを付き合うよ。「でも、前提条件として、逸之を返すこと」啓司の心は沈んだ。 紗枝が今、彼のことをまったく気にしなくなった。誰かと一緒にいること、そしてほかの女と結婚すること、全て気にしなくなった。啓司は非常にイライラしたが、どうしてイライラになったか分からなかった。彼は激しく咳き込み、葵が持ってきた朝食を直接ゴミ箱に捨てた。 「食べたいものを自分で注文して」 話してから、彼は紗枝の傍を通り過ぎて、書斎に向かった。彼が本当に世間知らずだと紗枝が思った。葵が持ってきた朝食を食べると思ったのか。彼女は台所に行って、自分で朝食を作った。食べてから、啓司にショートメールを送って出かけた。 啓司は書斎で紗枝の願いを待っていたが、結局ショートメールだった。「会社に行く」とてもシンプルな言葉だった。 それを読んで、彼の顔色は暗くなった。書斎を出て階段を降りて見ると、紗枝はとっくに出かけた。台所に何も残されなかった。彼女は自分の朝食を用意してくれなかった…啓司の腹痛と頭痛がさらにひどくなった。 運転手に朝食を買ってもらった。…紗枝が会社について、携帯を開いて見た。外国の番号に昨夜知らない電話が入ったことを分かった。電話番後の所在地は桃洲市、彼女は折り返し電話しなかった。ただ電話番後の持ち主を調べてもらった。葵だとすぐわかった…昨日、葵の盗作の件、大炎上となり、彼女が自分で連絡してくるのは常識だった。紗枝は彼女からの電話を待っていた。案の定、しばらくして、再び電話がかかってきた。紗枝は外国のIPアドレスを使って、変声シス
アシスタントが慎重に携帯を拾い上げた。「葵、どうなったの?」「時先生に謝罪し、それに盗作を公に認めるって」アシスタントは眉をひそめた。「それはいけない。盗作を認めたら、今までの努力は全て水の泡になっちゃうじゃないか?」葵は暫くこの時先生を無視することにした。時間を無駄にして、お金の為じゃなく、国際裁判を起こすなんて、ありえないと思った。今、彼女にとって最も重要なことは、紗枝の事、そして啓司と結婚することだった。曲はそんなに重要ではなかった。「今夜、会社の設立記念パーティー、私は良く用意しておく。ネットの盗作問題は当分の間お金を使ってどうにか抑えて」葵は、自分の少なめのお金は長持ちしないことを十分承知していた。でも、順調に結婚すれば全てが解決できると思った。会社。暫くして、紗枝が唯からの電話をもらった。「紗枝、今日来るの?」今日は週末で、紗枝と景之を誘ってピクニックに行こうと思った。紗枝は断った。「啓司にしっかりと見張られるの。今、逸之が見つけられたし、景之の身元がばれたらおしまいだ」「数日後にまた会おう」唯が聞いて、納得した。「わかった。頑張って、早く彼の精子を手に入れて、私たちはエストニアに戻ろう」「ええ」紗枝は無意識にお腹に手を当てた。なぜかしならないが、今回戻ってから、啓司が前より警戒するようになってきた。子供を作るには少し難しくなった気がした…丁度その時、ドアがノックされ、ガラスドア越しに、牧野が立っていた。彼女はすぐ電話を切った。「牧野、何か御用?」牧野が入ってきた。「紗枝さん、社長がお呼びです」啓司が今日ここに来ないと紗枝は思ったが。不本意たが、逸之が彼に掴まれたので、紗枝はいかなければならなかった。「わかった」牧野が彼女を待って、一緒に社長室に向かった。途中、牧野が我慢できず話しかけた。「紗枝さん、言っておくが、黒木社長はここ数年ずっと君を探しました。僕から見れば、君のことを気にしています」紗枝が一時立ち止まった。牧野も立ち止まった。紗枝が微笑んで言った。「私の事、気にしてると思う?」牧野は一瞬唖然として、眼鏡の下の真面目な顔は混乱した。紗枝は続けて言った。「牧野、この前、どうやって私を対応したか覚えてる?啓司に電話した時、ほ
紗枝を啓司のオフィスまで送ってから、牧野が離れた。ドアは閉まってないので、紗枝が軽く押しのけて入った。啓司は椅子に座って、書類をじっと見ていた。 イケメンの男が真面目に働いている姿はとても格好よかった。紗枝は、最初に彼の顔に騙されただろうかと思った。 彼女が来るのを知って、彼は頭を上げずに言った。「ここに来て」 紗枝は近寄った。「何か御用?」 「今後、下に行かなくていい」 啓司は書類を置いて彼女を見た。「君もここで仕事する」 紗枝は「なぜ?」と疑問に思った。「理由はない。会社の決定だ」 会社の決定より、彼の決定と言えばいい。低い廊下にいた時、頭を上げないのが常識だった。「わかった」 それでいい、近づく機会が増えた。 紗枝が計算したが、昨夜、妊娠の可能性が低すぎた。 「パソコンを持って来る」紗枝が言った。彼女が出る前に、所持品、パソコンも含め、全ての物が運ばれてきた。デスクも運んできた。啓司が立ち上がって彼女のそばに歩き、彼女の事務用品を見た。 「気になるんだけど、最近会社で何をしていたの?」昔、紗枝はただの主婦だった。 彼の生活の世話をする以外、外に出て仕事をすることはなかった。紗枝は彼を振り返って見た。「知りたいか?見せてやるよ」彼女は、啓司がまだ自分を警戒していると分かった。 そうでなければ、昨日、わざと我慢する必要はなかった。 啓司は本当に興味を湧いてきた。「いいよ」 彼の熱い視線の下で紗枝が椅子に座って、パソコンの電源を入れた。 自分が退屈した時の仕事を見せた。一瞥して啓司が驚いた。紗枝のパソコンにプロジェクトの提案書が少なくなかった。彼女はいつの間にかこんなものを書けるようになったのか?紗枝は顔を上げて、啓司のはっきりとした横顔をみて、深呼吸をしてゆっくりと話しかけた。「昨夜、あなたは楽しくなかっただろう?」啓司の体が硬直し、頭を下げて彼女の視線に合わせると、不意に喉仏が動いた。紗枝が背筋を伸ばして座った。彼の薄い唇に近づいた。「実は、私もとてもつらかった」 啓司の目が不思議に満ちていた。 こんな言葉は彼女の口から出るものじゃなかった。二人が結婚してから、彼女の手が自分を軽く触れると顔がすぐ赤くなった。いまは、
結構時間が経ってから、紗枝は何かおかしいと感じた。 啓司はただ彼女にキスをし続け、前に進まなかった。紗枝が呼吸しづらくなって、酸素不足で頭が真っ白になったとき、ドアがノックされた。啓司は立ち止まった。 秘書が仕事の報告だった。 紗枝は急いで座った。 再び失敗で終わった。 昼、二人は一緒食事に向かった。 運転手さんが運転して、啓司がいつも行くトレストランまで送ってくれた。 食事中、啓司が試して言った。「心配しないで、離婚しないから」 紗枝は唖然とした。 紗枝がよく理解できなかった。彼がゆっくり説明してくれた。「葵が欲しいのはタイトルだった。それを彼女にしてやる」 「法的な結婚については、心配しないで、君と離婚しない」 紗枝は信じられなくて彼を見た。「ふざけるな」 「満足しなかったら、別の方法を考える」 紗枝は彼が自分を試していたのを気づかなかった。「私たちは離婚して、貴方が葵と結婚して」 啓司の顔色は暗くなった。 彼の推測は間違っていなかった。紗枝は彼とセックスするが、一緒にしたくはなかった。「どうしたの?僕と結婚しても満足しないのか、今、僕にほかの女と結婚させるつもりか?」啓司は箸をテーブルに置いて、表情が冷たくなった。 葵と結婚したいのは、私じゃなくて、彼自身じゃなかったか?帰る途中、車内は静かだった。 啓司が突然話しかけた。「覚えてくれ、僕たちは法律上の夫婦だ。池田辰夫と合わないでくれ」 紗枝は唖然とした。「どうして?あなたは葵と一緒にいていい、私は友達と会ってはいけないのか?」 「寝取られて困るから!」 「これはどういう意味なの?」 「どんな意味、君は知っているだろう」啓司の声は氷のように冷たかった。「友達だったら、子供の件どう説明するの?」紗枝が喉を詰まらせた。彼女は辰夫と何の関係もないと認めてはいけなかった。そうでないと、逸之の事、説明しにくくなると思った。「子供の件、あれは事故だ。私一人で育てる。辰夫と何の関係もない」 自分の妻が他人の子供を持つことを気にしない男はいないだろう。しかも、その男は啓司だった。 紗枝は子供が事故だと言って、啓司の頭の中に神経が張り切った。「事故だと?事故は一回だったのか、それとも二回だったの
啓司の心臓はドキドキと高鳴り、彼女の手や脚の擦り傷を見ると、再び彼女を車に引き戻し、運転手に病院へ行くよう指示した。紗枝は車の中で後悔と恐怖を感じた。さっきの行動は確かに衝動的すぎた。彼女には景之と逸之がいるのだから、自分が無事でなければならなかった。啓司は険しい顔つきで問い詰めた。「何に怒っているんだ?」紗枝の手と脚には鈍い痛みがあり、彼女は何も答えなかった。車内は再び静寂に包まれた。啓司は、紗枝が黙っているときが一番嫌いだった。かつて彼女はよく喋っていた。特に子供の頃は、彼の耳元で絶えずしゃべり続けていた。だが今では、何かというとすぐ黙り込んでしまう。彼は苛立ちを抑えられなかった。「さっき、どこへ行こうとしていた?」「ただ車を降りて歩きたかっただけで、どこに行くつもりはない」子供たちは彼の元にあるんだから、どこへ行こうと言うの?運転手は車を市立病院の前に停め、啓司は彼女を連れて車を降りた。外科診察室。啓司が先にドアを開けて中に入った。「黒木さん、どうしてここに?」馴染みのある声が響いた。和彦は白衣をまとい、診察室の中に座っていた。いつものような軽薄さはなく、真剣な表情をしていた。啓司は彼に答えなかった。「なんでお前がここにいるんだ?」和彦の視線は思わず彼の背後にいる紗枝に向けられたが、すぐに引き戻された。「爺さんが生活を経験しろと言ったんで、ここに来ました」彼は元々医学に興味がなかったが、爺さんに無理やり医学を勉強させられ、その上、法律や国際ビジネスなども学ばされた。今、爺さんは彼に実践経験を積ませ、将来の家業の管理に役立てようとしていた。爺さんが和彦がもしここに来なかったら、彼に清水家との結婚を提案すると言うので、彼は来ないわけにいかなかった。あの唯とそのやんちゃな子供を思い浮かべると、和彦は頭痛がしてきた。啓司はそれ以上質問せず、紗枝に向かって「彼女の傷を治療してやれ」と言った。和彦はそれを聞き、紗枝の腕と脚にある擦り傷を見つけた。「こっちに来て座れ」彼は公務としての態度をとった。紗枝は、啓司がいる限り、和彦が自分に対して何もしないだろうと知っていた。それで、彼女は椅子に座り、彼に自分の傷を見せた。和彦は丁寧に傷を確認し、使い捨
和彦は、彼女が塗りにくい箇所があるだろうと思い、手を伸ばして手伝おうとした。紗枝は彼の手が伸びてくるのを見て、反射的に自分を叩こうとしているのだと勘違いし、本能的に避けた。その結果、軟膏が直接和彦の手の甲に落ちてしまった。「ごめんなさい」紗枝は立ち上がり、「今すぐ出ます」と言った。和彦は彼女が誤解していることに気づき、思わず説明した。「さっきはただ薬を塗ってあげようと思っただけだ」「ありがとう、でも結構です」紗枝は去ろうとした。和彦は彼女に再び誤解されたくなかったため、彼女を引き止めた。「黒木さんが、お前をここで待つようにと言ったんだ」紗枝は彼を冷たい目で見つめた。「外で待っていればいいです」そんな紗枝の姿を見て、和彦は胸に何とも言えない痛みを感じた。「俺を怖がらないで。もうお前を傷つけないから」怖がらないで?もう傷つけない?紗枝はまるで笑い話を聞いたかのようだった。以前も和彦は、彼女に警戒を解かせるために、同じようなことを言っていた。「すみません、通してください」傷つけるかどうかに関わらず、こういう人間とは関わりたくなかった。和彦は依然としてドアの前に立ちはだかり、動こうとしなかった。「薬をちゃんと塗ってから外に出るんだ」紗枝は彼がまた何か悪巧みをしているのかと疑い、彼の気まぐれな性格が再び爆発するのを恐れ、無駄なことは避けたいと考え、薬を塗ることにした。「今後はあんな無茶なことをするなよ。車から飛び降りるなんてどれだけ危険かわかっているのか。幸い、今回は軽い傷で済んだけど」和彦は心配そうに言った。紗枝は何も答えなかった。和彦の気まぐれな性格は、彼女にはすでに見抜かれていた。彼女は素早く薬を塗り終え。「澤村さん、薬を塗りました。もう行ってもいいですか?」と尋ねた。澄んだが冷たい目で彼を見つめる彼女を前にして、和彦の心は鋭く刺されるような痛みを感じた。「ここにいてくれ。何もしないと約束するから、いい?」彼はできるだけ優しく声をかけた。紗枝の目には一瞬、陰りが差した。どうせ彼が言うこと守れないのだと彼女は分かっていた。だが、どうしようもなかった。この場では彼の言うことに従うしかなかった。しかも、彼は啓司の親しい友人でもあり、彼女には逃げ場がなかっ
車に乗った後、啓司は一度病院を振り返った。「さっき僕がいなくなった後、和彦と何を話していたんだ?」「彼が大学時代に人を助けたことがあるかどうかを聞いてきた」紗枝は隠さずに答えた。人を助けた?啓司は葵が大学に通っていた頃、和彦と彼の母親が事故に遭ったときに彼女が二人を助けたことを思い出した。「それで?」「それで、あなたが来たの」紗枝はその話をこれ以上したくなかった。時刻は遅くなっていた。啓司は今夜、周年記念パーティーに出席する予定があった。紗枝は彼と一緒に会社に戻る必要はないと感じ、窓の外で舞い散る木の葉を見つめながら言った。「帰りたいの」「今夜、君も一緒にパーティーに参加してもらう」紗枝は驚いた表情を浮かべた。啓司は特に説明もせず、運転手に会場へ向かうよう指示した。周年記念パーティーが始まる前に、啓司は紗枝を静かな個室に案内した。彼女は蒼穹色のドレスに着替え、その姿はまるで俗世に染まらない女神のように、清純で美しかった。啓司は個室のドアのところで彼女を見つめ、その深い瞳には一瞬、驚きと感動が走った。彼の喉がわずかに動いた。「ここで待っていろ。夜になったら一緒に帰るから」紗枝は顔を上げ、彼を見つめながら軽く頷いた。「わかったわ」彼女の従順な姿に、啓司の心は静かに波打った。彼はそれ以上何も言わず、足早にその場を去った。会社の周年記念パーティー。葵と綾子も早々に到着していた。「紗枝が牡丹に戻ってきたって本当?」綾子が尋ねた。「ええ。どういうわけかわかりませんけど、たぶんまた啓司さんにまとわりついてるんじゃないでしょうか。二人はまだ離婚していませんし、彼女は厄介な人ですから」葵は綾子に、実は啓司が紗枝に牡丹に戻るよう指示したことを伝えていなかった。綾子は手に持ったワインを軽く飲みながら、前回の寿宴で二人が曖昧な関係であるところに遭遇したことを思い出していた。もしかして、息子はまだ紗枝に未練があるのか?綾子は葵に対してわずかに憂いを帯びた目を向けた。「彼女はいったいいつになったら息子を放してくれるのかしら」そう言うと、彼女は再び葵を見て言った。「啓司が君を妻にすることを約束した以上、君は早く妊娠する方法を考えるべきよ。今日は、私が手伝って
多田さんのSNSには娘の写真と前向きな言葉が並んでいたが、その裏には仕事も収入もなく、姑の顔色を伺う日々が透けて見えた。スクロールしていると、母親たちのLINEグループに新しい投稿が。「日曜日、みなさんいかがですか?うちで親睦会でもいかがかしら?」夢美からの誘いだった。海外出張のない時期は決まってこうして自宅に集まりを持つのが夢美の習慣だった。退屈しのぎであり、自慢の機会でもある。今回は特に紗枝の名前も指名で。今日の一件で思い通りにならなかった分、もし紗枝が参加すれば必ず恥をかかせてやろうという魂胆が見え見えだった。「はい、会長!お会いできるの楽しみにしています♪」多田さんが真っ先に返信。深夜零時。紗枝は作詞で起きていたが、多田さんまでこんな時間に即レスとは。他のメンバーは三々五々と参加表明を始めている。紗枝が返事を躊躇っていると、多田さんから個別メッセージが。「景之くんのお母さん、これはチャンスよ。このタイミングで夢美さんと距離を縮めてみては?」紗枝は考えを巡らせた。保護者会のメンバーが一堂に会する機会は貴重かもしれない。「ありがとう。そうさせてもらうわ」と多田さんに返信。夢美に近づくつもりなど毛頭なかったが。グループには「はい、明日お伺いします」と書き込んだ。返信を終えるなり、高級ブランドの本社に深夜の電話をかけ、ドレスの緊急空輸を依頼。身長、体重、スリーサイズを伝え、「オーダーメイドでなくても構いません。着られるサイズがあれば。予算は問題ありません」と告げた。資金力という魔法の杖を手にして、物事は驚くほどスムーズに運んだ。同じ要領で、あるママが憧れていたバッグや、他のママたちが手に入れられずにいたブレスレットやジュエリーも次々と購入。決して彼女たちの機嫌を取るためではない。贈り物には戦略が必要だ。最初から派手な贈り物をすれば、好感どころか警戒心を抱かせるだけ。翌朝。景之を澤村家に送り届けた紗枝を見て、唯の目が輝いた。「まあ!それって世界限定2個のバッグじゃない?どうやって手に入れたの?」「気に入った?」唯は何度も頷いた。澤村家の和彦の婚約者として澤村お爺さんにも可愛がられているとはいえ、お金の無心などできない立場だった。「今日使ったら、あなたにあげるわ。中古
「ママ、ママ、パパと一緒にお話して!」逸之が寝室に向かうのを渋った。「どんなお話がいい?ママが話してあげるわ」紗枝は優しく微笑んだ。啓司は必要ないという意味を込めて。「……」啓司の整った眉が少し動いた。「最新型のAIロボットを持ってこさせよう。お話はそれに任せられる」逸之は心の中で「このパパったら……」とため息をつきながら、父親の不器用さを実感していた。啓司の言葉通り、間もなく最新鋭の人型AIロボットが届けられた。ストーリーテリングだけでなく、宿題の手伝いや簡単な家事までこなせる優れものだった。当初は父と母をくっつけようと企んでいた逸之だったが、ロボットの魅力に取り憑かれ、景之と一緒に早々と自室に戻って新しいおもちゃの研究に没頭し始めた。子供たちがあっさりと気を紛らわされる様子を見て、紗枝は複雑な思いに駆られた。もし啓司が最初から二人を受け入れていれば、海外での辛い日々は避けられたかもしれない——階段を上り始めた紗枝を、啓司の声が引き止めた。「保護者会で、他に何かあったのか?」紗枝が戸惑いを見せる前に、啓司は続けた。「俺は子供たちの父親だ。生まれた時のことは黙っていたが、今度は違うだろう。知る権利がある」紗枝が躊躇したのは、突然の話題転換に驚いただけで、話したくないわけではなかった。「保護者会の会長は黒木夢美よ。ある保護者から聞いたんだけど、彼女は学校関係者と懇意で……子供たちを孤立させたり、意地悪できる立場にいるみたい」啓司は先ほどの紗枝と子供たちの会話を思い出していた。紗枝の歯切れの悪い様子から、何か隠していることは明らかだった。まさかこんな事態とは。「夢美が会長になれたのは、うちが長年幼稚園に投資してきた関係だろう。確か、おじいさまが最大株主のはずだ」紗枝は昂司の出資だと思っていたが、実は黒木おお爺さんだったとは。明一への深い愛情の表れなのだろう。「そうなんだって聞いてたわ」啓司はポケットからブラックカードを取り出し、紗枝に差し出した。「これで幼稚園ごと買収できる」息子には決して不当な扱いを受けさせるわけにはいかない——その思いが啓司の声に滲んでいた。紗枝はそのブラックカードを見つめ、一瞬我を忘れた。この人は「金がない」なんて嘘をついていたのね……断ろうかとも思ったが、今は事情
母の愛は強し。決意を固めた紗枝は、すぐに行動に移った。まず園長に投資の話を持ちかけると、すぐに快諾を得られた。次に、母親たちのLINEグループに溶け込もうと試みた。最初は静観を決め込み、会話の流れや、みんなが必要としているものを把握することに努めた。忙しい時は時が経つのも早い。逸之が眠そうな目をこすりながら声を上げた。「ママ、ごはんできた?」「ええ」紗枝はパソコンを閉じ、階下へ向かった。食事の時、逸之は意図的に紗枝と啓司を隣に座らせようとした。「ママ、僕の向かいに座って」その向かい側には啓司がいた。紗枝は啓司の様子を窺った。彼が何も言わないのを確認してから、ゆっくりと席に着いた。テーブルでは、家政婦が啓司の食事を用意していた。やっと人参抜きの食事が叶ったというのに、啓司の食欲は今ひとつだった。紗枝と啓司の席は近く、時折、紗枝の腕が啓司に触れる。距離を取ろうとした瞬間——「キィッ」椅子が床を擦る音が響いた。啓司が紗枝の椅子を掴み、強く引き寄せたのだ。紗枝は体勢を崩し、啓司の胸に倒れそうになる。「何するの?」思わず声が上がった。「見えないもので」啓司は素っ気なく答えた。「椅子を間違えた」そう聞いて、紗枝は諦めたように席を立とうとした。が、今度は啓司が彼女の手を掴んだ。「これも『間違い』?」紗枝の声には怒りが滲んでいた。「ママ」逸之が絶妙なタイミングで割り込んできた。「パパ、目が見えないんだから、少し大目に見てあげて」紗枝は呆れた。啓司は一体何を息子にしたというのか。こんなにも父親の味方をするなんて。力を込めて手を振り払い、黙々と食事を続ける紗枝。そこへ、携帯の着信音が鳴り響いた。画面を見た紗枝は、すぐに席を立った。エイリーからの着信だった。「エイリー?どうしたの?」「エイリー」という名前に、テーブルの父子三人の表情が一気に険しくなる。景之は母とエイリーのスキャンダル報道を知っていた。今どきの人気俳優なんて、ろくなものじゃない——そう考えながら、母を心配そうに見つめた。逸之が立ち上がろうとした。「どこへ行くの?」景之が弟の腕を掴んだ。「ママとエイリーおじさんの話、こっそり聞いてくる」「気をつけてね」景之は弟の手を離した。ママに見つからないように――
多田さんは紗枝の言葉に目を見開いた。人気のない角に紗枝を引き込むと、声を潜めて話し始めた。「ご存知ですか?夢美さんが会長になれた理由を」「黒木家は毎年、幼稚園に20億円を寄付しているんです。確かにあなたも黒木家の……でも、旦那様は……」視力を失ったという言葉は、多田さんの喉に引っかかったまま。紗枝は彼女の言いよどみの意味を理解していた。「もし、私がもっと多額の寄付ができたら?」多田さんは首を横に振った。「会長選出は学校幹部の意向と、保護者会メンバーの投票で決まるんです。新参者のあなたに、誰も票を入れないでしょう」「だって……誰が黒木家の逆鱗に触れたいと思いますか?私たち、必死になって夢美さんの家庭パーティーに呼ばれようとしているんです。彼女の一言で、主人の会社の取引先が決まることだってあるんですから」黒木家の実権を握っているわけでもない昂司でさえ、これほどの影響力を持っている。紗枝は改めて思い知った。黒木グループは、並大抵の力では揺るがせない存在なのだと。多田さんは紗枝の思案げな表情を見つめながら、思わず尋ねた。「もしかして、夢美さんに何か……?」昂司の妻である夢美とは義姉妹の関係。大家族の義理の関係に軋轢がないなんて、そんな都合の良いことはありえない。「ええ、大きな確執があります」以前の夢美は言葉による嫌がらせだけだった。でも今は明一を使って息子を危険に晒そうとしている。おまけに夢美の両親まで連れてきて、逸之に土下座を強要しようとまでした。多田さんは不安げな表情を浮かべた。自分が間違った相手に近づいているのではと恐れたようだ。「景之くんのお母さん、幼稚園なんて2、3年でしょう?夢美さんに謝って、頭を下げて、少し我慢すれば……」我慢?紗枝もかつてはそう考えていた。でも、我慢し過ぎれば、相手は自分を何とも思わなくなる。「ありがとうございます」多田さんの本心など知れたものじゃない。この会話が夢美への取り入りの種になるかもしれないのだから。多田さんを見送ってから、紗枝は車に乗り込んだ。家に着くと、逸之は疲れ果てた様子でソファーに横たわり、本を顔にかぶせて午睡をとっていた。小さな手のひらはまだ薄っと赤かった。景之はパソコンで何かを打ち込んでおり、分からないことがあると啓司に尋ねている
他の母親たちも、紗枝が金額を勘違いしているに違いないと、その失態を待ち構えていた。しかし紗枝は驚くほど落ち着いていた。「ええ、もちろん」そう言うと、バッグからカードを取り出し、テーブルに置いた。「今すぐお支払いできます」1億2千万円。今の彼女にとって、途方もない金額ではなかった。高価な服やバッグを身につけていないのは、単に好みの問題だった。経済的な理由ではない。夢美は今日、紗枝を困らせてやろうと思っていたのに、結果的に自分の立場が危うくなった。新参者の紗枝が1億2千万円も出すというのに、保護者会会長の自分はたった3千万円。「景之くんのお母さんって、本当にお優しいのね」夢美は作り笑いを浮かべた。紗枝が本当にその金額を支払えると分かると、他の母親たちの軽蔑的な眼差しが、徐々に変化し始めた。会の終了後、多田さんは紗枝と二人きりになって話しかけた。「景之くんのお母さん、あんなに大金を出すって……ご家族は大丈夫なんですか?」「私の稼いだお金ですから、家族に相談する必要はありません」紗枝は率直に答えた。多田さんは感心せずにはいられなかった。夢美のお金持ちぶりは、生まれながらの富裕層で、その上、黒木家という大金持ちの家に嫁いだからこそ。一方、紗枝は……多田さんはネットニュースで読んだことを思い出した。紗枝の父は若くして他界し、財産は弟に相続されたという。確かに啓司と結婚はしたものの、数年の結婚生活で、啓司も黒木家の人々も彼女を蔑んでいたらしい。お金など渡すはずもない。今や啓司は視力を失い、なおさらだろう。「景之くんのお母さん、本当にごめんなさい」突然、多田さんは謝罪した。「どうしてですか?」紗枝は首を傾げた。多田さんは周囲を確認した。夢美と他の役員たちが離れた場所で打ち合わせをしているのを見て、声を潜めた。「実は……夢美会長が私に頼んで、わざとお呼びしたんです。新しい方に寄付を募るなんて、普段はありえないんです。もし寄付をお願いする場合でも、事前に説明があるはず……」多田さんは申し訳なさそうに続けた。「会長は、あなたを困らせようとしたんです」紗枝はようやく違和感の正体を理解した。そうか。夢美のような人物が、自分を保護者会に招くはずがないと思っていた疑問が、今になって氷解した。「なぜ私に本当のことを
レストランは貸切状態。長テーブルを囲んだ母親たちは、既に海外遠足の詳細について話し合いを始めていた。紗枝が入店すると、会話が途切れ、一斉に視線が集まった。控えめな装いに、淡く上品な化粧。右頰の傷跡も、彼女の持つ高雅な雰囲気を損なうことはなかった。同じ子持ちの母親たちは、紗枝のスタイルの良さと整った顔立ちに、どこか妬ましさを感じていた。エステに通っている彼女たちでさえ、紗枝ほどの美肌は手に入らない。せめてもの慰めは、あの傷跡か。「おはようございます」時間を確認しながら、紗枝は丁寧に挨拶した。部屋を見渡すと、夢美の姿が目に留まった。明一と景之が同じクラスなのだから、夢美がここにいるのは当然だった。首座に陣取る夢美は、紗枝の存在など無視するかのように、お茶を一口すすった。会長の態度に倣うように、誰も紗枝の挨拶を返さない。そんな中、昨日紗枝を招待した多田さんが手を振った。「景之くんのお母さん、こちらにどうぞ」紗枝は感謝の眼差しを向け、彼女の隣の空席に腰を下ろした。夢美は続けた。「今回の渡航費、宿泊費、食事代は私が全額負担します。それに加えて介護士の費用、ガイド料、アクティビティ費用……私の負担する3千万円を除いて、総額1億六千万円が必要になります」紗枝は長々と並べ立てられる費用の内訳を聞いて、ようやく今日の集まりの目的を理解した。子供たちの渡航費用の分担について話し合うためだったのだ。「うちの幼稚園は少し特殊なんです」多田さんが紗枝に説明を始めた。「普通は個人負担なんですけど、保護者会のメンバーはみな裕福な家庭なので、子供たちと先生方の旅費を援助することにしているんです」紗枝が頷いたその時、ある母親が手を挙げた。「私、200万円を出させていただきます」すると次々と声が上がった。「私は400万円を」多田さんも手を挙げた。「私からは200万円で」そう言うと、深いため息をつき、周りに聞こえないよう小声で続けた。「主人の会社の経営が厳しくて、これが精一杯で……」ほとんどの母親たちは賢明で、一人当たりの負担額は最大でも1400万円程度だった。その時、夢美が紗枝に視線を向けた。「景之くんのお母さん、新しいメンバーとして、いかがですか?金額は少なくても、お気持ちだけでも」夢美は紗枝のことを調べ上げていた。
子どもの父親として、啓司には逸之を危険に晒すつもりなど毛頭なかった。万全の態勢を整えれば、幼稚園に通うことも自宅で過ごすことも、リスクは変わらないはずだった。先ほどの逸之の期待に満ちた眼差しを思い出し、紗枝は反対を諦めた。「わかったわ」指を握りしめながら、それでも付け加えずにはいられなかった。「お願い。絶対に何も起こらないように」啓司は薄い唇を固く結び、しばらくの沈黙の後で答えた。「俺の息子だ。言われるまでもない」その夜。啓司は殆ど食事に手をつけず、部屋に戻るとタバコを立て続けに吸っていた。なぜか最近、特に落ち着かなかった。二人の息子を取り戻せたはずなのに、紗枝が子供たちを連れ去り、他の男と暮らしていたことを思うと、どうしても腹が立った。一方、逸之と景之は同じ部屋で過ごしていた。「このままじゃダメだよ。バカ親父に会いに行って、積極的に動いてもらわないと」「待て」景之が制止した。「なに?」逸之は首を傾げた。「子供のためって名目で、ママを無理やり一緒にさせたいの?ママの気持ちは?」景之の言葉に、逸之はベッドに倒れ込んだ。「お兄ちゃんにはわかんないよ。二人とも好きあってるのに、意地を張ってるだけなんだから」隣の部屋では、紗枝が既に眠りについていた。明日は週末。保護者会の集まりがあり、遠足の準備について話し合うことになっている。翌朝早く。紗枝は身支度を整えると、双子を家政婦に任せて出かけた。啓司は今日も会社を休み、早朝から双子に勉強を教え始めた。景之には何の問題もなかった。しかし逸之は困っていた。頭の良い子ではあったが、さすがに高等数学までは無理があった。「バカ親父、これ本当に僕たちのレベルなの?」啓司は冷ややかな表情で答えた。「当然だ。俺はお前たちの年で既に解けていた」「問題を解いたら、答えを読み上げなさい」視力を失っている彼は、二人の解答を口頭で確認するしかなかった。「嘘つき」逸之は信じられなかったが、兄の用紙に複雑な計算式と答えが並んでいるのを見て、自分の考えが甘かったと気付いた。できないなら写せばいい――逸之が景之の答案を盗み見ようとした瞬間、家政婦の声が響いた。「逸ちゃん、カンニングはダメですよ」啓司は見えないため、家政婦に監督を任せていたのだ。
「パパ、ママ、お願い、喧嘩しないで」逸之は瞬く間に涙目になっていた。紗枝と啓司は口を噤んだ。「ママ」逸之は涙目で紗枝を見上げた。「幼稚園なんて行かないから、パパのことを怒らないで。パパは僕が悲しむのが嫌だから、許してくれただけなの」その言葉に紗枝の胸が痛んだ。啓司は息子を悲しませたくないというのに、自分は違うというのか?なぜ……何年も子育てをしてきた自分より、たった数ヶ月の付き合いのパパの方が、子供の心を掴めるのだろう?「ママ、怒らないで」逸之はバカ親父を助けようと、必死で母の気を紛らわそうとした。この甘え作戦で母の怒りが収まるはずだと思ったのに、逆効果だった。「逸之、行きたいなら行きなさい。でも何か問題が起きたら、即刻退園よ」そう言い放つと、紗枝はいつものように逸之を抱き締めることもなく、そのまま通り過ぎていった。逸之は急に不安になった。母はバカ親父だけでなく、自分にも怒っているのだと気づいた。一人になりたかった紗枝は音楽室に籠もり、扉を閉めた。外では、景之が密かに弟を叱りつけていた。「バカじゃないの?ママがここまで育ててくれたのに、どうして啓司おじさんの味方ばかりするの?」「お兄ちゃん、完全な家族を持ちたくないの?みんなに『私生児』って呼ばれ続けるのが、いいの?」逸之も反論した。景之は一瞬黙り込んだ。しばらくして、弟の頑なな表情を見つめながら言った。「前から言ってるでしょう。ママが受け入れたら、僕もパパって呼ぶよ」「お兄ちゃん……」「甘えても無駄だよ」景之はリビングのソファーに座り、本を開いた。啓司は牧野に、設備の整った幼稚園を探すよう指示を出した。逸之は母が出てくるのを待ち続けた。母の心を傷つけたことを知り、音楽室の前で待っていた。紗枝が長い時間を過ごして部屋を出ると、小さな体を丸めて、まどろみかけている逸之の姿があった。「逸ちゃん、どうしてこんなところで座ってるの」「ママ」逸之は目を覚まし、どこからか手に入れた小さな花束を紗枝に差し出した。「もう怒らないで。パパよりママの方が大好きだから。幼稚園なんて行かないよ」紗枝は胸が締め付けられる思いで、しゃがみこんで息子を抱きしめた。「逸ちゃん、あなたたち二人は私の全てよ。怒るわけないでしょう?ただね……健康な体を
選ぶまでもないことだろう?逸之は迷うことなく、景之と同じ幼稚園に通いたがった。「幼稚園がいい!」紗枝が何か言いかけた矢先、逸之は啓司の足にしがみつき、まるでお気に入りの飼い主に甘える子犬のように目を輝かせた。「パパ大好き!お兄ちゃんと同じ幼稚園に行かせてくれるの?」兄の景之は弟のこの厚かましい振る舞いを目にして、眉をひそめた。逸之と一緒に幼稚園に通うなんて、御免こうむりたい。「嫌だ」確かに逸之は自分と瓜二つの顔をしているが、甘え方も上手で、愛嬌もある。どこに行っても人気者になってしまう弟が、景之には目障りだった。逸之が甘えモードに入った瞬間、自分の存在など霞んでしまうのだ。思いがけない兄の拒絶に、逸之は潤んだ瞳で兄を見上げた。「どうして?お兄ちゃん、もう僕のこと嫌いになっちゃったの?」景之は眉間にしわを寄せ、手にした本で弟のおしゃべりな口を塞いでやりたい衝動に駆られた。「そんなに甘えるなら、車から放り出すぞ」冷たく突き放すような口調で景之は言い放った。その仕草も物言いも、まるで啓司のミニチュア版のようだった。逸之は小さな唇を尖らせながら、おとなしく顔を背け、啓司の足にしがみつき直した。啓司は、初めて紗枝と出会った時のことを思い出していた。彼女が自分を拓司と間違えて家に来た日、今の逸之のように可愛らしく後を追いかけ、服の裾を引っ張りながら甘えた声を出していた。「啓司さん、お願い、助けてくれませんか?私からのお願いです。ねぇ、お願い……」そう考えると、この末っ子は間違いなく紗枝の血を引いているな、と。もし次は紗枝に似た女の子が二人生まれてくれたら、どんなにいいだろう……「逸ちゃん」紗枝は子供の夢を壊すのが辛そうだった。「体の具合もあるから、今は幼稚園は待ってみない?下半期に手術が終わってからにしましょう?」その言葉を聞いた逸之は、更に強く啓司の足にしがみついた。心の中では、「バカ親父、僕がママと手を繋がせてあげたでしょ。今度は僕を助ける番だよ」と思っていた。啓司はようやく口を開いた。「男の子をそんなに甘やかすな。明日にでも牧野に入園手続きを頼むよ」紗枝は子供たちの前では何も言わなかった。牡丹別荘に戻ると、啓司を外に呼び出し、二人きりになった。「あなた、逸ちゃんの体のことはわかっている