All Chapters of シャープペンシルより愛をこめて。: Chapter 81 - Chapter 90

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7・前に進む勇気 Page8

「――原口クン、ゴメンね! いくら仕事の話でも、ウチに来られるのはマズいから」 カフェの入り口から聞き覚えのある女性の声。しかも「原口クン」って? 気になって目で追うと、会社帰りらしい琴音先生と連れ立って入ってきたのはやっぱり原口さんだった。「まあ、でもいっか。ここ、ウチからも近いし」「ああ、そうでしたね」 どうして二人がこんなところに、と思ったら、琴音先生もこの近くに住んでたのか。私は知らなかったのに、原口さんは知っていた。自分の担当外の作家なのに。「――奈美ちゃん、知ってる人達?」 私の目線を追っていたらしい由佳ちゃんが興味津々(しんしん)で訊いてくる。「うん。男の人の方が原口さんだよ」「えっ? ……あ、ゴメン。で、女の方も知ってんの?」 由佳ちゃんは興味本位で訊いたことを反省し、今度は声を潜(ひそ)めて訊いた。「女性の方は、西原琴音先生。由佳ちゃんも知ってるでしょ? 私と同じレーベルから本出してる作家さんだよ」「ああ、あの人が? ウチの店にも本あるよね」「うん……」 二人は私達のいるテーブルから離れた席に着いているので、話している内容までは聞こえてこない。ただ、歩いてくる途中に「仕事の話」って聞こえたような気がするけれど。 二人と目が合うのが怖(こわ)くて、私はそのテーブルから目を逸(そ)らした。――ああ、最悪! せっかく前を向こうとしていたのに、こんなことでその意欲が萎(しぼ)んでしまうなんて!「――ね、奈美ちゃん。彼、こっち見てるけどいいの?」「いい」 私は固い表情のまま短く答えた。声をかけられたところで、この状況で何を話せばいいんだろう? 恨み節(ぶし)だけは言いたくない。「――あっ、女の人の方も気づいた! 原口さんに何か言ってるよ!」「……由佳ちゃん、出よう」 由佳ちゃんの実況に、というよりこの状況に堪(た)えられなくなり、私は席から立ち上がった。前払い式のカフェなので、そのまま帰ってしまうこともできる。「えっ、どうしたの!? あたし何か余計なことした!? だったら謝るからっ!」 私の機嫌を損(そこ)ねたと気にしているらしい由佳ちゃんを、私はフォローした。「違うよ。由佳ちゃんは何も悪くないの。――そろそろ帰って原稿書かなきゃいけないから」「……あ、そうなの? じゃあ、あたしはここで。執筆頑張ってね!」
last updateLast Updated : 2025-03-25
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7・前に進む勇気 Page9

「あんな現場見ちゃったからだ……」 あの二人がただ仕事の話をしていただけだってことは、理屈では分かっている。おそらく、〈パルフェ文庫〉の第二号の執筆を彼女に依頼していたんだろう。 でも恋は理屈じゃ片付けられない。原口さんは、琴音先生がこの近くに住んでいることを知っていた。担当している作家でもないのに知っているってことは、彼女の家を訪ねていったことがあるってこと。それも、多分プライベートでだ。つまり、二人にはそういう関係だった時期があったってことになる。――おそらく二年前までには。「あ~……、また二年前か」 ここまできたらもう、〝二年前〟は符号(ふごう)としか思えなくなってきた。偶然も三回続けば必然っていうし――。「はー、帰ろ」 考えていると虚(むな)しくなり、私はため息をついてまたマンションを目指す。 マンション一階の集合ポストから郵便物その他を取り出し、少々重い足取りで階段を上がっていく。 部屋に着いたのは夕方五時半過ぎ。まだ晩ゴハンには早いし、食欲も湧かない。 ――ヴーッ、ヴーッ、ヴーッ …… マナーモードを解除し忘れていたスマホがバッグのポケットで振動している。電話の着信らしい。でも誰からか分からない。 もしかして由佳ちゃん? それとも原口さん!? 早く確かめたくて、スマホを引っぱり出して画面を見た私は凍(こお)りついた。「琴音先生から!? どうして……?」 出ないで切ってしまうこともできる。でも私は、この現状から逃げたくない。早く疑惑を晴らしてスッキリしたい。そのためには、前に進むためには、彼女とキチンと話さなきゃいけないと思った。「――はい、ナミです」 私は腹を括(くく)り、通話ボタンを押してスピーカーフォンにした。『ああ、よかった! 切られるかと思った。もうマンションに着いた?』 琴音先生は私が電話に出たことにホッとしたみたいだ。――「切られるかと思った」のは、私に対してやましいことがあるからだと思うのは勘(かん)繰(ぐ)りすぎだろうか?「はい、さっき着いたところです」『そっか。――ねえナミちゃん、さっきショッピングビルのカフェにいたよね? お友達かな、一緒にいたの?』「はい、バイト仲間です。琴音先生は原口さんと一緒でしたね」 電話の向こうで、彼女がハッと息を呑むのが聞こえた。『……やっぱり見てたんだね。参っ
last updateLast Updated : 2025-03-26
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7・前に進む勇気 Page10

「どうして原口さんは、琴音先生がこの近くにお住まいだってこと知ってたんですか? 私だって知らなかったのに。しかも彼はあなたの担当じゃないのに! どうして!?」  言っているうちに、だんだん頭に血が昇ってくるのが分かる。――落ち着け、私(あたし)! 「それだけじゃないんです。あなたが彼を呼ぶ時の呼び方もずっと引っかかってたし、どっちも二年前から恋人がいないっていうのも偶然が重なりすぎてる気がして」 『――、分かった! 認めるわ。あたしと原口クンはね、二年前まで付き合ってたの。ちょうどナミちゃんがデビューするくらいの頃までね』 「……!? ウソでしょ……」  〝ああ、やっぱり〟と納得するには、その事実はあまりにも衝撃的すぎた。特に、後半部分がグサッと胸に突き刺さった。 『ずっと黙っててゴメンね。話したら、ナミちゃんに嫌われるんじゃないかと思って、話す勇気がなかったの』 「話してくれなかった方がショックですよ。私、琴音先生のこと信じてたのに」  こんなに大事なことを打ち明けてもらえなかったなんて、裏切られたような気分だ。 「でも、私のデビューが決まったのと同時期に別れたのって偶然なんですか?」  私が一番引っかかっているのはそこだ。 『う~ん……、結論から言えば偶然じゃないのよ。あたし達の別れに、ナミちゃんは間接的に関わってる。残酷(
last updateLast Updated : 2025-03-27
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8・書けない…… Page1

『――うん、いいけど……。長くなるよ? それでもいい?』「大丈夫です。話して下さい。……あ、ちょっと待って!」 スピーカーにしておいてよかった。私はキッチンから麦茶を淹れたグラスを持ってくると、再びスマホの前に座る。「――はい、お待たせしました。どうぞ」『うん。――あたし達は、あたしからのアプローチで付き合い始めたの。もしかしたら原口クンがあたしに合わせてくれてたのかもしれないけど、あたし達はうまくいってた』「はい」 私は麦茶に口をつけてから相槌を打った。『そんなあたし達の関係が変わったのは、ナミちゃんのデビューが決まってすぐの頃だった。それまでは女性作家さんの担当についたことのなかった彼が、自分からナミちゃんの担当になるって希望したの。不思議に思ったあたしが「どうして?」って訊いたら……』「はい」   * * * * ――琴音先生の話をまとめるとこうだ。 その日、たまたま次回作の打ち合わせで編集部を訪れていた彼女に、原口さんが私の大賞受賞作の生原稿を読むように勧めた。彼女はためらったけれど、「ゲラ版はもう校閲に回ってますから」と言われ、それならと読んでみた。 その頃すでに、彼は私のその小説に惚(ほ)れ込んでいたらしいから、この行動は彼女に引導(いんどう)を渡すつもりの行動だったのかもしれない。 彼女は原稿をベタ褒めし、原口さんから女子大生が書いたのだと聞かされてビックリ。 そして彼女は、彼が私の担当になりたい理由を熱く語られて、彼の中にある私への何かを感じ取った。それが何なのかは私にはまだ分からないけれど、おそらく編集者としての感情以上の何かだったんだと思う。「自分がこれ以上縛(しば)りつけていたら、彼を苦しめてしまう」――。原口さんが器用な人間じゃないことを理解(わか)っていた琴音先生は、自(みずか)ら身を引くことで彼に仕事に専念してもらうことにした。――「恋愛か仕事か」という選択を迫ることなく、彼に仕事を選ばせたのだった。 私が間接的に関わっているっていうのはそういうことだったのだ。そうして二人は恋愛関係に終(しゅう)止(し)符(ふ)を打ったのだという――。   * * * * ――私はしばらく言葉を失った。 同じ〝別れ〟でも、私と潤の時とはまるで違う。相手のことを想って身を引くなんて、大人じゃないとできない。私にはきっ
last updateLast Updated : 2025-03-28
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8・書けない…… Page2

「――ねえ、琴音先生。四月に私が『原口さんのこと好きみたいだ』って相談した時、どう思ったんですか?」 彼女にもし、今でも原口さんへの未練があったとしたら……? 私はあの時、すごく無神経なことをしてしまったのかもしれない。『う~ん……。ちょっと複雑な気持ちではあったけど、あたしにとってナミちゃんは大事な友人だし。本気で好きなら応援したいと思ったよ』 琴音先生は心の広い人だ。自分の恋愛をダメにした(間接的にだけど)私の恋を応援してくれるなんて。しかも、相手は自分の元カレだというのに!『二年前に身を引いたのは、あたしの意志。ナミちゃんのせいじゃないし、恨んでなんかいないから。できるならこれからも友達でいたい。……いいかな?』「えっ……、はい! もちろんですっ! あの、話してくれてありがとうございました」 失礼します、と言って、私から通話を終えた。彼女が原口さんと一緒にいた理由も、二人の関係も分かってスッキリしたはずなのに気は重い。 二年前に二人の間に起きたことと、私と潤の間に起きたことはほぼ同じ。原口さんは身を引こうとしていた琴音先生を引き留めることなく、仕事(というか私)を選んだ。 あんなに魅力的な女性(ひと)より私を選んだ理由は何だったんだろう? ――私には作品も含めて、彼女に勝てそうな要素はないはずなのに――。「はぁーー……。とりあえず着替えよ」 ソファーに座り込んでいた私は、重い腰を上げた。グラスを流しで洗って片付けると、部屋に戻って仕事着のブラウスからゆったりめのTシャツに着替えた。それだけで息苦しさが少しだけマシになった。 食欲はあまりなかったけれど、冷蔵庫の中の作り置きのおかずで晩ゴハンを済ませ、仕事机に向かう。 原稿はライターズ・ハイの甲斐あって、もう百四十枚くらい書けている。本のページでいえば半分~四分の三くらいだろうか。 章分けでは〝恋愛〟のパートまで進んでいて、過去の恋愛については結末(おわり)まで書いてしまってもいいのだけれど。現在進行形の恋について書こうと思うと、どうしても二年前の出来事に触れないわけにいかない。 琴音先生への罪悪感がジャマをして、悩みながら書いては消し、消しては書きを繰り返すこと二時間……。筆はあまり進まず、やっと五枚くらい書けたところで筆が止まってしまった。
last updateLast Updated : 2025-03-28
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8・書けない…… Page3

「あ~~~~! ダメだ! 書けない……」 私は呻きながら机に突っ伏した。 書くのに時間がかかるのはいつものことだけれど、執筆に行き詰ったことは今までに一度もない。私にとっては初めて経験するスランプだった。 こんなに書くのがつらいと感じた原稿は初めてかもしれない。これまでに発表した小説は、書くのが楽しくて仕方なかったから。 でも今は、心の中がグチャグチャで書くことがただの〝作業〟になってしまっていて、ただ機械(きかい)的に筆を進めているに過ぎない。 エッセイの内容は、書き手の心境とリンクしていると私は思う。だからきっと、小説のように〝無(む)〟の状態でもスラスラ文章が浮かぶなんてことはないんだろう。「疲れたー……。今日はもうやめよ」 明日もバイトの出勤日なので、もうお風呂に入って寝ることにした。   * * * * ――翌日。まだ心に蟠りを残したまま、私はバイトに出勤していた。 朝起きてから食べたものも、どうやって支度をしてお店に来たのかも覚えてない。そんな〝心ここにあらず〟な状態でもお弁当作りだけは忘れないのだから、習慣というものは恐ろしい。――それはさておき。「はぁ~~~~っ…………」 仕事中もひっきりなしに、盛大なため息が漏れる。今日は由佳ちゃんは休みで、一緒のシフトに入っているのは今西クンだ。それも私のブルーな気持ちの原因の一つである。 私は昨日、由佳ちゃんから彼の気持ちを聞かされたので、気まずさMAX(マックス)なのだ。「はぁ~~……」「どうしたんですか、先パイ?」「うん……、ちょっとね」 心配そうに訊いてくれた今西クンに、私はお茶を濁(にご)す。――今日は平日だけれど、彼は休(きゅう)講(こう)日だったので朝から出勤している。 由佳ちゃんが相手なら、今悩んでいることを全部打ち明けられるのに。今西クンは男の子だし三つも年下だし、しかも私に気があるらしいし。恋の悩みは話しづらい。……あ、仕事の悩みもだった。 今日はアニメ雑誌の発売日。今は夕方の四時過ぎで、私はもうじき退勤時間。学校帰りの男子中学生二人組が雑誌売り場で何やら隠れてゴソゴソやっている。どうやら、今日発売のあるアニメ誌の綴じ込み付録の、大人気のトレーディングカードのレアカードがお目当てらしい。 彼らが売り場でカッターナイフを使い、その綴じ込みを何冊分も開いて
last updateLast Updated : 2025-03-29
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8・書けない…… Page4

「先パイ! だ……っ、大丈夫っすか!?」 今西クンが血相を変えている。 それもそのはず。ただの切り傷だし大(たい)したことないと侮(あなど)っていたら、傷は思った以上に深いらしく、ティッシュで押さえていてもなかなか出血は止まってくれない。「大丈夫だよ、これくらい」 それでも強がっていると、今西クンに叱られた。「大丈夫じゃないでしょ、それ! こいつらはオレに任せて、先パイは店長呼んできて下さい! あと、その傷、ちゃんと手当てしないと。先パイ、もう上がりでしょ? 帰りにちゃんと病院に行って下さいね」「う、うん。分かった」 私が素直に従ったのは、彼の剣幕(けんまく)に怯んだからじゃない。彼の怒った顔がどことなく原口さんに似ていて、まるで原口さんに叱られているような気持ちになったから。「……ありがと、ゴメンね。じゃあ、あとお願い」 私は休憩室へ行く途中で店長をつかまえ、万引き未遂があったことを報告。店長は私の左手の傷を見て事情を察してくれ、病院で診断書をもらってくるように私に言った。 私はとりあえず、止血と簡単な応急手当てをしてから帰ることにした。救急箱から消毒液と脱脂綿・絆創膏(ばんそうこう)を取り出し、傷口を水洗いしてから消毒。出血が止まったのを確認して、大きめサイズの絆創膏を貼り付ける。 まだ出血は止まっていないようで、薄っすら血は滲んでいるけれど、あとは病院でしっかり処置してもらうことにしてお店の通用口を出た。 総合病院の外科で「万引き未遂の犯人からカッターナイフを取り上げようとして切られた」と事情を説明して傷を処置してもらい、痛み止めの薬を出してもらい、診断書も書いてもらってからマンションに帰り着いた。診断書代の三千円はなかなかに痛い出費だったけれど、店長は必要経費として精算すると言ってくれた。「…………はぁ~、怖かった……」 自宅で一人になって初めて、私は自分のしたことが「怖い」と感じた。どうしてあんな無茶をしたのか、自分でも信じられない。 ああいう時は自分で何とかしようとせずに、店長か今西クンを呼べばよかったのに。大きな悩みを抱えているせいで冷静な判断ができなくなっていたのだ。 でも一人の作家として、本を愛するものとして、あの行為はどうしても許せなかったから自然と体が動いてしまった。その結果がこのケガだ。 最近は紙の書籍が売
last updateLast Updated : 2025-03-29
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8・書けない…… Page5

「…………あたし、一体何のために書いてるんだろ……? もう分かんない……」  気がつくと、私は大粒の涙をこぼして泣いていた。書けない作家はもう、誰からも必要とされなくなるんじゃないか。原口さんからも……。     * * * *   ――私は思いっきり泣いたところで、この問題の根本的な原因について考えを巡らせた。 一つ目は、二年前に原口さんと琴音先生との仲を引き裂いてしまったのは自分だと、勝手に罪悪感を抱いてしまっていること。 二つ目は、この原稿を「書かなきゃ」と強迫観念のように思いつめていること。 一つ目については、原口さんとキチンと話せば解決するのだろうか? なので、まずは二つ目の原因の解決策について考える。 とりあえず「書かなきゃ」と自分を追い込むのはしばらくやめて、自然と「書きたい」と思えるようになるまで別のことで気を紛らわせよう。  ――ということで、本を読んだり(原口さんがくれたエッセイ本だ)、スマホのアプリでゲームをしたり、TVを観たり。そうしているうちにお腹が空いてきたけれど、夕飯を食べる気にもなれず、またエッセイ本を読もうとしていると――。  ――♪ ♪ ♪ ……  机の上に放置していたスマホに電話が。発信者は……えっ、今西クン!? 『もしもし、先パイ。オレです』  通話ボタンをタップすると、まるで〝オレオレ詐欺(さぎ)
last updateLast Updated : 2025-03-30
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8・書けない…… Page6

「ゴメンね、今西クン。気持ちはありがたいけど、私が寄り掛かりたいのはキミじゃないの。……好きな人がいるから」 『……そう、なんすか。分かりました! オレは全っ然ショック受けてないっすから! 大丈夫っすからね!』  彼が強がるのを聞いて、何だか余計に申し訳なくなってしまう。 「ホントにゴメンなさい」 『先パイ、もういいっすよ。これからも、バイト仲間としてよろしくお願いします。じゃあまた』  電話が切れた後、私は新たな罪悪感を抱え込んでしまった。でも、今西クンはきっと大丈夫だ。私より若いし、大学生は忙しいからいつまでもウジウジ悩んでなんかいられないだろう。そのうちきっと忘れるよね。  ――というわけで、私は読書を再開した。そして、じっくり読んでみて気づいた。書き手なら誰しもが経験するであろう〝産(う)みの苦しみ〟という代物(しろもの)に。 悩んでいるのは私だけじゃないんだと思うと、少しは書けそうな気がしてきた。 「とりあえず、ちょっとだけ書いてみよ」  改めて原稿用紙に向き合い、シャーペンを握った。利(き)き手は右なので、左手の傷は書くことに何の
last updateLast Updated : 2025-03-30
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8・書けない…… Page7

「そうだったんですか。――はい、どうぞ」 お盆から氷を浮かべた麦茶のグラスをローテーブルの上に置いていると、彼は大げさに包帯の巻かれた私の左手をじっと見ていた.「恐れ入ります。――その左手、大丈夫ですか?」 「あ、はい。ただの切り傷で、大したことないんです。利き手じゃないから、シャーペン持つのにも差し支(つか)えないですし」 今西クンの時と同じように、カラ元気を発揮して明るく答える。でも、これは却って逆効果だったらしい。「先生、それって本心じゃないでしょう? 僕にまで強がってどうするんですか」「…………はい。ホントはすごく怖かったし、今でもズキズキ痛みます。自分でも何て無茶したんだろうって後悔してます。……でも……っ」 どうしてだろう? ただ本音で話しているだけなのに、この人の前で涙が零れてくるのは。「私はただ、本を愛する者として、本を書く側の人間として、どうしても許せなくて……。だから……つい、体が勝手に動いちゃって……っ。ひとりになって初めて、『怖い』って思ったんです。私……っ、そんなに強い人間じゃないですから……っ」 しゃくり上げながら話す私に、原口さんは優しく「分かりますよ」と頷いてくれた。「店長さんからの伝言を預かってきました。先生は明日、診断書を提出してからしばらくバイトはお休みするように、と」「え……? いえ、そういうわけにはいきませんよ!」 彼の口から飛び出した店長からの伝言に、私の涙は引っ込んだ。こんなことでバイトを休むなんて公私混同だ。たとえ傷を負っていたとしても、お客様に私の事情は関係ないのだから。「そのケガでは仕事にも支障が出るし、何よりお客様にも心配をおかけしてしまうから、と。『接客業だということを忘れてもらっては困る』、だそうです」「…………そう、ですか。店長命令なら仕方ないですね。分かりました」 私は渋々頷いた。店長が原口さんに伝言を頼んだということは、私を通じて二人の間にはそれだけの信頼関係ができているということだ。私はその信頼関係を、自分から壊そうとしているのに……。「……ねえ、原口さん。私がもし、『今の原稿から降りたい』って言ったら幻滅(げんめつ)しちゃいますか?」「…………え?」 私にしては珍しいネガティブ発言に、原口さんは虚(きょ)を突かれたように目を瞠った。「理由は訊かないで下さい。私
last updateLast Updated : 2025-03-31
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