All Chapters of 再び頂点に戻る、桜都の御曹司にママ役はさせない: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

教え子に裏切られたと思い込んでいた教授は、夕月が自ら研究成果を斎藤鳴に譲渡したと信じていたのだ。それゆえに、五年後の再会の時、桐嶋教授は複雑な思いを抱え、何かを言いたげな表情を浮かべていたのだった。「論文の下書きは、まだ手元にありますか?」涼が尋ねた。夕月は疼く目を手で覆った。「昔使っていたパソコンに牛乳をこぼしてしまって……起動不能になって……結局、家政婦さんが処分してしまったんです……」当時、まだ幼かった悠斗を抱いていた時のことだった。彼が誤って牛乳をキーボードに零してしまったのだ。その瞬間、夕月の最初の反応は子供を守ることだった。パソコンから悠斗を遠ざけ、火傷していないか確認し、泣き止むまでずっと抱きしめていた。やっとパソコンを拭こうとした時には、既に画面は青一色に変わっていた。必死に冬真に助けを求めた。技術者に修理を依頼してもらえないかと。「うちのエンジニアはお前のパソコン修理なんかする暇はない。自分で何とかしろ」「大学時代の研究データが全部入ってるのよ!」「退学した身分で、学部生程度の戯言が研究だと?」酒に酔った男の声は、いつもより低く怠惰に響いた。傍らで楓の陽気な笑い声が聞こえる。「冬真、誰からの電話?」「ただの迷惑電話だ」電話が切れる音と共に、熱い涙が頬を伝い落ちた。夕月は起動不能のノートパソコンを抱えて、修理店を巡り歩いた。店を訪れるたびに、技術者たちは首を横に振るばかり。四軒目の修理店に向かおうとした夜、携帯が鳴った。橘家の大奥様からだった。「どこを出歩いているの?なぜ子供の面倒を見ていないの?」「お手伝いさんがいますから……」「悠斗があなたを探して泣いているのよ。今何をしているかは知らないけど、すぐに戻ってきなさい!」夕月は椅子に腰掛け、膝を抱え込んだ。かつては、子供のことを何よりも大切に思っていた。でも今、結婚して子供を産んで、自分は何を得たのだろうと、考えずにはいられなかった。滝のように流れ落ちる漆黒の髪。膝に頬を押し付けながら、むせび泣く鼻をすすった。「私、桐嶋教授を裏切ってしまった……」唇を噛みしめる。斎藤鳴が研究成果を盗んだことを知っても、それを証明する手立てはない。「こぼれた牛乳を嘆いても仕方ありません」涼の声には温もりが滲
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第82話

夕月の容姿に、視聴者たちは度肝を抜かれた。あれこれ批判しようと構えていた配信者たちは、思わず言葉を失い、顎に手を当てたまま固まる者も。眼鏡を掛け直して画面に食い入る者もいれば、夕月の姿を目にして思わずニヤけてしまう配信者まで現れた。五台のカメラに映し出されたのは、無垢材のテーブルに向かう夕月の姿。雨に濡れた上着は着替える暇もなく、湿った髪が額に張り付いていた。凍えた手を擦り合わせ、息を吹きかけて温めてから、やっとキーボードに触れる。まるで凍りついた雪だるまのような佇まいだったが、その瞳の奥には燃えるような決意の炎が宿っていた。視聴者たちは、夕月がALI実行委員会に状況を報告する声に耳を傾けた。「ブルー・オーシャン住宅での停電のため、急遽、桐嶋幸雄教授宅で受験させていただいております」夕月は桐嶋教授宅での受験を、実行委員会に対して隠すことはしなかった。「藤宮さん、不可抗力による特殊事情と判断し、委員会での協議の結果、試験継続を認めます。ただし、B問題用紙を改めて配布します」「既に試験開始から三時間が経過しています。追加の試験時間はありません。他の受験者と同様、残り五時間で提出していただきます」「承知いたしました」夕月は毅然とした態度で応じた。そして、すぐに解答に取り掛かった。彼女の視線は、パソコンと計算用紙の間を行き来するだけ。途中、ALI実行委員会のスタッフが桐嶋教授宅を訪れ、試験環境の確認を行った。一度だけトイレに立った以外、夕月は監視カメラの視界から離れることはなかった。パソコン画面の右下を一瞥した夕月。残り時間を気にする様子が窺えた。不正の証拠を探そうとしていた配信者たちは、夕月の微細な表情の変化を一つ一つ分析し始めた。「普通に考えて、この時間じゃ全問回答は無理なはずだ」「予選は八時間。つまり、決勝進出に必要な得点が取れる得意分野だけに集中すれば良いわけだ」「調べた限り、藤宮さんはALIコンテスト初参加。試験のストラテジーには慣れてないはず」配信者が冷静な分析を続ける一方で、多くの視聴者はもはや不正探しなど忘れ去っていた。「ウェブカメラ越しでもこんなに美しいなんて……!自分を殴りたい!あんな失言して後悔してる!」「時間との戦いなのに、一秒も無駄にしていない……!
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第83話

目を覚ますと、彼女たちのSNSアカウントは怒り狂うネットユーザーたちのコメントで埋め尽くされていた。「だから謝罪の投稿を慌てて消すなって言ったのに!これからどうするの?」名門の奥様たちは、グループチャットで緊急の対策会議を始めた。「不正がなかったとしても、決勝で上位に入れるとは限らないわ。配信者たちも言ってたでしょう?他の参加者は予選で得点を調整していただけ。だから藤宮が一位を取れたのよ」「しばらく大人しくしていましょう。決勝で大学院生たちに負けて、今度は彼女が叩かれる番よ」昨日までメディアは競って夕月のインタビューを報じようとしていたが、世論の急転換を察知すると、各社は一斉に配信を控えた。そんな中、桜国放送局が真っ先に夕月の特集レポートを公開。編集部は春川記者が夕月と交わした昨夜の電話録音まで放送した。夕月が桐嶋教授宅で受験せざるを得なかった真相を知り、視聴者たちは激怒した。さらに、予選当日にブルー・オーシャンで実際に停電が起きていたことも判明。「あんな最低な元旦那、のたうち回って苦しむ姿が見たいわ!地を這いずり回る虫ケラのくせに!」「クズって言葉がぴったりね」「藤宮さんが若すぎて、人を見る目がなかっただけよ」たちまち「#藤宮夕月の元夫」がトレンド入り。元夫が誰なのか特定できなかったものの、ネットユーザーたちは彼の先祖代々まで遡って罵倒の限りを尽くした。橘グループ本社。「ハックション!」冬真が社長専用エレベーターに乗り込むと、清水秘書が携帯を握りしめながら後に続いた。エレベーターが下降するにつれ、秘書の顔は青ざめていく。「#藤宮夕月の元夫」という文字がトレンドの上位に躍り出ているのを見て、秘書は目を疑った。大変なことになった!思わず冬真の後頭部を何度も見つめる。社長はまだ、自分がネットで笑い者にされていることに気付いていないはずだ。だが、この件をどう切り出せばいいのか……一階に到着し、冬真がエレベーターを出る。ロビーは人で溢れ、社員たちの熱い議論が冬真の耳に届く。「藤宮さんの元旦那、最低すぎる!」冬真の足が急に止まった。後ろの清水秘書も慌てて止まり、額から冷や汗が噴き出す。「まさに美女と野獣ね。いえ、野獣以下かも。野獣の方がまだマシよ」「ハックシ
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第84話

社員たちと冬真の間で、気まずい視線が行き交う。「社長、風邪でも?」「大丈夫ですか?お顔色が悪くて……額の相まで暗くなってますよ……」社員たちの心配そうな声に、冬真の表情は一層険しくなっていく。清水秘書が社員たちを叱責しようと前に出ようとした時、冬真は既に正面玄関へ向かって歩き出していた。慌てて追いつき、車のドアを開ける秘書。「ロビーで無駄話をしていた社員は全員特定し、給与から減額させていただきます」車内に座った冬真の周りには、まるで冷気が漂っているかのよう。彼が顔を上げると、鋭い眼差しが秘書を貫く。「ほう、私が藤宮夕月の見る目のない元夫だということを、大々的に宣伝したいのか?」秘書の額から大粒の汗が零れ落ちる。その場に凍りつき、唇は震えが止まらない。「い、いえ……そんなつもりは!ただ……ネット上であなたに不利な書き込みが急増していまして……」震える手でスマートフォンを差し出す。画面には、トレンド一位の「#藤宮夕月の元夫」の文字。冬真は侮蔑的な冷笑を浮かべた。まさか自分が藤宮夕月によって有名になる日が来るとは。冬真はトレンドの下のコメントなど見向きもしなかった。足元で蠢く大衆など、一瞥の価値もない。もし夕月が決勝でいい成績を収めたら……冬真は思案する。寛大な心で彼女を会社に迎え入れ、年収2千万の職位を与えて、自分の下で働かせてやるのも悪くない。そんな思考に耽っていると、携帯が鳴った。楓からの着信を確認し、通話ボタンを押す。「冬真、今夜、鐘山でレース大会があるんだ。悠斗を連れて行きたいんだけど」「悠斗には相応しくない」冬真の声音は冷たかった。「夜の山道だから心配?なら、あなたも来れば?……それに、今日が何の日か覚えてる?」楓の言葉が、冬真の心の琴線に触れた。今日は汐の命日。かつて妹の汐がモータースポーツを愛していたからこそ、冬真は鐘山オフロードレースに投資したのだ。「私たちが地上を疾走すれば、空の汐にも見えるはずさ」楓の瞳には、確信に満ちた微笑みが宿る。彼女は知っていた。汐の死は冬真の癒えぬ傷。汐の名を出せば、万年氷河も溶けるということを。 胸に淀んだ鬱憤を、冬真は吐き出す場所を必要としていた。そして今日は、妹の命日。「分かった。悠斗を連れて行く。三十
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第85話

前席に座る悠斗は興奮を抑えきれない様子で、「楓兄貴!君こそ僕の唯一の兄貴だよ!パパがレース観戦に連れて行ってくれるなんて、夢にも思わなかった!」小さな唇を尖らせ、「あの田舎者とは大違い!楓兄貴の方が全然いいよ!」楓は声を立てて笑う。眉尻の上がりを抑えられない。「知ってる?お母さん、ネットですごく叩かれてるんだって」「あの人はもう母さんじゃない!」悠斗は即座に訂正した。楓の目に宿る笑みが、一層深くなった。「なんで叩かれてるの?」悠斗は首を傾げた。「夕月さんが数学コンテストで不正して一位取ったんだって。みんなネットで暴いてるわ。あの人に一位なんて取れるはずないもの!」楓がSNSを開こうとした時、トレンド一位に「#藤宮夕月の元夫」の文字が躍る。タグを開いた楓の動きが止まった。夕月に関する投稿を次々と確認していく。不正を断言していた有名配信者たちが、次々と謝罪文を投稿。夕月への誤解を認めている。夕月関連の人気コメントを漁ると、半数は彼女の美貌を絶賛し、残りはろくでもない元旦那に振り回された彼女を気の毒がっている。楓の呼吸が止まり、スマートフォンを握る手が震え始めた。「楓兄貴……?」悠斗は怯えた声を出す。初めて見る楓の恐ろしい表情に。まるでスマートフォンの向こうの誰かを殴り殺したいかのような凶暴な眼差し。我に返った楓は、にっこりと笑顔を作る。「ねぇ、悠斗くん。お母さんと私、どっちが綺麗だと思う?」悠斗が2秒ほど黙り込むと、楓の表情が一瞬で曇った。「楓兄貴が一番綺麗!」満足のいく返事に、楓の心はやや落ち着きを取り戻す。スマートフォンを置くと、悠斗に向かって「もうあの人の話はやめましょ。ね、バイク運転してみたい?」悠斗の目が丸く見開かれ、瞳孔が広がる。興奮が爆発しそうだ。「本当に運転していいの!?でも、ハンドル重そうだなぁ……」「楓兄貴がついてるから大丈夫だって!一緒に乗って、バイクが安定したら、ハンドル任せるからさ。そしたら、まるで空を飛んでるみたいな気分が味わえるよ!」「やったー!」悠斗は待ちきれない様子で飛び跳ねる。この世で唯一、自分のことを本当に理解してくれるのは楓だけだ。なんでもやらせてくれる。なんでも挑戦させてくれる。あの田舎者みたいに、いちいち制限なんかしない。
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第86話

この頃、楓はTikTokに自分と悠斗がバイクに乗る姿を撮った動画を次々とアップしていた。アカウント開設から五年、わずか二千人ほどのフォロワー数で、バイクの格好良い動画を投稿しても、いつもの仲間内でイイねを押し合うだけだった。ところが、悠斗と一緒にバイクに乗る動画を初めて投稿した日の夜、楓は自分の動画が急に注目を集め始めていることに気付いた。それからというもの、楓は頻繁に悠斗とバイクに乗り、二人の動画は毎回百万回再生を突破するようになった。インフルエンサーを目指す楓は、この一ヶ月で投稿頻度を上げ、フォロワー数は一気に百万人を超えた。批判的な声も増えてきたが、楓にはまったく響かなかった。ただの嫉妬だと思っていた。五歳児を大型バイクに乗せられる度胸があるのは、自分だけなのだから。しかし、ここ一週間、悠斗とのバイク動画の再生回数が二十万回程度まで落ち込んでいた。視聴者がこの手の動画に飽きてきたのだ。そこで楓は仲間と相談し、衝撃的な企画を思いついた。猛スピードで走行中のバイクの上で、腕を組んだまま、五歳の子供にハンドルを任せることにした。そして、どこからともなくワインボトルとワイングラスを取り出した。バイクに跨がったまま、グラスにワインを注ぎ、高速で走りながらグラスを優雅に揺らし、完璧な余裕を見せつけた。仲間がその様子を撮影しながら、イヤホンマイクで囁いた。「パーフェクト!」「楓さん、賭けてもいいよ。これ、十万イイね超えは堅いって!」夕月の日常は変わらなかった。瑛優を学校に送り届けた後は家に戻り、様々な数学の問題に取り組む。大学時代と同じカリキュラムを自分に課し、この五年間で取り残された知識を必死に取り戻そうとしていた。夜になると、瑛優と夕食を済ませてから、二人で桐嶋家を訪ねるのが習慣となっていた。昼間に遭遇した難問をまとめ、桐嶋教授に直接指導を仰ぐつもりだった。リビングに入ると、桜都大学の学生たちが居座っていた。普段なら夕月に対して親しげな態度を見せる彼らだったが、ネット上で桐嶋教授による不正疑惑が持ち上がって以来、明らかに視線が変わっていた。彼らも今日、他のネットユーザーと同様、夕月の予選試験の様子を映した動画を何度も繰り返し見直していた。不正の証拠は見つからなかったものの。だ
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第87話

「この生意気な小僧め!目の付け所が違うぞ!」桐嶋教授が突然怒鳴り声を上げた。「桐嶋教授!」安人は眉をひそめた。「この腹の中から毒を垂らす蛇のような奴め!」安人は言葉を失った。「その厚顔無恥な面を防弾チョッキの研究に使わないなんて、国も損してるな!はっ!人に辞退しろだと?腹の中が丸見えで頭が痛くなるぞ!言っておくが、夕月は絶対に辞退なんかしない!彼女の実力なら、間違いなく金賞を取れる!」安人は嘲るように笑った。「教授はまだご存知ないようですね。参加者たちの要望で、今回の決勝には新しい項目が追加されました。決勝戦で上位20位に入った参加者同士で、チャレンジマッチができるんです」他の学生たちは、まるで面白いものでも見つけたかのように、夕月の失敗を待ち望む目で見つめていた。「あなたの愛弟子が、そのチャレンジマッチで勝ち抜けるとは思えませんね。主婦が金賞?笑わせないでください」「安人さん」夕月の声は凛として響いた。「もし私が金賞を獲得したら、あなたと、桐嶋教授の生活を脅かした全ての人間は、教授に公開で謝罪してもらいます」安人は腕を組んで鼻で笑った。「大きく出たな!もし君がチャレンジマッチで全員を打ち負かして金賞を取れたら、俺の首をもぎ取ってサッカーボールにでもしてやるよ」「もう少し現実的な罰ゲームにしませんか?」夕月は微笑んで返した。安人の後ろにいた男子学生が軽蔑した様子で言い放った。「藤宮さんが金賞を取れたら、安人が逆立ちしながら回転して糞でもするってのはどうだ?」夕月は言葉を失った。あまりにも壮絶な光景は想像するだけでも恐ろしい。安人は火中の栗を拾わされた気分で、振り返って低い声で怒鳴った。「何を言い出すんだ!」その学生は小声で続けた。「ストリートダンス部の部長なんだから、逆立ち回転くらい朝飯前だろ?」安人の顔が真っ赤になった。これは技術の問題じゃない!そんなことをしたら通報されかねないだろう!「それ、いいね」桐嶋涼が応接室の入り口に立っていた。しばらくそこで様子を見ていたらしく、父親の側まで歩み寄った。「父さん、逆立ち回転排泄なんて見たことないでしょう?興味ない?」桐嶋教授は鼻を掻きながら、少し迷った様子で「その場で見ることになるのか?」想像するだけでも恐ろしい光景だ。「私も
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第88話

なんて丸くて、白いんだろう……そんな言葉が夕月の心をよぎった瞬間。涼が振り返り、視線が絡み合う。まるで夕月の心の中を見透かしたような眼差し。見られていた!という気まずさに、夕月は顔を赤らめた。「お手伝いしましょうか」慌てて部屋に入りながら、自然な声を装って言った。涼は内心で笑みを浮かべていた。実は夕月がトイレに入った時から、わざと背中に薬を塗る仕草を繰り返し、夕月が気付いた瞬間を見計らって薬液をズボンに垂らしたのだ。夕月は薬瓶を受け取り、綿棒に薬液を含ませ、優しく傷口に塗っていく。背中を縫合した医師の腕は確かだった。傷跡の周りが赤く腫れていなければ、怪我をしていたことすら分からないほどだ。「ごめんなさい」夕月は心からの言葉を紡いだ。「瑛優を助けてくれたのに、きちんとお礼も言えなくて」そう言いながら、笑顔で続けた。「お食事でもご馳走させてください。お店が嫌でしたら、私が作りますよ。何が食べたいか言ってください。新しい料理もすぐ覚えられますから」「じゃあ、一つ条件がある……」涼の心には既に考えがあった。「え?」彼は白いシャツを手に取り、ゆっくりとした仕草で羽織り始めた。夕月の視線を引き付けながら、言葉を途中で止める。ボタンを留めていく指の動きに、夕月の息が詰まる。まるで部屋の空気が凝固したかのよう。涼の動作が、いつもより遅いような気がした。横向きの姿勢で、逞しい胸板の起伏が夕月の目に映る。腹筋は整然と刻まれ、ズボンの中へと消えていく鋭い腰の線が際立っていた。夕月は思わず息を止めた。男性の放つ強烈なフェロモンが押し寄せてくる!これは絶対意図的だ!彼はボタンを留めながら、夕月の視線を下腹部へと誘導するように仕向けている。夕月が我を忘れかけた瞬間、涼は無邪気な眼差しで彼女を見つめた。まるで先程までの誘惑的な仕草など、夕月の思い過ごしだとでも言うように。ビクッと体が震える夕月に、涼は告げた。「今夜、鐘山でレースがある。前から優勝賞金の掛け金を出してたんだが、怪我で出場できなくなった。代わりのドライバーが必要なんだ。優勝賞金は山分けってことで、どうだ?」狭苦しい台所でコンロの熱気に晒される彼女より、荒野を駆け抜ける姿の方が似合っている——涼はそう確信していた。夕月は一瞬
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第89話

「怪我をしてね。プロのドライバーに頼んでる」涼が答えた。涼の姿を認めた悠斗は、まるでネコを見たネズミのように、冬真の背後に身を隠した。鐘山でのレースは、アマチュア大会とはいえ、桜都の上流階級が主催する以上、コース設営から賞金、スタッフに至るまで、全てが最高級の仕様だった。参加する御曹司たちは、一年かけて数億万円を投じてマシンをチューンナップし、プロドライバーまで雇い入れている。それだけの布陣を整えて、ようやく表彰台を狙えるというわけだ。彼らにとって、レースの順位は面子に関わる問題だった。もっとも、全くの蚊帳の外に置かれるのも癪に障るため、御曹司たちは助手席でコ・ドライバーを務めるのが通例となっていた。鐘山に集まった面々は、藤宮夕月にとって見知った顔ばかりだった。だが、橘冬真と七年間連れ添った夕月でさえ、彼がオフロードレースに参加していたことは知らなかった。集まった者たちの視線は、コロナのドライバーに釘付けになっていた。「桐嶋さん、ドライバーを紹介してくれない?」楓が真っ先に声を上げた。しかし、夕月は車内に留まったまま、降りる気配すら見せない。「おいおい、桐嶋さんのドライバー、随分と偉そうじゃないか。俺たちを見下してるのか?」ある御曹司が声を荒げた。「ふん、Lunaにとっては、お前らなんて烏合の衆も同然だからな」涼は嘲笑うように言い放った。Lunaという名前が飛び出した途端、何人もの目が丸くなった。耳を疑う者さえいた。それまで熱心に会話を交わしていた参加者、観客、スタッフたちが、一斉に静寂に包まれた。信じられない表情で、彼らの視線は桐嶋涼とコロナを交互に見つめていた。「マジかよ!桐嶋さん、プロのドライバーって、まさか……!」涼は切れ長の目を細め、まつげの濃い影が頬に落ちる。「Luna――レース界に月の女神は一人しかいない」ローマ神話の月を象徴するLuna。オフロードレース界では、その名は伝説と化していた。御曹司たちは興奮を抑えきれない様子だった。「すげえな!コロナを手に入れただけじゃなく、元のオーナーまで連れてきやがった!」「マジかよ、あの車に座ってるのが本当にLunaなのか?俺たち、Lunaと同じレースに出られるなんて!」悠斗は周りの騒ぎに首を傾げ、「Lunaってすご
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第90話

桐嶋涼がLunaを連れてきたと言い出してから、楓の表情は終始作り笑いのままだった。「さすが元桜国最強の女性ドライバー、偉そうなこと」冗談めかした口調で言いながら、楓の胸の内では別の思いが渦巻いていた。——引退して五年以上も経つのに、まだ自分が女王様気取りなの?「彼女は負けない」桐嶋涼は場内の者たちを一人一人見渡し、冬真のところで視線を止めると、より意味ありげな笑みを浮かべた。「ここにいる誰一人として、彼女に勝てる者はいない」桐嶋涼がコロナに向かって歩き出した。「もしLunaが一位を取れなかったら、コロナを私に貸してよ」楓は腕を組みながら、彼の背中に向かって声を投げかけた。涼の足が止まるのを見て、楓は内心で小さな勝利を噛みしめた。だが、振り向いた涼の整った顔立ちは一瞬にして冷気を帯び、吹き抜ける山風に楓は背筋が凍るのを感じた。「井の中の蛙が大きな口を叩くな」彼は楓には一瞥すら与えなかった。「何ですって?」楓が聞き返す中、周りの連中は腹を抱えて笑い出した。「ははは!桐嶋さんに言われちまったな!」「黙れよ!」楓は近くの仲間に蹴りを食らわせた。涼はポケットに手を入れたまま、首を傾げて橘冬真の方を向いた。「Lunaが来たからには、賞品を増やしてみませんか?」今回のレースの優勝賞品は、16億円相当のランボルギーニ・ヴェネーノだった。冬真は涼がLunaを使って自分の懐を痛めつけようとしているのを察していたが、気にする様子もなかった。「もしLunaが優勝したら、私のガレージから好きな車を三台選んでいい」御曹司たちから驚きの声が上がった。「さすが橘さん、太っ腹!」「ふん」涼は鼻で笑う。「三台の車に加えて、橘社長による洗車サービス一回というのはどうです?」「ちょっと、それは言い過ぎよ!」楓が即座に抗議の声を上げた。冬真は涼の挑発的な態度を見抜いていたが、自分なりの思惑もあった。「いいだろう」彼はためらいもなく条件を飲んだ。「冬真!あなたがまさか人の車を洗うなんて、そんな屈辱的な……」楓が焦りの色を見せた。冬真は大股で愛車「ブラックホール」へと向かった。涼は片唇を上げ、コロナの運転席に座る夕月と視線を交わした。夕月が親指を立てているのが、かすかに見えた。二人ともレーシングスーツ
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